大坂堂島米会所(6)
正米商内
<取引の仕組み> 正米商内とは1年を春(1月8日〜4月28日)、夏(5月7日〜10月9日)、冬(10月17日〜12月28日)の3期に分けて、蔵屋敷が発行する米切手を米仲買間で取引するもので、毎日午前10時から正午まで開かれた。建物米には肥前・肥後・中国・筑前・広島・加賀米が米仲買の入札により選定されることになっていたが、夏には北国米の加賀米が選ばれるのを通例とした。正米取引に参加できる者は公認の米仲買株を有する者に限られ、正米方と呼ばれた。売買は切手1枚、すなわち10石を単位とし、100石以上を「丸物」商内、100石未満を「端物」と言った。代銀・米切手の授受はもともと即日受渡しを原則としたが、寛政以降4日以内となった。このように正米商内は米切手の実物取引であり、実需取引・投機取引双方に利用されるものであった。つまり、米問屋の買(売)注文を受けた米仲買が正米商内で米切手を売買する場合と、仲買の投機目的で売買する場合とがあった。米仲買を通じて正米商内に参加するものは口銭を払うことになっていた。「芦政秘録」では丸物商内で100石につき銀10匁、端物商内で10石につき銀1匁5分としているが、「八木のはなし」では100石につき銀2匁5分としている。この違いは時代によって変化したと考えられる。
 淀屋米市では蔵屋敷に代銀の3分の1だけ支払えば、米手形を手にし、これを売買することができた。堂島米会所では全額となり、会所での米切手・代銀の授受期限は4日以内と短かったので、資金を持たずに投機目的で米切手を購入することは難しかった。そこで、こうした投機家に米切手を担保にとって、現銀を融通する信用機関として生まれたのが入替両替であった。この入替両替は大きな資金を必要とし、十人につぐ大両替であった。入替両替は100石につき銀300匁ないし500匁の敷銀を預かり、さらに貸付銀には利子が付いた。利率は3月1日から10月末までは銀1貫目につき日歩1分2〜7厘、11月から翌年2月末までは銀1貫目につき日歩2分5厘であったという。冬季に利率が高かったのは新米の出回り期にあたり、米購入のための資金需要が高まるためであった。米価が高くなれば入替両替に担保に入れてある米切手を場右客し、それによって借銀を返済する借り手もあったし、また米価が下落した時には質物の米切手を流してしまう借り手があり、この場合には入替両替は質にとった米切手を市場で売却し、それによって元利の決済を行った。また「八木のはなし」には、米価高値のとき質物米切手を売却し、利益を得ようとする入替両替もあったらしい。かつて日本の市場でも、客からの預かり証券を無断で売却する、という不正があったが、あれは江戸時代の米取引を勉強した成果なのだろうか? 取引状況をもう少し詳しく見てみよう。堂島川に沿った浜通りの道を占拠して、朝の8時から帳合流商内が始まっている。2時間の間に今日の相場が形作られつつる。その流れに沿って正米商内でも価格が提示される。2時間の間米仲買の競り合う声がやかましい。事情を知らない者が見たら仲買たちが喧嘩しているように見えるだろう。正午にその日の取引が終わると、消合場での手続きが待っている。ここで米仲買は今日の取引を報告し、必要なら入替で資金を借りる。米切手と代銀との受け渡しは4日以内と決まっていた。さて米取引はここだけではなかった。江戸堀、道頓堀でも取引が行われていた。堂島での取引内容が即刻伝えられ、その相場を元に取引が行われた。競馬、競輪に喩えると解りやすい。つまり江戸堀や道頓堀に場外馬券・車券売場があったわけだ。JRA職員も堂島米会所を研究し、その仕組みを現代に生かしていた訳だ。このように堂島米会所は時代をワープして大きな影響力を発揮しているようだ。
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<正米相場の事 難波の春から> 正米商内については江戸時代に書かれたものがいくつかある。ここではその中から「難波の春」から引用しよう。大江戸経済学も回を重ねて、江戸時代の文献からの引用も多くなった。現代文と違って初めは読みづらかったけれど、少し慣れてきたと思う。前々回井原西鶴の日本永代蔵を暉峻康隆訳で紹介したが、こうした名訳はあまりない。まして文学ならともかく、経済問題では期待できない。少しずつ解りやすい文章で慣れていくより他はない。と言うことで、「難波の春」から「正米相場の事 入替両替の事」を掲載するとしよう。
正米相場の事 入替両替の事
〇正米相場は、名目の通り、全く現米の商売にて、其内に、市中飯米に売り出す注文と、正米をもって勝負をする商ひの注文との、二通りあり。飯米に売り出す分を、切手にて、米仲買より買ひ取る者は、百石に付、銀弐匁五分づつ、口銭遣はし、代銀は、四日目毎に払う定めなり。(相対を以て現銀にて買ふをじゃんと唱ふとぞ)此切手を、勝手次第蔵屋敷へ持ち行きて、正米を受取る事とぞ。又正米を以て勝負商ひをする者は、米切手を仲買より買ひ取るばかりにこれ無く、勝手よければ、又仲買へ売り渡しもすることにて、是も四日限に勘定をなす。かく勝負商ひをするものは、元手銀多くなければ、出来ぬ姿なれども、それには、入替両替といふ事ありて、其両替より元手を借り出し、いか程も米を買ふ事なり。尤、入替両替にて金を借るには、米切手を質物に入れ、米代銀だけの銀子を借り受け、米切手を買ひては、また質物に入る故、少しの元手にても、大勝負の出来る事なり。
〇入替両替といふは、小手前の者には、中々出来ぬ事にて、鴻池屋善衛門、辰巳屋久左衛門等のたぐひ、格別富豪の者のすることとぞ。さて、米仲買ども、右の切手を、段々と質物に入れおもわく次第、いか程も買ふ事なれども、米切手は、蔵米の有高だけのもの故、凡の数も知れべき訳なれども、譬へば、有米拾万石の米切手、市場にては、百万にも二百万にほ成る訳は、右の入替両替へ、質物に取り置きし切ってを、銘々のおもわく次第にて、米市場に持ち出し、売り払ひ、置主より受戻しに来れば、市場にて、切手を買ひ取りて戻すよし。此扱方にて、入替両替多分の利徳を得る事とぞ。故に、封印附の切手は、質にとらざる極のよし。
 右の通りにては、正米相場の勝負商ひは、米仲買と入替両替の外は、自由に出来ぬ様に聞ゆれども、さにあらず、素人も、仲買を相手になし、定めの敷銀・口銭・利息を出せば、正米の勝負商ひも出来る事なり、一体、正米の方は、仕法は替れども、趣意は、帳合米の空相対と、同様のものながら、正米の方は、敷銀だけにても、相応の元手銀がなければ、出来ぬ事故、する者少なき事のよし。正米を以て売買する姿の物ゆえ、相場が潰れても構ひなく、竪替に、是非とも勘定せねばならぬと云ふ事もなく、何程入り組みたる算用にて、徳分がありて、人が渡さざる時は、奉行所へ願ひ出でても、取り上げになり、渡方の申付あることにて、此三ヶ条だけが帳合米より手堅さもののよし。
〇正米株の者は、古き株ゆへ、帳合の方をも、兼ねてする事も出来るなり。帳合米の株は、新しきもの故、正米の方を兼ねてする事は、ならぬ定めのよし。
〇正米を以て、勝負商ひするものは、何れの国の米にても、出来る姿のものなれども、多分、堅米の米切手を以て、売買する事とぞ、是れ則、堅米の相場の引立にて、何にても、余国の米より直段よく、其上、切手多くありて、取廻しの都合よさ事のよし。
〇切手を質に入る時、百石に付、五百目か三百目程、敷銀を入れるなり。利息も、時により高下あれども、大体、銀壱貫目に付、一日分利息七分五厘より八分位、高き時は九分する事もあり。此日廻し利息壱ヶ月にて、凡そ百両に付、弐両壱歩弐朱程に当たるとぞ。此外に、日廻し利息にせず、年内より春二月中迄、利息何程と相対して、借り受くる者もあり。尤、春になれば、又皆、日廻し利息になる事と云う。
