<2017.10.13=01:15> 大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済
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大江戸経済学
趣味と贅沢と市場経済

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが江戸時代を経済学します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が江戸時代の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

趣味と贅沢と市場経済
(1)江戸はアダム・スミスの世界 百姓は百の職業を持つ兼業農家 ( 2004年12月20日 )
(2)東福門院和子の涙 幕府が朝廷支配のための政略結婚 ( 2004年12月27日 )
(3)涙が絹になって尾形光琳・乾山 商売破綻から創作活動へ ( 2005年1月3日 )
(4)衣装狂いによる貿易赤字 糸割符貿易の仕組み ( 2005年1月10日 )
(5)後水尾院・東福門院の文化サロン 寛永文化への貢献度 ( 2005年1月17日 )
(6)先に豊かになった人への憧れ トレンド・メーカー東福門院 ( 2005年1月24日 )
(7)当世流行の衣装くらべ 伊達もの対決、江戸か京都か ( 2005年1月31日 )
(8)スタイリスト尾形光琳の影響力 京都東山での伊達くらべ ( 2005年2月7日 )
(9)♪ザッとおがんでお仙の茶屋へ♪ 大江戸美少女噂話 ( 2005年2月14日 )
(10)美少女を取り巻く文化人 平賀源内とその仲間たち ( 2005年2月21日 )
(11)先に豊かになれた豪商たち 特権階級相手の商売から町人相手へ ( 2005年2月28日 )
(12)少し遅れて豊かになれた人たち 木綿の普及が生活革命 ( 2005年3月7日 )
(13)金さえあれば、何でも買える風潮 改革とは幕府の「贅沢は敵だ」政策 ( 2005年3月14日 )
(14)リーガル・パターナリズム 小さな政府の大きなお世話 ( 2005年3月21日 )
(15)絹輸入のため金銀が流出 新井白石『折りたく柴の記』での心配 ( 2005年3月28日 )
(16)代表的輸入品が主要輸出産業に 西陣の技術が地方に拡散 ( 2005年4月4日 )
(17)拡散する技術情報と職人 技術空洞化と地方産業の発展 ( 2005年4月11日 )
(18)東日本へ広がる絹・絹織物産業 農村に新しい産業として育つ ( 2005年4月18日 )
(19)絹・絹織物産業の中心地は群馬県 現代でも品種改良の伝統を守る ( 2005年4月25日 )
(20)中部地方の絹・絹織物産業 冨山・山梨・長野での発達 ( 2005年5月2日 )
(21)本家京都はどうなったのか? 空洞化から衣裳芸術へ昇華 ( 2005年5月9日 )
(22)木綿の由来と各地の生産 三河の綿から各地へ拡散 ( 2005年5月16日 )
(23)贅沢に関する先人たちの見解 現代にも生きてるユートピア信仰 ( 2005年5月23日 )
(24)東福門院和子から輸出産業へ 需要こそが生産を決める ( 2005年5月30日 )
(25)参勤交代という公共事業 三代将軍家光時代に制度化 ( 2005年6月6日 )
(26)道中費用はどうだった? 藩の財政を圧迫 ( 2005年6月13日 )
(27)「総費用」とは「総売上」 参勤交代が通貨流通速度を速めた ( 2005年6月20日 )
(28)世界一旅行好きな江戸庶民 弥次・北コンビは人気ツアーガイド ( 2005年6月27日 )
(29)一生に一度は伊勢参り 現代人の海外旅行より盛んだった! ( 2005年7月4日 )
(30)旅にまつわる費用など 女性も旅を楽しんでいた ( 2005年7月11日 )
(31)夢のような伊勢参宮の旅 ハレの食事の極めつけ ( 2005年7月18日 )
(32)お殿様以上の豪華な神楽と直会 御師の館での儀式と費用 ( 2005年7月25日 )
(33)抜け参り,お蔭参り,ええじゃないか その不思議なエネルギー ( 2005年8月1日 )
(34)おかげまいりの経済効果 無銭旅行を支えた「施行」( 2005年8月8日 )
(35)「ええじゃないか」騒動の発端 お札の降下とその後の不思議( 2005年8月15日 )
(36)いろいろな庶民の旅 富士講・大山講や富士塚など( 2005年8月22日 )
(37)旅の普及を支えた経済制度 統一貨幣・頼母子講・為替制度・飛脚( 2005年8月29日 )
(38)旅が第3次産業を育てた 江戸の出版文化と蔦屋重三郎( 2005年9月5日 )
(39)旅が江戸社会に及ぼした影響 「貨幣数量説」と「情報数量説」( 2005年9月12日 )
(40)江戸時代の旅を総括する 欧州にはない平和な近世( 2005年9月19日 )
(41)園芸は代表的な道楽だった 造形化した自然も好んだ江戸庶民( 2005年9月26日 )
(42)椿から始まった江戸の園芸 無類の花好きだった徳川家康( 2005年10月3日 )
(43)話題の多いキクとアサガオ 変化朝顔の不思議( 2005年10月10日 )
(44)ツツジやハボタンなど 大久保はツツジの名所だった( 2005年10月17日 )
(45)江戸園芸を総括する 現代も盛んなフラワービジネス( 2005年10月24日 )
(46)倹約の吉宗か?贅沢の宗春か? 享保の改革に反抗したモルモット( 2005年10月31日 )
(47)野暮将軍吉宗が格闘した享保改革 贅沢と新しいことの徹底禁止( 2005年11月7日 )
(48)『温知政要』と『遊女濃安都』 宗春の政治姿勢をみる( 2005年11月14日 )
(49)宗春の政治をどう評価するか? 英雄か?ケインズ政策の失敗か?( 2005年11月21日 )
(50)倹約と贅沢を総括する ゾンバルト以上に資本主義的であった( 2005年11月28日 )

大江戸経済学 改革に燃えた幕臣経済官僚の夢
大江戸経済学 大坂堂島米会所

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

(1)江戸はアダム・スミスの世界
百姓は百の職業を持つ兼業農家
<はじめに> 「大東亜戦争」として始まった戦争が終わって、「太平洋戦争」と名前が変わった後、日本経済は世界の政治家・経済人が羨むほどの高い成長を達成した。何故そのような高度成長が実現したのか?その答えを、『日本株式会社』と呼ばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに求めようとする日本人がいる。 しかしそれは視野狭窄的な見方で、「官に逆らった経営者が出るほど、自由な経済環境にあった」と考えた方が自然だ。特に同時代のヨーロッパ諸国──フランス、イギリス、ドイツなどと比較してみれば、一目瞭然。 戦後復興政策▲、ヨーロッパは西も東も社会主義をやっていた。
 アジア諸国の指導者の中には「このような発展を遂げた日本を見習おう」との意識があった。マレーシアのマハティール首相が提唱した「ルックイースト政策」は政官協力体制の「日本株式会社」と「終身雇用」を中心とした、欧米諸国とは違った経済政策であった。 この非西欧的経済政策と並んで言われたのが「日本の経済発展は、儒教的倫理観に基づいた日本人の仕事に対する誠実な態度があったからだ」という見方だった。 「儒教的倫理観」とはマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を意識した発言と考えて良いだろう。
 日本の戦後の経済成長は「日本株式会社」ではなく、「官に逆らった経営者」▲がいたからだ、と言うのがTANAKAの考え方だ。そして、こうした経済成長を支えてきたのは、「プロテスタンティズム」でも「儒教的倫理観」でもなく「趣味と贅沢が市場経済を発展させた」であり、それは「恋愛と贅沢と資本主義」と同じ考えであり、「市場経済の基礎は江戸時代にできた」がTANAKAの考え方だ。 「禁欲と資本主義」ではなくて「人々が自分の欲望を満足させようとすることによって、資本主義経済は成り立っている」とのアダム・スミスの考えや、ヴェルナー・ゾンバルトの考え方の方が経済を理解するには役立つように思える。そこで 「江戸時代、趣味と贅沢とが市場経済を発展させた」との発想で「大江戸経済学」を展開してみようと思った。第1回目は題して「江戸はアダム・スミスの世界 百姓は百の職業を持つ兼業農家」。
