Title9-3.GIF (2758 バイト) 日露戦争の経緯             

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日露戦争の経緯

〜『坂の上の雲』より〜

 日清戦争に勝利した日本に対して、ロシアはドイツ、フランスとともに三国干渉を行い、遼東半島を返還させた。日本では臥薪嘗胆という言葉が流行るほど反ロシアの世論が高まった。その後、ロシアは遼東半島を租借して旅順、大連に要塞を建設し、極東での南下を推し進めた。これに亡国の危機を感じた日本は海軍建設などロシアを仮想敵国として急速に戦争準備にとりかかった。

 当時ロシアはフランス、ドイツと同盟関係にあり、日本は極東のロシア進出をけん制したいイギリスとの間に日英同盟を締結していた。一方、強大な陸海軍をもつロシアに対して、政府としては戦争を回避する努力も行ったが、1904年ついに日本は開戦を決意する。

1904年
海軍 陸軍
2.5

開戦の詔勅

   
2.6

連合艦隊(旗艦三笠)、佐世保を出港

2.6 瓜生艦隊に輸送され、仁川上陸。
2.7

朝鮮の仁川港でロシア艦2隻とともに碇泊中の「千代田」、開戦を知り、港外へ脱出。

   
2.8

「千代田」、「浪速」以下の瓜生艦隊(第二艦隊第四戦隊)と合流し、仁川港へ

   
2.9

瓜生艦隊は任務である陸軍部隊を揚陸。ロシア艦2隻に対して、仁川港からの退去を要請。

港外に出たロシア艦に対し、一等巡洋艦「浅間」(9,750トン)が砲撃。損傷したロシア艦は再び仁川港内に逃げるが、兵を他国艦に預け自沈。

2.9

旅順港外の戦い

連合艦隊による最初の旅順攻撃。すさまじい旅順要塞からの攻撃で、十分な戦果なし。日本は旅順のロシア極東艦隊を港外に引っぱりだして、早期決戦に持ち込みたかった。

2.23

第一回旅順港閉塞

米西戦争のキューバでの港の閉塞戦を観戦した参謀 秋山真之の発案を先任参謀 有馬良橘中佐、広瀬武夫少佐らが積極的に実行。汽船5隻で港口91メートルを塞ごうとするが、広瀬少佐の“報国丸”だけが現場へ到達し、自沈したが、他船は砲撃に合い、手前で沈没するなどした。

2.26

第二回旅順港閉塞 失敗。広瀬武夫少佐殉死。

   
 

ロシアでは極東艦隊司令長官としてマカロフが赴任し、士気高揚。ただし、ロシアは陸砲が届く範囲だけに出撃し、日本の連合艦隊を迎撃した。

3.8

陸軍第一軍(黒木軍)は広島を出港。朝鮮に上陸。

4.12

マカロフが日本海軍が旅順港外に設置した機雷により爆沈し、戦死。

4.30

第一軍、鴨緑江に展開し、満州進出をめざす。

5.2

バルチック艦隊の極東遠征決定。

5.26

奥軍(第二軍)、金州・南山要塞攻撃。5時間で日清戦争を超える量の砲弾を使い、3,000人を死なせた上で、占領。

5.12

旅順パトロールに出撃した旗艦“初瀬”と“八島”がロシアの機雷により沈没。日本は6隻の戦艦のうち2隻を同時に失う。

5.30

田家屯にて、秋山好古の第一騎兵少将がロシア騎兵旅団と会戦。ロシアを追撃したが次第に不利となる。好古は部下から退却を進言されるも、ブランデーを飲みながら、銃弾の飛び交う中で不貞寝をした。戦術的には退却すべきであったが、戦略的には初戦で退却するわけにはいかなかった。結局、ロシアは退却した。

6.3

得利寺から増強されたロシア軍が南下。砲兵を増強した秋山好古は、その砲兵を隠し、ロシア軍の砲四門を引き込んで粉砕し勝利した。

    6.21

好古(第二軍)、熊岳城を占領。

    6.26

乃木希典の第三軍が剣山攻撃。

8.8

黄海海戦

旅順のロシア艦隊は本国命令によりウラジオストックへ移動開始。日本は黄海上で迎撃しようとするが、ロシア艦隊は逃げようとする。一度は見失うが、翌日発見し、交戦。 旗艦ツェザレウィッチに乗艦していた司令官ウィトゲフトが戦死。指揮系統が混乱したロシアは四散し、多くの中立国の植民地に逃げ込んで武装解除されるなどした。ただし、5隻の戦艦など大部分は旅順に帰港した。

7.9

秋山好古、蓋平を占領。

7.15

陸軍司令長官 大山巌、参謀長 児玉源太郎、大連へ入る。途中、洋上で東郷に会い、陸からの旅順攻撃を強く要請される。

8.3

大本営より、遼陽会戦の命令出る。

満州にいる日本軍14万人。ロシア軍23万人。

8.14

蔚山沖の海戦

5隻から成るロシアのウラジオストック艦隊は日本海において、日本の輸送船を多く襲撃し成果を上げていた。日本の第二艦隊(司令官上村彦之丞)は早くからこれを探索していたが、この日、旅順艦隊を迎えに出たウラジオ艦隊をついに発見。攻撃を加えた。すべて撃沈することができなかったが、生き残った艦も廃艦同様となり、ウラジオ艦隊は消滅した。

