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明和南鐐二朱判の発行
1772(安永元)年9月、新たな貨幣を発行する。安永元年の発行だが9月はまだ安永と改元されていなかった。このため「明和南鐐」と呼ばれる。この貨幣、表面に「以南鐐八片換小判一両」の文字を2行に打刻し、裏面には「銀座常是」の文字を入れ、その上に子持分銅を、さらにその左横に「定」という字の極印を刻んでいる。
そして側面には「明和五匁銀」に用いた小花形印が打たれている。表面の文字は、南鐐二朱判八片で金1両に交換する、という意味で、これは銀でできてはいるが、金で鋳造されている二朱金と同一通貨であり、実体は「明和五匁銀」の理念をさらに進めて、これは「銀で造った金貨」であった。ちなみに明治時代の兌換紙幣は「紙で作った金貨」と言えよう。
この「南鐐」という言葉は「舶来の良質銀」という意味で、事実五匁銀(品位46%)に比べ、98%ときわめて高く、純銀と言っても差し支えなかった。しかしそれでも両替商はその普及に対して抵抗した。幕府はこの使用を命じたが、両替商達は受け入れなかった。
そして意次失脚後、松平定信は両替商たちの主張を入れ、この鋳造を停止した。しかし「二朱判」は時代の要請に合うものだったので、松平定信が解任された後、寛政12年に鋳造が再開された。
意次は巨大商人資本と結託しているかのように言われるが、通貨政策で見る限り、巨大商人の利益を擁護し、それと結託しているのは松平定信ということになる。
幕臣経済官僚たちが目指した、通貨=金と通貨=銀の統合、「明和五匁銀」の失敗から学び「明和南鐐二朱判」でその道を開くことになった。
改革に燃えた幕臣経済官僚たちが松平定信によって失脚させられてからも、定信以後その意図は受け継がれて行く。「銀で造った金貨」は幕末までに7種類発行された。そしてこの係数銀貨の鋳造には大量の丁銀が鋳潰されたため、1830年代になると銀貨の約9割を係数銀貨が占めるようになった。経済官僚たちの試みは無駄ではなかった。
ところでこれは江戸時代の通貨政策なのだが、今日の問題として考えるともっと分かりやすい。例えばヨーロッパで、イタリア人がドイツの会社に就職しパリ支店で働くことになったと考えてみよう。給料はドイツのマルクで銀行に振り込まれる。
生活費はこれをフランスのフランに替える。故郷に帰るときはイタリアのリラに替える。或いは家族がローマにいたとしたら、やはりイタリアのリラに替えて送金する。とても面倒だ。誰もがそう思う。一つの通貨になったら便利だろうと考える。政府間や金融担当者の間で協議が進む。
関係者の努力が実ってやっとヨーロッパの単一通貨ユーロが誕生した。大きな期待の目が注ぐ。ヨーロッパの経済史の一大エポックだ。21世紀はヨーロッパ経済に大きな期待がかかる。
それが21世紀のことなら、改革に燃えた幕臣経済官僚たちが挑戦したのは200年以上も前のこと。アダム・スミス(1723-1790)やマンデヴィル(1670-1733)の時代と言えるだろう。「蜂の寓話」を発表したのが1714年なのだから。それにしても遠く離れた日本とヨーロッパ、この時代が経済学の大きな転換期だったとは。
経済学においては日本とヨーロッパの先進国イギリスとが同時進行だったのだ。日本は本当に「鎖国」をしていたのだろうか?
荻原重秀(1658-1713)(万治元-正徳3)
マンデヴィル(Bernard de Mandeville)(1670-1733)
田沼意次(1719-1788)(享保4-天明8)
アダム・スミス(Adam Smith)(1723-1790)
お薦め本
貨幣についてもっといろいろなことを知りたいと言う方には F.A.ハイエク著 川口慎二訳 「貨幣発行自由化論」 東洋経済新報社 1988 をお薦めします
( 2002年2月18日 TANAKA1942b )
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改革に燃えた幕臣経済官僚の夢(3)
冥加金・運上金など間接税重視の税制改革
<年貢米=直接税の増収は期待できない>
幕府の財政は年貢米と天領での金・銀など鉱物の産出であった。年貢米は徳川家康が「年貢は百姓を生かさぬよう、殺さぬよう、ぎりぎり一杯まで取るのが理想である」と言ったと伝えられるように、百姓のその年の収入の70%取り立てるのが一般的であった。これが七公三民の税率。
しかし、治水工事、道路建設、城下町建設といったインフラ整備が終わった寛文年間(1661-1673)ごろから年貢率は急速に低下し始め、新井白石が実権を握った宝永年間(1704-1716)には三公七民に逆転した。
七公三民の年貢率が三公七民になったということは、年貢を納めたあと何も残っていなかった百姓の手元に、年貢を納めたあとに、なお「四」という可処分所得が残るようになったということだ。このため庶民の生活は著しく豊かになった。
4代将軍家綱の時代から、5代将軍綱吉の元禄時代においておこった庶民の生活向上、つまり元禄の繁栄はこのようにしておこった。
これは庶民の経済。幕府の財政は逆だった。
一時的に荻原重秀の貨幣改鋳による財政再建も新井白石のために元に戻り、幕府は財政維持に苦しむようになる。
8代将軍吉宗の課題は幕府財政の建て直しであり、その手法は年貢の増収であった。
そして年貢増収の具体策は、(1)新田開発を促進し、課税対象としての耕地を増やす。(2)年貢徴収法を「検見取法」から「定免法」に変えるかわり、多くの年貢を納めるように、それが不満なら「有毛検見法」にする。というものだった。
ところで新田開発は戦国末期から活発になったが、大方有望な所は終わっていた。むしろ今ある田を捨て新田開発に向かう農民も多く、年貢増収は短期的には望めなくなっていた。そして「定免法」への変更も農民の抵抗が大きくあちらこちらで一揆が起こり始める。
吉宗の子家重の小姓としての意次はこれを見ている。幕府財政再建は年貢増収では限界があることを悟る。
「検見取法」
毎年秋の収穫時期に役人が村を回り、そのうちのサンプルによる収穫状況を見る。出来の悪い場合は納める年貢の量を加減する。一見百姓には喜ばれそうだが事実は逆。役人のさじ加減一つで割り当てが決まるので、村では役人の接待に忙しい。また役人が来るまで刈り取りすることができない。
「定免法」
収穫の状況に関係なく一定の率を決めておく方法。将軍吉宗は「この方が百姓に有利なはずだ、」ということで納める率を高めようとした。
「有検見法」
役人が実際に田畑を一筆一筆調べ、実状に応じて課税する方法。「検見取法」以上に厳しく査定する。これだと検分に時間がかかるだけでなく、後に開墾され無税地(隠れ田)が見つかってしまう、など百姓に不利になる。