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<八っつあん、熊さんも朝顔の品種改良を楽しんでいた> 江戸庶民の道楽と言えば先ず「園芸道楽」をあげよう。長屋住まいの、「町人」の分類にも入らない、八っつあん、熊さん、ご隠居さんが楽しんだのが朝顔の栽培。もう少し裕福な人たち、すなわち「町人」と呼ばれた土地を持っている人たちはキク作りに夢中になった。江戸時代になり、世の中が安定してくると平安時代に盛んだった「菊合せ」も復活する。もう少し上層階級である武士、殿様、将軍はツバキの鉢植えに熱中する。こうした趣味は鉢植えの鉢に凝ったり、大きなキクや珍しい品種が高く取引されたり、それを幕府が取り締まったりと、 社会問題、経済問題、政治問題へと発展していった。経済面から見れば、こうした趣味が、植木業、陶磁器制作、造園業などを刺激したし、植物の品種改良の知識はその後の日本農業に大きな影響を与えた。今日「農業は先進国型産業であり、品種改良に比較優位を持つ日本の基礎は江戸時代にあった」と言えるのも、八っつあん、熊さん、ご隠居さんをはじめ、町人、殿様、大名の園芸道楽があったからだ、と言える。(参考HP▲
 江戸時代の植物栽培はどのような品種が愛されたのか?順不同で羅列してみよう。江戸時代初期にはツバキの鉢植えに熱中した人たちがいた。それは後水尾天皇、二代将軍徳川秀忠、それに京の貴族たちだった。やはり江戸初期の寛永期にはキクの栽培が行われ珍種売買の商売も行われた。京や大坂ではキクなどの花合せ(花の品評会)も盛んであった。1772(安永元)年、田沼意次が老中になり、「田沼意次の時代」が始まると、キクは大輪がもてはやされるようになる。 田沼が失脚し松平定信のデフレ時代には巣鴨村や染井村や雑司ヶ谷が観菊の地として栄えた。アサガオの栽培熱は江戸後期、文化年間ごろからにわかに流行した。キクやアサガオのほかランは元禄のころから品種改良が行われていた。同じく元禄時代にはツツジの栽培も盛んになった。
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<何度も「贅沢禁止令」が出るほど、「贅沢は素敵」だった> 江戸時代、幕府は何度も「贅沢禁止令」を出している。主に町人の衣服に関する贅沢が対象だ。それだけ、幕府がお触れを出すほど町人が豊かになって、贅沢を楽しんでいたことがうかがえる。その衣装道楽は町人だけでなく将軍・殿様の取り巻き連中でも広まっていた。その道楽に応えるための絹をはじめとする衣装産業の発展は江戸時代の産業を考える場合に見過ごすことができない。 後の時代になって、大本営が「贅沢は敵だ」とのスローガンを出すと、庶民は「贅沢は素敵だ」と言った。それでも「禁欲は善である」との価値観はいろんな場面で主張される。「デフレを乗り切るには」との問いに対して、禁欲的な回答を寄せる識者も多い。エコノミストの立場では「趣味と贅沢が市場経済を進化させる」が正解だと思うのだが、あまりにも本音の正直な考えは、あまり歓迎されないようなので、せいぜいアマチュアエコノミストが主張することにしよう。
 江戸時代の贅沢の代表は「絹」と言っていい。江戸時代で最も大概貿易が盛んであったと考えられる明暦元年の輸出入品目を調べると、次のようになる。
 輸入品 生糸 絹織物 皮革 香料 薬種 砂糖
 輸出品 金・金製品 銀・銀製品 銅・銅製品 樟脳(「江戸時代」から)
 この場合の金・金製品などは、輸出品というより輸入品の支払のための「通貨」と考えた方が分かりやすい。さて、輸入品の代表は絹と絹織物で、この二品で輸入額の大半を占めていた。この絹・絹織物は江戸時代の贅沢品の代表でもあった。そのため貿易赤字の解消のために、絹・絹織物の国産化が進み、明治維新後には日本の代表的な輸出品目になった。 つまり、贅沢品の絹・絹織物な輸入増のため、その国産化を進めることによって絹・絹織物産業が育っていった、ということだ。
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<幕府は小さな政府の典型なのだ> 江戸時代を経済学の面から特徴づけると「幕府は小さな政府の典型」と言える。諸藩は独立国のようでもあり、江戸という都市は幕府の直轄地であり、多くの行政サービスが民間に委託されていた。 100万人都市江戸の治安を司る警察機構は、南北奉行所の下に与力・同心がいて配下の岡っ引(目明)を使っていた。その数は下っ引きまで含めても千人程度、それに加えて自身番・木戸番の制度があった。 このうち与力・同心までが幕府から給料をもらっていたので、その他の岡っ引から自身番・木戸番までは民間人だった。
 国家の基本的な事業、国防、警察、教育、司法、等を調べてみると、いかに小さな政府だったかが分かる。国防は各地方自治体にまかせ、警察は民間人である「岡っ引き」に任せ、その費用の工面は岡っ引きの裁量に任せていた。 教育は寺子屋が中心で、司法に関しては中央政府ではなく、藩と言われる地方自治体が担当し、商業上のトラブルに関しては株仲間が自主的に処理していた。百万人都市江戸の清掃に幕府は関係せず、下水処理は練馬あたりの百姓が下肥として買い取っていたし、燃えるゴミは風呂屋の燃料にと、朝早くに風呂屋の小僧が集めていたので、江戸の町は世界でも有数な清潔な都市だった。
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<百姓一揆は、まるで春闘みたいだな> 江戸時代には飢饉もあったし、百姓一揆も多発していた。「封建社会」「士農工商」「百姓は生かさず殺さず」などの言葉から連想されるのは、「百姓がまるで奴隷のように扱われていて、そのために不満が爆発して百姓一揆が起きた。しかし結局弾圧されて目的を達しなかった」という図式だ。 「歴史の必然性」を強調したい人たちは、江戸時代をこのように見ている。しかし、一つ一つのの出来事見てみると少し違う。一揆を起こす百姓も、弾圧する藩主側も命がけだったわけでななさそうだ。そう考えるよりも、春闘のような年中行事だった、と考えた方が良いような例もある。百姓側も役人側も槍、刀、鉄砲はめったに使っていない。
 百姓一揆と言っても、江戸時代の人が、子供のイヤイヤとしか映らないような一揆があったのも事実のようだ。広瀬淡窓は、1812(文化9)年、在所の近くで起きた一揆について、凶作とか困窮とかいった具体的な原因もなく起きたものだと、多少の不審と軽蔑の念をにじませた感想を日記に残している。
 「此時格別の凶歳と云うにもあらす、民の窮も未だ甚しからす、只何となく人気さわきたちたるなり」『懐旧楼筆記』 (「江戸は夢か」から)
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<庶民・百姓の視点から江戸時代を見てみようよ> 暗記物としての歴史は、中世・近世・現代とか、「やあなへかなむあえめげ」のように覚えたり、政治体制、支配階級の側から見る歴史が多かった。そのため庶民の生活は「封建時代なのだから庶民はこのように抑圧された生活をしていたはずだ」のような発想だった。そうではなくて「実際に庶民・百姓はどのような生活をしていたのか?」との発想から江戸時代を見てみようと思う。 そうすると「封建時代」という言葉がとても不自然に思えてくる。このシリーズでは、そのような不自然な面を取り上げてみようと思う。つまり、「江戸時代、百姓・庶民は結構豊かな生活をしていた」との見方になる。
 例えば年貢。七公三民などと言われ、収穫されたコメの7割を年貢として納め、自分は3割しか食べられなかったため、主食はコメでななくアワやヒエなどの雑穀だった、との考えは「生産された作物をこれほどまでに領主が奪ったので、百姓は常に食料飢饉の危機にさらされていた」との貧農史観に結びつく。 「七公三民」は戦国から江戸初期にかけてのことで、これは戦国武将がコメを集め「戦の準備のために城を造る。人夫として働けばコメを分け与える」と宣言した。つまり一度年貢として納めたコメを、城造りで百姓に配り、結果として百姓はコメを食べていた。これは戦国から江戸初期のこと。城造りが一段落すると、領主はコメを商品として大坂米会所などで現金化・現銀貨する。百姓はそれを買って食べていた。買う金はどうしたのか? 答えは「百姓は百の職業を持つ兼業農家」だ。百姓はコメ以外にも収入源を持っていた。現代「米作り専業農家が減っている」と嘆く人がいるがそれは思い違い。兼業農家とはリスクを分散させようとの賢い知恵なのだ。もしかしたら江戸時代の百姓に学んだのかもしれない。だとしたら現代のお百姓さんはなかなか賢い経営者だと言えそうだ。
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<江戸時代を経済学します> 日本の歴史学者は、文学部歴史学科卒業日本歴史専攻が多いのだろう。江戸時代を見る場合、政治学から見る場合、法学から見る場合、美術から見る場合、教育学から見る場合、農学から見る場合、科学技術から見る場合、そして経済学から見る場合、見る立場によって評価も違ってくるはずだ。 士農工商という身分制度から見る場合、商法もなく商業上のトラブルは株仲間の制裁に任せていた徳川幕府という政府、平賀源内の仕事を科学技術な立場から見ると歴史学者とは違ってくるかもしれない。 それぞれの専門的立場から見るとすれば文学部歴史学科だけに任せておくこともできない。特に経済学の立場から見れば、歴史学者とは違った見方ができるに違いないからだ。 などと、自惚れながら、江戸時代を経済学してみようと思いたった。さてどこまでその試みが成功するか?新たな江戸時代の神話解明にチャレンジします。 先ず来週は、幕府と朝廷との力のバランスの中で涙を流した女性のとてつもない贅沢、についての話から始めます。乞うご期待!
