賀茂社(上賀茂社・下賀茂社)は洛中洛外の諸社の中で、佛教の影響が殆どなく、ほぼ純粋な社であり続けたイメージがある。
(例えば、愛宕社・北野天神・祇園感神院は天台宗叡山の影響化にあり、石清水八幡宮の実態はほぼ寺院であり、伏見稲荷社は真言宗東寺の影響化にあり、仏教色の極めて濃い神社であった。)
しかしながら子細に見ると、賀茂社にも中世・近世には神宮寺があり、仏塔が営まれ、仏教行事が行われていたことが断片的に伝えられる。
けれども、その実態は茫として分からないのも事実である。
2010/11/17:当ページの体裁を整形する。
★賀茂上社神宮寺及び塔婆
2003/8/18:
○「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より
賀茂上社(
賀茂別雷神社・上賀茂神社)
多宝塔:今澤田社東蓮池北に小堂有り、多宝塔と号す。
百錬抄云、永久4年公家賀茂上社の多宝塔供養、今上懐孕の時の御願なり。但馬守家保の造立なり。
○「よみがえる平安京」より: 上賀茂社模型:図の中央附近に多宝塔がある。
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2007/03/10追加:
○「賀茂社の建築」桜井敏雄(「賀茂社」桜井敏雄ほか、淡交社、平成16年 所収) より
賀茂別雷神社社頭図:
本図は室町期製作と推定される。この図では2基の多宝塔が描かれる。
本図中央には神宮寺多宝塔(下重5間?)があり、東に観音堂(正面3間)、鐘楼がある。
(※この多宝塔は多宝塔形式なのか真言大塔形式なのか良く分からないが、下重の柱間が5間もしくは6間つまりは少なくとも3間ではない
ならば、真言大塔形式の可能性があるとも思われる。)
さらに西側には院御所・小御所があり正面に三重屋根を架したように見える多宝塔?がある。
(※この三重屋根のように描かれた形式は良く分からない。)
諸文献では以下のように記録される。
(山城名勝志):「神宮寺 在本社東南」「今澤田社東蓮池北、有小堂、号多宝塔」、
(百練抄):「永久4年<1116>公家供養賀茂上社多宝塔、今上懐妊之時御願也。但馬守家保建立之」「康治2年<1143>賀茂神宮寺供養。先年炎上之後、・・」、その他経所も建立されていた。
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2007/02/04追加:
○「社寺絵図とその文書」京都国立博物館、1985 より
賀茂別雷神社社頭図・神宮寺(部分図):紙本着色、室町期、賀茂別雷神社蔵。
・・・掲載図の多宝塔は神宮寺多宝塔
堀に囲まれた庁舎附近の山麓に多宝塔、鐘楼、経蔵などを備えた神宮寺観音堂がある、その境内には片岡社がある。
また本社西方には宝形造の経所、院御所、小御所、神馬御厩、多宝塔がある。
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2007/02/04追加:
◆「鴨社の神仏習合」嵯峨井建(鴨社叢書1「鴨社の絵図」糺の森顕彰会事務局、平成元年 所収) より
神宮寺の創建については不明、聖神寺が嵯峨天皇御願とする「史料」がある。
「賀茂県主系図」には「禰宜男床 天長2年卒去 嵯峨淳和天皇2代 聖神寺建立本願 弘仁11年造立也、依神御託宣也」
※この聖神寺は「続日本後紀」承和4年の条、「三代実録」元慶2年の条、延喜式の「聖神寺季料」(聖神寺四季料、季別3斗5升2合とある)にその名が見え、信憑性は高いと思われる。
※「山城名勝志」では元は大門村(別名聖神寺村)にあり、寛永6年上社境内鳥居西に移され、神宮寺の一つとされたが、明治初年(神仏分離で?)廃絶したと云う。
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○上賀茂社神宮寺本堂(観音堂)については以下の情報が散見される。
