賀 茂 上 社 神 宮 寺 ・ 賀 茂 下 社 神 宮 寺

賀茂上社神宮寺・賀茂下社神宮寺

 賀茂社(上賀茂社・下賀茂社)は洛中洛外の諸社の中で、佛教の影響が殆どなく、ほぼ純粋な社であり続けたイメージがある。
  (例えば、愛宕社・北野天神・祇園感神院は天台宗叡山の影響化にあり、石清水八幡宮の実態はほぼ寺院であり、伏見稲荷社は真言宗東寺の影響化にあり、仏教色の極めて濃い神社であった。)
しかしながら子細に見ると、賀茂社にも中世・近世には神宮寺があり、仏塔が営まれ、仏教行事が行われていたことが断片的に伝えられる。
けれども、その実態は茫として分からないのも事実である。
2010/11/17:当ページの体裁を整形する。


賀茂上社神宮寺及び塔婆

2003/8/18:
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より
 賀茂上社( 賀茂別雷神社・上賀茂神社)
  多宝塔:今澤田社東蓮池北に小堂有り、多宝塔と号す。
  百錬抄云、永久4年公家賀茂上社の多宝塔供養、今上懐孕の時の御願なり。但馬守家保の造立なり。
○「よみがえる平安京」より:
 上賀茂社模型:図の中央附近に多宝塔がある。
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2007/03/10追加:
○「賀茂社の建築」桜井敏雄(「賀茂社」桜井敏雄ほか、淡交社、平成16年 所収) より
  賀茂別雷神社社頭図
本図は室町期製作と推定される。この図では2基の多宝塔が描かれる。
本図中央には神宮寺多宝塔(下重5間?)があり、東に観音堂(正面3間)、鐘楼がある。
 (※この多宝塔は多宝塔形式なのか真言大塔形式なのか良く分からないが、下重の柱間が5間もしくは6間つまりは少なくとも3間ではない
 ならば、真言大塔形式の可能性があるとも思われる。)
さらに西側には院御所・小御所があり正面に三重屋根を架したように見える多宝塔?がある。
 (※この三重屋根のように描かれた形式は良く分からない。)
諸文献では以下のように記録される。
 (山城名勝志):「神宮寺 在本社東南」「今澤田社東蓮池北、有小堂、号多宝塔」、
 (百練抄):「永久4年<1116>公家供養賀茂上社多宝塔、今上懐妊之時御願也。但馬守家保建立之」「康治2年<1143>賀茂神宮寺供養。先年炎上之後、・・」、その他経所も建立されていた。
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 2007/02/04追加:
 ○「社寺絵図とその文書」京都国立博物館、1985  より
   賀茂別雷神社社頭図・神宮寺(部分図):紙本着色、室町期、賀茂別雷神社蔵。 ・・・掲載図の多宝塔は神宮寺多宝塔
 堀に囲まれた庁舎附近の山麓に多宝塔、鐘楼、経蔵などを備えた神宮寺観音堂がある、その境内には片岡社がある。
 また本社西方には宝形造の経所、院御所、小御所、神馬御厩、多宝塔がある。
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2007/02/04追加:
◆「鴨社の神仏習合」嵯峨井建(鴨社叢書1「鴨社の絵図」糺の森顕彰会事務局、平成元年 所収) より
神宮寺の創建については不明、聖神寺が嵯峨天皇御願とする「史料」がある。
「賀茂県主系図」には「禰宜男床 天長2年卒去 嵯峨淳和天皇2代 聖神寺建立本願 弘仁11年造立也、依神御託宣也」
 ※この聖神寺は「続日本後紀」承和4年の条、「三代実録」元慶2年の条、延喜式の「聖神寺季料」(聖神寺四季料、季別3斗5升2合とある)にその名が見え、信憑性は高いと思われる。
 ※「山城名勝志」では元は大門村(別名聖神寺村)にあり、寛永6年上社境内鳥居西に移され、神宮寺の一つとされたが、明治初年(神仏分離で?)廃絶したと云う。
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○上賀茂社神宮寺本堂(観音堂)については以下の情報が散見される。
観音堂は乗願院(北白川仕伏町)本堂として移建、観音堂は寛永6年(1629)徳川家光の建立と伝える。
  →乗願院については下に掲載。
沢田社の東に「二葉姫稲荷神社」があり、ここが神宮寺址で、第一摂社片岡社の神宮寺と云われていた。
 2025/02/15追加:
  ※「二葉姫稲荷神社」は勿論現存するが、意外にかなりの高所・山中のように思われる。現地未踏の為、詳細は不明。
  ※第一摂社片岡社(片山御子神社)の祭神は玉依媛(賀茂別雷の母)である。それ故、第一の摂社なのであろう。