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ウェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫      1989. 1.17 
マックス・ヴェーバーとアジアの近代化                富永健一 講談社学術文庫    1998. 8.10 
恋愛と贅沢と資本主義           ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫    2000. 8.10 
百姓の江戸時代                           田中圭一 ちくま新書     2000.11.20 
( 2004年12月20日 TANAKA1942b )
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(2)東福門院和子の涙
幕府が朝廷支配のための政略結婚
 人間のさいわいと徳、いえ、女子(おなご)のしあわせと申上げたほうがよろしゅうございましょうか、これはひとそれぞれなれど、世に私ほどの冥加を得た者はふたりと指折ることはできぬのではありますまいか。
 何ゆえかと申しますれば、ただいまは延宝八年、庚申の年廻りにて、長い戦乱の世も治まり、天下さまは第百十二代、霊元天皇の御代となられ、将軍さまは第五代綱吉さまにご勅諚下りましたところにございます。
 かくなる時代、将軍家にお仕え申せしお女中方のうち、生涯かけてその勤めを全うせし者、めったとあるまじく、しかもおん主(あるじ)、東福門院和子(まさこ)姫の崩御の際まで見極めさせて頂きましたばかりか、法皇後水尾(ごみずのお)院おかくれのときにもめぐり遭うという運を賜り、 そして皇女朱(あけ)宮さまご落飾ののち林丘(りんきゅう)寺へお入り遊ばした報にも接し、これにて何ひとつ思い残すこと無し、というただいまの心持にてございます。
 私、本年とって七十七歳と相成ります。
 昨年春頃より目の前に常に白雲たなびきて視力落ち、どうやらそこひらしく思われますものの、いうなれば年病い、他にはこれというて体に悪しき個所も見当たりませぬ故に、甘んじてこの成りゆきを受け入れるべく心得おります。
 その代わり、こしかたの記憶すこしずつ冴えて参り、いずれ私も冥界より和子姫さまお呼び下されるその日まで、胸にとどめおくことすべて打明け申上げたく、かくお運び頂ましてござります。
 ここは、和子姫のお眠り遊ばす御寺(みてら)の東山の麓、私の小さな庵にて、誰にお気兼ねも要りませぬ。
 お手をわずらわせますなれど、そこの灯心をいま少々お掻き立て下さりませぬか。かたじけのうござります。どうやらぼんやりと明(あこ)うなって参りました。私のそこひの目にても、虹の向うに和子姫のお立ち遊ばしておいでのご様子がはっきりと拝まれます。お小さいころの振分髪にござります。
 何ゆえか、私の目裏(まなうら)に在わす和子姫はいつとてもお小さい折のお姿ばかり、それと申しますのも、私が初めて江戸城西のまるに上りましたのは慶長十九年、姫さまお八つの年、私十二の四月ついたちでござりました。 (「東福門院和子の涙」から)
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 このように始まるのが宮尾登美子の『東福門院和子の涙』、多くの作家が東福門院和子をヒロインとして描いている。江戸時代初期、幕府と朝廷の力関係の中で政略結婚させられた和子、その数奇な生涯は作家にとって取り上げてみたい女性ではあったろう。 江戸時代の女性としては、皇女和宮とならぶヒロインと言って良い。幕府と朝廷、この力関係の中で、それでも誠実に一生懸命生きた女性、作家が取り上げたくなる二人の女性だ。
 ところでそれは文学での話。経済学では少し違った面から興味を引く存在だった。それは和子の「涙の代償」だ。 悲劇のヒロインであった和子、金に不自由はしなかった。そして買いまくった衣装の数々。 こうして、これから見ていくように「権力闘争から派生した子供である奢侈は、資本主義を生み落とした」と言うのがこのシリーズ最初のテーマだ。 「大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済」の第1回目の登場人物にふさわしい存在だと思う。そこで、当時の状況から話を始めることにしよう。
<いろいろトラブルはあったが、徳川家は天皇家の外戚になる> 戦国時代を生き抜くには先ず軍事力が物を言った。それは天下を取るまでのこと。天下を取って政権を安定させるには、軍事力とは別の権威が必要だった。秀吉が「関白」という位に喜んだのも、家柄で誇ることの出来ない秀吉にとって政権維持のためになる大きな権威だったからだ。 家康の場合は「征夷大将軍」という、武士としては最高の位に就いたがそれで満足はしなかった。長期安定政権のために天皇の権威を利用したかった。天皇家の外戚になること。これを望んだ家康は、二代将軍徳川秀忠の八女、和子(まさこ)を後水尾天皇の妃として入内させようと考えた。 男子を生んで、その子が天皇になれば、徳川家の朝廷側に対しても発言力が増す。しかし朝廷側としては徳川幕府の支配力の増大を恐れてことあるごとに抵抗した。それに対して幕府は力ずくで考えを押し通そうとした。ここに幕府と朝廷側との間でいつくかの摩擦が起きた。
{幕府の承認を得ずには内大臣にはなれない}
勧修寺(かじゅうじ)大納言兼勝が、徳川幕府の承認を受けずに内大臣に任じられた。徳川幕府は「禁中並公家諸法度」を出し、公家の官位は家々の旧例を基礎とし、それに本人の器用如何を勘案し、幕府の諒解を得たうえで昇進させるようにと決めている。 しかし名族ではあるが摂家・清華につらなるほどの家柄でもなく、また大臣に任じられた先例も絶えてなかった勧修寺の者を、幕府の了解なしに朝廷の一存で内大臣に任命するのはけしからぬ、とクレームをつけた。
{後水尾天皇が子供を産ます}
後水尾天皇が藪左中条詞良の妹於四ノ局の子供を産ませ、これが和子の父秀忠を怒らした。宮廷の常識としては特別問題はなかった。江戸時代では正妻の他に妾を持つことは珍しくなかった。極端に言えば武家にしても公家にしても、身分を問わず「相手が誰でもいいから、男の子を産める者」を見つけて種付けをすることが社会的な合意として成立していた。 十一代将軍徳川家斉(在職期間は1787-1837,天明7年ー天保8年の50年間)の場合は正妻の他に何十人といった妾に50何人もの子を産ませている。 宮廷側としては和子の父秀忠が怒っていることに戸惑っていた。
{豊臣家の滅亡と家康の死}
入内の宣旨が正式に発せられた後、大阪冬の陣、大阪夏の陣があり臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する。その1年後には家康が 駿府城で急死する。このように入内までに多くの出来事があったが、1620(元和 6)年6月18日に入内が決まる。
{入内時のトラブル@}
二条城でのお迎えには、関白九条忠栄、左大臣近衛信尋、内大臣一条兼遐(かねとう)、武家伝奏の広橋兼賢、三条西実條、その他主な公卿はほとんど頭を揃えた。これについては宮廷でちょっとした騒ぎがあった。 はじめ徳川側から申し入れがあったとき、女御入内に関白や左大臣が供につく前例がないと公家方が突っぱねたが、結局徳川側に押し切られた。
{入内時のトラブルA}
禁中に入ると中門でお供車の人たちは降りる。女御の車だけ進もうとすると、後宮の女官たちがたむろしていて馳せ寄り、車を止め会釈を求めた。これは女御入内の慣習で最初に女御を見るのが後宮の女官の特権であった。「われわれの仲間入りするなら、誰よりもまずご会釈を賜りたい」という一種の示威だった。 このとき物見の窓を和子が開けようとするより早く、藤堂高虎がとんできて、大声で怒鳴った「不埒者奴。何故に御車をさえぎるぞ」。宮廷の慣習を破る藤堂高虎の態度に対する反発はその後も長く残った。
{紫衣事件}
最高の僧衣である紫衣は武家伝奏をとおして願いでたものを勅許するという形で許される規定であるのに、伝奏の儀もなく朝廷側が勝手に勅許したものが数多くあるのはけしからぬとして、幕府がその取り消しを求めたために起こった騒動だった。 この件では大徳寺、妙心寺の長老たちが15人紫衣をはぎとられ、これに講義を申し立てた大徳寺派の沢庵宗彭、玉室宗柏、妙法寺の東源慧等、単伝士印らは咎められ遠隔地に流刑になった。
{興子内親王が明正天皇として即位}
