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2016年1月の対人関係学の旧ホームページのデータを移築しています。


 

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対人関係学、つながりの力とは
 人はつながりを断たれたり、断たれそうになると、他人からはもちろん理解できず、本人も意識しないうちに、強い精神的なダメージを受ける。それは生きる意欲が低下するほどになり、病気になることや、自死に至ってしまうこともある。一つのつながり(学校とか職場とか)で問題が生じた場合、別の大事なつながり(家族とか、友人とか)を強化して、ダメージを最小限に抑える。そして、問題が起きる前から、いろいろなつながりを改善していくことによって、いじめやパワハラ、DV等の芽を摘み取っていく。また、つながりの力で不況や災害を乗り越えていく。どんな状況下でも、生きる意欲を燃やし続ける。ざっくり言って、こういうことです。

対人関係学抄録
いじめ、パワーハラスメント、DV、虐待をはじめとする、継続した人間関係上の疎外感を中心としたストレスは、客観的な評価を超えて、当事者に対して強い影響が生じる。時として、その人が、「自分が避けられない死への道筋についている。」と感じているかのような反応を示す。その結果、精神的、心理的に不健康な状態となり、あるいは、犯罪、離婚、多重債務等の社会的病理の状態を呈することもある。
 このような問題を生じた場合、対人関係の改善という視点での解決に向けた対応が必要である。問題のある対人関係の負の影響力を最小限にするべく、安全な対人関係への帰属意識を高める、あるいは問題のある対人関係から切り離すという方法が検討されるべきである。そうして、震災や不況等、どんな状態においても、人と人との助け合いの中で、生き延びるだけでなく、充実感を持って生きていくことを実現する。
 逆に、対人関係の不具合を改善するだけでなく、現在の対人関係の状態を、構成員をして自分が尊重され、安心して帰属できる関係へと成長させていくことによって、心理的、精神的不健康や、社会的病理、自死を予防するだけでなく、本来の人間の生きていくあり方を実現することによって、その人の能力を十全に展開させ、対人関係の相対としての群れの状態をより前進させるという好循環を起こすことができる。(平成26年1月8日)
ご挨拶

過労死、過労自死、人権救済、震災復興の中から生まれた実務的学問対人関係学へようこそ。とりあえずの概要をホームページにまとめました。大体の内容だけを提示しています。皆様と一緒に、実践の中で、充実させていけたらば幸いです。

説明
この上のタグは、対人関係学についての概要やアウトラインです。左上にあるタグは、具体的に、さまざな事象を対人関係学がどのように検討していくかということで述べております。
特に断りがない場合は、平成26年1月8日の段階の記事です。

トップページの記事を保管しました。

できるだけわかりやすく書こうとした対人関係学概要です。↓進化生物学の知識がないので、ホモサピエンスの歴史だけで論を組み立てています。現在は、20万年前ではなく、200万年前で考えています。なので、誤植ではありません。

つながりの力(対人関係学)の考え方のあらまし

つながりの力(対人関係学)の考え方のあらまし


1 人間を理解するためには20万年の歴史を無視できない理由
 つながりの力の考え方は、人間の感情や行動について、人類が人類として確立したのが20万年前だというのであれば、その20万年の歴史を考えに入れて検討します。この理由について、お話します。
  生き物は、環境に適合して、子孫を残しやすいように進化していきます。しかし、進化とは、100年、1000年の単位で起きるものではなく、気が遠くなるくらい永い年月をかけて、ゆっくりと進みます。人間が文明を持ってからどのくらい経つのでしょう。その人によって考え方は違うと思いますが、せいぜい5千年から1万年程度ではないでしょうか。文明に合わせて人間が進化するには、まだまだ時間が足りません。我々の日常において、体は、意識をしないままに様々な反応を起こしています。現代の生活上は無意味な反応が起きている場合もあります。しかし、それは、人類史の20万年の大部分の時代には意味があった反応ということが知られています。
  例えば、緊張をすると、その緊張の原因にかかわらず、人間は、逃げる準備や戦う準備を、無意識に始めています。血圧や脈拍が上昇し、体温や血糖値も上がります。血液は筋肉に、いつも以上に多く流れるようになります。これは危険を察知すると脳が勝手に反応するのです。外敵の動物に襲われた時に、走って逃げたり、戦ったりして、危機を乗り越えるという場合は、この仕組みはとても役に立ちます。しかし、現代社会では、無駄な反応ということになります。例えば、職場で上司に注意されたり、学校で先生に叱られたり、あるいは自動車を運転していて警察官に呼び止められたりしたとき、やはり緊張しますが、この時も、同じように血圧、脈拍、体温上昇などが見られるわけです。無意識に行われるため、意識的に止めることができません。上司に注意されたからといって、走って逃げたり、上司に殴りかかる人はいません。現代社会に適合しない反応を起こしているわけです。
  自死の知らせを聞くと、「どうして」という疑問が常に起きます。身近な人の死であれば、それは強く湧き上がるでしょう。一応の理由が知らされることがあります。それでも、その人を知れば知るほど、「それでもどうして」という疑問がより大きくなります。そして、そのような事件を何件か担当しているうちに、人は自分が入っている集団(家庭、学校、職場等々)の中で追い込まれると、我々が思っている以上にその人の生きる力を奪うことになるのではないかという考えが大きくなっていったのです。
  言葉にできない漠然とした不安感、原因がわからないあせり、気がつかないうちに進行してしまう生きる意欲の低下が、この20万年の中で作られてきた仕組みによるものなのではないかということが、つながりの力の考え方です。そうして、「人と人とは、本来、助け合うことが、仕組みとして出来ている。」、「人と人が助け合うことで、人はこんなんに立ち向かう生きる意欲と能力を高めることができる。」ということを考え、主張しています。

2 弱いから群れを作って生き延びた人間
今でこそわがもの顔で地球に君臨している人間ですが、20万年のほとんどの期間、とても弱い動物という地位にいたと思います。外敵と戦うにための熊のような爪やライオンのような牙はありません。逃げるとしても、馬のように、長く速く走れる能力もありません。猿のように、スルスルときに登って逃げることもできません。らくだのように栄養を蓄えておくコブもありません。
  子どもを産み育てる仕組みも、だいぶハンディキャップがあります。ほかの動物と比べても、お母さんのお腹の中にいる期間が約300日というのは長いほうでしょう。それにもかかわらず、元気で生まれてくることも、1歳を迎えることも、20万年間の大部分は、今とは比べ物にならないくらい少なかったはずです。赤ん坊は約1年も自分の足で立つことすらできません。生んだお母さんも、かなりのダメージがあります。20万年の中では、出産よって母親が亡くなるという悲劇もたくさんあったはずです。
  よく今まで生き残ってきたとさえ、思えませんか。それでは、どうやって、生き残ってきたのでしょう。その答えの一つが、群れを作ったということだと思います。群れがあれば、少なくとも一人や一家族で戦うよりもずっと有利に戦うことができまず。ある程度大きな動物である人間が、数十人いれば、なかなか猛獣も手出しできなかったと思います。わざわざ危険を犯さないというのが、人間以外の動物の原則だからです。やせ細った人間は、それほど餌として魅力もなかったのかもしれません。食べ物を探す時も、人数が多い方が有利になります。集団で、動物の狩をすることも可能となります。
  子どもを守り育てるということも、群れを作ることで有利になります。母親だけが育てるのではなく、群れの構成員から育てられるという仕組みが、人間だけには備わっています。他者の行為をまねして、学習する能力が、他の霊長類にも見られないのに、人間には高度に備わっているそうです。群れは、物理的に、母子をまもるだけでなく、子どもを一緒に育てていく仕組みを作ったのです。

3 群れに対する人間の気持ち
 
群れを作ることによって、人間は子孫を残すことができました。群れを作ることによって、命を失うことから守られていたわけです。何かの事情があって、群れから離れて単独行動をすると、それだけで、ドキドキとしてきて、戦うか逃げるかという体の仕組みを発揮させていたでしょう。逆に、群れの中に戻ると、心の底というか、体の仕組みから安心し、血圧や脈拍が下がり、リラックスできたことでしょう。緊張が解かれた状態になったことでしょう。
  そのような群れを大切にしたことと思います。群れがなくなったら、自分の命もなくなるのです。群れの頭数が少なくなることは、不安を感じることだったでしょう。おそらく、群れの一番弱いものを大事にしたと思います。自分だけが、群れの仲間よりも多く食料を食べようとすると、ほかの仲間が少なくなり、弱っていく、頭数が少なくなるだけでなく、群れの結束力がなくなるということは、自分にとっての不利益となります。当時育ちにくかった子どもを大切にしたのではないかと思われます。子どもは、群れにとって、文字通り宝だったと思います。尊重されて、育まれてきたと思います。おそらく、自分と群れとは、切り離せない関係、実のところは区別がつきにくい関係だったと思います。群れのために戦うということと、自分のために戦うということは、感覚としてはほぼ同じことだったと思います。

4 群れに協調する仕組み

人間が弱い動物であるために、このように群れを大切にしなかったら生き残れなかったであろうということは、理解できると思います。問題は、文字もなかった時代に、どうやって、このように群れの大切さを知って、合理的な行動をすることができたのかというところにあると思います。
  いくつか理由が考えられます。第1に、現実の厳しさから、群れと自分の運命共同の様子が自然とわかっていたということも考えられます。寒さや飢えや野獣を目の当たりにして、頭数の大きさが、自分の命を救っていたということをわかっていたということはあると思います。群れの仲間の死は、自分の将来の死に直結していたわけですから、なんとか仲間を助けようとしたと思われます。
  第2は、誰かがリーダーになって、その人が賢く統制をとっていたということも、検討するべきかもしれません。でも、これだと、必ず賢い人がリーダーにならないといけないし、統制手段も検討しなければなりません。偶然に左右されるということからも、20万年もの間生き延びるメカニズムとしては疑問があります。現代に近づいてからのシステムではないでしょうか。
  第3は、群れに協調する人間だけがいた。多くは群れに協調する人間だったということです。教えなくても、そもそもそういう人間がほとんどだったということです。本能的に、群れに協調しようという意識があったということになります。そんなうまい話があるのだろうか、特に、現代の人間を見ると、とても信じられないかもしれません。しかし、このような仕組みがなければ、弱い人間は生き延びることはできなかったはずです。このようにうまいことになった仕組みがなければなりません。
それは、遺伝子と自然淘汰にあると思います。おそらく、20万年よりもっとまえには、協調性のある個体と協調性のない個体が様々存在したのだと思います。しかし、協調性のない個体は、自然淘汰されていきます。協調性のない個体は群れにとって有害です。群れから排除されたことでしょう。群れから排除すれば、その個体は生存できなくなります。生存を続けられたとしても、子孫を残すことは困難です。こうやって、何万年という時代の流れによって、群れに協調する遺伝子を持つものの子孫が、絶対多数になっていったと考えられないでしょうか。
他人のまねをするだけでなく、他人の感情に共鳴する、共感を示す等、人間特有の脳の仕組みは、群れに協調することに有利な仕組みをしているそうです。
5 仲間に恐怖を与える群れ
常日頃は、安心感を与える群れですが、大事なものであるだけに、群れに対してとてつもなく大きな恐怖を与えることにもなります。群れから排除されることは、確実な将来の自分の死を意味していたわけですから、排除しないでくださいということは、殺さないでくださいということと同じ意味だったと思います。さらに、恐怖を絶対的なものとするのは、すぐには死なないことです。群れから排除され、単独行動をしなくてはいけなくなる、猛獣や上で命を落とすという、ある程度の期間があるわけです。でも、ほぼ確実に命を落とすということを予期させます。
  群れから排除されるかもしれないという予期不安を抱いてしまうと、人間は、必死になって群れにとどまろうとする行為を起こしたはずです。しかし、諦めるということも、またありうるようなのです。
  例えば、高い崖から転落してしまったなどという場合、もうどうしても助かる見込みがないと認識した場合、人間は、気絶することがあるようです。また、この場にいるのが自分ではないという現実逃避をするようです。もちろん、意識して行っているのではなく、そのような反応をするようです。奇跡的に一命を取り留めた人たちの話では、そのような体験をしたことが聞かれることがあります。おそらく、そうやって死の恐怖を緩和させるのでしょうが、死を迎え入れるという仕組みだとは考えられないでしょうか。群れから排除されるという、死の予期不安は、このような瞬時の出来事ではありません。ある程度時間があります。しかし、死は避けられないということを常に感じ続けるわけです。やはり、死の苦しみを軽減させるシステムが発動されると考えても不思議はないと思います。こうして、うつ症状や解離症状が出現する、これはゆるやかに死を向かい入れる準備であり、生きる意欲が亡くなりつつある時のシステムだとは考えられないでしょうか。
6 排除を予期させる群れの行動

  ここでの関心事は、群れは、安住を感じさせる場所だった、恐怖ではなく,協調の遺伝子によって群れを維持させてきたはずだ、排除の論理はこれと矛盾しないかということで、これははもっともな疑問です。
 私は、通常は、安心を与えるのが群れである、但し、排除を予感させるという例外的な場面で、一転して脅威の存在になるということなのだろうと考えます。通常安心感をもっているだけに、その脅威が大きくなってしまうのです。
  問題は、それが、実際に排除の前触れなのか、偶然なのかはあまり問題がありません。本人にとって排除の準備と感じることが重要なのです。
  例えばということあげてみましょう。食料などの生きていくことで必要なことで、平等に扱われない。自分の感情に誰も共鳴してくれない。無視される。群れの役割を取り上げられる。他の構成員の前で、劣っている、邪魔な存在だなどと誰かが表明しても、誰も自分をかばってくれない。あからさまに攻撃される等群れの仲間としての対応をしてくれない。こういうことが続くと、排除の予期不安、死の予期不安のシステムが発動されることになるのだろうと思います。
7 現代社会の特徴は複数の群れが併存していること

 排除を予期させる群れの行動の例は、パワーハラスメントを念頭に置いて考えるとわかりやすいと思います。実際にパワーハラスメントで起きていることは、こういう事だと思うのです。
 過労自死の事件を担当していると、よくわからないことがあります。なるほど、会社で言葉にできないほど辛い目にあったことはよくわかる。しかし、家族がいるじゃないか。どうして家族を残して自死してしまうのだろうということです。この思いは、遺族には、とても強くあります。その人は、家族と折り合いが悪かったのだろうか、責任感のない人なのだろうか、おそらく事情を知らない人が、そのように無責任に考えてしまうことは、あるいは自然なことかもしれません。しかし、実際に事件について詳細に調査をして労働災害の認定をとったり、裁判で過労自死を証明してきている立場から言わせていただくと、過労自死のすべての事案は、家族に愛情がある人の事案であり、責任感が強い人の事案です。むしろ、強すぎるということが、率直な感想です。それでは、自死を決断するまでに追い込まれる理由はどこにあるかが問題となります。
  その疑問を解く鍵こそ、20万年の人間の生活様式にあるというのが、つながりの力のもうひとつの仮説です。
  20万年の大部分、人間は、一つの群れの中で、生まれ、育ち、繁殖し、死んでいきました。群れから排除されるということは、他の群れに移動するのではなく、単独行動となる理由もここにあります。これに対して、今は、家庭と学校と職場と異なる集団ですし、学校や職場も選択の余地があるわけです。家庭だって、離婚という可能性があります。すべての集団が代替可能なわけです。しかし、これは、大多数の人間にとっては、文明が起きてからも、だいぶ後の話だと思います。
  そうだとすると、人間の生存の仕組みとしては、代替可能な群れという感覚を持つことが難しいのです。ひとつの集団から離れるだけのことなのに、20万年の大部分を過ごしたような代替不可能な群れから排除されるという予期不安のシステムを作動させてしまうということは考えられないでしょうか。まさに、現代社会に生活する場合には不適合な反応だということになります。
  ひとつの集団からの過激な排除があれば、通常は最悪でも、その集団から離脱すればいいだけの話です。確実な死などということは現代ではありません。それでも、誤作動を起こしてしまい、これは大変だ、なんとか集団にしがみつかなければならない、または、もうだめだ、死を迎え入れようという不適合反応を起こしてしまうわけです。これは、意識的に行われるのではなく、潜在意識の下で行われるので、自分も周囲も気が付きにくいのです。職場や学校での排除の様子が過酷であればあるほど、システムが強く作動してしまい、家族を大事にすることを選択して集団を離脱するという合理的な発想が持ちにくくなります。むしろ、大事な家族を守ることができなくなるという意識が強くなり、死を迎え入れるという結論に近づいてしまうという現実をよく見ています。
  つながりの力(対人関係学)は、ひとつの継続している人間関係の中のトラブル、特に排除、孤立は、客観的に想定される危険を超えて、当事者に大きな心理的なストレスを与える可能性があるということを問題提起します。

8 つながりの力と0次予防

  
つながりの力(対人関係学)は、その人の精神症状の状態の問題が起きてから対処をするというのでは遅いと考えています。精神状態のリスクにしても、その時発生している症状で、働きかけをしなくて良いという判断はしません。あくまでも、客観的な,その人の継続的な人間関係の状態を評価し、働きかけの必要性を判断します。
  その理由としては、先ほど述べた群れから排除されるという予期不安は、言葉の始まる前からの不安へのメカニズムということもあり、潜在意識の下で進行するからです。自分では意識できないのだから、そのひとの「大丈夫だよ。」という言葉ほど信用できないものはありません。少しずつ死を受け入れる反応、生きる意欲が失われていく反応が進行しているわけです。そのマイナスの蓄積が一定限度を超えると、精神症状を発症させたり、自死を決行したりということになり、周囲が驚くわけです。
  その人が、客観的に、集団の中で尊重されていない、排除されている、孤立しているという状況があれば、働きかけを行うべきです。精神症状が出てから、早期発見、早期治療を行うということが自殺の一次予防として強く提案されています。このこと自体は大事なことです。しかし、つながりの力(対人関係学)は、精神症状が出ないように働きかけをしようとするのですから、一次予防以前の対策ということで、0次予防と言っているわけです。
  働きかけとしては、第1は、例えばいじめのある学校だったり、パワーハラスメントのある職場だったりという危険な集団と、家族や友人といった安全な集団が併存しているということをはっきり自覚してもらい、自分が安全な家族の一員なんだということを強く自覚してもらうことから始めます。例えば、家族の側も、その人が家族の一員だということについて、自覚してもらう働きかけをしていくことになります。例えば、とにかく安心して話をしてもらうために、その人の話を頭ごなしに否定しない、さらに、共感できる部分に対しては逐一共感を示していくということを行います。感情のきれいなところも汚いところも、全てをまず受け入れてあげることから始めます。このようにしてつながりを高めていくのですが、なかなか簡単ではありません。これがうまくいって、安心できて、その人は初めて心から号泣することができるように思います。このつながりは、緊張しなくていよいのだ、無防備で良いのだと実感してもらいます。この場合、言葉がとても大切です。
  次に、この人の帰る場所が確保できたならば、問題のある群れとの対決です。この場合、群れから離脱するという方法が取られることも多いと思います。群れの中で戦うことが必要となるかもしれません。この場合は、まさに群れの中の横のつながりを作っていくということになります。群れ全体で、群れのあり方を考えてもらわなければなりません。これは、その群れにとっても有利なことです。なぜならば、構成員にとって居心地のよい集団は、その人の能力を遺憾なく発揮させる場になる、それは群れにとっても利益だという考え方を持ちます。
  このような形で、問題のある集団に対して働きかけをしていき、集団のあり方を、人が人を追い込む集団から、人と人が助け合う集団へと転換させることを訴えています。

9 さらにもう一歩進めて、つながりの力
  
さらにもう一歩すすめた提案をしています。集団に問題が発生しなくても、意識的に、人と人とが助け合う集団を形成していくことに取り組んでいただきたいということです。そして、こういった取り組みこそ、いじめやパワーハラスメントの本当の予防につながると考えています。最初からその芽を摘んでおくということです。また、震災や大きな不況があっても、つながりの力で、乗り切っていこうというメッセージでもあります。人々の心は、復興や好景気への転換を待っているわけにはゆきません。今生きている我々が、今の自分たちの条件の中で、生きる意欲を取り戻すことは、つながりの力によってならば可能性が開けると思っています。
  そして、集団のつながりの意識を自覚することによって、そのつながりのある集団の利益を高めようということが、自分の意思としてできます。また、余計なことに意識を乱されないことによって、その人の能力が大きく開花し、発揮される可能性も出てくると考えています。悪循環ではなく、好循環を起こすものと考えています。特に今の日本の状態から求められているのは、このつながりの力ではないかと考えています。

    平成26年1月14日

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自由に書いた対人関係学の概要です。危険接近が強調されています。

20万年群れ仮説と危険への接近

20万年群れ仮説と危険への接近

1 感覚の錯誤と遺伝
  現代の人間社会の事象、あるいは生物としての人間を考察する場合、現代社会を前提として考察することが通常だと思われる。
  しかし、人間は、必ずしも、現代社会に適合するような体の構造や、生理反応、心理反応をするわけではないことはよく知られている。
  例えば、五感で危険を感得した場合、大脳皮質や海馬の記憶が、危険を認識する。そして、危険は扁桃体に伝えられる。扁桃体は、交感神経を活性化させ、副腎皮質などから、危険に対応するためのホルモンを分泌させる。そして、血圧を上昇させ、脈拍を早め、筋肉に血液を集中させ、危険からいち早く逃げるための逃走をしやすくしたり、危険と戦う為の活動を容易にさせたりする。しかし、この反応は、物理的な危険においてだけでなく、例えば上司から注意を受ける、警察官から呼び止められるという、物理的には何らの危険がない場合でも、全く同様の反応を示す。上司からの叱責を受けたからといって、筋肉に血液を集中する必要は、おそらくない。
  これは、生物として遺伝子に刻み込まれた反応であり、容易に修正が効かない事柄である。
  このように、ストレスの影響を考察する場合には、生物としてのヒトの特質を考慮して考察しなければならないはずである。また、ヒトとして他の動物と異なる遺伝子の影響が存在することも、20万年とも言われる人類史を考えるとむしろ当然のように思える。
  対人関係学においては、現代的な事象、特にその事象の当事者への影響を考察するにあたって、この20万年の人間の社会のあり方を検討し、考察をしていくという方法をとっている。これは、論理的な手法というよりも、筆者が、弁護士、人権擁護委員、各種の紛争の調停委員、自殺への介入等の活動という、対人関係の紛争の理解、解決という実践的な現場において、苦し紛れにした説明が、当事者の納得を得て、解決に奏効しているという経験に基づいている。案外、これが正しいのではないかという着想から離れられなくなったということが的を得た表現かもしれない。

2 人間像
 ヒトは、単体では弱い生物である。一般の哺乳類のような毛皮は存在しない。草食動物のような逃げるための走力もない。肉食動物のような攻撃のための牙も爪もない。今でこそ、万物の主であるかのように傲岸な振る舞いをしているが、文明が登場する前のヒトの姿を想像すると、種として存続したことが不思議なほどである。
食料を採取するといっても、木の実であれば高いところを得意とする猿や野鳥にはかなわないし、小動物といっても逃げ足は早い、大型肉食獣ときそうことも至難の業であったはずだ。逆に、襲われた場合は、単体では太刀打ちできなかった。

3 群れの形成とヒトにとっての群れ
このような弱いヒトは、第1に群れを作った。群れの共同行動によって、食料を採取し、肉食獣や自然災害からお互いの身を守った。おそらく、20万年とも言われる人類史で、群れが、ヒトの生存条件として不可欠なものだった時代が大半だったはずである。そして、群れが群れとして成立することがヒトが生存し、子孫を残すために不可欠だった。だから、群れの他の構成員が欠けることは、時として自分の命を脅かすこととなったはずだ。強い者は、弱い構成員を庇い、便宜を図ることによって、群れの頭数を確保していったと思われる。「自分だけが、より多く喰らう。」という発想では、群れの数が縮小再生産していくだけだった。また、このような状態であれば、自分と群れの中の他者との区別は、あまりなかったとも考えられる。群れ全体がひとつの生命体のようなものだったのではないだろうか。
群れを作る動物は、ヒトに限らない。ところが、群れと構成員の関係は、他の動物とやや異なるようだ。
ヒトには、親子関係を基盤としながらも、親以外の群れの反応を見て、自分の行動を制御する仕組みがある。サルも群れを作って生活するが、その生存のノウハウを学ぶのは、自分の母親からだという。母親がいない場合では、母親の代わりになる、母親の姉妹や、母親の母親すなわち祖母だけだという。曰く、サルはサルまねしない。ヒトだけが、母親以外の仲間から、真似をしながら学んでゆく。他者と共感、共鳴する能力が備わっているとも言われている。
  ヒトは、繁殖サイクルが10ヶ月と長い。また出生しても、0歳で死亡する確率も高かった。20万年の大半は、寿命も30年程度だったらしい。そうだとすると、群れという単位で、コロニーを形成することは理に適っていたわけである。また、利害が共通しているため、群れの構成員の他者の心情に共鳴、共感できるということは、機能的であり、合理的であった。
  だから、群れのために活動するということは、自分のために活動するということとほとんど同義である。群れに貢献するということは、自分の利益、生存条件を支える行為であるという喜びであった。そうやって、20万年ヒトは子孫を遺してきたわけである。群れのために、危険に立ち向かうということも、自分という個体の死を招くおそれがあったとしても、群れを維持するという観点からは、積極的になれたのではないだろうか。

4 生存の驚異としての群れ
逆に、例えば、群れのために活動しない、群れの構成員を傷つけても自分だけが利益を得たいという人間は、群れにとっては危険分子である。群れが消滅する危険が出てくる。巡り巡って、その者も不利益となるのだが、それでも利己的な行動をする者も当然いたと思われる。そういう人間は、群れから淘汰され続けてきたとは考えられないだろうか。死活問題は、人間を非情にさせる。群れの存続のために、個を排したということはありうる発想である。そうだとすると、群れを顧みない個性は、遺伝子を残しにくいということになる。ちなみに淘汰の方法は、直接的な殺害に限らない。群れからの追放ということも、淘汰の方法である。群れからはなされて、単身になった人間は、肉食獣や飢えから身を守る術はなかったはずだ。追放という淘汰方法も、死に直結していた。その個体が、単体として寿命を全うしたとしても、子孫は遺せない。逆に言うと、群れに強調する遺伝子が、優性遺伝であり、より多くの子孫を残していったということになるはずである。
  人為的な淘汰を経験した群れの構成員は、群れが自分にとっての脅威になるということも経験していく。自分が群れの中で生存していくための条件を学んでいく。道徳や倫理は、それを守らなければ、死をもたらす絶対的なものだったはずだ。群れとは、そのように、各構成員の生命の維持の絶対条件であるとともに、一転して個体にとって生命の脅威にも転化しうるものであった。経験によっても、群れに協調しなければならないというは、生命への脅威とセットとして個体の脳裏に刻み込まれ、学習として子孫に受け継がれていったはずだ。
  但し、道徳や倫理といっても、それが体系化されるのは、人類史にとってはつい最近のことである。それでは、どのような場合に群れにとどまることが許されて、どのような場合に群れから排除されるか、どのようにして知ったのだろう。即ち、どのようにして、ヒトは、群れの中で、自分のポジションを確認していたかが問題となる。群れを顧みない個性は、それが制裁を伴う「悪」であるということを認識できないからこそ、発揮されるはずである。何かの指標で、自己の行為に対する群れからの評価に気づかなければならない。そうでなければ、群れは安住の場所とはなりえない。
おそらく、群れの中で尊重されているか否かということが、鍵になったはずである。自分が群れの中で尊重されることが、群れの中での確固たるポジションとなり、それは安心感を抱かせるものだったはずだ。逆に尊重されていないということを感じる時は、追放されるかもしれないという危機感を感じざるをえない状況であった。群れの構成員に与えられる食料を分けてもらえない、何をしても感謝されない、あからさまに集まりから離される、避けられる。これは追放の予兆であり、死の前触れだった。ヒトの群れにおいても、些細なことから行き違いがあったはずだし、個性の違いによる衝突があったはずだ。しかし、明らかに行き過ぎた威嚇や、理不尽な攻撃は、群れの他の構成員から制止がなされたと思う。一人が傷つきすぎて消耗することは、群れを弱くすることにつながるからである。このような誰かの威嚇、攻撃も、群れの構成員が見て見ぬふりをするということは、群れから尊重されていない、疎外されているということであり、追放を予期させられるものだったことは容易に推測が付くことだと思う。追放が完成されることは、確実な死を迎えることである。少なくとも、自己の死に対する潜在的予期不安を駆り立てるに十分なものであったはずだ。
では、どのような場合、人間は群れから尊重されると感じるのだろうか。表だって評価される場合は、尊重されていると感じるだろう。喜びという感情は、緊張の後の安心感から来ているのではないだろうか。その人間によっては、自分で群れの中での役割を果たしているという実感をもつことが、尊重されている、群れに迎えられているという感覚になる場合があったと思う。こう言う人は、群れからの評価が下がらなくても、自分で役割を果たせないということで、群れからの追放を予期して、不安になってしまうこともあったのかもしれない。
  また、慎ましい人間は、自分が平等に扱われているということで、満足をするということもあったと思われるし、こういう人間が多かったのかもしれない。
おそらく、20万年の大部分は、追放の予兆がないことが尊重されていると感じることと、同義であったような気もする。
群れから尊重されていないと感じた場合、死の予期不安を感じることになる。尊重されていないと感じた場合は、むしろ遅すぎる。追放の確定が近い将来やってくる。こうなってしまえば、もちろん抵抗する人間もいたのだろうが、多くは、生きるという絶対的本能を持ち得なくなったのではないだろうか。どうすることもできないあきらめが支配し、活動するという生理的条件さえも不活性化されたと思われる。睡眠から覚醒に転じて活動するというシステム自体が機能不全となることも考えられる。
  但し、それは、生き残る最終手段でもあった。そうして気配を消すことによって、自己の活動を停止し、群れにとって負の評価を下げていき、時間が過ぎることに依存したとは考えられないだろうか。
  問題は、追放されるような失態を犯した時である。直ちに、評価が確定するわけではない。しかし、自分に対する低評価がなされれば、追放につながるかもしれないという時を想定してみる。自分に過失がある場合があれば、単に運が悪かった場合もあっただろう。これも、結局は、群れから追放の危険、死の危険に直面したことになる。先に述べたように、このような事態が生じた時には、“fight or flight” という事態となる。その人間によっては、ひたすら逃避的行動にでる。消極的になる。謝る。また人間によっては、自分の失態を、他者を攻撃することによって乗り切ろうとすることもあったかもしれない。ただ、それが明らかな理不尽な行動であれば、かえって自分を追い込んだだろう。
  実は、“fight or flight”は、もうひとつの“ f ”がある.”freeze“である。どうして良いかわからなくなった場合の行動は、凍りつくということらしい。PTSDの研究で強調されている。
  しかし、存外、20万年、群れは、構成員に対して、公平な評価をしていたかもしれない。なにしろ、構成員の数は貴重だったからだ。過度な必罰主義は、群れ自体を疲弊させていく。それが、本当に過ちということであれば、許すということをしていたのではないだろうか。過ちを犯した人間は、再生されることとなり、より一層群れに忠誠を尽くしたのではないだろうか。
  このような安定的な評価システムが作動している状態では、ヒトは、群れに対して、攻撃的にはならないのではないだろうか。逆に言えば、理不尽な評価が蔓延している状態だと、ヒトは、危機感をより強く感じるようになり、3つのFの過剰反応をするようになるのではないだろうか。