 なお百万遍知恩寺(浄土宗鎮西派四箇本山の一つ)は上賀茂社の神宮寺としての起源を持つと云われる。
知恩寺はそもそも上賀茂社の神宮寺で相国寺北門前仲ノ町に位置し、賀茂河原院、今出川釈迦堂とも賀茂禅房などといわれていた。
法然は賀茂明神を崇敬し、この神宮寺に住す。その後、弟子源智が功徳院知恩寺と改める。
その後、知恩寺は相国寺建立にあたって一条油小路に移転し、その後も数度移転する。

2025/02/15追加:
○「原色日本の美術 16 神社と霊廟」稲垣榮三、小学館、昭和43年 より
◇上賀茂社
本殿と権殿は権殿というが、全く同形同大であり、二棟東西に並立する。
社は井桁の土台の上に建つ。三間流造であり、屋根は檜皮葺き。
社殿の多くは、寛永年中のものであるが、本殿・権殿はその後6度の造替を経て、現在(昭和43年)は文久3年(1863)の造替のものである。
 ※2025年現在では、平成27年(2021)21年ぶり、42回目の造替がなされた本殿である。
 ※但し、本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。ともいう。
  上鴨社・下鴨社境内図     上賀茂社社頭図・本殿平立面図     上賀茂社本殿
2025/02/15追加:
○「神社とは何か」新谷尚紀、講談社現代新書2646、2021 より
◇上賀茂社(賀茂別雷社)と下賀茂社(賀茂御祖社)
 下鴨社の祭神は賀茂建角身とその娘玉依日売であり、
「山城国風土記」によれば、上鴨社の祭神は、玉依日売が賀茂川を流れてきた丹塗矢を拾って床に置いたところ懐妊し、生まれた子である賀茂別雷であるという。
5〜6世紀(飛鳥期以前)頃、山背国葛野郡や愛宕郡を支配していたのは、賀茂建角身の子孫という賀茂県主の一族と伝える。
 さて、この賀茂上下社の本殿は流造(上下社とも三間社)である。
そして、何より特筆すべきは、この賀茂上下社の社殿こそは最古の流造社殿であるということである。
流造の本殿は屋根に千木や鰹木を持たず、構造は切妻造・平入の身舎の正面に庇を設け、その庇に正面側の屋根を伸ばした様式である。
 なお、流造の社殿は社殿様式の主流であり、現在約10万社以上と言われる神社のおよそ6割が流造と言われるほどの数である。
また、流造は多くの参拝者が本殿に昇殿することなく木階の下から拝礼できる形式(非住居型・神職非参入型)であるため、普及したとも考えられる。
 そして、賀茂上下社の本殿は柱の下に井桁を組んだ土台を持つ事が特徴である。なぜ、井桁の土台なのか。それは遷宮との関係で説かれる。(稲垣榮三)
賀茂上下社とも式年遷宮(但し式年と言っても年数は不定期ではある)を繰り返してきた。賀茂社の遷宮(本殿造替)はまず旧本殿の前に新本殿を新造し、神体を権殿に遷座し、旧本殿を取り壊し、その上で新本殿を轆轤で引いて、旧本殿の位置に据え、神体を新本殿に遷座するという手順で行われる。本殿下の土台とは引き屋工法で本殿を移動される為に必要なのである。
 ※2025年現在では、平成27年(2021)21年ぶり、34回目の造替が斎行された本殿であるのは上述の通り。