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<郡上一揆に対する将軍家重のお裁き>
有検見法は過酷な税法で、「百姓と胡麻の油は、絞れば絞るほど出るものなり」と方言したといわれる幕史神尾若狭守春央が案出したものだとされている。吉宗はしかし本気でこの税法を採用する、というより一種の脅しとして使うつもりだった。
ところがこの有毛検見法を採用しようとした藩が現れた。郡上八幡藩主金森頼錦だった。百姓はこれを阻止しようと1754(宝暦4)年8月10日、八幡城下に強訴をかけた。驚いた藩側では3人の家老が善処を約束し、覚書を出して百姓を解散させた。
しかし藩内強硬派と江戸の藩邸は納得しない。幕臣に働きかけ、藩の年貢問題に幕府を巻き込むことになる。これを知った百姓はさらに強硬になる。藩側は百姓の切り崩しに取りかかる。百姓側は幕府に訴える。その後幾度かやりとりがあり、1754(宝暦4)年8月に始まり落着するのが1758(宝暦8)年12月。他に例のない長い闘争になった。
これは9代将軍家重の時代で、田沼意次は1751(宝暦元)年に側用申次という役職になり、1758(宝暦8)年9月加増され1万石となり、大名の列に加わるとともに「評定所の式日にその席つらなるべきむね」仰せつけられ、たまたま進行していた「郡上一件」の審議に参加。その状況を将軍家重に報告する役目を命ぜられている。
幕府評定所での審理の結果、領主金森頼錦は領地没収のうえ奥州南部大膳大夫のところに永預け。百姓側は死罪13人他多数処罰。さらに前代未聞ともいうべきことに、老中以下の幕閣が金森藩政にからんだとして処罰された。それは老中、若年寄、大目付、勘定奉行などで、若年寄本多長門守忠央(遠州相良1万5千石)領地没収、作州津山松平越後守へ永預け。
そしてその相良は田沼意次がもらうことになる。
このお裁きの意味は、直接税増徴派幕閣を追放し、田沼意次をリーダーとする間接税派の登場ということになる。
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<株仲間という江戸産業人の知恵>
簡単に言えば同業者組合。この同業者組合としての「株仲間」が江戸時代産業のキーワードになる。江戸時代商業の主役は問屋で、輸送・保管・商取引などの機能を有し、自己勘定の売買は行わず、もっぱら荷主から委託された荷物を販売して口銭(販売手数料)と倉敷料(保管料)を得る荷受問屋が主流であった。
17世紀中頃、江戸時代初期に自己勘定で売買する仕入れ問屋が発展し、これら問屋が材木・米・薪・炭・竹・油などの取扱商品別に分化した。一方大阪では17世紀前半に、国問屋(くにどいや)という業態の問屋が生まれた。
国問屋は商品の種類別だはなく、商品の産地ごとに専門化した荷受問屋であった。肥前国問屋・阿波国問屋などがその例といえる。17世紀後半、元禄時代になると大阪でも国問屋を中心とする流通組織から商品別に専門化した仕入問屋中心の流通組織に転換した。これらの問屋が集まり同業者組合を作る。株仲間と称し、会員の推薦を受け株を買うことにより株仲間に参加する。
江戸時代になり社会は安定してくる。町奉行所などの司法機関もできる。
それでも金の貸し借りに関しては、相対済令発令に象徴されるように、幕府による金銭債権の保証には限界があった。そこで株仲間がこれらを保証する機能を持つことになった。問屋の取引は多くの場合信用取引だった。商品を引き渡した後、一定期間が経過してから代金が決済された。
支払い期間には、3日、10日、節季払(せつきばらい)、二季払などがあった。支払いは現金のほか、素人手形(約束手形)、および両替商を介した振手形(小切手)・為替手形が用いられた。こうした取引で約束が守られない場合はどうなるか?
「荷主衆と直段取究買請候荷物不相渡仁有之候はば仲間一同取引致申間舗候事」
仲間内の米穀問屋が荷主と値段を決めて購入した荷物が届けられなかった場合、その荷主とは仲間全員が取引を停止するという規定だ。
同業者が交換の正義を守るために自主的に作った「願株」と幕府や諸藩が流通統制や警察的取締を行うために、上から株仲間を設定する「御免株」があった。
江戸時代から経済は「信用第一」であった。荻原重秀の貨幣改鋳も「信用第一」。これを忘れると雪印食品でさえ営業できなくなる。将来コメが自由化され先物取引が行われた場合、自国の消費者優先で約束を守らない輸出業者・政府機関があったら、それ以降国際市場では取引できなくなる。
これは日本では江戸時代から確立していたし、西欧では日本の株仲間のような、11世紀ユダヤ商人集団=マグリビ商人の研究もある。時々「尊農攘夷」信仰者の言う「食料安保」論にはこの観点が欠けている。交換の正義が守られないとどうなるか?江戸時代の商人に学ぶ点は多いだろう。
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<物価安定のためと考えた大岡越前守忠相>
大岡越前守忠相は江戸の物価安定のため株仲間を利用しようとした。1678(享保9)年5月に真綿・布・木綿・米・醤油・茶・酒・紙など生活必需品22品目を扱う各種商人を集めて、組合を作るよう命じている。これは江戸の消費物価高騰を押さえようとの考えからだった。
その後同年11月になって、水油・魚油・繰綿・真綿・酒・薪・木綿・醤油・塩・米・味噌・生蝋・下蝋燭・紙・炭の15品目についての問屋、直荷受業者の登録が終わる。
<冥加金・運上金という間接税>
問屋・仲買・小売という日本独特の流通制度は株仲間の発展と共に確立する。田沼意次はこの組織を財源と見た。幕府が株仲間という排他的な組織を認め、仲間以外には商売を許可しないということを保証することにより、「冥加金・運上金」という事業許可税を取ることにした。
これは事業許可税、流通税または外形標準課税のようなものだった。流通税または消費税のような税は荻原重秀が酒に50%の流通税をかけたことがあったが、新井白石によって潰されている。今日東京都や政府が財源を求めて苦労している、それと同じ苦労をしていたわけだ。
株仲間は商人が独占的利益を守ろうとし、幕府は財源と見て両者の思惑が一致したことによって発展した。しかし意次以降はその対応が決まらず、1841(天保12)年水野忠邦が「天保の改革」の一環として、株仲間解散を発令する。
しかし1851(嘉永4)年、問屋仲間再興令を発する。明治維新になり、幕藩体制に適応した株仲間組織はその存在基盤を失った。
( 2002年2月25日 TANAKA1942b )
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改革に燃えた幕臣経済官僚の夢 (4)
鎖国中でも貿易赤字?