5 群れ意識の単一性と群れの併存
  こうして、ヒトは、20万年、群れの中で生存し、その大半が、運命共同体であった。その大半の期間、人が所属する群れは、生まれてから死ぬまで一つであった。(おそらく、ホモサピエンスとして種が確立した後は、群れの間の緩やかな交流があったと思われる。その原動力となったのは繁殖行動である。対人関係学において、注意しなければならないのは、思春期後半から青年期の繁殖期は、別の行動原理が加味されるということである。)
  ヒトは、単一の群れの中で生まれ、成長し、やがて、群れのために役割を担い、子どもを作り、養育し、死んでいった。この意味でも、群れと個体との区別は、個体の側からはつきにくい要因になる。群れのために役割を果たすことによって、死後も群れの中で生き続けるというアジア的死生観も、自然に把握できることになる。
  近時、人間の関わる群れは単一ではなくなった。家族という居住スペースにおける群れ、学校や職場という、より社会性を有する群れ、より希薄ながら、生活に関与する地域、自治体、国家等、いくつもの群れが併存し、人間はそれぞれの群れに同時に所属することとなった。群れとの関係は、それぞれ希薄になった。単一の群れの、絶対的な運命共同体ということはなくなった。家族でさえも、絶対的なものではない。(この群れの希薄性とその影響については、さらに検討を深めなければならない。)
  しかし、人間の情動反応は、群れが単一ではなく、自分の命にとって絶対的でないということに、必ずしも対応しきれていない。相変わらず、20万年の記憶を引きずっていると感じられる反応が多い。例えば、学校や職場で尊重されない、理不尽な対応をとられるというのであれば、最終的には退学や退職をすればよいのである。生活の質は落ちるが、単一の群れで生活していた時のような致命的な問題ではない。夫婦であっても、離婚をして、継続的な虐待から解放されることはできるのである。しかしながら、あたかも、単一の群れに生活していた時のように、尊重されない、不公平な対応をされる、理不尽な対応をされることによって、自分自身を低評価したり、逆に、過剰反応したりする行動をしばしば目にする。むしろ、現代社会においては、この傾向が助長されているようにさえ思われる。そして、大事な、自分を尊重してくれる群れがあるにもかかわらず、自分を尊重しない群れが、その人の気分、感情を支配してしまうということもある。人間の感情が、合理的にコントロールすることができず、20万年の記憶によって、不合理な反応を示すことが少なくない。

6 危険への接近
ヒトが個体として弱い存在であったため、生存し、子孫を遺すためには、他の動物に増して、危険に接近する必要があった。
火を使用するのも、それを使用しなければ絶滅する危険があったからである。火傷による死と隣り合わせにある火を、コントロールして使用するようになった。また、他の動物が食さない物を摂取してきた。保存食品、発酵食品等が典型である。
様々な危険に近づき、危険をコントロールし、利用することによって、生き延びてきた。これがヒトが他の動物と際立って異なる点である。
群れを形成する理由もここにある。
危険への接近の必要性からも、群れを形成する必要があった。様々な危険の存在と接近方法の習得は、少数の血縁集団では世代間の引継ぎが十分に行われえない。危険への接近の習得者が、群れの後継者に習得させていく方法によってこそ、世代間、群れと群れとの間の伝達が可能となったと思われる。
通常の動物は、危険には近づかない、危険からはいち早く逃げるという対処方法をとっている。このため、危険に関する精密な知識の記憶は必要ない。ところが、ヒトは危険に近づく。そのためには、危険の種類、程度、どのようにすれば危険を利用できるのか、コントロールの方法等、複雑な情報を他者と共有する方法が必要となる。この情報共有の道具が言語である。ヒトがこのような危険の範疇の中の、危険を除去するための情報の習得のために、言語を司る前頭葉が発達していった、ないしは、前頭葉が発達していたヒトの遺伝子だけが生き残ったと考える。大脳皮質が発達している理由ないし機能は、通常の動物と違って、ヒトが危険性の判断を細密化し、それを言語的に宣言的記憶として記憶する必要があるからだと考える。
だから、最初の言葉は、「逃げなくていいよ。」という言葉だったということは考えられないだろうか。それは危険だよということも意味しただろう。でも、使い方によって、危険はなくなり、便利で役に立つものだよということを、おそらく「ムー」とか、喃語のようなことで話していたのだろう。
(ここに、ヒトのアンバランスな宿命が発生する。本来、即時的には危険を感じ、大脳皮質や海馬から、扁桃体に危険を知らせる。しかし、危険に近づき、危険をコントロールするため、同時に大脳皮質から、扁桃体に、条件付きに危険信号の解除も伝達することになる。危険の射程範囲、危険の外苑を認識し、闇雲に危険を感じることをしないために、記憶の整理が必要になった。火は危険なものである。これを感じなければ生物ではない。しかし、これだけではヒト足りえない。このようにすれば安全だという大脳皮質と海馬、扁桃体との情報交流が必要となったはずだ。場合によっては、やけどという記憶を封じ込めても、火に接近する必要があったということになる。恐怖と利便を同時に感じるのであるから、ストレスフルな行動である。)
  物理的な危険である火、高所、猛獣には違いは少ないかもしれないが、対人関係上の「危険」においては、個性が際立っていく。“fight or flight” というそうだ。同じ、「危険」に対峙しても、その人間によって、対応は異なる。その人間の性格だったり、その人間の経験だったり、体力的な条件の違いもあるかもしれない。しかし、どうも、ここに個性の違いがあるのではないかと考えている。考えてみれば、ひとつの群れにおいても、様々な個性があったほうが有利である。どんな弱い相手にも逃げ続けてばかりいれば、生活が成り立たない。逆に、かなわない相手に戦いを挑み続ければ絶滅してしまう。逃げたり戦ったり、ということで、危険をコントロールできるわけである。多様な個性が共存するところに、ヒトの群れの強さがあったと考えることはできないだろうか。

 

当時の考えですが、気が付かない要素もありそうです。↓


対人関係の始まりと背景

対人関係の始まりと背景
それは、過労自死事件が出発だったように思う。
過労自死に限らず、家族が自死をすると、残された遺族の悲嘆は大きい。この悲嘆反応で、自分がなにか悪かったのではないかと、自責の念が生じることが多い。しかし、自死者が生前にうつ病を発症していた場合、うつ病の圧倒的多数を占める軽症から中等症のうつ病患者は、自分がうつであることを隠す等の理由で、実際は、自殺のサインに気がつくことは難しい。私が担当した自死事件では、家族関係に問題があったという事例はない。多くは、職場の人間関係が、その人を追い込んでいると考えられる事例であった。
それにもかかわらず、周囲は、遺族を責める言葉を発する。「どうしてこうなるまでほうっておいたんだ。」、「どうして、気がつかなかったんだ。」ということが、葬儀や通夜などの、多くの弔問客の前で発せられたりする。
多くは、死者を悼んでの発言ではあるが、自死に対する無理解、他人の気持ちに対する無配慮、総じて無教養というべきである。まさに、振りかざした正義感であり、それを発することに何らの建設的な意味はない。見当違いの制裁である。
ひどいケースでは、「パチンコに狂っていて気がつかなかったのだろう。」とか、「宗教活動ばかりやっていて、家族を顧みなかったんだろう。」というような、事実に基づかない非難がなされることさえある。故人に対して、自死するなんて精神的に弱いとか、責任感がないと冒涜する言葉も遺族を傷つける。
都市の人間関係が希薄なところはまだ良いが、東北のような人間関係の濃いところでは、そのような陰口がなされ、わざわざそれを遺族に告げ口する人までいる。
遺族は、家族が自死して傷ついているのに、さらに、無教養な人間によって繰り返し傷ついている。弁明の機会も与えられない。
私のところに、相談に来る前に、このような経験をしている遺族は多い。
私が、するべきことは、「あなたが悪いわけではない。」ということを遺族に対してお話することである。
第1に、うつ病が気が付きにくいということは、精神医学的に裏付けがあることだから、簡単にお話できる。第2に、家族仲がよく、みんな責任感が強いということ、むしろ精神力が強すぎて、逃げないために自死を選択してしまうということも、これまでの事例が蓄積されてきているので、説得力を持って話すことができる。
ただ、それでも、遺族にも、払拭できな疑念がある。「どうして、家族がいるのに、会社での出来事で、死を選んだのか。」、「家族よりも、会社に重きがあったのか。」ということである。これに対しては、うつ病による自死の場合は、正常な判断力がなくなるために、そのような冷静な考えを持てないという説明はできる。しかし、もう一歩突っ込むと、「どういう理由で、会社でのことでうつ病に追い込まれるのか。」、「家族がいるのだから、会社でどう言われても、最終的にはやめればよかったのではないか。」というような、そんな感覚は残ってしまうらしい。
そのことを、遺族に説明してあげたいという気持ちがあり、私なりに説明してきた。これが、対人関係学の始まりである。
さらに、遺族が立ち直るきっかけの一つとして、自分のような思いを人にはさせたくないという自死予防の活動がある。遺族が悪くないにしても、家族やむしろ職場といったコミュニティの力が自死、うつ病を防ぐことはできないだろうかという発想になった。やはり、人が人を追い込むということの、意味、メカニズムというものはある程度明らかにして、自死を予防したい。これが、対人関係学を構築し始めた理由である。
これには、東北大震災の経験も強く影響を与えた。震災後、ライフラインが途絶し、物資も極端になくなった被災地で、人々が、助け合い、励ましあい、支えあったという経験が、人間本来のコミュニティの力を感じさせた。プラスを作っていくことで、マイナスを予防するという攻めの発想を得ることができた。
その後、対人関係学の原理は、過労死、過労自死事案だけでなく、離婚事件,刑事事件をはじめとする法律分野、人権啓発活動、人権擁護活動等、幅広い分野で、実践にさらされてきた。学問の精緻さを追求するよりも、実践に用い、磨かれていくことが必要であると、日々痛感している。

 

かなり気負って書いたものです。記念碑的意味あいは強くあるものです。大学院講師は当時のものです。今は大学院講師はしていません。大学院がなくなってしまったのです。↓

「交感神経持続による反応群」という概念と対人関係的アプローチの提案

「交感神経持続による反応群」という概念と対人関係的アプローチの提案

土 井 浩 之 (弁護士土井法律事務所、022-212-3773 人権擁護委員、東北学院大学法科大学院講師)

はじめに

本拙文は、いわゆる医学的ないし心理学的論文とは趣を異にしております。筆 者は、平成6年より弁護士を開業している者であり、平成17年から人権擁護委 員を拝命している者です。 弁護士としては、過労死・過労自死事件(全国過労死弁護団幹事)を中心に、 パワーハラスメント、解雇などの労働問題、学校や任意団体、地域でのいじめ、 また家庭の中の夫婦、男女問題、親子の面会交流事件、刑事弁護等に取り組んで きました。また、人権擁護委員として、人権相談を受け付けて法律的解決とはま た異なる視点で、自死やストレス、対人関係の問題にかかわってきました。 そのような対人関係の中での問題についての解決をめざし、クライアントは もちろん、裁判所や役所、または同僚などに対して、今起きている紛争の状態を 説明する必要に迫られ、あれこれ私なりに学習し、考えてきたものを集約したも のです。 拙文が、自死対策に何らかの実務的貢献ができれば望外の幸せであります。