2025/02/15追加:
◆上賀茂神宮寺本堂遺構【北白川乗願院本堂】
2025/02/15追加:
○サイト:糺の森コラム>延宝度神宮寺観音堂の復元について より
次のような趣旨で、上鴨社神宮寺観音堂(本堂)についての言及がある。
 乗願院本堂の調査をさせていただく機会があった。
この建物は、かつて上賀茂神社に存在した神宮寺観音堂で、建立年代は寛永六年(1629)と伝えられる。
下鴨神社と同様に廃仏毀釈により廃寺となるも、明治2年北白川の乗願院に移築され現存する。
今回復元した(下鴨社)観音堂とは建立年代に50年ほど開きがあり、移築時に増改築が施されているものの、建立当初の構造形式や規模が同等で、南面建具も蔀戸が嵌められ、須弥壇も逆蓮の親柱を持つ禅宗様であることなど共通点が多々認められた。
2025/02/15追加:
○サイト:京都>乗願院 より
 乗願院の本堂は上賀茂社神宮寺観音堂を明治2年に移したものである。
本堂は双葉葵紋の蛙股などが施され、寛永年中の建築様式の特徴がある。
左京区北白川仕伏町83に所在。乗願院は、元比叡山山中の坊舎であったが、元亀2年の織田信長の焼き討ちで焼亡。
慶長13年(1608)浄土宗信誉が再興し、【照高院】の御霊所(位牌安置か)になる。
 上賀茂神宮寺本堂遺構:北白川乗願院本堂
◆参考:
【照高院】
照高院は、豊臣秀吉により大仏方廣寺別当に任じられた聖護院道澄が自坊として方廣寺山内に開基した寺という。
 →方廣寺(山城豊国社)
元和元年(1615)2代興意法親王のとき、大阪城落城の直後に大仏殿住職を解任され、東山妙法院にその管理は遷される。
元和5年(1619)後陽成天皇の弟興意法親王が、伏見城の建物を譲り受け、現北白川外山町付近に天台宗寺院として再興される。
寺領一千石を与えられ、客殿、書院、御所之間、護摩堂などを具備したようである。
明和7年(1770)聖護院兼帯となり、聖護院門主(法親王)の退隠所となる。
明治元年、聖護院門跡附弟・信仁入道親王が照高院に住し、還俗して「照高院宮智成親王」と称す。
明治3年、「聖護院宮」から「北白川宮」に改称す。
明治5年、智成親王は死去、実兄であり、もと輪王寺宮であった能久親王が継承す。
明治8年、北白川宮、東京移住、堂宇は撤去される。
  天皇制の軍人あるいは台湾植民地開拓紳としての北白川宮能久親王
      輪王寺宮公元法親王、還俗、戊辰戦争・奥羽越烈藩同盟盟主・北白川宮継承、
      近衛師団長として台湾占領戦を指揮、台湾にて病没とされる、台湾の官幣社など多くの神社で台湾開拓神と祀られる。
現状、跡地には高い石垣や広い更地が残されるようである。ただ照高院跡地の石碑などは、北西550mの地に建てられているようである。
石碑のある場所は乗願院付近であり、近辺には聖護院門跡の墓地(地獄谷)、合祀6帝聖護院宮墓地、北白川宮智成親王墓がある。


賀茂下社神宮寺及び塔婆

2003/8/18
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
 賀茂下社塔(賀茂御祖神社塔)
  東御塔:本宮東高野川西旧跡なり。
   百錬抄云、大治3年太上天皇鴨御祖社東御塔供養。播磨守家保の造立。
  西御塔:御祖社西北に石橋あり、その傍の塔壇いう所旧跡なり。
   百錬抄云、天承元年待賢門院賀茂の下の社御塔供養。保延4年鴨社神館、神宮寺社頭西の塔院焼く。
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嵯峨天皇御願の神宮寺(本尊十一面観音・不動明王)が河合神社北にあったと云う。
鎌倉期の境内図(模写)では神宮寺・経所・経蔵が描かれる。
 ※神宮寺跡明治初年の廃仏毀釈のため廃絶,森の中に基壇と礎石3個が残ると云う。
百練抄」では以下の記事があると云う。
 「大治3年<1128>太上天皇供養鴨御祖社東御塔。御在位之時、播磨守家保造進之」
 「天承元年<1131>待賢門院賀茂下社御塔供養」
 「保延4年<1138>鴨社御館並びに神宮寺社頭西塔焼亡、件塔、待賢門院御願也」
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2007/02/04追加:
◆「鴨社の神仏習合」嵯峨井建(鴨社叢書1「鴨社の絵図」糺の森顕彰会事務局、平成元年 所収) より
 注)以下に掲載の「奉願上候口上」・「諸願並窺書簿」は上記「鴨社の神仏習合」からの「孫引き」である。
  また論点は上記「鴨社の神仏習合」の要約である。

神宮寺の創建については不明、鴨社神宮寺は嵯峨天皇御願とする「寺伝」がある。
「続日本後紀」天長10年(833)「道場一所在 山城国愛宕郡賀茂社以東一許里。本号岡本堂。是神戸百姓奉為賀茂大神所建立也。・・・」
賀茂社東一里許の所に、神戸の百姓が賀茂大神のために建立した岡本堂(岡本とは地名か?)が、神宮寺の原初形態であろうと推測できる。
 ※但し、以上のことは岡本堂が賀茂社神宮寺であるということではなく、賀茂社が仏教を受け入れる素地となったということであろう。

下社神宮寺の初見は「小右記」寛弘2年(1004)に「修諷誦賀茂下神宮寺、是例也」とあり、これが初見といわれる。
また「小右記」には29ヶ所に下社神宮寺の記事があると云う。

造塔について:
百錬抄:東御塔、保安元年(1120)木作始、大治3年(1128)播磨守家保によって完成。
百錬抄:西御塔、天承元年(1131)待賢門院御願によって、造立供養。
百錬抄:保延4年(1138)鴨社神館并神宮寺社頭西塔焼亡。
(以上により、鴨社は本社の東西に東西両塔が並んだが、その期間は約6年であったと知れる。)
兵範記:仁平2年(1152)禰宜惟文、多宝塔(東塔か?)供養、「多宝塔婆安置三尺釈迦多宝一仏、在天蓋・・・・」
  待賢門院御願西塔は三重塔として再興。(「鴨社古図」では場所は神宮寺周辺とされる)
   以降塔婆の沿革は詳らかならず。

