★若狭神宮寺の創建
○「類聚国史」巻180、天長6年3月乙未条
養老年間若狭比古神の託宣によって神宮寺ができる。(神身離脱の託宣)
古代、大陸朝鮮半島と大和奈良(ナラ/朝鮮語/都が語源)との往来は日本海が使用され、この地(若狭・小浜)はその往来の最短距離の中継地として機能した。それ故なのかどうかは良く分からないが、以下の地名の語源説がある。
即ち、若狭とはワカソ(朝鮮語/往き来)を、遠敷(おにふ)とはウォンフ(朝鮮語/遠くにやる)を、根来(ねごり)とはネ・コーリ(朝鮮語/汝の古里)を語源とすると云う。
若狭・小浜に位置する神宮寺は和銅年中の創建とされ、
寺伝では遠敷明神(若狭彦命)の直孫赤麿が山上に長尾明神を祀り、その下に神願寺を創建し、翌年勅願寺となったことに始まると云う。
またその直後に根来白石の遠敷明神を神願寺に向かえ、神仏両道の道場とする。
初期古代神宮寺(若狭比古神願寺と称する)
鎌倉期、神願寺は遠敷明神上社(若狭彦)・遠敷明神下社(若狭姫)を支配(別当)し、神宮寺と改称したとされる。
(鎌倉期将軍頼経により七堂伽藍二十五坊が寄進され、若狭一宮の別当となり、根本神宮寺と改号する。)
2010/04/06撮影:
遠敷明神上社:現若狭彦神社
遠敷明神下社:現若狭姫神社
明治4年国家神道は若狭彦明神を国幣社となし、神宮寺境内遠敷明神社は神仏分離の処置により、社殿を毀し神体を差出よう命ぜられる。
しかし、神体は身代りを出し、真の神体(現存)は本堂に秘蔵する。(この項、寺発行リーフレットから転載)
★若狭神宮寺古図
2010/04/06撮影:
○「当山古図再建」 |
2007/12/26追加:
○「当寺古図再興」 |
◇当山古図再建:上図拡大図
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「江戸時代図誌 12巻」赤井達郎〔等〕編、筑摩書房、1976 より
◇当寺古図再興:上図拡大図
:次項の「当寺古圖再建」と同一
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2014/10/24追加:
上記「当寺古圖再建」に描かれる三重塔は現本堂の南に位置し、古代神願寺の塔の位置とは明らかに相違する。
2004年の発掘調査によれば、古代神願寺の金堂は現本堂の背後(西)に位置し、塔はその金堂南に位置するものであった。
つまり、「当寺古圖再建」に描かれる三重塔は古代神願寺の塔を念頭に置いて描いたのでないといえる。
ではこの本堂南に位置する三重塔は何であろうか。それは中世神宮寺に利生塔が建立されたのはほぼ確実であるが、その利生塔を年頭に置いて描いたものと考えるしかない。
つまり、この近世末期と思われる「当寺古圖再建」に描かれる三重塔は中世の利生塔を描いたものと考えられるのである。
なお下に掲載の◇寛文11年・神宮寺一山総見取図に描かれる三重塔も近世の絵図でありかつ現本堂の南に描かれるので、この三重塔も中世の利生塔を描いたものと推定できる。 ★若狭神宮寺三重塔
若狭神宮寺住職見解:
<「当寺古圖再建」は江戸末期の作で、明治維新前後まで、三重塔は存在していた。
塔跡は、この絵図の位置関係から現在の開山堂(開山堂は明治頃伽藍の背後から現在地へ移築したとのこと)のある基壇か、
あるいはその背後の五輪塔の残欠が散乱している場所附近と推定される。
但し、発掘調査をした訳ではないので、今ではよく分からない。なお、礎石や塔婆関連の遺物は何も残っていない。>
上記の住職見解の推定地は以下の通りである。
現開山堂のある石組みの基壇は塔婆には若干小さいとは思われるも、塔基壇である可能性も捨てきれないであろう。
2002/01/12撮影:
塔跡推定地(開山堂)1
同 2
同
(開山堂背後)
※2008/09/22追加:
上記の住職見解に関して:
・2004年の発掘調査の結果、開山堂がある石組み基壇は古代の塔基壇ではなく、 同 (開山堂背後)の地が金堂・塔跡であったと確認される。つまり、