第1 情動のコントロール 1 動物としての情動 人間に限らず、動物は危険に対処する生理的仕組みを遺伝的に有してい る。キャノンの緊急反応、セリエの警戒反応という先駆的な研究を経て、ア ントニオ・ダマシオが一次の情動と名付けた脳の機能である。 即ち、身体・生命の危険を示す事象を、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で 覚知し、脳がそれを統合して危険と判断し、視床下部から副腎髄質のホルモ ン分泌を促すなどする。 その結果、血圧の上昇、心臓の拍動の昂進(こうしん)、血液の凝固力の強 化が生じ、体温の上昇、血流が内臓から筋肉に多く流れようとするなどの生 理的反応が生じる。 これは、危険から走って遠ざかる場合、逆に危険に対して闘いを挑んで危 険を排除する場合に好都合な生理的変化であり、理に適っているというこ とになる。
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逃走(FLIGHT)と闘争(FIGHT)という二つの「(F)」といわれている。 (バベット・ロスチャイルド 「PTSD とトラウマの心理療法」創元社) 人間も、このような情動ないし情動反応が生じているが、当事者が、反応 時に、それを自覚することは難しい。また、反応の有無、程度は個性が大き く影響しているようだ。ある人にとっては情動反応すら起きないことが、あ る人にとってはたまらない恐怖になる、またある人はそのことに接して大 きな怒りを抑えられないという現象を目の当たりにすることがある。 2 人間の情動のコントロール 人間は、日常生活においては、生きるか死ぬかという事態に直面すること はあまりない。危険を感じても、一目散に逃げ出したり、無我夢中で他人に 攻撃を加えるということも多いわけではない。(ただ、刑事弁護の仕事では、 このような攻撃行動にしばしば出会う。) また、人間は、危険について、それが存在するかしないかという二者択一 的な考え方ではなく、「どの程度危険であるか、またそれを回避するために はどのような手段が合理的か」という思考をとることが他の動物と比較す ると顕著な違いだと思われる。 人間は、火を使う動物であるということが特徴的だと言われるが、それは、 危険を利用する動物であると表現を置き換えることも可能だと考える。あ えて危険に近づき、危険性をコントロールして、危険から利益を享受する動 物だと整理できると思う。 他の動物は、火を見れば、危険であると認識し、火に近づかない。それで すむ。ところが、毛皮もなく、クマの爪もオオカミの牙も持たず、またカバ や象のような硬い皮膚や体重も持たず、馬のような走力もないという全く 生活力のない人間は、危険を味方にすることによって、種 としての存続を図 るほかはなかった。このため、火の高温の範囲を把握し、燃えていない部分 をつかむことによって火を移動させ、利用することを行っていた。 人間も、火を認識すれば、ある程度の情動反応が起きる。しかし、推論す る力で、危険の認識を限定的なものとして把握することによって、情動反応 を抑える、即ち情動をコントロールすることができた。 この「推論する力」とは、自分のこれからする行動が、どのような結果が 生じるかということを推論し、危険な結果を回避するという力である。この 結果、危険な結果を起こさないように危険を利用することができる。また、 危険な結果が発生する確率が高い場合は、行為自体を回避することになる。 火事のように強力な火力がある場所には近づかないということになる。 但し、このような危険に対する情動のコントロールが可能である場合と いうのは、危険がコントロール可能だと認識した場合である。危険をコント
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ロールすることが不可能な場合、例えばライオンの檻に入れられたような 場合は、通常はわき目も振らずに安全な場所に逃げ出すだろう。 アントニオ・ダマシオは、「二次の情動」という概念を提唱するにあたっ て、このような推論する能力は、大脳前頭葉前野腹内側部の機能だと指摘し ている。「デカルトの誤り」岩波書店、岩波文庫 そうだとすると、このように危険がコントロールできない場合は、危険か ら脱出することが、すべてのことに優先されることが合理的であるから、余 計な推論をすることをやめる、即ち大脳前頭葉前野腹内側部の機能が、停止 ないし低下することによって、ひたすら逃げる、ひたすら戦うという状態に なるということが、脳の仕組みなのだと思われる。この仮説は、現在の脳科 学の手法から、エビデンスを得ることは困難ではないと思われる。 第2 人間が抱く第2の危険 1 対人関係の危険が情動を起こすということ ⅰ 身体生命の危険がないところで起きる情動反応 人間の場合、情動反応が、身体生命の危険がない場合でも生じることは、 すでに一般的な見解となっていると思われる。学生がテストが始まる前、 労働者が上司から叱責されたりするとき、やはり、血圧や体温の上昇、脈 拍の増加が生じる。現在の生活に適合しない変化である(山下格「精神医 学ハンドブック」日本評論社第7版 15頁)。 これはアントニオ・ダマシオの言うところの「二次の情動」である。彼 は、二次の情動は、一次の情動の形成的表象を援用すると指摘する。私は、 この主張に大いに触発された。私流の解釈をすれば、やはり、身体生命の 危険がない場合でも、何らかの危険を感じていると考えれば、私の本来的 な仕事の分野の対人関係の紛争の原因について、わかりやすく説明でき ると思った。人間には、身体生命の危険以外にも感じる危険がある。 身体生命の危険がない場合に感じる危険こそが、「対人関係上の危険」 だと私は主張する。 ⅱ 対人関係上の危険とは何か。 対人関係上の危険を一言で言えば、 「群れから排除される危険」という ことになる。人間の群れは、人類史上から見れば最近の一時期を除けば、 19万年以上、ほとんどの人類が、単一の群れで生まれ、育ち、死んでい った。支配者層ではない圧倒的多数の人間は、200年ほど前までほぼ同 一の群れで一生を完結していた。人間にとって、群れから排除されること は、外敵や飢えのために、生存は不可能だったと思われる。群れから排除 されるということを、事前に覚知し、危険だと認識し、行動を修正すると いう脳の仕組みによって、群れの中で協調的に生活することができた。ま
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た、群れとしても、群れを構成する個体数が少なくなることは、外敵から の防御についても、食料の調達についても、極めて不利になることであっ た。このような対人関係の危険を感じ、二次の情動を発動させることは、 個体としての人間ばかりではなく、群れの存続のためにも必要不可欠の ものであった。この仕組みのために人間が現代に生き延びることが可能 となったと考えている。 ⅲ 対人関係の危険を感じる事象 対人関係上の危険は物理的にではなく、社会的に、規範的に、文化的に 感じるものであるから、仲間の言動、自分の行動に対する自分の評価によ って感じるようになっている。様々な事象を、脳が統合し、危険を判断し たのちは、生命身体の危険の場合と同じように視床下部からの指令が発 せられ、交感神経が活性化するということになる。この統合による危険の 認識にあたっては、前頭葉前野腹内側部の推論する力が大きな力になり、 これは経験や教育による学習によってはぐくまれる。これはダマシオの 指摘の通りだと思う。しかし、さらに、他者への共鳴力、共感力も危険を 認識するにあたって重要な要素になるものだと思われ、この点は、先天的 な力も存在するのではないかと考えている。 ⅳ 対人関係の危険の二つの特徴 身体生命の危険と、対人関係の危険の一番の違いは、危険の現実化ない し非現実化という結果が出るまでに要する時間の違いである。身体生命 の危険は、比較的短期に、場合によっては一瞬のうちに危険が現実化する。 崖から落ちたり、ライオンの檻に入ったり、犬に襲われたり、あまり危険 が現実化するまでに時間を要しない。 これに対して、対人関係の危険、即ち群れからの排除は、危険が現実化 するまでに長期間を費やすことが通常である。また、しばしば、危険が現 実化するのかしないのか不明な状態、即ち危険を感じ続ける時間が長期 化する。むしろ、実際には危険は現実化しないことも多い。その期間、危 険を感じるターゲットは、危険を感じ続けることになり、いわば危険にさ らされ続けることになる。これを身体生命の危険に置き換えると、ライオ ン檻の隣から脱出できない状態に置かれて、檻が老朽化して、少しずつ空 腹のライオンが自由になりつつある状態ということになろうか。 対人関係の危険に対する情動も、身体生命の危険に対する情動と大局 的には同一の反応であるから、交感神経の活性化が持続する、慢性的な活 性状態になる。 対人関係の危険が身体生命の危険と異なる特徴のもう一つは、現代の 人間が複数の群れに所属しているため、対人関係の危険も一つではない
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ということである。職場、家庭、学校、地域、趣味やボランティアのグル ープ等それぞれの群れに複合的に所属している。複数の群れで同時多発 的に危険が生じ、それぞれが関連していたり、影響したりして、思わぬ相 乗効果が生じることがある。これに対して身体生命の危険は、よほど運が 悪くない限り、一つの危険だけが現実化することが多いのではないだろ うか。 第3 危険を感じやすい、ないし、危機感を強める人間の状態 ⅰ 対人関係上の危険を強く感じる場合 対人関係の危険も、客観的には同じ事象であるにもかかわらず、その人 によって、反応は様々である。これは個性の問題のほかにも、危険を感じ やすくなる状態、危険を強く感じてしまう状態がある。特定の群れに執着 しなければならない事情を検討する必要がある。 第1に、本人の客観的状態を指摘しなければならない。 例えば、赤ん坊であれば、すべてを親などに依存しているのであるから、 母親の姿が見えないだけで不安を感じて泣くことももっともな話である。 病気や老齢で、他人に依存しなければならない状態だと、その依存者から の排除の危険は強く感じ取られるだろう。 第2に、過去の経験も危険の感じ方を強める要素になると思われる。理 不尽な形で排除された経験があると、仲間に対しての安心感を獲得しに くくなり、その結果些細なことで危険を感じるように思われる。また、群 れの中で安心した経験がないと、一度仲間に迎え入れられているにもか かわらず、あらゆる仲間の言動を、危険の兆候と感じるということがある。 アタッチメントの問題が典型的な例である。 第3に、他の群れの状態が依存度を強め、その結果、その群れが重大だ と思いこむという類型がある。例えば、家族の中で、自分の居場所がない と感じている場合、学校の友人関係に強く依存するようになり、友人の無 邪気な行動が、自分を排除する危険の表象だと感じてしまい、いじめなど の逸脱行為が起きる場合が多い。小学校のクラスが、いくつかの排他的グ ループに分かれていて、一つのグループから排除されることが本人にと って深刻な孤立を感じるという例はこの例である。 第4に、その群れが、生きていくために重要である場合がある。学校を 退学すると就職がうまくゆかないという場合の学校。会社を解雇される と同等の職場への転職ができないということになると、職場という現在 の群れへの依存度や執着度が高まる。 これらの問題の多くは主観的な問題である。危険およびその程度は客 観的に定まるものではない。本人の個性も影響するであろう。また、そも
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そも当事者が感じているような、身体生命の危険は存在していない。客観 的状態と危険の感じ方は、まさに適合しないのである。 ⅱ 対人関係以外の要素による危険の自覚 対人関係の状態と無関係に危険を感じやすくなるということがある。 ここで言う「危険」は、身体生命の危険と対人関係の危険と明確に区別し ないで使っている。 睡眠不足がその典型である。不眠不休で歩いていると、疲労を感じやす くなる上に、何かよからぬ出来事が起きそうな不安になることが多い。 アルコールの摂取も、人によっては不安を掻き立てられることがある。 その結果、怒り(FIGHT)の反応になることが酒乱である。 コルチゾール等、不安解消物質が、妊娠、出産後に不足状態となり、不 安を感じやすくなっているとしか説明できない心理の変化もみられる。 時間がないということも危険を感じているような焦燥感が出現し、後 に述べる大脳前頭葉前野腹内側部の機能の停止ないし低下がみられる。 裁量の余地がないほど、自分の行動が制約されている場合にも、同様に 危険を感じやすくなる。これはもう少し踏み込んで言えば、 「危険が存在 していないにもかかわらず、将来危険が起きてしまった場合に対処がで きない状態であるという自覚」であるように思われる。視覚が奪われた暗 い場所におかれた場合、聴覚の意味がなさない騒音の場所におかれた場 合、手足を縛られた場合などは共通の息苦しさなのだろうと思われる。対 人関係上も、自分のあずかり知らないところで自分に対する評価が加わ るような場合に不安を感じるということも、同様なのだろう。 第4 交感神経持続による反応群とそのあてはめ ⅰ 身体的慢性反応 交感神経が持続した場合の不具合については、既にキャノンが提唱し ている。人間は、交感神経と副交感神経を交互に入れ変わらせることによ って、生きるリズムを形成している。血圧が上がり、血液が凝固しやすけ れば、血管壁がもろくなりやすくなる。胃への血流が不足がちになれば、 潰瘍の危険緩和因子が不足することになるのであるから胃潰瘍が起きや すくなる。交感神経の持続が負の減少を伴うことは、身体的側面では承認 されているところである。筆者は、過重労働と脳血管疾患、胃潰瘍の労災 事例を多く担当している。 ⅱ もう一つの「とう(F)」である凍結反応が出やすいという特徴 では、交感神経持続による精神的な反応はどのようなものか。 一つは、生きていくための活動の停止である。 危険を感じた場合の反応として二つ「(F)」のほかにもう一つあること
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が指摘されている、それは「凍結(FREEZE)」である。(前掲バベット・ ロスチャイルド)崖から転落したり、猛獣の前に突き出されたりした場合、 気絶するという形で、あるいは足がすくんで動けないという形で凍結し てしまうということは報告されている。 私は、これは、逃げることも、戦うことも不可能だと感じた場合の反応 だと解釈している。即ち、生き延びることが不可能だと認識した場合、生 きるための活動を停止するのである。人間は危険の程度を判断する動物 である。このような動物に特有に、逃れられないほど大きいという判断を 行い得るということになる。 問題は、この凍結反応が、対人関係の危険を認識した場合にはどのよう な形で現れるのかということになる。 対人関係の危険の一つの特徴に、危険の持続性を指摘した。これは一方 で、危険回避が時間とともに可能になるという場合もある。多くは、時間 が危険を回避したり、馴化してしまったりすることで、危険を感じる必要 がなくなるのであろう。しかし他方で、危険の慢性化は、危険が現実化し ていないのにもかかわらず、危険回避が不可能であると認識してしまう、 あきらめてしまうということが起きる原因にもなる。 対人関係の危険は、持続的に感じることで危険回避を不可能であると 認識してしまう結果、生きるための活動を徐々に停止していく場合があ る。その結果、朝起きることができなくなる、食事ができなくなる、睡眠 ができなくなる、感情がなくなっていく、意欲がなくなる。うつ状態だと 指摘されることは、一言で言うと生きるための活動の停止なのであろう。 おそらくこれは、視床下部の病変にとどまらず、視床下部に指令をする脳 幹等の根本的な部分の異変が起きているのではないだろうかと思う。う つ状態という状態は、このように生きるための諸活動を徐々に停止して いく過程ともいえる。 ⅲ 前頭葉前野腹内側部の機能の停止ないし低下 もう一つの精神的な影響としては、複雑な思考ができなくなり、自己の 怒りなどを抑制できなくなる。短絡的な行動に走りやすくなるというも のがある。 危険を感じると複雑な思考、推論ができにくくなる。本当に命の危険が ある場合には、ひたすらわき目も振らずに逃げる。蛇に襲われて逃げない で戦う人は容赦なく、反撃がされなくなるまでたたき続ける。推論に基づ いて、危険をコントロールできない状態の場合は感情的な行動になるわ けである。余計なことは考えない。また、逃げる途中、多少のけがをして も、その時は痛みさえ感じない。落ち着いた時に、足を怪我してたことに
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気付く。逃げる、戦うという機能以外の脳の活動が停止する仕組みがある ことになる。これは、必要があって、前頭葉前野腹内側部機能が停止する と考えるべきである。 そうであれば、交感神経が活性化している限り、逃避行動や逃走行動は 自制することがむずかしくなっているということになる。ひとたび怒り に任せた暴力行為に及ぶと、相手方の状態如何にかかわらず、容赦なく遂 行される理由である。 対人関係の危険を感じても、交感神経が活性化されると、前頭葉前野腹 側内部の機能の停止が起きる。その結果、クレーマーは容赦なく、ターゲ ットを攻撃し、自ら自発的に怒りを収めようとはしなくなる。周囲の反応 なども気にしなくなる。自分の行動の量的妥当性も、怒りの方向もコント ロールが効かない状態となる。危険の解消という結果だけをもとめて行 動を行うようになり、その手段の妥当性などを考慮する脳の部分は存在 しなくなってしまう。結論を短絡的に求めるようになるということも特 徴である。本来考えていた「余計なこと」を交感神経が活性化することで、 考慮できなくなる。 対人関係は、危 険だという感覚が持続する。前頭葉前野腹側内部の機能 が直ちに停止するわけではないにしても、慢性的な交感神経の活性化に 加えて、別のあらたな危険が生じることがあれば、突発的に、病的に思考 が停止すると考えるとうまく説明が付くことが職務上多々ある。 ⅳ 以下、具体的な社会病理が対人関係の危険を反映して起きているとい うことについて説明を加える ① 刑事事件 A 暴行傷害事件 暴行傷害事件のうち、路上などで見ず知らずの者を暴行するケー スというのは、著名な事件のほかにも多く見られる。加害者は、社会 的立場が不安定な者が多い。本来自分はもっと能力があるのに、不当 に職に就けない、望む賃金を得るような、望む社会的ステータスのあ るような職に就けないという自分自身の不満や、近親者などからの 圧力を受けていることが多い。社会の中で、自分が不要の者とされる のではないかという潜在的不安を抱えているように思われる。では な、なぜ、罪もない人を襲うのか。本の些細なきっかけで、それまで 抽象的に抱いていた不安が、通りすがりの人の些細な、あるいは何の 意味もない表情、しぐさというもので、「自分が馬鹿にされている」 という怒りの感情を発火させているようだ。体力差だったり、武器を 携行していたりという自分に優位な点があると、怒りから暴力に移
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行することが多い。全くのとばっちりということが多い。躁状態の場 合は、特に理由もなく、自己の優位を感じ、やはり怒りから暴力に出 るようだ。「自分を尊重しろ」という、結論がほしいわけだが、手っ 取り早く結論を実現するため、暴力によって、相手を屈しようとする。 相手が傷ついても暴力は止まらない。怒りによる暴力は、相手が完全 に自分に対して危害を加えないと認識するまで続くのだから、多少 の抵抗があれば、怒りは加速するだけである。相手にダメージが加わ ったことを実感すると、暴力はむしろ加速するのはこのような理由 である。 性犯罪、放火犯は、もう少し複雑な様相をもつことを体験している。 これらの行為者は、日常を、自分の意思で自分がこうどうする余地が 少ない、他人から支配されているという感覚を持っている人が多い ようだ。暴力団のとりこのようにされていて、自分の日常を使い走り に使われたり、自分の自宅を覚せい剤取引に使われたり、自分の自由 がないどころか、危険の管理もできない状況があった。または、早朝 から深夜まで部活動に拘束され、週末も地域のサークルでの活動を 断ることができない人間関係があった高校生、仕事帰りにパチンコ の同行を強制され、当たりが出ると台を上司に譲らされていたサラ リーマンなどもいた。女性という体力差の弱い立場の人間をターゲ ットにして、支配をもくろんだり、火事が起きて人々が右往左往して 大騒ぎをして、消防自動車までが駆けつけるという様子を見て、他人 の行動を支配しているような感覚を持つ加害者もいた。 むしろ、難しいのは万引き犯である。万引き犯は、計画性がある場 合もあるが、現状多いのは、店に向かう段階では、商品はお金を出し て購入するものだという意識がある場合である。ところが、ある時点 で、万引きをするという強固な意思を有し、自分を止めることができ ないというより、止めなくてはいけないという発想自体がなくなる 状態になる。そして、防犯カメラや、配置された警備員、他の客等の 他人の存在を十分考慮することなく、万引きを実行する。現在、高齢 者の万引きが増えている。我に返った段階では、もちろん悪いことと 気が付くし、十分なお金を持っている場合も多い。万引きの場合、警 察が聴取する供述調書には、ストレス発散が動機だと書かれること が多い。これは、供述者が、理路整然と「ストレス発散のためにやり ました。」と現実に述べているのではない。警察官が話を聞いて、ま とめたものだ。もちろんうそを書いているわけではない。「そうする と、今まで話を聞いてみると、ストレスの発散になるからということ
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でよいのか。」と尋ね。「そうなるかもしれません。」というやり取り が供述調書では先ほどの表現となる。おそらく取り調べでは、心を許 せる警察官には、自分の現在の苦境を述べているのだと思われる。警 察官は、刑事裁判の証拠という観点から供述調書を作成するのであ って、心理学のレポートを作るためではないので、先ほどの要約の調 書を作成するということになる。 高齢者で万引きをする人は、ひとり暮らしの人、配偶者はいるが入 院していたり、施設に入所していたり、介護を要する場合が多い。一 言で言うと、慢性的に、「この先どうなるのだろう。」という不安を抱 き続けている場合が多い。事実、万引きを繰り返して、あわや刑務所 に収監されるかという事件の際に、離れて暮らす子どもたちが、週末 交代で実家に帰ったり、カウンセリングに同行したりして、葛藤が静 まり、万引きの契機が消失した事例がある。このケースでは、この点 が裁判官から評価され、執行猶予となった。 不安による交感神経の持続が、新たに起きたわずかな刺激で、大脳 前頭葉前野腹内側部の機能を低下ないし停止させ、犯罪を行うこと を制御できなくなる。例えば、老後の先行きの不安がある中で、夫に 借金があったことが発覚したというような場合、機能停止が急激に 起きてしまう。 万引き事件は、難しいが、興味が尽きない。こういう人だと決めつ けてしまうと何も見えてこない。何か理由があるという視点で調べ ていくと、人間の心理、孤独、不安が見えてくる。 刑事事件は、犯罪を行った人が、そういう人だ、生まれながらの犯 罪者だという視点取り組んでは、何も効果がない。人間が犯罪に踏み 切るということは何か理由があることだと考えるべきだ。こうする ことで、犯罪の原因が見えてくる。犯罪の原因が見えてくることによ って、原因に対する対策が初めて可能となる。その人が再犯を行わな いことは、その人の幸福だけでなく、社会全体の幸福につながる。 ② 買い物依存症、アルコール依存症、ギャンブル依存症 買い物依存症は、クレジットカードという、顔の見えない信用手段 が一般的に普及したと同時に、普及した。それまでは、後払いの通信 販売という形がとられていた。家族との葛藤の場合が多い。だからと 言って、例えば、妻の依存症が夫の責任というわけではない。多くは、 妻側に何らかの不安要素、自信のなさあがって、いつも夫から見放さ れるのではないかという不安が持続している場合がある。買い物の 結果手に入る商品を実際に使うことは想定されていない。購入する
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ことに満足を覚える。依存症になると、買わないことが苦痛になって いく。 アルコール依存症は、職場の問題だったり、家庭の問題だったり、 不安に耐えられない状態が継続していて、この不安を解消したいと いう欲求が高じてくる人になりやすい。不安を感じなくするという 結論だけを求めて、手っ取り早く酔っぱらうということなのだ。アル コール自体が好きなわけではない。耐え難い不安の持続が大脳前頭 葉前野腹内側部の機能を停止させ、他人の目を気にしながらも、酔っ ぱらうことを制止することができなくなっている。この不安を第三 者に、怒りという形で向けることができない人であることも特徴的 だ。特にこのような精神的なアルコール依存者は、酒さえ飲まなけれ ば、実は大変付き合いやすい。しかし、アルコールは、生物的にも依 存性のある物質である。人格の複雑な変貌を遂げることもある。また、 副作用が大きい。生物的な副作用も致命的になるものであるが、アル コールに依存していること自体が、不安の種になるという出口のな い悪循環である。私は、多くのアルコール依存対策が、依存症を持つ 人に厳しすぎると感じている。心を鍛えてアルコールから脱却する というのは、いかにも非科学的で、パーマネントの効果は期待できな いと思っている。その人の弱い部分を尊重し、少しずつ改善するとい う方法が完全な脱却に資すると考えている。 ギャンブル依存症の大部分が逃避である。社会的な不遇を感じて いることは、不特定多数人に対する犯罪行為を行った人と共通であ る。例えば、パチンコ依存者は、あたりという快感をえるのは、景品 につながるからではない。当たらない人に対する優越感であるが、実 際に臨んでいることは、他の人と平等に扱ってほしいという切実な 願いである。競馬等の依存は、自分には能力があるということ何らか の形で示したいという欲望が感じられる。社会の中で不遇な扱いを 受けている人、家庭の中にい場所がない人たちが、とばく場で時間を 費やしていることが多い。そして、ギャンブル依存症が、大脳前頭葉 前野区内側部の機能停止の結果どうなるかということだが、「あたる ことしか考えられなくなる。」のである。もし、この馬がこなければ とか、もしあたりが出なければということは、あまり現実的に検討し ていない。手っ取り早く、当たり馬券がほしく、あたり状態になりた い、そのためにお金を費やしている。推論する力がなくなっている。 ③ 児童虐待 児童虐待も、一様ではない。ただ、気になるのは、児童虐待の防止
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を呼びかける側が、虐待をする大人と言うのは、およそ虐待をするよ うな欠陥者であり、自分たちの指導を強制的に受けさせる必要があ り、警察権力の力を借りたいと考えていることだ。これでは、虐待は なくならない。また、保護された子どもの将来、18歳を過ぎて養護 施設を対処しなくてはならなくなった後に極めて深刻な問題が解決 されないまま放置されることになる。今の虐待を止めることで、精い っぱいという実態があると理解はできるが。 児童虐待の事件の警察発表に接すると、泣き止まないので暴力を ふるったら死んでしまったということが多い。これこそ、理論通りで ある。まず、例えば、自分ではどうしても安定した職につけず、他人 との折り合いも悪い、子どもを持った女性と知り合い同居を始める が、女性が仕事に出て、自分が子守をして保育代を浮かそうとしてい る。女性との交際も継続できるのかという不安が実は存在している。 慢性的な交感神経の活性化がすでに起きている。赤ん坊をあやすこ ともできないのかという烙印を押されたくなくて、赤ん坊を泣き止 ませようとするのだが、方法が変わらない。泣いている理由もわから ない。また、かわいそうという気持ちも起きない。短絡的に、泣き止 むという結果を求めて、暴力をふるって気絶させる。赤ん坊は恐れて もなくわけだから、気絶させるしかない。その結果、赤ん坊が死ぬか もしれないという推論をする力は、もはや彼の前頭葉前野腹内側部 には残されていない。怒りという感情が加われば、その行為を止める 要素は何も残されていないことになる。 人権擁護委員をやっていると、自分が虐待をしているといわれて いるという相談を受けることがある。本人も、現状について、これで 良いとは思っておらず、改善したいという気持ちがある。しかし、ど こが悪いのか、どうしたらよいのかわからない。ただ、自分を否定さ れて、子どもを取り上げられるという、短期的な結果だけを求められ る行為を押し付けられていると感じている。これがますます自分が 否定されているという感覚をもつようだ。電話だったが、事情を聞い ていき、何が問題なのかがようやく見えてきた。その問題を解消する 行動として、どんなものがあり、どのような施設を利用できるのか、 一つ一つ一緒に吟味した。ようやく、「これなら私でもできそうだ。」 と興味を持てる方法を見つけて、相談は終わった。 児童虐待の報道に接して、怒りを持つことは健全なことだ。私自身、 子どもの心理状態に思いをはせて、悲憤慷慨という状態になってい る。しかし、それでとどまっていたのでは、児童虐待は減らないと思
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う。虐待していることにも、理由があり、生まれながらの虐待者とい う人間はいないというところから出発するべきだと思う。 ④ 離婚 離婚事件は、割合と単純で、理論が当てはまりやすい類型の事件で ある。ただ、その人が離婚を決意した理由がわかっても、それを解決 する方法は難しい。 即ち、各家族の中で、妻と夫が孤立しており、妻なら妻が、夫から 受け入れられていないという感覚をもってしまうと、夫が天敵のよ うに思えてくる。同じ空間に他人がいるのだから、不安、不自由感が 持続し、高まっていく。街を歩いていて似た男を見かけただけで、妻 はパニックを起こす。 相手を尊重する方法は、相手の感情に敏感になり、何を求めている か、個別に検討するほかはない。これは、現代的特徴であって、封建 制度のイデオロギーの下では、親や教科書から教えられたことを実 行することによって、双方とも自分が尊重されているということを 実感できていた。また、実感できない場合は、実感しなければいけな いという形で、第三者が支援をすることも可能とした。もはや時間を 戻すことはできない。いろいろなノウハウ本も有効だが、最終的には 相手の気持ちを個別に考えるしかない。 本当は、暴力などがないケースでも、しばしば妻は虐待があったと 主張することがある。訴訟上の戦略で嘘をつくという不道徳な場合 もあるが、実際に暴力を受けたことと同じような、自己否定を受けて いると感じていることが多い。 持続する葛藤の中で、自分を支持的に受けて止めてくれるという 感覚を持てる支援者の言動は、それが正しいのか、それによってデメ リットはないのか、相手方の気持ち、子どもの健全な成長など、本来 考えなければならないことを、すべて現実的に考えずに、手っ取り早 く、苦しい状態である夫との生活から子どもを連れて離脱するとい う結論を求めて行動に出させている。 思慮の足りない支援者は、本人が苦しんでいることから、「夫が悪 い」という結論を出して、離婚を勧める。それが、苦しんでいる人に 寄り添うことだと思い込んでいる。それが妥当するケースももちろ んあるのだが、マニュアルでの行動は、子どもや相手方の事情を吟味 するという視点が欠落しており、誰かが苦しんでいれば、苦しんでい ないものが加害者だと、あたかも怒りによる制御不能状態のような 短絡的な行動しか記載されていない。
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⑤ 自死 自死は、希死念慮の元で行われるが、希死念慮というロマンチック とも思える言葉の響きとは裏腹に、この意味は凄惨だ。自分に価値が ないという自己否定の極限の中で、「自分は死ななければならない。」 という強烈な思い込みをいだいている。これは、究極の生きるための 活動の停止そのものである。これが「死にたい」などというロマンチ ックで、身勝手な感情ではない。 自死者は、押しなべて生真面目であり、責任感が強い。不可能な他 人の要求をまじめに遂行しようとする。また、それを無理して可能と する意思の力もある。それ自体が、交感神経を著しく活性化させてい ることになるが、理不尽な状態は持続することが多い。交感神経を活 性化し尽くし、大脳前頭葉前野腹内側部の機能を使い果たしている 状態になっている。 いろいろな不安や、危険、自分を圧迫するものから、とにかく逃れ たいと考えることをだれも責められない事情があることが多い。少 なくともそれほど苦しんでいたことは十分うかがえる。 苦しみから逃れるという結論だけを短絡的に求めた結果が自死で ある。すでに大脳前頭葉前野腹内側部の機能は働かず、自己を制御で きる力は残っていない。このような状態だから、後から調査した結果 の印象では、自死を敢行したというよりは、自死に至る行為を止める ことができなかったという印象を持つことが多い。 犯罪から自死まで、社会病理を見てきたが、すべてが共通する脳の 状態であると考えている。実際、これらの発生件数は連動している。 これらの中から自死だけを取り上げて予防するということは、不 可能であり、意味のないことである。交感神経の高まり、不安や危険 を感じる要素、特に対人関係的な危険を感じる要素を解消していく ことが、結局は自死予防の最も効果的な姿であり、人間社会の在り方 だと考える。そしておそらくこういうことは、今はじめて人類がたど り着いたのではなく、少し前の世の中では当たり前だったことだと 思う。何らかの事情で、それが忘れられ、価値が見いだされなくなっ たのだと思う。 その原因の一つとして、戦争、戦後の状況は上げなければならない と思われる。 第5 改善アプローチとしての対人関係的アプローチ ⅰ 対人関係的アプローチの手法 第1に、原因を分析する。その人の生物的ないし社会的に病的な状態に
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ある対人関係を探し出す。それが大きな原因であれば、対人関係の状態を 改善していく。それが大きな原因ではなく、むしろ生物学的要因がある場 合においても、対人関係の状態を改善することで、治療などの効果を上げ ることができる。まずは、その人の生まれつきに原因を求めるのではなく、 客観的に置かれた状態に目を向けるということである。 第2は、本人が、対人関係の現状を客観的に認識することである。これ は、うつ状態などになると自責の念、自己評価の低下などがあり、なかな か容易ではない。しかし、自分が苦しむことに原因があり、それは、誰で も同じ環境に陥った場合には同じような反応をする可能性があるという ことを理解すると、徐々に落ち着いていくことが多い。 また、危険反応は不適合であり、身体生命の危険が生じているかのよう な感覚であることが多い。不適合な感じ方をしていること、身体生命には 危険はないという当たり前のことを、自覚することによって、交感神経の 活性化を鎮める。すると自然に、大脳前頭葉前野腹内側部の機能を回復す ることができる。(前掲 バベット・ロスチャイルド)深呼吸で心を鎮め るということがあるが、これは肺の空気の交換ではなく、皮膚感覚を取り 戻すことが有効なのである。 第3に、原因である環境の改善である。 改善不能の状態である場合、改善することで解決することが、時間の問 題があって非効率できあるような場合は、思い切って、特定の対人関係か ら離脱する方法も考える。退学であり、退職であり、離婚などである。自 死が起きたり、予後が不良な精神疾患になったり、刑事事件などの社会的 な病的関係にとどまることよりも、その人の人生を有意義にする場合が 多い。 改善可能な場合も、対立的なアプローチはあまり有効ではない。その人 が元の群れに戻れなくなってしまう。対立的なアプローチではなく、対立 者に対しても、対人関係的アプローチを行い、出来事を客観的に理解して もらうことが有効である。あるべき対人関係を築くことは、本人にも相手 方にとっても極めて有効である。 そして、従来の群れから離脱する場合も、改善を継続する場合も、本人 を、安心できる群れに帰属させる必要がある。家族の状態を改善して、家 族を再生することが基本になり、友人、知人と次善の策を講じていくのだ が、どこにも帰属できない場合は、新たな群れを作るという方法も視野に 入れるべきだと考える。 付け加えると、以上の説明で、対人関係的アプローチと治療、施術は、 全く無関係であることは理解できると思う。むしろ、治療、施術が効果的
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なものならば、対人関係アプローチは、治療等を阻害する要因を排するこ とになる。治療効果を高めるための条件作りになる。また、必要に応じて、 治療機会に結びつけることも期待できる。

ⅱ 対人関係的アプローチの有効性 対人関係的アプローチは、本人の生きる力をよみがえらせるだけでな い。本人の状態を本人だけに求めないこと、本人を他者が支えようとする ことで、家族も、自分たちが否定されないで、支持的に関与を受けている という実感を持つことができる。 また、本人の精神的状態にかかわらず、対人関係の改善を働きかけるこ とによって、本人が無自覚のまま病気が進行することをとめることがで きるし、病気になる前に精神状態を整えることができる。 ⅲ 対人関係的アプローチの主体 対人関係的アプローチは、理論に基づいて、これから実践を呼びかける というものではなく、直感的に始めている動きを説明しているというこ とが現状である。賛同者が増えることによって、本質的な部分がどこにあ るのかが議論され、あらゆる対人関係上に広がることが理想である。 ① 対人関係の環境改善としてのみやぎの萩ネットワーク 平成27年3月に創設された。全国自死遺族連絡会の田中幸子氏の 呼びかけで、それまでも個別に連携していた人たちが、一点に結集して ネットワークによる解決を図ったものである。 弁護士、司法書士、社会福祉士も数名ずつメンバーになっているが、 労災保険や健康保険、年金請求の専門家である社会保険労務士のグル ープも参加している。心理士、カウンセラー、セラピスト、精神科医も メンバーである。税理士、中小企業診断士もメンバーになっており、多 様な対応を可能としている。さらに、牧師、僧侶もメンバーになってお り、懐が深いものとなっている。 ポスターやチラシ、ホームページでメンバーの連絡先を掲載し、悩む 前に、相談者は連絡することができる。連絡を受けたメンバーは、自分 で解決することもできるが、メーリングリストに事例を報告すること によって、専門家から適切なアドバイスを受けることができる。大体、 書き込んでから2,3時間のうちに意見が出尽くすことが多い。また、 他の専門家との共同作業も可能となる。一人の支援者だけでは見えな い解決方法も見えてくる。 これまでも、僧侶、カウンセラー、弁護士というチーム、牧師、カウ
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ンセラー、弁護士というチーム、社会福祉士と司法書士というチームで それぞれ解決を得ている。また、悩みのうち、債務が大きな問題である 場合、弁護士が手続きを引き受けるという事例もある。 民間団体のボランティア活動であるが、究極のワンストップシステ ムである。相談を聞くことではなく、問題を見つけて解決することを主 眼として活動している。 相互の情報交流と、人的つながりを深めるために、月に一度程度例会 と称して勉強会を行っている。一般にも公開されており、メンバーのつ ながりのある知人、友人なども参加している。それ自体が自死の啓発活 動になっている。 ② 新たなる対人関係、コミュニティーを作る東北希望の会 平成27年5月に結成された。過労死、過労自死遺族の会である。過 労死は、働き盛りの一家の支柱が、突然死亡する。幼子を抱えて、これ からどうしたらよいのか途方に暮れる。もっとリアルな表現を使えば、 これから生きていけるのだろうかということをぼんやり考えているそ うだ。母親が幼子と残されたケースでは、経済的な困難が、心の余裕を 奪って、例えばクリスマスを祝うという発想すらがなくなってしまう ということも聞かされた。遺族が生活力を取り戻すために、最も有効な 方法が、他の遺族と接することであった。自分たちが受けた苦しみを、 新たに説明することなくわかりあえる別の遺族と接することによって、 自分たちも生きていけるかもしれないという希望が生まれるとのこと だ。 東北希望の会は、このような遺族相互のコミュニティーの形成を第 一に活動している。月一度程度の例会を開催し、行事の企画などをする 建前ではあるが、心の交流を第一に、自由に話ができるようにしている。 話下手な人も話がしやすい環境が自然と生まれている。 子どもの健全な成長ということを第一に考えている。例えば父親を 亡くした子どもは、父親の分まで母親を支えようと懸命になっている。 せめて、年に数度は子どもが子どもに帰ることのできる企画を実施し ている。お寺の本堂で、サンタクロースを招いてクリスマス会を開いた。 皆で海に行ってバーベキューを行うという企画もある。 このような遺族の交流という企画ともう一つの大きな柱は、過労死 防止の啓発活動である。分かち合いの会と異なることは、社会に積極的 にかかわり、社会的な活動を共に行うことにって、生活力を勝ち取って いくという理念がある。社会のあるべき姿に向かって進んでいくとい う実感は、対人関係的アプローチの本質かもしれない。人が人を追い込
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む社会から、人と人とが助け合う社会への転換を理念として活動して いる。全国の活動と連動しながら、時々のシンポジウムなどの活動も積 極的に行っている。 東北希望の会は、遺族、過重労働でなんらかの症状のある人たちが会 員である。これに弁護士、社会保険労務士、カウンセラー、同僚を過労 死で失くした人、遺族の知人友人がサポートしている。 ③ 全国自死遺族連絡会、藍の会 田中幸子氏 息子さんを自死で失くされた。その経験から、遺族の心情がわかる組 織が必要だという実感に基づいて、分かち合いの会を自ら結成し、全国 的な活動をされている。みやぎの萩ネットワーク、東北希望の会もそう だし、自殺を自死と変更することなど、すべてが田中さんから始まって いることも間違いがないところである。遺族の呼びかけから、自死の悲 劇を繰り返さないという活動が始まることは、極めて自然である。 最も象徴的なことは、遺族の一人が語ったことである。 「田中さんは一晩中話を聞いてくれて、私たち親子を抱きしめて、『私 は、絶対あなたを見捨てない。』と言ってくれた。」 対人関係的アプローチの純粋形態はこれである。群れは、メンバーを 決して見捨てない。どこまでも守る。思うに、この遺族の一言を具体化 するために、本拙文を起こしたようなものである。 ④ 今後の活動 みやぎの萩ネットワークや東北希望の会のような活動は地域に限定 的であるし、メンバーの人数に限りがある。あらゆる対人関係で、いた わりあい助け合う関係が形成されるべきである。 特定の政治思想ではなく、あえて言えば、これが人権思想なのだとい う意気込みで、多次元の啓発活動が必要であると考えている。 いずれにしても、これは一人の人間が生きていくということであり、 人類の絶え間ない挑戦の歴史である。息の長い活動を心掛け、くれぐれ も大脳前頭葉前野腹内側部の機能を停止させた、結論を求めた短絡的 な活動とならないように留意しようと考えている。

 

夫婦問題に関するものをまとめました。家事調整センター企画書は、土井法律事務所のホームページに移動しました。

  • 「DV加害」の定義の混乱は、その危険性の本質が見失われ、本当に守られるべき人が守られなくなる。
  • 妻の不安と夫婦喧嘩 愛するがゆえに争うことの対人関係学的理解
  • 実家婚から独立婚へ、結婚観念の移行期間に必要な制度を作ろう
  • 「正しい」夫の家事、育児が、思い込みDVを感じるまでに妻を追い込む理由についての考察と、その予防方法と事後的対処方法の検討
  • 夫婦と離婚夫婦と離婚

 

夫婦問題

「DV加害」の定義の混乱は、その危険性の本質が見失われ、本当に守られるべき人が守られなくなる。


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日本において、男女間のもつれによる殺人や自死などの凄惨な事件があとを絶たない一方、DVを理由として、親子が引き離され、取り残された親の精神的圧迫と、連れ去った親の高葛藤の持続と、それらによる子どもの健全な発育の疎外が蔓延化しているように感じる。即ち、対策が取られるべきDVの対策が取られておらず、取られている対策の副作用ばかりが出てきているわけだ。
  行政を中心とした日本社会のDV対策が立ち遅れている、現実的な対応が十分できていないということなのではないかと思われる。この原因の一つとして、「子どもに対して精神的侵襲の強いDV」とそれ以外のDVとが十分区別されていないことがある。それは、とりも直さず、DVがなぜ危険なのか、その本質が議論されていないところに原因があると思われる。
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 法廷でも、この混乱の影響を受けた訴訟行為をよく聞く。離婚訴訟などで、40年連れ添った夫婦で、温厚な夫だが、2回だけ妻に手を挙げたことがあるという理由で、DV夫の加害行為が原因で婚姻生活が破綻したと主張がなされることをしばしば耳にする。この場合、その暴行の前後の脈絡、どうして暴行に至ったかということは語られることはない。また、暴行の程度についても、制止しようとして押しとどめて、妻がしゃがみこんだという場合も、投げ飛ばされたというふうに変わることが多い。そして精神的暴力の抽象的な主張が、その間の40年を埋めていくわけである。そこで言われる数十年前の暴力を理由に、莫大な慰謝料が認められることもある。
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日本のDV保護法などによる住民基本台帳のネットは、どこかの機関がDVの事実認定をしたことを要件としていない。一方配偶者が警察などにDVの相談に行き、その相談に行った事実が役所に報告されることによって、住民票の閲覧ができなくなるだけのことなのである。一方配偶者が他方配偶者に、自分の所在を知られたくないために住基ネットを申請しているわけではない事案が実に多い。事実、多くの事例で、申し立て配偶者は、他方配偶者もよく知っている、自分の実家に住民票を移して住んでいる。それにもかかわらず、一度DV夫のレッテルを貼られてしまうと、行政はまともに相手をしてくれない。私の依頼者が、妻が家に残った子どもの保険証を持って住基ネットをかけてしまったので、残された子どもの通院のために保険証の再交付を相談に行ったところ、区役所の窓口では、何を言っても「あなたに話すことは何もない。」と突っぱねられた。せめて、区役所の職員が、「保険証には奥さんの住所が記載されているので、再発行をするとあなたに奥さんの住所を教えてしまうことになるので、住基ネットがかかっている以上、再交付をするというのは難しいんです。」と説明すればよかったのである。それすら説明されず、「あなたには話すことは何もない。」とのマニュアル対応がなされてしまうと、夫の方は途方に暮れるだけである。相談相手がいない場合、夫の喪失感、無力感を醸成させ、やぶれかぶれにする危険も大きい。DV加害を作り出している事例もあるのではないかと訝りたくなるくらいである。この事例で言うと、医療費の十割負担は、一般家庭では極めて家計を圧迫する。現実に子どもが医療機関にかかれない場合もある。何のためのDV保護なのか、子どもの利益が考慮されないという本末転倒な話になった。
  私は、現状の体制について、副作用が大きすぎるので、保護を軽減しろといっているのではない。これでは、本当に保護されるべき事案で、保護が不十分になってしまう危険性があるのではないかということを主張したいのである。

