大坂堂島米会所(10)
消合場=クリアリング・ハウス
<実物取引、先渡取引、先物取引、オプション>
取引所での取引には多くの形態がある。取引用語をいくつかを取り上げ、取引形態を理解しよう。取り上げる用語は次の言葉。 実物取引(Cash)、先渡し取引(Forward)、先物取引(Futures)、オプション(Option).  
実物取引(Cash)
アメリカでの実物取引=キャッシュ(Cash または Spot,Physical)とは、契約と同時に、またはほとんど時間をおかずに、受渡と決済が行われる取引のことを言う。日常生活の多くの取引はこれになる。Cash on Delivery がこれに当たる。 
先渡し取引(Forward)
契約条件の内、商品の品質、数量、単価、受渡方法、決済方法などは契約締結時点で決定されるが、実際の受渡と決済は予め約束された将来の一定期日に行われるもの。取引そのものは売り手と買い手の間で相対で行われる。CHや消合場などの第三者が介入する取引ではない。銀行間(Inter-Bank)為替市場で先物の取引をフォーワードと呼ぶ。日常生活では、たとえば完成前のマンション購入契約は先渡し取引の範疇に入る。 
先物取引(Futures) 取引契約時と商品受渡時・決済時が違うという点では Forward と変わりない。しかし次の点の違いは大きい。すなわち、(1)取引所のような一定の場所で、一定の時間に、(2)予め決められた取引規則、契約条件に従い、(3)公開メイリオ;唱え(Open Outcry)という方法で、(4)集団取引を行い、(5)成立した取引は取引決済会社(Clearing House)に付け替える、(6)その結果、反対取引が容易に出来る、(7)契約当事者間の信用問題が発生しない、といった点が Forward と異なる。 
オプション(Option) 将来のある特定の時期に、予め約束した条件で、ある商品を売却したり、購入したりする権利を売買する取引。オプションは先物と異なり、権利の売買なのでその権利を行使するかどうかは買い手の自由、ということは実物の商品が売買されない場合もあるということ。具体例は =7=農家はプットを生かそう▲ を参照。ただしここでは先物取引(Futures)=差金取引は扱わず、先渡し取引(Forward)を現物先物取引と表現している。
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<帳合取引、名前の変遷> 先物取引も時代と共に名前が変わっていく。堂島米会所での先物取引は江戸時代の文献で「帳合米商内」という表現が多い。ではその後どのように替わっていったか、明治になるとコメだけでなく、株も取引されるようになる。そこでコメに限らず先物取引がどのように変わって行ったか、その変遷をたどってみよう。
 1893(明治26)年に取引所法が制定され取引の種類を3種類に区分した。すなわち「直(じき)取引」、「延(のべ)取引」、「定期取引」。直取引とは売買締結日から5日以内に現物と代金の授受を行う取引。延取引とは150日以内に現物と代金の授受を行う取引。定期取引は勅令により商品を指定し、その取引について「転売買戻し取引所の帳簿に記載する所に依り相殺するの方法」と定めた。帳合取引そのものだ。
 このように定めたのだが、直取引でも定期取引と同じ転売買い戻しによる差金取引が行われた。1903(明治36)年にはわずか4ヶ月だけ延取引について差金取引を認める「変則延取引」が行われた。
 1914(大正3)年、政府は、直取引は決裁期間が5日間もあるので差金決済が行われる、そうならないようにと決済期間を2日間に短縮した。しかしこれも政府の認識不足、2日間の間でも転売買い戻しによる差金決済は行われた。この違法な差金取引を「ジキ取引」とカタカナで書いた。1922(大正11)年に転売買い戻しによる差金決済が出来る取引を「清算取引」、出来ない取引を「実物取引」と規定した。
 この規定により株式では、清算取引については「短期清算取引」と「長期清算取引」の二区分が行われ、商品取引については「清算取引」と「銘柄別清算取引」の二区分が行われた。
 現行の先物取引は、第二次世界大戦後のアメリカの制度を見習い、「実物取引」と「清算取引」の区分と踏襲しながら、清算取引については Futures を訳して「先物取引」と呼んでいる。
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<消合場=クリアリング・ハウス(CH)> 堂島米会所では一日の取引が終わると消合場へ報告することになっていた。ここでは一日の取引を記録し、必要なら米仲買が入替両替から融資を受ける事もできた。そして一年に3度、4月28日、10月9日、12月24日の精算日にはここで差金清算をした。もちろんそれ以外の日でもここ消合場で清算を行った。堂島米会所では限月が3回、つまりSQが3日あったわけだ。
 取引とは本来当事者同士が納得すれば、価格は幾らでもいいはずだ。とすれば契約後の清算も当事者同士で行えばいい、となる。ところがここで消合場という第三者が介入する。この消合場という清算機関の登場が、帳合取引という差金取引を円滑に行うポイントになっている。そしてその堂島米会所での消合場と同じ機構がシカゴの取引所にもある。そこで現代の消合場=クリアリング・ハウス(CH)の働きを見ながら、差金取引=先物取引(フューチャーズ=Futeres)について考えてみよう。
ザラバ=Open Outcry 日本の証券取引所はザラバで行われる。堂島米会所もシカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade=CBOT)もザラバ、これをOpen Outcry(公開唱え)と言う。立会場では最初に価格の折り合った相手が誰であっても、その相手と取引するのが原則だ。つまり相手を選ぶことはできない。そのため特定の人間にしか聞こえないと恣意的な取引とみなされる。そのため全ての仲買人に聞こえるように大きな声を出す。このため淀屋米市で幕府が幾度も警告を出している。そして知らない人は喧嘩をしていると思う状況だった。この点は、米会所もCBTも東証も一緒、ただし東京穀物商品取引所は「板寄せ」という取引仕法をとっている。
取引の分解 価格の折り合いが付いた売買当事者はメモ書きにしてCHに提出する。現代のCHは取引内容をコンピュータに入力する。プリントアウトされた内容(売買当事者名、商品、価格、数量、限月)を当事者が確認すると、その時点でこの売買契約は<売り手*買い手>から<売り手*CH>と<買い手*CH>の2本の取引に替わる。こうして立会場での売り手と買い手との関係は切断され、CHがそれぞれ一方の当事者となり、契約履行の権利、義務をもつことになる。コンピュータはおろか電話、ファックス、電卓もなかった堂島米会所では消合場がCHの役目を果たしていた。