<通貨流通量の増減と景気>
通貨流通量と景気は密接な関係にある。経済が成長するには通貨が増えなくてはならない。これを「成長通貨」と言う。ところが増えすぎるとインフレーションになる。「インフレはいついかなる場合も、貨幣的現象である」は経済学の常識になっている。
ところで通貨流通量が増える場合、それが国民に十分知られているか?あるいはほとんど誰も知らないか?によっても経済に対する影響は違ってくる。たとえばヘリコプターで貨幣をばらまいたとしよう。
(1)拾った人が誰にも言わず、皆が自分だけだと思っている場合、(2)拾わなかった人も含め、皆が知っている場合・・・(1)の場合は拾った人たちがそのお金を使い、景気が良くなる。しかしそのうち気づき始める「おかしいぞ、景気は良くなったけれど、何かおかしい。もしかしたら貨幣が増えただけなのではないだろうか?」と。
そのうちにインフレになる。そしてその結果は、時間が経ってみると単にインフレになり、貨幣価値が下がっただけになる。皆が気づくまでのほんの少しの時間景気が良くなったような気になっただけだった。
それでも「しばらくは景気が良かったのだからいいことだ」と言う人もいる。そして言う「景気対策が必要だ。財政出動すべし。たとえ名目だけでも好況になればいい。財政赤字は景気が良くなってから考えればいい」と言う。
では(2)の場合はどうか?「貨幣が増えたので名目消費は伸びるが、インフレになるので景気には中立。つまり景気は変わらない」となる。
通貨流通量が増えたり減ったりする、その原因はいくつかある。江戸時代荻原重秀は小判の金含有量を減らして貨幣を増やした。田沼意次は新しい「銀製の小判」を作って貨幣を増やした。
<鎖国への道>
鎖国とへの道はどのようなものだったのだろうか?その経緯を見てみよう。
1609 慶長14 秀忠 オランダと貿易を開始
1612
慶長17 秀忠 天領に禁教令
1613 慶長18 秀忠 全国に禁教令(バテレン追放令)
1616 元和 2 秀忠 欧船入港を平戸・長崎に制限
1623 元和 9 家光 英国、日本から退去
1624 寛永元 家光 イスパニア船来航禁止
1633 寛永10 家光 奉書船以外の海外渡航禁止
1634 寛永11 家光 海外往来・通商制限
1635 寛永12 家光 日本船の海外渡航禁止、帰国の全面禁止
1636 寛永13 家光 ポルトガル人との混血児を追放
1637 寛永14 家光 島原の乱(〜38)
1639 寛永16 家光 ポルトガル船来航禁止 (鎖国の完成)
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<金・銀を輸出していた日本>
江戸時代日本は鎖国をしていた。しかし全く貿易量がゼロだったわけではない。そこで当時の貿易量を調べてみよう。江戸時代初期の輸出入品目は次のようになっている。
輸入品 生糸 絹織物 皮革 香料 薬種 砂糖
輸出品
金・金製品 銀・銀製品 銅・銅製品 樟脳
ところで当時の対外貿易は赤字だったのか?黒字だったのか?これは金や銀を金製品・銀製品と同じ貴金属と見るか、あるいは貨幣と見るかによって違ってくる。ここでは先ず貴金属としてみて見よう。そうすると輸入と輸出は均衡していたことになる。つまり対外貿易は赤字でもなく、黒字でもなかった、となる。
ではそれぞれの品目の割合だどうだったのか?輸入に関しては圧倒的に生糸および絹織物が多かった。金額的に言えばこの2品目でわが国の輸入はほとんど全てと言ってもいいくらいだった。これは江戸時代になり、社会が安定し、生活が豊かになり、武士を中心に一部有閑階級が贅沢を楽しむようになり、中国産の生糸や絹織物が爆発的に消費されたからだ。
日本古来からも生糸はあったが品質の点で中国産には劣っていた。このため日本の呉服屋が有閑階級に用立てしたのは和絹ではなく、白糸と呼ばれる中国産の輸入生糸を原料としたものだった。
この白糸貿易を独占していたのがポルトガル人で、莫大な利益を得ていた。幕府はこれに目を付け1604(慶長9)年糸割符の法を定め、京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間をつくらせ、これに専買権を与えて一括購入をさせた。
その結果利益は日本商人の手に移ったが、外国商人からの抵抗がつよく1655(明暦元)年には糸割符制度を止めて相対取引とした。しかしまた買取競争のため利益の大部分が外国商人の手に移ったうえ、生糸の価格も高騰したので1672(寛文12)年には市法売買といって、取引相手があらかじめ評価入札のうえ適正価格を決めるという方法を採った。
しかしこの方法もいろいろ問題があったので5代将軍綱吉の時代、1684(貞享元)年にこんどは輸入総額を定め制限したうえで、糸割符商法を復活させている。
一方輸出はと言うと、金・金製品それに銀・銀製品が主要輸出製品となる。これがなかなか大量なものだった。ここでは輸出品目と書いたが実際は輸入代金としてのものだった。
つまり生糸・絹織物の代金だったわけだ。それがどの位だったか?新井白石はその著「折りたく柴の記」のなかでつぎのように言う。
正確には知りがたいが、1648(慶安元)年から1708(宝永5)年までの60年間に金139万7600両余、銀37万4229貫余、であると計算し、さらにその前の1601(慶長6)年から1647(正保4)年までの46年間にその2倍はあったと推定している。
これでいくと1601(慶長6)年から1708(宝永5)年までの108年間に流出した日本の貴金属の量は金719万2800両と銀112万2687貫となり、それは慶長以降の総産出量の、金はその 1/4、銀はその 3/4にあたり、このままほうっておけばあと100年もすると金は半分になってしまい、銀にいたってはそこまでいかないうちに零になってしまう、と心配している。
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<意次の積極的な収支改善策>
こうした金・銀流出という事態に対して新井白石は貿易量を制限して対処しようとした。 1715(正徳5)年に出した正徳新令で貿易の大枠をつぎのように規定した。まず貿易総額は対オランダ5万両、対中国6千貫だが、それ以外に俵物等による代物替3千貫を認めただけで、銅代物替は廃止した。また銅の輸出に上限を設け、対オランダ150万斤、対中国300万斤とし、これはその価格分を貿易総額から差し引いて計算するとした。
このほか貿易船の入港数にも制限をつけ、毎年オランダ船は2隻、中国船は30隻までとした。オランダはこれまで4−5隻が入港していたから大きな痛手になった。しかしこれは根本的な解決にはならない。それに対して田沼意次は積極的な収支改善策をとる。
朝鮮人参
朝鮮人参は、和漢薬のエースとでもいうべき存在で、朝鮮貿易の中心でもあった。意次はこれを国産化することを企てる。そこで、朝鮮と似た風土を探して上野国の今市付近を選定して種をまき、栽培してみたところそれに成功し、薬効も朝鮮産のものと異ならない、という結論が出る。