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このような混乱はどうして生じたのであろうか。
ⅰ おそらく、DVの弊害について論じられたまとまった文献としては、ランディ・バンクロフト(Lundy Bancroft)他の「DVにさらされる子どもたち―加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」(金剛出版)が行政の拠って立つ立場なのではないかと推測している。この著作は、「DV加害」が子どもの精神に与える影響について明快に論じられ、また「DV加害者」の支配の構造を紹介し,将来に向けた働きかけについて論述されている。正しく理解すれば、必読文献であると思われる。
   しかし、この本を、ある論述を読み飛ばして、1章から6章まで読み進めると、「およそ不平等な論述であり、DV被害者とされる女性の立場から見たDVが詳細に描かれている。」と感じるか、「アメリカの男というのは、極めて男女差別的で、インテリジェンスのかけらもない動物以下の人間が多数を占めている。」と感じるかどちらかである。その結果、日本において、これを参考としてしまうことは、なるほど対策の誤りを犯すと考えてしまうだろうと感じていくだろう。しかし、そう感じながらも、7章から9章までを読み進めると、不思議に共感することが多く、1章から6章までを読み進めた段階では、読み手は、もう「加害者」を隔離するしかないのではないかと思っていたのに、「加害者」に対しても働きかける方法が論じられるのはなぜなのだろうという疑問ばかりが湧いてくる。1章から6章までの著者と7章から9章までの著者は別人なのではないだろうかという錯覚に陥ってしまう。
 ⅱ 種明かしをすると、読み飛ばしたある論述というのは、「DV加害者」の定義のことである。日本において、「DV」とは、物理的暴力、精神的暴力、性的暴力といった家庭内暴力全般を指す。しかし、この著者は、なんらかの暴力を一度でも行った者をすべて「DV加害者」としているわけではないのである。
   著者は、16頁で、「DV加害者とは、パートナーとの間に威圧的な支配のパターンを形づくり、時おり身体的暴力による威嚇、性的暴行、あるいは身体的暴力につながる確実性が高い脅迫のうちのひとつ以上の行為を行う者のことである。」と明確に定義を述べている。17頁でも、「威嚇的ではない、威圧のパターンを伴わない暴力は、ここでは考慮しない。」とも述べている。
 ⅲ 正しい前提に立って、改めて著作に当たると、7章以降の論述に目をみはらなければならない。著者は、このようなDV加害者であっても、子どもと交渉があったほうが子どもにとって良い結果となるということ(142頁)などが論じられている。DVのリスクアセスメント、更生のプログラムは、極めて実務的であり、参考になる。虚心坦懐に学ぶことができる。
   もし、1章の「DV加害者」の定義と、7章以下を読み飛ばしたのであれば、一度でも暴力を振るう男性、一度でも妻の不愉快になる言葉を発した男性は、DV夫であり、子どもをPTSDに陥らせるので、妻子と隔離することが、子どもと母親にとって必要不可欠なことであるという誤った結論を導いてしまう。しかし、それが今のDV行政に思えてならない。実際、行政関係の資料この本の引用については、「DV加害者」の定義が引用されることはない。法務省のある検討部会は、明らかに全てのDVの影響をこの本が論じているような資料を作成し、それをインターネット上で公開している。
   「DV加害者」とDVをしたことのある配偶者とは、なんらかの区別をするべきである。少なくとも、後者に対して、行政は、中立的立場で、相談に乗ることは必要なことなのである。

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それにしても、この「DVにさらされる子どもたち―加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」という著作において、その加害者の定義について、支配の契機を提示したことは、極めて示唆的である。J.L.ハーマンの著作が繰り返し引用され、支援者にPTSDやトラウマの理解を求めているところから、DVの危険性の本質が、肉体的侵襲以上に、精神的侵襲にあり、それが極めて深刻なものだという考察が前提とされている。(さらに、DVに対して行われることは、隔離、刑罰、損害賠償ではなく、改善プログラムに則った更生、教育であるということも感銘を受ける。優れて実務的な解決方法である。)
  即ち、DVによる深刻な精神的侵襲は、加害者の被害者に対する支配の構造の中で生まれるということを学ぶべきである。また、欲を言えば、この点をもう少し論述して欲しかった。
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この著作のDV加害の定義の「支配の契機」は、もっともっと考察されるべき示唆に富んだ主張である。これは、私の弁護士という仕事柄、響くものがある。
 刑事事件で、放火や性犯罪等、一見理解が不能な犯罪類型において、この被支配による閉塞感、圧迫感が犯罪の理由となっていることにしばしば遭遇する。例えば、暴力団員に虜のようにされ、犯罪への協力を押し付けられたり、無理な要求のために自分の生活の時間の多くが奪われたりしている。その人の犯罪をせず社会と調和して生きるという自己決定権や自分の家族と生活する等といった基本的な自己決定権を奪われているという場合がある。あるいは、過労死寸前の就労をしても結果が出ず、さらに仕事のための資格を取るために学校に通わされ、それがプライベートに大きく食い込み、休日も仕事や学習内容の報告をさせられるという、自分の時間のおよそ持てない状況があったという事例があった。職場帰り、上司に付き合わされて、費用の負担を命じられ、睡眠時間も奪われ続けたというケースもあった。
  このような事例において、自分を圧迫する張本人に対して反抗をすることができない場合(多うにして、威嚇により抑圧されているというよりも、張本人のために自分や自分生活が成り立っていると感じて反抗できないということが多い。即ち、表面的には自主的に従属している事例が多い。)、張本人ではなく、自分より弱い者、弱い状態(就寝中等)の者に対して、危害を加え、自分の優位さを実感して、溜飲を下げているように感じられることが多い。不適法に、他人の自由を奪うことで、自分の自由を取り戻そうとしている印象がある。
  支配が続き、閉塞感、圧迫感が常態化することは、人間の精神を侵襲するのではないか。特に、はけ口がない場合は、無力感、喪失感が増大し、蔓延化するように感じられる。生きる意欲、生へのモチベーションが病的に低下する状態となるという考えは、突飛なものではないと考える。その結果、合理的な思考ができなくなり、法律や道徳を守ろうとする意識や、他者への配慮が全くできなくなる。他人の人間性を侵害する行為をする時に、加害者の人間性も壊されていることが多い。

7
 DV被害者の訴えの内容は、このような被支配感を表現していることが多い。そして、実際に、一方加害者に、暴力や精神的暴力がないケースであっても、DV被害者が被支配感を抱き、苦痛に感じているのだ。これが「思い込みDV」というものである。もっとも、「思い込みDV」は、いわゆる「DV加害」に対応する被害ではないから放置して良いというわけではない。多くの場合、思い込みDVの当事者は、実際に苦痛を感じており、支配から抜け出したいと感じているのである。適切な対応が必要である。それを放置すると、「DV加害」と同様に精神的な症状が出現する。対処は、思い込んでいる当事者だけでなく、パートナーの理解と行動の改善が不可欠であると考える。悪いことをしたから改善するのではなく、もっと楽しく、充実した家庭生活を送るために、前向きな意味での改善である。パートナーに対する思いやりと置き換えても良いと思う。「思い込みDV」は、多くは、ホルモンバランスの変化や精神症状を伴う疾患、あるいは貧困等の直接、間接の影響に起因することが多いように思われ、思い込んだ当事者に責任がないことが多い。但し、その思い込みを助長する第三者が存在することも多い。
8
いずれにしても、「DV加害」の有無について、適切に認定できる能力のある機関を創設するべきである。「DV加害」のある事案については、手厚い保護と更生プログラムを強力に実施する必要がある。「思い込みDV」の事案については、思い込みを解消して充実した家庭生活を行うための、家庭再生的な、紛争解消、成長のシステムを構築するべきである。
9 補論1:少しだけ、支配、被支配について、考察を試みたい。
「なぜ、被支配感が強くなると、精神的な反応が現れてしまうのだろうか。」当初このように問題提起をしてみた。しかし、「当たり前」ということ以外、考えが思い当たらなかった。
  むしろ、動物としてのヒトは、自分の自由な決定で行動をすることに、安心感、自己肯定感をもつものだという前提を立てることの方が、思考順序としては正しいのではないかと考えている。
  古典的な労務管理理論がある。Karasekは、仕事の要求度が高く、裁量性が低い場合は精神的緊張が生じやすいとし、Johnsonは、これに加えて、周囲の支援が少ない場合には、更に精神的緊張が高まると指摘している。現在では、カラセック=ジョンソンモデルとしてひとつの理論とされることも多い。
  「あれをしろ、これをしろ」といわれて仕事の要求度が高く、「俺の言うとおりしろ。なに勝手にやっているんだ。」と言われ、裁量性が低く、「俺は稼いできているんだ。俺が家事をしたら主婦は要らないだろう。子どもがこうなったのは育て方が悪かったんだ。」と言われ、援助がないという家庭は、まさにカラセック=ジョンソンモデルを適用すると、精神的緊張の著しく高い家庭ということになる。
  この場に、暴力の契機がなくても、改善されなければ、言われた方の精神的な反応が生じてしまう。
  そうすると、「支配」ということは、こういう要素に還元できないだろうか。即ち、前提として、援助をしない、その人単独で作業などを完結することを命じ、責任もその人だけが負う。要求度は,その人の自由を侵害するほどの高い要求度である。しかし、その命令内容の遂行過程においては、その人の考えを排除し、言われた通りに行動をなぞらなければならない。
  これに対して、人間は、このような支配を受けると精神的な反応を示してしまう。逆に考えてみよう。第1に、何かをするにしても、助け合いながら作業を進める。ひとりで全てやらなければならないということをしない。第2に、その人の能力と時間、お金等、その人のできる範囲のことだけが要求される。第3に、その人が任せられたことは、原則としてその人の考えで進める。うまくいかず、その人が援助を求めたら、誰かが援助できる体制を作っている。責任をもって作業を行うが、結果についてはチーム全体で責任を負う。
  一見ぬるま湯のように見えるかもしれない。しかし、よくよく考えてみると、チームが長生きするための必須条件のようにも思えてくる。洞窟生活の、チームメンバーの代替のきかないギリギリの状態の中では、精神的緊張が高まり続けたら、チーム全体が死滅してしまうのである。だから、これが、厳しい環境を生き抜いてきた、ヒトという生物のあり方だったのではないかと思う次第である。
  21世紀の高い生産力をもつ人類が、これができない理由、特に職場だけでなく、家庭においてもこれができない理由を真摯に検討する必要があると思われる。そうでなければ大規模なコロニーが死滅へと向かってしまうだろう。

10 補論2:精神反応が、特定の対象に向けてのみ起きる理由
DV加害の被害者はもちろんだが、ランディ・バンクロフトのDV加害の定義に該当しなくても、DV加害の被害を受けていると思い込んでいる場合がある。パニック障害や社交不安障害、うつ病などの診断名がついている場合もある。しかし、そのパニックや、不安の対象がパートナーに集中、限定している場合が圧倒的に多い。どうして、精神症状が、特異的な対象に向けられるのか謎であった。この本を読んでヒントをつかんだような気がする。
被害者も思い込み被害者も、信頼関係を構築した上で話を聞いてみると、結局、ランディ・バンクロフトのいう支配の構造の中にいることに閉塞感、苦痛を感じているということが訴えの本質だということが多い。なるほど、その人との関係において、特異的に被支配の苦痛を感じているのであれば、その人に対して症状が集中することはむしろ当然かもしれない。精神症状というよりも、対人関係に対する精神的反応あるいはその後遺症なのかもしれない。

平成26年3月4日

 

妻の不安と夫婦喧嘩 愛するがゆえに争うことの対人関係学的理解

1 若い友人たちとの会話 
 先日、何人かの若い男性の友人と話をしていて、気づかされたことがありましたので、そのことからお話します。
奥さんが、いろいろとマイナス思考の発言や行動をするので、振り回されて嫌になるというのが、その時の話題になり、みんなけっこうその話に食いついてきたのです。中に、子煩悩な父親もいて、父親があまりに子どもに手をかけすぎるので、母親が怒る。これもどうしてなのかという、手をかけなくても怒るし、面倒だという話になりました。
さあ、対人関係学の出番だということで、私は、「おそらく奥さんは、不安を感じているのだと思う。怒りは、不安解消行動と考えられないだろうか。」と言いました。
すると、「どうして、不安を感じると怒るのだ。」という、最もな質問がありました。私は、「人間も、動物も、危険を感じると、逃げるか戦うかという反応を起こす。危険を感じた場合でも、個性がある。夫に対して擦り寄る人もいるのだろうが、夫から逃げ出したり、夫に対して攻撃して危険を解消しようという行動をする人もいる。」と言いました。「そういわれてみれば、怒って、こちらを攻撃して、服従させようとしているようだ。」と感想をいただきました。
そのうちの一人が、「それにしても、自分としては、親として子どもが可愛いので、手をかけている。妻がそのことで不安を感じるというのは、ちょっとどうかな。」という、これまた当然の感想をいただきました。
私は、「この不安は、理性的意識的に感じているのではなく、おそらく潜在意識で不安を感じているのだろう。いろいろな要因で、夫とふたりで夫婦という家族を構成していているけれど、その対人関係がいつまでもつづくのだろうか、どこかで夫から見放されてしまうのではないかという不安だとしたらどうだろうか。さしたる原因があるわけではなく、そういう危険を潜在意識的に予期して不安を感じているので、奥さんもどうしてイライラするのかわかってはいないと思う。でも、夫といるとイライラしてしまうんだろうね。」と言いました。
すると、頭のいい人がいて、「漠然とした予期不安ですか。なんとなくわかってきました。要するに、怒らなくてもいいことで怒っているのですね。こちらは、妻が怒っているから、なにかこちらに落ち度があるのじゃないかとか、怒るほうがおかしいのじゃないかと、真剣に捉えてしまうんです。こちらも、防衛意識があるのかもしれません。むしろ、言葉ひとつひとつに反応しないで、ああなんか不安なんだなと懐広く構えればいいのかもしれませんね。」と、教えていただきました。変な話ですが、妻がイライラするのは、いつまでも夫と仲良く暮らしたいという気持ちが出発なのですね。

2 尊重されていないという気持ちと不安、その解消方法
 
 離婚相談を受けていると、このように、親が子どもにヤキモチを焼くケースは多くあります。通常は、夫がやきもちを焼きます。妻が母親として育児に手がかかりっきりになることを面白くなく、不機嫌になったり、家に帰ってこなくなったり、浮気をしたりということで相談が始まります。ケースは少ないですが、妻の側が、夫を子どもに取られるという気持ちから、不満を募らせて児童虐待に近いことが起きたり、不安を解消するために夫のもとを去るというケースがあります。その時は子どもを連れて行くことが多いです。
  こういうケースは、古典的には、妻が夫の両親と同居している場合には、程度の違いはあってももっと多くあったように思います。ただ、不安の現れる形が少し違います。当時は、みんなで子育てをして、子どもを可愛がる、自分もせっせと家事をする、しかし、ある時、自分は何のために生きているのだろうと感じる。みんな、子どもを大事にしているが、自分は子どもの母親として大事にされているだけだ、自分というのはなんだ。子どもの召使か。自分は家族から、ひとりの人間として尊重されていないのではないか。こんな感じです。
  いずれにしても、これらの不安は、家族を大事にしているところから起こるものです。「夫婦であったり、家族であったり、いつまでも楽しく、充実していたい。しかし、自分が尊重されていないのではないか。これは、自分が家族から必要とされていないからなのではないか。自分はやがて、家族から追放されるのではないか。」という意識が、潜在的、感覚的に生じてしまうのです。自分の意識では、よくわからないけれど不安になる、よくわからないけれど、いらいらする。ということになります。だから、本来一緒にいたいにもかかわらず、遠ざかってしまうという悲劇が起きてしまいます。
  自分の不安の根源を知り、夫婦がよく話し合い、夫婦というユニットで、子どもを育てるという共通の目標を立てることで解決していくしかないのです。小手先の話で言えば、夫婦が子ども目線で、「お父さん、お母さん」と呼び合うのをやめるというのも一つです。きちんとその人の名前で呼ぶということも有効かもしれません。敵意がないこと、尊重していることを確認できる方法としては、こまめに、相手の良いところを評価することです。「ありがとう。」、「ごめんなさい。」、「それ買ってきたんだ、なかなかいいね。」、「うん、それいいね。」と肯定の言葉はたくさんあります。慣れれば、口にすることも自然になります。聞いている方は、尊重されているということを実感します。これだけで、家族生活楽しくなるなら、やらない理由はないように思います。
  相手の愚痴を懐広く受け止めるということは、なかなか出来ることではありません。その理由は、今度はこちらが責められているのではないかと感じて、防衛反応で、相手を怒ってしまうという反応をしてしまうという、私の友達の洞察もその通りだと思います。振り回されてしまうというのは、原因はわからなくても、共感する力、共鳴する力が人間にあることから、相手の感情を、自分も感じ取って共鳴してしまうというところに原因があるわけです。同じような気持ちになったり、同じように嫌な気持ちになるため、聞きたくないという気持ちになったりするわけです。振り回されてしまうという感情は、巧みな表現のような気がします。
  肝心なことは、これらの夫婦喧嘩は、そもそもが、夫婦でいつまで仲良く、充実して生活していこうという気持ちがあってのことなのです。愛し合っているがゆえに傷つけあう悲劇ということになるのでしょう。

3 不安の根源の一つの生育環境、虐待、ネグレクト
 夫婦や対人関係で、不安を感じやすい人がいるようです。もちろん、出産後のホルモンバランスの変化で、なかなか不安を解消することが苦手になっているということもあるようです。それから、疾患がある場合も、不安を感じやすいようです。
  しかし、どうやら、育ってきた環境によるということもあるようです。子どもは、親の無償の愛の中で育まれていく中で、人間と人間の中にいることで安心感を獲得することを覚えていくようです。その安心感を基盤に、社会に出て、家族以外の人との対人関係を構築していきます。まさに、歩き出した幼児が、母親を何度も振り返り、母親の元に戻りながら、また歩きだし、やがて歩く距離を進めていく過程に似ています。逆に、虐待があったとか、愛情を受けないで育てられた場合、人間と一緒に住んでいることに安心感を学習しないまま成人になる場合が出てくるようです。こういう場合、そもそも、夫婦という新しいユニットを形成しようという気持ちが弱いケースもあるようです。結婚をしても、絶えず、人間関係の維持に、潜在的な不安を感じている傾向になったりすることがあります。関係の集結の理由となりそうなことは、全て不安を感じてしまいます。だから、子どもであっても、憎しみの対象となる可能性が出てきてしまいます。
  自分の母親と折り合いが悪かった妻は、子どもを産んでみて、憎しみの対象だったはずの自分の母親の孤独を感じるようになるようです。そして、夫が、妻の母を尊重しないと感じることも、自分を尊重しないと感じてしまう要因となる傾向があります。母の孤独と自分の疎外感を重ねてしまうようです。夫との葛藤が大きくなりすぎると、やがて疲れて、夫婦という対人関係への帰属意識が薄れ、反動的に自分の母親のもとに回帰するようです。このようなケースは、妻と妻の母の折り合いが悪いほど顕著に起きるようで、あまりにも同じような事案が、見受けられています。
4 離婚が避けられないのならば、負の連鎖を断ち切る努力を
 そうして、夫婦が離婚して、子どもがどちらかに引き取られると、子どもは混乱します。ウォーラースタイン博士の実証研究の結果からすると、子どもは、あまり、父親と母親が別の人格を持った二人の人間だという意識はないようです。両親というひとつのユニットとして把握しているようです。
  このため、例えば、父親が自分の元から去ったとすると、今度は母親も自分の前からいなくなるのではないかという不安を生じさせるようです。子どもにとっては、どちらかがいればいいというものではないようです。その結果、対人関係上の自信、安心感を獲得することができなくなり、結婚しても、不安を感じやすくなるという、悪循環が生じるということが、放っておくと起こります。
  離婚の結論にあたっては、対人関係学スタッフ等、夫婦の対人関係を継続することについての不安の根源を突き詰めた上で、修復する手段がないのかを、慎重に検討するべきです。そうでないと、また同じことが繰り返されてしまいます。子どもがどちらかの親としか暮らすことができないという結論になった場合、もうひとりの親との関係が、円満に継続するよう、親としては、悪循環を断ち切る手立てを、踏ん張って構築してから、自由になることを考えるべきです。例え、相手が理解を示さなくても、子どものために頑張ったという事実は残ります。これは、親としての最低限の責任なのでしょう。ただ、自分ではできないという時は、理解のある第三者を探し出して協力してもらうということになります。そのような第三者と容易にアクセスできるようになる制度を対人関係学は提案します。
 (平成26年1月10日)

実家婚から独立婚へ、結婚観念の移行期間に必要な制度を作ろう



私は、大学入試で日本史を選択したが、私の入学した大学の過去問を見ると結婚制度の歴史を問う問題が何回も出ていて、過去問をときながら自然と覚えてしまったということが正直な事実である。その不確かな知識によると、平安時代ころまでの結婚制度は、婿入婚とか、妻問婚とか、要するに、男性が女性の実家に入り込んで、結婚生活を始めるものだったとのことである。貴族などは、その後、子どもを連れて、男性の実家に戻ったようだ。庶民は、どうだったのだろう。その後、武家社会の成熟とともに、嫁入り婚が主流となり、女性が男性の実家に、いわゆる嫁ぐ結婚形式となった。(ここに、男性の血統が、「家」となり、アジア的死生観が「家制度」に転化する条件が整った。このように宗教的な事情があるので、少なくない宗教に見られるように、女性に対するヒステリックな蔑視が行われた。これは、対人関係学的に見れば、女性の造反を恐れていたというような印象を受ける。)
現代社会はどうかというと、既に、嫁入婚の時代は終わっているということを自覚しなければならない。婿入婚の時代と嫁入婚の時代の共通は、どちらかが、どちらかの実家に入って同居することである。ところが、現代社会の多くが、それぞれの実家から独立して結婚生活を始めている。独立婚とでもいうべき新しい制度なのである。これまでも、部分的には、非主流の結婚形式は、決して少なくない割合で存在していた。しかし、その当時の主流の結婚形式が、その当時の結婚観を形成してきていた。制度が成熟した後は、主流の結婚観は明確なものとなり、その観念に基づいて行動することによって、とりあえず、誰からも非難されず、安泰が保証されていた。逆に、その結婚観から逸脱するような行動があれば、観念を共有する人々から、遠慮のない叱責を受けた。
それでは、現代の主流の独立婚の結婚観は、明確なものとなっているだろうか。私は、これが不明確であるため、我々は不安定な立場に立たされていると考えている。制度は始まっても、その観念が成熟していない。即ち、社会のコンセンサスになっていない。
 考えてみれば、客観的な結婚形式としては、家から独立して結婚生活を始めることは、戦前から少なくなかった。しかし、当時の主流の結婚観は、嫁入婚であった。戦後、いろいろな民主化政策が行われ、家制度は解体された。それとともに、嫁入婚の結婚観も否定される動きが活発となった。ただ、例えば、姓についても、まだまだ女性は結婚して姓を変えるものという意識が少なからず残存している。これは、嫁入婚の名残であるが、潜在意識に刻み込まれているものであるようだ。夫が、専業主婦をしているということも、極めて少数派である。女性は、自分より経済力のある男性を求めているのではないだろうか。異なる結婚様式の併存は、結婚生活における双方の考え方に対立を生じさせることがある。双方の対立は、その親同士の考えの違いを反映させ、増幅させることがある。結婚観が複雑に交錯してしまう。無用な疑心暗鬼、不安が生じる大きな要因にもなっていると思われる。
 ここで私が言いたいことは、だから、独立婚の形式にふさわしい結婚観を樹立するべきであるということではない。現代社会においては、嫁入婚から独立婚への移行過程であり、嫁入婚という結婚観と、それを否定する結婚観が、潜在意識のレベルで混在しているということである。このことを直視し、自覚することが必要だということを言いたい。また、嫁入婚という結婚観を否定する結婚観が、本当に独立婚にふさわしい結婚観となるのか、未知数であるとも考えている。単純に前制度を否定することが新しい制度にふさわしいとも思えない。そもそも、嫁入婚自体が、人類20万年の歴史の中で、比較的新しい制度であるからである。高々2000年の歴史に過ぎない。おそらく、婿入婚は、嫁入婚に比べると、圧倒的に長い歴史があるものと思われる。それ以前には、母系社会の形式の婿入婚もあったかもしれない。もう一言付け加えると、そもそも本当に独立婚は、あるべき結婚形式なのかということも、疑ってかかる必要もあるかもしれない。生物としての人間の健全な成長や家族運営にとって、独立婚はどこまで合理的なのか、どこに限界や弱点があるのかについても考察する必要もあると思われる。
 ともかく、現代社会は、異なる結婚観が併存している時代である。そうであれば、結婚様式(具体的な結婚生活のあるべき姿、作法、価値観)が定まらないのは仕方がないことなのか。そうではないと思う。むしろ、異なる結婚観を双方とも承認し、それに負けない結婚様式を構築していくことが、現代人にとって課題になっているはずだ。
 ひとつだけ、言わせてもらえば、実家も、仲人も役割を期待できないならば、その代わりになる制度がどうしても必要なのではないだろうか。落語の世界では、棟割長屋のおかみさんがその役割を果たしていた。都市の住人は、縦型の棟割長屋に居住しているが、おかみさんもいない。

平成26年2月5日

 

 

「正しい」夫の家事、育児が、思い込みDVを感じるまでに
妻を追い込む理由についての考察と、その予防方法と事後的対処方法の検討


1 とても不思議な離婚がある。傍から見ているとその意味がよくわからない。突如、妻が、子どもを連れて実家に帰るという現象がある。それまで、普通に家庭生活を続けてきたのに、夫を生理的に嫌悪し、夫と顔を合わせるだけでパニックになってしまう。
  夫に、目立った暴力はない。目立った暴言もない。むしろ、家事にも協力的で、料理も創意工夫して作ることができる。子育ては、特に自発的に参加している。夫の方は、妻子に出て行かれて途方に暮れている。子どもに会いたい気持ちを強く持っている。人付き合いには特に問題がない。
  このような事例が多くなっている。
2 何か理由があるはずだ。子どもを連れ去った妻を非難したり、精神的問題があるとばかり言ったりしても始まらない。
  こういう時、どちらかが、間違っているとか、異常だとかと言っていると、何も見えてこない。どちらの言い分も間違っていないとすると、どこかに必ず理由があるということから始めなくてはならない。また、どちらかが、言葉に出していない、説明しにくい問題があるという補助線を見つけなければならない。
  すると少しずつ見えてくるような気がする。要するに、家事や子育てを夫がすることと関係があるのだ。
夫は、妻のため、子どものために一生懸命家事や子育てをしたのだろう。家事や子育ては、女の専権、専属的な義務ではない。そのことは悪いことではない。これは異論ないだろう。もう少し突っ込む必要がある。家事や子育ては、必ずしも女性の方が上手なわけではないということだ。確かに、授乳は男はできない。しかし、それ以外のことについて、必ずしも、すべての女性が、全ての男性に優っているわけではない。部分部分に関しては、夫の方が上手にやれることはあっても当たり前だ。
ここで、夫と妻がチームとして、それぞれの長所を活かして家事や育児を進めていければ、何も問題が起きないだろう。夫が、自発的に家事や育児を行うのであれば、本来妻はその分自分の時間を持つことができる。夫はそう考えているはずである。
ところが妻は、必ずしも、その夫の努力に対して、100%喜びを持って受け入れるわけではない。

