子育て・いじめ・虐待

 


子育て

子どもをいじめに負けない人間に育てる家族力とは何か

子どもをいじめに負けない人間に育てる家族力とは何か

子どもの心を強く鍛えるという発想は間違っています。
先ず、心を鍛えることはできません。

仮にいじめられてもパワハラを受けても傷つかないで平気でいられることは、
「いじめられたら傷つく心」が無くなるということですから、
人間らしい共感を持つことができなくなる可能性があります。
生きている喜びを感じない
無表情でのっぺらぼうの人間が出来上がる可能性があります。

子どもの心を変えるのではなくて
子どもを取り巻く環境を変えることが正解だと思います。

それには
「どこでどんな辛い思いをしていても
 家に帰れば家族は自分を
 仲間として尊重して迎え入れてくれる。」
ということをはっきりと意識させる
そんな家族関係(親子関係)を形成することが大切だと思うのです。

子どもが歩き始めた時のことを思い出してください。
それまで、すべてを親に依存して生きてきたのに、
自分の足で歩こうとするようになります。

最初は母親(父親)の周囲をよちよちと歩くだけですが、
徐々に母親から遠ざかるように
歩く距離を伸ばしてゆきます。

母親が見えなくなる距離まで歩いては、
心配になって、急いで母親のもとに帰ってきます。
帰ると母親がいる、ニコニコと迎えてくれる
という体験が心強さを作り出し、
もう少し遠くまで歩き出すようになるわけです。

「母親が自分を待っている。」
という安心感が、不安を消してくれて
さらに遠くへ歩き出す原動力になるわけです。

安心感を期待しながらも
自分が行きたいところへ行きたいという
「我」が出てくるわけですが、
最初の反抗期は、
そのような本人のかわいらしい葛藤を
垣間見ることができます。

次の反抗期は
幼稚園等で自分の関係が形成される時に出てきます。
自分と先生だったり、自分とお友達だったり
親が介在しない関係です。

親が介在しない関係の中で
叱られたり喧嘩したりするわけですが、
家に帰れば親がニコニコ迎え入れてくれるという意識は、
必要以上に臆することなく
「自然な形」で他人と接する原動力になるわけです。
歩き始めた時と同じことが起きています。

もし帰るところが無いという意識ならば
幼稚園での人間関係に強く依存してしまい、
些細なケンカがこの世の終わりになってしまいます。
無理をしてでも相手にしがみつこうとしてしまいます。

この時期もやはり反抗期の振る舞いが見られますが
自分と友達との関係を否定されたくない
自分の人間関係において共有する価値観を親との関係でも否定されたくない
という意識が根元にあるように思われます。

この頃から、親に話をしなくなる原因が
生まれてしまうことが出てきます。

それは、得意気に話をしていたのに、
親から簡単に否定されてしまうという経験です。

親にしてみれば
乱暴なことや不道徳なことをしている場合
反射的に注意をしたくなるものです。
自分の子どもがそんな危険なことをしているかと思うと
激しい勢いでなかったことにしたくなるのも人情です。

でも、ここがこらえどころの一里塚です。

ある意味、無理して話を最後まで聞くことが大切です。
子どもは話が下手ですから
要点を話すということはできません。

お友達を叩いたということを
誇らしげに話し出すかもしれません。
「そんなことをしちゃだめ」
と否定して怒り出すと
真実が見えなくなるかもしれません。

本当はそれなりの理由があったのかもしれません。
風船割のようなゲームをしただけかもしれません。
弱い者を守るために仕方なくしたことかもしれません。

「どうして」ということがキーワードです。
しかも非難の意味を込めずに
「それから」という合いの手のニュアンスです。
笑顔で「えー何でよ」
というのが最善かもしれません。

子どもは
話をすると叱られる
と学習すると徐々に話をしなくなります。
大人も同じですね。

逆に
自信のないところに共感を示されると
安心することができます。
色々な悪い出来事があったとしても
どこか共感できるところがあるはずです。
「共感できるところを探し出して共感を示す。」
という姿勢が大切なのです。
*1 思考ツールの「部分的共感」参照

そして興味を持って聞くということです。
お友達の名前は全部覚えましょう。
授業参観は面白いです。
子どもの人間観察力を確認するということもそうですが、
幼稚園でも人間関係がはっきりしていて、
誰がどのような役割を果たしているか
予備知識をもって観察すると
人間関係の勉強にはうってつけです。

なるべく子どもの親の介在しない人間関係には口出しせず、
アドバイスが必要な時は
選択肢を示すという形が良いと思います。
選択肢を示しながら誘導することが上策です。

親に話しても
否定されない
指図されない
という記憶は
親に話すことが快いという記憶になって行きます。

安心したいために親に話すという習慣ができると
小学生以降いじめのごく初期の段階で
情報を獲得することができるようになります。

お風呂に入っている時とか
寝かせつけの時とか
ゆっくり、多少のことに動じない覚悟をもてる時間帯に
お話をする時間として
この時間だけは何を話しても
否定されない
指図されない
という大事な時間を習慣づけることが良いと思います。