〇正米は下直なれば、米多く出で、高値にては、入用だけの金子少しにても、商ひの出来る事故、米の出方少なしと云う。
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<米切手のいろいろ> 米切手は形式上「出切手」と「坊主切手」とに分けられる。「出切手」「出米切手」は切手面に数量・入札期日・落札者氏名・記番号がある切手。これに対し、「坊主切手」は入札期日・落札者の記載のないもので、蔵屋敷から借銀の担保として証書に添えて債権者に交付されることが多い。
 こういう分け方のは別に、機能上では「落札切手」と「先納切手」とに分けることができる。「落札切手」は入札・落札の過程を経て落札者に代銀完納と引き替えに交付される切手。そして「先納切手」とは未着米について、落札によらず、あらかじめ代銀を納めた者に対して交付される切手だ。「先納切手」は借銀の担保として振り出されることが多かったから、実際にはこれによって米は引き換えられずに、借銀の返済によって回収された。「先納切手」はさらに債権者によって区別することができ、浜方(堂島)関係者が債権者となっているものを「浜方先納」、浜方以外の富豪が債権者となっているものを「内証先納」と言った。
 一般的には落札切手=出切手、先納切手=坊主切手と言えるが、この対応関係はすべてについては必ずしも当てはまらない。落札切手はすべて出切手の形式をとり、坊主切手はすべて先納切手であるとみてもいいが、逆に出切手の形式であっても実際には先納切手であることもあった。
 「落札切手」が実物の米の請求権そのものであり、本来の米切手であり、堂島米会所において売買されたのはこれであった。これに対して、「先納坊主切手」は名目上米切手の形をとっているが、借銀担保としての米切手であり、本来商品市場において流通するものではなかった。しかし、出切手の形式をとる先納切手の場合には、落札出切手との区別が表面上容易ではなかったから、堂島米会所において流通していた。
 このことから2つの見方ができる。(1)このために近世後期においてしばしば過米切手・空切手事件を生じさせることになった、とのマイナス面を見る捉え方。(2)米という実物のない、借銀という権利を売買していた、マネー・ゲームの先端を行く取引をしていたことに注目。現代人でさえ理解できない人が多いほどの、高度な先物取引、デリバティブをやっていた、との驚き。この2つの見方ができる。もっとも多くの識者は(1)の方で、(2)はTANAKA1942bの独断と偏見に基づいた考えかも知れないが・・・
( 2002年8月5日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(7)
帳合米商内
<取引の仕組み> >帳合米商内とは1年を春(1月8日〜4月27日)、夏(5月7日〜10月8日)、冬(10月17日〜12月23日)の3期にわけて、各期に筑前・広島・中国・加賀米などのうちから1つを建物に定めて売買するものだが、個々の取引毎に米切手・現米・代銀などの授受は行わず、売方・買方が期限(限市)までに最初の売買と反対の売買を行って、売玉・買玉を相殺し(売埋・買埋)、限市に売値段と買値段の差金の決済だけを行うことを原則とする取引だった。帳合米という名称は、個々の取引毎に代銀と現物の授受を行わず、それを帳簿上で行ったところから名付けられたものであった。(限市が3回とは、SQが3回と考えればいい)
 現代の証券市場での「日経平均」と同じ様なものであり、受渡決済ではなく現物の授受を伴わない差金決済であった。
<売買繋商内> 世界に先駆けた先物取引、堂島米会所の「帳合米取引」、どのようにして採用されたのか?その経過を見てみよう。
 幕府の方針は当初、米市、米会所は米価高騰の原因と考えていた。そのため淀屋を闕所させた。その後「米安諸色高」になると、将軍吉宗と大岡越前守忠相は米会所により米高を実現させようとした。そのため大阪商人よりコントロールしやすい江戸商人に米会所設立を許可する。その会所は下記の通り。 

 公認年月    出願人                          廃止年月    場所 

 正徳・享保の頃 江戸 三谷三左衛門 中島蔵之助 冬木彦六         享保6年8月   堂島新在所
 享保10年12月  江戸 紀伊国屋源兵衛 大坂屋利左衛門 野村屋甚兵衛    享保11年12月  不明
 享保12年2月   江戸 中川清三郎 川口茂右衛門 久保田孫兵衛       享保13年12月  堂島永来町 塩屋庄次郎方
 享保15年5月   江戸 冬木善太郎 杉田新兵衛 伊勢屋万右衛門 冬木彦六  享保15年8月   北浜1丁目 天王寺屋平助方
 これらは皆江戸商人からの申請によっている。それは大坂の米市で慣行的に行われていた延売買に対して不信感を持っていたからで、江戸商人に現物取引のみを許可していた。大坂の米仲買で行われていた未着米の先物取引は投機的、博打のように理解していたと考えられる。これは大岡越前守忠相もそのように理解していただろう。
 では大岡忠相が懸念した米の延売買とは実際はどのような仕組みだったのだろう。正徳・享保の頃、公認された「米座御為替御用会所」では米切手の現物取引だけが許可された。しかし、未着米の米切手の発行や米切手の転々売買の結果、米切手発行から蔵出しまでの期間が長くなると、米商人の米価変動リスクは大きくなり、取引は萎縮する。米切手を買って置いても、将来現米を受け取った時に米価が値下がりしていれば、買い受け人の損失になる。このため米価が下落するを予想される時は、売り手は多くなるが、買い手はいなくなる。逆に米価高騰が予想されると、買い手は多くなるが、売り手がいなくなる。このように米価変動が激しい時、それが予想される時、取引は激減する。つまりちょっとした乱高下の予想だけで取引が停滞してしまう。
 そこで、こうした不便を解決するために、米座御為替御用会所公認後まもなく、大坂の備前屋権兵衛・柴屋長左衛門の2人が「売買繋商内」の仕組みを考え出した。この仕組みは、「建物米」という標準米を設定し、その建物について同業者が一定の敷銀を納めて、一定の期限内の先物取引を行い、期日に売買差金の決済を行うというものだった。当初、差金決済は当事者間で行われていたが、漸次この取引が繁盛し、売手と買手の関係が複雑になるに従い、遣来両替という専門の清算機関がこれを担当するようになった。これがのちの「帳合米商内」のおこりであり、またわが国における標準物定期取引の蒿矢とされている。当時は会所に米切手と現銀の取引しか認めていなかった幕府をはばかって、表面上は取引ごとに米切手と現銀の授受が行われたように遣来両替の帳簿に記載されていた。
 米座御為替御用会所でのこの延売買は繁盛したが、1721(享保6)年に米価が著しく高騰すると、幕府はこれを会所で行われている「不実商内」、つまりこの延売買によるものとして、関係の米仲買を逮捕した。この時年長者である64歳の紙屋治兵衛と66歳の高田屋作右衛門の2人が呼び出されて「米相場」の実状についていろいろ尋ねられたので、「私たちの行っている商売は決して不実と言われるようなものではありません。これは正道の商売であります」という内容の返答をしている。しかしこの時点では「正米売買の義は格別、以来延商内の義は停止に申付候」として延商内=後の帳合米商内は禁止される。以後江戸商人による米会所ではすべて禁止され、1731(享保15)年8月13日大坂堂島米会所設立で正式に幕府から公認される。