3 端的に言うと、出来すぎる夫の家事、育児は、妻を圧迫している可能性がある。
  夫は、善意で目をキラキラさせて、おむつ替えなどを行う。手際よく、排泄物を確認し、便器に捨てる。紙おむつを器用に丸めておむつ捨てに収納する。手を消毒し、家事に戻る。妻の腕の中で泣き止まない子供をそっと抱き上げて、器用に歌なんて歌って眠らせる。温度計を使わないで、風呂の41度と42度を区別し、少し水を足す。
 「うわあ、魔法みたい。」と、図々しい妻、夫を利用しつくそうとする妻はおだてるだろう。夫は有頂天になって、図に乗ってさらに家事、育児に励むわけだ。ところが、われらが、生真面目で、不器用な妻はどうだろう。夫が活躍するたびに、自分が夫より上手にできない現実を突きつけられていることになる。日中働いてクタクタになっている夫に申し訳ないと思う気持ちは、「俺は疲れているんだから、もっと上手にやれよ。」という非難を、つい予想して、後ろめたい気持ちや、何かの言い訳を探す気持ち、相手を非難したい気持ちになってはいないだろうか。これが現実に、洗い物が終わっていない台所を夫が面白くない顔で洗い出したり、窓のサンのホコリを指でこすって「掃除してるのか?」、とか、「なんで、片付けないんだ。」とか、うっかり言ったりしてしまったら、どうなるだろう。
夫が頑張れば頑張るほど、妻は追い詰められていかないだろうか。夫から自分への低評価、否定、という現実には起こらないはずの事態への予期不安が蓄積されていくことになる。
 こうして、いつしか夫は、妻にとって、その存在自体が、自分を圧迫するストレッサーとなり、追い詰められたような気持ちになっていったのかもしれない。
4 このように、顕著な暴力や暴言のない場合、妻は、架空のDVがあったと思い込んでいることがある。「私は、追い詰められた。人格を否定された。」しかし、その具体的な事実の指摘はできないことが多い。それなのに、暴力を振るわれたようなことまで言うことがある。実際は、暴れている妻をなだめていることが、妻の記憶の中で床に叩きつけられたと変容する。しかし、その場合も、どうしてそのような暴力が起こったのかとする質問に対しては、経緯を説明できない。実際には暴力は起きてないからだ。

5 もっと大きなことから把握しなければならない。現在は、世の中一般の価値観が激しく動き、新しい夫婦、家族の価値観が形成されつつある時代である。過去の封建的な男女関係と、共同して生活する夫婦関係の移行時期である。
封建的な価値観の時は、このような軋轢は一般的ではなかった。家事や子育ては女が行い、男は勤めに出て家に収入を入れる。妻の要請で子供を叱る程度であった。それが、コンセンサスを得ていた。この図式に従って行動して、相手の領分を犯さなければ、誰からも非難はされなかった。また、相手の領分を犯すと、利害関係のないはずの第三者からも非難された。「男のくせに。」、「女のくせに。」である。
このような観念は一部残っている。潜在意識の中で否定しきれないものがある。妻たちは、自分の役割感を持っており、それを果たせないことに、自己否定の感情を抱きやすい。夫がそれを気にしなくても、後ろめたさという気持ちをつい抱いてしまう。生真面目で不器用な女性ほどそうなってしまう。それから先は、個性である。落ち込み続ける人や、逆ギレして、先制攻撃に徹する人、様々な個性に合わせた表現をする。男は、ポカーンと受け止めるしかない。二人に原因があるのではなく、そういう時代にいるということを自覚しなければならない。

6 さらに、妻を追い詰めるのは、母性幻想。
  母親は子どもを愛するものだということ。夫の子煩悩ぶりを見るに付け、夫の方が子どもを大事にしているようだ。私には母性が欠けている。夫が子どもに手をかけるたびに、それは劣等感として蓄積されていく。やはり、夫の存在自体がストレスとなる。
しかし、子どもはチームで育てるものだ。特に人間は、母親だけが子どもを育てるようには出来ていない。子どもも、母親だけでなく、チームに調和して学んでいくように脳の仕組みができており、これは、他の動物を異なっている。猿じゃないんだから。いつまでも母性幻想を抱くことはするべきではない。
  仮に頭で分かっていても、子どもが夫になつき、自分と一緒にいてもあまり笑わない子が、夫と一緒にいると声を立てて笑う。夫は、自分が嫌なおむつ交換や夜泣きの対処も喜んでやっているようだ。自分は、子供に愛情を持てない欠陥のある人間なのだろうか。母親なのにという思いは強くなっていく。
  このように、夫が善意だとしても、妻は劣等感を感じていく。それは、主として夫の責任ではない。夫が、「女のくせに」とか、「母親のくせに」とか言うわけではない。それでも、過去の時代の結婚観、家族観の、遺物に縛られているのだ。そして、家事や育児に無邪気に励む夫は、その妻の劣等感を助長する。愛すべき、生真面目で不器用な妻たちは圧迫感を感じていく。前世紀の遺物が影も形もなくなれば、このような葛藤は生じなくなるだろう。

7 では、どうしたらよかったのか。
  封建的な価値観に戻り、男は家事を一切しない。そういうわけには行かない。それはそれで、不満が蓄積されていく。妻が働かないわけにいかないという事情も厳然としてある。
  相手に悪意がないということを自分に言い聞かせて、多くのことに対して我慢する。目をつぶる。これが、おそらく、多くの夫婦で行われていることだと思われる。しかし、顔に出さないということは至難の業だという場合もある。
  ひとつの解決方法としては、チームミーティングを行い、相手を尊重しながら、役割分担を行う。相手の領分に関しては、滅多なことでは口出ししない。それから、子どもの前では、絶対に相手の落ち度を口に出さない。子どもに対して、夫婦というチームの結束を強めるということである。子どもも、実は、父親と母親を区別して観察しているのではなく、ひとつのチームとして見ていることが多い。「お父さんとお母さんのどっちが好き?」と聞かれて、子どもが途方にくれるのはそういう理由があるからだ。そしてチームの話し合いでは、子どもの父親と母親として接しないで、名前で呼び合うということも有効かもしれない。
  もうひとつの方法としては、家事や育児は、妻を総監督として扱う。いちいち、お伺いを立てながら、妻を立てて、夫は行動してみよう。この時必要なことは、妻が劣っている、うまくやれていないので、自分が変わってやって良いかなどということを、絶対おくびにも出さないこと。「忙しそうだから、掃除してみようか。」、「台所にいて手が汚くなるから、俺がおしめ交換しようか。」等である。そして、妻が友人や、実家に、「私が言わないとなんにもしてくれないのよ。」ということを言わせるのを最終目標とする。
  夕飯が多少美味しくなることと、家庭が円満なのはどちらが良いか。飯がうまくても、家族がぎくしゃくしていれば、結局飯はまずくなる。
  具体的には、それぞれの個性に応じて工夫をしていくしかないだろう。肝心なことは、相手を尊重する態度を鮮明にすることである。大切なことは、結婚観、家族観の移行期間であり、両者の価値観が入り混じっている時代に我々は生きているということである。理想論はともかくとして、実際に生きているパートナーにふさわしい行動様式を、臨機応変に取る必要があるということである。

8 今となって、どうしたらよいか。
  すでに別居している場合はどうだろう。
  かなり、不利な状況である。多くの妻は、実家に帰っている。実家では、自分を育てた人の中にいるから、第1に、価値観が分かり合える。部屋が汚くなっていても、許容範囲が共通している。第2に、責任は親に転化できる。私がこうなったのは育て方が悪かったんだから、文句言わないでと言える。第3に、今の親の中には、孫を父親から話しても自分の手元に置きたいという衝動を抑制できない者が多い。要するに、親子関係は封建的に親を大事にしなさい、自分の子ども、孫の親の夫婦関係は、男女平等、独立した人格という「いいとこ取り」である。その結果、孫が健全に成長せず、人生を棒に振っても、孫は自分を喜ばせるものと割り切る。このような人として許せない人物像は、決して稀有な存在ではない。
  再度申し上げる。かなり、不利な状況である。それなら仕方がないと面会交流の実現に全力を挙げるというのも正解の選択肢の一つかもしれない。しかし、この点を解決しないと、面会交流の実現すら難しい。
  私は、一つ一つ巻き戻すしかないし、時間は意外に残されていると考えている。この種の女性の多くは、男性全般に対する不信感が根強いため、再婚をするとしても遠い先のことである。焦りは禁物である。
  第一に、相手を尊重する意思を鮮明にすることである。何かのきっかけが有り、相手方に連絡ができるのであれば、必ず、感謝の言葉をつけること。「子どもの面倒を見てくれてありがとう。」、「子どもが書いた絵を送ってもらったが、成長を感じる。大事にしてもらっていることがわかる。」とか、よく考えて、相手を肯定する部分を見つけるということである。相手は、それだけで、夫がだいぶ変わったなということを実感する。生真面目で不器用な女性は、返礼をしなければならないと考える。これは実感の程度に応じた返礼なので、それほど期待はできない。しかし、この積み重ねである。
  第二に、相手の不安となることをしない。子どもに会いたい気持ちはわかるが、押しかけていくと、心理的プレッシャーが強まる。気持ちだけ、当時の状況に戻ってしまい、パニックになる。空間的把握、時間的把握ができなくなってしまう。110番をしてしまう事例は意外に多い。
  第三に、第三者に骨を折ってもらう。こちらから相手に対して働きかけをしないことが続くと、良い思い出は忘れ去られてしまい、嫌なプレッシャーだけが、ふるいにかけられたように残ってしまう。しかし、本人が直接登場してしまうと、逃げ場のないパニック状況が蘇るだけである。共通の友人でも、裁判所でも弁護士でも、つながっていることが必要だと思う。簡単に離婚に応じてしまえば、とっかかりはなくなる。争いをしないことは、諦めることだ。上手に争いを利用することが鉄則である。極力争いを続けることが鉄則である。その第三者に、あなたを叱ってもらったり、あなたを制御してもらったりして、あなたがそれに従うことを、妻に見せることは、将来のふたりの関係を目で見て予想できることであり、効果的である。それを、相手に直接見せられないのなら、相手の親や共通の友人に診てもらって伝えてもらう。ここを伝えてもらうということが大事である。この第三者と妻自身を置き換えて想像してもらうことが必要なのである。
  第四に、相手を、子どもの母親としてではなく、個人として尊重する必要がある。難しいところだが、本人にも、自分の価値の多様性を自覚してもらうことが必要である。
  第五、反省を示すということである。家事、育児のできる夫が嫌われる理由は、それは、「正しい」からである。あなたが、医学的に、教育学的に、正しいとしても、それは対人関係学的には全く正しくない。論理的、生物学的に正しいことは、必ずしも人間の行動原理にならないし、価値観に合わないこともある。大事なことは合理性なのか、相手の気持ちなのか、相手の気持ちを踏みにじってまで追求しなければならない正しさとは一体なにものなのか。それが、腹に落なければならない。この点についての反省を示すことが大切である。
  相手の気持ちを考えずに正しさを主張することは、対人関係学的には、未熟な人間、未成熟な対人関係ということになる。相手を尊重することを第一に考えてこそ、相手は成長し、実力を開花する。相手と自分の成長を、逐一褒め合い、喜び合うことによって、成長は加速する。対人関係学的には、家族、学校、職場は、そこにいて楽しいことが出発点である。そこに帰りたくなって当たり前の関係である。その対人関係のためには努力を惜しまないという気持ちになっていくものである。
  それらを阻害する行動を自分がとっていたのであれば、具体的、率直に、指摘し、それが、相手をどのように傷つけたか、どうしてそういう行動をとってしまったか、これから何に気をつけて、具体的にはどうするかを示すことが必要となる。
  自分の主義主張はあるだろう。やはり自分の考える正しさを追求したいと考える人もいるだろう。真摯な検討が求められるところである。

  
平成26年2月13日

 

夫婦と離婚

 離婚、ないし家庭という分野は、対人関係学の最も取り組むべき分野である。しかし、離婚に至る経緯というものは、単純ではない。夫や妻の不貞や暴力という典型的な例よりも、妻が夫との対人関係を放棄し、離婚を望むという図式が多いように実感する。
 ウォーラースタイン博士は、離婚に至る事情というか、むしろ婚姻を継続する事情についても調査を行い、検討している。
 ウォーラースタイン博士は、順調な夫婦は「私たちにとって良いことか」という発想をし、離婚する夫婦はこの「私たち」という意識が薄い、あるいは全く意識していないことすらあるとする。そして、夫婦の第1番目の課題として、生まれ育った家庭からの自立を上げている。
 弁護士の実務経験から見ても、的を射た考察だと思われる。
 妻側が、離婚を決意するときは、妻は、夫との対人関係に見切りをつけている。夫婦という群れに帰属しているという意識はなくなっている。そして、はっきりした理由のない、いわゆる性格の不一致という理由の離婚は、この帰属意識の減弱が婚姻生活にわたって累積していっていることをいうようである。
 一度は結婚しようと思って結婚した男女であり、子どももいる場合であるのに、どうして所属意識が希薄になっていくのだろう。
 もちろん、はっきりした理由もなく、ホルモンバランスの変化で、コルチゾールの分泌が低下したのではないかという病的な原因もあるかもしれない。しかし、大部分は何らかの理由、少なくとも妻の言い分が有り、それに対して夫は気づいていないということが多いように思われる。
 妻の言い分とは何か、これを言葉にできる当事者は少ない。当事者が離婚を決意した段階では、言葉にする必要性を感じず、とにかく、生理的な嫌悪というしかないまでに夫を極端に拒否するようになる結果だけがある。実家に身を寄せると、それは決定的になる。ただ、それまでの間、妻は確実に傷ついているようである。
 どうやって、夫婦というチームへの帰属意識を優先させるか。それは、相互に尊重し合うということにつきる。気持ちの中で尊重するのではなく、形に表すということである。一番は、日常の肯定的表現である。無理に「愛している。」という必要はない。何かの行為に、「ありがとう。」と付け加えること、提案に対して「それはいいね。」と肯定することが基本である。いちいち言葉にすることが肝要である。言葉にしなくてもわかっているという意見もあるかもしれない。しかし、無反応の積み重ねは、自分の行為、努力が、評価されていない、自分が尊重されていないという危機意識を潜在的に抱かせるようだ。男性は、収入を得て妻に渡している場合、役割感、達成感を感じているので、この危機意識は抱きにくいかもしれない。
 相手の話を共感的に聞くということも、なかなか大変なことである。相手が嫌に思っていることを、聞くこちらも辛い。できれば、なかったことにして欲しいという心理が湧いてしまう。「それは、感じ方がおかしいのではないか。」と感じても、まずは、「あなたにとっては、当然そうだよね。」と言ってみよう。発言者が、一度、自分の気持ちが肯定されたと感じたのであれば、次のあなたのアドバイスは、何倍も効果が上がるはずである。
 なぜか、夫婦のあいだでは、対抗意識が出てしまったり、相手に対して、あたかも子どもが親に対して抱くような反抗心が出てしまったりするようである。無理を承知で言えば、相互に、相手の親のような庇護的な立場に立つことも、時々はある方が良いようである。
 このようなことにプラスして、夫婦なり家族として、一つの目標を持つことが、帰属意識を高めることになる。何でも良いようだ。子育ての目標でも良いだろうし、貯金額でも良いだろうし、食べ歩きの全店制覇の類でも、何らかの達成感のあるゴールを作るということは、自然と協力し合う体制ができてくる。仲良くしましょうと話し合うより、よほど現実的方法のようだ。
 家族は、自分が尊重されていると思うと、帰属意識が高まり、その結果として尊重してくれる家族のために役に立ちたいというモチベーションが上がる。家族は自分とは違う第三者ではなく、「私たち」という意識になるからである。
 比較的わかりやすいと思われるが、離婚を防止する方法は、マイナスを埋めるというのではなく、積極的に充実した家族の生活を作り出すことが最も効果的なことなのである。それには、ちょっとした努力、続けることで楽しくなる努力が必要だということになる。対人関係学の基本がここにある。

 

 

 

子育て、子どもの非行、いじめなど↓

コラム

いじめから子どもを守る家族力の作り方


基本は、話をさせるということ
なるべく小さい時から、子どもと話す時間をとるべきです。
  この時大事なことは、子どもの価値観を理解して、子どもに最後まで話をさせ、途中で遮らないことです。聞き苦しいことも、とにかく最後まで話をさせること。できれば、子どもの視線で、面白がって聞いて欲しい。子どもは、親が自分の話を聞いてくれることがとても嬉しいのです。そして、なんでも受け止めてもらえるということで、自分が尊重されているという満足感をもつことができるようです。何を話してもいいんだということを思い込ませることが大事です。
  お風呂の時間だったり、寝かせ付けの時間だったり、時間を決めて話をさせましょう。すると、子どもは、その時間が来ることを楽しみにします。話をしているうちに、だんだん話が上手になっていきます。国語の力も身についていきます。

結論を求めるのではなく、事実を語らせるということ
マニュアル偏重会社の事務連絡ではないのですから、結論なんてどうでもいいのです。子どもとしては、自分の話を夢中になって聞いてくれるということが、大人扱いされているようで嬉しいのです。結論を求めてはいけません。そもそも、子どもは、何かに感じ入って、それを親に話すのですが、自分でそれが何か気づいていません。このため、断片的な話がなされることがあります。そこに気づいて、話を再構成してあげるのは大人の仕事です。ただ、そんな高度なことまでは自分に求めずに、断片的でもなんでも、話してくれることを尊重する姿勢を明確にすることが大切です。

部分的共感の示し方
道徳的に、是正しなければならないことはあるでしょう。そういう時は、部分的な共感を示しながら、問題の所在を説明して、一緒に考えると良いと思います(部分的共感の手法)。
 「あのね、今日、やっくんの頭を積み木で叩いたの。やっくんが、よっちゃんの積木をギッてとったの、いつも乱暴なんだよ。だからね、その積木で頭を叩いたの。そしたら、泣き出しちゃった。」
 「やっくんは、悪いね。よっちゃんがかわいそうと思ったの?それはえらいね。お友だちの気持ちを考えることができるなんて素晴らしいことね。そうなの、でもやっくん泣いちゃったんだ?どう思った?」
 「悪いことやったんだから、仕方ないと思う。」、
「うんうん、でもそれだけかな?」(表情で誘導できる)
「やっぱり、ちょっとかわいそうだった。」
「痛かったら、泣くよねえ。」
「うん。」
「やっくんと一緒になっちゃうね。」
「明日、もう一回謝る。」
「えらい、えらいぞーっ! やっぱりパパとママの子だあ。」(頬ずり)
 子どもは、成長するものです。その時、その時の結果を、そのお子さんの人格的評価に決めつけないことが大切です。未成熟な部分を尊重することによって、初めて成長することの喜びを自覚することができるのです。もし、この時、「その積木で頭を叩いたの」の段階で話を遮ったら、積み木で頭を叩くことは悪いことだということは覚えても、誰かを庇おうとしたことまで、否定されたように思うでしょう。自分のやむにやまれぬ感情を親は理解してくれないという、未消化な思いが募っていく危険もあります。ここが、親のこらえどころです。親として、被害者の親には、無条件に謝るとしても、子どもが起こしてしまった事実は、まず事実として受け止めましょう。
 子どもも、後味の悪さを感じています。良いところと悪いところを大人が区別してあげ、悪かったところの解決方法を提示することで、子どもは安心を獲得します。また、自分の悪い行いも、親は受け止めてくれるということで、安心し、自信を持つことができます。再び人間関係に復帰していくことが可能となります。

友達の話を聞く
それから、噂話のたぐいでも、子どもの話す友だちの話は面白がって聞きましょう。そのためには、授業参観や行事の写真で、顔と名前を一致させておくとおもしろさは倍増します。ここが、子ども目線に立てるかどうかの試金石です。ほかの子も、その子なりにいろいろな条件のもとで、いろいろなことを考えて生きています。
 子どもは、子どもどうしでは、あまり警戒をせず、自分のプライバシーをさらけ出しています。また、子どもの観察眼は意外と鋭いものがあります。ただ、情報を組み立てる能力がありません。子どもの記憶してきた情報から、大人は、子ども以上にいろいろな情報を受け取ることができます。
 子どもの社会は、人間社会の原型を思わせるようで、興味深いです。乱暴者のように見えて、意外と細やかな気配りをする人。子どもながら、友達に配慮して我慢する人、それでもそこに言わせただけで怒られてしまうような貧乏くじを引く人、それでも言い訳をしない人、親との関係がうまくいっていなくて不安を持て余している人。親は心配しているけれど、実は他人の悪口を絶対に言わない人。のんびり育てられている人、追い込まれている人、人さまざまです。かなり多くの尊敬できる子どもたちを発見できます。
 これは、いざ、いじめが起きた時に、貴重な情報源となります。また予防のためにも活用できます。

いじめの予防の観点から警戒すべきお友達
今の子は、早い段階から小集団活動が始まります。クラス全体で何かするということが少ないように思えます。少なくとも、昔の遊び道具が空き地だった時代のように、学校が終わってからクラスのみんなで自発的に集まって野球や缶けりをやるいうことは無いようです。教室の中でも、特定の3、4人の子がグループを形成しています。これが平成のいじめの温床なのです。
 幼稚園の頃から、昼食を決められた席でとらないで、好きな人と一緒に座るという指導がありました。子どもたちは、一人になることの恐怖感から、午前中ずうっと必死になって、その日のペアを探していました。大変疑問でした。
 小学校あたりまで、親が警戒するべきは、異常に仲良しを迫る子です。シールや折り紙のたぐいのものですが、物を頻繁にプレゼントする。自分のグループを形成する。最初は居心地がよいのですが、見返りを求められます。いつでも、その子を優先しなければならなくなります。その息苦しさから逃れようとすると、いじめが始まるわけです。
 物を与える、行動をいつも共同することを求められる、排他的なグループを形成する、感情が豊かすぎる(すぐ泣く)、グループ内で序列が作られるということが要注意ポイントです。その後、いじめが始まってから気づいたのでは、遅いのです。
必要以上にひとりぼっちを恐れない
 排他的グループができる前に、警戒させましょう。このようなグループに入るくらいなら、一人でいたほうが良いのだということを教えてあげましょう。
  必ず、グループには入らない子どもたちがいます。また、グループを形成しなくても、結構、クラスの子達と話をしたり、一緒に行動したりしているものです。グループに入らなければいけないというのは、何かに植えつけられた観念なのです。人を見下すグループは、虫唾が走るということを教えましょう。
  それでも、ひとりぼっちは嫌がります。それでは、グループで何をしているのか聞きましょう。
 「そうだよね、ひとりでいるのは寂しいよね。」(部分的共感)
 「でも、ほかにもグループに入らない子はいないの?」
 「○ちゃん、×ちゃん。そういう子ばかりなんだよ。」(こらえる)
 「ふうん。ところで、△ちゃん達とはどんなことをしているの。」
 「休み時間にトイレに行く。あとは、噂話かな。」
 「楽しい?」
 「別にぃ。」
 「なるほど、今日どんな噂話した?」
 「□ちゃんが、△ちゃんのとこ行かないで、隣のクラスの子のとこに行ったとか。」
 「ふうん。どこで、そんな話するの、聞こえたら嫌でしょう。」
 「教室の窓のカーテンで隠して言っている。」
 「楽しくはないね。かと言って、一人にはなりたくないか。」
 「そうなんだよね。」
  こうなった段階では、実は危険な段階なのです。その子が、そのグループを抜けようとすると、グループは、徹底してその子を攻撃します。先ずは、わざとらしく、これみよがしに、こちらを向いてひそひそ話を始めます。私は、この段階で、教師と連絡をとって、グループからの離脱をサポートすることが必要だと感じています。学校がどこまで、いじめの発端を理解しているかによるのですが、この段階で徹底したサポートが必要とされています。
  うまい離脱の方法を、各状況に合わせて考え出さなければなりません。一つの方法としては、親を有効活用することです。
 「親から言われちゃって、昼休みに、この本読まなければならないんだ。」等と別行動をする言い訳に使ってもらうのです。グループ作っちゃダメだと言われた、メールは七時までって言われた。うち親きびしいからゴメンネ。ちょっと心もとないでしょうか。なかなか決定打は出ません。
  ただ、学校や幼稚園で、必要以上に、孤独の不安を煽る指導をしないで欲しいというところが、率直な希望です。小学校の班分け等で、本人たちの自由意思を尊重する必要があるのでしょうか。結構無神経な指導が行われているように思います。

家族が避難港という意識付、いつでも帰れる場所
いじめやいじめに近い状態で、子どもが学校に行きたくないという場合、最悪、無理して学校に行かない方が良いと思います。行きたくないなら行かせないという選択肢を常に持つべきです。どういう状態か見定めてからでも遅くはありません。
  また、学校へ行くという場合も、いつでも帰っておいでと言ってあげることも有効です。自分には、帰るべき家があるということは、自信になります。一人ぼっちでも、家族は、気にしないとういことも自信になります。親が、そんなことで悩んでいるなら、行くなと言ってくれることは、大きな活力になります。これと反対に、いじめられているといった時に、動揺してパニックになったり、なかったことにしたいように無視したり、逆に怒って叱りつけたりすると、子どもは行き場を失います。学校行って地獄、家に帰っていたたまれないという危険な状態になります。
  いじめの温床となるグループの子は、家庭に居場所のない子が多いです。自分が尊重されるということがなく、自分が親から見放されるのではないかという不安を抱えているようです。家庭で満たされない人間関係の継続性、安定性を、友達に求めてしまっているケースが多いように感じます。友達の人間関係も不安がつきまとい、自分から離れていくものに対して攻撃的になるようです。

使える資源(協力者)は使い尽くす
いざいじめが始まりそうになったら、すなわち、特定グループの追撃が始まったら、使える資源は使いましょう。
  家族は、まず、自分たちが資源であることを自覚しましょう。どんなことがあっても守りきるよということを、はっきり言葉で示しましょう。決して、面倒だなという顔をしてはいけません。
  先生に相談することも有効です。「いじめは確認できません。相性ということがあります。相手の子は、成績が優秀ですよ。」と、大抵は寝ぼけたことを口に出されます。それでもいいのです。こちらの掴んでいる情報を告げておくことが大事です。今後について警戒してもらうことができます。だから、すぐに、いじめをなくせということを要求するのではなく、子どもがこういうことで悩んでいるという客観的事実を情報提供するということが大事な姿勢です。学校に親身になってもらえなくても、問題意識は持ってもらいましょう。ここまで言って、問題が起きたならば、校長以下の首が飛ぶわけですから、問題を起こさないようにしようとはするわけです。
  この場合、一家族だけで、学校に行くことは避けるべきです。できれば、数人の子どもの親御さんが集まって、一緒に行ってもらうことです。この時も、大事なことは、客観的な事実に基づくこと、相手の子を攻撃するのではなく、問題を解消するためにどうしたらよいかという視点に立つことです。そして、同行してくださる親御さんについては、立ち会ってもらえば良い、という気持ちが大事です。それだけでとてつもない効果があるということは腹に落としましょう。はじめから、一緒に学校と直談判して欲しいというと、引かれてしまいます。立ち会って欲しい、立ち会ってもらったと言えば、安心できます。明日は我が子です。立ち会うだけなら協力できるとなるはずです。だから、日頃、PTAに参加することはとても大事なのです。いきなり、見ず知らずの人から協力してくれと言われても戸惑うわけですから。
  対人関係学のスタッフを有効活用するということなのですが、今はわたしだけです。場合によっては、弁護士に同行してもらうということもあるかもしれません。いきり立って、感情的になって怒鳴り込まれるよりも、弁護士がついたほうが、学校も安心する場合があります。
  子どもの方なのですが、いじめが完成しない場合、実はかばう子がいるものなのです。なかなか気づかれません。子どもから話を聞いていると、実は胸の熱くなるような正義感のあふれる優しい子の存在がちらっと登場するのです。子ども自身が、それに気づいていないのです。子どもは結構恥ずかしがり屋なので、よく考えないとかばっていると気がつかない場合があります。あるいは、気がついても自信が持てないということも多くあります。ここにも、結論を求めずに断片的でいいから子どもに事実を語らせる訓練は役にたします。そういう隠れた英雄は掘り起こすべきです。その子のお宅に行って、感謝を申し上げるところから、始めることも一考です。子どもにも自信を持たせるべきです。悪い人がいることはすぐに感じることができますが、良い人もいるということは、なかなか自覚できないものです。その子との接し方を指導すると、子どもたちがいじめを完成させないということもあるのです。意外と、そういうことは、大人が気がつかないだけで、結構あることかもしれません。
  スクールカウンセラーもいますが、単体では使い勝手が悪いです。担任など誰かと協同して行動してもらうように相談したほうが良いです。
  法務局の人権擁護課という強力なチームがあります。学校にも、フットワーク軽く話に行っていただけます。実は、いじめに関しては、方法がいろいろあるのですが、衝撃が大きすぎることから、解決に向けた方法を考える余裕がなくなるものです。
解決を信じよう ピンチをチャンスに変えよう

