Title9-3.GIF (2758 バイト) 坂の上の雲             

[ 参考書籍 ] 

〜 読書記録(目次、概略、感想、日清・日露戦争のページ) 〜

『坂の上の雲』

司馬遼太郎著

文芸春秋社 1969年4月1日発刊

目 次

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第一巻 春や昔/真之/騎兵/七変化/海軍兵学校/馬/ほととぎす/軍艦/日清戦争/根岸/威海衛

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第二巻 須磨の灯/米西戦争/子規庵/列強/十七夜/権兵衛のこと/外交/風雲/開戦へ 

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第三巻 砲火/旅順港/陸軍/マカロフ/黄塵/遼陽/旅順/沙河 

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四巻 旅順総攻撃/二〇三高地/海濤/出師営/黒溝台 

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第五巻 黄色い煙突/大諜報/乃木軍の北進/鎮海湾/印度洋/奉天へ/会戦 

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第六巻 退却/東へ/艦影/宮古島/敵艦見ゆ/抜錨/沖ノ島/運命の海/砲火指揮/死闘/鬱陵島/ネボガドフ/雨の坂

概 略

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第一巻 春や昔/真之/騎兵/七変化/海軍兵学校/馬/ほととぎす/軍艦/日清戦争/根岸/威海衛 ▲TOPへ

伊予松山藩出身の3人の青年は、維新後の新しい制度の日本、つまり制度が整備されない時代に生まれ、その時代の多くの青年がそうであったように生き方を模索する。秋山好古、真之兄弟と友人正岡子規である。秋山好古は日本騎馬戦略の創設者として、日露戦争でコサック騎兵と戦い、弟真之は日本海海戦に参謀として参加し、その戦略戦術によりバルチック艦隊に勝利した。この真之は学生時代は文学を志すが、故郷松山からこのときまでの友人が、正岡子規である。真之は自らの才能と性格を考え、海軍に入った。兄弟そろってそれぞれの分野の戦略戦術研究で他に抜きんでた性能を示し、日清戦争の経験や西欧軍隊などに学びながら、日本軍の中枢となっていった。

 

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第二巻 須磨の灯/米西戦争/子規庵/列強/十七夜/権兵衛のこと/外交/風雲/開戦へ ▲TOPへ

 秋山兄弟が軍隊において出世していくなか、子規は結核を患い、その後も俳句、和歌の学問的な裏づけを行い革新しようとした。しかしながら、結核は進み、35年の生涯を閉じる。

一方、日清戦争後の三国干渉などロシアの南下圧力はますます強くなってくる。清国ではその反動から“義和団事件”が発生し、列強の中でも隣国日本とロシアは多くの兵を出しこれを鎮圧、自国民保護の名目で多くの兵を常駐させる。兄好古は天津駐屯軍司令官、その後騎兵大学校の初代校長となり、さらに招待されたロシアの演習の時には、秘密にされてきた軍事基地の街などに強行に訪問し、つぶさに視察を行った。一方、真之はアメリカ駐在武官、ついで英国駐在武官 、その後、対ロシア開戦にそなえて参謀となる。日露交渉が難航する中、日本はついに開戦を決意した。海軍大臣山本権兵衛は、海軍司令長官には、当時目立たなかった東郷平八郎を据えた。真之は東郷のもとで参謀として、対ロシア海軍戦略を描くこととなった。

 

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第三巻 砲火/旅順港/陸軍/マカロフ/黄塵/遼陽/旅順/沙河 ▲TOPへ

ロシアはその極東艦隊を三国干渉後に植民地とし、要塞化した旅順港に立てこもり、黒海から回航してくるバルチック艦隊を迎えて、2倍の艦隊で日本の連合艦隊を撃破しようという戦略である。

日本の連合艦隊はバルチック艦隊が到着するまでに、旅順の艦隊を引き出し、会戦に持ち込むべく挑発的な攻撃をしかけるが、ロシア艦隊は陸の要塞からの砲撃が届く範囲にしかでてこない。引きこもり、士気が低下したロシア艦隊は、司令官マカロフの着任によって士気も高揚したが、日本が仕掛けた機雷によって船とともに沈む。一方、日本陸軍もシベリア鉄道によりロシア陸軍が大増員される前に満州で決戦に持ち込みたかった。しかし、海軍より陸からの旅順要塞攻撃を要請され、陸軍は乃木将軍の第三軍を派遣する。第一軍と第二軍により、遼陽、沙河を陥落させる。しかし、砲弾が少なく、旅順攻撃でも兵に大きな損害をだし、それロシア軍に大きな打撃を与えることはできず、膠着状態となる。