 賀茂御祖神社絵図A:京都国立博物館蔵: 「鴨社の神仏習合」嵯峨井建より転載
 賀茂御祖神社絵図B:下賀茂神社蔵、明治38年
           :2007/03/10:「賀茂社の建築」桜井敏雄(「賀茂社」桜井敏雄ほか、淡交社、平成16年 所収)より転載
           A・B両図とも河合神社北に神宮寺が描かれる。
 賀茂御祖神社絵図(神宮寺附近): 「鴨社の神仏習合」嵯峨井建より転載
           :下賀茂神社蔵:南西に多宝塔が描かれる。・・・・当然ながら上記の3つの画像は同一の絵図である。
           ・・・・・・・・下に掲載の「鴨社神宮寺部分図」と同一である。

近世では寛永、延宝、宝永、享和、天保、文久に造替が行われたが仏堂の修理も同時に行われたと思われる。
神宮寺は河合神社の北隣にあり、断片的に以下のことが知られる。
近世の仏教的要素の基本的概要は以下の通りであったと記録される。
 神宮寺本尊十一面観音、不動明王立像、愛染明王坐像・・・、
 読経所・護摩堂本尊普賢菩薩・・護摩堂本尊不動明王・・・、河合小経所本尊普賢菩薩・・・。
  ○2007/03/10:「賀茂御祖神社指図」:
   読経所(桁行梁行共に5間5寸)、護摩堂(桁行4間4寸、梁行3間3寸)読経所に付設、雑舎(桁行7間2尺、梁行5間1寸)があった。
   河合社に小経所(桁行3間半、梁行3間)、雑舎(桁行4間、梁行3間、東庇付)があった。
   神宮寺:観音堂(桁行5間、梁行3間、1間向拝付)、雑舎・座敷(桁行4間、梁行3間)、台所(桁行6間半、梁行4間)があった。
    賀茂御祖神社指図1(本社附近) :京都府立総合資料館蔵
    賀茂御祖神社指図2(神宮寺附近); 京都府立総合資料館蔵
          :「下鴨神社の建築」川上貢(「下鴨神社と糺の森」賀茂御祖神社、淡交社、2003 所収) より転載
                       
※本尊は十一面観音であったが、明治維新の神仏分離で失われたと思われるも、本尊の処置が焼却・廃棄・遷座なのかは資料がなく全く不明と云う。
※神宮寺本堂は川西市へ(神仏分離の折)遷されたとも仄聞する、(嵯峨井氏が)調査を試みるも、未だに不明。
※明治27年編「御祖神社御事歴以下明細帳」では「摂社日吉神社 右宝永5年神宮寺と共に炎上、後相殿となる」とあり、宝永5年(1708)神宮寺は火災を受ける、被害の程度あるいは再建の有無など全く不明。
※なお、中世の神宮寺は桁行8間の本堂、西に中門、西南に多宝塔、北東に庫裏、東に末社の構成であった。

元禄16年(1706)「下鴨神領配分目録」では
「供僧方 14石余松林院、16石余本寿院、15石余満徳院、15石余渓廣院、14石余乗林院、13石余最楽院、13石弱隋了庵 7口合42石余 経所仲座 3口・・」 とある。
年紀不明「鴨神殿舎屋并名所旧跡」では「供僧 山門1人、寺門3人、当地2人 仲座3人」とあり、6〜7名の供僧がいたと推測される。
また神宮寺住職は本寿院であり、読経所の住職は松林院であった。
しかし当社においては、仏堂が中門内からは一貫して排除され、また鴨社管理権も一貫して社家が握っていたのが実態であった思われる。
つまり下賀茂社に於ける神仏の習合は本地仏が社殿に祀られるとか、神域中心に仏堂などが営まれるようなものではなくて、初原的なものだったとされる。(上賀茂社は 社家の数が多く、また社家より多くの出家が出て、寺家が権勢を持つような構造ではなかったということであろう。)

●神仏分離令によって、下賀茂社神宮寺は廃棄される。
 慶応四年三月十三日 太政官布告
 慶応四年三月十七日 神祇事務局ヨリ諸社ヘ達
 慶応四年三月二十八日 神祇官事務局達     と所謂「神仏分離令」が布告され
慶応4年4月11日には「慶応四年四月十日 太政官布告」が鴨社へ伝達される。(明治27年編「御祖神社御事歴以下明細帳」)