 備前屋権兵衛・柴屋長左衛門の2人が考案した「売買繋商内」は「米商旧記」によると次のようであった。
 諸蔵米切手売も現金銀之売買ニ而、自然切手計ニ而、正米国元より延着有之時は、商人共も迷惑ニ付、右延着之節は、売買繋商内無之而は、諸家大数之米之事故、手狭ニ而融通も難出来とて、其比大坂に備前屋権兵衛・柴屋長左衛門ト云米商人有、手狭ニ無之売買振ひ之為トして、建物米与云名目を立置、米商之者相談之上、限日を相極、右延着日限迄之延売・延買ト云ふ事を相始ム」
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<帳合米商内大意の事 芦政秘録から> 帳合米商内については江戸時代に書かれたものがいくつかある。ここではその中から「芦政秘録」から引用しよう。大江戸経済学も回を重ねて、江戸時代の文献からの引用も多くなった。現代文と違って初めは読みづらかったけれど、少し慣れてきたと思う。以前井原西鶴の日本永代蔵を暉峻康隆訳で紹介したが、こうした名訳はあまりない。まして文学ならともかく、経済問題では期待できない。少しずつ解りやすい文章で慣れていくより他はない。と言うことで、「芦政秘録」から「帳合米相場大意の事」を掲載するとしよう。
「帳合米相場大意の事」
一、帳合米の儀は元来空虚の品に候へども、正米と違ひ土地に有る物の多少、其外等に拘はり申さず、銘々見込十分に、売買取組出来候儀につき、〆売・〆買等のために、直段相狂ひ候事先はこれ無く、全く人気の集まる所を以て、相場生み出し候儀故、自ら天然の米直段相顕はれ、正米相場よりは直段において却て正しき方にこれある由。国々豊凶都ての模様も此の直段に心をつけ候はば、居ながらにして、諸国の動静相分り、格別意味深重なるものにて、軽易に心得、卒忽の取扱仕るまじき由の事。(後略)
一、帳合米の儀は前条の通り空虚の商ひにつき、浜方三季の限市には立埋と唱へ、たとえば正月相場より売買取組の分は四月限市までに、売人は残らず買い戻し、買人は残らず売り戻し、浜方に帳合米壱粒もこれ無きやう買埋め、売埋め致し、相場仕廻ひ、猶又五月相場より新たに売買取組み、十月・十二月両度の限も、先繰り右の通り取計らひ候由の事。
一、帳合米直段の儀、正米相場より高値の時は上鞘と唱へ、正米より下値の時は下鞘と唱へ候儀にて、元来商帳両相場の儀は一体これあるべき処、両条の振合を以て直段高下致し候につき、自然上鞘下鞘に相成り候へども、三季限市に至り、正米帳合米とも正しき方に落ち合ひ、同直段に相成り、正銀正米に候由の事。(後略)
一、帳合米相場仕様の儀、正米同様日々相場所へ寄りつき、米仲買ども見込みを以て、銘々力次第売買致し候上は、其の石数に応じ、敷銀と唱へ、米百石につき何程宛と兼て差し定めこれあり、右敷銀の外に歩銀と唱へ、両替屋支配賃銀これ又定めの通り売人買人双方より、右弐口の銀子相添へ、銘々売買の空米を両替屋に差入れ、相場高下に応じ、互の損徳、敷銀を以て勘定の儀、両替屋に相任せ置き候儀にて、日々相場高下により、右敷銀切れ候儀に至り時は先繰り跡敷銀差入れ、互いに売繋ぎ買繋ぎ致し、三季に決算取致し候由の事。
一、右帳合米売買の義、たとえば売方の者壱石代銀六拾匁相場を以て売付け置候処、其の後相場引上げ候節は追て其の時々の相場を以て、買戻し候儀につき数日売付け置候ては損銀弥増す、両替屋敷銀切れ候につき、格別損銀相高まざる内、手早やに買戻し候儀もこれあり、又は何れにも引下ぐべき相場と見居り時は、跡敷銀差入れ売繋ぎ置候儀もこれある由。買人とても右同様の振合にて、最初帳合米買付け置候砌より、相場引下げ候はば追て売戻の損銀を存じ量り、是又手早に売戻し、或は見込これあり、跡敷銀差入れ買繋置候儀もこれあり、所詮の処見込み次第の儀にて、右売買の義米仲買一同幾口となく取組入り混りこれある儀につき、三季限市に至らず候ても、日々相場高下に応じ、損徳を争ひ売戻し買戻し候者少なからず、それ故帳合米相場の儀、正米よりは日々の直段自然と正しき道理にこれある由の事。(中略)
一、正米の儀は米切手にて売買取引き候へども其の蔵々には現米相備へこれあり、空米にはこれ無く候につき、縦令如何様の異議これあり候とも、相場潰れ候事これ無く候。帳合商ひは空米にて全く人気の寄るところを以て相場立ち候儀につき、少々の事にても相響き兎角相場潰れ易きものにこれあり候。右につき日々帳合相場取続き候時は浜方穏か故の儀、人気平準と知るべき由の事。
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<火縄値段> 帳合米の取引時間は午前8時から午後2時までであった。立ち会い開始は前日の終値から始まった。正米商内の開始が午前10時。それまでの帳合米商内の値動きが正米商内の値付けとなった。つまり帳合米商内が正米商内をリードする役目を果たしていたわけだ。取引終了は午後2時。この時間になると一寸余りの火縄が点火され、その火が消えるとその日の立会の終了となった。火縄に点火されてから消えるまでの間の値段が「火縄値段」で当日の仕舞相場=終値であった。時には、その後にも残って取引を続けるものがあり、その時には約1時間毎に水方が水をまいて退散を促したが、二番水の時の値段を「桶伏値段」とか「桶値段」といい、これが米方両替における帳入値段となった。帳合米取引では一定期間に同量の売買を行って売買量を相殺することになっていたが、同日中に等量の売りと買いを行い、売買を相殺することを「日計り」「日仕舞い」「一杯」と言い、数日を経過したのち転売・買戻しをするものを「立米」「夜越米」と言った。立米の場合も、限市までには反対売買によって、売り埋め・買い埋めされねばならず、そのため、限市の前3日間は「仕舞寄商内」といって、売り埋め・買い埋めの取引のみが行われることになっていた。
 さて取引の終了は火縄が消えた時で、火縄が燃えている間に成立した値段がその日の「火縄値段」となるのだが、もしもその間に取引がなかったらどうなるか?もしもそうなるとその日の帳合米取引はすべて無効となり、前日の火縄値段で決裁される仕組みだった。火縄に点火されてから、取引が成立しない内に火縄が消えると「立用(るいよう)」と叫び、その日の取引がすべて無効となった。このためその日の取引に不満がある者は、火縄を消して「立用」にしようとする。一方今日の取引を成立させたい者は、そうはさせまいと火縄を守る。お互いが実力行使する場面もあった。つまり火縄を消そうと、水をかけたり火縄を奪い取ろうとしたりする者、そうはさせまいと火縄を守ろうとする者。取引所の職員には体力勝負の職場でもあった。
 火縄値段が決まり、その日の取引が終了すると、米仲買はその日売買した帳合米の数量・値段および相手方の氏名を書面に書いて清算機関(消合場、古米場)(クリアリング・ハウスに相当)に提出し、消合場では米方両替が毎月3回ほど消合日(決算日)にそれぞれの仲買の売買を突き合わせて、仲買ごとに売買の差金を計算し、差損勘定の仲買から損金を納入させ、差益勘定の仲買には益金を支払った。米仲買で帳合米商内の取引に参加する者は所定の敷銀を納めることになっていた。これは売買証拠金であるが、「八木のはなし」では100石につき金2〜3分とあり、きわめて少額であった。これが投機取引を促進することになった。もっとも相場の変動によっては追加敷銀が要求されることもあった。この他には売買にあたって売方・買方ともに米方両替に口銭を支払うことになっていた。消合場での立米の清算は売買日の桶伏値段によってなされた。桶伏値段と現実の売買値段との差額については、当事者間で差金が授受されることになっていた。立用の場合は前日の火縄値段で決済することになっていた。