開山堂のある基壇は塔跡ではないと明確に否定され、開山堂の背後の古墓地が塔跡と確認される。
・「当寺古圖再建」は江戸末期の作成であるとされるが、江戸末期にして当図のような盛観は記録上有り得ない。
おそらく、この図は中世および一部は古代の景観を復古して描いたものであろう。
従って、上述の住職見解のような「明治維新前後まで三重塔が存在した」ということは、確たる根拠に基づくのではなく、住職の個人的見解を述べたものであろうと思われる。
※2014/10/24追加:
上記の住職見解は、2004年の古代神願寺の塔跡が発掘される前の見解であり、住職の見解は古代神願寺の塔を念頭に置いたものではなく、中世の利生塔を念頭に置いた見解であった可能性が強いと思われる。
しかし、古代神宮寺の金堂・塔跡は明確になった反面、現本堂の南にあったと推定される中世の三重塔(利生塔)跡は依然として、明確にはされてはいない。
2004/10/03追加
○若狭神宮寺(神願寺)塔跡発掘調査:
2004年夏に塔跡が発掘調査され塔基壇・心礎その他が出土
新聞報道要旨は以下の通り(2004/09/04「毎日新聞」朝刊、2004/09/03「日刊県民福井」)
本堂の南西約50mの地点から塔跡を検出。
塔基壇は一辺約8.7m高さ約90cmで、乱石積み基壇と推定される、中央から心礎を発掘する。
心礎は一辺約1mの自然石であり、柱礎石などから、塔一辺は約4mと発表される。
規模や心礎の形状から平安期の塔と推定と云う。
なお奈良期や奈良・平安期の陶器、風鐸(鉄製?)の破片2点、鉄釘百本以上、「奈良二彩」の破片も約10点出土と云う。
以上から、塔跡は上記の開山堂の背後の地点(開山堂背後)・・・上に掲載・・・
附近であることが確認されたと思われる。
※2010/04/23追加;厳密に云えば、上記の写真「(開山堂背後)」の北すぐが塔跡である。
※塔跡及び金堂跡の位置は下に掲載の「若狭神宮寺境内絵図」
に記載される。
2016/06/06追加:2017/02/10情報補強:
○「小浜市重要遺跡確認調査報告書U」小浜市教育委員会、2006 より
本報告書は平成15年(2003)〜17年度(2005)の発掘調査の報告書である。
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◇塔跡発掘(第5トレンチ)
塔基壇は盛土基壇であり、基壇外装は乱石積である。基壇1辺は8.7m、高さは約1.0m、北面中央に階段跡が認められる。
心礎・礎石1個・礎石据付痕6基を確認する。
柱間は中央1.4m、両脇間は1.2m(塔一辺は3.8m)
若狭神宮寺塔跡遺構図1
若狭神宮寺塔跡遺構図2:左図拡大図
塔心礎は径約1mの自然石で、特に加工された形成はない。
出土遺物から塔は9世紀初頭から11世紀代まで存続したと考えられる。
発掘時の塔跡全景は下に掲載する「若狭神宮寺塔跡21」(「ふるさとの歴史遺産を知ろう!〜神宮寺発掘調査の成果から〜」)を参照。
◇発掘調査の概要
トレンチ配置図
第1及び第2トレンチは山本坊の調査、第3トレンチは赤井坊の調査である。
第4トレンチは塔跡の確認のために実施した。
第5トレンチは塔跡にヒットし、全面的に発掘する。その結果は上に示す「塔跡発掘(第5トレンチ)」の通りである。
第6トレンチは塔跡の北側の平坦地の性格を探る為に実施、東西方向の区画石積を発掘、その結果本トレンチと塔跡との間に、主要仏堂(即ち古代金堂跡)が
あったと想定されるに至る。
第6トレンチ全景
第6トレンチ区画石積
第7及び8トレンチは奥之坊、第9トレンチは實蔵坊、第10トレンチは杉本坊の調査トレンチである。 |
山本坊の断片的な遺構は出土するも、具体的な建物跡などは明らかにできず。しかし、中世の土器などは多量に出土する。
赤井坊跡は昭和40年代に実施された土地改良事業によって、遺構面は削平されてしまったと判断される。