観音堂は乗願院(北白川仕伏町)本堂として移建、観音堂は寛永6年(1629)徳川家光の建立と伝える。
沢田社の東に「二葉姫稲荷神社」があり、ここが神宮寺址で、第一摂社片岡社の神宮寺と云われていた。
なお百万遍知恩寺(浄土宗鎮西派四箇本山の一つ)は上賀茂社の神宮寺としての起源を持つと云われる。
知恩寺はそもそも上賀茂社の神宮寺で相国寺北門前仲ノ町に位置し、賀茂河原院、今出川釈迦堂とも賀茂禅房などといわれていた。
法然は賀茂明神を崇敬し、この神宮寺に住す。その後、弟子源智が功徳院知恩寺と改める。
その後、知恩寺は相国寺建立にあたって一条油小路に移転し、その後も数度移転する。
★賀茂下社神宮寺及び塔婆
2003/8/18
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
賀茂下社塔(賀茂御祖神社塔)
東御塔:本宮東高野川西旧跡なり。
百錬抄云、大治3年太上天皇鴨御祖社東御塔供養。播磨守家保の造立。
西御塔:御祖社西北に石橋あり、その傍の塔壇いう所旧跡なり。
百錬抄云、天承元年待賢門院賀茂の下の社御塔供養。保延4年鴨社神館、神宮寺社頭西の塔院焼く。
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嵯峨天皇御願の神宮寺(本尊十一面観音・不動明王)が河合神社北にあったと云う。
鎌倉期の境内図(模写)では神宮寺・経所・経蔵が描かれる。
※神宮寺跡:明治初年の廃仏毀釈のため廃絶,森の中に基壇と礎石3個が残ると云う。
「百練抄」では以下の記事があると云う。
「大治3年<1128>太上天皇供養鴨御祖社東御塔。御在位之時、播磨守家保造進之」
「天承元年<1131>待賢門院賀茂下社御塔供養」
「保延4年<1138>鴨社御館並びに神宮寺社頭西塔焼亡、件塔、待賢門院御願也」
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2007/02/04追加:
◆「鴨社の神仏習合」嵯峨井建(鴨社叢書1「鴨社の絵図」糺の森顕彰会事務局、平成元年 所収) より
注)以下に掲載の「奉願上候口上」・「諸願並窺書簿」は上記「鴨社の神仏習合」からの「孫引き」である。
また論点は上記「鴨社の神仏習合」の要約である。
神宮寺の創建については不明、鴨社神宮寺は嵯峨天皇御願とする「寺伝」がある。
「続日本後紀」天長10年(833)「道場一所在 山城国愛宕郡賀茂社以東一許里。本号岡本堂。是神戸百姓奉為賀茂大神所建立也。・・・」
賀茂社東一里許の所に、神戸の百姓が賀茂大神のために建立した岡本堂(岡本とは地名か?)が、神宮寺の原初形態であろうと推測できる。
※但し、以上のことは岡本堂が賀茂社神宮寺であるということではなく、賀茂社が仏教を受け入れる素地となったということであろう。
下社神宮寺の初見は「小右記」寛弘2年(1004)に「修諷誦賀茂下神宮寺、是例也」とあり、これが初見といわれる。
また「小右記」には29ヶ所に下社神宮寺の記事があると云う。
造塔について:
百錬抄:東御塔、保安元年(1120)木作始、大治3年(1128)播磨守家保によって完成。
百錬抄:西御塔、天承元年(1131)待賢門院御願によって、造立供養。
百錬抄:保延4年(1138)鴨社神館并神宮寺社頭西塔焼亡。
(以上により、鴨社は本社の東西に東西両塔が並んだが、その期間は約6年であったと知れる。)
兵範記:仁平2年(1152)禰宜惟文、多宝塔(東塔か?)供養、「多宝塔婆安置三尺釈迦多宝一仏、在天蓋・・・・」
待賢門院御願西塔は三重塔として再興。(「鴨社古図」では場所は神宮寺周辺とされる)
以降塔婆の沿革は詳らかならず。
賀茂御祖神社絵図A:京都国立博物館蔵:
「鴨社の神仏習合」嵯峨井建より転載
賀茂御祖神社絵図B:下賀茂神社蔵、明治38年