朝廷側では豊臣家に親近感を持ち、徳川家には反感を持つ者も多かった。また平清盛の娘徳子以来の武家からの入内には天皇をはじめ朝廷側では抵抗した。 多くのトラブルが発生しながらも幕府側の「天皇家の外戚になる」目論みは、興子内親王が明正天皇として即位したことによって達成された。
 因みに平清盛の娘(建礼門院)の場合は、高倉天皇の中宮として入内させ、やがて徳子は安徳天皇をもうけた。これにより清盛は天皇家の外戚となったと、狂喜している。 なおその安徳天皇は1185(文治元)年、祖母の平時子に抱かれて壇ノ浦で入水。このとき三種の神器のうち宝剣が海中に没した。
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<東福門院の入内> 徳川和子の入内について戦前に書かれた文献から一部引用してみよう。と言っても現代と違った見方をしている訳ではないが、視野狭窄にならないために読むのも良いだろうと思う。
 家康が秀忠の女和子の入内を望んだのは藤原氏が競ってその女を入内せしめたのや、彼が盛に大名と婚姻を結んだのとは、頗趣を異にして居る。即藤原氏の如くこれによって政権を支持せんとする必要も感じて居なければ、大名の如く、懐柔策とのみは断ぜられない。 固よりこれによって徳川氏の栄誉を増し、又朝廷懐柔策の機会を造ることも一部の理由ではあったろうが、主とする所は形を公武融和に仮りて、その勢力を内廷にまで及ぼす手段であった。
 武士の女の入内は建禮門院以外にないことであり、これさへ清盛が後白河法皇の猶子として入内せしめたのであるから、先例故格を主とする朝廷では悦ばれなかったことは勿論だが、幕府の圧力と藤堂高虎の運動とによって、慶長十九年に女御入内の宣下となった。然るにその後大坂陣や、家康の死去によって延々になり、元和五年秀忠上洛の際に漸くその準備に当たらんとしたが、はしなくも主上に内寵があり、皇女まで降誕せられたことが判ったため、再び行悩となった。 秀忠はこれを不快として、近侍の奉仕宜しからず、「内裏にて傾城、白拍子其外當世流布女猿楽等被召寄、但夕遊覧酒宴」に耽ったのを名として、前大納言萬里小路光房、中納言中御門尚長、同四辻秀継、中将藪嗣良、同堀川康胤、同土御門泰重等を或は流罪に処し、或は出仕停止を命じ、入内も延引となった。この処分には主として傳奏廣橋兼勝が興ったと見え、土御門泰重の如きは、「一応理非の無穿鑿、被軽赦慮候事、天罰如何難計事也、廣橋内府兼勝は三百年以来之姦妄之殘臣也」と憤慨した。 天皇も秀忠の「無道」の擧の逆鱗あり、旦入内延引のことを宸襟を悩させられ、御落飾の赦慮を漏されるに至った。かくて九月五日御胞弟近衛信尋を通じて、入内の事に當って居た藤堂高虎にこれを傳へられた。 (「江戸時代史 上巻」から)
略年表
西暦 年月日 出来事
1600 慶長 5. 9.15 関ヶ原合戦
1603 慶長 8. 3.24 徳川家康が征夷大将軍となり、幕府を開く
1605 慶長10. 4.16 家康、将軍職を秀忠に譲る
1607 慶長12.10. 4 和子、2代将軍徳川秀忠の8女として生まれる
1613 慶長18. 3. 8 入内の宣旨が正式に発せられる
1614 慶長19.11.15 大阪冬の陣 20万の徳川軍が大坂城攻撃に出陣
1615 元和元. 5. 8 大坂夏の陣 豊臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する
1616 元和 2. 4.17 徳川家康が駿府城で没 75歳
1620 元和 6. 6.18 後水尾天皇の妃として入内 和子12歳 後水尾天皇23歳
1623 元和 9.11.19 17歳で興子内親王(明正天皇)を出産
1623 元和 9. 7.27 徳川家光が将軍となる
1629 寛永 6. 7.25 紫衣事件 大徳寺の沢庵宗彭(そうほう)らは流刑に、沢庵は出羽の上ノ山(山形県上山市)へ流される。
1629 寛永 6.11. 8 後水尾天皇退位し、興子内親王が明正天皇として即位。和子は女院御所にうつり、東福門院とあらためた
1635 寛永12. 5.28 日本人の海外渡航と帰国を禁止、外国船の入港地を長崎1港に限定
1637 寛永14.10.25 島原の乱起こる
1643 寛永20.10.21 明正天皇、後光明天皇に譲位
1657 明暦 3. 7.22 江戸明暦の大火 振袖火事とも言う 死者10万人
1658 万治元 尾形光琳生まれる
1678 延宝 6. 6.15 東福門院和子崩御 享年72歳

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<東福門院和子の衣装への執念> 徳川家が朝廷と外戚関係になるために利用された和子、1629(寛永12)年に興子内親王が明正天皇として即位したことによってその役目を完了した。 20歳そこそこで政治的使命を完了した和子は、「雁金屋」(かりがねや)という京都の呉服商を通して多くの衣装を買い求めたり、1659年に完成した修学院離宮を舞台に文化サークルを開いたり、後の元禄文化への先駆けを作った。 特にその「衣装狂い」はすさまじいもので、その日本経済に及ぼした影響は大きい。このためアマチュアエコノミストが「江戸時代、趣味と贅沢が市場経済を発展させた」と主張する材料の一つになっている。
 京都の呉服商「雁金屋」には2人の息子がいて、兄の尾形光琳と弟の乾山は修学院離宮を舞台に開かれた文化サークルに参加し、その仕事は後の絵画・陶芸に大きな影響を与えた。
<4><精一杯生きた和子の崩御>
江戸時代幕府と朝廷との力関係のなかで政略結婚させられた2人の女性、和子と皇女和宮、2人ともに精一杯生きた。 東福門院和子の場合は結局幕府の朝廷支配に利用されたのだが、その状況で和子は精一杯生きた。当初後水尾天皇をはじめ朝廷側では強く抵抗していた和子の入内、しかし和子の人柄のせいか、あるいは誠意が朝廷側の人びとの心を動かしたのか、次第に和子への抵抗は減っている。 和子は幕府の財力を利用し、修学院離宮を舞台に文化サークルを開き、これが後の元禄文化へと発展していった。そして「衣装狂い」と言われるほど雁金屋から絹織物を買い込み、それが江戸時代の絹産業発展を刺激し、さらに民間人の伊達くらべをも誘発した。 こうした和子は特にその最期も印象的なので、一部小説から引用することにしよう。
*                     *                      *
 東福門院和子ご最後は、まことにご立派で、崇高なまでに神々しいみまかりぶりであった。
 意識の混濁はみられず、遺志をしっかりと述べられての御臨終を迎えられるのである。
 この日の昼過ぎ、苦しい息の下から、
 「お見舞い忝うござりますが、今より心静かに臨終の時を迎えたく、大変恐縮ながら、尼公にのみ此処にお残りいただき、他はご遠慮願わしゅう存じます」 と仰せ下された。御臨終を看取るべくお詰めの皇子皇女がたも、すべて別室に退かせて、女院は文智尼公と文梅尼だけを枕頭に残された。
 女院御所の誰れ一人も、想像だにしかなかったこの場面に息をのんだ。
 女院と尼公の宿命のお二人が、晩年に心を寄せ合い、親しく往来するのを、周囲は感嘆と好奇の目でずっと見守って居た。しかし女院の実子である内親王方が在しますのに、常識的には最も難しい立場の、つまり継子(ままっこ)の文智尼公に立ち会って死を迎えたいと願われた女院のお言葉が、人々には意外であったのだ。
 この時、修学院でお二人が顔を合わせてから三十三年もの歳月が流れており、その間の女院の仏道への傾斜も含めて、このお二人の精神的レベルの高さは、凡人には計り知れないほどの域に達しておられた。
 和子は生来おっとりと、しかも恬淡とした性格であり、梅宮こと文智尼公に対しても、純粋に真正面から現実を直視あそばれた。詰まらぬ他人の噂や目には一切気にせず、本質だけを見据えて取り上げ、生きてこられた。
 最晩年の寝て過ごされた時間も、死の為の準備期間として無駄にしなかったからこそ、あの大往生は為しとげられたのである。
 透き通って水鏡のような魂になられた女院は、髪こそ下ろさないが、その死の迎え方は高僧の如くであられた。
 [観音経]を、読誦する尼公と文梅尼の声だけが、息を詰めた女院御所の中を流れていた。それは東福門院が死に臨み、西方浄土の御来迎を頼み参らす、心に沁みこむような読経であった。
 静かに読誦が続いていた。合掌して心の中で読誦に加わる御身内の皇族方。
 やがてこの普門品読誦に、弱々しいながらお声が加わった。東福門院御自ら、最後の力をふり絞ってお二人の尼僧の経に、ご唱和あそばれたのである。