 なぜ第三者が介入するのか?こうすることにより、売り手も買い手も契約締結以降の相手方の信用状態に無関係でいられることになる。つまり相手方が倒産してもそれはCHとその倒産会社との関係になる。売り手も買い手もCHとの契約になるので、CHさえ倒産しなければ、なにも心配することはない。もう一つの利点、フューチャーズ(帳合取引、差金取引)の場合、将来の精算日(SQ,帳合商内の場合は4月27日、10月8日、12月23日)までの期間に行われる反対取引(買い持ち、または売り持ちのポジションを解消するための取引)に関して、当事者同士の契約のままであれば、その相手としか行えない。そこでCHが介入し、全く別の相手と反対取引をしてその内容をCHに登録し、契約を分解することによりCHとの契約関係においてポジションを解消することができる。
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<女王陛下のベアリングズ銀行破綻> 女王陛下の銀行と言われた英国のベアリングズが破綻したのは1995年のこと。シンガポール現地法人のトレーダー、ニック・リーソンが日本の株式市場で先物・オプションなどで損失を出し、その損失額はベアリングズの自己資本を上まわった。そしてそこまで損失が膨らむまで会社幹部は取引内容を把握していなかった。先物取引市場のメカニズムは需給関係適正化、価格の安定化に役立つ。と同時にそれに参加するには「自己責任」を強く求められる。そして大きな利益を得ることも出来るが、大きな損失を被る危険性もある、という現代の教訓としてこの事件を振り返って見よう。 
日本の株式市場でのマネーゲームベアリングズのシンガポール現地法人は、日本の株式市場が外国人投資ブームで沸いた1994年前半までは、先物・オプションと現物株での取引を駆使し、利益を上げていた。しかし夏以降、相場のトレンドは大きく変わる。相場は値動きの乏しい展開になる。それに伴い同社のサヤ取り戦略はうまく機能しなくなる。
 焦った同社では、相場が一定レンジ内に留まると想定した時に利益の出る、つまり膠着相場に強い先物・オプションの投資ポジションを組む。ところが1995年1月には、阪神大震災などをきっかけに日本の株式相場は大きく下げる。同社が取った膠着相場に強いポジションが裏目に出るようになる。
 そこで同社は一旦損切りの反対売買でポジションを軽くしていく。その損失分だけなら、会社全体を揺るがすような大問題には発展しなかったろう。しかし、同社のトレーダー、ニック・リーソンは損失分を取り戻そうとして、相場の押し上げを狙って先物を大量に買った。相場の押し上げが可能になると確信し、勢いづいたのは、損切りして一週間もしないうちに、住友銀行が不良債権の大量償却で1995年3月期決算を赤字にすると発表したのがきっかけだった。この発表を受けて株式市場が反発し始め、リーソンはこの株価の動きに”騙される”格好で再び買いを膨らませて行く。これには阪神大震災も影響している。彼は考えた「阪神大震災でこれだけ大きな被害が出た。村山内閣は補正予算を組んで被害対策を行うだろう。そうすれば景気対策になり、株価は上昇する」と。しかし大方の予想に反して、村山内閣は何もしなかった。村山内閣は市場関係者の常識を裏切った。株価は上昇しなかった。2月に入ると相場は一転して下げに転じた。損失は雪だるま式に膨らんでいった。損失を含んだ未決済建玉は日経平均だけでなく、東証株価指数(TOPIX)先物、日本国際先物などでも発生した。リーソンはしかし相場を操作しようとした。大量の買いを入れ、上昇トレンドを作ろうとした。しかし相場は操作できるものではない。それが益々損失額を増大させる。 
破綻処理 当局が恐れたのはベアリングズの破綻から連鎖的起こる金融・資本市場でのパニックだった。ソフト・ランディングさせなければならない。イングランド銀行(BOE)のジョージ総裁が考えたのは、ベアリングズの膨大な買い建玉を市場害で引き受けてくれる金融機関があるかどうか、ということだった。同操作委は急遽日本銀行幹部に話しを持ちかけた。しかし、市場集中原則から外れる取引は認められないのと、そもそも市場外でベアリングズの買い建玉を受けるような証券会社はいないため、同操作委の案は机上の案になる。
 週明けの東京株式市場はベアリングズの買い建玉が中に浮いてしまうことを嫌気して急落する。それまで先物主導の株価上昇を支えていたのはベアリングズの積極的な先物買いだっただけに、市場のショックは大きかった。結局、ベアリングズ問題は。オランダの有力金融機関INGがベアリングズの資産買収に名乗りを上げ、相場急落の翌週に買収手続を完了したことで終結する。 
何故シンガポールなのか? ベアリングズはシンガポール市場で日本株を先物取引している。なぜ東証・大証でないのか?それはいろいろな点で取引に便利だから。例えば日経平均先物は扱う単位が日本の半分。つまり半分の資金でマネー・ゲームに参加できる。東証は取引量の増大にあまり積極的ではない。かつて東京が国際的な金融都市になる、そのためオフィスビルが必要になり、そのため不動産価格が上昇する、との考えがあったが、少し甘かったようだ。日本にはマネー・ゲームを「拝金主義」と非難する考えが根強い。大坂堂島米仲買のセンスを理解出来ない人たちがいる。証券市場の周りにも、コメ・農産物生産者周りにも。そのため日本の市場経済はその発展がちょっとした抵抗勢力によって立ち止まってしまうことが多方面で見受けられる。残念。
( 2002年9月2日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(11)
商業都市大坂の発展
<大坂ー江戸為替制度の発達> 大坂堂島米会所の発達が新たな経済分野に刺激を与え、江戸時代の市場経済がさらに一歩前進した。それは大坂ー江戸為替制度の発達だった。幕藩体制において、幕府も諸藩も年貢米を大坂堂島で現銀に替える。その現銀を江戸で使うために現金に替えて江戸へ送金する。その送金システムが堂島米会所の発達と平行して確立していく。この件に関しては「大阪府史」(大阪府史編集専門委員会編 大阪府発行 昭和62年)に詳しいので、これを参考に話を進めよう。
 江戸時代離れた地区へ金を送る方法として、公金為替・江戸為替・上方為替・京為替・地方為替などが次第に発達した。この中で、扱い量も多く当時の経済に重要な役割を果たしたのが、公金為替と江戸為替であった。公金為替は1691(元禄4)年に始められ、江戸・京・大坂に両替店を持つ三井両替店が中心になっていた。「公金為替」とは幕府の公金輸送を主な目的とし、これに対して「江戸為替」は大名諸侯の資金輸送を目的としていた。
