記事:「神宮寺大鳥山勧学院神鳳寺といふ、本地堂には釈迦・薬師・阿弥陀を安す。初めは行基菩薩の開く所なり、星霜累りて荒廃に及びしを、寛文の初め、真政円忍律師、真言律院を建て、當国の学校とす、社頭は慶長7年11月豊臣秀頼公、泉州五社を再興す。其後大阪一乱に、大鳥社兵火に罹って破滅し、わづかに塔一基を遣って荒野となりしを、寛文2年3月現刺史・石河土佐守源利政、石柱の鳥居を建て再興に及ぶ、其時神宮寺律院も、今の如く創建あるなり」
【別本泉州記 中村、野田村】
記事:「大鳥大明神社御神体天照太神・天光明神 中宮本尊五社ノ伝記ニ有、和泉五杜ノ第一也、石ノ鳥居、境内二町四方除地 釈迦如来神鳳寺ト云、其脇ニ律宗庵有、五重ノ塔有、薬師堂有、此村南ニ古城跡城主不知。」
2003/10/04追加:
★泉州大鳥山神鳳寺境内之図(元禄)
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泉州大鳥山神鳳寺境内之図(「鳳百年史」から転載)
図の製作時期は不明。境内東が神鳳寺であり、現在大鳥美波比神社がある場所を含め、その南北が跡地と思われる。
現在、大鳥大明神(本殿)は南向きに建つが、当時は東向きであった。
現況:神宮寺のあった場所および南西の一角は全く立ち入ることは勿論、垣間見ることもほぼ出来ず、現状確認は不可。
例えば鎮守およびその池など・・の状態。
泉州大鳥山神鳳寺境内之図(左図拡大図)
上図は個人蔵と思われる。「堺市史」、「鳳百年史」に掲載あり。 |
2005/11/23追加:
「摂河泉の寺社境内図と造営資料」大阪歴史博物館編集、2003:より
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堂舎指図等で見られるように、近世の大鳥神社は、広大な境内に確かに「大鳥大明神」の社殿はあったが、実態は神鳳寺であり、明神は「付けたり」の様相を呈する。
大鳥大明神堂舎惣指図(控):大阪歴史博物館蔵
大鳥大明神堂舎惣指図(控)<部分図>:左図拡大図
寛文7年(1667)快円が入山し、伽藍を復興する。
社殿・拝殿のほか、本地堂、五重塔、食堂、護摩堂、経蔵、地蔵堂、南北衆寮などが立ち並ぶ。
図面青の建築は「瓦葺」、肌色は「茅葺」、黄は「杮葺」、桃は「榑縁」を示す。
慶長7年、豊臣秀頼の一連の社寺造営で復興。
大坂の陣で十三重塔を残して、灰燼に帰す。
寛文2年(1662)幕命により堺町奉行石河利政が社殿及び神鳳寺を再興。
元禄14年(1701)幕命により柳沢保明が修営。
延宝-元禄年間、入寺した快円恵空が勢力を拡大し、柳沢氏庇護のもと隆盛を極める。その結果、神鳳寺は「真言律宗南方一派」本山となり、多くの末寺を擁する。
江戸期には律院三僧坊(槇尾西明寺・河内野中寺)の一つとされた。
一方神社は衰微し、社家大鳥氏は廃絶し、そのため、地元との紛争が頻発したと云う。 |
2007/05/10追加:
「和泉国大鳥山神鳳寺寺社帳」:宝暦六丙子年六月
※宝暦6年神鳳寺(輪番 慈憧、役僧 真存の連名)から「堺奉行所」に提出した「和泉神鳳寺寺社帳」 より(抜粋)
「堺市古文化調査研究資料 巻1」 より
和泉国大鳥郡大鳥村
一 大鳥大明神:無神主・景行天皇五十四甲子年鎮座
社 :ニ間四方・瓦葺・外に九尺の唐破風付
社地境内壱万弐千三百五十坪・・・・