 東福門院、文智尼公、文海尼が心を一つにしての読経に、誰もが感動をし、涙した。
 と、不意に女院のお声が途絶えた。時に女院七十二歳。
 怨讐を超え、至高な愛に帰結させたこの場面は、劇的な、と申しても過言でないのに、実際には澄み切った、余りにも静かなあの世への旅立ちであった。
 延宝六年六月十五日 東福門院和子 崩御 享年七十二歳。 (「養源院の華 東福門院和子」から)
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<主な参考文献・引用文献>
小説 東福門院和子の涙                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13 
小説 東福門院和子                        徳永真一郎 光文社文庫     1993. 4.20 
養源院の華 東福門院和子                  柿花仄(ほのか) 木耳社       1997. 9.20 
歴史ロマン 火宅往来──日本史のなかの女たち            澤田ふじ子 廣済堂出版     1990
小説 江戸の花女御 東福門院和子                  近藤富枝 毎日新聞社     2000. 1.15
花の行方 後水尾天皇の時代                    北小路功光 駸々堂出版     1973. 4.15
近世の女たち                             松村洋 東方出版      1989. 6.15
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち               円地文子 創美社       1977.10.25
新・歴史をさわがした女たち                     永井路子 文芸春秋社     1986.11.15
修学院と桂離宮 後水尾天皇の生涯 歴史と文学の旅         北小路功光 平凡社       1983. 6.15
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
江戸時代史 上巻 1927(昭和2)年の復刻版           栗田元次 近藤出版社     1976.11.20 
( 2004年12月27日 TANAKA1942b )
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(3)涙が絹になって尾形光琳・乾山
商売破綻から創作活動へ
<「雁金屋」への莫大な注文> 東福門院和子は後水尾天皇退位の1629(寛永6)年11月、23歳の若さで事実上の後家・隠居の立場にまつりあげられ、夫からも生家からも見捨てられたこの不幸な女性は、それから死ぬまでの50年間にもわたる長い年月をなにを生き甲斐に暮らしていたのであろうか。 それは一言でいえば”衣装狂い”狂気のような着物の新調にあけくれた一生であった。東福門院和子は1678(延宝6)年6月20日に死亡するが(72歳)、この死亡する年の半年間にでも山根有三氏の計算によれば御用呉服師「雁金屋(かりがねや)」に、
  御地綸子御染縫         31反
  御地りうもんノ綸子御染縫    49反
  御地ちりめん御染縫        7反
  振袖御地りうもんノ綸子御染縫   2反
  御遣物りうもんノ綸子御染縫   10反
  御帷子御染縫          96反
をはじめとして都合340点もの衣装を注文している。そのどれも、「御地上々りうもんノりんす」「御地上々りんす」「御地上々類なし」「御地上々ちりめん」といった極上上の地のものだけである。 そしてその総代価は銀になおして150貫目におよんだとのことである(山根有三「尾形光琳について」)。いまこれを銀50匁を金1両、金1両を今日の通貨5万円として試算してみると1億5千万円という額になる。これが72歳の老婆が半年間に雁金屋という御用呉服店につくらせた衣装だからただただ驚くほかはない。 それはまさに”狂気”としか言いようがない。雁金屋のこの帳簿をみつめていると、寒気のなかに荒廃しつくした彼女の心象風景が瞼に浮かび、私はそこに鬼気といったものさえ感ずるのである。
 ちなみに彼女が入内して3年目の元和九年(1623)1年間に雁金屋につくらせた衣装は小袖45点、染物14反で金額にして都合銀7貫868匁(前記のような計算をすると787万円)であるので、彼女の”衣装狂い”は後水尾天皇退位以降、年とともにはげしくなったとすべきであろう。 (「江戸時代」から)
<「雁金屋」の大福帳>
このシリーズ「趣味と贅沢と市場経済」を思い立ったきっかけはこの”衣装狂い”だった。この”衣装狂い”のため貿易赤字が積み重なり、新井白石が指摘したように金・銀が流出し、その後これを改善しようとして絹産業が育っていった。こうしたことから「趣味と贅沢が江戸時代の市場経済を育てた」との発想になった。
 上記、「雁金屋」への莫大な注文のこと、山根有三「光琳関係資料とその研究」からいくつか興味を引く部分を引用してみよう。
雁金屋女御和子(徳川和子)御用呉服書上帳  一冊
(表紙)
┌─────────────────┐
│(印)         (印)  │
│ 元和九年いのとしノ分      │  
│ 女御様めしの御ふく     │    
│ 同 御つかいこそて上申候帳   │ 
│          かりかねや  │
└─────────────────┘
(T注 現物は縦書き、縦長 31.6X23.5 )

一 御ねり嶋小袖       五つ
   壱つニ付九拾五匁つゝ
    代銀四百七十五匁

一 御綾嶋小袖        弐つ 
   壱つニ付八拾七匁五分つゝ
    同百七十五匁

一 御かわり物小袖      三つ
   壱つニ付九十七匁つゝ
    同弐百九拾壱匁

雁金屋東福門院御用呉服書上帳  一冊
(表紙)
┌──────────────┐
│(印)        (印)│
│   延宝六年     留 │
│女院御所様御用       │
│御呉服諸色調上申代付之御帳 │
│          雁金屋 │
│午戊正月〜同九月迄     │
│           宗謙 │
└──────────────┘
(T注 現物は縦書き、縦長 29.2X21.3 ほぼA4の大きさ)

女院御所様御めし(召)
 二月廿七日
一銀五百目  御地上々りうもん(竜紋)ノりんす(綸子)  壱端
     御染縫
御ゑやうハ御ち白左の御袖下より右の御袖下迄波嶋とり」
御かたの方二嶋にいたしひしかのこ(菱鹿子)あかへにかのこ波の下
左の」御身より右の御わき迄滝をなかし嶋とり右の方滝
二通り」はゝ(幅)五寸の水筋五つふより二つふ迄の打ちきゝや(桔梗)
うかのこあいあい」同程つゝきゝやう滝のあいあいあさき
しほり但右の御身御わきより」左の御わきへ立波段々に┐
たゝせあかへにかのこひ(鶸)はかのこ波の内より左より左の」御す
そへ水筋にて嶋取右の方水筋あいあさきしほり(浅葱絞)御上もん
に」二寸七分つゝのきく色々にかさねかけつゝけ金糸へ
たぬい」御まへも同やうすきく(菊)九十一
 1678(延宝6)年の半年間に受けた注文、雁金屋の大福帳には次のように書かれている。
雁金屋宗謙東福門院御用書上
    右御帳壱冊之寄
一 御地綸子御染縫        参拾壱端 但紅裏
一 御地りうもんノ綸子御染縫   四拾九端 但紅裏
一 御地ちりめん御染縫        七端 但紅裏
一 御帷子御染縫         九拾六端 
一 振袖御地りうもんノ綸子御染縫   弐端 但紅裏
一 御遣物地りうもんノ綸子御染縫   拾端 但紅裏
    以上
 (上記雁金屋の資料は『光琳関係資料とその研究』からの引用)
[徳川秀忠大奥関係] 『光琳関係資料とその研究』には徳川秀忠大奥関係のものが多く記載されている。「慶長十七年十月廿七日 徳川秀忠大奥老女刑部呉服支払書」から 「元和五年八月十二日 徳川秀忠大奥局支払書」など、元和九年十二月廿日までのものが記載されている。当時の高級呉服を知るのに貴重な資料になるように思われる。
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<雁金屋のぼんぼん、尾形光琳と乾山> 東福門院和子は雁金屋から衣装を買い求めていた。その雁金屋に2人の息子、次男尾形光琳と三男乾山がいた。光琳と乾山の仕事は日本美術史に残るすばらしいものだ。そこで和子と光琳・乾山のことに少し触れておくことにしよう。