この積み重ねが、
第三の反抗期である思春期にも有効です。
思春期は、つがいになるための準備期間です。
親に否定されたくない。
指図されたくない。
という過剰防衛意識満載の時期です。

プライバシーは守るべきですが
どうしても我慢しきれなくなって調査活動を行っても
子どもに知られてはいけません。
秘密を暴くことは信頼関係を破壊し、
子どもは全てを親に隠すようになります。

こういう家族関係を作ることが
どうしていじめから子どもを守るのでしょうか。

それは、いじめの危険性の本質が
人間関係の分断、孤立にあるからです。

学校という一つの人間関係であっても、孤立は
本人にとって社会からの孤立と同じです。
先ず、家族に知られたくないという気持ちになります。

ここをうまく説明できる追い込まれた経験を持つ当事者はいないのですが、
家族からかわいそうな人間だと
一級下に見られること
そういう評価を受けることが嫌だ
ということらしいのです。

だから、失敗も過ちも
すべて受け入れてくれて
そんなときもどこか肯定的評価をしてくれる
という記憶が大切なのです。

それでも、相当な覚悟のもと
子どもたちはいじめられていることを話し出します。
親は、パニックになりがちです。
しかし、いざとなったら転校という手段もある
というくらい、へその下に力を入れて
大したことではないという顔をしながら
言葉では深刻な事態であるということに同調して
大変だったねとねぎらいながら
話を聞くことが必要です。

先ず解決をするよりも
親も子どもも休むところから始める
ということが大切です。

そしてかわいそうだからと言って
過剰に、はれ物に触るように扱うのではなく、
食事や入浴や睡眠は
普段通り進行させていくことが
一番癒されることになるようです。

感情に任せた行動は
事態を悪化させる危険があります。

ここでのまとめは、
いざというときに
子どもが親に打ち明けられる関係であることが
いじめの被害を最小限度に食い止めるということです。

そのためには、
子どもの自主性を尊重すること
具体的には
子どもの行動、特に親が介在しない人間関係上の行動を
否定しない
指図しない
選択肢を示して誘導する
ということを実践することだ
ということです。

いじめから子どもを守る家族力とは何か、どうやって作っていくか。現代社会では自然とできない事情があるようです。子どもを尊重することで作られる家族力、家族を尊重するとはどういうことか考えています。

いじめる側の分析 なぜいじめることが「できる」のか

いじめる側の分析 なぜいじめることが「できる」のか

<いじめることができる理由を探すことが第1歩>

いじめは、特別の子が行うのではなく、いわゆる普通の子が普通の子をいじめるところに特徴があります。したがって、どの子がいじめをする子どもなのかというありがちないじめ対策は、普通の子が行ういじめを防止することはできません。このため、普通の子が、いじめることを「どうしてできる」のかという視点が大切です。本来自分の身近なものが攻撃され、苦しんでいるならば、かわいそうだからやめるとか、「やめようよ」と言うとかするはずです。その共感を外す原理を考える必要があります。

<自分を守るときは、相手を攻撃できるとき>

人が人を攻撃することができる、最もシンプルな事情は、自分を守る時です。わかりやすいのは、自分が攻撃されているので、相手に反撃をして自分を守る場合です。相手の攻撃に合わせてこちらも攻撃をしますが、こちらの危険意識が強ければ強いほど、自分の攻撃によって相手を攻撃してもかわいそうだとは思わなくなります。かわいそうだと思うのはひとしきり攻撃が終わり、自分の安全性を確認したのちのことです。危険を感じた場合の危険解消要求がおき、危険解消行動としての怒りの感情が起きると、いわゆるストレス反応として思考能力が低下するので、相手の苦しみや痛みに対する共感力が著しく低下します。このためにかわいそうだと思うことがとても鈍くなり、攻撃が可能となります。つまり怒りは攻撃を完遂するための生理的ツールとしての役割を果たしています。

<厄介なのは仲間を守る意識の攻撃>

 自分で自分を守るときは、自分の危険意識が終われば怒りが収まり、共感力が回復していきます。ある程度歯止めが効きます。もっとも、この時も、ケンカが終わっても、相手が自分を攻撃し続けるという認識を持っていたら、表面的な争いが終わっても危険意識は消滅しませんので、怒りは持続することになります。周囲は、誤解や無用の人間関係の危険意識を解消する手立てをとる必要があります。握手という形式的なことではなく、問題の所在を突き止めて防衛が必要だという意識を解消することです。
 個人の問題は誤解が解けやすいので、しっかり対応すれば終わります。問題は、仲間を守ろうとするときの怒りはなかなか解けないということです。どうやら人間は自分以上に仲間を守ろうとするときに、怒りのパワーを強め、かつ、持続させるエネルギーを発揮するようです。仲間の誰かが、感情的になっている(子どもなら泣いている)時、それが仲間の自業自得であったとしても、仲間を助けようとして、相手を攻撃するということがしばしば起こります。この場合、実際の危機感以上に、勝手に仮想的な危機感に共鳴して、相手を攻撃することがあります。この場合、一人が攻撃参加すると、仲間を守るという意識が伝播して、次々に攻撃に参加するという本性を人間は持っているようです(袋叩き反撃仮設)。
 こうなってしまうと、自分たちは「正義」、相手は「悪」ということで、容赦のなさに拍車がかかり、かわいそうだと思う気持ちははるか向こうに追いやられてしまい、攻撃が過酷になります。