そこで、これを幕府の専売として、人参座を作った。これが1763(宝暦13)年のこと。当初は勘定所の役人が兼務で処理していたが、業務量が多く、とても無理ということで、1766(明和3)年からは、専門に担当する職員をおくようになる。そして1819(文政2)年には国産の朝鮮人参を中国に輸出するというところまで、輸出産業として成長させる。金銀の流出原因だった朝鮮人参が、逆に外貨を稼ぐ産業にまで生長していったわけだ。
そしてこの朝鮮人参国産化には平賀源内の貢献が大きい。1757(宝暦7)年の7月、源内の提唱により田村元雄主催の第1回薬品会=物産会が江戸の湯島で催される。全国に同志を求め、珍品奇種を示しあい、実物に即して知識情報を交換し合う、といういかにも「先走り」の源内らしいアイディアが実行された。
江戸時代「木草学」というのがあって、今で言えば「植物学」のようなもので、薬草などが研究対象になっていた。
と言っても同好の士が情報を交換する程度だったものを、源内は広く全国に呼びかけ、派閥的なものを乗り越えて開催された。この会で源内は「朝鮮人参は日本でも栽培できるはずだから、そのような情報があったら知らせて欲しい」と呼びかけている。この頃まだ源内は田沼屋敷には出入りしていない。
朝鮮人参国産化は源内の師、田村元雄が取り組んでいた。元雄が将軍吉宗の命で朝鮮人参の種20粒を百花街と称する自分の薬園に試植したのが1737(元文2)年。その後1743(寛保3)年にも朝鮮人参の種100粒余を麹町で培養している。朝鮮人参が国産化されてもその効用はあまり信用されていなかった。
それに関して物産展の出品をまとめた本に田村元雄の長男、田村善之が重要なエピソードを書いている。それは1760(宝暦10)年2月、神田旅籠町から出火し日本橋、浅草、本所深川までひろがった大火があった。その大火のあと、源内は12,3才の少年が飢えと病気で息も絶え絶えで横たわっているのを見かけたという。
そこでさっそく田村善之も救急食をもって源内と一緒に現場へいってみると、少年はもう脈も絶えそうになって四肢は冷たくなりかかっていた。そのとき源内は懐中を探って朝鮮人参を取り出し、かみ砕いて少年の口に入れてやると、まもなく少年の腹が鳴り、四肢が暖まってきた。そこで源内は急いで人参1本を煎じて、やかんの口から少年の口に注ぎ込んでやった。こんどは脈が戻って、やっとうなり声もあげたので、着るものと食べ物を与え田村家の使用人を付き添わせ少年の家まで送り返してやった。と言うのである。
俵物
1764(明和元)年に、意次は中国輸出向けの煎り海鼠(なまこ)及び乾し鮑(あわび)を増産するように、諸国に命じている。生の海鼠や鮑の漁業になれていない漁村や、せっかく生の海鼠や鮑を採っていても、中国人の好む製造方法を知らないために、加工していない漁村がかなりあったからだ。
そこで、そうした漁村は近隣のそうした技術を持っている漁村からそれを習って、増産に努めるように、と命じたもの。翌1765(明和2)年には、鱶鰭(ふかひれ)の製造がきちんとなされていないために商品価値を落としている例があるので、製造方法に注意するように、というお触れを出している。輸出を盛んにするために、それについては租税を免除する、という事もしている。
このような輸出振興策により経常収支は改善されていった。中国からの生糸・絹織物が国産品に代わり日本の主要な輸出産業になるのはもっと、ずっと後のことだがこうした意次の輸出振興策があったから、多くの産業振興に力が注がれるようになったと言える。
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<金・銀の輸出>
1639(寛永16)年、将軍家光はポルトガル船来航禁止し、長崎に来て日本と貿易できる外国をオランダと中国の2カ国のみとし、ここに日本の鎖国が完成する。しかし鎖国後も対外貿易は継続する。日本国内で金・銀の産出が少なくなり、代わりに銅が輸入代金の支払いに用いられる。この時代を日本では「鎖国」と呼んで、世界から隔離していたように言われている。その時代を外国ではどのように見ていたのだろうか?
日本からの輸入代金の支払いが銅になった事は、オランダにとって特別な意味があった。それは金・銀が望めなくなり、日本から引き出せる最後の資金源といってよかったのだ。東インド会社は日本の銅をヨーロッパに運び、東インド会社で労賃等に支払う銅銭に鋳造する一方、その多くを銅市場で売却した。
日本の銅がヨーロッパの市場でどれほどのウェイトを占めていたかは、アダム・スミスの「国富論」に次のような文があることからも想像できる。
貴金属の場合でも、世界きっての多産的な鉱山におけるその価格が、世界の他のあらゆる鉱山におけるその価格に多少とも影響せざるをえないのである。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山におけるその価格にいく分か影響するに違いない。(アダム・スミス 「国富論」1776年)
<金・銀の輸入>
1763(宝暦13)年、勘定奉行石谷清昌が長崎奉行を兼任していた時期、その年の記録に、中国から「足赤金、八呈金、九星金」をそれぞれ146匁4分、「元寶足紋銀」を117貫179匁、「中型足紋銀」を37貫752匁9分、「元絲銀」を240貫73匁2分2厘6毛輸入したとの記録がある。
金や銀についている変わった名称の意味はよく判らないが、それぞれの塊の形を意味すると思われる。これを単純に合計すると、銀は計395貫という事になる。白石の長崎新例による対中国貿易制限額が年3000貫だから、その1割程度で、国内的に強いインパクトを与えるほどではないが、幕府創設以来の流れが逆転し、金銀が海外に流出する代わりに流入するようになった、ということの意義は大きいと言える。
この年を皮切りに、以後、毎年のようにかなりの金銀の輸入が始まる。同年から1782(天明2)年までの10年間の、中国からの輸入総量は金が88貫474匁、銀が6374貫772匁余になる。このうち3829貫919匁9分9毛9絲を溶かして、明和南鐐二朱判を126万650片を鋳造したと言われる。額面金額に直せば、15万7581両あまり。
このほか、1765(明和2)年から、オランダからもやはり銀の輸入を開始している。オランダの場合には同国の銀貨そのものを輸入しているから、これは輸入というより、相手国通貨による貿易の決済といった方がいいだろう。
当時のオランダの銀貨は、デュカットという単位で、1770(明和7)年には、輸入限度額を1万5000デュカットと決めているから、大体その程度の輸入額があったと考えられる。当時の日本人には、デュカットという発音が聞き取れなかったらしく、テカトンという表記になっている。1782(天明2)年までの集計では、1417貫068匁余となっている。
