戦争そのものが、思考停止の中で突入し、忘却の中で評価されてきた。第二次大戦後、特に70年代の冷戦の中で日露戦争の評価が出来上がってきたが、私たちがどのように日露戦争の記憶を保持していくのか、について、各章の論点になっているともいえるという。
ロシア皇帝とヴィッテやクロパトキンなどの首脳は、満州からの撤退と韓国を日本の勢力圏として承認する意思を決めていたが、一部の皇帝側近の極右派が、外国との交渉権も含めて極東太守に与えてしまった。日露交渉の余地がなくなり、開戦に至ったという。そこには偶発性はあるが、戦争の必然性はないといえる。
広瀬中佐の像、旅順白玉山表忠塔、神田の凱旋門について、修学旅行などのためのガイドブック、そして旗艦三笠などについての記述と、兵士が身につけるものとしてお守りのほかにポルノ写真などもあったという。
国木田独歩や田山花袋などの(後の)文学者が、伝える戦争報道はむしろ誌的であり、それが戦争を抒情詩として捉えることなったのではないかという。それとは反対に志賀重昂が伝えたものは極東を空間としてイメージしており、後にそれは地政学として捉えられるようになったという。
義和団出兵のときには、日本がその地理的な位置からも主力軍を派遣することとなる。それだけではなく、日本の長崎などが補給基地となり、また医療設備での支援を行ったほか、2,700名の軍夫や3,000両の大八車をはじめ、さまざまな物資を各国軍に提供することで、戦争特需に沸いたという。また、長崎
が娼婦をモデルとしたプッチーニの歌劇「マダムバタフライ」でも有名になった。
陸軍の輸送拠点となった広島について。そこは大陸へ向かう兵士を歓送し、凱旋兵士を歓迎した。華やかな地というだけでなく、市民の生活に大きな負担をしいた。傷病兵が多く運び込まれ、病院施設は拡充された。警察はわずかな人員で輸送のための鉄道警備の激務を担当。多くの兵士を宿泊させたのは、民家であり、若干の支給はあったものの、食事の用をしなければならず、伝染病予防のために清掃を何度なく命令されている。歓迎も多くの市民が継続的
に狩り出され、通常の市民活動ができないほどであったという。性病予防のために接客業の女性は性病検査が義務付けられた。凱旋兵士などは飲酒して暴力事件を頻発されるなど、多くの不安もあったようだ。
日露戦争後に盛大に凱旋式が行われ、そこに「国民」が熱狂した。同じ民衆が、ポーツマス講和条約で賠償金も、領土も得られないことに不満を持ち、「日比谷焼討ち事件」が発生する。これを機に、数度の大規模な民衆暴動が発生し、1918年の米騒動に至るまでの民衆運動を「大正デモクラシー」と呼ぶようになる。これは日露戦争を契機に生まれた「国民意識」によると考えられている。
日露戦争後に盛大に凱旋式が行われ、そこに「国民」が熱狂した。同じ民衆が、ポーツマス講和条約で賠償金も、領土も得られないことに不満を持ち、「日比谷焼討ち事件」が発生する。これを機に、数度の大規模な民衆暴動が発生し、1918年の米騒動に至るまでの民衆運動を「大正デモクラシー」と呼ぶようになる。これは日露戦争を契機に生まれた「国民意識」によると考えられている。
奥村五百子(いほこ)は愛国婦人会を提唱し、その発展に寄与したが、芸妓の加入を容認する発言をしたことが、良妻賢母を標榜する会から批判を受け、退会することとなる。退会、死去後はむしろ提唱者として歴史的に利用されることとなった。その後、愛国婦人会は銃後を支える婦人団体として太平洋戦争まで続くことになる。
日露戦争時の人々は現代の我々から見ると、戦前、つまり太平洋戦争以前の人であるが、彼らには当然“戦前”という意識はない。むしろ日露戦の“戦後”という意識があったと思われる。なかでも日露戦争を知らない戦後第二世代は「大正モダニズム」を担う世代であった。太平洋戦争後26年目に「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行ったが、日露戦争26年後に柳城湖事件が起こり、次の戦争が始まってしまった。そしてモダニズム世代は、その前の第一世代と協力して十五年戦争の準備に入ることになる。
ロシアでも開戦当初は、宣戦布告なしの日本の攻撃に憤激し、それまで反体制的であった学生や労働者階級も含めツァーリ支持の戦争熱があった。しかし、主としてロシア政府の対応からその戦争熱が退潮することになる。原因は@うまくいかない戦況 Aユダヤ人や(支配下にあった)ポーランド人を差別的に遇したこと Bゼムストヴォ(地方自治機関)の戦争協力をむしろ政府が抑圧してしまったこと。首相プレーヴェは国内治安を重視してのことだたが、このため彼は暗殺されてしまった。そしてついに1905年1月9日「血の日曜日事件」が発生し、ロシア社会は混乱と革命機運へ傾いていく。
田山花袋は『田舎教師』で国民でありながら、そこに参加もできず、歓呼もあげられなかった“棄却された”一般庶民を描いた。また、戦線を報告した後の小説家たちも日露の兵士について描くことはしたが、戦場となった中国民間人や国境に“棄却された”アイヌなどの戦争被害者を描くことはしなかった。戦後のさまざまな戦争関連著作も敵と味方、勝者と敗者という二元論の域をでなかった。
日露戦争は、@生き残りをかけた Aその勝利によって安全保障を確立した B有色人種の国がはじめて白色人種の帝国に勝った C世界中の抑圧された民族に独立への希望を与えた Dこの戦争以来「黄禍論」という形で日本を敵視する欧米列強の人種主義が強化された、という五つの評価軸が戦略的にたてられた。この後、さらに強化され「日韓併合」が正当化された。孫文やネルーが日本の勝利に希望を抱いた、といわれていたが、当の彼らは次のように言っている。孫文「日本が世界文化の前途に対して西方覇道の猟犬となるか、あるいは東方王道の干城となるか」を日本人自身が選ばなければならない。ネルー「日露戦争のすぐ後の結果はひとにぎりの侵略的帝国主義のグループに、もう一国をつけくわえたにすぎなかった。そのにがい結果をまず最初になめたのは朝鮮であった」と喝破していたのである。しかし、勝利した国民である日本人は戦略的なレトリックの中で操作されていくことになる。その顕著なものは「広瀬中佐の軍神神話」であるという。日本人の中でも原敬や夏目漱石のようにするどい分析や批判をしているケースもあった。
日露戦争後、軍などにより慰霊碑、特に忠魂碑などが建てられ、遺骨収集が実施された。しかし、これは日本に限ったことではなく、第一次世界大戦後の欧州でも同様であり、現在も各国で多くのスタッフによって世界に散らばる墓地の管理などが行われているという。考えてみれば多くのスタッフが必要とも思われるが、そのような意思を持つ人々となんらかの資金によって、そういったことが支えられているというのは、妙な気もする。
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