 江戸為替は、元和・寛永期のころから行われたとの説もあるが、通説では、1723(享保8)年に大坂両替商米屋(殿村)平右衛門によって始められたとされている。この制度は、大名諸侯が年貢米や国元の物産を大坂で売却し、その代銀や、大名貸しから借りた資金などを江戸へ輸送する送金為替と、その反対に大坂問屋から江戸問屋に送付した商品代金取立の荷為替(逆為替)とが結合して、為替取組が可能となった。そしてこの制度運用には大坂の通貨(銀)と、江戸の通貨(金)を両替する、という面倒なことが行われていた。この面倒な銀と金とを両替する、ということを省くために、金を基準にして通貨を統合しようとしたのが田沼意次と勘定吟味役の川井久敬が試みた、1765(明和2)年の明和五匁銀の発行と、1772(安永元)年9月の明和南鐐二朱判の発行 であった。これに関しては、大江戸経済学(1)改革に燃えた幕臣経済官僚の夢(2) 田沼意次と、その協力者たち▲ ( 2002年2月18日 ) に書いたのでここでは触れないことにする。
 この仕組みの流れは次のようになる。
大名がコメなどを大坂問屋に売る(江戸の屋敷で代金を使う場合は、この段階では代銀は受け取らない)⇒
大坂問屋は貸越勘定の相手方である江戸問屋を支払人とする為替手形を振り出す(同時に相当金額の商品を送るか、別勘定で帳尻を合わす)⇒
大坂両替商はこの為替手形を買い集めて、その代金(代銀)を大坂問屋に支払う⇒
大坂両替商はこれらの為替手形を江戸両替商に送り、それと同時に大坂問屋と取引関係のある大名(江戸藩邸)に対して送金為替を取組み、これを送付する⇒
江戸両替商は大坂両替商から受け取った為替手形によって、江戸問屋から代金を取り立てる⇒
この代金(通貨=金)を大名(江戸藩邸)に支払う。
 このようにして諸藩の大名は大坂でコメを売り、その代金を江戸藩邸で受け取る事ができた。この大坂と江戸の為替取組は現金を移動させない、という点で現代のコルレス契約に似ている。ここでも大坂商人の先見性に驚かされる。
<取組申為替手形ノ事> 江戸為替の雛形とみられる一例を示しておこう(大阪商業会議所編「大阪商業史資料」第五巻)
   取組申為替手形ノ事
 一 合金千両也
右ハ前田加賀守様御下金造ニ請取申候、此代リ金江戸ニ於テ米ル三十日限リ、右御屋敷御勘定所正直算太夫殿御指図次第、此手形引換御上納可被成候、為後日為替手形依テ如件
  享保八年卯年五月十日
                大坂 大黒屋福右衛門
江戸 戎屋三郎兵衛殿
 これは加賀金沢藩主(前田加賀守)の「下し金」に対する送金手形のかたちをとっている。これを振り出す印元の大坂両替商(大黒屋福右衛門)から江戸両替商(戎屋三郎兵衛)に宛て、江戸藩邸(前田加賀守)に送った手形をみると、その手形面に(殿御指図次第、此手形引換御上納可被成候)と指図書きが記されている。大坂両替商は江戸藩邸にこの送金為替を送り、同時に江戸両替商に案内状と江戸問屋宛の為替手形を送った。そのあと江戸両替商は宛名の江戸問屋から現金を支払わせ、江戸藩邸の用命に応じて納金の手続をとった。江戸為替は普通10日以上の期限を限って支払日とした。
 江戸為替のなかには参着払いのものもあった。また支払いに際して3000両ないし5000両までは無利息とし、また貸し越しにも応じていた。これを「無代為替」と言う。一方商人(問屋)相互間の代金取立手形は、支払日を振り出しの日付から一ヶ月内外、先日付けとなし、その間に手形の売買が行われた。
 江戸為替の方法は享保期以前にもこれに似た制度があったが、これが一般化するのは米屋(殿村)平右衛門によるところが大きい。その後両替商では一般にこの方法を用いるようになった。両替商は常に為替の出会いに注意し、必要に応じて北浜の金相場会所でこれを買い入れ、江戸藩邸には送金為替を送り、取引先の江戸両替商に案内状と為替手形を送った。江戸為替は一般に本両替が取り扱う業務となり、大坂ー江戸間の商品流通は新しい金融技術の進歩によっていっそう発展することとなった。
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<北浜金相場会所> 江戸では通貨として「金」を使い、大坂では「銀」を使う、一国二制度を布いていた。田沼意次と勘定吟味役の川井久敬の努力にもかかわらず、松平定信の宮廷クーデターにより、一国二制度は明治維新まで続く。そして一国二制度が続く限り、金銀相場の変動は全ての商人にとって重要な関心事であった。大坂では1662(寛文2)年に高麗橋筋両替所が設けられ、小判の売買が行われた。さらに1725(享保10)年10月には本両替仲間による「金子銭売買立会之儀」(金・銭売買)の願いが交許された。この高麗橋筋の両替屋所が1743(寛保3)年、北浜に移されて「金相場会所」と改称された。
 両替屋はたえず為替の出会いに注意し、為替市場(北浜の金相場会所)で為替を買うのを常とした。この為替を売買する市場は「二番」と言われた。二番というのは「本場」が金銭に限って取引され、為替は午後になってから売買されたことによる。会所では毎月2・5・8の日に市を立てた。当時の為替の多くは逆打ちであった。逆打ちというのは、大坂・京の金相場が高値(銀相場下値)で、江戸の金相場が下値(銀相場高値)のとき、大坂・京の為替方(為替御用商人)から打銀(為替取組みの手数料)を差し出してて為替を取り組む場合を意味した。
 このようにして、江戸為替の方法が普及するに伴って、江戸から上方へ送金依頼があったときの上方為替、大坂ー京間の京為替や、地方振り出しで江戸・大坂・京などの商人に宛てた地方為替などが発達し、三都を中心とした商品流通の展開に対応した為替取引機構の新しい展開が見られた。
<信用体系の確立> 堂島米会所設立により江戸時代の主要な産物であるコメが大坂に集まった。これにより大坂での商業が活発になり、金貸しとしての金融業、送金業としての金融業、金と銀との通貨両替としての金融業が発達した。こうした金融業の発達に伴い、一般取引でも両替商を仲介とした手形が一般化し、両替商の信用創造によって、商人間(B2B)の取引は手形によって決済される場合が多くなった。大坂が「天下の台所」と称せられ、全国諸藩の商品が大坂に廻送されたのは、問屋・仲買制度の整備・拡充による流通組織の発達と、両替商金融を中心とした信用制度の確立によってはじめて可能となった。
 江戸中期の商習慣を調査した「大坂商人仲間の取引形態」によると、大坂での41業種に及ぶ商人仲間の代金支払い方法には、現金払い、3日延、10日延、30日延、一節季払いなどの短期のものから、6月払い、12月払いのように長期にわたるものもあり、季払いで、2月・4月・6月・8月・10月・12月の各30日(晦日)が支払期日とされた。このような延売買には手形が用いられた場合が比較的多く、両替商がその仲介者となり、両替屋に対して手形を振り出す「振手形」(大坂手形とも呼ばれた)のかたちをとることが多かった。