<異質性を探してでも相手を排除する>

現代のいじめは、異質な者が排除されて攻撃されるだけではなく、誰かの異質性を見つけ出して、強調していじめの対象とすることが多いようです。隙あればいじめられるという感覚をもって恐れている子どもたちが多くいるように思われます。
人間は仲間であればかわいそうだと思い、攻撃ができません。しかし、相手が仲間でなければ、かわいそうだという思いは後退し、攻撃がしやすくなるようです。あたかも仲間ではない人間は敵だという感覚を持っているようです。
現代においては、相手を敵視することによって、共通の敵を作り、一時的な仲間を形成するようなのです。これが空気を読む形で行われています。また、頻繁に行われています。客観的に第三者の視点で、起きていることだけを見ていると、いじめるために仲間を形成しているようにも見えてしまうのです。敵と味方は瞬時に分かれるようです。何がいじめの口実になるのかもわかりにくい原因になっていると思います。

<いじめ仲間の共通項>

最近多いいじめ仲間は、成績優秀、あるいはスポーツ優秀で、有利な進学が見込まれる児童生徒が仲間になることが多くなったようです。優秀な子どもたちが、共通のターゲットを見つけ、攻撃を開始します。相手に恨みはありませんが、怒りがあるわけです。怒りは、自分たちを攻撃している相手に対する危機感ではありません。それとは関係の無い危機感のようです。進学に有利だとそれ以外の人間、父兄も含めて羨ましがってみる存在ですが、当事者はそうではないようです。おそらく、大変な努力をして現在の評価を勝ち取っているようです。また、何か失敗をすると自分の有利な立場が簡単になくなることも知っています。そういう、いわば社会的な緊張を強いられている状態のようです。このため、自分たちと同じように努力をして学業を伸ばそうとしない子どもや、緊張しないからおとなしくしていない子ども、そういう存在に対して怒りをもつようです。きわめて理不尽な話ですが、いわゆる八つ当たりというものです。自分たちに危機感、不安感を抱かせている存在が、社会だったり、学校や親だったり、とてもかなわない相手であると、危機感が怒りになることは難しいようです。逃避行動に出るようになるのが普通です。しかし、逃避することもできず、かといって原因に対して怒りが持てないため、持て余した危険解消要求が、自分より弱い者に対する怒りとして表現されるようです。
 日常生活を緊張の持続の中にいる子どもは、怒りとして危機解消要求を満足させる相手である「いけにえ」を常に探しているというのが実態のようです。同じ緊張状態を持っている者同士は、いけにえを見つけると、我先に怒りをぶつけ、遅れ時とそれに続き、仲間を形成するようです。最初はいじりとして表現されていますが、このケースは簡単にいじめに発展していきます。

成績優秀者のいじめの反対に、成績優秀者をいじめるという類型もあります。この時はまた別の緊張感が怒りをはけ口として渇望していることになりますが、八つ当たりであること、相手を孤立させることということは共通です。

<いじめ防止の方法>

いじりはいじめに発展するものです。直ちに指導をするべきです。特にいじられる側が固定している場合、いじる側が多数の場合は、すでにいじめです。
異質者を仲間として受け入れるという指導も必要です。異質性を理由に排除をすることが人間として恐ろしいことだということを理解させる必要があるでしょう。具体的には、クラスならクラスというまとまりで助け合う訓練をするということです。相手の弱点や失敗を受け入れてどのようにカバーするかということをクラス対抗の柱にするべきです。
探してでも異質者を作ることの逆は、探してでも自分以外の者に対して共感する訓練をすることなのでしょう。これは、現在の子どもたちは訓練が足りていないようです。
根本的には受験競争過多があります。現在の大学は勉強をするところではなく、就職の予備校みたいな性質になっているようです。この点を改めることは、いじめ問題だけでなく、日本の将来にとっても必要なところだと思います。
また、受験競争は今に始まったことではありません。現在それが苛烈になっている理由は、終身雇用制が壊れ、正規雇用が減少し、安心して定年まで働ける環境がないところにあります。学校の、進学やまともな正規雇用の推薦には枠があるようで、その枠を巡って子どもたちは苦しい学校生活を送っているようです。根本には、このような経済問題、雇用問題があると考えています。
 

いじめが普通の子どもたちの間で起きているならば、なぜいじめることができるのかという視点を持つことが大切だと思います。

 

いじめのパターン分析とわが子がいじめられたときの対処方法

いじめのパターン分析とわが子がいじめられたときの対処方法

<異質者排除型>
昭和のいじめは、このような異質者を排除する
というような形で起きていたように思います。
社会的常識からある程度かけ離れた行動をするとか
身体的な特徴とか
あるいは異文化の主体である転校生とかですね。