:2007/03/10:「賀茂社の建築」桜井敏雄(「賀茂社」桜井敏雄ほか、淡交社、平成16年 所収)より転載
A・B両図とも河合神社北に神宮寺が描かれる。
賀茂御祖神社絵図(神宮寺附近):
「鴨社の神仏習合」嵯峨井建より転載
:下賀茂神社蔵:南西に多宝塔が描かれる。・・・・当然ながら上記の3つの画像は同一の絵図である。
近世では寛永、延宝、宝永、享和、天保、文久に造替が行われたが仏堂の修理も同時に行われたと思われる。
神宮寺は河合神社の北隣にあり、断片的に以下のことが知られる。
近世の仏教的要素の基本的概要は以下の通りであったと記録される。
神宮寺本尊十一面観音、不動明王立像、愛染明王坐像・・・、
読経所・護摩堂本尊普賢菩薩・・護摩堂本尊不動明王・・・、河合小経所本尊普賢菩薩・・・。
○2007/03/10:「賀茂御祖神社指図」:
読経所(桁行梁行共に5間5寸)、護摩堂(桁行4間4寸、梁行3間3寸)読経所に付設、雑舎(桁行7間2尺、梁行5間1寸)があった。
河合社に小経所(桁行3間半、梁行3間)、雑舎(桁行4間、梁行3間、東庇付)があった。
神宮寺:観音堂(桁行5間、梁行3間、1間向拝付)、雑舎・座敷(桁行4間、梁行3間)、台所(桁行6間半、梁行4間)があった。
賀茂御祖神社指図1(本社附近)
:京都府立総合資料館蔵
賀茂御祖神社指図2(神宮寺附近);
京都府立総合資料館蔵
:「下鴨神社の建築」川上貢(「下鴨神社と糺の森」賀茂御祖神社、淡交社、2003 所収) より転載
※本尊は十一面観音であったが、明治維新の神仏分離で失われたと思われるも、本尊の処置が焼却・廃棄・遷座なのかは資料がなく全く不明と云う。
※神宮寺本堂は川西市へ(神仏分離の折)遷されたとも仄聞する、(嵯峨井氏が)調査を試みるも、未だに不明。
※明治27年編「御祖神社御事歴以下明細帳」では「摂社日吉神社 右宝永5年神宮寺と共に炎上、後相殿となる」とあり、宝永5年(1708)神宮寺は火災
を受ける、被害の程度あるいは再建の有無など全く不明。
※なお、中世の神宮寺は桁行8間の本堂、西に中門、西南に多宝塔、北東に庫裏、東に末社の構成であった。
元禄16年(1706)「下鴨神領配分目録」では
「供僧方 14石余松林院、16石余本寿院、15石余満徳院、15石余渓広院、14石余乗林院、13石余最楽院、13石弱隋了庵 7口合42石余 経所仲座 3口・・」
とある。
年紀不明「鴨神殿舎屋并名所旧跡」では「供僧 山門1人、寺門3人、当地2人 仲座3人」とあり、6〜7名の供僧がいたと推測される。
また神宮寺住職は本寿院であり、読経所の住職は松林院であった。
しかし当社においては、仏堂が中門内からは一貫して排除され、また鴨社管理権も一貫して社家が握っていたのが実態であった思われる。
つまり下賀茂社に於ける神仏の習合は本地仏が社殿に祀られるとか、神域中心に仏堂などが営まれるようなものではなくて、初原的なものだったとされる。(上賀茂社は
社家の数が多く、また社家より多くの出家が出て、寺家が権勢を持つような構造ではなかったということであろう。)
●神仏分離令によって、下賀茂社神宮寺は廃棄される。
慶応四年三月十三日 太政官布告
慶応四年三月十七日 神祇事務局ヨリ諸社ヘ達
慶応四年三月二十八日 神祇官事務局達 と所謂「神仏分離令」が布告され
慶応4年4月11日には「慶応四年四月十日 太政官布告」が鴨社へ伝達される。(明治27年編「御祖神社御事歴以下明細帳」)
慶応4年4月某日、鴨社側では以下のような「口上」を提出する。(「鴨脚家文書」)・・・「奉願上候口上」全文はこちら
「 奉願上候口上
一、当社神前間近ク御座候読経所・小経所・神宮寺等之三ヶ寺者
嵯峨天皇之御建立ニ而 勅願所・・・・ 今般
王政御一新ニ付・・・神仏混乱・・・元来御社間近ク堂舎之御座候者不似合候・・右三ヶ寺共廃絶ニ相成候様只管奉歎願候、