<株仲間組織が市場秩序を守る> 淀屋米市について井原西鶴は「両人手打ちして後は、少しもこれに相違なかりき」 と、交換の正義が守られている状況を書いている。正米商内にしても帳合米商内にしても、消合場できちんと清算が行われていた、ということは株仲間組織が市場秩序維持に役立っていたと言えよう。江戸時代しっかりした法律も、まして商法などない時代、幕府の方針は「金銭の争い事は当事者間で解決するように」だった。金銭債権に関する訴訟を裁判機関(普通は町奉行所)が受理しないとした、「相対済令(あいたいすましれい)」は17世紀半ばから19世紀半ばまでの約180年にの間に10回出ている。そうした時代にあって株仲間組織が、不正を行った株仲間を以後取引停止にするという処置により市場秩序を維持させていた。そのため「天保の改革」と称される、水野忠邦の「株仲間解散令」により江戸時代の経済秩序は崩れる。堂島米会所も機能を発揮出来なくなる。現代の経済で考えると、青物市場、魚市場、東京証券取引所などの立会場に素人が参加した状況を想像すればいい。天保の改革とはこうした混乱を引き起こしただけであった。「江戸時代の三大改革」と言われるものの内、少なくとも松平定信の「寛政の改革」と水野忠邦の「天保の改革」は、経済を混乱させた「失政」と言い換えるべきだと思う。
<お薦め本> 江戸時代の文章読むのも疲れますね。ずばり面白くて、それでいて堂島米会所のことがよく分かる本を紹介しましょう。TVドラマにもなった小説です。島実蔵著「大坂堂島米会所物語」 時事通信社刊 1994年7月初版。 1998年にTV大阪で制作され「米将軍・吉宗に挑んだ男」として放映されています。片岡鶴太郎、南野陽子、永島敏行、織本順吉などが出演しています。著者は大坂の市場関係者とのことで、取引所の仕組みが素人にも分かるように書いてあり、はらはらどきどきしながら読んでいく内に、大坂堂島米会所のことがバッチリ分かる、という小説です。
( 2002年8月12日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(8)
虎市米相場
<帳合米商内の機能> 戦国時代が終わり江戸時代になり、諸藩は天下の台所、大坂でコメを現銀に替えるようになった。各藩とも大坂登米を始めた頃は、中世以来の問・問丸・座商人あるいは朱印船貿易に関係していた豪商にすべてを依頼していた。豪商は客を捜し相対取引をしていた。諸藩は大坂に蔵を用意し、米手形を発行し、淀屋米市で米仲買が取引きするようになった。相対取引から現代の青果市場のようなものが出来た。淀屋米市から堂島米会所になる過程で、先渡し取引や先物取引に発展し、さらに、大坂の備前屋権兵衛・柴屋長左衛門の2人が「売買繋商内」の仕組みを考え出した。これはいままでの取引とは違って、現実にコメを取引の対象とするのではなく、売買差益を清算する「差金取引」であった。このように大坂でのコメ取引は市場のメカニズムを十分活かすように進化していった。ではこのように進化した差金取引「帳合米取引」を今日の経済学ではどのように評価できるだろうか?ここでは、「近世日本の市場経済」宮本又郎著を参考に考えてみよう。
 先物取引が行われる商品取引所とは、(1)継続的市場の成立、(2)安全かつ大量取引の実現、(3)適正かつ合理的な価格形成、(4)空間的・時間的な価格平準化機能、(5)ヘッジ取引による価格保険機能などにあると考えられる。(1)と(2)は物流機能、(3)(4)(5)は価格形成機能でこの両者は相互作用的なもの。つまり継続的、大量の取引が行われるからこそ、(3)以下の価格形成機能が果たされるし、また逆に価格形成が発揮される場において(1)(2)が而つぃげんされるとも言える。堂島米会所では正米商内に物流機能が、帳合米商内に価格形成機能があったと考えられる。
 帳合米商内が適正かつ合理的な価格形成、空間的・時間的な価格平準化機能を果たすものであったことは、多くの文献が力説している。「天然の米直段相顕はれ」「帳合米相場の儀、正米よりは日々の直段自然と正しき道理にこれある由」(芦政秘録)、「一体帳合相場は(中略)日本国中の人気の寄て立相場故、姦曲の交らさる時は、天然の相対にて、正しき物故、正米相場の目当てにも成、諸物価の基本とも成ことなり」(八木のはなし)、「帳合米商内は国々米直段を平均する基本とも、国々紙乳母の亀鑑ともいふなり」(米商秘説)などの表現がある。
 1788(天明8)年堂島米方年行司が町奉行に「帳合米一件書上候事」で帳合米の由来と機能を説明している。それは、米の需給には時間的かつ空間的に不均衡があり、米価が乱高下しやすい、このため円滑な流通が阻害される。ことに大坂のように諸国に米が集散する土地ではそうである。先物取引を導入すれば、この弊害が住居される。帳合米商内とはこうした異議をもつものである、と説明している。
 これらは価格形成機能の説明。もう一つの機能、「買繋ぎ」「売繋ぎ」「掛繋ぎ」などヘッジ機能、つまり価格変動による被害を最小にしようとする機能、については次の例が「米商秘説」にある。
帳合米商内は正米懸繋の為御免許なりたるものといふ謂は、正米を買請たるものが帳合米を売事を繋とも、懸ともいふ、諸蔵米落札仕たるものが、帳合米売事も繋とも懸ともいふ、或は正米を売て、帳合米を買事を逆懸といふ。此事を懸繋とも懸商内とも云。
<ヘッジ機能の例> ヘッジ(掛繋ぎ)として帳合米が売買される例を考えてみよう。
 ある問屋が将来の需要に備えて正米取引で米切手を買ったとしよう。この場合米切手を持っている間に米価が下落すると、問屋は損をすることになる。「こんなに安くなるのなら、慌てて買うことは無かった。待っていれば良かった」となる。そこで次からはこのようにする。この米問屋は米切手を買った時に、同じ量の帳合米を売っておく。将来この米問屋は買持中の込めきったを転売したときに、同時に、さきに売っておいた帳合米を買い戻す。この場合、正米の価格が最初に米切手を購入したときよりも下落していれば、この米問屋は米切手の現物取引では損をするが、帳合米価格は正米価格と連動して動くはずだから、帳合米取引の法では、高く売って安く買い戻したことになり、得することになる。結局この米問屋は正米取引の損失分を帳合米取引でカバーするので、価格変動のリスクから解放されたことになる。これは「売繋」と呼ばれるヘッジ取引の例である。 
 「買繋ぎ」と呼ばれるヘッジ取引もある。ある米仲買が現在米切手を所持していないにもかかわらず、将来の一定期日に引き渡すことを約束して、米問屋に一定量の米切手を売却したとする。この場合、この米仲買は引渡しの期日までに、米切手をいずれからか購入しなければならないが、折り悪しく、売却の日以降、米価が上昇を続けると、損失を被ることになる。そこで、この米仲買は最初に米問屋に売約をした時に、同量の帳合米を買っておく。そして米切手引渡し時に、米切手を正米取引で購入して米問屋にそれを手渡し、同時に帳合米を売り埋める。そうすれば、米切手引渡し時に、米価が上昇していて、米切手の現物取引で損をしても、その損失は帳合米の値上がりによる利益で埋め合わされ、この場合にも米問屋は米価変動のリスクから免れることが可能となる。