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<大坂堀川の開削> 天下の台所大坂が商業都市としてその機能を発揮出来たのは、堀川の開削により運河があったからだった。この堀川の開削は豊臣秀吉時代に始まり、江戸初期にほぼ完成している。大坂の都市機能は江戸と違い商人によって進められた。江戸は幕府の命令で諸藩が費用を負担して行われた。これに対して大坂は「商人の町」との表現通り大坂商人が主役であった。
 堂島米会所があった新地から、淀屋橋を渡って道頓堀へ、このあたりの江戸堀川、京町堀川、海部堀川、阿波堀川、立売堀川、長堀川、北堀江、南堀江などの運河が主要な交通網であった。
 ここでの大動脈である東横堀川、西横堀川、天満堀川の3つと阿波堀川は豊臣秀吉の時代に完成していたが、他の二幹線長堀川と道頓堀川、および大阪湾と幹線をつなぐ市中西部の諸堀川が完成したのは元和・寛永のことであった。つまり大商業都市としての機能が発揮されるのはそれ以降のことだったと言える。そして堀川の開削の時期は次のようになっている。

堀川名   開削時期   開削者      堀川名   開削時期    開削者    堀川名  開削時期    開削者 
東横堀川 1594(文禄 3)年 ーーー      天満堀川 1598(慶長 3)年 ーーー     阿波堀川 1600(慶長 5)年 阿波商人
西横堀川 1600(慶長 5)年 永瀬七郎右衛門   道頓堀川 1615(元和元)年 成安道頓一族  京町堀川 1617(元和 3)年 伏見商人
江戸堀川 1617(元和 3)年 ーーー      海部堀川 1624(寛永元)年 ーーー     長堀川  1625(寛永 2)年 伏見商人
立売堀川 1626(寛永 3)年 宍喰屋次郎右衛門  薩摩堀川 1630(寛永 7)年 薩摩屋仁兵衛  逆 川  1685(貞享 2)年 ーーー
堀江川  1698(元禄11)年 ーーー      三軒家川 1698(元禄11)年 ーーー     難波新川 1733(享保18)年 ーーー
境川運河 1734(享保19)年 ーーー
 1620(元和6)年ころ、長堀川の両側が農地から市街地になった。その開発人の名前を付けた町ができた。長堀次郎兵衛町、長堀平右衛門町、長堀心斎町、長堀清兵衛町など。長堀川は当時「ふしみ川」と呼ばれていて、伏見の町人であった三栖清兵衛・岡田心斎・池田屋次郎兵衛・伊丹屋平右衛門の4人が開削したと言われている。また岡田心済は心斎橋を作ったとされちる。このほか開発町人の名前をたうけた町として常安町(淀屋常安)、徳寿町(平野次郎兵衛の法名)などがある。
 道頓堀は南堀川と呼ばれ、豊臣時代に平野藤次郎・道頓・安井治兵衛・安井九兵衛・が自己資本で開削にあたった。しかし治兵衛が病死し、道頓も大坂夏の陣で制ししたため未完成のままであった。1615(元和)元年に安井九兵衛と平野藤次郎に対し、南堀川については従来どおり請負として申付けるという命が出され、道頓堀は同年に完成した。この道頓という人物については、長く安井道頓と信じられていたが、坂上広麿の子孫から出た七名家のうちに成安(なりやす)家があり、そのなかに道頓を名乗る人物のいたことが証明されたため、現在では成安道頓の名をとって道頓堀となったとされている。
<大坂商人魂はどこへ行った>
 NASDAQは大阪を去った。大坂堂島米会所の伝統を受け継ぐ、現代の大阪商人はこの苦境をどう乗り越えるか?現代の米会所(米取引所)について、1年前に次のように書いた。
=6=現代に生かそう大阪堂島の米帳合い取引 需給調整と価格安定のために 考えてみれば日本のコメ需要量からしてそれほど大きな市場にはならないだろう。では株式会社としてのコメ取引所が発展するにはどうしたらいいのか?それはコメに限らず商品を取りそろえることだ。クレジットデリバティブや天候デリバティブなども扱うことになるだろうし、不動産や債権を利用し、証券化した資産担保証券も扱うことになる。そしてコメで言えば、日本の備蓄米もオプション取引で扱われることになる。そうなってこそ現代版米帳合取引所の存在意義が認められることになるのだからだ。( 2001年8月6日 TANAKA1942b )
 その後の動き。
(1) 2001年9月10日、「不動産投資信託」(日本版REIT)が東京証券取引所に上場された。初上場したのは、三井不動産系の投資会社「日本ビルファンド投資法人」と、三菱地所系の「ジャパンリアルエステイト投資法人」の投資証券。
(2) 「天候デリバティブ」の一つとして、「湿度デリバティブ」が登場した、と報じられたのが2001年11月。
(3) 今年になってUFJ銀行グループが信用デリバティブに力を入れる、と報じられた。
(4) 2002年7月30日には「天候デリバティブ契約額 世界で1兆円突破」と報じられた。この報道によると、「商品開発が激しくなるにつれ、国内独自のデリバティブ商品も登場している。日本興亜損害保険が風力発電など自然エネルギー業者を対象に、風力や日照量が不足した場合に損失を補償する商品を発売。東京海上が4月に開発した「台風デリバティブ」は発売から2ヶ月で契約件数が約40件となった」
(5) 2002年8月31日の新聞報道では、「信用デリバティブ 政策投資銀が参入 リスク取引支援へ」とある。記事によると「みずほコーポレート銀行が約1兆3千億円、三井住友銀行が約5千億円の差危険を束ねた信用デリバティブ導入を検討するなど、「国内で年度末までに計9兆円規模」(関係者)の導入が進むとみられている。政策投資銀はこうしたリスク移転を支援する考えだが、政策投資銀側に大きな損失が出る恐れもある」
(6) 二酸化炭素排出権の取引が始まった。アメリカは京都議定書を批准していない。アメリカ企業が動き出す前に、日本企業はシェアを確保しておこう。先日NHKテレビで、タイでの三菱証券社員の仕事ぶりを紹介していた。各社がんばれ。
 1年の間に世界は大きく変わる。世界に先駆けて先物取引を実用化した大坂商人、その血を受け継ぐ現代の大阪商人がこのまま市場経済の後塵を拝していいのだろうか?意地も、見栄も、プライドもどこかへ置き忘れてしまったのだろうか? ♪意地が廃れりゃこの世は闇さ なまじとめるな夜の雨♪ ♪ゆくぞ男のこの花道を 人生劇場いざ序幕♪ 江戸時代の大坂商人に引けを取るな。世界規模のマネーゲームが始まっている。レフェリーは世界各地の消費者だ。観客でありレフェリーである消費者、これに嫌われたチームはゲームから撤退することになる。日本のチーム、マネーゲームのプレーヤーたち、みんながんばれ。
( 2002年9月9日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(12)
識者はどのように評価したか?