このため、その異質性を気にしない誰かが受容することによって、
孤立も防げたし、集団が受け入れていく
ということが可能になったようです。

この時、もともと集団行動になじめない者が
他の一般児童と同様に異質者を受け入れただけなのに
受け入れたことに感謝され、
益々肩入れしていくということがあったようです。

教師がかばい抜くという方法もありました。

<自己防衛型>
自分を守るために相手を攻撃するという型ですね。
平成初期から中期にかけてよく見られるようになりました。

主犯が、友だちへの依存傾向が強い場合があります。
家に帰っても親がいないとか
兄弟間で差別され、自分の居場所がないとか
そういうことで、親が気に入る友達を
つなぎとめておこうとする焦りが強すぎる
そういう事情があることが多いようです。

被害者は、そこまで主犯に思い入れが強くないですから、
主犯とも遊ぶし、主犯以外の友達とも遊ぶわけです。
そうすると主犯は、自分が見捨てられたと
強い被害意識を持つようです。
色々な涙ぐましい努力をして
被害者をつなぎとめようとするのですが、
自分が被害者に対して抱く思い入れと
被害者が主犯に対して抱く思い入れが
かなりの違いがありますから、
次第に面白くなくなるようです。

おそらく自分を相手にしないで
優秀な兄弟だけを気にかけている
親の像と重なるのでしょう。

自分が被害者から見捨てられた
という形を作らずに、
被害者をグループから追放するという行為が始まり、
徐々に明確ないじめ、攻撃になっていきます。

最初は、意地悪程度のことをして
相手の気をひこうとするのですが、
徐々に相手を試すような行動になり、
最終的には泣いて謝れというような感情になるようです。

ドメスティックバイオレンスと言われる現象も
このような経過をたどることが多いようです。
自分に自信がないから相手を攻撃するという
誰にとっても不幸になるだけの行為に陥ります。

このパターンの場合
教室内小集団の存在が
いじめの確立に大きく貢献することが見られました。
いじめの対象になる子は、
それなりに容姿が良く、成績もよく、育ちも良いので
小集団相互の中でもトップクラスであることが多く
そのグループにいるメンバーは
そのグループ内に留まることが関心事項ですし、
グループに入れない子は
何とかそのグループに入ることを虎視眈々と狙っています。

グループから追放される子の存在は
自分たちのグループ内の立場の確立にプラスですから、
グループ秩序を維持するためにいじめるという
行動原理がありそうです。

さらに、共感の問題が出てきます。
主犯は、通常は感情が豊かですから、
取り巻きは主犯に感情移入がしやすいのです。
善悪の判断をせずに主犯の感情に
「寄り添って」しまいます。
子どもなんてそんなものです。

主犯をかばうという心の論理で
罪がない被害者を攻撃します。

時には主犯が攻撃をしようとしていないのに、
忖度をして取り巻きが攻撃をするということも
ありました。

しかし、取り巻きはそういう行動をしながらも
自分が被害者を攻撃したという心の傷を抱えることが
通常のようです。

<焦燥解消型・異質者作出型>

近時多くなったいじめの形態は、
誰でもよいから、特定の人物を孤立させて
からかうだけだというそぶりをみせながら
自己の焦燥感を解消しようという行動に出ている場合が
多く見られます。

いじめの本質は集団の中の孤立です。
多数が一人をいじればそれはいじめです。
特にいじる側といじられる側に代替性がなければ
全くのいじめです。

このパターンの特徴は、
成績優秀者が共同して主犯になることです。

元々孤立している者は
多少いじられることもうれしく感じることがあります。
そのため、自分から進んでいじられに来るような
場合もあります。
しかし、やられていることは人格否定です。
そのうち苦しくなって行くことは当然です。
この見通しを大人が持たなくてはなりません。

いじりはいじめだという認識でいるべきです。

それはともかく
どうして成績優秀者はいじめの主犯になって行くのでしょう。
学校の成績の優秀な者
スポーツで推薦を受ける者
そういう者が主犯になっています。

だから教師から見られないように上手にいじめをしますし、
被害者やその父兄が学校にいじめを訴えても
「まさかあの子がそんなことをするわけがない」
という対応をされる
そういうことが普通に日常ありふれて起きています。

子どもたちは結果として優秀な子どもたちですが、
どちらかというと努力の人たちのようです。
学業の成績優秀者は
寝る間も惜しんで勉強をし、
一定の成果が見られるまでやり続けるようです。

勉強もスポーツも
休みなくやるようですし、
いつの間にか自己のモチベーションとしてやっているようです。
親の願望がすり替えられているようです。
過労死の犠牲になる人たちとよく似ています。

極端に言えば1年365日
全て目標に向かって努力を続けているような気がします。
このため、
いつ自分がドロップアウトをするかという
緊張と不安に常にさらされ続けているようです。

