Title9-3.GIF (2758 バイト) 日露戦争時の陸軍             


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 日露戦争 開戦時の日本陸軍の体制 

陸軍創設後、ドイツの名将メッケルを招き、その戦略を学んだ。また、陸軍は維新以来、よく練られており、士官、士卒は優秀であった。しかし、維新の元勲山県有朋が長州閥意識を強く持って人事権を握るなど旧弊が改められない面もあった。内務大臣であった大山巌は、自ら宗司令長官として、現地に出向いたが、作戦はすべて児玉源太郎にまかせ、この二人で現地を仕切った。

陸軍大臣 寺内 正毅
参謀総長 山県 有朋
参謀次長 長岡 外史
総司令長官 大山 巌(元帥)
参謀長 児玉 源太郎
第一軍司令官 黒木 為
第二軍司令官 奥 保鞏
第三軍司令官 乃木 希典(大将)
第四軍司令官 野津 道貫

 

ロシア軍 旅順要塞守備軍

旅順を守り、乃木希典率いる第三軍と対峙したのはステッセル以下の要塞守備軍であった。コンドラチェンコらの要塞補強によって、日本に対して多大な損害を与えた。対日戦争全体を考え、最後まで日本を引き付けて戦い続けようとしたスミルノフ、コンドラチェンコ、ゴルバトフスキーらに対し、総司令官ステッセル、フォーク、レイスらは203高地陥落語、早期降伏に傾き、4万以上の兵力を残したまま、降伏した。このため、ステッセルは戦後、軍法会議にかけられ、死刑を宣告されるが、乃木らの運動で禁固刑となった。

総司令官 ステッセル中将
要塞司令官 スミルノフ中将
第四シベリア狙撃師団長 フォーク少将
第七シベリア狙撃師団長 コンドラチェンコ少将
東正面指揮官 ゴルバトフスキー少将
ステッセル付参謀長 レイス大佐

 

ロシア軍 満州主力軍

日本と満州での会戦のために赴任したクロパトキンはロシア第一の戦略家であった。日本が四軍にわけたのに対し、ロシアの陸軍は、すべてこの将軍の司令のもとに動かされた。しかし、一方で極東においては総督 アレクセーエフに一任されていた面もあり、アレクセーエフからの横槍により指揮を徹底させることが困難であった。 遼陽、沙河での連敗のあと、クロパトキンの第一軍と同格の司令官としてグリッペンベルグが派遣されたが、クロパトキンの本国への運動により、以下のような体制となった。

極東陸海軍総司令官 クロパトキン大将
第一軍司令官 リネウィッチ大将
第二軍司令官 グリッペンベルグ大将
第三軍司令官 カウリバルス大将

 

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