必ず解決します。どうかそれを信じてください。解決は必ずする。そのために、家族が結束する。そして、ひと家族で解決しようとせず、誰かを巻き込む。明日は我が身です。みんなで助け合いましょう。話を聞いてもらうだけでもよい。いろいろな人と手を組みましょう。
  いじめに対する大人の対処、いじめ対抗プロジェクトの結成は、今後のいじめの防止にもなります。また、大人社会において、今、あるべきものが失われているといういびつな状態も見えてきます。いじめを解決することは、いじめられている子どもたちだけではなく、世の中を変えて、行きやすい世の中を作るという運動でもあるのです。絶対に、あきらめないで、最後までやりぬきましょう

平成26年2月25日
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いじめ

1 いじめの問題が、事件が起きるたびに再燃する。いじめに対する取り組みが進み、いじめの実態が少しずつ明らかになってきており、関係各位が努力されている様子がわかる。
  しかし、議論の方向の中に、いじめを有史以来の人間の本性に根ざすものだということで、仕方のないものだと決め付け、制裁を強化して、威嚇によっていじめを防止しようという論理があることが気になる。
  対人関係学的に言えば、いじめは、人間の本性ではない。一定の条件の中で、対人関係が歪んだ結果として現れるものととらえる。子どもは、社会の影響を受けやすい。社会の歪みが、いじめという形で反映されているという見方をする。そして、威嚇による予防ではなく、対人関係学的に、緩やかな人間関係の形成に、本能的な喜びがあることを認識させ、そのような群れの力を学ばせ、人格を向上させる中で、いじめの下地をなくしていくという積極的な対応を提案する。人の命の尊さを教えることは結構だが、それといじめをしないことをつなげる理屈が必要だ。誰しも、その人が死ぬと思っていじめをしているわけではない。
2 さらに、平成に入ってからのいじめは、昭和の時代のいじめとは様相を異にしているのではないかと感じている。
  昭和のいじめも、それを正当化する理屈は全くなく、被害者は純然たる被害者である。ただ、少なくないケースでは、被害者に、いじめを誘引する要素がある場合があった。近年のいじめもそのようなケースがないわけではない。しかし、私が担当した事案や、広く報道されている事案は、被害者に誘引要素が全くない事案で、むしろ過酷ないじめが起きているというところに特徴がある。
  いじめの萌芽に立ち会って、対人関係学的な対応によって、いじめの完成を阻止した事案がある。

ⅰ そのケースでは、女子の仲良しグループから始まった。このようなグループが、クラスに数個あり、それぞれがランク付けされていた。グループには入れない子は、さらにランクが下という扱いになっていたようである。そのランクをつけていたのが、問題のグループのリーダー格の子であった。自然発生的にグループを形成したのではなく、その子が、自分の周りに、勉強が出来て、容姿が良いと思われる子を配置してグループを形成したようである。
   リーダーは、グループの維持に努力を惜しまなかった。シールの類をメンバーに配るなどということもしていた。当然、グループのメンバーの間には温度差があり、リーダーに対して積極的に追随していく子と、グループの形成自体にあまりモチベーションをもたない子がいる。いじめのターゲットになった子は、グループの付き合いはしつつも、無邪気に別のグループのことの接触をしたりしていた。そうすると、リーダーはこのターゲットに対して攻撃をするようになった。「私とあの子と、どちらが一番好きなの?」という象徴的な質問が発せられるようになった。
 ⅱ ターゲットの子は、このようなリーダーの問いかけなどから、次第にグループの中にいることが息苦しくなっていった。次第に距離を置くようになり、それをリーダーがさらに攻撃するという悪循環に陥っていったようだ。
   そのような中で、グループに積極的にならないターゲットに対して、リーダーは感情を収拾できなくなり、泣き出してしまう。追随者たちは、事情がわからないが、リーダーとターゲットの二人が対面し、リーダーが泣いている事情から、ターゲットが何をしたかも分からずに、ターゲットを非難して、攻撃をするということが起きた。その後は、ターゲットに一人で仕事を分担させることや、明示的な嫌がらせの他、わざとそれと分かるように、ターゲットを向いてグループ間で内緒話をする仕草を見せつけるなどということが日常的に行われるようになった。大人としては、あるいは、他愛もない話なのかもしれないが、子どもにとっては深刻なストレスとなっていた。
 ⅲ この時点で、対人関係学的な介入が行われた。先ず、家族との結びつきを強めるという作業を行った。家族が、子どもの疎外感や屈辱感に対して共感を持って受け止めるようにした。子どもに、発言を差し控えさせないための手段である。情報を収集することが肝要で、いざとなったら、大人の介入をしなければならないが、時機を逸しないための必須の方法である。何でも話せる環境をつくることは、子どもに対して、自分は家庭においては十全に尊重されているという自信と安心感を与える。帰属意識を高めていくことができる。大人目線での指導は、最終的に行えば良い。共感できる部分に共感することによって、安心感が得られ、それによって、大人目線の指導が効果的になるという好循環をうむことができた。次は、ターゲットが悪いわけではないという自己肯定感を意識的に強めていくことである。さらに、ターゲットからの情報によると、クラスに、同情を示す子どもたちもいるということがわかった。本人は、なかなかそれと気がつかないものである。適切な評価をターゲット自身にさせて、自己肯定感を強めていった。そして、肝心なことは、耐え切れなかったら、いつでも家に帰ってきていいのだということを決然と子どもに理解させる作業をすることである。帰るべき場所、帰属するべき場所は、家族なのだということを、子どもだけでなく、家族も共通の認識とした。嫌なことには終わりがあるのだということも認識できたのではないかと思う。
 ⅳ 少し、グループの分析をすると、リーダーは、二人兄弟であるが、上の子が成績がずば抜けてよく、習い事にも長けていた。傍目で見ても、親は上の子に力を注いいでいた。授業参観なども、多くの時間は上の子に充てていた。下の子も同じ習い事をしたりしていたが、途中で挫折している。親子関係を見ると、下の子は、親に対してかなりの媚を売っている様子が見て取れた。リーダーは、親子という対人関係で、自分が尊重されていないという意識を持っていたようだ。親子であっても、自分が努力しなければ、上の兄弟との関係で見捨てられるという危機感を持っているかのようであった。そのような対人関係的な不安があるため、友達にも、強い絆を求めてしまったのではないかと思われる。強く結びついていないと、自分が見捨てられるという不安感があったのではないだろうか。これが、グループに対する強度の依存的傾向を産み、ターゲットの行動に、強い不安感と疎外感を抱き、ターゲットに対して攻撃心に転嫁した理由ではないかと仮定した。
   ターゲットは、グループ内ではかなり上位の位置づけだったが、そのリーダーの格付けを争っていた子は、リーダーと同じような家庭環境だった。サブリーダー的存在ではあるが、リーダーにとって変わろうという意識もあり、この子が比較的冷静な対応をしていた。嫌がらせには参加していたが、リーダーを批判することもあった。
   ナンバー3は、明らかに格付けの低い子である。一緒に行動しても、あからさまに無視されたり、用事を言いつけられたりしていた。運動能力には長けていて、機敏な対応をする優秀な部類に属する子ではあるが、そのような位置づけに甘んじていた。サブリーダーに追随する傾向も見られた。
   このグループには補欠的な子もいた。よくわからないが、グループの正式メンバーに入れてもらえず、随時グループに帯同していた。この子が、感情をむき出しにして、ターゲットを攻撃していた。ターゲットとはあまり接点もなく、特に恨みはないはずである。この補欠的な子の攻撃は、グループの外にいじめが拡張する契機になりかねないものだった。いじめてもいい子だという認識がクラスに広まり、グループ外の子がいじめに参加すれば、いじめが完成するところだった。
   それぞれ、メンバーは、学校の成績もよく、親も社会的地位の高いとされている職業に就いていた。リーダーが、そういう子でグループを作ったということなのかもしれない。
 ⅴ 学校の対応は、予想した以上に冷淡なものだったそうだ。事態をある程度把握しているはずの担任は、意欲的に授業を行っているいわゆる力のある教師であった。それをいじめというか否かはともかく、数的優位を利用して、反論、抵抗を奪って、継続的に、ターゲットに心理的圧迫をかけているのであるから、大人の是正、指導が行われてしかるべき場面である。一方的な攻撃が行われているのである。それにもかかわらず、「相性」の問題だとして、対応をとらなかったのである。
   本来、対人関係学的には、学校の働きかけでいじめの萌芽を摘み取り、人格的成長に結びつけていくという方式が望ましいと思っている。教師を中心としたクラスという対人関係で解決することが王道だと考えている。外部者が、スポット的に介入することは、あまり効果が上がらない、あるべき姿でもないと思っている。
   今回も、学校に対して強い働きかけを行うか、ギリギリの状態だった。子どもや親が、それに対するデメリットを考慮したということもある。それ以上に、学校に対する働きかけをすることは、当面見合わせることとした。
 ⅵ 対人関係学的介入後、子どもは、明るさを取り戻してきた。グループを離れ、相変わらずの陰口のジェスチャーには悩まされたが、毅然とした対応をすることができるようになった。
   しかし、対人関係学やら何やらよりも、事態を救ったのは、クラスの子どもたちの対応だった。はっきりと、ターゲットをかばう子どもがでてきたのである。気にするなよと言ってくれる子は、クラスの問題児であり、協調が苦手な子であった。しかし、はっきりと、ターゲットを庇っていた。別のクラスの子からよくいじめられていた子は、ターゲットの押し付けられた仕事を肩代わりした。自分にも便宜を図れというリーダーの要求には、明示に拒否した。大人たちは、そうやって特別扱いされることで、グループから反感を買うのではないかと心配したが、事態は好転した。ターゲットへのあからさまな攻撃は、クラスの反感を買うことになるということで、抑止につながったのかもしれない。
   子どもたちの素直な対応が、いじめの完成を防いだという実例である。対人関係学は、間違ってはいないが、このような緩やかな人間のつながりの力こそが、対人関係の問題を解決するということを、しみじみと教えられた。
 ⅶ そして、年度が変わり、クラス替えがあった。リーダーと別のクラスにしてもらうことは、親から学校にはっきりと伝えた。驚くべきことに、同じようなことをした親がいた。サブリーダーの親が、リーダーと別クラスになることを希望していたというのだ。クラス替えによって、無事にグループは解体された。ターゲットは、個別に、グループのメンバーから正式に謝罪された。大人としては謝罪が甘いと感じたが、当事者がとても喜んでいたので、良しとした。新しい担任はベテランの教師で、話を聞くと、驚くべきほど、子ども達一人ひとりをよく見ていることがうかがい知れた。友達関係についても、適確なアドバイスをしてもらったようだ。
   ただ、すべてが解決したわけではない。平素は何の影響もないように感じるが、些細な子ども同士の葛藤があるだけで、「また、あの時と同じようにいじめられるのではないか。」という強い不安を覚えているようだ。これらのことは徐々に解決することなのだろう。また、それからしばらくして話を聞いてみると、グループを作ることは面倒くさい。一人でいても、そのほうが気楽だから、ひとりでいることが寂しいとは思わなくなったということも教えてくれた。当事者も成長していることが実感された。いつもひとりでいるのかというとそうでもなく、休み時間などは、普通にクラスの子ども達とコミュニケーションをとっているようである。依存的な人間関係から、緩やかな人間関係を形成するようになったのだろう。決して、ひとりぼっちではない。
   いじめの萌芽という、子どもにとっては辛い出来事があった。当事者は、それに負けず、あるべきクラスでの人間関係を構築できるようになったし、このことを通じて、家族の絆が強まった。なければない方が良い事柄ではあるが、特に子どもにとっては、危機は、成長のきっかけとなったようだ。

 

少年非行

少年事件は、群れと個人の関係がわかりやすく現れる。
例えば、ある集団の構成員が、他の集団の構成員から暴行を受ける。それに対して、報復をするため、集団的に、その集団に対して殴り込みをかけ、乱闘になる。負傷者もでるという事件があったとする。
これは、暴行罪や狂気準備集合罪に該当する刑事犯である。国家の規範、ルールを破る行為である。国民として、制裁を受け、秩序の回復をされなければならない違法な行為である。当該少年たちも、違法であることは認識している。しかし、あえてそれを破っているのである。彼らは、無法者なのだろうか。
実は必ずしもそうではない。彼らは、国に、自分が守られているという意識が極端に低い。むしろ、国というか大人社会が自分を苦しめているという意識を持っている。自分が尊重されていないという意識である。当然、国に対して帰属意識が弱い。このため、国のルールである法律に重きを置かないのである。
これに対して、彼らは、集団に対しては帰属意識を持っている。ある程度、自分という個性を尊重してくれる。いざとなったら自分を守ってくれる。だから、集団の危機は自分の危機であり、この危機を打開しなければならないということになる。国のルールは守らなくても、集団の掟は守るのである。
要するに帰属意識が、国に対してあるのか、少年グループなのかの違いである。存外、国に対する帰属意識というのは、対象が大きすぎて、自然発生的には生まれないものである。また、それでいいのだと思う。むしろ、家族だったり、職場だったりに対する帰属意識が、国家という抽象的な観念を想起させ、遵法を動機付けるのではないだろうか。合法的な群れに帰属させ、尊重されていることを感じることが、成長の鍵になるはずである。

 

児童虐待

児童虐待に限らず、痛ましい事件は多い。素朴な感情として、加害者に対して怒りは沸くし、被害者に対しては同情する。理不尽であればあるほど、その感情は強くなる。それは対人関係学でも当然のことである。
問題は、その後のアプローチである。対人関係学でも、秩序の回復は必要である。刑罰を否定するということにはならない。(但し、徹底すると、刑罰のあり方については疑問を呈する考えも出てくるかもしれない。)しかし、刑罰を科することは、不可避的に、刑罰を執行する人間、容認する人間への生のモチベーションに対する侵襲が生じてしまう。それややむを得ないことだとしても、対人関係学的アプローチは、重罰優先ではなく、原因探求こそが、まず行われることだと考えることである。児童虐待を知ること自体が、生のモチベーションを下げる効果があり、拒否反応を示すことは自然の理である。しかし、重罰を科することによって、次の被害を防ぐことにどれだけの効果があるか疑問である。
ヒトの20万年かけて培われた感情に逆行する行為は、必ず何か理由があるはずである。その理由を探求し、次の誰かの虐待を防止するために環境を整備することこそが、対人関係学のアプローチである。このためには、加害者の行動、行動に至る経緯、環境と加害者の個性に対して、部分的にではあれ共感を示しながら検討を重ねなければならない。極めて、生のモチベーションが下がる危険な行為ということになる。そのことを、十分自覚しながら、ことを進めなければならない。

母性と愛着、慈しむということ

対人関係理論によると、母性愛ということは、人間の場合は、他の動物と比べると、世に言うほど必須なものではなくなる。出産に伴う危険があるため、母親がいない子どもは20万年の歴史の中で、かなりの割合を占めていたはずである。また、人間の子どもは、猿などと違って、母親以外の人間の表情を察し、真似をする。共感、共鳴する力がもともと備わっている。
赤ん坊が可愛いと感じる気持ちが、群れの中の感情である。弱い者を慈しむ感情ということになるが、群れを強化する大事な戦力であり、その赤ん坊が即戦力となる頃、自分は第一線を退いている。だから、赤ん坊が無力だからといって、軽視するということはなかっただろう。むしろ、尊敬すら抱いていたと思われる。神からの授かりものというのは、20万年の歴史の大部分において、ヒトが感じていた素直な感情であろう。無力なものを守り、慈しむ気持ちは、ヒトの群れにおいて、必須の感情であったと思われる。従って、母親に限らず、父親や、群れの第三者であっても、赤ん坊の危機に対しては、我が身を挺しても守ろうとする感情が起こる理由がある。
但し、現実には、母親の感情というのは、また別にあると思う。それは、300日も、自分の体内の一部だったということに根ざしているのではないだろうか。自分の体の一部が、損傷したり、無くなってしまったりすることは、誰でも恐れるし、怒りを感じて防御するだろう。母親の子どもに対する、愛情、ないし執着は、自己と子が一体のものと感じている名残と考えられないだろうか。出産後も乳という自分の構成物を与えているのであるから、別々に所在しても、やはり一体のものと感じる傾向を助長しているように思える。やがて、子どもは成長する。異性であれば、不可解な存在として、自分と異なるものとして把握できる。しかし、同性の娘となると、なかなか、自分とは異なるものとしての認識をする契機は少ない。母親が娘をコントロールしようとすることは、自分の立ち居振る舞いをコントロールすることと同質のものがあるように思える。ただ、決定的に違うのは、娘は独立した人格であるので、コントロールされることに対する葛藤が生じるということである。

 

ノート

自殺の対人関係理論(ジョイナー)と対人関係学の目的

(文献の訳者にならって、理論の用語としては「自殺」という用語を使っています。)
ややこしい表題だが理由がある。対人関係学は、ジョイナーの自殺の対人関係理論に敬意を評して命名されているからである。ただ、自殺の対人関係理論と対人関係学の主張は異なるところがある。ややこしくて大変申し訳ない。

自殺の対人関係理論とは、自死が起きる要因として、自殺の潜在能力が高まることと自殺願望が高まることとしている。そして自殺願望とは、所属感の減弱と負担感の知覚ということである。所属感の減弱はそのまま理解して良い。負担感の知覚は、自分が生きていることが負担に重い、死んだほうが楽になるという感情を持つこととのことである。問題は、もうひとつの自殺の潜在能力の高まりということであるが、例えばPTSDの要因になるような死を想起させる出来事に遭遇したり、自分の体を損傷したりすること、外科医の治療も潜在能力を高めるとの指摘がある。
この理論は画期的な理論であり、この3要素に基づいて、客観的にその人の対人関係の状態に基づいて自殺リスクをアセスメントすることができ自死予防に貢献することができるというものである。自死予防に関わるものとしては、必読文献であることは間違いない。
だから、むしろ、理念的な問題ということになるが、対人関係学では、3要素はすべて同じものである場合が多い。
自殺の潜在能力を高めるものは、対人関係学では、自分の死の予期不安を生じせしめる事象ということになる。自分の生に対する否定の現象は、身体的な侵襲を伴わなくても、生に対するモチベーションが低下し、死の閾値が下がり、自殺の潜在能力を高める。これが他人の生に対する否定であっても、共感力、共鳴力によって、自己の死の予期不安を潜在的に生ぜしめている。他人を加害するものは、自己の生に対するモチベーションを下げ、自死に近づくのである。共感力、共鳴力は、反応であり、意識的に感じようとするものではないからである。
もちろん、対人関係学においては、生の否定は、生物的否定だけでなく、群れの中での位置に対する否定ということも含まれる。結局、死の予期不安を生ぜしめることにおいて変わりはないということになる。そうすると、群れから疎外される、所属感が減弱するということは、自殺の潜在能力を高めるということになる。生きていくことに負担を感じているということも、対人関係の中で尊重された位置にいないと感じている場合であることが多い。但し、群れを守るために、我が身を守る場合も、負担感の知覚であるとジョイナーは言うのかもしれない。それを自死という概念で括るか、そもそもの概念、考察の範囲の問題になると思う。
対人関係学の喫緊のテーマが自死予防である。追い詰められた末の死を予防しようというところにある。この場合は、対人関係上のその人の状態、変化を自死リスクアセスメントとして、客観的な評価を可能とするべきであるという主張になる。現実に、生に対するモチベーションが下がっているかどうかは、あまり問題としない。そのような状態が客観的に存在したならば、徹底的に手当をする必要がある。
死の予期不安、群れからの放擲というのは、あくまでも潜在意識にとどまることが多い。わけのわからない不安、焦燥感、活力の減退、自己否定等という表現になる。しかしそれは、死の予期不安、群れからの放擲の不安により、生のモチベーションが生理学的も低下している状態なのかもしれない。一度生のモチベーションが低下すると、脳幹からの上方賦活が減弱し、オレキシンの分泌が低下し、その結果モノアミンが作動しないという事態を招くのかもしれない。そうするとモノアミンを補うだけでは、状態は改善しない可能性がある。根本を治療することが困難なことがある。
そうであれば、自死の予防の根幹は、うつ病などの精神疾患の早期発見早期治療にあるのではなく、お互いの充実した生を尊重し助け合うというところに持っていかなければならないのではないだろうか。要するに、このための対人関係学なのである。

 

 

レム睡眠の役割から考える対人関係の力 うつ病、PTSDの予防のために
レム睡眠の役割から考える対人関係の力 うつ病、PTSDの予防のために

抄録;レム睡眠の役割は、覚醒時の情報を、危険の大きさを過去の記憶との関連付けにおいて仕分ける。危険に対する対処方法があることを実感した場合は情動が鎮まる。この対象方法が実感できないと、不安は「留保」として曖昧な処理をされることも多いが、この場合には不安は蓄積される。蓄積量は限界があり、許容量を超えると、不安解消システムが機能不全を起こし、その不安を呼ぶ危険の性質、蓄積の度合いなどの違いによって、多種の精神疾患となって発現する。これを予防するためには、不安の処理を進めるための言語的な問題提起の置き換えと、対人関係を利用した解決が有効であると考える。特に対人関係上の危険は、確実に繰り返されるという性質もあり、人間にとってその危険性が大きい。速やかな意識的対処が不可欠である。

1、レム睡眠について
私たちは、寝て起きて、朝が来て、目が覚める。夢は別として、眠っていたときの記憶は、ほとんどない。だから、意識していることではないが、眠りの質は、一様ではないらしい。(この章については、櫻井武「睡眠の科学」(講談社BLUE BACKS)の頁を括弧内に記す。)脳が活動を緩めるノンレム睡眠と、脳が覚醒時と同等に活動するレム睡眠とに大きく分けることができる。これらは交互に繰り返し、90分くらいのセットが4、5回繰り返されて、眠りが終わるということとのことである(P58)。
  レム睡眠時は、覚醒時と同様以上に脳が活動する。眼球が早く活動する。英語で言うとRapid Eye Movement ということでREM睡眠と名付けられた。この時、脳の感覚系や運動系が遮断される。例えば、雪山で眠ったら凍死するのは、レム睡眠時に、寒さに対応できないからである。また、奇妙な夢はレム睡眠時に見ているとのことであるが、運動系が遮断されているので、ゴジラになって暴れていても、となりに寝ている人を襲わなくても住むとのことである。(概ねP24以降)
  このレム睡眠の役割としては、櫻井武先生は、記憶の重要性に重み付けをして、情報の重要性を判断し、整理するシステムだろうと仮説を立てている(P224)。
  このレム睡眠の役割については、過労死のメカニズムの研究をされている佐々木司先生は、レム睡眠には情動を鎮める効果があり、特に「恐れ」という負の情動を解消することに貢献していると指摘する(月間保団連 2019.9No.1104 35~41 「現代労働者の披露の特徴を踏まえたうつ病者の睡眠と対策」)。このレム睡眠の効果は、4セット目、5セット目のレム睡眠がより効果的であり、まとまった睡眠時間の確保は情動を鎮めるためには必要であると、これは直接話しを伺った時に教えていただいた。このレム睡眠のメカニズムによって、血圧や脈拍数の低下等、体の日内変動がスムーズに行われ、副交感神経による体のメンテナンスが効果的に行われる。これがスムーズに行われないと、疲労が翌日に持ち越され、慢性疲労となり、疲労が蓄積されて、過労死の原因となるとのことである。
  もう一言付け加えると、情動とは、物事を認識した場合に生じる感情や、生理的反応として使われている。危険を感じた時の、恐れ、不安、怒りなどは情動の典型である。。

2 レム睡眠の役割についての問題提起
対人関係学の立場からは、櫻井先生の、レム睡眠のファイル整理機能に注目する。脳が勝手に、記憶の仕分けをするならば、どういう理由で、どういう基準で仕分けをするのかということである。これは、対人関係学からは、比較的簡単に仮説を立てることができる。以下、そのことについて述べる。
3 弱いヒトは、危険に近づきコントロールして利用する必要があったこと
対人関係学では、人間を他の動物と区別するものは、人間は、危険に近づき、危険をコントロールして、利益を得ているという点にある。確かに、カバの歯に挟まったものをついばむ鳥や、魚などがいる。おそらくそれは、ひとつの種類の危険への対応ではないのだろうか。人間は、火や刃物を使い、現代では自動車や高層建物等を利用している。生きていくために、危険に敢えて近づき、危険をコントロールしている。
  他の動物は、危険に対しては、原則的に、逃げるという対処方法を採る。それでも十分生存し、種を残してきた。ところが人間は、逃げてばかりいると、食料を確保できない。しかし、周りは、自分よりも強い動物ばかりである。危険に接近し、他の動物を攻撃し、危険を利用して、他の動物や自然環境から身を守ってきた。
  このことが可能となるためにレム睡眠の役割が必要だったと思う。
4 危険をコントロールする脳の仕組み

この危険のコントロールは、動物としては矛盾に満ちている。
動物としての人間も、危険を認識すると、脳の中で、海馬という機関から扁桃体という機関に信号が送られる。扁桃体は、アドレナリンやコルチゾールというホルモンの分泌を副腎皮質等に命令する。これによって、血圧や脈拍が上がったり、体温が上がったり、筋肉に血液をより多く流し、逃走や戦闘を容易にする。交感神経が活性化されるということであり、これらは無意識のうちに行われる。
だから、火や刃物を見ると、本来扁桃体が活動を指令するはずなのである。ところが、それでは、火や刃物を扱えない。私たちが火や刃物を扱う仕組みがあるわけである。それは、火や刃物の、安全な取り扱いを学習することである。火や刃物も、使用方法を守れば、自分を傷つけることはないという記憶を定着させることである。この記憶のシステムは、言葉の力が大きいと思われる。そして、指令を開始しようとする扁桃体を、大脳皮質、海馬が、大丈夫だよと抑制する。こうして、交感神経の過剰な興奮を抑える。不安を解消するための学習のシステムである。
もう一言付け加えると、記憶は、このように危険の有無が中心であるから、記憶される範囲も、危険回避の役に立つ範囲ということになるだろう。

5 危険をコントロールする仕組みとレム睡眠
レム睡眠中に行われる脳のファイル整理とは、この記憶の整理のことだろうと対人関係学は考えることができる。
  覚醒時は、過剰な興奮はないにしても、交感神経が優位になっている。生きるために、食料を確保し、外敵から身を守る準備をしていることになる。この時は、自分の外の情報をなるべく多く取得し、何らかの対応が迫られた時に、より効果的に、速く、強く、反応しようとしている。言葉での情報整理は、ある程度なされる。しかし、危険を感じることは、言葉ではなく、潜在意識的な反応であるから、その点については未整理なまま、外界との対応に追われることになる。
  これに対して、睡眠時は、外界との情報交流を、覚醒時に比べれば比較的必要としない。(または、必要としない環境が必要だ。)そして、その極限の状態がレム睡眠という短い時間である。感覚系と運動系を遮断し、その時点までの情報、記憶の整理をすることとなる。
  即ち、覚醒時に入手した記憶が、危険な記憶なのか危険ではないのか、危険であるとすると、利用可能か利用不能か、利用可能な場合の使用方法、利用不能である場合の対処方法、こういうことが仕分けされていると考える。(この逆に、利益や報酬といった情報も整理される。)この仕分けの過程においては、情報入手時の状況だけでなく、過去の記憶を引っ張り出して、関連付をして、再検討が行われていると考える。この記憶の多くは、通常は意識に登らない、宣言的記憶としては忘れている記憶である。記憶の再検討、仕分けが行われているとき、大脳皮質、海馬、扁桃体といった機関の相互作用が活発になっているはずである。この動きをスムーズにするために、眼球が激しく動くのであろう。何かを見ているのではなく、その筋肉なり神経を動かすことによって、大脳皮質、海馬、扁桃体の相互作用を応援、誘導している仕組みとなっていると考える。
  そして、記憶の対象が危険であると評価されれば、次回にその危険に出会った時の対処方法を想定しなければならない。このため、危険に結びつく記憶は重要なものとして位置付にしなければならない。対処方法を想定できなければ、潜在意識的に危険を感じたままになってしまう。これに対して、レム睡眠時に仕分けをすることによって、潜在意識に働きかけが行われ、安心についての学習が完成されることによって、情動が鎮まるとは考えられないだろうか。以下、具体的な仕分けについて考えてみる。
  まず、危険でもなく、利益にもならないことは、記憶から消去される。しかし、おそらく、そのような消去されてしまう記憶は少なく、膨大な量の記憶が蓄積されていると思われる。ただ、意識に上がらないだけだと考える。これらの記憶も、関連付において意味がある場合があるので、一応保存されている。しかし、危険性と結びつかないため、それほど正確には保存されていないし、通常は意識に登らない。
次に、危険があると評価された場合、その危険を利用することが可能であるか不能であるかが仕分けられる。利用が可能だとなれば、その対処の方法を過去の記憶などと関連付けることになる。目が覚めると、対処方法が、自然と習得されることがある。
次に利用が不能である危険だとすると、危険の回避方法の有無を仕分けることになる。そもそも危険に近づかない方法があるか、危険に近づいてしまったら、逃げることができるか、逃げる方法は何か。それらについて、過去の記憶と関連付けながら、危険の回避方法を探る。そうして、回避方法を見つければ、腑に落ちて(納得して)、情動を鎮める。
この時の危険についての対応は、過去の危険があった時の対処方法ではなく、この次、同じ危険が来た時に備えた、いわゆる予期不安に対するものであると想定したほうが理解が容易になる。