これらは明和南鐐二朱判鋳造のために輸入されたのだが、輸入されたのはこれだけではなかった。中国から、馬蹄銀、印子銀などの金銀地金、それと同じく地金価値で流通していたスペインのドル銀貨や、チベットや安南の金・銀も輸入されている。オランダ人は自国の金銀貨のほか、広い交易圏を利用して、インド、ジャワの銀貨ももたらした。
全部が明和南鐐二朱判鋳造のために回されたわけでもないが、貨幣用に外国の金銀を用いることが意次とその協力者によって始められたわけである。
( 2002年3月4日 TANAKA1942b )
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改革に燃えた幕臣経済官僚の夢(5)
蝦夷地開発の志は文明開化によってやっと実現
<松前藩はまるで独立主権国家>
蝦夷(北海道)は江戸時代松前藩が支配していた。支配の内容は次のようなものだった。
定
一、自諸国松前へ出入之者共、志摩守不相断而、夷仁与直に商売仕候儀、可為曲事事
一、志摩守に無断而令渡海、売買仕候者、急度可致言上事付、夷之儀者、何方へ往行く候共、可至夷次第事 一、対夷仁非分申懸者堅停止事
右条々若於違背之輩者、可処厳科者也、依如件 慶長九年正月廿七日 黒印 松前志摩とのへ
|
これは1604(慶長9)年徳川家康から松前志摩守への黒印状。
これの意味するところは、第1条=日本から松前(蝦夷)へ出入りする者は松前志摩守に断りなしに夷仁(アイヌ)と商売をしてはいけない。第2条=松前氏に断りなしに渡海して夷仁と商売する者があれば、必ず幕府に言上することを命じ、第3条=夷仁に対しては決して非分の申懸けをしてはならない、としている。
つまり蝦夷地での交易権は、松前氏の独占するところで、それを希望する日本人は、必ず松前氏の許可を得て行うべき事が、徳川幕府の名において定められた。なお第2条=「付」では、夷仁=アイヌはどこへ行こうが彼らの勝手で、幕府の制約を受けない、と定められている。
松前藩は本州からの来訪を厳しく制限していた。水戸光圀候が手の者を派遣した時も、松前藩では適当にあしらって追い返してしまった。これは松前藩が蝦夷地を植民地支配していて、それを幕府に知られないようにしていたためだった。
このため蝦夷地への関心は幕府内でも浅かった。しかし田沼政権時何とはなく自由な雰囲気の中で、蝦夷地に対する関心も出てきた。特にロシアが1689(元禄2)年、清・露のネルチンスク条約によって南進を封じ込められてからは、東進を続けベーリング海峡、千島列島、さらに1767(明和4)年には択捉島まで来ている。
この時代がどういう時代だったか・・・スペインの没落貴族の出であるコルテスが征服の目的をもってメキシコのユカタン半島に上陸、メキシコ・シティーに進んでモンテマス二世を滅ぼし、この地に栄えていたアステカ帝国を滅ぼし、スペインの植民地に組み込んだのが1521(大永元)年。1532(天文元)年、ピサロはインカ帝国を征服、現在のペルー一帯を植民地に取り込んでいる。
イギリス東インド会社は喜望峰以東のアジア地域の貿易を独占的に行う特殊会社として1600年12月31日に設立。
オランダ連邦議会は1602年3月に連合東インド会社設立を決定。1780年にはイギリス東インド会社がインド阿片の貿易権を獲得。
新大陸では1763年七年戦争(アメリカのおけるフレンチ・インディアン戦争)の終了とともにイギリス本国とアメリカ植民地の関係が対立していく。1773年12月ボストンにおいてサミュエル・アダムスを指導者とする植民地人の一群が、インディアンに扮して船上の茶箱をボストン湾に投げ捨てるという、「ボストン茶会事件」が起きた。
1775年4月に始まったアメリカ独立戦争は1783年9月に講和条約がパリで調印され、1776年7月4日アメリカ合衆国は独立する。ヨーロッパではこの戦争に関係した国々の経済が破綻しかけていた。
さらに1783(天明3)年、浅間山の大噴火によって舞い上がった粉塵が偏西風にのって、フランスまで行き、気候不順のため農作物が不作になり、農民の不安・不満がつのり、それが1779年7月14日のフランス大革命を引き起こすきっかけになった、との説もある。
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工藤平助(1734-1800)(享保19-寛政12)の「赤蝦夷風説考」
仙台藩医工藤平助は蘭学者の前野良沢・林子平・桂川甫周・大槻玄沢、オランダ通詞の吉雄耕牛、元松前藩勘定奉行の湊源左衛門、松前藩医師米田玄丹らと親交を結び、1781(天明元)年に「赤蝦夷風説考」を著して北方問題の重要性を説いた。
「赤蝦夷風説考」から 「日本の力を増す事、蝦夷にしく事なし、また、このまま捨て置き、カムサスカの者共、蝦夷地と一所なれば、蝦夷もオロシヤの下知に従う故、もはや我が国の支配はうけまじ。しかる上は悔やみてかえらぬ事なり。
下説に様々の風説を聞くに、東北蝦夷の方は、段々オロシヤに懐き従うと承る。この如き実説にて、一旦オロシヤに従いては力及ばぬ事なれば、是迄の様にしては差し置きがたき事と思われる也。只今までの通りにて、通路なければ何事をするも知れぬ事なり、前に言う所の我が国の力を益国とて蝦夷にしく事なし、これに依る心を尽くすべき事なり。
如何様に国益を考えるとも、我が国の内ばかりにての手段、工夫にては、はかばかしき事有るまじきなり。増して斯くのごとき段々の次第あれば、打ち捨て置き難き時節というべきか。かねて抜け荷禁制の一件は僕が多年工夫する所なるが、これをオロシヤ手筋の抜け荷、只今迄の仕方にては禁制し難き訳合いなり」
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工藤の言おうとするのは、アイヌをこのまま放って置けば総てロシア側についてしまうから、一刻も早くアイヌ部族を手懐け、幕府の権限で、蝦夷地の金銀、物産を管理し、ロシアと交易すべしという事で、アイヌ民族に対する撫育は国防上絶対に必要であるという事である。
平助は田沼意次の用人三浦庄二につてを求めこれを意次の目に入れようとする。そして1784(天明4)年5月16日勘定奉行松本秀持はこの「赤蝦夷風説考」を添えて蝦夷地調査についての伺書を出す
伺書を受け取った意次は幕閣で評議する時の根回しのために、あらかじめ出羽守にもそれを見せておくようにと指示している。出羽守とは水野忠友のことで、彼は意次の四男忠徳を養子にもらって嗣子としており、この時老中格で沼津藩主だった。そして紀州徳川家の足軽の息子という軽輩の出で老中(側用人兼務)までになった意次が、譜代門閥層のなかに持っている数少ない足がかりだった。
このような下工作が功を奏したのか、「書面伺い通りにせよ」と申し渡されたのが5月23日、伺書提出から決裁までたった7日という予想外に早い決断だった。こうした決断の早さがいかにも改革に燃える幕臣たちだと感じさせる。
ここから調査実現のための勘定奉行松本秀持の獅子奮迅の大活躍が始まる。
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松本秀持とその協力者たち