誰かを攻撃することで
緊張と不安をひと時忘れるという
そういう作業をしているように感じられます。
早い話が八つ当たりなのです。

しかし、本来いじめを止める役割を期待されている子どもたちが
積極的にいじめに関与しているのですから
いじめの歯止めが止まらなくないわけです。

進学率が高い中学校ほど
いじめが多いのはそういう子どもたちの置かれている環境に
起因していると思います。

<いじめの完成形態>

いじめの本質は孤立です。
いじめが完成した場合は、
被害者は
「いじめてもよい奴だ」
という認識が広範囲に共有されます。

これはかなり深刻ないじめ被害になります。

そこまで至らなくても
いじめによって
人間が安心できない者だという
無意識の確信が生まれてしまうことが危険です。

人間であれば自分を攻撃してくるかもしれないという
無意識の恐れが次々と湧き上がり、
学校に行くことはできません。
行こうとしても体が勝手に防衛反応を起こし、
行動を止めます。
頭が痛くなり、吐き気がして、全身がけだるくなります。

それが極限まで突き詰められれば
どんなに家庭が円満でも
精神が破綻します。
現実をありのままに認識することができなくなり、
統合失調症のような幻覚や幻想が生まれてきます。
これも絶望を回避するための防衛反応なのだろうと
感じてしまいます。
なぜならば、そうやって現実を拒否した方が
よっぽど楽だろうからです。
そこまで孤立はつらいことだと思います。
特に人格を形成する途中の子どものころは
なおさらでしょう。

そこまで攻撃しても
攻撃する方は、その場では攻撃することができます。
被害者は、攻撃してもよい奴だということは、
「自分たちの仲間ではない」
ということを頭の中で完結させて合理化しているからです。

特に最近の焦燥感解消型、異質作出型のいじめは
ささいなことで、仲間ではないという合理化が行われます。

例えば、部活を欠席するとか
メンタル治療を受けているとか、
厳しい受験をしないでも平気だとか、

あるいは、逆に
天真爛漫な活動をしているとか
容姿が良いとか
一芸に秀でているとか

コンプレックスが八つ当たりにつながっているような気もします。

<対処方法>

我が子への対処方法は、
孤立というキーワードを通して
我が子の心情を共有しましょう。
たかが学校のことでも
子どもにとっては絶対的な社会なのです。

無理強いはしない。

問題は学校にどのように働きかけるかです。

鉄則の1は、
一つの過程だけで行動しない。
必ず他の家庭に協力を仰ぐということです。

親同士が知り合いであるに越したことはないのですが、
現代では親同士が結びつくことができない環境もあります。

一番は子どもの話を聞いていると、
実際は絶対的に孤立していることは少なく、
誰かがかばってくれることもあれば、
公然と交流を持ってくれる友達がいます。

その子の家に感謝の挨拶がてら、
事情を説明して相談をすることを勧めます。

そして協力してくれる家庭は、
一緒になって学校に乗り込んでくれるということだけでなく、
そういうことはできなくてもよいから
話を聞いてくれるということだけでも貴重です。

学校は、単独行動か協力者がいるのかが
一番気になるところなのです。

また、話を聞いてくれるだけでも
いざクラスの保護者会で何らかの支援をしてくれるので、
本当にありがたい存在になります。
物足りなくてちょうどよいということでしょうか。

鉄則その2 学校に指図するのではなく相談する。

いじめの問題は、できるだけ学校に味方になってもらわなければなりません。
しかし我が子が辛い思いをしていると、感情が爆発してしまいます。
この意味でも同行者には冷静でいてもらう必要があります。

味方になって改善に向かって動いてもらうためには、
学校に指図をしてはいけません。
言いなりになることを嫌うのは学校だけに限りません。

一緒になって考えてもらうということ。

そしてその場合、
自分の子供だけが被害者で
主犯を含めて加害者を処罰しろという態度はダメです。

主犯も被害者もどっちもどっちになってしまうからです。

誰かが孤立しているということは
クラスの人間関係の不具合が生じている
改善すべき不具合だ
だから学校は改善する方向で行動しなければならない。
ということを説得していくわけです。

孤立している被害者の被害は将来がだめになることです。
最悪は自死ですが、精神病院の長期入院ということも実際にあります。
能力に応じた進学も就職もできなくなるかもしれません。

しかし、傍観者も程度の違いはありますが同じように傷ついています。
一番の問題は人間を大事にしない感覚を身につけてしまうことです。
この感覚は自分の人生を投げやりにして、自死の大きな原因にもなります。
いじめていい奴だというアイデアは、
その場限りの焦燥感の解消であって、
人間はいじめてもよいつまらない存在だ
ということにすり替わっていきます。

これの最たる影響者は主犯です。
主犯はもともと問題を抱えており
他人をいじめなければ自分を保てないという
SOSであることが実態なのです。

だからいじめが起きたということは
学校全体の利益として
学校全体で取り組むべきことなのです。

対立させないでいじめ解決を目指す
目標は握手をすることではなく
孤立を解消することなのです。

この趣旨で学校に働きかけるなら
弁護士は役に立つと思います。


実際のいじめ事案に長期にかかわり感じたことをまとめてみました。

 