6 レム睡眠時の仕分けの具体例

具体的に考えてみよう。
割り箸を割いている時に、刺が刺さったとする。割り箸は危険だという記憶が残る。しかし、割れたところに触らなければ、刺が刺さるということはなかったという過去の記憶が関連付けられて、割り箸の割き方を慎重に行えば、安全だということが学習される。最初は、慎重に、ゆっくり割いていくだろうが、どんどん経験を重ねるにつれて、スムーズに割くようになる。学習が進むということである。

映画でライオンに襲われた人を見たとする。人間の持つ共鳴力で、自分が襲われたような危険を感じてしまう場合がある。襲われる危険に対して、ある人は、テレビでしか起きないことだと感じて情動を下げることができるかもしれない。また、ある人は、ライオンは、自分の住んでいる周囲では、檻や柵の中にだけいて、自分の近くには来ないということを学習していき、安心感を獲得するかもしれない。

津波の場合、どうやっても逃げることができない。津波を見た場合、なかなか安心感を学習することはできない。最終的には、津波は、突然襲うことはない。一分以上の揺れが続く大きな地震がある場合に津波の危険があるとか、必ずラジオなどで情報がくるということで、危険が具体化する前に対処するということで、安心感を獲得していくということになるだろう。危険に対する対処の方法を学習することが予期不安解消の有効な方法であろう。しかし、ここで感じている不安は、潜在意識的な非陳述的な記憶である。言葉による学習が重要ではあるが、それがストレートには不安解消にはつながらない。潜在意識に働きかけていくことが必要である。

7馴化という合理性に問題のある仕組みと留保という暫定的システム

不安解消の学習は、合理的なものとは限らない。
  例えば、馴化という方法がある。アメフラシの研究で有名になったものである。アメフラシは、物理的接触に対して、反応を示す。これは危険に対する対応である。これを、人為的に続けていくと、接触があっても、反応が鈍っていくらしい。接触が安全であると学習してしまったわけである。これが馴化である。実際に安全かどうかとは、本来別物であるはずなのに、危険に対する反応が鈍ってしまう。
  これと似ている方法として、危険が具体化するまでには、まだ時間があるという留保の態度ということがひとつの方法だと考える。これは合理的な場合もあるが、思い込みが強いだけの場合もある。この場合は、深層心理的には、危険を感じているのだが、無理やりごまかしているという側面がある。ただ、すべての危険の対処方法が合理的に確立しなくても、危険が害悪を与えないことが多い。必ず合理的に不安が解消されなければならないとすると、不安から逃れられなくなってしまう。このような暫定的なシステムも大いに役に立っているはずである。

8 不安の蓄積 悪夢、PTSD 、うつ、解離

態度留保のシステムは、現実に生きていく場合に、合理的な仕組みである。しかし、このシステム対象となる記憶の危険性についての対応方法が解決されない場合は、不安は蓄積されていくことになる。
 そして、後日の仕分けが行われているレム睡眠の時に、過去の記憶と関連付けられているとき、対処しきれない留保された危険の記憶が蘇り、悪夢となって目覚める。
PTSDのフラッシュバックも、こういうことなのかもしれない。言語による働きかけによって、表層的には危険が回避されたと感じても、深層心理の中で、危険を解消できないという場合なのではないだろうか。
  そのような過去の消えない不安の場合、スポット的に不安が再来することがある。その危険性が大きい場合は、対処の方法のない不安という潜在意識が全面に出ることになる。
  留保によって、不安は蓄積されていくが、人間の許容量の限界に達した時には、情報を感じる力を遮断しなければ、オーバーヒートということになってしまう。危険に対する不安解消のシステム自体が作動不全となってしまう。
  この許容量の範囲を超えて、危険回避のシステムの作動不全の状態が、生理的に生じた場合が精神疾患となるのではないだろうか。
  高所から転落した場合や、ライオンに襲われて気絶したような場合は、仮死状態となる。
  過去に、重大な危険を感じさせる出来事があり、留保のシステムが限界を超えて、その危険を感じた状態が蘇る場合がPTSDではないか。それほど重大な危険ではなくても、留保の状態が十分機能せず、なかったことにして対処しようとする場合には解離が生じる。
  また、留保の許容量がその人の限界を超えて、生理的な変化を起こした場合がうつ病エピソードということにならないだろうか。

9 精神疾患の予防のための方法 正しい問題提起を納得させる

精神疾患が発症してしまったのならば、適切な治療を受けるしかない。しかし、健康と疾患がこのように連続しているのであれば、あるいは健康と評価される状態の中に疾患の芽が存在するのであれば、これに対処することが、予防の観点から必要だということになるはずである。
  安心感の獲得の方法として、あるいは危険を利用するために、ヒトは言語を発達させた。逃げるという自然的な反応を回避しなければならないヒトは、言語の発達が不可欠だった。非陳述的な記憶だけでは、危険に対して逃げるという反応をすることはできても、コントロールして利用するということは不可能だったろう。要するに、許容量が限界を超えてしまうはずだからである。
  ひとつの方法として、言語を利用して、予期不安をおこしている危険の捉え方を、組み替えることである。
先の津波の例であれば、「津波が来たら」という問題提起を排除する。「一分以上続く強い地震が来たら」という形で、組み直す。そうして、危険に押しつぶされない方法を繰り返し、言語的に説明する。但し、言語的な理解をしたからといって、ストレートに情動を鎮めるわけではないから、これは繰り返し、時間をかけて行うほかはない。馴化という方法も、事実上働いているのであろう。
しかし、これは、必ずしも高度の訓練を要するものではない。母親が子どもに、自然に教えていることである。
テレビのライオンが怖いから眠れないとぐずる子どもに対して、母親の慰め方として、「お父さんがいるから大丈夫だよう。お父さんとおかあさんといっしょにいれば大丈夫だよう。」というかもしれない。これは、「ライオンが今襲ってきたらどうするか」という問題提起から、「両親とはぐれないようにしよう。」という問題提起にすり替えをしたわけである。
10 精神疾患予防のための言語的な働きかけ以外の働きかけ、アプローチ

今の例で、テレビのライオンが怖いと言って眠れない子どもに対して、母親は、あれがテレビのことだから嘘なんだよと教える。子どもの問題提起は、「ライオンが今襲ってきたらどうするか」というものである。これに対して、「母親は、ライオンは襲ってこない。」と答えているわけである。子どもは、言葉で安心するだけでなく、母親が心配していない様子を表情や声の調子で共鳴して、安心を獲得していく。言葉以上に、母親の様子を感じ取って、子どもは学習するわけである。
  ヒトの情動を鎮めるメカニズムとして、このような非言語の作用、対人関係上の作用が上げられなければならない。
  一つは、今述べた母親と子どもの関係のように、有効な対人関係を使って、不安を沈めていく方法である。
  もう一つは、説明の視点を変えただけかもしれないが、有効な対人関係に帰属することを実感することによる不安の解消を目指すということである。この説明はさらに二つの側面がある。対人関係学的に言えば、安心できる群れの中にいることを実感することは、それ自体が、安心感を獲得し情動を鎮めると考えている。もうひとつの側面としては、自分が群れの中で尊重されているということから、群れのために行動するという意欲を生じさせ、高めるということである。
  二つ目の側面は、群れにいることが危険の対象方法ではないけれども、群れのために活動しようとすることが、危険に対する反応を鈍らせる、抑えることができると考える。人間が生きる意欲を示すということは、個体として交感神経と副交感神経のリズムを整えて活動するということだけではなく、群れの中で役割を果たしながら相互作用を感じることでもある。個体としてのせいのモチベーションが下がる危険のあるとき、群れとしての社会性を高めることで、個体のモチベーションも回復させるということは可能なのではないだろうか。群れが個体に働きかけることが、個体の置かれている袋小路からの救出となると考える。
11 対人関係上の危険が深刻であること

対人関係上の危険は、物理的な危険よりも、個体に与える影響が避けられないという特徴を持つ。
  第1に、その危険が、学校や職場といった、毎日繰り返されるものであれば、予期不安は各自に現実化することとなる。危険の程度が小さくても、確実に起こる不利益は耐え難い。
  第2に、そうだとすると、留保のメカニズムはそれほど期待できない。家に帰れば大丈夫という留保のシステムは、次の登校時間、出勤時間が確実に来ることによって、わずかな時間の慰めにしかならない。結局、その個体は、常に不安を感じ続けていくことになる。
  第3に、翌日の侵襲は、新たな危険としての認識となる。仮に、留保のシステムがわずかながら作動したとしても、新たな危険の認識が襲ってくることになる。これでは、扁桃体が作動し続けることになり、作動のための資源が枯渇してしまうこととなってしまうだろう。
  第4に、対処方法がないにもかかわらずに、危険に近づかなければならないということは、生きる意欲を持ち続けることと明らかに矛盾する。生きる意欲を低下させなければ、対処ができないのではないだろうか。
  第5に、対人関係学に限らず、人間がどこかに所属したいという生理的要求があることは、広く承認されている(Baumeister [the need to belong])。対人関係が安心できる場所であるにもかかわらず、危険が確実視されるということは、潜在意識下に混乱を生じさせる。
  第6に、対人関係学的には、群れからの排除を想定させる、尊重されない体験は、やがて来る確実な死を予期させるほどの危険を潜在意識的に感じさせる。
  対人関係上の疎外感は、人間にとって、極めて有害なものであるから、速やかな意識的対処が不可欠となる。

平成26年1月27日

 

複雑性PTSD

PTSDは、アメリカの精神学会の診断基準であるDSM―Ⅳにおいて取り入れられた。「実際にまたは危うく死ぬまたは重傷を負うような出来事により強い恐怖、無力感または旋律の反応を起こす」病態をいう。
実際に死ぬまたは重傷を負うような出来事ではなく、DV等の継続的な虐待による同様の症状が出現するが、上記の定義に当てはまらないので、被害者が正当な治療を受けられないことも出てきている。このため、複雑性PTSDとして、新たな診断名が提起された。
対人関係学では、精神医学、あるいは心理療法の領域まで踏み込みはしない。治療をするわけではないからである。その範囲のスタンスということを、ご理解いただきたい。その上での話だが、PTSDと複雑性PTSDは、全く区別する必要がないというアプローチになる。
対人関係学では、PTSDとは、およそ人間の生が否定される場面に遭遇した場合、人間はその共感力、共鳴力によって、自己の死に対する強い予期不安を抱く。特に、その他人の生の否定が、人間によって引き起こされた場合は、さらには、自分が引き起こした場合は、あらゆる対人関係における信頼の基礎がなくなり、対人関係上の安心を獲得することができなくなると把握する。また、生に対するモチベーションが著しく低下する危険がある。
継続的虐待も、自分自身の尊重の否定そのものであり、群れからの放擲から確実な死への予期不安を生ぜしめいることである。生に対するモチベーションも低下する。要するに、両者は、端的に、死への予期不安に対して、危険がさり、安全な状態になった、自分の充実した生をおくることができるという生に対するモチベーションが上げられない状態、常に自分の死を警戒していなければならない状態ということで、違いは見られないということになる。

 

「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」Roy F. Baumeister Mark R. Leary
(Psychological Bulletin vol.117 no.1-3 january-may 1995)

偉そうに横文字を並べたが、まだ、読み切っていない。何よりも、文章が難解だ(私にとってかもしれない。)。エクセルでのチェックでも、必ず引っかかる特殊用語も多い上、適当な日本語訳がわからないものも多い。なによりも、ひとつのセンテンスで動詞が3つも4つも出てきてしまう。どうやら、要約すると、人は、もともとの欲求として、誰かとつながっていたいという意識がある。その欲求を阻害すると、心身に不健康な状態が出現する。というものらしい。実験結果や人間の行動様式など、検証に基づきながら論が進んでいる。重要な文献だと思うが、翻訳が無い。語学力のなさを悔やんでいる次第である。あまり説明をしなくても良いと思われるが、対人関係学からすると、その理論を強力に補強する理論である(と思う)。なお、ジョイナーの自殺の対人関係理論では、所収雑誌が間違って掲載されている。上記括弧内の雑誌が正解である。東北大学教育学部の図書館の書士の方に偶然見つけていただいた。感謝してやまない。

 

 

対人関係学的労務管理・パワーハラスメント

対人関係学的労務管理


1 これまでの人材・マニュアル型労務管理
 これまでといっても、有史以来ということではなく、おそらく、高度成長期の末期、バブル経済の時代に始まり、バブル経済の破綻から主流として定着している労務管理を、対象として論を進めることになる。
 この労務管理は、人材・マニュアル型労務管理というところが特長だと考える。即ち、労働者を資材のひとつとして扱うように「人材」と呼び、労働力の流動を国家政策の主要なテーマと位置づける。労働者個人の裁量の余地を狭め、マニュアル通りの行動を義務付ける。その場の事情に応じた適切な判断をすることは有害とされ、上司の判断を仰ぎ、事を進める。
 こういった労務管理のメリットは、合理的、合目的的な行動を保証する。そのため、労働力を削減できる。一定の作業成果が予想され、統計的手法に基づいた計画を立てやすい。熟練が不要となり、新規労働力が即戦力となる。企業秘密が保たれる等がある。従って、この型の労務管理も、妥当する職種があることは否定できないかもしれない。

2 人材・マニュアル型労務管理の弊害

対人関係学的に言えば、ひとつは、このような裁量の範囲が狭く、具体的な支援が少ない作業内容は、労働者のストレスを強化する(ジョンソン、カラセックモデル)。このモデルは、現代においては、古典的な労務管理の議論となった。
  さらに、マニュアルという方式は、現在の使い方では、非効率的な部分を看過しえない。なぜならば、マニュアルは、過去の限られた体験の中の、いわば死んだ情報を体系化したものであり、必要と思われる範囲の最大公約数が記載されているだけだからである。このマニュアルに縛られて、発展を阻害するというデメリットもある。現場の労働者は、マニュアルがあっても、現実の労働、特に顧客対応に、不自然さ、不合理さを感じている。
  また、上司の意思の具体化を至上命題にしてしまうと、その上司の考えから一歩も前に出ないことになる。異なった観点からの改革をしようとすると、企業から排除されることとなる。一言で言えば、独創的な商品、サービスを生むことが著しく困難になる。
  対人関係学から言えば、一番の問題は、労働者が企業利益を上げるよう労働することのモチベーションが生まれないということである。むしろ、このようなモチベーションを、最初から放棄し、マニュアルや上司という型の範囲内での労働だけを期待しているように思われる。現代の労務管理は、このような積極的な行動へのモチベーションを諦め、その代わりに、雇用不安を利用し、労働者に生活の不安定を提案し、雇用継続のために、積極的にマニュアルや上司の判断の型にはまって行かせようと誘導する。
  このような観点からすると、現代日本の状況は、生まれるべくして生まれている。多くの労働者が、過労死、過労自死に至るということは、深刻な事態である。日本経済全体から見ても、他の業種を犠牲にし、痛みを伴わせて進めようとした、IT産業等による輸出重視型経済政策も、一定の成果を見ているにもかかわらず、それが国家全体の利益に結びついていない。家電メーカーは、国際競争力を失い、低価格競争を迷走している。そうして絞り出した全てが、円高により崩壊する危険が厳然として存在している。
  失っているのは、独創性、自発性による生産性という、日本経済が世界の中で優位であった頃のセールスポイントではないのだろうか。不況は、自然発生的に起きたのではない。好況時からの企業の過剰な予期不安が、縮小再生産という悪循環を招いたように感じる。
  社会病理的には、企業の自然な道徳が欠落し、コンプライアンスということを意識的に追求しなければならない状態となった。頭脳流出も当たり前のようになっている。クレーマーが発生している一因ともなっている。

3 対人関係学的労務管理

 対人関係学的労務管理は、ひとりひとりの労働者の企業に対する帰属意識を高めて、企業利益を図っていくことの自己決定を促し、モチベーションを獲得していくという観点を導入する。
  企業が、労働者を尊重することによって、労働者は企業に自分を受け入れられているという実感をもつことになる。企業が自分が帰属すべき群れだという考えに達した場合、企業の利益と自分の利益が合致する。自分が企業利益のためにできることを考え、行動するようになる。その際、裁量の余地を広げ、プラスポイント評価を行うことによって、帰属意識は高まっていく。これは実は、高度成長経済を生み出したホワイトカラー層の労務管理政策である。起源としては大正時代に発生したと言われている。社会政策的には、良質な労働力の確保という文脈で語られているが、それだけの効果ではなかったと考える。
  意識の高い労働力は、顧客情報に最も身近に、最も具体的に接している。わざわざ、マーケティングを外注して、統計的な分析をしてもらい、会社の方針に合わない提案を斬新なものとして受け止める必要がない。事情を熟知している従業員に、無理のない提案をしてもらうほうが実用的である。統計的分析は、あくまでも計数上の議論である。アンケートという手法は、必要な情報、不要な情報を混在させて、数字で糊塗するものである。
  このように、従来の人材・マニュアル型労務管理は、お金をかけて業者に結果を提案させ、労働者に結果を出せと指示命令する労務管理である。対人関係学的労務管理は、労働者に結果を出させるよう誘導する労務管理である。モチベーションの高まりは、独創性や工夫という日本が忘れかけている労働の復活を約束する。
4 対人関係学的労務管理とマニュアル

対人関係学的労務管理においても、マニュアルの存在は否定し得ない価値があると考えている。問題は、その使い方である。マニュアル通りの行動が求められている現場であっても、マニュアルの内容を徹底する以上に、マニュアルの目的を徹底することに力点が置かれるべきである。
  ひとつはそうすることによって、マニュアルの想定しない不測の事態、労働者から言わせれば日常の事態に、適切に対応できるようになる。
  それよりも重要なことは、形式的に自分が動かされているという意識を軽減することができるようになる。決まりには意味があるということを丹念に説明することによって、労働者は、自分が尊重されていると感じるようになる。
 こうすることによって、マニュアルを通じて対人関係学を学んだ労働者はクレーマーを作りにくいという利点がある。現実のクレーマーが生まれないということは、クレーマーの背後にある対応の不満をもった顧客の意識がかわるということである。その労働者と接することで安らぎや程良い緊張感を持つ顧客は、クレーマーではなくリピーターとなるであろう。


5 対人関係学的労務管理と部下の失敗(PMG)
対人関係学の真骨頂は、部下の失敗に対する対応である。
  失敗に対する事後対応の重要な一つは、再発防止である。これについても、再発防止は、ノウハウが確立されなければならない。今の労務管理は、この点が手薄である場合が多い。気合等の精神論で乗り切ろうとしているとしか感じられない。「集中力」という言葉はすべてを解決すると考えているようだ。そうではなく、失敗に対する評価、原因の分析、その結果得られる将来的な対策という3本柱を、当事者と上司が自由に検討しなければならない。企業としての改善ポイントが見つかるかもしれない大きなチャンスである。
  また、労働者の企業への帰属意識を高める大きなチャンスである。単に温情を示して感謝させるということで終わらせてはもったいない。失敗に対する反省を有効なものとすることによって、真の意味での尊重感、再生感を得ることができるのである。そして、失敗を土台に新たな成長を見込まなければ、大人の集団とは言えないのではないかとさえ考えている。PMG
( Post-Mistaking Growth )という考え方を提案する。

平成26年1月17日

 

パワーハラスメント

対人関係学からのパワーハラスメントの理解
 (私の弁護士のホームページにも考察があります
http://heartland.geocities.jp/doi709/powerharaforlabour.html )

1 パワーハラスメントが危険である意味
  職場という群れにおける、疎外の状態がわかりやすく現れる事象である。仕事を与えない、ことごとく否定をする、周囲の面前で罵倒する、見せしめのような恥をかかせる、長時間叱責する、反論、説明を許さない、不可能な作業、ノルマを強いて、できないとして叱責する。大声で叱責し、ばかやろう等の乱暴な言葉を発する。パワーハラスメントの具体的内容は、このような形で現れる。
  対人関係学、20万年の群れ理論からすると、一番危険なことは、当該労働者が職場という群れの構成員としての価値を有さないということを、継続的に伝えられることである。これによって、当該労働者は、その時感じる恥や屈辱、怒りだけではなく、潜在的に、「近い将来、自分がこの群れから排除される。」という予期不安を覚えることとなる。これは、潜在的、遺伝子的には、自分は安住の地から放擲されて、単独で死の蓋然性のある場所に向かわされるという意識と同様の心理的影響を受けることとなる。「なんとか、群れにとどまりたい。」、「群れの中で尊重されたい。」と希求するのだが、あくる日もパワーハラスメント受けることとなる。そうなると、潜在意識の中では、「自分が群れにとどまる方法がない。」という結論となってしまう。
  致死的な出来事、例えば高所から墜落する場合、自分の状況を認識した人間は、気絶をしたり、固まってしまう。対処不能の状況下においては、そのような反応により、死の恐怖を軽減したり、動かないことによる最後の生の可能性にかけることとなる。
  これに対して、日常的なパワーハラスメントは、実際の致命的な行動には移らない。予期不安が継続する。しかも、潜在的には確実な死に対する予期不安と同等になっていく。即ち、高所から転落して、決して地面に激突せず、やがて激突するに違いないという感覚を持ち続けることになる。
  この場合も、潜在的意識下において、死を受け入れる反応が生じてしまう。解離症状が出て、現実を否定する反応をしたり、うつ症状を出現させて、生きるという意欲を低下させる。(幹脳からの上方発火を低下させ、オレキシンの分泌を低下させ、モノアミン不足となり、交感神経が活性化しないという状況になるのだろう。その結果、活動性が低下し、摂食や繁殖の活動も低下する。緩やかな死の受け入れ作業ということになる。)潜在意識的にも、死を受け入れられない場合は、解決方法がなくなったという認識を持ちながらの解決方法の模索という活動が行われる。これは焦燥感として現れる。
2 パワーハラスメントの危険性と家族の存在
  群れの複合は、近年生じたものであり、20万年の人類史の中では、ひとつの群れで生まれ、ひとつの群れで学習し、食料を調達し、繁殖し、死んでいった。従って、ヒトは、群れから排除されるということは、他の群れに行くことで、その不利益を解消するという発想にはなかなかなれない。潜在意識的には、群れから排除されることは、死への単独行と同義である。
  もし、この状況を家族に告げることができ、家族も、経済的問題があっても、離職を進めるという場合は、ある程度解決に向かうことになる。群れを相対化して評価することができる。(しかし、既にうつ病などの発症がある場合は、うつ病の治療自体をしないと、死の受け入れが進行してしまう。)
  特に、労働者が男性の場合は、失職は、自分の死を潜在意識的に想起させるだけではない。家族を食べさせていく、食料などを獲得するという使命感を持っているので、家族に対する自分の役割の喪失という、負担感が増大する危険がある。家族に対する責任感が強い人ほど、そのような傾向があるようだ。私の担当したパワハラ自死事案は、すべての事案において、自死者は家族に対して強い責任感と、強い愛情を持っている。また、当該労働者にとっては、自分の受けている辱めを家族に知られたくないという気持ちもある。
  家族からしても、様子がおかしいと思っていても、疲れているのだと思い、納得することが多い。実際、パワハラを受けている人は、長時間労働に従事していることが多い。
  要するに、普通に家族がいたとしても、パワハラの影響を軽減することはなく、むしろ増大させることが多いのである。
3 パワーハラスメントが行われる背景
  人を精神的に追い込むパワーハラスメントは、行われる理由があって行われる。いろいろなタイプがあるが、多いのは、上司の不安である。パワハラの対象になるのは、ナンバー2の営業マンであったり、一般職のトップであったり、仕事ができる労働者であることがほとんどである。上司の心理は人それぞれであろうが、共通することは、当該労働者が服従をしない限り、当該労働者との人間関係について安心できないということである。だから、反論ではなく、説明をしようとしただけで、パワハラはエスカレートする。声は大きくなり、同じことが繰り返され、過去の失敗についてのコメントが延々と続いていく。明らかに、怯えているのである。また、上司自身は、自分の実質的な上司に対しては、全く服従的な態度をとることが多い。部下を罵倒していても、上司が部屋に入ったとたん、腰を曲げて、モミ手をして、にこやかな笑顔までつくり、声のトーンまで変え、全く別人となる。その豹変ぶりは、第三者を唖然とさせる。そのような対人関係の未熟さが、パーソナリティの偏りにあるのか、きつい会社からのノルマにあるのか、上司の焦燥感によるものなのか、それは様々なケースがあるだろう。
4 パワーハラスメントに対する対処、予防
  最終的には、弁護士を通じて、損害賠償請求や差し止め命令を請求することになるが、当事者は、そのような合理的方法に思い至らない。
  先ずは、愚痴を言える同僚を作ることである。その職場という群れからの疎外の効果を軽減させるために、最も有効であるのは群れの構成員からの再評価である。叱責を止めることを求めてはいけない。過大な要求は、相手の行動を抑止してしまい、自分の傍観者的な態度を合理化するため、「当該労働者にも問題がある。」、「上司の言っていることにも、あたっているところがある。」等という対応をしてしまうことが多い。だから、先ずは、上司のいないところでのフォローを期待しよう。自分が上司とは別の次元で、安全な立場で働きかけができるとすれば、上司のパワーハラスメントの不合理さについて、一番分かっているのは同僚である。自分の受けている状態が不合理であると認めてもらい、苦渋について、共感を貰えれば、「群れからの放擲、死への単独行」という図式は、大幅に軽減される。顕在的な屈辱感、疎外感が軽減されるばかりではなく、潜在的な予期不安の軽減に役立つ。
  実際のパワハラ現場は、このような隠然としたフォローもなされなくなっていることが多い。上司が去ったあとにも、かける言葉がないということもあるが、当該労働者が攻撃を受けてもやむを得ないという暗黙の敗北感が支配しているようだ。このような雰囲気は、当該労働者は敏感に感じ取り、孤立感を深める。だから、第1には、愚痴を言い合える関係を持った人を職場につくるということが必須である。
  次には、家族への帰属意識を高めるということである。群れは複数有り、代替可能な存在なのである。経済的に不利益になっても、死ぬことに比べればまだ対処できる。このことを当該労働者と家族が現在意識に乗せることが必要である。ところが、当該労働者は、なかなか家族には言い出せない。家族も、一度聞いても、直ぐに事態を把握できない。あまりにひどい話だと、「まさかそのようなことがあるのだろうか。」という、無意識の現実否定の感情を持つ傾向がある場合もある。有効な方法としては、職場の同僚に付き添ってもらって、家族の信頼できる人に話してもらうことということになる。対人関係学スタッフが立ち会うことも有効であろう。家族の役割として有効なことは、家族はどんなことがあっても、当該労働者を見捨てないと言明することである。そのためには、会社を続けることとやめることのメリットデメリットを数字で想定し、必要以上にデメリットを増幅させないことである。漠然とした不安が一番悪い影響を与える。具体的な不利益に対しては、人間は対処の方法を考える。当該労働者に精神的な症状が出ている場合は、精神科医やカウンセラーに相談し、必要な精神的体力の回復をするなど、来るべき事態に対して、対処することが必要である。
5 根本的な対応
  根本的には、企業の気風を、人と人とが助け合う気風に変えることだ。人が人を追い込む場面は、追い込まれた人しかわからない場合がある。厳密に言えば、わかろうとしない場合が多い。意識的に、助けあいの気風を作っていくことが必要だ。これは、例えば昭和40年代までには、多くの職場で支配的な気風であった。パワーハラスメントを起こすことなんてできなかったし、起きたとしても、制止や抗議が行われた。これが高度成長期末期から失われていったような気がする。だから、現代では、意識的に注入していかなければならないのである。
  では、どうやって、人と人とが助け合う気風を作るか。それは、ひとつには、横のつながりを重視するということである。企業は、このような機会を積極的に作り出すべきだ。ひとつには、長時間労働の是正が不可欠である。寝る時間や家族と過ごす時間を削らなければ横のつながりができないということでは、横のつながりは出来ようがない。また、頻繁ではなくても、従業員の家族が、別の従業員と緩やかなつながりを持つことも重要なこととなる。
  企業がこのような労務管理制作を転換しないのならば、労働者やその家族は、自主的に、意識的に、横のつながりを形成していく工夫が求められる。