勘定奉行松本秀持は代々御天守番をつとめる幕臣のなかでも軽輩中の軽輩に属する家柄であった。1779(安永8)年勘定奉行に栄進し500石の知行取となり、1782(天明2)年には田安家の家老も兼ねている。蝦夷地探検には先ず人選から始める。
秀持は御勘定組頭の土山宋次郎孝之に相談する。そのころ宋次郎は病気で引きこもっていたが、同役金沢安五郎を通して文書を提出している。蝦夷地に詳しい者として次の名前を挙げている。稲毛屋金右衛門、湊源衛門、木村吉右衛門、大口屋平十郎。さらに蝦夷地の概要、産物、本土からの渡来を厳しく制限していること、などを報告している。
土山宋次郎の報告書を松本秀持が受け取ったのが1784(天明4)年5月。すぐに松前藩との交渉に入る。秀持はもし松前藩で行われている抜け荷が露顕したら、藩の存亡にもかかわるぞと、抜け荷問題をちらつかせて松前藩をゆさぶりながら交渉を重ね、同年10月21日には調査隊の規模編成について幕府当局の許可を受ける。
蝦夷地調査のため編成された幕府の陣容は、御普請役 5人、同下役 5人、廻船 2艘、というものであった。
御普請役として指名されたのは山口鉄二郎、庵原弥六、佐藤玄六郎、皆川沖右衛門、青嶋俊蔵の5人。その他後に蝦夷と深い関わりを持つようになる最上徳内が、本多利明の紹介で下役として参加している。
1785(天明5)年4月29日、東蝦夷地調査隊と西蝦夷地調査隊がおのおの松前を出立した。
1786(天明6)年2月6日には「蝦夷地の儀、是迄見分仕候申上候書付」と題する長文の報告書が意次に提出されている。
これには「蝦夷地は広大なうえ地味がよく農耕に適しているが、松前藩は蝦夷人(アイヌ)を農耕化させないため、彼らが穀物を作ることを禁止している」とあり、さらに「その面積は1166万4000町歩。その10分の1が耕地にできるとして、116万6400町歩となる。これを内地の古田畑の平均1反1石の半作である1反5斗として計算すると、583万2000石の耕地となる。」とある。
これだけ広大な耕地をどうして耕すか、が問題になる。蝦夷人に農具を与え、種子を渡し、作り方を教える。それだけでは農耕者が不足する。どうしても内地から入植させなければならない・・・と蝦夷地開発の夢は広がっていく。
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夢の挫折
蝦夷地開発の夢にかける情熱は意次・秀持だけでなく、佐藤玄六郎以下蝦夷地へ乗り込んだ面々も同じであった。その熱意から無理が生じ犠牲者が出ることになる。
遠く樺太まで足をのばした西蝦夷地調査隊は、冬が近づき食糧も乏しくなったので、最初の計画どおりひとまず本部のある松前まで引き返す事にした。
しかし来年以降のこともあるので、蝦夷地最北端のソウヤ(宗谷)まで帰ったところで、「寒気試し」のため越冬することにした。しかし極寒地での設備も装備も知識もないため、「霧気にあたり」隊員はつぎつぎに倒れていった。松前藩鉄砲足軽=田村運次郎、通詞=長右衛門、西蝦夷調査隊長=公儀御普請役=庵原弥六、松前藩士=工藤忠左衛門、松前藩士=柴田文蔵、死亡。
尊い犠牲者を出しながらも、第2回の調査隊が活動する。しかし現地での熱気とは別に江戸では松平定信の宮廷クーデターが起きていた。1785(天明5)年12月1日に溜之間詰になった松平定信は1786(天明6)年8月15日意次のうしろだてになっていた将軍家治が発病すると意次を老中職から罷免する。意次が進めていた計画をつぎつぎと中止する。そして同年10月28日には蝦夷地調査も全面的に中止することになってしまった。
定信の反意次政策は徹底していた。山口鉄五郎、佐藤玄六郎はそれまでの調査結果をとりまとめ、報告書にしたてて勘定奉行までに提出したが「蝦夷地の一件はすでに差し止めになっているので受理しない」となる。それのみか両人はもはや用はないから「勝手に帰農するように」といって召しは放ちになってしまう。同じように皆川沖右衛門も、青嶋俊蔵も一言のねぎらいもなく召し放ちになってしまった。このように日本北方探検史上、最初の輝かしい成果である「天明蝦夷地調査」は、このような思いがけない惨めな結果に終わる。
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定信の仕打ち
1786(天明6)年10月意次は隠居を命ぜられ、領地のうち2万石を没収される。この間将軍家治が死亡、家済が11代将軍となり、同年7月6日松平定信が老中となる。定信の仕打ちは意次にとどまらない。
意次と共に改革を進めていた勘定奉行松本秀持は蝦夷地調査・開発などを司る勝手方奉行から、閑職の公事方にまわされ、さらに職を奪われ小普請組に落とされ、さらに越後買米事件で責任を取らされ100石を没収されている。
秀持と共に意次改革を進めていた勘定奉行赤井忠晶はというと、1750(寛延3)年に父の遺跡を継いでからは、小十人頭、御先弓頭を勤め1774(安永3)年京都町奉行、1782(天明2)年には勘定奉行となって意次と共に改革を進めるが、意次が失脚すると西の丸の御留守居に回され、さらに翌年には越後米買米事件が起きると、その監督が不十分であり、かつ事件の首謀者土山宗次郎から借金していたという理由で、領地を半分没収され小普請組に落とされる。
幕府内きっての蝦夷地通と言われ、蝦夷地調査の推進に大きな役割を果たした幕府勘定組頭土山宗次郎、定信によって富士見宝蔵番頭という閑職に回されたが、「越後買米事件」で死罪に処せられている。この事件は今一つはっきりしないのだが、土山宗次郎死罪を始め、松本秀持、赤井忠晶など関連配下役人、不正商人など数十人が獄門、死罪、遠島などに処せられた事件で、定信の老中首座就任直後であるだけに、反田沼を旗印とする定信の意図が感じられる事件であった。
東蝦夷調査隊長の役割を果たした青嶋俊蔵の運命も数奇であった。定信登場と共に一言のねぎらいもなく召し放たれたのだが、1789(寛政元)年アイヌの反乱があると、再び召し出された。普請役見習という役職を与え、「蝦夷地争乱の糺し」のため現地に急派する。このとき最上徳内も同行する。一行は7月、松前に着き事件の起こった現地を調査して11月江戸に帰っている。
青嶋の報告書では「この事件は場所請商人の横暴に原因があり、ロシア人は関係ない」としている。ところが、「事件の背後に赤蝦夷があった」として海防政策を進めようとしていた定信の怒りに触れた。1790(寛政2)年1月20日、隠密として派遣した青嶋が松前藩士と公然と接触した、との理由で投獄され、家財没収のうえ遠島という申し渡しを受けるが、執行前に獄死している。
最上徳内(1755-1836)(宝暦5-天保7)
はその後も蝦夷地と関係を保つ。むしろ下役という軽い役だったのが幸いしたのだろう。その後もたびたび蝦夷地・樺太(サハリン)・千島列島を探検。優れた観察により多くの著述を残している。晩年はアイヌ語の辞典を編纂するなど、学究生活に専念した。