ラインなどのSNSがなぜいじめに利用されるのか 危険性の所在 大人もだけど

ラインなどのSNSがなぜいじめに利用されるのか 危険性の所在 大人もだけど

1) 言葉(文字)だけでの情報のやり取りをしている。

一見当たり前のことですから、だから何なのだと思われるでしょう。ところが、これが一番肝心なことです。というのは、人間は、他者とコミュニケーションをとる場合には、特に面談で話している場合は、言葉(文字)だけでコミュニケーションをしているわけではないということを改めて考えましょう。
・ 対面では、相手の声の大きさや感情という情報を受け止めている
・ 対面では、顔の表情という情報も受け止めている。
・ 対面では、同じ「場」にいるということから共通の認識もある。
 対面では、これらの言葉以外の情報によって、理解を助けたり、相手の気持ちを察して、議論をやめたり話題を変えたりしているようです。遠慮という気持ちが起きるわけですね。言葉以外の情報を前提として言葉を補っているということもあります。
 ところが、SNSでは、それらの情報がなく、言葉だけでやり取りしています。このため文字になると、とてつもなくきついやり取りになるということは簡単に想像できると思います。そういうつもりじゃなかったのにということは誰しも経験があると思います。

2) 画面と向き合っているだけの自分の世界からの発信

 文字というか画面だけを見て相手に伝える情報を選んでいるので、相手の困惑している顔や怒っている顔を想像することができにくい状態であるということが重要だと思います。
つい自分の部屋の中での自分勝手の世界から発信してしまうということが起きます。対面しては言えないことも言ってしまいます。言わないということができにくくなる人、なる場合があるようです。「かわいそうだから言わない」ということが起きにくくなります。
 あるメーリングリスであまりにも攻撃的で配慮に欠ける通知を繰り返している人を運営が尋ねたことがあるそうです。そうしたら、攻撃的なメールとは打って変わって、温厚で平身低頭の対応だったそうです。相手が想像できない、相手の感情と遮断された情報提供が、いかに発信者の人格を変貌させるかということを興味深く聞きました。

3) 言葉も短いうえに結論先行型
対面では、特に日本人は結論を濁し、察してもらう技法を使いますので、ソフトな印象を与えることができます。意見が食い違う時も、どこが論点で、それに対してどういう風に考えるから意見が違うということができますし、意見が違うだけだということを伝えることが可能です。    
 ところが、SNSでは、意見をはっきり言わないと話にならないから結論を明記します。字数が事実上限られているので、回りくどいことを言えません。その結果、ただ文字を読んだだけでは、ケンカを売っているのではないだろうか、自分を軽く見ているのではないだろうかという印象を与えてしまい、自分でもそういう風に思ってしまう危険があるようです。

4) 同時に別の人たちともその記事を読む。

 対面では、1対1で話すので、聞いていない人のことを考える必要はありません。もし、その場に別の人もいるのであれば、自分との会話でその立会人からの評判が悪くならないように気を使って話をします。誤解のないように言葉を選ぶこともします。
ところが、SNSでは、つい、1対1で会話をしているような錯覚をいだくことがあるようです。その人と自分の二人で話しているのであれば許される内容の会話も、他の人が読めば、誤解を受けることもあります。また、実際には誤解を受けなくても、書き込んだ相手が人に読まれたくない話の内容だったりすることに配慮をしづらいということがあるようです。
 書き込む人の側のコミュニティーでは面白おかしく読めることが、書き込まれた側のコミュニティーではその人の立場がないような内容になっている、このようなことをよく目にしています。
 また、書き込む相手の情報がSNSでの知識しかない場合、例えばその人の職業しか知らない人が、書き込まれた相手の職業以外の知識や実績を知らないで、相手を侮辱するようなことを言ったりするわけです。知らないのだから言わなければ良いのですが、つい類型的な人間の見方をして、相手を否定してしまうということがありそうです。

4)無視されていると感じ易い

ラインは既読がつくので、読んだか読まないかわかります。ホーム画面に通知が入ることが分かりますから、書き込んだ人は自分が書き込んだ以上は相手が読んでいるはずだと思いやすいようです。だから返信がこないと自分が無視されていると思いやすいようです。返事を求めていることの書き込みをした場合は特にそうです。しかし、実際はスマホを離して風呂に入っていたり、電源が切れていたり、あるいは妨害電波のようなWi-Fiによって新たな受信ができない場合だってあるのです。ラインを送った方はこのような事情を考える余裕が無いようです。
ラインは自分が無視されていると感じ易くできていると考えておいた方がよいようです。

5) 結論

 このため、できればラインによるやり取りはしないということに越したことはないようです。ただ、便利なことがあるので以下の場合に限定することをお勧めします。

ⅰ)事務連絡だけを発信する。事務連絡の名を借りた命令をしない。
ⅱ)極力しなくてもよい指図、否定、反対意見、修正意見はしない。するならば、個人間限定のツールを使う。
ⅲ)返信を急ぐ場合には電話などを使う。
ⅳ)親しい友人のグループの場合は、同意、肯定だけを発信することができる場合だけ発信する。自分が良かれと思って意見を述べても、相手や第三者は不愉快に思ったり、相手の評価を下げることがある。