慶応4年4月某日、鴨社側では以下のような「口上」を提出する。(「鴨脚家文書」)・・・「奉願上候口上」全文はこちら

「 奉願上候口上
一、当社神前間近ク御座候読経所・小経所・神宮寺等之三ヶ寺者
  嵯峨天皇之御建立ニ而  勅願所・・・・ 今般
  王政御一新ニ付・・・神仏混乱・・・元来御社間近ク堂舎之御座候者不似合候・・右三ヶ寺共廃絶ニ相成候様只管奉歎願候、
  猶又読経所之儀者山門寺門等之輪番所ト相唱候得共、読経所・神宮寺両寺之住僧、一社之補任ヲ以住職許容致・・・
  毎年10月10日八講会之節者・・・都合六口之供僧於社内橋殿八講会執行仕候、是等之儀者甚以不似合不相当之儀奉願候得者
  是又廃絶ニ相成候様奉願上候
一、於境内寺庵并辻々石地蔵数ヶ所御座候、何れも破仏廃絶仕候奉願候、・・・・
    慶応4年4月
          鴨一社惣代 田中隠岐守 北大路甲斐守   祝 鴨脚二位   禰宜 泉亭二位
     中院大納言殿 御雑掌   葉室左少弁殿 御雑掌                        」

以上によって神祇局に召集され、次の通り申し渡される。(願書に付箋)

「猶執計之上其次第可申出旨御口達」
「付箋社頭ニ有之堂舎取除可申候、供僧之儀難渋不相成候様、取斗可致事
    八講会被廃候間其筋江此旨可申達事
    境内寺庵并石地蔵等之儀者御布告之御趣意ヲ以相当之取斗可致候、尤粗暴無之様可致候事」

※以下のように早々に廃仏が実行されたものと思われる。
「明細調記」では以下のような処置がなされたと記録されている。
4月10日本寿院、松林院、経所預役者に対して次の通告があった。
 1.三ヶ寺の堂舎の取除き、
 2.八講会の廃止、
 3.山門の僧は渓廣院へ、寺門の僧は千葉院・万徳院・常林院に通達し、三ヶ寺の本尊以下の仏具類は残らず供僧中へ渡すべく両山へ引き取らせる、
 4.堂舎など建物一切は神社側が受け取る、
 5.両僧が難渋しないようにとのお達しにより金30両宛を与える。
かくして、経所預役の2名は駆人の末席に復帰、松林院は本山延暦寺に帰り、本寿院は還俗し警衛士休所留守居役となる。
5月1日(あるいは5月2日)には「神祇事務局」宛に全ての処置が終ったことを届け出ている。
   ・・・・以上を伝える「御届申上候口上」の全文はこちら

「 奉願上候口上
一、当社神前間近ク御座候読経所・小経所・神宮寺等之三ヶ寺者
  嵯峨天皇之御建立ニ而
  勅願所 御座候趣、前々より申伝ニ御座候、右者仏法盛行ノ御時節、造立ニ相成候儀ニ付、年来社家等歎ヶ敷尓毛処、今般
  王政御一新ニ付中古以来神仏混乱仕候社不少ニ付、右等有之候社者伺出候上 御沙汰被為在候趣被仰出候、
  於当社仕神仏混乱仕候儀御座候得共、元来御社間近ク堂舎之御座候者不似合候得者、社家等兼々憂歎仕候ニ付、
  右三ヶ寺共廃絶ニ相成候様只管奉歎願候、猶又読経所之儀者山門寺門等之輪番所ト相唱候得共、読経所・神宮寺両寺之住僧、
  一社之補任ヲ以住職許容致、平日勤行仕候得共、毎年10月10日八講会之節者両山より四口之供僧下山致シ、
  都合六口之供僧於社内橋殿八講会執行仕候、是等之儀者甚以不似合不相当之儀奉願候得者、是又廃絶ニ相成候様奉願上候
一、於境内寺庵并辻々石地蔵数ヶ所御座候、何れも破仏廃絶仕候奉願候、抑当社之儀者
  御代々
  御崇敬厚也、異御社柄ニ御座候、殊ニ仏法之儀者神慮被為忌嫌候儀、4月11月御祭月、右堂舎蔀ヲ下四方閉蔵、
  供僧等社内往来差止候社法御座候得共、何卒格別之
 御恩(ママ)召ヲ以右願之通速ニ被為
 聞食分候様一社一同伏テ奉歎願候以上
    慶応4年4月
          鴨一社惣代 田中隠岐守 北大路甲斐守   祝 鴨脚二位   禰宜 泉亭二位
     中院大納言殿 御雑掌   葉室左少弁殿 御雑掌
                        」

明治元年「諸願並窺書簿」:

5月2日神祇事務局代江惣代 秀文長顕持参判事平田延太郎請取之其留如左
    御届申上候口上
当社神前間近ク御座候 読経所神宮寺小経所并境内寺庵石仏等
伺之通取除候様被 仰渡別紙之通処置仕候依而此段 御届申上候以上
   慶応4年後4月
       御祖宮祝 鴨脚 二位 秀静      禰宜 泉亭 二位 俊益
  神祇事務局