古代「神願寺」の主要部として、塔跡(本ページで詳述)及び金堂跡が確認される。
奥之坊跡はトレンチの範囲内では、特筆されるべき遺構の発見はなされず。
現存する桜本坊と光乗坊との間から奥之坊に向かって「寺中道」が現存する。その寺中道に南接し、杉本坊・實蔵坊が存在した。
實蔵坊跡では寺中道と實蔵坊を区画した石垣基礎部分が良好に検出される。石垣上面は意図的に破壊されたと思われる。
杉本坊跡では寺中道と杉本坊を区画する石垣、杉本坊入口、塀跡を検出、これらの遺構は寺中道と寺中道と本堂に至る道の交差する地点である。聞取りでは杉本坊石垣は近年まで残存という。また東面する杉本坊入口石階は未確認であるが、近年、耕作の都合で取り払われたともいう。
○「小浜市重要遺跡確認調査報告書V」小浜市教育委員会、2010 より
本報告書は平成15年から17年度の前期に加えて、後期の平成18年(2006)〜20年度(2008)の発掘調査の報告書である。
調査トレンチ配置図:黒ヌキ数字の1〜5は「小浜市重要遺跡確認調査報告書U」で報告の通りである。
そして、黒ヌキ数字の6から10が新しく発掘調査結果に加えられた調査トレンチである。
前期の発掘では、塔跡と古代神願寺金堂跡が推定され、次のような図が推定可能となる。
古代神願寺遺構配置図
中世坊舎跡について、近年の土地改良事業がどの程度中世坊舎跡の遺構に影響を与えたかを見る必要があり、黒ヌキ数字6、7,8の調査が行われる。
神宮寺絵図と旧水田区画対比図
禅智坊・円蔵坊跡:土地改良事業の削平などがあるのか、塀跡の遺構など坊舎関係の遺構は残存するも、必ずしも、坊舎の全容を解明できるような状況ではない。
※その他の発掘についての概要は後日追加する。(予定)
→2017/08/12追加:本報告書Vに新しく追加されたのは調査トレンチ配置図中の黒ヌキ数字の6から10であるが、
特筆すべき成果はないと判断し、記事の追加はない。
2007/12/26追加:
○「若狭の社寺建造物群と文化的景観」小浜市、2006 より
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◇若狭神宮寺境内絵図:
北門(仁王門)から本堂に至る参道が続く、
参道東には北から仁王坊、下之坊、円蔵坊、円林坊(正覚坊)、倉本坊、宝蔵坊、常住坊、(新開地)、実相坊、蓮如坊、松林坊、不動坊、
参道西には北から明浄坊、禪智坊、桜本坊(大膳院・現本坊・現存)、光乗坊(建物現存)、泉蔵坊(薬王院)、中之坊、奥之坊、杉本坊(千手院)、実蔵坊 があった。
本堂東には東門があった。
本堂東及び南の一段下には池之坊、食堂・風呂、月光坊、山本坊、日光坊、赤井坊、法華堂があった。
※この図では、現本堂背後で一段高くなったところが神願寺金堂跡、その金堂跡の南隣が神願寺塔跡と記載される。 |
2008/09/22追加:
○「若狭神宮寺関連遺跡」下仲隆浩(「月刊文化財 (Vol.518)」、2006/11 所収)
2003年からの発掘調査で、現本堂に近接する西南の地で神願寺(古代)期の塔跡・堂宇跡を検出した。
塔跡は地山を造成したもので、一辺8.7mで周囲を石積とする基壇であった。基壇中央には径約1mの自然石心礎(地上式)を持つ。
礎石は1箇所のみの残存であったが、礎石抜取穴・礎石の根石の痕跡をもとに1間四面(平面3間)の平面が復原できた。
中央間(四天柱間)は約1.2m、両脇間は約1,4mと復元できる。(中央間が両脇間より狭いのは不審ではある。)
検出された遺物は8世紀−10世紀のもので、隣接する南北朝期の中世墓の切りあいからこの時期には確実に廃絶していたものと推測される。
(9世紀初頭に創建され、10世紀に廃絶した三重塔跡と推測される。なお瓦は殆ど出土を見ない。)
この塔跡北側(現本堂背後の大きな平場)のトレンチで塔跡を基軸を同じくする石積列を検出し、遺物は塔跡と同時期のものが出土する。
これは本遺構が塔と造営・廃絶を同一にすると思われる。また8世紀と思われる瓦の出土を見る。