 帳合米取引では、現米や代銀総額を用意する必要がなく、わずかな敷銀と手数料(分銀)を納めるだけで、取引に参加できたから、ヘッジ(掛繋ぎ)取引を目的とするものには適いていた。一般に農産物の価格変動は激しいから、それの大量取引を継続的に行う市場が成立するためには、卸業者のような大量取引をしようとする人々を価格変動リスクから解放することが重要な条件となる。先物取引と実物取引を併設する商品取引の積極的な意義はこの点にある。このように考えてくると、江戸時代にあって堂島米会所が帳合米商内(先物取引)と正米商内(実物取引)の両取引制度を持っていたことは、江戸商人たちの市場のメカニズムに対して素晴らしいセンスを持っていた、と言えるだろう。現代日本の農業関係者もこうしたセンスを持ち合わせていれば、コメ作りも産業として育っていったろう。
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<現代のリスク・ヘッジ> 先渡し取引は、将来の価格変動に対するヘッジ機能はあまりない。秋に収穫・販売される予定のコメを春の時点で売却予約をする「先渡し取引」、これに将来の価格変動に対するヘッジ機能はあまり期待できない。春に予測された価格から大きく変動した価格になると、秋に売り手か買い手か、どちらかが「儲け損ねた」思う状況になる。せいぜい超乱高下で、「収穫量が多すぎて誰も買ってくれない」とか「全くの不作で誰も売ってくれない」といったリスクはヘッジされるかも知れない程度だ。
 そこで「先物取引」となる。この場合の先物取引とは、「差金取引」つまり「帳合取引」になる。あるいは株式市場で広く行われている「空売り」「空買い」だ。さらに価格ヘッジを考えるなら「オプション取引」「デリバティブ取引」になる。
 では21世紀、日本の米市場での価格変動リスクはどのようにヘッジされているのだろうか?農家=米の生産者、は農協に米を売るのではなく,売ることを委託している。4月の作付け時期に,生産者と単位農協は,米穀の売渡委託契約を交わす。さらに農協は,経済連に売渡を委託する。経済連は生産者に代わり,米を販売することでスケールメリットを生かし,価格的に有利に販売できると考えている。では,なぜ農協は生産者から,米を買い取りせずに,販売の委託をうけるのだろうか?それは価格リスクを避けるための方策。 買い取りをすると経済連の販売価格は,買取価格を下回るわけにはいかない。赤字を出すわけにはいかないからだ。委託販売であれば,経済連の会計で赤字がでることはない。販売価格の下落した分は,生産者に転換できる。このため,収穫時において,生産者に支払われる米代金を「仮渡金」と呼ぶ。 しかし,米の流通制度が大きく変わり農協以外の集荷業者と取引出来るようになった現在、売渡委託制度は,生産者にとってメリットはなくなりつつある。 農家に対し収穫時に支払われる「仮渡金」は、販売可能な最低価格から流通経費を差し引いた額となる。実際はそれを上回る価格で販売されるので,その差額が翌年の春以降(販売が終了した時点)に支払われる。生産者からすれば,分割して米代金を受け取ることになる。 それに対して計画外流通米は,業者が生産者から米を買い取るため,農家にはまとまった金が入ることになる。さらに集荷業者は、他社との競争に勝つため流通経路を単純化するなど、取引コスト低減を計っている。このため集荷業者は農協の「仮渡金」と比べて高い額を支払うことが可能になる。農家にとっては,計画外米・農協以外の集荷業者の方がメリットが大きくなる。
 つまりこういうことなのだ。農協は価格変動リスクを生産農家に転嫁しているのだ。仮渡金制度が続く限り、農協は価格変動リスクに対するヘッジをしなくてのいいのだ。米会所をつくり、帳合米取引という差金取引を行う必要は生じない。 だから農協系のシンク・タンクは次のように主張する。
「今後、わが国で農産物先物取引が進展していくかどうかについては、まず第一が商品の価格変動が激しいこと、第二が簡単に買い占め等ができない、ある一定程度以上の市場規模があることが先物取引が成立し得る要件となる。まさに市場原理の徹底に伴い、先物取引が必要とされるような価格変動を余儀なくされる情勢へと変化しているわけではあるが、大きな内外格差の存在等による輸入農産物の増大、コメ等の消費減退などによって農産物価格は低迷しており、。農業経営はきわめて厳しく、わが国農業の再生確保、農業の存在自体が脅かされているのであって、まずは所得安定政策が求められているのが現状である。
 すなわち、直接支払いによる所得確保対策が優先して求められているのであり、、これがあってこそ価格安定対策が生き、現在の危機を乗り越えていく展望も開けようというものである」
 「当初、農産物の先物取引の調査を始めたとき、生産者側からみて、リスク管理の一環として先物取引が利用される可能性があるのかという問題意識をもっていた。その後、調査を進める過程で、農産物の生産・流通機構・価格決定方式、農家の零細性等から判断して、現状では生産者のリスク管理のための先物取引の役割は限定されるという認識に至った」
(農林中金総合研究所編 「国内農産物の先物取引」 家の光協会 2001年4月 から引用)
 しかし集荷業者業界で農協の独占はいずれ崩れる。生産農家はいずれこのからくりに気づく。国や農協に頼り切っていた農業から、自分で考え責任を取る「自己責任」を自覚し「儲かる農業」を模索し始めれば、「農協よりも他の集荷業者の方が良さそうだ」ということに気づくはずだ。
 価格変動リスクを生産農家に転嫁せず、先物市場において回避できれば,経済連の集荷競争力は高まるだろう。さらに,売渡委託制度に拠らず,買取制度に移行することもできる。そうすることによって,はじめてJAの系統組織は計画外業者と対抗できる。既存の制度に甘えず、将来の経営戦略を練るならば、「農協も現代の「米会所」設立へ向けて積極的に動き出すべきだ」というのがTANAKA1942bの考えです。
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<虎市米相場の事> 堂島米会所で行われていた取引は、正米商内、帳合米商内、それと「虎市」。ではその虎市がどのような取引だったのか、難波の春から引用しよう。
虎市米相場の事 附り こそ株 しらみ 江戸堀 道頓堀米相場の事
◯虎市株と云ふ米相場は、商ひの仕法は、帳合と替はる事なく、これも、口の上の空相対なり。其内に、違ふ所は、帳合は、百石以下の商ひな、せぬ法なれども、虎市は、十石より取引商ひをすることなり。帳合は正米相場直段引立てのため、御免の株なれども、虎市は少なき商ひ故、なくとも済むべき様の物ながら、正米株御免以前より、名目のある古き相場にて、石数の段取りも替はる故、此相場も建たせある事とぞ。名目は、さだかならぬことながら、むかし、淀屋辰五郎の門口にて、正米市をなせし頃、堂島新地の辺、人家もなき藪の中にて、相場を好むもの集まり、 正米の相場をうつし勝負をなせしが、起こりにて、藪の中を走り廻りし縁によりて、虎市と名付けしことと、云い伝へるとぞ。
◯帳合米仲買株の内に、こそ株と唱ふる株あり。是も商ひの仕方は、帳合と同様なれども、こそ株は、昼二時頃、火縄に火の付く時分より、夜中へかけて、翌日、外相場の寄付後迄の勝負にて、正米の言合相場の、出づる時を限りとして、算用するなり。此市は、多く六七月の頃、天災にて、相場の大高下する時節を、専らとする相場にて、多分、正米帳合の商人ども、繋ぎにする相場なるよし。この繋ぐという、たとえば、今日天気よく明日の相場下がるべしと云ふおもわくにて、正米にても、帳合にても、壱万石売るべき約束に、極め置く処、帳合相場は、夕方にて終わるゆえ、其後、夜に入りと、俄に天気替わり、大雨大風杯になり、明日下らんと云ふおもわく違いて、上り景気に替わるなり。されども、売るべき約束の米は、明日ならでは、算用することならず、其儘に置いては、過分の損になる事なれば、此こそ株の者と相対して、又改めて壱万石買ふべき約束を極めるなり。かくして置けば、其翌日の相場、おもい入れより上りても双方の損徳を平均せば、過分の損にならずして済むなり。 都てかかる商ひの仕方を、米市場にて、繋商ひと唱ふるよし。此こそ株は、一名内証株ともいふとぞ。