   覚
一、読経所神宮寺小経所三ヶ寺本尊并仏具別紙之通供僧中江差遣山門江引取申候事
一、10月10日八講会廃止之儀山門寺門供僧六口江申渡候処御仕則請書取置申候事
一、右仏具類并法衣等ハ供僧六口江分配申付候事
一、三ヶ寺本堂之儀者取除申候、雑舎之儀者是迄公用社用等ニ用ひ来候儀ニ付其儘残置申候事
   但経所雑舎之儀□楽人休息所神宮寺雑舎之儀ハ警衛士休息所より以来称号仕候事
一、御社領之内高四拾石余供僧中致進退来候処任社法以来御修理料ニ仕候事
一、従御 内儀神宮寺江御祈祷御撫物御渡ニ相成御座候処 今般返献仕候事
一、神宮寺住職本寿院儀者致還俗度旨達而歎願ニ付為助成金子弐拾両生涯壱人扶持遣之警衛士休息所留守居役申付候事
   但藤本勘之丞改名仕候事
一、読経所住職松林院儀者、山門渓廣院方江致退去候為助成金子三拾両遣申候事
一、帝釈堂本尊仏具類等供僧江遣之堂作取除申候事
   但当時供僧無住職ニ御座候
一、境内有之候寺庵之本尊仏具并石地蔵等百姓共之由緒有之寺院其外他所江遣申候、尤堂造之儀者破却仕、百姓家ニ相用申候事
    右通処置仕候以上
     辰後四月     鴨社
   」

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2025/02/15追加:
 渓廣院については、次のように判明する。
○滋賀県立公文書館所蔵資料 より
「寺院明細帳滋賀郡」
  寺院明細帳滋賀郡延暦寺渓廣院
 最明寺時頼(鎌倉幕府5代執権・北条氏)本坊と伝える、慶長年中大谷行部吉継再興す、維新前は毎年10月10日より本坊事を執り、京都加茂神祠に於いて法華講経會を修す
(朱字にて抹消、朱字にて加筆)
 同寺中、正観院へ合寺、■■明治39年8月31日許可
 ※以上に関連して、滋賀県立公文書館には次の4点が存在するが、未見。
  「滋賀郡坂本村大字坂本天台宗延暦寺境内寺院渓広院寺院合併願」
  地理掛書類(社寺境内外取調書)>「西塔南尾、中正院・谷堂・渓広院跡・宝園院・無量院・上乗院・本住院」
  山門検査表(4)>「西堂南尾(中正院、谷堂、渓広院敷地、宝園院、無量院、上乗院、本住院)」
  地理掛書類編冊(寺院墓地絵図)>「西塔南尾、126谷堂、127中正院、128宝園院、129無量院、130上乗院、131本住院、132渓広院敷地」
○「忘れられた霊場をさぐる 3 ー近江における山寺の分布ー」栗東市教育委員会、平成20年 では
南尾谷について次のように記す。(p.120〜)
惣堂分(※西塔)の南西側に展開する。経蔵院堂を谷の本堂とする。
旧跡として、親鸞の住坊であった無量院、山王影向の霊地・寶園院、渓廣院、本住院、上乗院、中正院、松音坊などの山坊がある。
 ※各種の地図があるが、渓廣院の所在地が明示されている訳ではないので、割愛する。

 2025/02/10追加:
○下鴨神社:ブログ>2018年6月7日:鴨社 神宮寺 より

 鴨社神宮寺の旧跡の発掘学術調査がほぼ終了する。
◆鴨社神宮寺の概要
「正倉院文書」:
 天平6年(735)の史料に「鴨県主黒人」とあって、鴨社と仏教との関わり初めた記述がみられる。
「社記」:
 弘仁元年(810)、神宮寺造立せられる。
「太政官符」(「類従三代格」):
 承和11年(844)11月4日付には、「神域、殿舎、神舘、神宮寺などの修造」に収納物を充てるようにとある。
「小右記」:
 寛弘2年(1005)4月廿日の条、「賀茂下御社神宮寺是例也」(以降、神宮寺は史料にしばしば登場し始める)
「鴨社遷宮記」などの記録:
 堂塔など
  神宮寺:本尊十一面観世音、不動尊立像、愛染明王座像、庚申本尊青面金剛立像、脇立二童子、夜叉四体、申三匹
  読経所:本尊普賢菩薩、十羅刹女十体
  護摩堂:本尊不動、脇立二体、愛染明王、五大尊、十二天絵像十二体、大般若本尊絵像、不動絵像
  明神影向所(御本宮の祭神・賀茂建角身命の遙拝所)
  舎利塔
  堂塔の前庭には「竜ガ池」他あり
「百練抄」:
  太治3年(1128)鴨神宮寺東塔建立(現在、下鴨中学校。旧東林町)
  天承元年(1131)鴨神宮寺西塔建立(現在、出雲路橋東詰め宮崎町)
   ※嘉保2年(1095)ごろ成立した「鴨社古図」に全容を見ることができる。
「『鴨神殿舎屋並びに名所旧跡」:
 社僧;
  松林院、本寿院、満徳院、渓廣院、乗林坊、最楽坊、随了庵、山崎土佐守、山崎伊予守、山崎讃岐守(中世以来計九口[?]が記録される)
「應仁文明の兵乱」:
 全焼す。
「御祖神社御事歴以下明細調記」:
 宝永5年(1708)3月8日、宝永の大火で類焼。
 元治元年(1864)7月、蛤御門の変、鴨社の宮侍・一乗寺・渡辺のク士・十津川のク士が本堂や雑舎に駐屯する。
「愛宕郡下鴨村誌」岡本真暉集成、明治17年5月:
  御維新之際神仏混淆廃止之令二ヨッテ本尊並仏具仏器悉皆延暦寺塔中渓廣院江引渡ノ後廃寺トナル。
   ※賀茂社に於ける神仏分離の処置については、上に掲載「神仏分離に関する資料」が詳しい。