 光琳は、万治元年(1658)に、京都の裕福な呉服商の雁金屋、尾形宗謙の次男として生まれた。はじめ市之丞といい、34歳(元禄4年)ごろから光琳と改めた。5歳下の三男権平が陶器と画に名をあげたのちの深省、すなわち乾山である。
 尾形はもと緒方で、本国は豊後、『平家物語』や『源平盛衰記』に出てくる無精の緒方三郎惟義がその遠祖だという。しかしそれ以後、戦国時代末の伊春までのことは不詳なので、尾形家家系図も伊春を元祖としている。ただ光琳や乾山がそれぞれ惟富、惟充と名付けられたのは、遠祖惟義のあやかったためで、かれらも父からその由来を聞かされていたことだろう。
 二代目道柏のとき雁金屋と号し、三代目宗柏(光琳・乾山の祖父)の代に雁金屋は名実ともに非常な発展をなした。
 一般にそのころは平和が到来して華麗な呉服の需要が急激に高まり、いわゆる桃山染織の花が咲いた時代であるが、雁金屋は、慶長年間は淀君、元和年間は秀忠夫人を最大の顧客として、その一族子女の高給呉服を作ったから尚更であった。宗柏は早くからこの道に入った上に、刀剣のめきき・とぎ・ぬぐいを職とした本阿弥家の血統をうけているから、染織家としても大きな役割を果たしろう。 現在桃山小袖のうちには宗柏の関係したものも含まれているかもしれない。それはともかく、宗柏によって雁金屋の基礎は固まり、財産もおのずから豊かになった。ただ、雁金屋と幕府の関係は秀忠夫人を通じたもpので、茶屋・後藤・亀屋などのような表向きの幕府呉服師ではなかったから、それらの諸家のように、巨富を積んだり、貿易に乗り出すほどではなかった。「謙遜家」と伝えられる宗柏の性格もそれには適しなかった。 その代り、秀忠夫人の信用は厚く、その娘和子が後水尾天皇の女御(東福門院)になると、その呉服御用を命ぜられ、秀忠夫人死後(寛永3年)はもっぱら東福門院御用達となったのである。
 宗柏は母方の叔父光悦が鷹峰のいわゆる光悦町を営んだとき(1615年)、これに加わって間口二十間の居を構えた(この家は宗柏の息子宗謙から乾山に譲られた)。宗柏は、学問を好み、茶の湯を愛し、書を能くしたと伝えられるが、親しく接した光悦から大きな影響を受けたことと思われる。
 また宗柏は、光悦と姻戚であったという節のある俵屋宗達(したがって尾形家とも遠い姻戚)、そうでなくても光悦と深い芸術的関係にあった宗達を知っていたはずである。宗達が、元和七年に秀忠夫人の再建した養源院(浅井長政のための寺)に障壁画を描くにいたったのには、秀忠夫人─宗柏─光悦─宗達という線さえ想像される。なお、もし宗達が織屋俵屋の一族とすれば、染織を業とする宗柏との関係はさらに早く、また密なものがあったろう。 のちに光琳と乾山が光悦や宗達から大きな影響をうける素地は、この祖父宗柏のときに作られたと言える。
 宗柏の息子宗謙は書画のほか能を深く愛し、3人の子供たちにも早くから教えた。その感化で光琳はすでに15歳のとき、「花伝抄」や「装束付百二十番」を筆写し、19歳のときには渋谷七郎右衛門から「諸能仕様覚書」を伝授された。宗謙はよく能の会を開いて、藤三郎や光琳とともに舞ったが、光琳はそのころの能や仕舞の華やかなうちに静かさの漂う雰囲気や、その洗練された美しい形に魅せられたようである。能はかれの生涯の楽しみとなり、またそれによってかれは公卿との交わりを結んだのであった。
 宗謙の雁金屋は母の力で東福門院を顧客とすることができ、寛文から延宝年間にかけて、非常に栄えた。延宝六年(1678)の正月から九月の間に女院関係だけでも、各種の染縫二百反ほど、その合計九十四貫五百八十一匁となっている。しかしこれが絶頂で、この年、東福門院が死ぬと、女院との特殊関係に頼っていただけに、注文もにわかに衰えたようである(特権承認の衰退期にもあたっていた)。宗謙はそのころから貯えた富をもとに金融業の方へも手をのばしたが、老年に達したことと共に、なにか焦りが見えはじめ、長男藤三郎を勘当したりした。
 しかし光琳・乾山がともに商売に向かないのは確かだし、光琳などもとりなしたので、結局勘当を許して家督を藤三郎に譲った。そして、光琳と乾山には、二軒の大きな屋敷と、諸道具や買いためた反物や大名方への資金などを、丁度同じだけ与えた。藤三郎に家業を与えたかわりに光琳・乾山には貸金の手形すべてを譲ったらしい。宗謙は貞享四年(1687)に死んだが、そのとき、光琳は30歳、乾山25歳であった。光琳の母は木下宮内少輔利房の家来である佐野笑悦の娘としか分からない。 (「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
*                     *                      *
<光琳のその後> 和子なき後、雁金屋は長男の籐三郎が継いだがうまくゆかず、光琳は生活費のために絵を描き始める。しかし贅沢な生活は急には変えられず苦しい生活を強いられる。さらに女性関係で問題を起こしたり、京を離れて江戸へ出たり、又京に戻ったりと、生活は安定しなかった。
 光琳画で制作年代の明らかなのは元禄17年の中村内蔵助像1点しかない。 これは、昭和12年(1937)秋に発見されたとき、尾形光琳の唯一の肖像画「藤原信盈(のぶみつ)像」として話題を呼び、やがて像主信盈が絵師光琳のパトロンともいうべき中村内蔵助とわかり、いっそう有名になった作品である。黒の小袖・黒地に白の山字文様の上下(かみしも)・ひざもとに梅と波を描く扇、すずやかな目元・ひざにおくやわらかな手など、能役者を思わせる内蔵助は、いかにも雅びな京の優男(やさおとこ)である。 (「千年の息吹き 京の歴史群像 赤井達郎著中村内蔵助」から)
 その中村内蔵助とは親しいつきあいをしていくのだが、とくに伊達くらべの話はよく知られている。それは、京の東山で富豪の妻子が参会する催しがあったとき、内蔵助の妻は光琳の趣向で、他の女達の華麗な色模様の中へ白無垢を重ねた上に黒羽二重の無地という衣装で出かけ、大評判を得たといわれる。この内蔵助の過奢として有名な逸話「東山の衣装競べ」は、いつ行われたのか。山根有三は次のように書いている。
  「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、 正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる。内蔵助は正徳二年九月から同三年三月まで江戸詰であるから、それ以後の京都在任期のうち、正徳三年と考えられる。もし「東山の衣装競べ」の時期がこのように正徳三年中と認めてよいのなら、その過奢の噂はすぐに江戸にまで伝わり、同四年五月の内蔵助追放の理由の「過奢」として取り上げられたかも知れない。もとより内蔵助の過奢はこの他にも数多くあったのだろう。なお、「東山の衣装競べ」には、光琳による白と黒の美的効果以外に、内蔵助による銀座の同僚(夫人たちも衣装競べに参加した筈)や世俗への皮肉が籠められているように想われてならない。 またそこには「宝永後期の改鋳」に対して、消極的は反応しかしなかった自分への自嘲も入っているかも知れないのだ。とにかく「東山の衣装競べ」は、光琳と内蔵助の合作であり、傑作なのである。 (「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
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<京の着倒れ> 衣装くらべに関しては改めて取り上げるとして、とりあえず次の文章をここでは引用しておこう。