猶又読経所之儀者山門寺門等之輪番所ト相唱候得共、読経所・神宮寺両寺之住僧、一社之補任ヲ以住職許容致・・・
毎年10月10日八講会之節者・・・都合六口之供僧於社内橋殿八講会執行仕候、是等之儀者甚以不似合不相当之儀奉願候得者
是又廃絶ニ相成候様奉願上候
一、於境内寺庵并辻々石地蔵数ヶ所御座候、何れも破仏廃絶仕候奉願候、・・・・
慶応4年4月
鴨一社惣代 田中隠岐守 北大路甲斐守 祝 鴨脚二位 禰宜 泉亭二位
中院大納言殿 御雑掌 葉室左少弁殿 御雑掌 」
以上によって神祇局に召集され、次の通り申し渡される。(願書に付箋)
「猶執計之上其次第可申出旨御口達」
「付箋社頭ニ有之堂舎取除可申候、供僧之儀難渋不相成候様、取斗可致事
八講会被廃候間其筋江此旨可申達事
境内寺庵并石地蔵等之儀者御布告之御趣意ヲ以相当之取斗可致候、尤粗暴無之様可致候事」
※以下のように早々に廃仏が実行されたものと思われる。
「明細調記」では以下のような処置がなされたと記録されている。
4月10日本寿院、松林院、経所預役者に対して次の通告があった。
1.三ヶ寺の堂舎の取除き、
2.八講会の廃止、
3.山門の僧は渓広院へ、寺門の僧は千葉院・万徳院・常林院に通達し、三ヶ寺の本尊以下の仏具類は残らず供僧中へ渡すべく両山へ引き取らせる、
4.堂舎など建物一切は神社側が受け取る、
5.両僧が難渋しないようにとのお達しにより金30両宛を与える。
かくして、経所預役の2名は駆人の末席に復帰、松林院は本山延暦寺に帰り、本寿院は還俗し警衛士休所留守居役となる。
5月1日(あるいは5月2日)には「神祇事務局」宛に全ての処置が終ったことを届け出ている。
・・・・以上を伝える「御届申上候口上」の全文はこちら
「 奉願上候口上
一、当社神前間近ク御座候読経所・小経所・神宮寺等之三ヶ寺者
嵯峨天皇之御建立ニ而
勅願所 御座候趣、前々より申伝ニ御座候、右者仏法盛行ノ御時節、造立ニ相成候儀ニ付、年来社家等歎ヶ敷尓毛処、今般
王政御一新ニ付中古以来神仏混乱仕候社不少ニ付、右等有之候社者伺出候上 御沙汰被為在候趣被仰出候、
於当社仕神仏混乱仕候儀御座候得共、元来御社間近ク堂舎之御座候者不似合候得者、社家等兼々憂歎仕候ニ付、
右三ヶ寺共廃絶ニ相成候様只管奉歎願候、猶又読経所之儀者山門寺門等之輪番所ト相唱候得共、読経所・神宮寺両寺之住僧、
一社之補任ヲ以住職許容致、平日勤行仕候得共、毎年10月10日八講会之節者両山より四口之供僧下山致シ、
都合六口之供僧於社内橋殿八講会執行仕候、是等之儀者甚以不似合不相当之儀奉願候得者、是又廃絶ニ相成候様奉願上候
一、於境内寺庵并辻々石地蔵数ヶ所御座候、何れも破仏廃絶仕候奉願候、抑当社之儀者
御代々
御崇敬厚也、異御社柄ニ御座候、殊ニ仏法之儀者神慮被為忌嫌候儀、4月11月御祭月、右堂舎蔀ヲ下四方閉蔵、
供僧等社内往来差止候社法御座候得共、何卒格別之
御恩(ママ)召ヲ以右願之通速ニ被為
聞食分候様一社一同伏テ奉歎願候以上
慶応4年4月
鴨一社惣代 田中隠岐守 北大路甲斐守 祝 鴨脚二位 禰宜 泉亭二位
中院大納言殿 御雑掌 葉室左少弁殿 御雑掌 」
明治元年「諸願並窺書簿」:
「5月2日神祇事務局代江惣代 秀文長顕持参判事平田延太郎請取之其留如左
御届申上候口上
当社神前間近ク御座候 読経所神宮寺小経所并境内寺庵石仏等
伺之通取除候様被 仰渡別紙之通処置仕候依而此段 御届申上候以上
慶応4年後4月
御祖宮祝 鴨脚 二位 秀静 禰宜 泉亭 二位 俊益
神祇事務局
覚
一、読経所神宮寺小経所三ヶ寺本尊并仏具別紙之通供僧中江差遣山門江引取申候事
一、10月10日八講会廃止之儀山門寺門供僧六口江申渡候処御仕則請書取置申候事
一、右仏具類并法衣等ハ供僧六口江分配申付候事
一、三ヶ寺本堂之儀者取除申候、雑舎之儀者是迄公用社用等ニ用ひ来候儀ニ付其儘残置申候事
但経所雑舎之儀□楽人休息所神宮寺雑舎之儀ハ警衛士休息所より以来称号仕候事