拝殿:三間七間・瓦葺 一ヶ所
木鳥居:壱ヶ所
石鳥居:壱ヶ所
手水鉢覆:五尺五寸に七尺五寸 瓦葺 壱ヶ所
物置 ・・・
小社 ・・・
一 本地堂・六間四面・瓦葺・真言律宗・無本寺・輪番持 神鳳寺・天平十二庚辰年行基菩薩開基
五重塔:弐間四方・瓦葺
護摩堂:弐間半に三間・瓦葺
食堂:三間半に六間半・瓦葺
鐘楼:壱間半四方・瓦葺
経蔵:弐間半四方・瓦葺
三宝物置:弐間に三間半・瓦葺
方丈:三間に三間半・瓦葺
坊舎:三ヶ所・萱葺・但 壱ヶ所は弐間に六間 壱ヶ所は弐間に五間
浴室:弐間に五間・瓦葺
衆寮:弐ヶ所・瓦葺・但 一宇は弐間に四間半 一宇は弐間に三間半
観音堂:弐間に四間・瓦葺
地蔵堂:弐間に三間・萱葺
産所:四間に六間・瓦葺
不浄部屋:弐間に三間半・瓦葺
紫小屋:弐間に六間半・萱葺
下蔵:弐間に三間・瓦葺
門:四ヶ所・瓦葺・内 東門:八尺九寸に四尺八寸 西門:八尺九寸に五尺壱寸 中門:八尺に四尺八寸 参所門:六尺壱寸に弐尺五寸
右大鳥五社明神は日本武尊之神廟に而・・・・
輪番
慈憧 印
役僧
真存 印
宝暦六丙子年六月
堺
御奉行所 |
○宝暦6年当時、大鳥大明神(神鳳寺)の伽藍は以上の様子であった。
2006/06/05追加:
「日本における戒律伝播の研究」稲城 信子/研究代表、元興寺文化財研究所、2004 より抜粋要約
神鳳寺僧坊記:
神鳳寺は行基菩薩の創建と云う。
神鳳寺のその後の詳細は不詳であるが、中世の「大鳥神社流記帳」では「神宮寺−神鳳寺、神宮寺領、大鳥里15坪4段、金堂2宇、東院西院」とある。また文明15年(1483)の田代文書にはその存在が確認されると云い、ともかく神宮寺として存続はしていたと推測される。
天正期には兵火で焼失、豊臣氏により再興、元和・大阪の陣で再び焼失する。
神鳳寺は、近世初頭に「律」の道場として復興したことにより、その存在感を増すと云う。
近世の戒律復興は賢俊良永が山城槇尾山西明寺にて自誓受戒したことに始まるという。
元和5年(1619)賢俊は高野山に新別所(円通寺)を復興、さらに元和8年頃大和法隆寺北室院を兼帯し律宗の根本道場とする。
正保4年(1647)賢俊遷化。真政が高野山円通寺・法隆寺北室院を兼帯し後継する。
寛文元年(1661)真政は円通寺を快円に、北室院を真譲に譲る。
寛文7年、当時神鳳寺の本寺であった和泉家原寺久蔵院快意より神鳳寺が快円に委譲される。このことが神鳳寺の律宗としての大きな足跡を残す契機となる。
寛文12年(1672)快円は師である真政(法隆寺覚無庵に隠居)に神鳳寺を寄附する。真政は神鳳寺の中興首座とされる。なおこの再興には快円を通じた柳澤吉保の助力があったと云う。
寛文13年には幕府の許可を受け「真言律宗南方一派」の総本山と称する。
ここに神鳳寺は西明寺・野中寺とともに「律の三僧坊」と称されることとなる。
延宝4年の末寺は42ヶ寺、寛政2年(1790)では畿内中心の24ヶ寺末寺に縮小、天保3年(1832)には22ヶ寺、慶応4年の廃寺の時には28ヶ寺を数える。以上、近世には定の勢力を保持していたことが知られる。
光明院:
現在は高野山真言宗。寛政年中より明治維新まで、律宗神鳳寺触下寺院であった。
神仏分離により神鳳寺は廃寺、仏像・什宝・典籍・文書類の多くが光明院及び大和五條行円寺に移される。
特に光明院には大部の聖教類、縁起、年中行事、道場の記録など移され、まだ未整理のままのものも多いと云う。
