Title9-3.GIF (2758 バイト) 日露戦争関連年表             


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日露戦争 関連年表 

 

日露関係前史(*4)
日本 ロシア
 1705年  ピヨートル大帝、日本との和親通商を見据え、ペテルブルグに日本語学校開設。
1853年
(嘉永六年)
 06.03 米ペリー艦隊江戸湾に来航  1853年  07.18 ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン中将、副将ポシェット中佐が長崎に来航し、幕府に通商と日露国境の確定を要望。 威圧的な米国に比して、礼儀正しい外交姿勢に幕府は親露的だった。
     10月、クリミア戦争;露軍、英仏・トルコと戦う。
 1854年  3月 ベリー艦隊、再び江戸湾に来航し、大砲で脅して日米和親条約を締結。ロシアは「日本が外圧に弱い国」との印象を持つ。  1854年  10月 プチャーチン、伊豆下田へ入港、幕府勘定奉行川路聖謨と交渉し、日露和親条約を締結。日露国境を「択捉島とウルップ島の中間」と定める。
   10月 プチャーチン、伊豆下田へ入港、幕府勘定奉行川路聖謨と交渉し、日露和親条約を締結。日露国境を「択捉島とウルップ島の中間」と定める。    11月 ディアナ号事件;地震による津波でロシア軍艦ディアナ号が沈没。田子の浦村民が乗組員を助け、翌年幕府は小型帆船「ヘダ号」を建造して、プチャーチンらをロシアへ帰還させる。皇帝アレクサンドル2世は宰相ネッセルローゼを通じ幕府に謝意を伝える。
 1867年
(慶応3年)
 日露間暫定協定、千島の択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領とし、樺太は日本人、ロシア人の雑居地とした。 1855年  クリミア戦争終結、英・トルコ連合軍がロシアに勝利し、ロシア南下政策を挫く。
 1875年
(明治7年)
 北海道開拓使次官黒田清隆、ロシア人の急な樺太進出を考慮し、北辺の防備に使う軍備を内陸の開発費に集中すべきとし、樺太放棄を明治政府に建議。翌年、千島・樺太交換条約成立。 1874年  ポシェット、交通大臣就任。シベリア鉄道計画を発表。日露が良好な関係を維持し、シベリア鉄道東端のウラジオストクから海路日本と結び、イギリスを凌駕する構想。
    1877年  露土戦争;仏が普仏戦争で独に敗れた機会に、ダーダネルス海峡の自由航行権を求め、トルコに宣戦布告。
1891年
(明治24年)
親善外交で来日中のロシア皇太子ニコライが大津で巡査津田三蔵に切り付けられる(大津事件) 。ロシア警戒の記事が、一般庶民の恐露感情を刺激。 1891年  皇帝アレクサンドル3世シベリア鉄道建設を決断。フランスの融資を受ける。ウスリー鉄道起工(1900年ハバロフスクまで完成)
 1894年
(明治27年)
 日清戦争開戦 1892年  シベリア鉄道、チェリャビンスクで起工、1899年スレチェンスクまで開通(バイカル湖横断は船便)。
1895年
(明治28年)
 日本、日清戦争に勝利。下関条約締結。遼東半島領有決まる。
三国干渉により、日本で「臥薪嘗胆」など反露感情高まる。
1895年   三国干渉;04/25(下関条約の6日後)ロシア、ドイツ・フランスとともに日本に対し、遼東半島返還を要求。ロシアでは、対英政策として日本に対して宥和策をとる議論もあったが、不凍港である旅順・大連を獲得するため、ニコライ2世は対日強硬策を取る。
    1896年  02.11 朝鮮国王高宗、ロシア公使館に入り、親露政権樹立、国号を大韓帝国とする。ロシアに鴨緑江流域の森林伐採権を与える。
1896年
(明治29年)
 陸軍参謀本部次長田村怡与造(いよぞう)大佐、満州に軍事探偵を送る。 1896年  ロシア、清から東清鉄道(チタ〜ウラジオストク)敷設権を獲得。98年旅順・大連の租借。これを皮切りに98年ドイツ、青島租借、98年英、九竜半島・威海衛租借、99年仏、広州湾租借。
1898年
(明治31年)
 9月戊戌の政変;西太后が光緒帝(11代清国皇帝)を幽閉。 1899年  ロシア艦隊越冬地を長崎から旅順へ移す。
日露戦争開戦前夜(*4) 
1900年
(明治33年)
 山縣有朋、軍事意見書で「日露開戦やむなし」と決意。 1900年  04.15 ロシア、軍艦マンチュリア号を朝鮮半島南端の馬山浦へ派遣し、馬山浦租借を要求。日本の反発により韓国政府はこれを認めず。
 義和団事変;5月、西太后の支援を受けた義和団が「扶清滅洋」を唱えて、北京などで公使館員や居留民を襲う。6/21清朝政府は列強に宣戦布告。露英仏米独伊墺日の公使館と軍人が北京の英国公使館に籠城し抗戦。(主力は日本軍)  7月清軍が満州の露軍拠点ブラゴヴェヒチェンスクを破壊しようとするが、逆に清国人三千人が虐殺される。8月露軍大部隊が清国側へ渡り、さらに2万人近くを虐殺。
   日本軍など列強連合軍が北京を解放(北京の55日)。西太后は西安へ逃亡。    露軍、北京から撤退し、満州支配に専念。露清密約;義和団事変の処分を寛大にする代わりに、盛京省(後の奉天省)への駐兵権を得る。
しかし、日本からの抗議と強硬姿勢により、露清密約は解消される。清が日本へ謝意を示す。
   露軍、露清密約を解消するも、シベリア鉄道・東清鉄道保護を名目に満州に居座る。
1901年
(明治34年)
 伊藤博文は、日英同盟には懐疑的日露協商で時間をかせいで国力をつけるべきと考えた。 1901年  ロシア駐日公使イズヴォルスキー「日露協商」締結打診。
   ロシアの韓国中立化提案に対し、日本はロシアの満州撤兵を条件とし、決裂。日本はロシアが満州を兵站として、いずれ朝鮮半島に軍事侵攻し、さらに日本への侵略も恐れた。    ロシアは「満州撤兵は露清の二国間問題」とした。
1902年
(明治35年)
 1月、日英同盟調印。(*4 P79)    日英同盟成立により、ロシアは清への圧力を弱め、露清条約調印され、満州からの撤兵計画が示される。しかし、実際には実行されず。
1903年
(明治36年)
 05.29 陸海軍・外務省合同会議で「戦争に訴えてでもロシアの南下を阻止すべき」との意思統一。(陸軍;井口省吾総務部長、松川敏胤第一部長、海軍;富岡定恭軍令第一局長、外務省;山座円次郎) 1903年  05.06 ロシア軍、満韓国境を越えて、龍岩浦に進駐。
   06.03 英駐清公使デュカット中佐より、「ロシアの対日戦争準備」の視察報告が伝えられる。これは日本の反露感情を煽る策略だった。    ロシアでは、ラムスドルフ外相、ウィッテ蔵相、クロパトキン陸相らが「満州撤兵論」を主張。ニコライ2世は宮廷顧問官ベゾブラゾフらの対日強硬論を採用。
   06.08 陸軍参謀本部会議で、井口少将が対露強硬論を主張。    06.08 クロパトキン陸相、日本視察、桂太郎首相、小村外相らと会談。シベリア鉄道・東清鉄道への配慮を求めたが、日本側の厳しい反応に遭う。
       