2025/02/10追加:
○ブログ:糺の森コラム>糺の森神宮寺跡の整備事業について より
◆鴨社(下賀茂)神宮寺の概要
古図を読み解く
 「鴨社古図」(下賀茂社蔵)と呼ばれる鴨社境内のようすを描いた図集がある。
この図は、明治に模写されたといわれるが、原画は平安あるいは鎌倉期の制作と推定されている。
 この古図によれば、境内地は、現在と同じ河合社の北側に位置する。境内の西側と北側は、屋根を上土とした築地塀で区画され、東と南は生垣あるいは樹林である。西辺の築地塀には、西面した薬医門形式の表門(屋根檜皮葺)があり、北面の築地には、簡易な穴門が設けられている。
 境内中央には、低い基壇の上に南面して桁行七間の本堂(入母屋造・屋根檜皮葺)がある。建物中央の五間は桟唐戸の扉となり、その左右は連子窓である。
本堂の東には食堂(東西三間・南北二間、南に庇を付設、切妻造・屋根板葺)が所在する。
本堂の西側、表門を入って北側には、鐘楼(入母屋造・屋根檜皮葺・袴腰付)がある。
南側には多宝塔が描かれるが、描き方を見ると、かつては存在したが、既に退転したいたものと思われる。
 本堂正面南には、大きな池が掘られ、大きさや深さは不明ながら、北岸の汀は、緩やかな出入をしていたようである。西岸は中央部が東へ半島状に突き出ていたと思われる。南岸と東岸は、樹木に覆われており詳細は不明である。
   鴨社古図>「鴨社神宮寺部分図」・・・・・・・・上に掲載の「賀茂御祖神社絵図(神宮寺附近)」と同じものである。
地下遺構の調査
 平成26年(2014)から復元整備の根拠を明確にするための確認調査が三ヶ年にわたり実施される。
調査で確認された遺構・遺物は平安・鎌倉期と江戸期に大別される。
平安・鎌倉期の遺構としては、建物と基壇(本堂)・多宝塔や鐘楼の基礎地盤・池・中島・井戸などである。
江戸期の遺構としては建物(観音堂)・塀・池・中島・泉と池・溝・道路・埒・雪隠などが明らかになる。江戸期の建物遺構は「下賀茂河合舎堂絵図」などを参考に詳細な検討がなされ、遺構の規模や性格が明確になる。
復元整備された遺構
 復元整備する遺構の時期は、調査情報が最も多く得られたに江戸期と決する。発見された遺構は地下に保存する処置も図られる。
池には水を湛えて、往時の姿を偲ぶように整備される。

2025/02/15追加:
○サイト:糺の森コラム>延宝度神宮寺観音堂の復元について、井上年和 より
 「下賀茂河合社堂舎絵図」(大工棟梁中井家伝来、京都学・歴彩館蔵、延宝7年/1679〜寛保元年/1741頃の景観と推定)によれば、神宮寺周辺では、池の北側に観音堂が建ち、その背後に次之間台所、雑舎、湯殿・雪隠が廊下で接続され、西側には井土(井戸)、屋形、西雪隠、下部屋などが塀に取り囲まれている様子が分かる。
また、「賀茂県主社家文書」(「延宝六年下鴨神社造営記」、京都大学大学院工学研究科建築学専攻蔵)は、延宝6年(1676)に下鴨神社境内外各建物の修復や新造に際しての記録で、観音堂については、この時に新造、構造形式や規模などが中井家の絵図と合致しさらに、部材の寸法や屋根、建具・造作、飾り金具などの仕様が記録されている。
柱の太さは六尺四寸、軒の出は茅負外まで五尺一寸など、屋根は瓦葺で壁は白土塗、須弥壇は禅宗様(擬宝珠が逆蓮)の形状で真塗(黒色の漆塗)、南面の建具は蔀戸で蝉樞という金具が付いていることなどの細かい仕様も記されている。
 なお、上鴨神宮寺観音堂遺構は北白川乗願院本堂として現存し、参考にしたのは上に記載の通りである。
 下鴨神宮寺観音堂復元模型     下鴨神宮寺観音堂蝉樞