(本遺跡は古代神願寺の主要仏堂で金堂などに相当と思われる。)
以上のように、この発掘で古代神願寺の主要仏堂(金堂)・塔が確認されたとされる。
◆伽藍配置変遷模式図試案:
上の上図に示すように、古代神願寺は現本堂裏側に南北に塔・金堂が並ぶ伽藍であったように復原できる可能性がある。
しかし、これ等古代神願寺伽藍は、発掘調査の成果によれば、一様に平安末期には衰退する。
(文献では建長元年<1249>「藤原光範寄進状」では「当寺の破壊、ことに甚だしく・・・」とあり、文永2年<1265>「大田文」の寺田では神宮寺は3反強<若狭上下宮は496反、若狭国分寺は250反)しかないとされる。
・・・など文献上も古代末期の衰退を示唆する。)
中世神宮寺:
鎌倉期将軍頼経によって七堂伽藍25坊が寄進され、若狭一宮別当根本神宮寺と寺号を改めると伝える。(典拠不詳)
南北朝期から室町期初頭にかけて、神願寺は若狭上下宮根本神宮寺として、在地領主の保護のもとに復興を遂げる。
その伽藍は伽藍配置変遷模式図試案の下図のように、古代神願寺の南北線のやや北に主軸(現本堂・北門を主軸)移し、主軸の左右に多くの坊舎を配置する中世神宮寺の伽藍を形成する。
その様子は以下等で窺うことが出来る。
◆若狭神宮寺旧寺域実測図:この図は実測図に「寛文11年・神宮寺一山総見取図」の坊舎名を落と
したもの。
2014/10/20追加:
「ふるさとの歴史遺産を知ろう!〜神宮寺発掘調査の成果から〜」小浜市世界遺産推進室、下仲 隆浩、年代不詳(2005/09以降) より
◇寛文11年・神宮寺一山総見取図
<本図に描かれる三重塔は、本図が近世の絵図であること、また現本堂の南に描かれるので、
当寺古図再興中の三重塔と同じく、中世の利生塔を描いたものと推定できる。>
上に掲載の
◇若狭神宮寺境内絵図 ◇当寺古図再興 も
中世の姿を知ることが出来る。
2010/04/06撮影:
○若狭神宮寺塔跡及び心礎、金堂跡
2014/10/20追加:
○「ふるさとの歴史遺産を知ろう!〜神宮寺発掘調査の成果から〜」小浜市世界遺産推進室、下仲 隆浩、年代不詳(2005/09以降) より
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◇塔跡発掘調査:
基壇上には石が散乱するが、心礎及び原位置を保つ礎石1個が残存する。
若狭神宮寺塔跡21:左図拡大図
中央が心礎、その向かって右が側柱礎石、側柱礎石を含んで心礎を囲むほぼ内側のトレンチが塔初重平面、ほぼ外側のトレンチなどが塔基壇である。
◇心礎:
若狭神宮寺塔跡22:心礎
若狭神宮寺塔跡23:心礎及び手前の石が側柱礎石
若狭神宮寺塔跡24:心礎、心礎下をやや離れて土壇中を走る斜めのカーブ線は心礎据置掘方を示すカーブ線である。
若狭神宮寺塔跡25:塔乱石積基壇
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◇若狭神宮寺金堂跡:
2010/04/06撮影:
若狭神宮寺金堂基壇1:何れも写真中央遠くに塔基壇の遺構が写る。
若狭神宮寺金堂基壇2:何れも北辺の写真で、石積基壇が良く残る。西辺は不明確、
南辺の基壇は上掲「若狭神宮寺塔跡11」に見える(手前石列が金堂跡基壇の石列)ように、石積上部が地上に表れる。
2005年9月新聞報道:
塔跡北約30mのところで、長さ約15mと約4mの2段の石積みが新たに発掘される。
石積みは斜面を切り崩して平場(約30m×20m)を作る際、土を堰止めるために用いられたと推定される。
「塔との位置関係などから、この平場に金堂や構堂などの主要な建物があった可能性がある」教委の見解が発表される。
神願寺跡発掘石組:新聞報道写真
2014/10/20追加:
「ふるさとの歴史遺産を知ろう!〜神宮寺発掘調査の成果から〜」小浜市世界遺産推進室、下仲 隆浩、年代不詳(2005/09以降) より