 

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四巻 旅順総攻撃/二〇三高地/海濤/出師営/黒溝台 ▲TOPへ

旅順を担当した第三軍の乃木将軍と参謀伊地知は、近代的なロシア要塞に対し、無為に突撃を繰り返し、日本軍に甚大な損害を与えた。これに対して満州にいる参謀長児玉源太郎や大本営も怒っており、乃木、伊地知を更迭すべし、との声もでていた。しかし、明治の功臣であり、陸軍総参謀長の人事権を握っていた山県有朋が長州閥に固執していることから乃木を押しており、伊地知は満州総司令官である元帥大山巌の薩摩閥であったため、容易に降ろすことなどはできない。

旅順攻撃が長期にわたっている連合艦隊は、旅順港内のロシア艦隊をすべて沈めて、バルチック艦隊がくる前に船をドックに入れて性能を回復しておきたかった。そのため旅順港を一望できる二〇三高地を攻略し、そこから艦隊に砲撃を加えるよう、再三にわたって乃木軍に要請した。しかし、陸軍のやり方がある、と第三軍の伊地知にそれを拒否されていた。満州の参謀長児玉はついに総司令官大山の許可を得て、秘かに乃木と談判し統帥権を代行して、二〇三高地総攻撃を指揮。1904年12月5日、児玉は日本の港湾防備に使われていた28サンチ榴弾砲を集中させ、それまで難攻不落だった二〇三高地を数時間で占領した。日本軍は二〇三高地からの陸砲による攻撃でロシアの旅順艦隊を沈めた。12月6日乃木は占領後の二〇三高地に登ったが、児玉は腹痛と称して登らなかった。戦功を乃木のものとするためであった。1905年1月1日旅順のロシア軍司令官ステッセルは、乃木に降伏を申し入れた。東郷の連合艦隊はこれでようやく艦を呉、佐世保のドックに入れることができた。

一方、ロシアのバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)は、このころアフリカ東岸マダガスカル島で長期の滞在を余儀なくされていた。旅順艦隊が全滅したことを受けて、ロシア本国が老朽艦を集めて第三太平洋艦隊を編成し、合流させるためであった。ヨーロッパから大回航してくるロシア艦隊は、途中のほとんどの港は日本と同盟しているイギリスに抑えられており、艦隊運行に不可欠な石炭の供給にも不自由している状態であった。艦隊の士気も低下した。

旅順陥落後、満州戦線では膠着状態となり冬営していた日本軍に対して、ロシア軍が動いた(黒溝台の会戦)。ロシア軍のグリッペンベルグ大将は、日本の数倍の軍隊で、手薄になっている左翼の秋山好古の支隊に襲いかかった。しかし、中央の総司令官クロパトキンは動かず、秋山を支援した日本はねばってロシア軍をはねのけた。

 

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第五巻 黄色い煙突/大諜報/乃木軍の北進/鎮海湾/印度洋/奉天へ/会戦  ▲TOPへ

1905年2月19日、ロシアと向かい合っていた日本軍はついに奉天への攻撃を開始する。日本軍は東から鴨緑江軍、黒木軍、野津軍、奥軍、乃木軍の布陣。児玉は東西両端から攻撃を開始し、背後に回り、ロシア軍を両翼に引き付け、残り3軍で中央突破しようというもの。しかし、戦力を比較すると、ロシア軍32万に対し、日本は25万。ロシアの砲約1,200門に対し、日本の砲約900門。さらにロシアの陸砲、野砲は日本のそれの3倍の速射能力を持っていた。児玉はこの一戦で日本の戦力を使い果たすことを覚悟しており、政府の調停工作に期待していた。

ロシア総司令官クロパトキンも日本と同じタイミングで攻撃を計画を立てたが、旅順から北上する乃木軍を気にするあまり、躊躇していた。結果として日本が先に攻撃をしかけ、劣勢ながら常に攻める姿勢をとることになる。会戦時も乃木の動向や背後を気にし、日本の攻撃力が落ちていくにもかかわらず、撤退をしてしまう。ロシアの敗北は、クロパトキンの常に敵を過大に想定する精神的な問題による。ハルピンに撤退して態勢を立て直すつもりであったが、軍全体が潰走状態になってしまった。