 着物に対する関心の強さは、たとえば井原西鶴の『好色五人女』に「都人、袖をつらね、東山の桜は捨てものなし、行くもかへるも是や此、関越えて見しに大かたは今風の女出立、でれかひとり後世わきまへて参詣(まいり)けるとは見へざりき、皆衣裳くらべの姿自慢比心ざし、観音様もおかしかるべし」(巻三の三)。又、絵島基磧の『傾城禁短気(けいせいきんたんき)』に「吉田院方(揚屋吉田屋喜右衛門)には五五三の高盛、嶋台の松に小判の花咲、衣桁に十二の小袖を掛け、衣着、蒲団錦の山を重ね、一つ家の女郎十一人、衣裳比べの花を競ひ」(五の巻第一)。 又、『武野燭談(ぶやしょくだん)』には、江戸の石川六兵衛と京都の難波屋十右衛門の両妻女のことが書かれ、難波屋の女房は緋綸子に洛中の図を縫あわせた立派なものを着て歩いたが、石川の女房は黒羽二重に立木の南天の小袖を着ただけであったので、見合わせるまでもなく京方がよいと言ったが、よく見ると南天の実は珊瑚珠を砕いてひしと縫いつけさせていたので、これは難波屋の負けと人々が言いあったことが記されている。 『翁草』には、京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が衣裳比べにあたり、光琳の意見に従ったことが記されている。即ち、他の妻女方は唐織りや綾羅錦繍をまとい、又数度の着替えも結構を尽くしたものであったが、内蔵助の妻は、その侍女には他の妻と同じような衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけであった。しかも数度の着替えも全く同じ姿で出て来たので、これが抜群であったと世に沙汰されたという。京都の着物に対する好みを示唆するものであった。現在、京都の有名な祭りである十月二十二日の平安神宮の時代祭りの近世婦人列に、中村内蔵助の妻としてこの姿が執り入れられているのも、京都の立場における「衣」に対する認識と言える。 (「歴史の花かご 井筒雅風著京の着倒れ」から)
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<度重なる幕府の「贅沢は敵だ」のお触れ> 朝廷での東福門院和子の衣装狂いは民間にも広まっていった。それが衣装くらべであり、町人の衣装贅沢は留まるところを知らぬほどであった。それに対して幕府は明暦の大火(1657明暦3)年後の、1663(寛文3)年10月にお触れを出す。
一 女院御所姫宮上之服、一おもてにつき白銀五百目より高直に仕間舗候
一 御台様上之御服、一おもてにつき白銀四百目より高直に仕へべからず
一 御本丸女中之小袖、一おもてにつき三百目より高直にいたすまじく候、それより下之衣類ハ品により弥下直ニ仕へき事右之通、京都、江戸呉服師之輩共にかたく申付候云々 (「図解人物日本の女性史7 江戸期女性の美と芸」から)
 このような通達が以後何度も出るが、町人の「贅沢は素敵だ」の気持ちは変えられない。そしてこうした趣味と贅沢によって江戸時代の市場経済は進化していったのだった。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
山根有三著作集3 光琳研究1                    山根有三 中央公論美術出版  1995. 5. 1 
千年の息吹き 京の歴史群像               上田正昭・村井康彦編 京都新聞社     1994.11      
歴史の花かご 上 人と文化                吉川弘文館編集部編 吉川弘文館     1998.10. 1
図解人物日本の女性史7 江戸期女性の美と芸             相賀徹夫 小学館       1980. 4.10
( 2005年1月3日 TANAKA1942b )
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(4)衣装狂いによる貿易赤字
糸割符貿易の仕組み
<絹・絹織物が主要輸入品目> 江戸時代初期の貿易では絹・絹織物が主要な輸入品目であった。東福門院和子は絹・絹織物消費者の象徴として取り上げてみた。戦国時代が終わって世の中が平和になり、金・銀の産出量が伸び、人びとが豊かになり始めると、先に豊かになれる者がどんどん豊かになり、贅沢品を購入し始める。 その贅沢品が絹・絹織物であった。当時の貿易は「糸割符」との言葉で象徴されるように、絹・絹織物を輸入することが主要な貿易目標であった。 そこで、江戸時代初期の貿易、つまり「糸割符」について調べてみることにしよう。
<家康の決断、白糸割符>  17世紀の初頭、1隻のポルトガル船が長崎に入港してきた。このころの長崎には主に明の船が入港していたし、南蛮船の入港は、松浦郡の平戸ということになっていた。 このポルトガル船には大量の中国生糸が積んであったが、1年以上たってもまだ買い手がつかず、船は長崎に停泊したままであった。  『糸乱記』ではその様子を、「サレドモ金銀イマイゴトク沢山ナラネバ、積来ル白糸買手ナク、両年マデコソ逗留シテ、此船ノ紅毛、一庵老ヘ御願ヒ申セシコソトワリナレ……」と述べている。
 たしかに、打ち続いた戦いで国内は疲弊し、金銀に不自由していたのであろう。この一庵老とは、家康の腹心で、長崎奉行として赴任してきていた小笠原為宗(一庵)である。なんとか生糸を買い取ってもらえないだろうかという、ポルトガル人の要請を受けて、為宗は伏見に上がり、家康に申し出ている。
 家康は堺の10人の豪商を呼び、この白糸を買い取るよう指示した。もし売れずにこのままポルトガル船が帰ることにでもなれば、もう二度とわが国へ生糸を運ぶことはあるまい……、このように考えた家康の、機敏な対応であった。10人の商人は長崎へ下り、白糸を全部引き取ったのであるが、このとき長崎に来ていた京都の豪商一人と、長崎の町年寄一人も、この取引に加わっていた。
 その翌年にも多量の生糸が船で運ばれてきた。これを機会にこれらの商人は、一手売買の権利をお与えくださいと願い出た。家康はこの願いを受け入れ、かれらには次のような奉書を授けた。
  黒船着岸之時、定置年寄共、糸ノ直イタサヽル以前ニ、諸国商人長崎ヘ入ルベカラズ候、糸ノ直相定候上ハ、万望次第商売致ス可者也
     慶長九年五月三日  本多上野介
               板倉伊賀守
 これによって、いわゆる糸割符(白糸割符)法が制定されたわけである(1604)。これにより後は、ポルトガル船が運ぶ生糸の価格と一括購入の特権は京都・堺・長崎の商人(つまり定め置いた年寄りども)に限られることになったし、かれらの交渉が終わらなければ、諸国の商人はポルトガル側との商売が許可されなかった。
  白糸一二○丸……堺
  白糸一○○丸……京
  白糸一○○丸……長崎
 一丸は五○斤であったが、荷の多少にかかわらず、按分はこの数量の一二○・一○○・一○○の割合で行われた。
 糸割符の法とは、政策的には幕府の輸入管理であったが、経済の面では、上質の生糸(白糸)を独占的に購入し販売できるシステムであった。輸入価格は、特定の年寄だけが交渉に参加して決められた。堺・京・長崎の糸割符年寄の下には、何人かの糸割符仲間が置かれていた。糸割符法の施行により、商人だけでなく幕府もまた、輸入からあがる利益を分かちあうことができた。 (「絹Tきものと人間の文化史」から)
<パンカド=ホール・セール>  江戸時代の初期から中期にかけての長崎輸入品の大宗は、生糸であった。寛永十年前後には、一ヶ年およそ30万斤ないし40万斤ほどを、御朱印船・イスパニア船・唐船・蘭船などが舶載した。 生糸は、はじめは自由取引であったが、1604(慶長9)年、京、堺・長崎三都の有力商人が、糸座を結成し、ポルトガル船が舶載する生糸──当時、ポルトガル船は最も多く生糸を輸入していた──を一定価格ですべて買い取ることにさだまった。 ポルトガル人は、この取引をパンカドPancado と言った。平戸のイギリス商館長リチャド・コックス Richard Cocks はその日記で、「いわゆるパンカド、すなわちホール・セール Whole sale 」と言っている。「 Whole sale 」は、全部売却する意味であろう
 資金がどのように出資されていたかは明らかでない。糸座のメンバーだけが出資して買い取り、家康をはじめ後藤庄三郎(光次)のようなかれの側近の政商たちが、その一部を元値で先占的に買い上げることになっていたのか、それともはじめから、かれらも出資していたのか、どうかわからない。 それはともかく、慶長年代には、買い取った生糸は家康がまず手をつけ、側近の者へも配分して、残り糸を糸座に与えることにしていたらしい。配分方法には二段階があって、慶長9年の定めでは、堺のメンバーたちの優位が決められてあり、糸座に与えられる総糸量を、堺へ37.5%、京・長崎へそれぞれ31.25%の割で、まず配分することになっていた。 次に、堺・京・長崎への配分糸量が算出されると、それぞれのメンバーの間では、その糸量を前提として、座の役付きの者(糸割符年寄・糸請払役などがある。より多くの出資者であったろう)が最も多く配分を受け、無役の者(平割符人と言う。少額の出資者であったろう)が最も少なく配分を受けるという具合に、やはり一定の配分率が決められてあった。 このように、パンカドで買い取った生糸を、一定比率に従って配分するのを、糸を割符(わっぷ)すると言った。ゆえにパンカドと糸の割符とは同一ではない。けれども、パンカドを前提としない糸の割符はないから、一般には、パンカドから配分までを一貫して糸割符と理解している。 糸割符商人自身も同様であって、パンカドの場合を糸割符と言い、また糸の配分をも糸割符と呼んでいる。 (「長崎の唐人貿易」から)