8.19

乃木軍、旅順のロシア軍への第一回総攻撃。6日間で死傷者15,800を出して失敗。司令官乃木、参謀伊地知の無能による。

8.26

総司令官 大山より、遼陽進軍命令。

10.15 バルチック艦隊、第三太平洋艦隊として、バルト海のリバウ港を出航した。 8.30

遼陽会戦

奥軍、野津軍による遼陽のロシア主力軍首山堡攻撃開始。日本は苦戦したが、秋山が攻城砲を活用し、遼陽市内を攻撃したこと、黒木軍が太子河を渡り、ロシア軍側面に出たことにより、戦況が変わった。

海軍 陸軍
    9.3

ロシア軍、遼陽から撤退。

    9.7

日本軍、遼陽入城。しかし、日本陸軍は砲弾が尽きていて追撃できず。ロシア軍は奉天で日本を迎え撃とした。

    9.26

シベリア鉄道のバイカル湖迂回線が開通し、ロシア兵の輸送量が向上する。

10.8

沙河会戦

増強して南下したロシア軍に対し、日本軍は攻守の判断に迷ったが、積極的に攻めると決める。70キロの前線を横一線にして押す、という困難な作戦であった。弱点である日本軍右翼に攻撃が集中するが、日本軍は左翼を前進させ、弱小な兵力で強大な兵力を包囲するという意外な作戦をとった。約10日間に渡る戦闘で日本は勝利したが、砲弾がなく、ロシア軍を壊滅させることはできなかった。  

11.26

第三回旅順総攻撃

日本国内の最後の予備役兵第七師団を旅順に送り、行われた。司令官乃木、参謀伊地知は、従来同様ただ突撃させるだけであった。乃木、伊地知の無能ぶりに大本営では、更迭の動きもあったが、山県有朋の長州閥の乃木、大山巌の薩摩閥の伊地知は更迭されなかった。また、乃木の更迭は戦闘中でもあり、また明治帝も反対した。

11.27

乃木は兼ねて海軍、大本営から強く要請されていた203高地への攻撃を決意する。しかし、あいかわらず戦術的な転換もなく、猛攻により一時占領するが、掩護もなくすぐに奪還された。

《 二〇三高地 》

12.01

参謀長児玉が乃木軍の前線へ行き、統帥を代行する。

12.03

休戦中に28サンチ榴弾砲を203高地攻撃のために移動させる。

12.05

9時 203高地への総攻撃開始。1時間20分後、203高地西南角を占領。

13時30分 東北角のロシア軍へ攻撃開始。2時頃、占領。

203高地から、ロシア艦に対し、砲撃開始。ほとんどを撃沈。

12.06

乃木、203高地に登る。

児玉は腹痛と称して登らず(戦功を乃木のものとするため)。

 

12.16

東郷、セヴァストーポリ沈没を確認し、第三艦隊を守備に残し、日本へ帰還。第一艦隊は呉、第二艦隊は佐世保へ。バルチック艦隊が来るまでに、修理をしないと性能が低下したままとなる。

この頃、バルチック艦隊は喜望峰を回航。

1905年
海軍 陸軍
01.02

バルチック艦隊はアフリカ東岸マダガスカル沖に到着。本国指令により2ヶ月滞留させられる。老朽艦により編成された第三太平洋艦隊を待つこととなる。

01.01

ロシア軍、旅順総司令官ステッセルより降伏申し入れ。

01.02

伊地知−レイスの旅順開城談判。

01.05

乃木−ステッセル会談。

    01.09 ロシアで「血の日曜日事件」発生。
        01.25

黒溝台会戦;冬営中の満州日本軍に対してロシア軍が攻撃をしかけた。日本軍約5万3千、ロシア軍は約10万5千であった。左翼の秋山支隊に襲いかかった。

    01.29

ロシア軍中央のクロパトキンは右翼に呼応して動かず、ついには撤退を命じた。ロシア軍は決定的な機会を逸した。 右翼の攻撃を指揮したグリッペンベルグは、撤退後辞表を出して帰国してしまった。

02.20

連合艦隊は佐世保を出港。朝鮮半島の鎮海湾へ向かった。

02.19

奉天会戦;ロシア軍35万、日本軍25万が激突した世紀の大会戦となった。

    03.05

劣勢ながら常に攻勢に立った日本が、クロパトキンの弱気を誘い、ついに撤退させた。 世界の世論はロシア敗北を報じた。

    03.10 奉天会戦の勝敗決す。死傷は、日本5万人、ロシア16、7万人。
04.10

バルチック艦隊は南ベトナムのカムラン湾(フランス領)に入る。

    
04.22

フランスの要請によりカムラン湾を退去。

   
05.09

ヴァン・フォン湾でネボガトフ率いる第三太平洋艦隊がバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)に合流。総数50隻、16万200トン。うち戦艦8隻。日本の戦艦は4隻。