 

 

その他

クレーマーと部分的共感


双方に悪意がない場合でも、客のコンディション、状況、事業者側のタイミングなどが発端となり、冷静さを欠く抗議、申し入れ等が一定数起きることは避けられないことです。しかし、そのようなイレギュラーな客の対応に対して、事業者が誤った対応を取ることによって、クレームが大きくなることがあります。不必要に大きくなったクレーム対応は、無駄な時間が費やされるだけでなく、他の客に対して悪影響を生じ、職員の士気も低下させます。継続的なクレームは、拡大していく傾向にあり、職員の精神面に破壊的なダメージを与えることも近時問題となっています。
クレーム処理の端緒で、誤った対応をせず、最小時間、最小ダメージで抑えることは、事業運営にとって極めて有益です。
また、このようなクレームに対する対応は、実は、人間と人間との関係をどのように考えるのかという、根源的な人間学でもあるのです


1 不正請求者とクレーマーは区別する
 
 まず第1に、クレーマーと不正請求者を区別する必要があります。
  不正請求とは、理由がないにもかかわらず、金銭的請求をする場合、あるいは、理由に見合わない法外な請求をする場合が典型です。その見分け方の一例ですが、例えば、賠償金額にこだわる場合があります。よくあるのは、請求金額を自分から提示しないで、接客側からの提示額に対して、「それがそちらの誠意か。もっと誠意を示せ。」と言って、金額のことを釣り上げていきます。金額のことを誠意という人たちがいるのです。あるいは、自分の意見として言わないで、「知り合いの警察官はこう言ったとか、会社の法律家に聞いたらこんなことを言っていた。あなたのお考えを聞かせてください。」と言って、金額をあげようとする事例もあります。極端な場合は、自分が被害を受けていないのにも関わらず、金銭賠償を要求してくる場合もあります。
これらのような場合は、ことを公にして、警察の協力もいただきながら、毅然とした対応をすることが王道です。


2 クレーマーの特徴
 
では、クレーマーとは何でしょうか。不正請求者との違いは、金額のことは言うのですが、冷静に聞けば、何か具体的な問題を抗議していることがわかります。
  接客側は大げさに聞こえているのですが、自分のことだけでなく、ほかの人への影響についても述べています。「わたしはいいけど」とかいう言葉や勢いも時折見られます。あたかも、自分は、弱者の代表だみたいな発言が見られるわけです。
  自分が社会的正義で、接客側が悪だと決め付けるような発言が続くわけですから、そのようなことを言われると、だんだん気が滅入ってきたり、逆に腹が立ったりしてくるわけです。
  そこで、こちらの対応を誤ると、しつこく抗議が寄せられたり、ブログ等で世間に公開されたりするわけです。

3 クレーマーの心理
「弱者の代表」ということはキーワードなのです。クレーマーは、「自分だけが損をしている。自分は馬鹿にされている。一人前に見てもらっていない。」等の疎外感を感じやすい人ということを言うことができます。
  対人関係学的に説明すると、このような疎外感は、大雑把に言うと、その集団から追放されて、裸で熊や狼の出る山に放り出される結果と同じような不安を招くということになります。これを、潜在意識的に感じ取ってしまうのです。
  ここにクレーマーの個性があります。
  多くの人は、第1に、不愉快な気持ちになっても、接客者と顧客という関係をそれほど重視しません。通常このような潜在的予期不安が高じるのは、継続的人間関係の場面です。だから、クレーマーは、一回性の顧客と接客業者との間にも人間関係を強く感じる個性を持っているという点に特徴があります。
  第2に、潜在的にせよ、不安感や、危機感を感じた場合、攻撃に出やすい行動型の個性を持っているということです。肝心なことは、同じ接客対応をすれば、同様に不快感として現れる、潜在的な不安感、危機感を感じる人たちがいるかもしれないということです。その危険に直面した場合の個性は多種多様です。クレーマーその人だけが特殊ではなく、ほかの人は、悲しい気持ちになって帰っている可能性もあるわけです。
  もう一つ、クレーマーの心理で、特徴的なところがあります。純粋に自分の不利益を何とかしろというだけで抗議をする人は少ないのではないでしょうか。社会全体を代表して抗議をしているところに着目するべきです。要するに、疎外感を感じやすいのですが、疎外されている、差別されているということを認めたくないという心理があるとは思えないでしょうか。
4クレーマーへの対処の原則
クレマーへの対処方法は、クレーマーの心理を突くことが鉄則です。
  待たせたとか、計算ミスとか、そういうこちら側の誤り、不適当な対応は認めたほうが良いと思います。ここで、ごまかそうとすることは、馬鹿にされたという意識を増幅させます。巨大な組織によって、個人を圧殺するのかということを言い出すわけです。ここの肯定の仕方は、部分的共感という、後に述べる技法を使います。
  しかし、否定するべきところは、大いに否定するべきです。
  「あなたを馬鹿にしているわけではない。」
  「あなたを後回しにしているわけではない。」
  「あ棚を尊重していないわけではない。」
  この点は、むしろ熱意を込めて、相手を圧倒する勢いで語りましょう。
  それから、人間対人間、個人対個人という姿勢も示しましょう。会社が迷惑かけて申し訳ない。私は、あなたのために、会社に掛け合う。ということですね。
  必要以上にへりくだることは逆効果です。担当者レベルであれば、人間関係の対等性を強調したほうが良いです。むしろ、役職者がへりくだりましょう。
  そしてお話しましたとおり、言葉では弱者の代表ということを述べていますが、深層心理、無意識のうち感じているのは疎外感なので、特別扱いをしましょう。その人への対応が遅れていたのであれば、「あなたの仕事を最優先します。」とはっきり言って、えこひいきをしましょう。対等だということを態度で示すわけです。
  逆に、絶対認めてはいけないことは、あなたをほかの人と比べて軽く評価していたということです。そんなこと言うわけがないと思われるでしょう。意外とそのような言動をしている場合があります。
  モンスターペアレントのように、学校の教師に土下座をしろと要求してくる場合があります。極めて理不尽な理由です。モンスターペアレントの心理もクレーマーの心理と似ています。自分だけが損をさせられているというよりも、自分の子供だけが損をさせられているという心理、やはり、疎外感、不安感です。
  過労死事件では、管理職の先生が、若い担任の先生に土下座をするように指示したとの認定がなされています。これは最悪です。モンスターペアレントの不安はその通りだ、あなたの子どもだから、特別に軽視したということを認めたことになってしまいます。否定するべきところは否定するということが一番重要です。
5 部分的共感の示し方

興奮している人間は、制御がきかない状態となっています。それでも、ころすぞとか火をつけるぞとかいうのであれば、110番するしかありません。そこまではいかないにしても、ややオーバーな表現を使うことがあります。
  せいぜい、20分くらいしか待たされていなくても、30分以上待っているぞと言ってしまいます。ここで、何分かを時間を計っていて、まだ21分ですなどといってしまうと、クレーマーに火を点け、油を補充することになります。
  時間数に共感する必要はありません。長く待っているということが本当に言いたいところです。「お待たせして申し訳ありません。」という一言が強力に効果を上げます。待たせられた時に、取るべき対応が取られたということで、自分の感情が肯定されたということから、自分が尊重されているという実感を持つことができるわけです。
  衣服などで、勧めた服が気に入らないという場合、きちんと説明する必要があります。「自分の大事な人が着用してとても感じが良かった。じぶんなりに一生懸命考えたのだけれど、お気に召さない服を勧めてしまい申し訳ありませんでした。」と、相手を、自分が尊重する人、社会的地位が高い人と同視していることを示すことも有効です。女性の人の場合は、年齢がその人より上の人を言わないことを厳守です。
6 部分的共感の効能

20万年の群れの中で、おそらく制御不能の怒りは、通常の場合、仲間には向けられなかったのではないかと思います。夫婦喧嘩を考えると自身がなくなるのですが、これは現代的(文明後)問題があるように感じています。
  クレーマーも、クレームの相手が、仲間ではないというところから怒りを制御不能にさせているのではないでしょうか。もう少し分析すると、社会から疎外されていて、孤立しているという自覚があるのではないかと思います。孤立しているという感覚は、被害者意識を増幅させます。そして、自分が発した言葉によって、さらに負の感情を高めていくように思われます。ここで発している言葉は、感情を正確に伝えているのではないということに注意するべきです。表現の一種として把握するべきです。
  私は、法律相談をしていて、とてもお気の毒な話を伺ったことがあります。相談者は、ある人に人生をめちゃくちゃにされたということを訴えているのです。ところが、あちこちの法律相談や人生相談みたいなところに行っても解決策がないということを聞かされ続けてきたようです。このように自分の感情を受け入れてもらえる場所がないと、自分が表現として発した言葉が独り歩きして、その言葉に支配されていく、選択肢がなくなっていくということがあるようです。私はその人に尋ねました。「それでは、あなたは、どのようにしたいと考えていらっしゃるのですか?」それに対して、相談者は、「その人を殺したいと思っているのです。」と回答されました。さあ、みなさんならどう返しますか?私は、間髪開けずに、「そうですよね。」と返しました。素直に、そのくらいひどい事案だったからです。そしてひと呼吸開けて、「殺したいくらい憎いですよね。」と付け加えました。私がその人だったら、殺したいくらい憎いだろう、でも殺そうとはしないだろうと、ひと呼吸の間に考えました。「そうですよね。」というところでは、具体的にそのあとどう続けるかは、正直あまり考えていませんでした。すると、相談者は、「いや本当に殺そうという気持ちはないよ。家族に迷惑もかかるし。」としどろもどろにではありますが、そう言ってくれました。
  ここでは、「殺したいくらい憎い」という気持ちなのに、その感情が誰にも受け入れられていないというもどかしさが募っていき、私のところで、「殺したい。」と感情を表現されたのだと思います。しかし、私の対応が謝れば、相談者は、「殺したい」という気持ちに支配されていき、「殺すか殺さないか」という狭い選択肢が頭の中から離れられなくなり、殺す手段をうっかり手に入れてしまうと、例えばナイフを購入してしまうと、「殺すか殺さないか」が、「ナイフで胸を刺すかやめるか」になり、「今日待ち伏せするかしないか」と、だんだんと具体性を帯びていき、最終的には制御できなくなる、という可能性もあったのではないかと思います。殺人や自死というのは、思いが強くなるというより、具体性が増していくことが危険だと思っています。自分を制御できなくなるということが本質なのです。
  相談者は、「殺したい」という言葉に対して、共感的に受け止められたことで、目を丸くして驚いていました。私に驚いただけでなく、そういった自分と、自分が言った言葉に驚いていたようでした。そうして、共感的に受け止められたことから、自分が承認されたという安心感を得て、私の解釈を後追いして、殺そうとしているわけではないということを強調されたのだと思います。自分の本当の気持ちを分析できる精神的余裕、社会のつながりを思い出す精神的余裕を呼び起こすことが、部分的共感の第1の効能です。
  第2の効能は、社会的に受け入れられる感情にすり替えるという効果です。もしかしたら、この相談者は、本当に殺そうとしていたのかもしれません。そのくらいひどい事案ではあります。もしそうだとしても、自分の感情を受け入れられたというできごとは、後の「殺したいくらい」という修正に、共感、共鳴してしまうでしょう。狭い選択肢を捨てることができるようになるわけです。この感情の修正という効果が部分的共感の第2の効能です。
  このような意味で、言葉とは、とても便利です。感情が言葉になるのだとしても、可逆的に、言葉が感情を動かすということもありうることだと思います。ただ、それが動くためには、文字よりも、共感の力が大切だということになるわけです。
7 なぜ部分的共感が難しいのか(油対応の例)

例えば、客がレジ待ちで並んでいる。レジのシステムを経営者がいじってしまったので、遅れがちになっている。客が遅いよとクレームをつける。遅くなって申し訳ありません。それくらいなら言えるかもしれません。しかし、上司がオーダーミスしてしまい、客の注文した商品を渡すのが遅れた上に、また最初からやり直さなければならない。客の注文の仕方も悪かったのですが、険悪な雰囲気になっています。客は、クレームを激化してきました。部分的共感を示すというか、素直に謝れば、大半は怒りを引っ込めます。自分の怒りが正当であると評価されれば、最低限尊重されていると感じられるからです。
  第1に、忙しすぎるという理由があります。共感を示し、一言謝る時間もなく、別の対応に追われているとなると、精神的余裕もありません。これは、経営者が考えるべきことかもしれません。
  第2は、マニュアルの機械的対応をしなければならず、そのマニュアルが、効率優先となっており、理由のあるクレームも排除しようとしている場合があります。マニュアルが良ければ、うまくゆくのですが、中には、クレームに火に油を注ぐようなマニュアルもあります。それをそのまま鵜呑みにしなければ良いのに、現場経験が少ないのにマニュアルだけ覚えさせられて対応していたり、マニュアル以外の対応をすると上司から叱責される等という場合はいかんともしがたいということになります。このようなマニュアル対応は、自分が企業からないがしろにされているという疎外感を増幅させるだけです。火に油を注ぐ、「油対応」ということになってしまいます。
  できる限り、理由という情報を提供することが第一です。そして、遅れていますという事実を指摘して、そのことについて謝るべきです。システムに問題があるならば、その場での対応は困難ですが、「改善を上司に伝えます。」ということはできるわけです。会社は迷惑かけているけれど、「個人的には」お客様のおっしゃるとおりだと思っているんです。くらいのことは言っていいのではないかと思います。クレーマーは、人と人との結び付きに敏感なので、このような人間的対応をされると、常連になってしまう可能性があります。あくまでも顧客としての常連です、クレーマーとしてではなく。
  第3は、自分の守りに入ってしまっているという場合です。自分が攻撃を受けているという感覚になり、潜在意識的に危機感を感じてしまう、しかも危機感を感じると攻撃してしまう個性だとなると、油対応になってしまいます。その人が感じている理不尽は理解できるが、上司やシステムに問題があるのだ「自分は悪くない。」という対応をしてしまうのです。そうなると、その人が感じている理不尽よりも、自分が感じている理不尽を強く感じて、攻撃に転じてしまうのです。まさに油対応です。「私はこんなに一生懸命やっているじゃないの、あなたの言っていることはできないって何度言ったらわかるの。」ここまで言う人はあまりいませんが、これに近い対応はよく見られるように思います。クレーマーが生まれる時というのは、知らず知らずこのような対応をしていることが多いようです。
  従業員は会社を代表して顧客と接していますから、会社の落ち度を顧客に押し付けるわけにはいきません。しかし、会社そのものではないから、個人的な意見を持つことはあります。この利点を生かさない理由はありません。結局そう言ってクレームが最小限度ですむならば、会社にとっても大きな損失を回避できるのです。
8 まとめ
クレーマーと決め付けて一概に敵視することは、クレーマーのエネルギーを増幅させることになるわけです。クレーマーへの対処方法によっては、むしろサポーターになる可能性を持った人たちです。また、クレーマーが出現したら、実際に抗議をしなくても、不快に思っている人たちもたくさんいると考えるべきです。クレーマーへの対処は、クレーマー以外の人たちへも同じように対応するべきです。相手に不便、迷惑をかけていたら、事実を提示して謝罪したり、理由を述べて見通しを述べるなどの、親身な対応を心がけるべきです。それが、顧客対応の向上となり、企業利益の追求にも合致すると考えています。

 

道徳と人権

 道徳教育の復活の動きに対して、道徳教育はけしからん、人権教育をおこなうべきだなどという議論があるようだ。
 対人関係学では、道徳と人権、そして対人関係学はほぼ同じの概念である。
 まず、対人関係学においては、人権とは、「対人関係の中で、尊重され、安心して帰属していられること。」ということになる。もちろん、法学的には0点である。権利は、国家概念を抜きにして語れないというのが法学的には正しい。ただ、国際人権規約を考えてみると、国家が人権を普及啓発しなければならないという形で、人権という言葉が使われている。その場合の人権とは何かという概念が不明確では、「道徳ではなくて、人権」ということを述べても、あまり力にはならないと思う。その人の生を充実したものとするためには、国家の力だけでは足りず、むしろ、私人の対応こそが決定的であることが多いのではないだろうか。表現の自由や、選挙権の平等についても、国家、あるいは政府、あるいは他の国民との関係で、ひとりの人間として尊重されるために不可欠な権利であると構成することは可能であると思われる。
 道徳については、語る知識を持ち合わせていない。ただ、対人関係学を広めようと、このようなホームページを制作したり、講演活動を行ったりすることは、どこか孔子が諸国を行脚する姿を想起させて、一人で悦に入っているところがある。それはともかく、人間の脳をはじめとする体の仕組みや、精神構造、歴史等がここまで明らかになった以上、それにふさわしい人間の倫理が提案されなければならない。現代に求められる道徳とは、科学的な、人間が、生を充実して送るための提案ということになるだろう。群れの共存は、群れの構成員が、尊重されることによって、より充実したものとなるはずである。
 対人関係学は、生きるということを価値基盤とする。第1に、生物として生きるということである。第2に、群れと共存して生きるということになる。そもそも、ヒトが、群れと共存してしか生きられなかったことから、群れの中で尊重され、安心して群れに帰属して生きることが、人の潜在意識に働きかけ、充実と安心を抱かせる。充実した生を生きることができる条件だと考える。お互いを尊重し、お互いの生を充実させる、これが対人関係学の理念であり、道徳である。さらに、どんな逆境、災害であったり、不況であったとしても、対人関係の力で乗り切っていく、充実した生活に変えていくということを実現させていくことである。
 そして、尊重される対人関係の中でこそ、人間は、自己の能力を最大限発揮し、より高次の充実を勝ち取ることができると考える。自分のためにというよりも、自分を含めた群れのためにというこそことが強いということである。

 

感動という感情


感情も対人関係学の対象となります。よく言われていることとしては、「笑い」は、緊張状態の急激な緩和とされています。無駄な緊張をしており、緊張の原因となったことが、実は存在しないということで、感覚をリセットする時に、自然発生的な笑いという現象が出るのでしょう。
 対人関係学的に興味を抱く感情は、「感動」です。どのような場合に、感動が生じるのでしょうか。もちろん、感情は人それぞれということが出発点にはあります。だから、その人の感情をすべて読み解くというより、どういう場合に、そういう感情が起きやすいかということになると思います。そう言った意味で、感動ということを考えてみます。
 ここでいう感動とは、心温まる感動です。
 例えば、一つの類型としては、家族だったり、恋人同士だったりが、色々な事情で離れ離れになったり、仲が壊されそうになったりする、しかし、当事者の必死の努力によって、再び人間関係を維持していくというものが多くないでしょうか。こう言ってしまうと身も蓋もないので、ピンと来ないかもしれません。
 また、誰かが、何かを成し遂げようとして成し遂げる。その際に、人間関係によって、支えられたり、励まされたりする。みんなで喜びを感じる。その姿に感動するということがあるでしょう。楽天イーグルスが、平成25年に初優勝しました。日本シリーズの最終回に田中投手が登場し、登場曲である「あとひとつ」を球場で大合唱したシーンは、もしかすると優勝以上に感動したかもしれません。期せずして起きたウエーブも感動的でした。
 また、仲間の誰かのために、命をかけて助けるという話も感動をします。それが、家族であればなおさらです。
 対人関係が生まれる瞬間も感動がありますね。プロポーズが成功したり、仲間が増えたり、赤ん坊が生まれたりと感動すると思います。
 個体として人間が生きようとすること、仲間と共に生きようとすること、対人関係的には同じです。壊れかけた仲間というのは、生きる意欲が失われます。それを作り直すということは、小さな、死の受け入れから、生きる意欲へと転ずることで、一種の再生ということになります。ここに感動が生まれる要素があるように思うのです。他者の生きる意欲の再生に、共鳴力を持って感動できる力がある。人間は、群れを作るように生まれてきているのではないか、人と人とが協力して助け合って、命を支えるようにできているのではないかと、つい対人関係学的には考えてしまうところなのですが。

平成26年1月17日

 

芸術作品への感動という感情




芸術、特に詩についての感動という感情

あくまでも、対人関係学の説明のために、対人関係学の立場から考えるとこうなるという話であり、哲学とか芸術論という大それた話ではありません。

精神科医に言わせると、世界的に著名で、歴史的に著名な詩人や文豪の多くが、何らかの世親的な障害があるということになってしまいます。パーソナリティ障害だったり、発達障害だったり、解離なんていう方もいらっしゃいます。しかし、対人関係学的に言えば、「障害」という言葉は、必ずしも適当ではないと考えます。「その人は、群れに対する協調性が強くない。」という理解の仕方をすることで足りる場合が多いと思われます。
それにしても、もし、精神的な障害のある人たちの作品であるならば、どうして多くの人の心を打つのでしょう。感動をする多くの人は、一般的な人たちであるはずです。むしろ協調性の志向が強い人が多いはずです。
私は、どんな人にも、程度の差はあるにしても、群れに協調したいという気持ちと、群れから飛び出したいという気持ちが併存しているのだと思います。あたかも月と地球が、遠心力と引力とが釣り合いをとっているようなものだと思うのです。
その人の「群れから独立したい」という気持ちは、「群れに協調しなければならない」という環境に、絶えず抑圧されていることになります。その言葉にならない気持ちが潜在意識に蓄積されているのだろうと思います。その潜在意識が、孤独感や疎外感の一つの要素になるのだと思います。
詩人が、群れに協調できずに、悩み苦しみ、詩を編み出すわけです。それを読み手の心の中の言葉にならない孤独感、疎外感が、その芸術のこころに共鳴するのだと思います。自分が大事にしているもの、価値観は、常日ごろ誰からも受け入れられない、理解されないと感じている。ところが、出会ったこともない詩人から、芸術を通して承認してもらったということになるのでしょう。それは、自分自身が受け入れられているという気持ちを与えてくれるでしょう。この感情が詩や芸術の感動の大きな要素なのではないかと、対人関係学は考えます。

平成26年1月30日

 

個性、性格の偏り

パーソナリティ障害、発達障害等、最近脚光を浴びている分野がある。常常感じていることは、誰にとって障害なのかということである。仕事柄、犯罪に至るパーソナリティ障害を持った人と接することがある。通常、犯罪者であっても、身内は情を示す。しかし、重篤なパーソナリティ障害の場合は、実の母親でさえも、逮捕されてよかったと感じ、面会にもいかない。長年苦しめられているし、こちらから情をかけると振り回されるだけだからということらしい。
しかし、このような明らかな(極端な)障害が無いにもかかわらず、障害を持つ者という必要があるのだろうか。誰にとって障害なのかということは検討されるべきである。
 対人関係学では、すべての個性、性格に意味があるものだと考えている。なぜならば、そのような性格が子孫の形成の中で出現したことは、人類にとって意味があるはずだということから出発するからである。実際、協調性というところをひとつとっても、周りに協調しない人ばかりでは群れは成り立たないのであるから、協調する性格が一件正しいようにも思える。しかし、協調する人ばかりでは、集団が滅びる場合も一気に滅びることになる。協調できない人がいることによって、立ち止まって考えることができる。また、群れの動きに不満を持つ人たちが、協調することが苦手な性格の人の行動で、溜飲を下げるということがある。芸術家や文豪は、いろいろ論者によって様々な病名がついている。芸術や文学が人々の心をうつ理由は、個体としての個性を発揮したいと思いながら、群れに協調する生活を送る通常人が、群れに協調せずに、発揮された個性に溜飲を下げ、観念の中で共感を抱くからではないのだろうか。実際、文明の発展は、現実を立ち止まって評価したところから始まる。その中では、群れに協調しない個性が役割を発揮していると思われる。
 群れは、鷹揚に色々な個性を抱えると、強くなるわけである。そのような余裕のある群れは、大きくなっていき、他の群れを牽引することになる。
対人関係学にとって、着目する性格は、危険に対する反応の違いということになる。同じ危険に対して、ある人は逃げ、ある人は戦い、ある人は凍りつく。逃げてばかりいたのでは、群れは衰弱していく。攻撃ばかりでも、自滅する可能性があるし、内部に向けて攻撃が始まる危険も高くなる。いろいろな構成員がいることによって、群れは生き延びる確率を高めているのである。
ただ、個性というのも、持って生まれた固定したものではないと思われる。同じ群れを作るアリやハチは、同じ遺伝子を持つクローンである。しかし、働くアリもいれば、働かないアリもいる。高温を感じると、ハチはすの周りを羽ばたいて、温度を下げる。温度が高くなるほど羽ばたくハチが増えていくのだが、最初から羽ばたくハチもいれば、最後まで羽ばたきをしないハチもいる。クローンの集合体ですら個性がある。そうだとすると、個性とは、案外、その時の群れの状況と、自分の役割によって、変化するのではないか。現在の、その人間の個性は、たまたまそのタイミングで出現している個性とは言えないだろうか。逆に言うと、人間は、自分を変えることができるはずである。今の自分の状態を固定的に見る必要はないということになる。

 

対人関係学と宗教 性善説・性悪説

対人関係学は、宗教と矛盾しないものと考えている。多くは重なっているのではないだろうか。
むしろ、対人関係学の発想は、宗教を理解するために貢献できるものと思われる。


性善説、性悪説

対人関係学での人間感は、そのままの人間であり、善も悪もないということが正確であろう。
ただ、本能的に、あるいは遺伝的に、人は対人関係の中で尊重されることに安心感を獲得するものだという命題をもつとしたら、あるいは性善説に近いのかもしれない。
善とは何か。対人関係学では、このような20万年をかけて培われてきたヒトの価値観を素直に体現し、相互に充実した生を送るために協力することということになるのだろう。
問題は、このような自然な価値観を阻害する現実の事情は何かということになる。また、自然な価値観を否定する行動をとっても、それは、その人間の生へのモチベーションを否定することになるのだということである。
対人関係学での悪はわかりやすいかもしれない。他人の充実した生を阻害することということになるだろう。それは、自分の充実した生をも阻害しているのである

 

ヒトの群れに不可欠な犬の存在


私は、それほど犬が好きだというわけではなかった。むしろ、子どもの時は、犬に襲われた経験から犬が怖くてならなかった。ようやく、大学生になったころ、ふと犬と戦っても勝てそうだと思ってからは、怖いという気持ちは嘘のようになくなった。そのころから、子犬に好かれるようになった。シベリアンハスキーの子犬はかなり体重が重いが、この子にじゃれつかれたときは、重さを支えることには大変苦労し、一緒に倒れたら怖いという気持ちはあったが、犬自体が怖いとは思わなかった。それはともかく。
私は、ヒトが平地で生活する条件として、ヒトが犬の飼育を始めることがあったのではないかと考えている。考えてみれば、犬ほど役に立つ動物はいない。嗅覚が鋭いため、肉食獣が近づけば、吠えてくれる。近づくといっても、人間レベルの近づきではない。犬の嗅覚の及ぶ範囲は広い。犬の吠える声を聞けば、肉食獣としても警戒して近づかないだろう。自然界では危うきに近づかないということが原則だ。もし、それでも近づいてきたとしても、犬がほえることによって、人間たちは身構える時間を作ることができる。貧弱な武器でも、群れを組んで対応すれば、そうそう、やられることもなかったはずである。犬が吠えてくれるおかげで、人間は、ゆっくり眠ることができるようになった。これによって、レム睡眠の時間を有効にとることができるようになり、さらに人間の知能が進んだはずだ。
また、犬は、本能的にチームを意識できる。自分が家族の下から2番目だという意識を持っているということらしい。その真偽はともかく、チームを意識していることは間違いないようだ。場合によっては、チームのために自己犠牲の精神を発揮してくれる。群れにとって、極めて都合の良い動物である。
もっとも、犬には牙がある。野生の犬は人間には慣れない。犬を慣らすということは、当初は大きなリスクがあったはずだ。それでも人間は犬を飼い続けた。ヒトが弱いために、犬の牙という危険へ接近する必要があった。危険に接近し、危険をコントロールして、大きな利益を得る。ヒトが他の動物と異なる要素を、犬を飼うということは、象徴的に現れしていると思われる。

平成26年1月28日