2003/10/04追加:
★光明院
光明院は、百舌鳥八幡宮の東隣に位置する。
寺伝では、天平元年(729)光明皇后の発願により、行基の開基によるとする。
享保17年(1743)に神鳳寺の末寺となる。
2003/10/04追加:
★推定神鳳寺跡
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□神鳳寺推定跡地1
:左図拡大図・中央右手の叢林 付近が五重塔跡と思われる。
□ 同 2
:あるいはこの写真の中央右より 付近が五重塔跡とも思われる。
□ 同 3
:写真左手の叢林が推定神鳳寺跡と思われる。参道突き当りの叢林付近が五重塔跡と思われる。
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境内摂社「大鳥美波比神社」(大鳥五社明神の一)の鎮座地が本堂跡と云われる。
昭和9年に本堂跡に遷座と云い、遷座前は五重塔趾にあったと云う。
2006/02/18撮影:
推定神鳳寺五重塔跡地:この写真付近が跡地と思われるが、神社の園池などの施設で立ち入りが出来ない。
いずれにしろ、現地には、転用された仏堂は勿論、仏教的な遺物、五重塔跡・神鳳寺堂宇跡などの遺構も全く残らないと思われる。
★大鳥大明神における神仏分離(「鳳百年史」を要約)
慶応4年(明治元年)閏4月12日、いわゆる「神仏分離令」が発せられる。
神風寺はただちに大阪府に願い出。
「1.本堂、不動堂、五重塔、経蔵を衆徒(赤畑村)へ下げ渡す。2.堂塔を引き移した上で、仏像などを奉安」。
慶応4年5月堺県の認可。
「上記の4堂のほか方丈、中門、僧舎2ケ所、鐘楼堂、下蔵を赤畑村・光明院へ移すこと」
赤畑村返答。
「村方では、社殿数棟と神事諸具30点は大鳥杜に残されること、および6月5日に神鳳寺が光明院へ引移することに異存はない」
しかし明治2年時点では、仏像仏具は光明院に移されたが、堂宇はまだ大鳥社地にあったと云う。(「社名寺名本山格式除地書上帳」)
さらに明治5年時点でも「大鳥杜不動堂」で会議したことが記録されている。(高林氏「諸事留」)
近世、神鳳寺は「律宗真言宗兼学畿内律宗大本山」であった。
和泉・大和・河内・攝津・筑前・紀伊などを中心に末寺76ヶ寺を持つ。
しかしながら、明治5年、別派独立本山が停止され、光明院以下の末寺は高野山の末寺に帰する。
さらに、当時光明院住職が神鳳寺住職を兼務していたが、明治6年9月神鳳寺は「無地無堂無檀家」のため、税所堺県令が教部大輔へ廃寺を願い出、翌10月廃寺が認可される。ただし「仏具類は従前どおり光明院へ安置すべし」との条件が附される。
以上収集資料が不十分で事実関係が
必ずしも明確ではないが、神鳳寺の堂塔は光明院には移転せず、現地に残され明治6年頃棄却されたものと思われる。鐘楼堂の梵鐘は現在、鳳北町・専光寺に残存しているとされる。
★大鳥神社その他沿革
現在大鳥神社訪ねると、広大な境内(現在でも
1万5千余坪の境内地と云う)に、数棟の社殿が点在するだけの光景である。
境内地はまったく仏教色が払拭され、また江戸期の様相一変し、容易に五重塔跡などの推定は出来ない。
(特に予備知識が無く、「和泉名所圖會」だけを頼りに現地を訪ねると、混乱をきたす結果に終る。)