実際のいじめ自死事件や自分の体験をもとに考えてみました。


虐待

虐待の原因と予防対策

虐待の原因と予防対策

虐待についてのニュースが、前の虐待事件のニュースを忘れる前に届くという状態になっています。幼い子どもが犠牲になりますから誰しも憤りを抱きます。しかし、対処療法が叫ばれればまだよい方で、私から見ればデメリットばかりの政策が進められようとすることもあるように感じられます。正義感や弱い者を守ろうとする人間の感情が利用されているような感覚になることもあります。
 虐待が起きた後の事後的な対処だけではなく、虐待を予防するためにどうしたら良いかを考えるべきではないでしょうか。
 私は、結果として、子どもが餓死したり、暴行死をしたり、虐待死をするとしても、親は子どもを大切にするものだということから論を進めていこうと思います。
 子どもを放置して餓死させた親も、子どもが憎かったり、どうでもよいと思ったりしていなかったはずです。「それでも子どもたちが亡くなった」という事情を考えることが有益だと思うのです。
 では、どういう事情か、私は、子どもを育てる気持ちはあっても、子どもを育て上げる能力が足りなかったということがリアルな見方だと思います。私自身、子育てをしてみて、子育ては大変なことだと思っていました。子どもを授かって自分で育ててみて、すべての子の親に対して尊敬の念を抱くようになりました。みんな頑張ったのだなあと人間は素晴らしいと思うようになったのです。私の子どもには私と妻がいて、子どもの小さい時は祖父母もいて、協力をしていただきましたし、市の施設にも大変助けられました。インターネットや書籍類にも色々教わりました。いろいろな意味で、子育てチームにある程度子育てをする能力が備わっていたと思います。
 実際の虐待事例の情報を職業柄入手することがあったり、良質のルポルタージュを読んだりして感じることは、虐待がある場合は、この子どもを育てる能力が決定的に欠如していると感じます。その能力とは
ⅰ) 人手不足という孤立 育児をする人手が若い母親一人であり、手伝う人がいなかったり、他人に応援を頼むことが出来なかったりする事情があるようです。
ⅱ)知識不足という孤立 育児をするために必要な知識を授けてくれる、子どもの祖父母や子育て経験を持つ先輩という人間が周りにいないことが虐待が起きた家庭には多いようです。これはいくらインターネット環境があっても、調べればわかるものだという知識が必要ですし、怪しげな情報を排除するという知識も必要です。自分が育てられた環境から、子どもを育てるための必要な知識を学んでいなかったという事情もあるようです。また、行政に援助を求めることもできないわけです。
ⅲ) 経済力不足という孤立 乳児を育てる場合、一人で育てることは無理だと思います。それにもかかわらず、働かなければならないということになると、人手不足と知識不足と相まって、子どもにとって良い環境ではありません。
 虐待が起きた現場では、子育てが困難な事情があるのに、子育てをしなければならなかったという際立った特徴がみられます。

能力不足の影響はどうでるか
子育て能力が著しく低い場合、子育ては苦痛でしかなくなるでしょう。子どもが泣き止まないというだけで心細くなるでしょうし、自分が悪いという自責の念が強くなって行くでしょう。それはやがて、赤ん坊から自分が責められていると感じるようになってくるようです。本当はおなかがすいていたり、ただ眠いだけだったりして泣くのですが、自分の赤ん坊に対する努力を赤ん坊自身から否定されているように感じるようです。そうして、自分は赤ん坊の奴隷なのかという意識も生まれてくる人も結構いるようです。赤ん坊のせいで、自分の人生の時間が無駄に過ぎる、自分だけが損をしているという気持ちになってくるようです。

どうしてよいかわからないことが起きると途方に暮れ、自責の念が生まれ、それに耐えられなくなり赤ん坊に責任転嫁していくという流れもあるようです。それでも、赤ん坊に対して愛情がないわけではないという複雑な状況こそがリアルな見方だと思います。愛情がうまく流れず詰まってしまい、反動が起きてしまっているという感じでしょうか。