<江戸時代、「世俗の思想家」はどう見ていたか?> 江戸時代、大坂の商人たちが作り上げた「堂島米会所」を同時代の識者はどのように見ていたか?3人の世俗の思想家に登場して貰おう。この3人のアダム・スミスたちには「大江戸経済学」シリーズ、再度登場して貰うとして、ここでは「米」「堂島米会所」などに対する発言を取り上げてみよう。
<山片蟠桃の「夢の代」> 山片蟠桃1748-1821(寛延1-文化4)主著「夢の代」。升屋の番頭で、コメの仲買商から大名貸へ発展させた。大阪堂島の米会所(帳合取引所)を高く評価し、全国的に会所をつくり、日本をおおう流通網を作るべきだと考えた。これさえ整備されていれば「どこどこが飢饉らしい」という情報だけでそこへコメが集まる。堂島の米会所が情報でどう動くかを記している。さらに蟠桃は「浮き米」がそのまま備蓄になると説いた。単なる備蓄は「財の死蔵」であり、民の負担になる。しかし会所で米切手の売買が行われると、資金の必要な者は米切手を現金化する。余裕ある者はこれを購入する。現物のコメを動かさず売買できるから資金かが可能である。それが「浮き米」でいざというときの「備蓄」になると同時に「米切手」という形で資金として活用できる。全国的に会所をつくれば、天明の大飢饉のときの南部・津軽両藩のような小判を持ちながら餓死するといった状態は起こらないと言っている。 ここでは「夢の代」から一部を紹介しよう。
 ……天下の智をあつめ、血液を通わし、大成するものは、大坂の米相場である。
 大舜は心を用いて天下の智をあつめた。この相場は自然天然とあつまり、大成して天下の血液はこれから通い、これを通じて智の達しないものはなく、仁の及ばないものはない。
 その理由はなぜかというと、五畿七道の米穀で、大坂へ送らないものはない。そのうち関東・奥州・東海道の米穀は江戸に入るけれども、もともとその不足を大坂から補うことであるから、江戸に米が少なければ大坂から多く送り、江戸に多ければ少なく送ることであるから、血液が江戸・大坂のあいだによく通じあっているようなもので、その間に価格の点でひびき、こたえるようなことはない。
 ところで、大坂の米相場と他の地域との関係についていえば、今、西国に蝗(いなご)の害があったということで、飛檄をもって米を買うときは価格が急激にあがる。奥州地方が豊年で米を売るときは値がどっと崩れる。四国に風があるというと、船を飛ばして買いにゆけばまた値があがる。北国は順気で米の出来がよいと檄を伝えると、また値がさがる。関東に洪水で値があがり、二百十日の天気にまたさがる。御手伝で値がさがり、御買米であがる。浅間山・島原の雲仙岳の炎上(爆発)、出羽の地震、中国の津波にいたるまで、ことごとく驚いてこたえないものはない。
 あたかも神があって告げるようである。あたかも将軍がいて指揮するようである。天から命ずるのではない。人が集まって徒党をくむのでもない。西に買い、東に売り、北に買い、南に売る。米の相場の価格もあるいはあがり、あるいはさがり、あるいは保ち、あるいは飛躍的に変わる。毎朝毎朝、毎夕毎夕、入船入檄のたびごとに値段の高下することは、響きの声に応ずるがごとくである。
 そうではあるけれども、その道は二つ、いわく売、いわく買。その呼応も二つ、いわく貴(高)、いわく賤(低)。ただこれだけであって、天でもない、神でもない。行為と事実とをもって示すものは、すなわち人気のあつまるところ、またこれは天であり、またこれは神である。千人、百人の力の及ぶところではない。
 しかるにまた、一人で米の相場を動かすことがある。ただこれだけであって、天ではない。天ではないのに、天下の変化を知ることは掌(たなごころ)をさすようである。天に先立って天に違(たが)わない、天におくれて天の時を奉ずる。人に先立って人におくれ、事に先立って事におくれ、万物にあまねくして通じないことはない。ああ恐るべきかな。ああ今、天下に賢いものは、米相場にまさるものはないのである。
(「日本の名著」23 山片蟠桃・海保青陵 源了圓責任編集 中央公論社 1971年 から)
<海保青陵「稽古談」> 海保清陵1755-1817(宝暦5-文化14)主著「稽古談」「天王談」「万屋談」「論民談」「升小談」「海保青陵平書並或問」。旅学者。「東海道を往来にては十ぺん通れり。木曽を二へん、北陸道を一ぺん通れり。滞りてあそべるところは三、四十ヶ所。山に登りて見たること大小数百なり」という旅学者。 ここでは「稽古談」から一部を紹介しよう。
 升小(山片蟠桃)の工夫で仙台候の財政状態がずっと立ち直った由来をきくと、米の切手である。さて大坂では、いったいに金が多い上に、諸家の大名はみな米切手というものを作って、これをもって金を借りるから、ほんとうの金のほかに米切手という財貨がある。
 さてそのほかに、振り手形というものがある。為替手形のたぐいである。鴻池の店から受けとるべき金を、金で受け取らないで、手形で受け取るのである。あるいはこの手形を飯屋に振る、加島屋に振ると仮定して、この手形を飯屋に持っていっても、加島屋に持っていっても、金になることであるから、受け取った人はすぐに金にしないで、ほかへ金をやるべき時にこの手形をやる。金を受け取るべき人もこの手形さえあったら、いつでも金になるから、またほかにやる。これを振り手形という。これは、金のほか、米切手のほかに、また振り手形という財貨があるのである。
 そのほかに空米先納というものがある。この空米先納というのは、来年入庫する米を今年切手にして、これを銀主に入れて金を借りることである。手形の肩に来年の干支を書いたものである。いうなれば、これは悪いことである。青田売りである。これでもずいぶん金子の調達ができることである。
 このほんとうの金、米切手、振り手形、空米先納、……これだけはみな通用の財貨である。通用の財貨が多いから、金がふえるはずである。財産は財産をうむものであるから、大坂では財産をうむものがたくさんあるし、大坂がずっとずっと豊になる道理である。これみな大坂の町人たちがりにくわしいから、目がよく見えるのである。………
(「日本の名著」23 山片蟠桃・海保青陵 源了圓責任編集 中央公論社 1971年 から)
<本田利明「経世秘話」> 本多利明1743-1820(寛保3-文化3)主著「経世秘策」「西域物語」「経済方言」。江戸の数学塾の塾長。引用に適した文章が見当たらないので、利明の考え方を要約して紹介しよう。
 利明は天明の大飢饉は「人災」と見た。「日本は南西の隅から北東の隅へ,凡十度余り、里程五、六百里の細長い国なので、水旱損(水害や日照りの被害)があっても国中ということはない。豊作の国から凶作の国へ渡海・運送・交易すれば、万民の飢えと寒さを救える」と言う。こうしなかったために生じた天明の大飢饉の大量餓死もまた「天災」でなく「人災」だ、ということになる。さらに利明は流通経路確保のため火薬を使って、道路を開き港を作れと言っている。それには各藩の自己防衛的・自給自足的な戦国の遺制が邪魔している、と主張する。この考えが田沼意次の印旛沼開発に結び付いたと考えられる。
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<岡崎哲二「江戸の市場経済」> 岡崎哲二「江戸の市場経済」から、岩橋勝「近世日本物価史の研究」の資料を利用した分析を紹介しよう。これは江戸時代の株仲間に付いての研究の一部であり、天保の改革により株仲間停止になった、その前後の経済を見ることによって、株仲間の果たした役割を研究したものだ。
<株仲間停止による価格裁定機能の低下> 全国13地域(大坂・近江・播州・福知山・広島・防長・佐賀・熊本・江戸・名古屋・信州・会津・出羽)の米価データ変化率の相互の相関を1833〜1841年と1842〜1850年の2つの期間について比較する。