一、御社領之内高四拾石余供僧中致進退来候処任社法以来御修理料ニ仕候事
一、従御 内儀神宮寺江御祈祷御撫物御渡ニ相成御座候処 今般返献仕候事
一、神宮寺住職本寿院儀者致還俗度旨達而歎願ニ付為助成金子弐拾両生涯壱人扶持遣之警衛士休息所留守居役申付候事
但藤本勘之丞改名仕候事
一、読経所住職松林院儀者、山門渓広院方江致退去候為助成金子三拾両遣申候事
一、帝釈堂本尊仏具類等供僧江遣之堂作取除申候事
但当時供僧無住職ニ御座候
一、境内有之候寺庵之本尊仏具并石地蔵等百姓共之由緒有之寺院其外他所江遣申候、尤堂造之儀者破却仕、百姓家ニ相用申候事
右通処置仕候以上
辰後四月 鴨社 」
------------------------○賀茂下社現況
2007/09/05追加:2007/08/30撮影画像
山城賀茂下社楼門
賀茂下社神宮寺池跡1:東から西南方向を撮影:中世の神宮寺の姿「賀茂御祖神社絵図(神宮寺附近)」のように、
中世には、写真の池の奥に多宝塔があったものと推定されるも、今は何の痕跡もない。
賀茂下社神宮寺池跡2:西から東方面を撮影
賀茂下社神宮寺池跡3:池の西側汀石組;写真左手が中世多宝塔の想定場所
賀茂下社神宮寺堂舎跡:南から北を撮影、全くのブッシュで地表には何も無いと思われる。
2023/01/01追加:2016/10/27撮影
下鴨神社楼門2 下鴨神社楼門3 下鴨神社楼門4
2024/01/12追加; 京都初冠雪 下鴨社楼門5:2024/01/07朝日新聞・京都版 より転載
2023/01/02追加:2022/08/11撮影 下鴨社摂社二十二所社
現地の説明板によれば、次のように云うも、何が言いたいのかよく分からない。
元々、「二十二所社」は旧鴨社神宮寺境内に祀られていたが、創始の年代は不詳という。
祭神は鴨氏祖神二十二所で、加茂氏祖神「二十一庚申」(「鴨縣纂所」)と同じく加茂氏祖神「雑太社」(さわたしゃ)を相殿に祀り故に「二十二所」と称するということのようである。
荒唐無稽な話で、「好きなように宣ってくれ」という話で、理解不能である。
なお、二十二社は明治10年摂社七社の内、第六社として制定された社ともいうから、復古神道の影響で整理された「ポッと出の社」なのかも知れない。
ところで、この今でいう「二十二所」は日吉社と呼ばれていたという。
それは、明和7年(1770)に当時の禰宜・俊春とその子・俊水の2代にわたって鴨伝承や歴史的資料、記録類を集成し、寛政11年(1799)に完成させた「鴨縣纂所」によると、比叡山山王権現に下鴨神社本宮の祭神である玉依媛命の同神が祀られており、この社を遥拝所としていた時期があったことによるようである。
また、戦後、混乱期の式年遷宮事業にあって、遅延した社殿再興が、ようやく第三十四回式年遷宮で造替となると云うので、摂社第六社は近年再興されたようである。
摂社二十二所社1 摂社二十二所社2 摂社二十二所社3
下鴨社摂社河合社六社 六社については、建仁元年(1201)の「鴨社古圖」では河合社御垣内にそれぞれ祀られていたが、江戸期の式年遷宮以来、一棟になったという。従って、現在は六間社流造とでもいうべき社殿が構えられる。
左から
●諏訪社:祭神建御名方神・諏訪大神、●衢社(みち/ちまたしゃ):祭神八衢毘古神(やちまたひこのかみ)・八衢毘賣神(やちまたひめのかみ)、●稲荷社:祭神宇迦之御魂神、●竈神:祭神奥津日子神(おくつひこのかみ)・奥津比賣神(おくつひめのかみ)、●印社:祭神霊璽、●由木社:祭神少彦名神 の祠が並ぶ。
摂社河合社六社1 摂社河合社六社2 摂社河合社六社3 摂社河合社六社4 摂社河合社六社5
2007/02/04作成:2024/01/12更新:ホームページ、日本の塔婆
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