   極東総督府設置により、ロシアの対日戦争決意を受け取る。日本海軍は、全艦隊に警報を発し、水雷艇4隻を津軽海峡へ派遣。    ベゾブラゾフは極東総督府を設置し、アレキセーエフ大将に委嘱。
   06.24 東京帝国大学七博士、東京朝日新聞に対露開戦論を発表。開戦熱高まる。    
   6月 大山巌元帥「日本の形状蜿蜒と南北に延長せるをもって守備を要する地点甚だ多く、国防に不利なり。幸いとするは、西に朝鮮海峡あり。東西の航路を扼し、国防の鎖やくをなす。もし露国をして朝鮮を領せしめんか、あたかも日本の脇肋に2、3時間の渡航を要するのみ」    08.06 クロパトキン、ニコライ2世に極東視察報告を提出、日露戦争回避を進言。ニコライ2世は、力を誇示し、増長する日本を抑えるべきとのベゾブラゾフの提案と、日英同盟の条約内容から日本が単独でロシアに開戦しないとの判断を採用した。クロパトキン陸相、ラムスドルフ外相、ウィッテ蔵相ら失脚。 
   08.03 小村外相、対露交渉のため「満韓交換論」を趣旨とした日本側草案をラムスドルフ外相に送る。  
        失脚したラムスドルフ外相に代わり、アレキセーエフ極東総督が、ニコライ2世に書簡を送り、日本の草案に対し、強行に臨むことを提案。
   12.16 元老・閣僚会議、ロシアと妥協できないと判断。    12.06 日本側提案に対し、拒否の修正案を回答。
   12.30 陸軍参謀本部・海軍軍令部合同首脳会議;「日本海軍は旅順艦隊を急襲して対馬海峡の制海権を確保する。その後、陸軍の臨時派遣隊が出発する」ことを決定。(*4 P111)    
1904年
日本 ロシア
1904年