 株仲間停止前の1833〜1841年については、相関計数の平均値は0.824とかなり大きい。この期間はほぼ全国の地域間で価格裁定が働くような整備された市場が存在していた。大坂堂島米会所が全国のコメ価格の地域格差を縮めるように働いていた。
 それに比べて、株仲間停止後の1842〜1850年については、相関係数の平均は大幅に低下して0.487となる。特に江戸の相関係数の低下が著しかった。これは株仲間停止期間中に米穀市場における地域裁定が有効に行われなかったことを意味している。
 これらのことから大坂堂島米会所が全国のコメ価格の地域格差を縮めるように働いていた。「天保の改革」と言われる老中水野忠邦の政策のうち、少なくとも「株仲間禁止」は経済を混乱させる失政であった、と言える。
<米価水準による検討> 地域間の価格裁定について別の角度からの検討を見てみよう。それは米価の変化率についての相関分析で、米価の水準に注目する。価格裁定が完全に行われれば、地域間の米価水準は輸送コストに一致する。そこである時期に地域間の米価水準が大きくなったとすれば、それは価格裁定の有効性が低下したか、あるいは輸送コストが上昇したことを意味すると考えられる。
 前に取り上げた13地域間の米価水準のバラツキを変動係数(標準/平均)で計る。これによると株仲間停止期間に米価水準の変動係数は、平均的に見て停止前よりも上昇した。このことから株仲間停止期間に価格裁定の有効性の低下ないし輸送コストの上昇が生じた可能性が高い、と結論つけている。(岡崎哲二「江戸の市場経済」講談社 1999年4月10日)
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<宮本又郎「近世日本の市場経済」> この本、宮本又郎「近世日本の市場経済」は堂島米会所の研究書として、幅広くテーマを扱い、説得力ある成果を提示している。「市場経済」「米」「大坂」がキーワイドになっている。目次には次の項目が並ぶ。
第T部 大坂米市場の成立と構造 制度史的分析
   第1章 大坂米市場の成立
   第2章 近世中期大坂における領主米流通
   第3章 近世大坂における米取引・流通機構
   第4章 地方における年貢米の集荷機構 加古川流域を事例として
第U部 大坂米市場の経済的機能 物価史的分析
   第5章 大坂米価の短期変動と米市場の機能
   第6章 米価変動ちお米穀需要構造
   第7章 堂島米市場における帳合米取引の機能
   第8章 地方米市場間の連関性と市場形成   
<価格安定に役立った米会所> ここでは「大坂堂島米会所が米価安定に役立った」ということに関する記述を紹介しよう。
宝暦期から明和・安永期において米価の変動は最も小さかった。全国市場としての大坂米市場の確率がこの米価の安定に大きく寄与したと、私は考えたい。享保中期以降この時代にかけて、「諸色高値の米価安」、すなわち米の他の商品価格に対する相対価格の低落現象が見られたことは承知のところである。 米の相対価格がなぜ長期的に低下したかについては本格的に論じる余裕はないが、市場への米供給量の増加がその一つの要因であったことは疑いないであろう。そしてこのような米供給量の増加が18世紀初頭までにほぼ官僚した全国的米流通機構のせいび・成立にypって支えられていたものであったことも間違いないところであろう。毎年大量の年貢米を収取し、それを売りさばかねばならなかった幕藩領主にとって、いつ何時でも迅速に、低い取引コストで大量の米を、全国的需要を反映した価格で売却できる市場が成立したことの意味はきわめて大きかったのである。したがって、市場への米供給量の増加と、市場機構の発達による流通コストの低下が米の相対価格の長期的低落の部分的要因であったといえるであろう。
<帳合米取引の経済機能> (1)一般的にいうならば、近世堂島米会所の帳合米取引は正米取引に対して価格平準化作用をもち、さらに「正米取引のヘッジとして利用されることによって価格保険機能を有していた」という従来からの説は、正米・帳合米の価格変動分析から支持されうる。
(2)しかし、価格平準化機能や価格保険機能の有効性は時代別に異なっていた。本章の分析によると、あらゆる角度から見て、宝暦期・明和期・安永期においてはこの両機能は最も効果的であった。そして多少その有効性が損なわれた天明・寛政・文化期を経て、文政期には堂島は再びその機能をかなりの程度回復した。しかし天保期以降には帳合米価格が正米価格をリードする機能が弱まり、また帳合米取引は正米取引に対して有効はヘッジ手段をほとんど提供しなくなっていた。
(3)一般に農産物中央市場で実需取引を行う卸売業者は生産者→消費者間の縦の流通過程において発生する手数料=商業利益を得ることを本質とし、相場の空間的・時間的変動による投機的利潤を得ることを主目的とするものではないと言ってよい。そしてこの性格を有する卸売業者が一般的に成立することによって、大量取引を継続的に行う中央市場の成立の条件が与えられるのである。しかしながら、大量取引は少しの相場変動でも取引当事者に多大の損失や利益を発生させるから、専門的卸売業者が一般的に成立するには、かれらを相場変動のリスクから解放することが重要な要件となる。この相場変動のリスクを回避する一つの有効な手段として多くの商業学の書が指摘するのは、周知のごとく先物取引を利用して行うヘッジ取引という方法である。大量取引市場に実物市場とならんで先物市場を併設すれば、実需業者は売り繋ぎや買い繋ぎによって、投機それ事態を目的とする専門的危険負担資本に相場変動のリスクを転嫁することができるのである。価格変動の激しい農産物の大量取引が先物取引を行う商品取引所的機構において組織化されることの意義はこの点に存するのである。
 このように考えるならば、宝暦〜文政期において堂島米会所の帳合米取引が上述のような価格保険機能を具備していたことは、近世大坂米市場の成立にとってきわめて重要な意味をもっていたと言わなければならない。それは大量の米を売買する蔵屋敷や米商人を相場変動のリスクから解放することによって、安全かつ恒常的な米取引を可能とする環境を準備したのみならず、すでに指摘したように、蔵屋敷や商人がおこなう米切手担保金融や過米切手振り出しによる金融にも安全性を補償するシステム 提供していたのである。したがって、逆に見れば、天保期以降幕末における堂島の価格平準化機能の衰えは大坂米市場衰退の果であると同時に、因でもあったと言えよう。
(宮本又郎「近世日本の市場経済」有斐閣 1988年6月30日)
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<「飢饉はコメの市場経済化にある」との考え> 江戸時代の飢饉を扱った本の著者には、「飢饉はコメの市場経済化にある」との考えがあるようだ。「幕府が米価を管理せず、米問屋の買い占め・売り惜しみを自由にさせていたからだ」との主張がある。江戸時代の「世俗の思想家」とは違った考えだ。幸い「エコノミスト」を名乗る著者でこうした「市場経済嫌い」の主張にお目にかかったことはない。 ここでは、これまで紹介した考えと少し違う感覚で大坂堂島米会所を捉えたものを紹介しよう。
米切手の功罪 中央米穀市場は、米切手の売買で成り立ったが、米切手は現物の米穀で裏付けられていたから、つまり現物取引であったといえる。それがやがて、売買時に即座に決済せず、一定期間をおいて決済する延取り引きが行われるようになり、1930(享保15)年には、幕府から帳合米商と呼ばれる延取り引きの仕法が公認された。米穀売買は決済時の差益を目当てに転売買が繰り返され、こうして、米穀市場は投機性の高いものとなっていった。
 投機性が強くとも、発行された米切手と現物の米穀が見あっていれば健全である。しかし、初版は財政事情もあり、また投機相場に関係し、さまざまなかたちの米切手を振り出していく。