賀茂下社現況

2025/02/15追加:
○ルーフレット「賀茂御祖神社(下鴨神社)」 より
  下賀茂社社殿:南から撮影
 一番奥の並立する二棟が西本宮・東本宮(いずれも国宝)、その西の入母屋造・瓦葺の建物は叉蔵(重文)、東西本宮の手前は幣殿(重文)、その手前は中門(重文)、その手前一部見えるのが舞殿(重文)、一番手前が楼門(重文)。
  下賀茂社本殿:西本宮と東本宮
 西本宮祭神は賀茂建角身、東本宮祭神は玉依媛という。
2025/02/15追加:
○「原色日本の美術 16 神社と霊廟」稲垣榮三、小学館、昭和43年 より
◇下賀茂社
本殿は東西に二棟並立し、規模・形式とも上賀茂社と同じと言ってよい。
 上鴨社・下鴨社境内図     下賀茂社東本宮

2007/09/05追加:2007/08/30撮影画像
 山城賀茂下社楼門
 賀茂下社神宮寺池跡1:東から西南方向を撮影:中世の神宮寺の姿「賀茂御祖神社絵図(神宮寺附近)」のように、
                          中世には、写真の池の奥に多宝塔があったものと推定されるも、今は何の痕跡もない。
 賀茂下社神宮寺池跡2:西から東方面を撮影
 賀茂下社神宮寺池跡3:池の西側汀石組;写真左手が中世多宝塔の想定場所
 賀茂下社神宮寺堂舎跡:南から北を撮影、全くのブッシュで地表には何も無いと思われる。
2023/01/01追加:2016/10/27撮影
 下鴨神社楼門2     下鴨神社楼門3     下鴨神社楼門4
2024/01/12追加;
京都初冠雪
 下鴨社楼門5:2024/01/07朝日新聞・京都版 より転載
2023/01/02追加:2022/08/11撮影
下鴨社摂社二十二所社
 現地の説明板によれば、次のように云うも、何が言いたいのかよく分からない。
 元々、「二十二所社」は旧鴨社神宮寺境内に祀られていたが、創始の年代は不詳という。
 祭神は鴨氏祖神二十二所で、加茂氏祖神「二十一庚申」(「鴨縣纂所」)と同じく加茂氏祖神「雑太社」(さわたしゃ)を相殿に祀り故に「二十二所」と称するということのようである。
荒唐無稽な話で、「好きなように宣ってくれ」という話で、理解不能である。
なお、二十二社は明治10年摂社七社の内、第六社として制定された社ともいうから、復古神道の影響で整理された「ポッと出の社」なのかも知れない。
ところで、この今でいう「二十二所」は日吉社と呼ばれていたという。
それは、明和7年(1770)に当時の禰宜・俊春とその子・俊水の2代にわたって鴨伝承や歴史的資料、記録類を集成し、寛政11年(1799)に完成させた「鴨縣纂所」によると、比叡山山王権現に下鴨神社本宮の祭神である玉依媛命の同神が祀られており、この社を遥拝所としていた時期があったことによるようである。
また、戦後、混乱期の式年遷宮事業にあって、遅延した社殿再興が、ようやく第三十四回式年遷宮で造替となると云うので、摂社第六社は近年再興されたようである。
 摂社二十二所社1     摂社二十二所社2     摂社二十二所社3
下鴨社摂社河合社六社
 六社については、建仁元年(1201)の「鴨社古圖」では河合社御垣内にそれぞれ祀られていたが、江戸期の式年遷宮以来、一棟になったという。従って、現在は六間社流造とでもいうべき社殿が構えられる。
左から
●諏訪社:祭神建御名方神・諏訪大神、●衢社(みち/ちまたしゃ):祭神八衢毘古神(やちまたひこのかみ)・八衢毘賣神(やちまたひめのかみ)、●稲荷社:祭神宇迦之御魂神、●竈神:祭神奥津日子神(おくつひこのかみ)・奥津比賣神(おくつひめのかみ)、●印社:祭神霊璽、●由木社:祭神少彦名神 の祠が並ぶ。
 摂社河合社六社1    摂社河合社六社2    摂社河合社六社3    摂社河合社六社4    摂社河合社六社5


2007/02/04作成:2025/02/15更新:ホームページ日本の塔婆