睡眠不足も手伝って、やがて、問題に対応することができなくなります。どうしたら良いかということを考えなくなります。考えても答えは出ないだろうから考えても無駄だと無意識に思うのでしょう。ただ、人間はこのイライラに長期にわたり耐え続けることはできないようです。不安、イライラから解放されたいという解放要求が起きてしまいます。こうなってしまうと、二者択一的な思考になり、ダメだからやらないという選択をしてしまうことが起き出します。仕事に行かなければならないとなれば、仕事に行くことだけ考えて、仕事に行って子どもを一人にさせることのデメリットをできる限り解消しようという発想がなくなって行きます。「仕方がない」の一言ですべてが進んでいくようになるわけです。また、最善を尽くすという発想が無くなり、どうせうまくいかないだろうという悲観的な考えに支配されていくようです。
「子どもさえいなければ」という考えは、追い込まれることによって起きる考えなのです。まじめで責任感が強いほど、できないことでイライラが募っていくようです。まじめだからやり遂げることができるのは、やり遂げる能力がある場合です。やり遂げる能力がない場合は、イライラだけが大きくなって行くしかないのです。
誰かに誘われれば、子どもを放っておいて遊んでいた母親もいました。子どものことをずうっと忘れていたということは無いと思います。おそらく、「自分だってこれくらいの幸せがあっても良いはずだ。」という言い訳を繰り返していたのだと思います。仕事をして放置したとされた夫婦もいました。このケースは、「働かなければいずれ生きていけないのだから」という気持ちがあり、「仕方がない」という言い訳が心の中で繰り返されていたのではないかと思います。
普通に考えた場合は、そんなの嘘だろう、子どもに対して愛情がなかったに違いないと思うでしょう。ところが、同居している交際相手の男が女児に性的な虐待をしていたケースでは、母親は事実として性的虐待があったことを知っていたのですが、意識ではその事実を何とか否定しようと無理な言い訳をしていました。追い詰められると、事実を知覚しても、それを事実として認めることをしないということをする人たちがいるようです。つじつまの合わない話を平気でするわけです。聞いていている方が混乱してしまいます。とにかく母親は必死でした。おそらく、夫婦の一方が子どもに対して虐待していることを見ていても、意識では虐待ではないと記憶を置き換えているという現象が起きているようです。一種の自己暗示のようなものだと思います。これが進行すれば二重人格になって行くでしょう。

ではどうするか。
私は、現在の虐待が、孤立婚と貧困が背景にあり、それがすぐに改善できないというのであれば、子育ての能力を補う公的援助が一番の虐待防止の特効薬になると思います。
ただ、孤立している人たちは孤立する理由があり、中でも多い理由は、公的な援助でひどい目にあっているということです。自分のことを否定された記憶を持っている人たちが多いようです。「お母さんなのにこんなことも知らないの。」とか、「お母さんだからこういうことをやって当たり前。」とか、話をしたくなくなるような人たちと接してきたようです。
「親身になって相談に乗る」というのは、真実を語るということで置き換えられるものではありません。「孤立親の個別事情があるのだろう、できないことも仕方がないことかもしれない。その中で改善できることを改善していこう。」という視点で、探し出してでも孤立親の共感できる部分に共感を示すことができることが救いになります。そして、その通りできるように具体的な行動提起、しかもそれができることを提起することが大切です。子育ては大変です。この当たり前のこと、弱音を吐きそうになる心細さに共感を示すことは誰でもできるはずです。

子どもが小さいうちの母親は、成人男性に対して共感を抱くことが多かれ少なかれできなくなります。夫がいくら励ましても耳に入らないし、育児に邁進してもプラス評価にはなりにくいことがままあります。できれば、年配の女性、子育て経験や保育経験のある方がこのような孤立親目線で相談に乗れる相談所があると良いと思います。「私も子育てしてきたけれど、あなたの場合は大変な状況にあるのだから、よくやっていると思う。それでも一人では無理なことがあるのだから、いつでもここを頼って良いんだよ。」と言ってくれる相談所が理想ではないでしょうか。
そして頑張った孤立親に対して、ご褒美として、数時間でも、子どもから解放される時間を作ってあげてほしいと思います。ベテランの保育士さんが、安全に子どもたちを保育できる環境が必要だと思います。
こういう子育て支援基地を作ることが虐待防止につながると思うのです。大事なことは、孤立親を追い込まないこと、そのための逃げ道を公的に用意することです。

子育て支援基地が行うか、別のところ(例えば「家事調整センター」)が行うか、子育て参加の人数をできるだけ増やすということも虐待防止に役に立ちます。例えば、子どもと同居していない親がいる場合は、子育てに参加させるということです。離婚等で単に養育費だけを払っているだけでは子どもの成長にとって全く不十分です。具体的な子育てを分担させ、責任も分散させるべきです。そのために離婚する夫婦であれば、離婚に伴う葛藤を鎮める提案をして、共同子育てのレクチャーをしっかり行うということが必要でしょう。これは、日本以外の先進国では韓国を含めてどこでも行われている当たり前のことです。相手の目を気にすれば、体に痣を作ったり栄養状態の不良を放置することは無くなるでしょう。自分だけの責任で子育てをするということも大変なことです。責任を分散するということで、心にも余裕が出るでしょう。

つまり、一言で言って、子どもは孤立した親が育てることには初めから無理があり、皆で育てるものだということです。そして、現代社会が、不可避的に孤立親を生み出しているのであれば、社会が子育てをサポートしなければならないということです。
虐待を予防するということは、するなと声高に叫ぶことでも、虐待親を厳しく罰しろということでもなく、虐待をしやすい環境を無くしていこうということなのだと思います。子どもは国の宝でもあると考えます。

虐待の問題が虐待が起きてからの対処だけが話題になっているように感じてしまいます。そもそも虐待を起こさないようにするために、どうしたら良いのかを考えないと虐待死も無くならないと思います。

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