 ひとつは、在庫米高を超える数量を記載した過米切手である。領国から到着する数量に応じ、その過米部分を買い戻そうとするものである。どこまで買い戻せるかが問題で、やがて過米切手の多くは、現物の補償がない空米切手と化していった。また調達切手というものも登場した。これは、もはや本来の蔵米の払い出し切手ではなく、借金の担保として振り出した切手であった。
 多くの空米切手が飛び交い、米価は激しく変動することになる。米価は諸物価の基本ではなくなり、米価の変動と諸物価の高下は乖離していった。
(NHK歴史発見取材班編「歴史発見」14 角川書店 1994年6月30日 から)
<市場経済のコントロール>飢饉を扱った本に次のような文があった。
 18世紀中後期の大規模飢饉は、すでに述べてきたように、商品貨幣経済が、地方農村のすみずみまで浸透し、全国的な市場経済に藩経済も生産者も組み込まれていくなかで発生していた。(中略)
 食糧の生産地がわずか1年の大凶作でたくさんの餓死者を発生させてしまう。これが市場経済下の飢饉の恐ろしさである。江戸時代の日本列島に起こっていたことは、食糧が国境を越えて動いている現代では世界的規模での現象として起こりかねない。食糧輸出国が凶作になったとき、その国の農民や都市下層民が絶望的な食糧不足に襲われる危険は常に存在している。品薄で高騰した食糧を逆流させるのはそう簡単ではない。(中略)
 国際分業だからと発展途上国からたくさん農産食品を買い、見返りに電化製品や車やパソコンを売って消費ニーズに応えるのが、その国への経済貢献なのだろうか。あるいは、日本の食料自給率をあげて、世界の人口増に負担をかけず、飢餓している人たちにこそ食料が行き届くように仕組みを変えていくほうが国際貢献になるのだろうか。国家・地域の成り立ちと世界経済の折り合いをどうつけ、飢饉・飢餓から解放されるか、21世紀の人類史はそういった課題に具体的な処方箋を出していかなければならない。
(飢饉を扱った本から)
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<江戸期・堂島の米市場にみる多様な金融取引> 堂島米会所に対する評価、最近の経済学関係の本からとくにポイントを押さえた文章を引用しよう。 江戸時代、大坂は「天下の台所」と呼ばれたように、日本経済の中心に位置していた。すなわち、全国各地で生産された農産物・食料品・衣服・工芸品などは一旦大坂へと集荷され、大坂で競り落とされた財物は江戸・京都あるいは地方へと販売されていったのである。そうした大坂での財物の取引のなかでも最も重要な地位を占めていたのが、堂島で行われた米の売買である。各藩では余剰米を大坂で売却のうえ、売却代金を江戸屋敷運営費用などに充当していたのであった。
 大坂は堂島の米市場において売買されていたのは、米の現物ではなく、蔵元が発行した米の倉荷証券である米小切手であった。この米小切手の性格は漸次、米仲買間で転々と売買されるようになるなかで、米に対する請求権を体化した商品切手的なものへと変容していった。そしてまた、米小切手から蔵出しに至るまでの期間が長くなればなるほど、米小切手の保有者は米の価格変動リスクにさらされることになる。こうした価格変動リスクをヘッジするため、享保15年(1730)に帳合米取引と称される米の先物取引が幕府公認の下で開始された。このことは、価格変動が激しい商品の取引においては、価格変動リスク・ヘッジのため、自然発生的に先物取引が行われるようになることを示唆しているといえよう。
 江戸時代後期になり、諸藩の財政が窮乏化していくと、在庫米あるいは出来高米を上回る米小切手が発行されることもしばしばみられるようになった。こうした米小切手は、過米切手あるいは空米切手と呼ばれた。現在、商品販売の裏付けをもたずに資金繰り安定化のために発行される手形のことを融通手形というが、過米切手はまさにこの融通手形に相当するものである。このことは、大名、企業ともに借り手は資金繰りに窮すれば、時代を超えて同じような弥縫(びほう)策に走ることを示唆しているのだろうか。
(「金融システム」(改訂版)酒井良清・鹿野嘉昭 有斐閣 2000年12月30日)
( 2002年10月7日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(13)
21世紀の堂島
<幕藩体制と運命を共にした堂島米会所> 1841(天保12)年、老中水野忠邦は水戸藩主徳川斉昭の助言により株仲間を禁止する。物価高騰の原因を株仲間にあると見て、それが社会不安の原因となり、大坂町奉行元与力大塩平八郎の乱を招いた、として株仲間を禁止した。しかし株仲間禁止は物価問題を解決しなかったばかりか、むしろ流通機構の混乱を引き起こした。江戸町奉行遠山景元などの意見が幕府に受け入れられて、1851(嘉永4)年に問屋再興令が施行される。株仲間禁止とは、青果市場・魚市場・証券市場のセリ・場立ちに素人の参加を容認する様な政策だった。これにより流通機構は混乱し、堂島米会所もその機能が発揮できなくなる。
 株仲間再開後も米会所の機能は回復しなかった。過米切手あるいは空米切手と呼ばれる、商品販売の裏付けをもたずに資金繰り安定化のために発行される融通手形と同じのもが多く発行され市場が混乱した。この市場の混乱を評して市場経済の限界のように言う論者もいるようだが、これは会所の問題というより幕藩制度の限界と見るべきであろう。
 幕藩体制はその財源を年貢米によっていた。江戸時代は鎖国していたにも拘わらず経済は成長していた。生産性の低い米産業に替わって、生産性の高い産業=絹・綿・俵物などの中国への輸出産業・鰯などによる肥料・江戸を中心とした地場産業の成長・輸送流通産業・金融産業、などが成長した。幕府・諸藩の税収が伸び悩む一方町人の生活は豊かになっていった。支配階級である武士の生活が困窮を極め、被支配階級である町人が豊になる。当然幕藩体制は行き詰まり、過米切手が多く発行されるようになる。それを厳しく取り締まる力はもはや幕府には残っていなかった。そして幕藩体制の崩壊と同時進行的に米会所もその価格安定機能を弱めていった。
 明治維新後「大阪堂島米会所」は再開されるが、帳合取引=差金取引=先物取引は許可されなかった。さらに昭和になり戦時体制が進むと、米は市場の取引から政府が価格管理することになる。戦後も食糧管理法により価格は管理される。わずかに「自主流通米価格形成センター」のいう名前の機構が申し訳程度に設立されている。
<日本人は都市化と工業化を望んだ> 江戸時代初期、日本の主要な産業は「コメ」であった。その商品「コメ」の価格安定と流通機構整備の目的から「大阪堂島米会所」が設立され、機能した。しかし経済成長に伴う社会変化に幕藩体制は対応できず、米会所もその機能を低下させた。その要因とは都市化とコメを中心とした農業から、工業化・商業化という変化だった。明治維新になりその変化は加速された。この変化の進む先は「人々が豊になる方向」であり、日本国民はそれを望んでいた。幕末に3千万人程度しか養えなかった日本列島で、現在は1億2千万人が生活している。農水省のHPによると「日本国内で食糧を自給しようとすると3.4倍の土地が必要になる」という。江戸時代初期のように農業中心の産業社会より3.4倍も豊になったと言えよう。
 この衣食足りて礼節を知る人が多くなった豊かな社会、これは独裁者が強引に国民を引っ張っていった社会ではない。民主制度と市場経済によって成り立つ社会であるが、この社会を批判する人もいる。江戸時代がそのまま続く社会が条件にあった社会かも知れない。