幕府の蝦夷地政策はその後積極的な対応策は打たれない。1857(安政4)年、西周は一橋慶喜(後の15代将軍)に「蝦夷地開発論」を上呈しているが、蝦夷地開発が現実問題として着手されるのは、1869(明治2)年5月21日明治天皇から蝦夷地開拓のことについて諮問があり、それに基づいて同年7月、「北海道開拓使」を置いて開拓に着手してからであった。田沼意次とその協力者たち、秀持・忠晶・俊蔵・宗次郎・徳内・利明たちの志は文明開化によってやっと実現に向かうのであった。
( 2002年3月11日 TANAKA1942b )
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改革に燃えた幕臣経済官僚の夢(6)
まだまだあった田沼時代の改革
<印旛沼開発計画>
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて大規模な耕地開発が行われた。この時期に日本の耕地面積は2倍半から3倍にまで増加したと考えられる。しかしこの耕地開発は17世紀半ばでブレーキがかかる。(1)開発に適していながら未開発で残っている所が無くなった。
(2)無理に開発したため少しの雨でも林・沼などの保水効果がなくなり、大雨が降ると洪水になり、田畑人畜に被害が出るようになった。(3)野山に生える若草若芽を田畑に敷き込む「刈敷」という農法が田畑地力再生産の主要手段であったため、開発により採草地が少なくなり、総合的にみると農業生産性にマイナスになり始めた。(4)開発が急速だったため耕作する百姓の手当がつかず、無理に好条件で誘うため、旧耕地が放棄された。
こうした状況のため新たな開発よりも、今ある農地の生産性を上げるべきだ、となる。1666(寛文6)年2月、4代将軍家綱の時出された「諸国山川掟」がその転換期であろう。このため一時の農地開発ブームは去り、幕府・各藩は新田開発に消極的になる。1687(貞享4)年、5代将軍綱吉は町人請負新田を禁止し、1721(享保6)年6月、8大将軍吉宗は「新田のできることはよいことだが、大概本田畑か秣場のさわりになるから、そのような時は許可しないほうがよい」との触を出している。
8代将軍吉宗の新田開発政策
こうした流れの中で8代将軍吉宗は新たな新田開発政策をとる。それは幕府の財政建て直しを主要な政策目標とし、そのコメの増収による年貢米増収を目指した。その年貢米増収のための耕地造成のために新たな新田開発政策をとる。
1722(享保7)年7月26日江戸日本橋に「新田開発に関する高札」を掲げる。これは新田開発を奨励する高札であり、都市部の商人に知らしめようとしたものだった。つまり開発の費用を商人の資金に期待していたわけだ。高札掲示の場所が江戸日本橋であり、願書の受付場所が、五畿内は京都町奉行所、西国・中国筋は大阪町奉行所、北国・関八州筋は江戸町奉行所と、勘定所ではなく町奉行所である所からも、明らかに資金力のある都市商人の新田開発への進出を期待している。
吉宗の政策に応えるように多くの開発が計画される。その中にあって「印旛沼の干拓」は最大級のビッグ・プロジェクトだった。
1724(享保9)年、千葉県平戸村の染谷源右衛門が印旛沼開発を申請し、幕府はこれを許可し、6,000両の補助金を与えた。しかし当初の見込みと違い難工事のため、源右衛門をはじめ破産する者が続出し、工事は挫折した。
田沼時代の印旛沼開発も洪水により中断・挫折
1780(享保9)年、代官宮村孫左衛門が印旛沼開拓の計画書を作成し、翌1781(天明元)年大阪の天王寺屋藤五郎、江戸浅草の長谷川新五郎の2人を金主とし、普請計画書が作成された。これが勘定奉行所で協議のうえ、1782(天明2)年7月実施と決定された。なおできあがった新田からの利益配分は、金主が8割、地元世話人が2割と決められた。
印旛郡下市場村に現地役所(下市場会所)が設けられ、ここに勘定所から派遣された御勘定猪俣要右衛門、同岩尾次郎右衛門ほか多数の普請役が詰め、工事の指導監督にあたった。しかし、不運なことに、全行程の3分の2ほどが終わった1786(天明6)年7月、関東地方を大洪水が襲った。
これは1783(天明3)年の浅間山大噴火によって関東一円を覆っていた土砂が、河川の川底を浅くして水はけを悪くしていたためだった。
そしてこの洪水のため工事はストップする。さらにその直後の松平定信の宮廷クーデターにより、印旛沼開発計画は中止される。
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耕地造成ではなく運河作りだった
印旛沼開発を耕地開発として捉えてきたが、田沼時代の計画は利根川から印旛沼を通って、そこから運河で江戸に入るような海上流通路を造ろうとした計画だった。これが完成すれば、江戸と北方を結ぶ航路は大幅に短縮されて、商品流通は活性化されるはずであった。それは計画書に「印旛沼新堀割御普請目論見帳」という名が付いていることからもわかる。
印旛沼開発が運河作りだった、との見方は本多利明との関係でそのように推理する。
本多利明(1743-1820)(寛保3-文化3)
主著「経世秘策」「西域物語」「経済方言」。江戸の数学塾の塾長。天明の大飢饉は「人災」と見た。「日本は未申(ひつじさる・南西)の隅より丑寅(うしとら・北東)の隅へ、凡十度余、里程五、六百里に所在して細長き国なれば、水旱損(水害や干害の被害)とありても、国中残る所なく、不熟することは古今なきことなれば・・・」「豊作の国より凶作の国へ渡海・運送・交易して有無を通じ、万民の飢寒を救給はゞ、国君の万民に父母たる天職にして、是非ともせで叶はぬことなり」利明は流通経路確保のため火薬を使って、道路を開き港を作れと言っている。それには各藩の自己防衛的・自給自足的な戦国の遺制が邪魔している、と主張する。
さらに蝦夷開発を主張し、塾生だった最上徳内は利明の推薦によって蝦夷調査隊に下役として参加している。さらに利明の主張は「ヨーロッパの主要国の首都は緯度の高いところにある。日本の首都ももっと北にあってもいい。江戸ではなくて蝦夷地に首都を移転してもいい。」とまで言っている。
蝦夷地調査・開発には工藤平助の「赤蝦夷風説考」が直接のきっかけになっているのだが、それまでに利明の考えが意次に伝わっていた、と考えられる。意次政権後半の政策に利明の考えが影響を与えていた、とするならば当然印旛沼開発にも利明の考えが反映されていたと考えられる。印旛沼に運河を造り、東北地方と江戸との安全な航路を確保する、これは利明の主張と一致する。さらに郡上八幡一揆に対する将軍家重のお裁きで見たように、意次は直接税に大きな期待はしていなかった。強いて言えば反対派を説得するために「耕地開発」と言ったかも知れないが、本当の目的は運河作りにあったに違いない。
そしてこのように考えると、田沼意次とその協力者たちの改革派、従来の幕府の政策から大きく離れ、飛躍する可能性を秘めていたと言える。そしてそれを感じた守旧派・抵抗勢力が危機感を持ち、松平定信を担ぎ、佐野善左衛門政言をそそのかし、宮廷クーデターを起こし、それを正当化するために協力者たちを一掃し、風説を流し、当時の世間と後の歴史家を誤らせた、と考えるべきであろう。