若狭神宮寺金堂跡3:2段の石積 若狭神宮寺金堂跡4:同左
◆若狭利生塔:
南北朝期には当寺に利生塔が造営と云う説もあるが、全く不明。<この説の典拠不明。>
※若狭神宮寺に利生塔が建立された史料は、下に掲載(2014/09/30追加及び2015/08/02追加)のように「神宮寺文書」10号文書(「福井県史資料編9」所収))がある。
また、「当寺古図再興」および「寛文11年・神宮寺一山総見取図」の古絵図が残るが、これらの古絵図では古代神願寺塔跡とは違う位置に三重塔が描かれていることもその傍証となるであろう。
※なお、若狭安国寺は小浜湊に隣接して創建・高成寺と号し、現存する。
2014/09/30追加:
○「福井県史 通史編2 中世」平成6年 より
第六章 中世後期の宗教と文化>第一節 中世後期の神仏信仰>一 宗教秩序の変容>安国寺・利生塔 の項
以下のように述べる。
『若狭国利生塔はこれまで不明とされてきた。
ところが遠敷郡明通寺に興味深い史料がある。明通寺は暦応二年正月、勤行目録・寺絵図や守護斯波家兼(時家)の書下を添えて、「御願塔婆」を明通寺に建立するよう要請している(明通寺文書二七号)。一般に利生塔の設立は寺院側からの申請によっており、備後国浄土寺や伊賀国楽音寺の申状が残されているし、播磨国清水寺の場合は申請を却下されている。時期からいっても、内容からみても、この明通寺申状が利生塔建立の申請であったのは間違いないであろう。(中略)
建武三年八月の三方郡能登野での戦では明通寺は足利方として奮戦し三名の死者まで出しており(同二六号)、軍忠という点からみても、利生塔が設立される十分な条件を
備えていた。しかし明通寺の申請は却下され、代わって遠敷郡神宮寺が若狭国利生塔に選ばれる」。
暦応二年十二月十三日に仏舎利二粒を神宮寺三重塔に奉納するとの院宣が出され、翌三年正月一日に奉納されている(神宮寺文書一〇号)。能登国利生塔の永光寺の場合も、暦応二年十二月十三日に塔婆修造の光厳院の院宣が出され、翌三年正月一日に足利直義の仏舎利奉納状が出ており、若狭神宮寺と日付が完全に一致する。神宮寺に奉納された仏舎利二粒のうち一粒が東寺仏舎利であった点も、諸国利生塔と一致している。神宮寺三重塔が若狭国利生塔に選ばれたことは疑いあるまい。』
●2014/10/24追加:
ところで、上述の「若狭神宮寺関連遺跡」下仲隆浩(「月刊文化財 (Vol.518)」、2006/11 所収) → 中世神宮寺の項 に
◇「伽藍配置変遷模式図試案」を掲載するが、
古代の神願寺の配置図と中世の神宮寺の配置図があり、中世の神宮寺の配置図では北門-本堂-奥之院-利生塔のラインがある。利生塔はこのラインにが明示される。本堂南に利生塔があったという認識である。
因みに、古代神願寺は中世の神宮寺の配置の西側に金堂-塔のラインがあり、現在の本堂の背後(西側)に金堂及ぶ塔跡が発掘されたことと符合する。
現在の本堂を基準にして言い換えれば、古代神宮寺の塔は本堂の背後・南西に位置し、中世の利生塔は本堂の南に位置したということであろう。
では、本図に示された利生塔の位置は何に基づくものなのであろうか。
以下いずれも上述のものであるが、
◇「当寺古図再興」に描かれる塔(三重塔)は明らかに本堂に南に位置し、
同じく
◇「寛文11年・神宮寺一山総見取図」に描かれる塔(三重塔)も明らかに本堂南に位置するように描かれている。
勿論、これらの絵図は近世のものではあるが、絵図に描かれる三重塔は中世の利生塔を現したものと推測して良いものと思われる。
おそらくは、これらの絵図を根拠に中世利生塔は本堂南に建立されたものと判断したものなのであろう。
そして、以上の推測が正しいとすれば、若狭利生塔は三重塔であったとも推測される。
2015/08/02追加:
「中世叡尊教団の薩摩国・日向国・大隅国への展開」松尾剛次 より
若狭神宮寺利生塔については「暦応3年正月一日、仏舎利2粒、一粒は東寺、当寺の三重塔婆に奉納す」(「神宮寺文書」10号文書(「福井県史資料編9」所収))との史料がある。