一方、東郷の連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾に潜み、バルチック艦隊を待つこととなる。

ロシア本国では1905年1月9日「血の日曜日事件」が発生、ツァーリズムに対する革命的気分が強まった。日本の明石元二郎はレーニンや当時ロシア属領となっていたポーランド、フィンランドの革命分子へ資金提供、武器供与などより支援した。

 

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第六巻 退却/東へ/艦影/宮古島/敵艦見ゆ/抜錨/沖ノ島/運命の海/砲火指揮/死闘/鬱陵島/ネボガドフ/雨の坂 ▲TOPへ

アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、日露海戦における日本の優位を信じていたが、日本の大使の不用意な発言から、その勝敗の行方を見守り、早期の調停に消極的となる。ロシア側もそれを感じ取り、奉天での陸軍敗戦後も強行な姿勢をとり、日本海海戦は不可避となる。

東郷平八郎は、朝鮮半島の対馬対岸に日本の連合艦隊を隠し、バルチック艦隊を迎える準備をする。しかし、バルチック艦隊が想定どおり日本海側を通過してウラジオストックに向かうのか、太平洋側、津軽海峡を通過してそこに向かうのか、判断しかねていた。特に戦術を任されていた連合艦隊参謀秋山真之は、待てど来ないバルチック艦隊に対して、重圧からあせっていた。連合艦隊の使命は海戦に勝利することではなく、バルチック艦隊を全滅させることだった。数隻でも取り逃がした場合、日本海での海上輸送は非常に危険となり、ロシア陸軍が再び増強されたとき、満州への増援が困難になるからであった。

しかし、5月27日ついに敵艦隊を発見。参謀秋山真之はその名文「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出撃、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と大本営へ打電した。13:39三笠からバルチック艦隊を確認。三笠にてZ旗が揚がり、東郷から予め配布されていた信号文「皇国の興廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ。」が全艦に伝達された。

東郷は有名な“敵前回頭”を行い、敵艦隊との距離を縮めてから敵先頭の主力艦に砲撃を集中させた。ロシア旗艦スワロフは早々に戦闘能力を失い、司令官ロジェストウェンスキーも負傷。ロシア側はちりぢりになり。結果、日本はほとんど艦を失うことなしに、翌日までの間にバルチック艦隊をほぼ全滅させるに至る。

 

感 想

明治維新後、近代化に邁進しようとした日本は、産業もなく、列強に対抗していくためには、必然として植民地に依存せざるをえなくなり、その対象は朝鮮であった。一方、極東で南下の勢いを強めるロシアは、弱小国日本に配慮することなく、日本を追い詰めていった。日本は、このままでは近代化どころか、ロシアに併呑される、あるいは一部占領されるなどの恐怖をいだき、活路をもとめて“開戦”に踏み切ることとなった。ここに描かれた弱小日本軍の悲壮な決意と一方西欧の軍隊、戦略戦術を貪欲に学び、優秀な戦略家たちによって日露戦争は勝利する。ただし、圧倒的な軍事力をもつロシアの敗因は、ロシアが当時抱えていた諸問題にもよるものであり、自ら崩壊したといってもよい。

残念ながら、日本政府もこの事実を隠し、日本国民もそれを理解しよとせず、日本軍の神秘的な強さが信仰されるようになり、四十年後、太平洋戦争への破滅に向かうこととなる。

司馬遼太郎氏「敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にさせるとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不思議なものである。」

人物としては、秋山兄弟を軸として、薩摩閥、長州閥の人々、そして、日本海海戦の英雄東郷平八郎、陸軍として、乃木希典、児玉源太郎らが描かれている。司馬氏は、旅順の二〇三高地を攻めた第三軍司令官乃木将軍と参謀伊地知を凡将とし、対照的に児玉が適切な判断をしたとしているが、これには、戦史、戦術研究者から反論もでている。この反論に司馬氏は応えず没したが、司馬氏がこの小説のテレビドラマ化を長年拒否してきたことは、あるいは司馬氏の回答なのかもしれない。

2004.2 読了

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