<現在の大鳥美波比神社の建立(移建)地が本堂・五重塔跡地であると云われる。>
なお大鳥神社本殿(旧国宝)は、明治38年落雷により焼失する。(明治42年再興)
本居宣長はその著「玉勝間」の中で
「和泉ノ国大鳥ノ神社和泉志というふみに、かの国の大鳥ノ神社の御事を、しるせるを見るに、慶長中罹兵火、元禄中、僧快円興建神鳳寺於域内、寺隅僅存小祠、としるせるを見て、涙もこぼれるばかり、かなしくぞおぼゆる、此御社は、神名帳に、大鳥郡大鳥ノ神社、名神、大、月次新嘗と見え、高き御位をも授ケ奉給へる御社にましますものを、その域をしも、仏どころになしなしたる、まがつびのしわざは、せんすべもなきものなりけり、さて御社は、そのかた隅々に、わずかにのこりてましますらんほどよ、詣では見奉らなど、思ひやり奉るだに、かなしきを、かなしと見奉るのなきは、いかにぞや、大かた国々に、かかるたぐひ多かるべきを、今はたまたま、これをかのふみに見あたりたるままに、あまりのなげかわしさにえたへで、かくはおどろかおくなり、あはれかかる事に、心ざしあらむ人もがな」と記述する。
要するに、大鳥明神は明治の神仏分離で、神社(大社)の振舞いをするが、少なくとも近世の大鳥明神の実態は本地たる神鳳寺が実態であり、大鳥明神は確かに祭祀はされていたが、神威が遍く行き渡る状態ではなかったと吐露する。
所詮、復古神道によって神社が改竄される前の神社の実態というのは一般的にこの程度のものが多かったということであろう。
神鳳寺は和銅元年(708)行基開基と云う。
平安末から鎌倉初頭に十三重塔が建立されたと思われる。しかもこの塔は大阪の陣にもただ一基焼け残るという。
しかしその後のこの十三重塔の興亡については情報がない。
2003/10/04追加:
★神鳳寺の鐘
大鳥神社北方すぐの専光寺に旧神鳳寺の鐘が遺存するという。
神鳳寺鐘
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専光寺梵鐘(推定)
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神鳳寺鐘:左端図の拡大図
・・・「鳳百年史」より転載
(撮影時期不詳、鐘楼は専光寺鐘楼と思われる。
但し現在の鐘楼は修復されていると思われる。)塀越しのため、鐘銘などの判読は不可。
推定専光寺鐘楼
推定旧神鳳寺梵鐘1(左図拡大図)
同 2 |
2003/9/28日:専光寺は門が閉じられまた周囲は高い塀で囲われている。専光寺付近で窺うことが出来る鐘楼は上記写真だけと思われる。
この鐘楼はかなり高い基壇の上に建つようで、高い塀越しに見ることが出来る。
なおこの鐘楼は専光寺本堂の一角から南に民家風の家(或は専光寺の住居の可能性もあるが)を挟んだ南にあり、専光寺の境内地なのかどうかは判断出来ない位置にある。
以上のような状況で、撮影した「梵鐘」が神鳳寺の鐘かどうかの確認はしていない。しかし周囲から見た限り、専光寺の梵鐘は写真のものが窺えるだけであるので、おそらくこの梵鐘が「神鳳寺」の鐘と思われる。
但し、本堂周辺の様子が皆目不明で、本堂周辺に別の鐘楼が有る可能性も捨てきれず、また梵鐘はどこかに収納されていることも考えられる。
それ故、掲載した「梵鐘」写真はあくまで推測の域をでないものである。
2006年以前作成:2007/05/10更新:ホームページ、日本の塔婆