協力者たちにたいする粛正
1786(天明6)年8月27日、田沼意次が老中を罷免されるとすぐに印旛沼開発工事の中止になる。蝦夷地調査と同様定信の田沼政策払拭の行動は早かった。そして印旛沼開発でも協力者たちは処罰される。工事推進の責任者であった勘定組頭金沢安貞、勘定猪俣要右衛門温則、同岩尾次郎右衛門行徳は罷免のうえ小普請となり、現地で開発計画を推進してきた代官宮村孫左衛門は「公金を預けておいた市人が退転して所在が知れない」という理由で遠流を命じられている。蝦夷地調査・同開発計画の場合と比べあわせてみると、田沼意次の政策と関係のあった者は、小者に至るまで徹底的に追放処罰するというのが、松平定信の方針だったようだ。
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<新たな融資制度>
江戸時代国内総生産が少しづつでも伸びている時代、所得再分配はと言うと、「七公三民」から「三公七民」に変わり始めていた。「米遣い経済から金遣い経済」に変わり、百姓・町民の生活では米が「納税のための貨幣」だけになり、実生活では貨幣経済に大きく変わりながら、武士は米で給料をもらっていた。日本人の所得は百姓・町人は増えつつあったが武士は変わらなかった。人々の生活が豊かになりながら、武士だけは収入が増えなかった。このため武士及び藩財政は赤字が続き商人からの借金に頼ることになる。
しかし財政再建の具体策が無いため、モラトリアム・デフォルトが続発する。こうなると武士階級に対する債権者側からの格付けは下がる一方になる。不良債権を抱えたくないため、貸し出し審査は厳しく、金利も高くなる。これは幕府としても放っておけない。何らかの対策を打たなければならない。
田沼政権が打ち出した政策はこうだった。大名が江戸・京都・大阪の三都商人から借金する場合、幕府が保証人になり、租税徴収権(年貢を徴収する権利)を担保にし、金利を年7%とすること。ただし、そのうち1%は幕府が収納する、保証料というべきものだった。
この構想は、宝暦の御用金令に比べれば桁外れに高い利息を約束したのでうまくいくかと思われたが、町人側は信用していなかった。これが1785(天明5)年のこと。そこで翌年には新たな条件を加える。
それは全国の不動産に対して時限的に固定資産税を課し、それからの収入を大名に対する金融の原資に使おうというもの。具体的には、百姓には持ち高百石について銀25匁を、町人に対しては家の間口一間について銀3匁を、それぞれ5年間御用金として出金するように、との触れを出した。ここでの全国とは、単に幕府の直轄支配領ばかりではなく、大名領、旗本領を含む、文字通りの全国だった。これは、基本的には、綱吉が1708(宝永5)年に、富士宝永山の噴火による被害復旧のため、と称して全国の農地に課した臨時不動産税と同一の発想だった。
あの時は、農地百石に対して2両の割で課された。今回は、銀25匁なので、5年間で計125匁となり、幕府の公定レートである金1両=銀60匁で計算すると、ほぼ同額の課税になる。インフレが進んでいることを考えれば、それよりはかなり低額の課税とさえ言えた。しかし、今回はほとんどすべての大名が反対した。それは財政難にあえぐ全国の藩は税金を取れるだけ取ろうとして、もう課税の余地は無かったからだ。無理に課税しようとすれば一揆の恐れもあった。このためこの金融政策に反対せざるを得なかった。
良くできた制度ではあったが、実質経済はそれほどまでに悪化していた。さらにもう一工夫が必要とされた。この時代の政策は試行錯誤の連続だった。一つの政策が失敗してもさらに工夫してトライする。こうした姿勢からさらなる工夫が試されるはずだった。しかし改正案が出された3日後の1786(天明6)年8月27日老中田沼意次は老中職を解任される。ここにおいて新たな大名ローン・武士消費者ローンの構想は消え去る。その後支配階級・武士階級の財政再建に有効な政策は現れず、幕府の財政弱体化は進み、幕末を迎えることになる。
庶民金融と家質奥印(かじちおくいん)差配所
これはもう一つの試行錯誤の例だ。庶民金融の一つである質は、普通は担保に入れる物の占有権を債権者に移して行う担保物権のことだ。つまり担保物を質屋に持ち込むのだが、不動産は持ち込むわけにはいかない。そこで所有権を質屋に預け、使用権はそのままにする。ここでいう家質(かじち)とは、江戸時代の町方で行われた家屋敷を担保とするもののことで、今日の民法学でいう譲渡担保のことだ。家を担保として金融を得るために、その家を質に入れては居住する場所がなくなってしまう。
そこで、債務者は債権者に売券(ばいけん=売却証明書)と借家請状(うけじょう)をワンセットで差し入れて担保とする。利息は家賃の支払いという形式をとって支払われる。期限までに借金の返済ができないときは、正式に帳切(ちょうぎり=名義の書き換え)が行われる。商品経済の発達していた大阪で、低利で確実な庶民金融として発達してきた制度だった。
このままでは公示性が低いため、取引の安全を確保することが難しい。そこで、将軍吉宗時代享保の改革の一環として、家質証文には五人組と町年寄りが加判する事になった。しかし、加判者がその地位を悪用するような事態が現れたため、より客観性ある公示機関の設置が必要となる。
そこで1767(明和4)年に、大阪に町人の出願により家質会所(かじちかいしょ)が設けられる事が認められた。これは会所が証文に奥印を与えて、公示性を確保するという手法。ここに担税力の存在を認めた幕府は、翌1768(明和5)年にこれを家質奥印差配所に切り替える。差配所では、家質証文に奥印を与えるに際して印賃を徴収する。これは今日の言葉で言えば抵当権の設定に当たって登録免許税を徴収するという手法になる。
しかし、これは家質による資金運用の秘密がすべて幕府に握られることを意味するため、大阪町人は強く反対し、結局、差配所からの収入額と同額の川浚い金を大阪に課すことで、1775(安永4)年に廃止される。
大阪の町民に課した川浚い金は、総額9950両なので、大体その程度の額が毎年幕府の歳入に上がっていたことになる。 幕府勘定所の当時の細かな歳入内容については正確な記録がない。このためこの冥加金や運上が、幕府財政の改善にどの程度寄与したかは判断できない。しかし、こうした運上を徴収するという税制は、田沼政権が始めた事だった。
明治政府が徳川幕府から継承した小物成り(こものなり=田畑に課される本年貢以外の雑税を意味する)、運上等は、合計で1500〜1600に及ぶと言われる。これらが明治期の、所得税などはほとんど無きに等しかった時代における租税の中核である消費税へと発展していくこと考えられる。この税制も田沼政権が続けばさらなる工夫が試されたであろう。
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