 「20世紀は大規模な工業化と急速な都市化とによって特徴づけられる。資本主義と社会主義とを問わず、世界のほとんどすべての国々について、工業化と都市化によってもたらされた歪みが、20世紀末の混乱と破壊を招来したといってよい。あるべき理念とは、工業化と都市化に対置されるものであって、その指向するものは農的世界の新たなる展開であり、自然環境と調和し、安定的な社会環境を形成しながら、より人間的な社会を求めようとするものであって、本来的な意味での持続的な経済発展を実現するものである。工業化、都市化の流を大きく変えて、農的世界の展開を通じてはじめて、新しい21世紀へのへの展望が可能となるといってよい。工業化と都市化が果たしてなにをもたらしたか、また、その背景に存在する21世紀の国家とは何であったのか、について、改めて考え直すことによって、農的世界の展開がいかに可能となるかを模索し、20世紀を超えて、新しい思想的、実践的地平を切り開くことを試みたい」
<このシリーズに登場した町人たち>
<淀屋> 淀屋辰五郎・淀屋与衛門・初代淀屋常安・二代目淀屋个庵(こあん)・四代目淀屋重当(しげまさ)・五代目淀屋広当(ひろまさ)
<堂島の商人> 塩谷庄次郎・河内屋儀兵衛・福島屋久右衛門・田辺善左衛門・境屋善衛門・田辺屋藤左衛門・加島屋清兵衛・尾崎屋藤兵衛・津軽屋彦兵衛・加島屋久右衛門・俵屋喜兵衛・升屋平右衛門・久宝屋太兵衛、備前屋権兵衛・柴屋長左衛門・紙屋治兵衛・高田屋作右衛門・相模屋又市・北国屋仁兵衛
<江戸の商人> 紀伊国屋源兵衛・大坂屋利右衛門・野村屋甚兵衛、中川清三郎・川口茂右衛門・久保田孫兵衛・冬木善太郎・杉田新兵衛・伊勢屋万右衛門・枌木平四郎・冬木彦六・三谷三左衛門・中島蔵之助・戎屋三郎兵衛
<大坂開発に尽くした町人> 成安道頓・宍喰屋次郎右衛門・薩摩屋仁兵衛・長堀次郎兵衛・長堀平右衛門・長堀心斎・長堀清兵衛・三栖清兵衛・岡田心斎・池田屋次郎兵衛・伊丹屋平右衛門・平野次郎兵衛・平野藤次郎・安井治兵衛・安井九兵衛
<米以外の大坂商人> 鴻池屋庄兵衛・加島屋作次郎・加島屋作五郎・米屋伊太郎・天王寺屋弥七・島屋利右衛門・鴻池屋善衛門・辰巳屋久左衛門・米屋(殿村)平右衛門・大黒屋福右衛門
<その他の登場人物> 塩屋庄次郎・天王寺屋平助・井原西鶴・山片蟠桃・海保清陵・本多利明
<自己責任をとれる町人たち> このシリーズに登場した町人の名前を列挙してみた。これだけ多くの町人が活躍した大坂、商人の町=大坂らしく皆自己責任で活躍した。さて、21世紀堂島米会所が再開出来るか?誰が?どの組織が?どのような取引所になるか?こう考え始めて現代と当時の違いに気づいた。当時は自己責任が尊重される資本主義社会で、現代は社会主義なのだ、と。大坂の運河も橋も、大坂の商人が資金を出し、ハイリターンを期待し、ハイリスクを負担した。こうして自己責任において工事を進めたのだが、はたして現代でこれだけのリスクを負担する人がいるだろうか。取引所開設に伴うリスクは個人では負担できない。リターンも期待できないから、情熱を注ぐ人も出てこない。サプライサイドは取引所には関心がない。政府による農業保護だけに関心を絞っている。「米は日本の文化だ」「世界の米市場は商いが薄い。貿易に頼らず、自給自足態勢を取るべきだ」と主張する文化人・学者を味方に、農業を市場から保護へと進めようとする。
 現代では大坂商人のようなリスクは取れない。いくら稼いでも「累進課税」という罰金が待っているので、運河を掘ったり、橋を架けたり、自費で取引所を開設したりはとても出来ない。関係のありそうな組織も、働いている職員にインセンティブが働かない。このように考えると悲観的になる。とは言え、それでも日本は市場経済、何時どこで予想もしない組織、異端者が出ないとも限らない。「官に逆らった経営者」が出たように「神話に挑戦するイノベーター」が出るだろう。日本にはまだまだそのような臍曲がりの出る余地は十分にあると期待することにしよう。
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<主な参考文献・引用文献>
『堂島米会所文献集』世界最古の証券市場文献 島本得一/編 所書店      1970. 9
『国内農産物の先物取引』     農林中金総合研究所編   家の光協会    2001. 4 
『江戸時代の先覚者たち』       山本七平      PHP研究所     1990.10.19  
『江戸時代』             大石慎三郎     中公新書     1977. 8.25
『享保改革の商業政策』        大石慎三郎     吉川弘文館    1998. 2.20  
『百姓の江戸時代』          田中圭一      ちくま新書    2000.11.20  
『村から見た日本史』         田中圭一      ちくま新書    2002. 1.20  
『堂島米会所文献集』         島本得一      所書店      1970. 9.25  
『近世日本の市場経済─大坂米市場分析』宮本又郎      有斐閣      1988. 6.30  
『日本経済史T経済社会の成立』17-18世紀 宮本又郎他    岩波書店     1988.11.30  
『大坂堂島米会所物語』        島実蔵       時事通信社    1994. 7.20  
『戦国時代』(下)          永原慶二      小学館      2000.12.20  
『日本永代蔵』 暉峻康隆訳      井原西鶴      小学館      1992. 4.20  
『近世稲作技術史』          嵐嘉一       農山漁村文化協会 1975.11.20  
『赤米のねがい』古代からのメッセージ 安本義正      近代文芸社    1994. 3.10 
『赤米・紫黒米・香り米』       猪谷富雄      農産漁村文化協会 2000. 3.31  
『日本の名著23』 山片蟠桃 海保青陵 源了圓訳      中央公論社    1971. 2.10  
『コメ』 東京大学公開講座61     吉川弘之      東京大学出版会  1995.10.10   
『金融システム』           酒井良清・鹿野嘉昭 有斐閣      2000.12.30  
『歴史発見』 14          NHK歴史発見取材班編  角川書店     1994. 6.30
『大阪府史』          大阪府史編集専門委員会編 大阪府      1987. 3.30
『大阪市の歴史』           大阪市編纂所編   創元社      1999. 4.20
『明治以前 日本土木史』       (社)土木学会編   土木学会     1936. 6.30
『米の日本史』            土肥鑑高      雄山閣出版    2001. 5. 5
『江戸商人の知恵嚢』         中島誠       現代書館     1999. 5.20
『江戸の市場経済』          岡崎哲二      講談社      1999. 4.10
『日本人の西洋発見』     ドナルド・キーン 芳賀徹訳 中公文庫     1982. 5.10
『国内農産物の先物取引』       農林中金総合研究所 家の光協会    2001. 4. 1  
『江戸の経済システム』        鈴木浩三      日本経済新聞社  1995. 7.14
『ザ・シカゴ・マーケット』      河村幹夫      東京布井出版   1984. 9.10
『商品先物取引の基礎知識』      木原大輔      時事通信社    1980. 7.10
『早わかり商品先物取引』     日本ユニコム企画調査部 東洋経済新報社  1996.12.19
( 2002年10月14日 TANAKA1942b )

大坂堂島米会所
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趣味の経済学 Index
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