◯堂島に、しらみと唱ふる商ひあり。これは株もなく、市もならず、帳面もまく、只其日其日の、帳合相場の直段をうつし取りて、売買の約束をなし、勝負することなり。銭壱貫文を、銀弐拾匁と定めし仕方なり。是は、勝負の大きくならぬ為の仕方なるよし。米仲買の妻子下女杯が、互いに思ひ入れをつけて、勝負する事とぞ。他にはなく、堂島に限りし事と云ふ。
◯江戸堀、道頓堀の、帳合米現銀相場といふあり。市はなさず、堂島帳合相場の直段を移して勝負する商ひにて、仕法は帳合と同じ。只、虎市相場の姿にて、米弐拾石を、金弐朱宛の敷銀にて、取引をなし、元手少なの者にても、なしよき様に工夫せしものなるよし。江戸堀は天明の始め頃、同所に相模屋又市といふ者ありて、土地繁昌を申し立て、弐拾年の年限にて、冥加金四百両納めたき願にて、差免しになり、年限になれば、又継願をなす事とぞ。道頓堀の方は元高津新地に於て、願人ありて、差免しになり、一旦中絶して、文化の始め、菊屋町北国屋仁兵衛といふもの、此株を、道頓堀へ引き移したき願にて、差免しになりし事と云ふ。
<ミニ株・素人投機家> 藪の中を走り廻っていたから「虎市米相場」と名付けた、とは愉快な話だ。ところでこの虎市とは現代の「ミニ株」のことになる。1995年10月、大和証券がこのミニ株取引を最初に始めた。推測するに、ちょうどこの頃大和証券の誰かが、TANAKA1942bと同じ様に大坂堂島米会所に興味を持ち、藪の中を走り廻っていた「虎市米相場」を現代に生かそうと思い付いたに違いない。いっそのこと現代版米会所の試案でも作るといいと思うのだが・・・証券会社が穀物市場の試案など出すと、「俺たちの縄張りに入り込むな」という声が上がるのかな?なんてのは考えすぎでもっとオープンは業界だ、となるといいのだが。
 江戸堀、道頓堀の、帳合米現銀相場とは場外馬券売場のようなもの。あるいは黙認されたノミ屋、となるのかな。いろいろと現代社会へのヒントが読みとれる。
 「しらみと唱ふる商ひあり。米仲買の妻子下女杯が、互いに思ひ入れをつけて、勝負する事とぞ。他にはなく、堂島に限りし事と云ふ」。これほど多くの人たちが米相場で勝負していたのだ。1980年代後半、日本では主婦が株投機にはしり、サラリーマンがゴルフ会員権を買い求めていた。もっと前1920年代にはニューヨークではシューシャイン・ボーイが株価速報に一喜一憂していた。幸い大坂堂島米会所でバブルがはじけた、という話はないようだ。米仲買の妻子下女杯にまで普及していた「コメの投機取引」、現代では「コメを投機の対象とするな」が尊農攘夷派の主張のようだ。米仲買の妻子下女杯が聞いたら、何と言うのかな?
( 2002年8月19日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(9)
世界の中の堂島
<「日本株式会社」と呼ばれる得体の知れない「怪獣」>  言語明瞭、意味不明の言葉がマスコミ界をうろついている。──「日本株式会社」という言葉が──。戦後日本経済が立ち直ったのはこの「日本株式会社」のおかげであるとか、しかしこれからはこの「日本株式会社」が発展のネックになるとか、改革を主張する過激派も,穏健派も、政官業のトライアングルの活躍に期待する族議員圧力団体派も、隠れコミュニストも、党派・立場を越えてこの言葉「日本株式会社」を使う。そこでこの言葉「日本株式会社」の意味するところは何なのか?実際の経済はどのような歩みだったのか?アマチュアエコノミストがプロ(ビジネスで発言する人たち)とは違った、ニッチ産業的(隙間産業的)な視点から検証してみようと思い立った。先ずこの言葉がどのように使われているか?その例を引用することから話を始めることにしよう。
 「いまや世界一の黒字国・債権大国にのし上がった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活感は乏しい。それどころか海外からは閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか?───その答えは、「日本株式会社」と呼ばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する。そうした経済構造自体を問い直し、改革することが、もはや国民的合意となっている。
 昭和の時代を通して官民総ぐるみで協調して形成された日本型経済システムが、東西の冷戦終結と五五年体制の崩壊という内外の激動を受けて、その大手術に向けて動きはじめたのである。これは日本経済の根底に関わり、痛みも伴う巨大なリストラ(再構築)を意味する」
 この本の著者は豊かな日本で生活しながら、その豊かさを実感出来ないと言う。豊かな生活用品に囲まれながら、心が満たされていないらしい。そしてそれは「世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する」と言う。この源流が「半世紀も前の昭和初期、当時のいわゆる満州国でめばえていたことは、第一の発見であった」と続き、「そしてこのシステムは戦後、単なる統制でなく企業か精神も誘導する独特な官民協調システムとして完成し、ついに欧米キャッチアップの目標を達成した」となる。
 これからの日本経済成長のために、「自由な企業活動を阻害する規制は、一層の撤廃を進めるべきだ」には賛成するのだが、前半の「官民協調システム」には疑問符を投げかける。そうは言っても確かに「日本株式会社」論は日本のマスコミに多く登場する。そこで戦後日本経済は「官民協調システム」だったのか?経済再建に政府の役割が大きかったのか?政府主導の経済再建だったのか?こうした疑問に答えるために、「官に逆らった経営者たち」とのタイトルで TANAKA1942b 独特の論法を展開してみようと思う。「経済学の神話に挑戦」とまでは行かないが、従来からある安易な「日本株式会社」論に対する異論として展開する価値は十分にあると確信して論を進めることにしよう。 
<視野狭窄にならないように>
上記の文は「官に逆らった経営者たち」の序文。 「閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国」とはどんな国だろう?鎖国して黒字をかせぐ、としたらそれは「異質な国」だろう。オープン・エコノミーを少し学ぶと次の等式を理解する。諸外国に安くて良質な商品を提供する=貿易黒字=資本収支の赤字=諸外国へ資金提供する。黒字を出して諸外国へ資金提供して、なぜ非難されなければならないのか?なぜそれに反論しないのか?ごく一部の経済音痴に過剰反応し、自虐的な態度をとる。過去の出来事に対する自虐的態度と変わりはない。経済の分野で言えば、voodoo economics となる。 このシリーズでは西山弥太郎、井深大、本田宗一郎、小倉昌男とイギリス、フランス、ドイツのいくつかの産業を取り上げた。その結果、戦後の日本は戦災国としては異例とも言えるほどの自由主義経済であることが分かった。戦後日本経済が驚異的な成長を遂げたのは、(1)戦時中の国家統制がなくなり、国家社会主義から普通の資本主義に近づいたこと。(2)パージにより若い経営者が誕生し、過去に捕らわれない大胆な経営を行ったこと。(3)戦争の被害を大きく受けた国の中では、最も政府の関与が少なく、民間の活力が活かされたこと。