本史料によれば、若狭神宮寺利生塔は三重塔であったということになる。
★若狭神宮寺現況
盛時には25坊を数えたとされ、杉本坊・不動坊・赤井坊等の字が残る。
現在は大膳院(桜本坊)1宇のみが神宮寺を護持する。
※現存堂宇は僅かに、本堂・仁王門・開山堂・円蔵坊(本堂前北東・元光乗坊)・桜本坊のみとなる。 ○本堂
本堂(重文・天文22年に朝倉義景が再興、桁行5間、梁間6間・単層入母屋造・檜皮茸)は室町期の堂々たる大建築である。
和様を主体に木鼻に天竺様繰形、唐様束梁などの手法を用いる。
2002/01/12撮影:
若狭神宮寺本堂1 若狭神宮寺本堂2 若狭神宮寺本堂3 若狭神宮寺本堂4 若狭神宮寺本堂5
2010/04/06撮影:
若狭神宮寺本堂11 若狭神宮寺本堂12 若狭神宮寺本堂13 若狭神宮寺本堂14 若狭神宮寺本堂15
若狭神宮寺本堂16 若狭神宮寺本堂17 若狭神宮寺本堂18 若狭神宮寺本堂19 若狭神宮寺本堂20
2007/12/26追加:
「八幡神と神仏習合」達日出典、講談社、2007 より
◇若狭神宮寺本堂平面略図:
本堂内陣正面及び左側は須弥檀になり、仏像が並ぶ、右は壁面となり、この壁面は勧請座(影向座)といわれ神号掛軸3幅が掛けられる。
(「小浜市重要遺跡確認調査報告書V」:向かって右の壇には神号掛軸3幅・・中央若狭根本神<若狭比古・比女>、
右神体山<那伽王・志羅山>、左垂迹地<白石鵜之瀬、八幡>・・、
中央の壇には若狭彦本地薬師如来坐像、左の壇には若狭姫本地十一面観音坐像が安置される。)
2014/10/30追加:
「ふるさとの歴史遺産を知ろう!〜神宮寺発掘調査の成果から〜」小浜市世界遺産推進室、下仲 隆浩、年代不詳(2005/09以降) より
昭和15年若狭神宮寺本堂
○仁王門(北面する。重文・鎌倉末期、単層切妻・杮葺、八脚門)も優美な姿を残す。
2002/01/12撮影:
若狭神宮寺仁王門
1 若狭神宮寺仁王門
2 若狭神宮寺仁王門
3
2010/04/06撮影:
若狭神宮寺仁王門11 若狭神宮寺仁王門12 若狭神宮寺仁王門13 若狭神宮寺仁王門14 若狭神宮寺仁王門15
若狭神宮寺仁王像1 若狭神宮寺仁王像2
なお、大和東大寺二月堂への「お水送り」の行われる閼伽井も残る。
若狭神宮寺で汲まれた「お香水」は、松明行列とともに遠敷川沿いに約2キロ上流の「鵜の瀬」まで運ばれる。
「鵜の瀬」で大護摩供が行われた後、住職が送水文を読み上げ、「お香水」は筒から遠敷川に注ぎ込まれる。
「お香水」は10かけて、奈良東大寺二月堂の「若狭井」に届くと言われている。
2010/04/06撮影:
○坊舎跡<参考:(上掲)若狭神宮寺旧寺域実測図 及び 若狭神宮寺境内絵図>
本坊(桜本坊)1 本坊(桜本坊)2 本坊(桜本坊)3:大膳院とも称する。
光 乗 坊1 光 乗 坊2
仁王門南方南北参道:仁王門(北門)から本堂に至る参道左右には多くの坊舎があった(現在は区画整理が行われていると思われる)
本坊・光乗坊間東西道1:左光乗坊石垣、右本坊石垣
同 2:左本坊、右光乗坊付近
推定實寳坊跡? 推定杉本坊跡? 推定泉蔵坊跡
坊舎跡(坊名不詳)1 坊舎跡(坊名不詳)2 推定奥之坊跡
※境内東南(東門の南西)の坊舎跡地については未見につき、不明。
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※若狭神宮寺(神願寺)は、多田ヶ岳の東峰である長尾山を神体山とする。
当寺の北方多田ヶ岳の西麓に多田寺がある。多田寺は多田神社の神宮寺として成立したとされる。
多田寺には奈良期からの創建を物証する仏像を多く伝える。
→若狭小浜明通寺三重塔/小浜多田寺
2006年以前作成:2017/02/10更新:ホームページ、日本の塔婆
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