       
05.14

バルチック艦隊、ヴァン・フォン湾を出航。

   
05.18

鎮海湾の東郷平八郎はバルチック艦隊、ヴァン・フォン湾を出航したことを知る。当時、日本の参謀たちはバルチック艦隊が対馬を経てウラジオストックへ行くのか、太平洋から津軽海峡経ていくのか判断しかねていた。

日本は佐世保と朝鮮済州島の間に73隻の哨戒船を配置していた。大本営や第二、第三艦隊の参謀たちは冷静に判断して、対馬経由しかありえないと思っていたが、これを決める重圧からか特に秋山真之ら連合艦隊の参謀たちは待てど来ないバルチック艦隊が太平洋を廻るのではないかとあせっていた。

05.27

4:45信濃丸、バルチック艦隊を発見。参謀秋山真之、大本営へ電信「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス。天気晴朗ナレドモ浪高シ」

13:39三笠、バルチック艦隊を発見し、13:55 Z旗掲揚、「皇国の興廃、此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」が全艦に伝達される。

14:00三笠、敵との距離8千メートルになったとき、東郷が敵前回頭を命じる。14:08ロシア側は回頭してくる三笠などへ集中砲火。距離を詰めた後、14:10日本側が砲撃開始。旗艦スワロフ、オスラビーアへ集中砲撃。

14:50ロシア 旗艦スワロフが突如、北へ向けて回頭。これを見た東郷はロシア艦隊が北へ遁走すると見て、左八点(90度)の一斉回頭を命じた。しかし、第二艦隊参謀の佐藤鉄太郎はスワロフの舵が故障していると判断。三笠の命令に従わず、第二艦隊をそのまま直進させ、結果としてロシア艦隊の前方を塞ぐ役割を果たした。 

15:10ロシア第二艦隊旗艦オスラビーア沈没。 

三笠旗艦の第一艦隊が回頭し、戦場から遠ざかっている間、小型の装甲巡洋艦主体の第二艦隊は大型のロシア主力艦に対して砲撃を続けていた。

15:58日本の第二艦隊の砲撃をかわして北へ遁走しようとするロシア艦隊は再び日本の第一艦隊と遭遇。日本の第一、第二艦隊に挟撃される形になる。

16:40霧と暮色のため、ロシア艦隊を見失う。日本は駆逐艦と水雷艇を出し、第二段階の夜襲に移る。駆逐艦21隻、水雷艇40隻により、夜間敵艦に肉薄し、魚雷などで攻撃を行う。

17:30負傷した司令官ロジェストウェンスキーは駆逐艦ブイヌイに収容される。

19:00すぎ、旗艦スワロフ沈没。 

05.28

全艦隊は鬱陵島に集結。 

司令官ロジェストウェンスキーは降伏の準備をさせるが、ブイヌイの艦長がこれに反対したため、途中で出会った駆逐艦ベドーウィへ乗り換える。

駆逐艦漣(さざなみ)は、ロシア駆逐艦ベドーウィを発見し、砲撃。ベドーウィは反撃せず降伏。敵艦に乗艦すると負傷した司令官ロジェストウェンスキーが乗っていた。

鬱陵島南方で、連合艦隊主力は、ネボガトフの乗るニコライ1世など5隻を捕捉。ネボガトフは戦わずして降伏した。

05.29

ロシア装甲巡洋艦ドンスコイは、日本の小艦艇の攻撃を受け、鬱陵島で自沈。日本海海戦は終わった。

バルチック艦隊は全滅。撃沈されたのは戦艦6、巡洋艦4、海防艦1、駆逐艦4、仮装巡洋艦1、特務艦3。捕獲されたのは、戦艦2、海防艦2、駆逐艦1、病院船2。脱走中に沈んだもの巡洋艦1、駆逐艦1。他の6隻はマニラや上海などの中立国の港に逃げ込んで武装解除された。遁走に成功したのは小巡洋艦1、駆逐艦2、運送船1のみ。これに対し、日本の損害は水雷艇3隻が沈没。この歴史上の勝利に対して、信じられない、誤報である、日本は損害を隠蔽している、などと報じられたほどであった。日本海海戦におけるロシアの戦死者約5千人、捕虜約6千百人。日本は戦死者は百数十人。

06.15

日本海海戦の後も、満州の前線では日本の第一騎兵旅団秋山好古はロシア騎兵ミシチェンコ騎兵団と戦闘をしていた。

08.10 

米国ポーツマスで日露交渉

09.05

日露講和条約調印。日比谷で講和反対国民大会。政府系新聞社、交番など焼討ち。

09.13

陸軍休戦地域協定

09.18

海軍休戦地域協定

10.14

講和条約批准

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資料  『坂の上の雲』(文芸春秋社) 司馬 遼太郎 *1
 『江は流れず』(中央公論社) 陳 舜臣 *2
 『日露戦争スタディーズ』(紀伊国屋書店) 小森陽一・成田龍一 編著 *3
 『ロシア敗れたり』(毎日ワンズ)鈴木 荘一 *4