 イギリス、フランス、ドイツの経済政策を振り返って見ると、「戦後復興政策、ヨーロッパ西も東も社会主義」との表現がいいと思う。さらに詳しい事例は近いうちに、このタイトルでHPを作るつもり。請うご期待。
 一つのことを突っ込んで考えていく内に、周りが見えなくなっていく。日本の欠点ばかり探していく内に世界が見えなくなっていく。エコノミストとしての知識や経験ではなくて、これは「センス」の問題。視野狭窄はダサーイ、カッコー悪い、に対してTANAKA1942bはカッコーよく経済学しようと思う。「日本は、この業界は、自分たちは特別だ」と思いたがる人は多い。「日本独特の経営」、「コメは日本の文化、特別な生産活動で市場経済に馴染まない」、「世界貿易量も薄い特別の穀物なので、自由貿易に馴染まない。リカードの比較優位論も当てはまらない」、「規制緩和総論賛成。ただし、コメ、野菜、道路、郵政、ペイオフは特別なので、除外しよう」と利権代弁者は抵抗する。
 大坂堂島米会所、大坂商人を褒めちぎっているようだけれど、本当はどうだったのだろうか?視野狭窄にならないように、目を見開いて当時の世界を見渡して見よう。ということで、ここでは外国の例、アントウェルペン、ロンドン、シカゴの取引所を取り上げることにした。
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<アントウェルペンの取引所> 中世ヨーロッパは十字軍の遠征から近世の序幕を開くコロンブスやヴァスコ・ダ・ガマによる新大陸・新航海路などの発見により「商業の時代」を迎える。2世紀にわたる十字軍の遠征(1096〜1270)はヨーロッパの権力構造と経済秩序を大きく変えた。すなわち自給自足の荘園制を支配していた封建諸侯や騎士階級の没落と王権の強化をもたらした。遠隔地貿易が芽生え、都市が繁栄し、貨幣経済が広く浸透した。15世紀新大陸=メキシコからの銀流入によりヨーロッパ全域に価格革命が起きた。後には黄金の国=ジパングからの銀も価格革命を促進する。
 地中海沿岸にあった貿易港=商業都市は大西洋沿岸へと移動する。シャンパーニュ・ブリュー伯の領地、「シャンパーニュの大市」に多くの商人が集まり商業都市を形成する。12世紀後半から14世紀初頭まで繁栄し、その後はフランドルの首都ブリュージュが登場してくる。ここでは未着の貿易品も取引された。大坂での米市と同じように、現物取引から未着品取引へと進むようだ。
 このブリュージュもオランダ対ハンザ同盟の交戦(1437〜1441)によるハンザ同盟の敗北に加え、港の玄関口となっていたズイン湾の土砂の堆積で、船着場が機能しなくなり、歴史の舞台から消えていく。代わって登場するのがブリュージュより200キロ北東部にある港湾都市アントウェルペン(アントワープ)であった。英語=アントワープ Antwerp、フラマン語(オランダ語)=アントウェルペン Antwerpen。ベルギー北部、スヘルデ川の河口に臨む貿易港。、
 15世紀中頃までは人口2万人足らずの小都市であったが、ブリュージュに代わる商業都市となってから急激な発展を遂げ、16世紀中頃には全ヨーロッパの中心的な商業・金融都市となる。アントウェルペン発展のカギは3つあった。
 (1)大航海時代の到来。コロンブスの新大陸発見(1492)、ヴァスコ・ダ・ガマの新航路の発見(1498)、マゼランの世界一周(1519〜1522)等によりそれまで地中海経由の東方貿易でしか入手できなかったものが、直接産地のインドの一部やモルッカ諸島から入手できるようになった。このため胡椒やナツメグなどがここアントウェルペンで大量に取り引きされるようになった。ヨーロッパにおける胡椒は、ローマ時代から薬味や食肉の防腐剤として常用され、物品通貨としての役割も果たし、大変珍重されていた。そしてこの東方貿易は巨大な利益を生み出した。たとえば1498年のヴァスコ・ダ・ガマの例でみると、3隻のうち1隻と隊員の3分の2を失いながら、持ち帰った胡椒と宝石で、その損失を差し引いてもなお6000%の利益を上げたと言われている。
 (2)当時イギリスはハンザ同盟とは敵対関係にあったが、アントウェルペンは独りイギリスの毛織物を輸入し、イギリスと友好的に交易していた。ハンザ同盟衰退に伴いヨーロッパ大陸に輸出攻勢をかけてきたイギリス毛織物の販売拠点として栄えていく。
 (3)大量の胡椒がアントウェルペンに集荷されるようになる。一方でそれを購入するために必要な貨幣=銀は、新大陸からきわめて低廉なメキシコ銀が輸入されることになる。大量の商品が集散し、それに必要とされる十分な通貨が供給される。商業都市アントウェルペンが発展する条件は揃った。
 新しい時代の商業都市アントウェルペンでは市場を整備し、1531年、胡椒などを取引きするための建物「取引所」を建設する。この取引所の特徴は、他国のそれがほとんどイタリア商人によって牛耳られていたのに対して、世界各地からの商人を歓迎したことだった。これを誇示するかのように、この取引所の入り口には「国籍と言語のいかんを問わず、すべての商人のために」と彫り込んであった。日本では、上杉謙信が1564(永禄7)年、越後柏崎に対して、当町へ諸商売に付(つき)て出入りの牛馬荷物等、近所所々に於いて新役停止(しんやくちょうじ)之事(近在で新役をかけてはならない) という制札をかかげて、町への自由出入りを保障し、その繁栄をはかった。奇しくも16世紀後半、日本とヨーロッパで商業発展のために都市が建設され、そこへの参加の自由を保証する政策が採られるようになる。日本と地球の反対側にあるヨーロッパとでほぼ同じ時代に同じ様な政策が採られている。この頃から「自由貿易こそが、国民を豊にする」ということが常識となった、と言えよう。 マンデヴィル(Bernard de Mandeville)(1670-1733)やアダム・スミス(Adam Smith)(1723-1790)の登場よりずっと以前のことであった。
 アントウェルペンの取引所では、為替や手形取引の他に、「未着の胡椒」「未刈の穀物」「未刈の羊毛」「未熟の果物」「未獲のにしん」など、「事前検品なし」の「到着渡し」の取引が行われた。また当時胡椒の独占権を持っていたポルトガル王が財政赤字穴埋めのため「公開中の積み荷の胡椒を特定商人に先売り」したので、この未着の胡椒をめぐり「先渡し取引(Forward)」が行われていた。大坂で未着の米切手が取引されていたのと同じ仕組みであった。
 アントウェルペンはその後、オランダ独立戦争の戦乱、とりわけ1585年のスペインへの降伏により多くの商人(とくにプロテスタント)はこの地を棄ててアムステルダムへ去り、独立したオランダに海への出口をふさがれ、最盛期10万人の人口は4万人に落ち、一内陸都市に転落していった。
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<トマス・グレシャムの取引所> 「悪貨は良貨を駆逐する」で知られるトマス・グレシャムがロンドンに「ザ・ブールス(The Bourse)」という取引所を設立したのが1568年のことだった。それより30年前の1538年、当時ロンドン市長をしていたトマス・グレシャムの父リチャード・グレシャムがロンドン取引所の設立を企画したが実現しなかった。当時のイギリス経済はエドワード三世の羊毛工業保護育成政策から1世紀を経て成長に向かってはいたが、国民産業と言えるまでには成長しておらず、生産された毛織物のほとんどはアントウェルペンの市場に輸出されていた。