01.23 大韓、日露戦争に対し、中立を声明。

1904年  
   02.03 芝罘駐在領事水野幸吉から、旅順艦隊出港の電報。通常の夜間航海訓練だったが、日本攻撃のための出撃と判断。    

02.05 御前会議にて伊藤博文が開戦不可避を言上。明治天皇は「ロシア皇帝に親電を送りたい」と述べたが、伊東は「形勢すでに急迫」と開戦の裁可を求めた。開戦の詔勅 ■■■(P114)

   

02.09 旅順港外の戦い

   
02.12 清、日露戦争に対し、中立を声明。    

02.23 第一回旅順港閉塞 失敗

  
02.26 第二回旅順港閉塞 失敗   

05.26 日本、金州・南山要塞攻撃し、占領。

05.02 バルチック艦隊の極東遠征決定。

08.08 黄海海戦;逃げようとする ロシア艦隊に日本が攻撃、ロシア司令官が戦死し、指揮系統が混乱し敗走。一部が旅順に逃げ込んだ。

 

08.14 蔚山沖の海戦 ;日本、ウラジオスック艦隊を殲滅。

 

08.30 日本は遼陽会戦でロシアに勝利。

 

10.08 沙河会戦;増強して南下したロシア軍に対し、日本軍は積極的に攻め勝利。

10.21 ドッガー・バンク事件;バルチック艦隊、ドッガー・バンクでイギリス漁船を砲撃。

12.05 203高地を占領。旅順艦隊を撃沈。

     
1905年
日本 ロシア

1905年

01.25 黒溝台会戦;冬営中の満州日本軍に対してロシア軍が攻撃 したが、ロシア軍の連携が悪く、日本は持ちこたえた。

1905年

01.01 旅順司令官ステッセル、乃木大将に降伏。

02.19 奉天会戦;ロシア軍35万、日本軍25万が激突した世紀の大会戦となった。

01.22 ロシアで「血の日曜日事件」発生。
 

03.05 ロシアは強大な戦略を持ちながら奉天から撤退。

   04.10 バルチック艦隊は南ベトナムのカムラン湾(フランス領)に入る。04.22フランスの要請によりカムラン湾を退去。
   05.09 ヴァン・フォン湾でネボガトフ率いる第三太平洋艦隊がバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)に合流。総数50隻、16万200トン。うち戦艦8隻。日本の戦艦は4隻。
 05.18 鎮海湾の東郷平八郎はバルチック艦隊、ヴァン・フォン湾を出航したことを知る。  05.14 バルチック艦隊、ヴァン・フォン湾を出航。
 05.27 13:39三笠、バルチック艦隊を発見し、14:00敵との距離8千メートルになったとき、東郷が敵前回頭を命じる。16:40霧と暮色のため、ロシア艦隊を見失うが、水雷艇により夜襲。。 05.27 15:10ロシア第二艦隊旗艦オスラビーア沈没。17:30負傷した司令官ロジェストウェンスキーは駆逐艦ブイヌイに収容される。19:00すぎ、旗艦スワロフ沈没。 
05.28 全艦隊は鬱陵島に集結。 
日本海海戦におけるロシアの戦死者約5千人、捕虜約6千百人。日本は戦死者は百数十人。
日本の損害は水雷艇3隻が沈没。この歴史上の勝利に対して、信じられない、誤報である、日本は損害を隠蔽している、などと報じられたほどであった。
 05.28 バルチック艦隊は全滅。撃沈されたのは戦艦6、巡洋艦4、海防艦1、駆逐艦4、仮装巡洋艦1、特務艦3。捕獲されたのは、戦艦2、海防艦2、駆逐艦1、病院船2。脱走中に沈んだもの巡洋艦1、駆逐艦1。他の6隻はマニラや上海などの中立国の港に逃げ込んで武装解除された。遁走に成功したのは小巡洋艦1、駆逐艦2、運送船1のみ。

 

06.06 アメリカ駐露大使マイヤー、ルーズベルト大統領の命により、ロシア皇帝ニコライ2世に調停提案。

08.10 米国ポーツマスで日露交渉。

 

09.05日露講和条約調印日比谷で講和反対国民大会、政府系新聞、交番など焼討ち。東京府下に戒厳令。

09.05 日露講和条約調印

09.11 三笠 佐世保港内で火薬庫火災により自爆、沈没。

   

09.13 陸軍休戦地域協定

   

09.18 海軍休戦地域協定

   

10.14 講和条約批准。

   
1906年
日本 ロシア
1906 03.19 英米、満州の門戸解放、機会均等を要求。 1906年

05.05 ウィッテ首相を罷免(1905.11〜)

    

05.06 帝国基本法を発布(ツァーリの至上権を規定)

    

05.10 第一回国会(ドォーマ)開会。

     

07.20 支配下のフィンランドで新憲法制定。

11.26 南満州鉄道(株)設立(総裁;後藤新平)

11.22 ストルイピン首相の土地改革;農民の共同体(ミール)離脱と土地私有化を承認。

1907年
日本 ロシア
1907年

04.19 元帥府会議;帝国国防方針(八・八艦隊構想)を決議

1907年 03.05 第二回国会(ドォーマ)開会。

06.25 ハーグ密使事件;大韓皇帝、ハーグ平和会議に密使を派遣し、日本の侵略を訴える。伊藤博文統監、責任を追及し、高宗を退位させる。

06.16 6月16日クーデター;保守派に有利な選挙法制定

07.24 第三次日韓協約調印;内政指導、軍隊解散。

07.30 第一回日露協約;東北中国の勢力範囲分割に関する協約。

07.28 日露通商航海条約。 07.30日露協約。

08.31 英露協商調印;ペルシア、アフガニスタン、チベットにおける勢力範囲を設定。

1908年
日本 ロシア
1908年

04.10 ロシアと樺太国境画定書調印。

1908年 03.03 オーストリアのバルカン進出に対抗し、ドナウ・アドリア海間鉄道計画を発表。
    09.16 ロシア、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を承認。オーストリアはダーダネルス・ボスフォラス海峡のロシア軍艦通過を認める。
1909年
日本 ロシア
1909年

09.01 韓国全羅道の民族運動を弾圧。

1909年

10.24 イタリアと協定;バルカンの現状維持とロシアのダーダネルス・ボスフォラス海峡進出、伊の北アフリカ進出を相互承認。

09.04 日清間に東三省5案協約・間島協定成立

09.29 日本、韓国に中央銀行としての韓国銀行設立。

10.26 ハルピン駅で伊藤博文暗殺される。

1910年
日本 ロシア
1910年 07.04 第二回日露協約調印。 1910年 06.30 ロシア、フィンランドの自治を終わらせる。
08.22 日韓条約調印;韓国を併合。 11.04 独露皇帝ポツダムで会談;中近東問題で合意。
             

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資料  『坂の上の雲』(文芸春秋社) 司馬 遼太郎 *1
 『江は流れず』(中央公論社) 陳 舜臣 *2
 『日露戦争スタディーズ』(紀伊国屋書店) 小森陽一・成田龍一 編著 *3
 『ロシア敗れたり』(毎日ワンズ)鈴木 荘一 *4