 このような時期、トマス・グレシャムはエリザベス女王の代理人として1550年代の終わりから1574年までの十余年間アントウェルペンでイギリス王室の金融財政を担当する。この間の経験を基に自費でザ・ブールスと名付けた取引所を設立する。その後1571年にエリザベス女王の臨行を得て王立とされ、名前も王立取引所(Royal Exchahge)と変更される。設立当初には取引所としての性格は明確ではなかったが、後の時代になって、現物取引(直取引)、先渡し取引(延取引)、先物取引(清算取引)という取引が発生してくる。
<コーヒー・ハウスから取引所が生まれる> イギリス経済が世界市場に登場してくるのはトマス・グレシャムが取引所を設立してから200年後の産業革命(1760〜1830)を迎えてからだった。この間イギリスは羊毛工業を基軸として着実に成長を遂げ、17世紀半ばには紡毛工業から梳毛工業に脱皮させ、1674年には、英蘭戦争でオランダから海上覇権を奪い掌中に納めるが、それでもイギリスの羊毛工業がオランダのそれを凌駕するのは1730年代に入ってからだった。
 以後イギリス経済は急速な成長を遂げる。清教徒革命(1642)、イギリス共和国の成立(1649)、名誉革命(1688)、大ブリテン王国の成立(1707)、イギリス産業革命(1760年以降)と続き、王政に代わる議会制市民社会が確立される。この時代ロンドンでは1650年に、酒房の向こうを張ってコーヒー・ハウスが誕生する。1665年9月のペストの大流行と、1666年の大火(ロンドン城壁内の80%が焼失)で一時疲弊するが「たった1ペニーであらゆる階層の人と語り合える安上がりのコーヒー・ハウス」は人気を呼び、1680年代には3000軒にのぼるコーヒー・ハウスが軒を連ねる。そこには「富と自由」と「情報と社交と人脈」を求めて大勢の人が集まってきた。
 情報の交換は取引を発生させ、商業と文化を育てることになった。ロイズ保険はEdwad Lloyd(1648ころ〜1713)の経営するコーヒー・ハウスが海運業者や海上保険引受人のたまり場なっていたことから始まった。ロンドン商品取引所、バルチック商業・海運取引所、ロンドン金属取引所(London Metal Exchage=LME)もロンドン・シティーのコーヒー・ハウスが発生母体となった。1700年代後半には「モーニング・クロニクル」紙(1770)や、「ポスト」紙(1773)、「ヘラルド」紙(1780)などの新聞もコーヒー・ハウス文化の中で育っていった。そうして産業革命期を迎えることになる。
 ロンドンはその背後に西ヨーロッパという大消費地を擁していたため、各種商品の世界的再配分の基地となり、国際市場を形成していくことになる。こうしてロンドンはそれまでの胡椒などに代わり、小麦、羊毛、綿花、コーヒー、ゴム、砂糖、煙草、銅などの非鉄金属など新しい商品の先物市場(正しくは先渡し市場)へと進化していく。そして現在では通貨や指数、オプションが主力商品になっている。
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植民地アメリカは基本的に自給自足の農業経済であった。それが1776年の独立を契機に、急激な人口増を伴いながら、経済は飛躍的に発展して行く。南部の綿花は1790年頃から輸出が始まる。一般農業も1803年の畜力の導入、1810〜20年にかけての鋳鉄プラウ(鍬)の開発、そして大鎌収穫法の開発普及で農業生産性が著しく向上した。その結果1810〜40年、もしくは南北戦争(1861〜65年)の間にアメリカ農業は商業的農業へと変容し、自給自足を神話へと変えていった。独立してしばらくの間のアメリカは綿花輸出に依存するモノカルチャー経済であったが、1850年頃から自給自足を神話の世界に追いやると同時に大きな変容を遂げる。
 アメリカの経済構造は、(1)北東部の工業地帯、(2)中西部のトウモロコシ・小麦の穀倉地帯、(3)南部の綿花地帯、(4)大平原の牧畜地帯、の4つの産業分野で構成された。農業生産性の向上は目覚ましく1855年から1895年の40年間の穀物の生産性では、トウモロコシで労働者1人あたりの労働時間は半分で、その収穫量は3倍、小麦のそれでは3分の1の労働時間で6倍もの収穫量を上げるまでになっていった。
 こうした農業の発展過程で、1848年、シカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade=CBOT)が設立された。しかし市場は出来たものの、貯蔵設備はなく、資金の余裕も無かったので、収穫期には供給が上まわり価格が低下し、端境期には価格が高騰した。こうした季節変動は農民だけでなくアメリカ経済を不安定にするものだった。このため農民、穀物商人、製粉・製パン業者、倉庫業者、金融業者などで、お互いに信頼できる相手を選び、仲間を限定し、それぞれ、10日先、1ヶ月先、2ヶ月先・・・など先々のものについて、「現在定めた価格」で「事前販売契約」方式の「先渡し取引」を行うようになった。
 この先渡し(Forward Contract)が確実に履行されると、生産者は収穫前から、あるいはタネを播く時から「販売済み」と同等の効果が得られ、収穫期の出盛り最盛期に投げ売りしなくてすむ。一方需用者の製粉業者や製パン業者も、予約された価格で、安定的、継続的に原料が確保できるうえに、余分な在庫を持たなくて済むようになった。この有利で便利な先渡し取引は、間もなくシカゴを中心に普及し、市場では12ヶ月にわたる現物受渡し日程表が作られるようになった。 TANAKA1942bがキャベツ帳合取引所はいかがでしょうか?▲で書いたようなことが19世紀後半からシカゴで行われていたわけだ。
<Forward から Futures へ>
CBTは1882年、担保機能の一層の強化と、当面する取引の増大に伴う帳簿上の未決済約艇の整理を簡素化を兼ねて「きわめて巧妙な会計処理による決裁方法」を採用した。これは先渡し取引の欠点である契約の継続性、硬直性からくる清算の窮屈さや、違約に係わる担保制度の不十分さからくる混乱の回避に大いに役立った。この「きわめて巧妙」な取引が「先物取引(Futures)」だった。
 この方法は、個々の売り手と買い手とが、当初個別相対取引で契約しても、その直後に、その売り手と買い手の間に取引所や清算会社(Clearing House)など第三者を介入させて、<売り手対第三者・買い手対第三者>の契約関係に切り替え、その関係を、実質的に<売り手集団対買い手集団>の関係に置き換える。つまり、売り手A対買い手Bの特定関係を集団対集団の不特定関係に置き換え、個々の債権債務を切り離して、個別相対の先渡し契約の制約から切り離すものであった。
 一方、売り手と買い手は、それぞれ定められた決済期日の期間内であれば、いつでも「買い付けたものは市場で転売」し、「売り付けたものは自由に買い戻す」ことができるようになる。そして「転売買い戻し」によって決済されたものは、当初の売買価格と、その後の転売買い戻し価格の差額を「差金」にとって清算する。「転売買い戻しによる差金決済」が行われるようになる。
 こうして「きわめて巧妙な決済方法」による、フォワードから発展したフューチャーズ、つまり先渡し取引から先物取引が行われるようになった。この取引では売り手と買い手の特定関係が切断されるので、契約違反(違約)に対する補償がなくなる。そこで、これに対しては、取引所や清算会社が介在して、集団で担保、保証する制度が確立されていくことになる。
( 2002年8月26日 TANAKA1942b )
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