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<糸割符仕法の概要>  糸割符仕法は、最初は、長崎におけるポルトガル船との貿易の方法として、慶長九年(1604)に始められた。堺、京都、長崎の三都市から富裕な町人が選ばれて、糸割符仲間と称される株仲間が結成された。これを三ヶ所糸割符仲間と呼んでいる。この株仲間は、ポルトガル船が長崎に持ち渡った種々の品物のうち、白糸と称された中国産の生絲を一括輸入し、これを国内市場へ売り出して得られる利益を得る権利を幕府から与えられていた。
 糸割符仲間の代表者を糸年寄あるいは糸割符年寄りと言い、堺。京都、長崎の各都市の町年寄がこの役を兼務した。ポルトガル船は、通常はマカオから各年六月頃から長崎に来航する。この頃に、各都市の糸年寄は長崎に来て、長崎奉行の指示に従って、ポルトガル船からの白糸の輸入を行う。
 まず、糸年寄は、長崎奉行の貿易開始の指示が出ると、夏から秋にかけて長崎に渡来したポルトガル船側と白糸の輸入価格を折衝し決定する。この行為を色糸値組(しらいとねぐみ)とかパンカドと言う。ここで決められた白糸の輸入価格は、その後、翌年の同時期に改定されるまで一年間適用された。
 そして、色糸の輸入価格が決定すると、色糸以外の品物の輸入が一般の商人に開放される。すなわち、糸割符仕法では、色糸値組によって、その輸入価格が決定されるまで、一般商人の長崎市内立ち入りが禁じられており、色糸の輸入価格が決定した後に、色糸以外の品物の輸入が、輸入承認とポルトガル商人との間の自由売買の方式で許可されたのである。 こちらの自由売買の方式を相対売買法と称している。
 輸入価格が決まった白糸は、糸年寄によって一括輸入され、家康から注文分を差し引いて、その残部を堺120、京都100、長崎100の比率で三都市へ配分される。この比例配分の方法を題糸配分(だいしはいぶん)と言う。三都市に配分された白糸は、各都市の糸割符仲間の構成員へその持ち株数に応じて分配される。そして、この白糸は市場へ出され売られていく。すなわち、白糸の輸入価格と市場への売却価格の差額が糸割符仲間の利益となる。 この利益銀を糸割符増銀(いとわっぷましがね)と言う。もっとも実際には、長崎で一括輸入された色糸は、糸割符仲間の構成員個々へは分配されずに、すぐ売却され、ここに生じた糸割符増銀が三ヶ所いと割符仲間へ所定の比率で配分され、各都市でその構成員へ個々の持ち株数に応じて配当金が支払われる仕組みであったろう。 (「長崎貿易」から)
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慶長3年(1650)唐船70艘の輸入品目、数量表
生糸
白 糸 108,120斤
広南絹糸 20,150斤
ボイル絹糸 5,810斤
絹縫糸 2,306斤
トンキン生糸 30,500斤
ふしいと 18,700斤
生糸計 185,586斤
織 物
りんず 79,608反
しやあや 27,826反
ちりめん 12,490反
北絹(黄絹) 655反
1,086反
9,517反
バー 493反
つむぎ 880反
びろうど 414反
どんす 296反
繻珍 66反
海黄 87反
金入りらしゃ 10斤
はぶたえ 11,017斤
さらさ 7,145斤
麻布 4,675斤
らしゃ 52斤
赤色らしゃ 1斤
織 物 計 156,318反
砂 糖   
白・黒砂糖 790,960斤
氷砂糖 6,150斤
砂糖計 797,110斤
皮 革   
鹿 皮 38,773枚
大鹿皮 9,700枚
牛の皮 4,390枚
ロホの皮 8,140枚
皮革計 61,003枚
薬 物   
土茯苓 138,750斤
こしょう 31,900斤
10,750斤
肉桂 1,050斤
その他 488斤
薬 物 計 182,853斤
その他   
明 礬 214,645斤
木 香 8,350斤
うるし 35,400斤
水銀 1,000斤
水牛の角 1,845斤
白色さんご 21コ
白色さんご樹 25束
枝さんご 3本
 この売高 銀15,299貫415匁余  (「長崎の唐人貿易」から)
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<絹はどの程度の贅沢品だったのか? 「江戸時代、絹は贅沢品であった」と言って、それに反論する人はいないだろう。しかし、どの程度贅沢だったのか?ピンとこないかも知れない。歴史問題を扱う場合、事実関係の把握も大切だけど、「当時の人はどのように感じていたか?」を考えることも大切だと思う。私たち21世紀に生きる人は「現代に比べて、不便だった、人権が無視されていた。江戸時代の人はかわいそうだった」と言うことができる。しかし江戸時代の人は21世紀を知らないし、考えもしなかったろう。 「村の古老から聞いていた室町、戦国時代に比べて、今は良い世の中だ。家族は夫婦子供と一緒に暮らせるし、食事は1日2食から3食になったし、木綿という温かい着物も着ることができるし、武士同士の天下取り戦に巻き込まれる心配はないし、良い世の中になったのものだ」と思ったに違いない。
 大切なことは、「当時の人はどのように感じていたか?」を理解することだ。21世紀の価値基準ではなく、江戸時代の価値基準を考えることだ。ということで、江戸時代の絹はどにような贅沢品だったのか?それを考えてみようと思う。そうしたことに参考になりそうな文章を引用してみた。
『絹の文化誌』から  絹は衣服の材料として古い歴史をもっているとはいえ、これはあくまでも支配階級に属する人たちの衣服についての話である。わが国では、庶民の多くはからむし(苧麻=ちょま)のような麻の繊維で織った衣服を着ていた。麻は植物の茎や幹の皮を細く裂いたもので。その織物を「布」と言い、さらに粗いコウゾ(楮)やシナノキ(科の木)やフジ(藤)の木の皮で織ったものを「太布」と呼んでいた。
 日本の各地に「麻績=おみ」「麻植=おえ」「麻布=あさふ」のような、麻にちなんだ地名が沢山あることからも、麻の方が絹よりも庶民にとっては身近な衣服材料であったことがうかがわれる。わが国で、麻に代わって庶民の繊維となる木綿が普及するのは、江戸時代になってからで、柳田國男が有名な『木綿以前の事』の中で、この事情をいきいきと描いている。
 一方、上流階級の人たちの間では、古代から愛用されている。唐の国からの舶来品が、王侯貴族の手にわたり、平安時代になると、織り方染色も、かなり高度なのもが提供できるまでになっていた。『源氏物語』に登場する人物の服装をみると、豪華な十二単が目に浮かんでくる。しかし、この衣服の材料である絹糸、そして絹糸を吐く蚕を飼う農民たちは、絹物を着ることができなかったのである。
 昔は絹の糸や織物は米と同じように、租税として物納しなければならなかったため、農民は蚕を飼い、糸を繰り、機を織っても、自分では絹を着ることはできなかった。実はこんな時代がつい半世紀くらい前まで続いていたのである。
 享和三年(1803)に出版された上垣守國の『養蚕秘録』という書物の下巻に、
  粉色全無飢食加 豈知人世有栄華
  年年道我蚕辛苦 底事渾身着紵麻
という詩がのっている。作者はわかっていない。詩の内容は、「お化粧もしいないで、毎日毎日苦労して蚕を飼っても、なぜか身につけるのは、ごわごわした麻の衣服だ」というほどの意味である。紵は苧と同じで、からむしのことである。 (「絹の文化誌」から)
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<町人は東福門院和子を真似たがる>  天和三年(1683)正月には「女衣類の製作禁止品目」として、金紗、惣鹿子(そうかのこ)小袖などを禁制品に指定し、同じ年に「町人男女衣類之事」とか「町人の衣類は絹袖、木綿、麻のうち分に応じて選ぶこと」といった内容のお触れが矢つぎ早に出された。ところが数年後にはまた元の木阿弥になってしまう。そしてまた禁令、と江戸時代を通じてこの繰り返しであった。
 延享元年(1744)には「絹袖、木綿布の外は一切用いるべからず、もし着せしを見及ばば、めし捕べきと申付べし」というお触れが出ているが、実際に町人で召し捕らえられた者もいた。天保の改革期に着飾った花見の女たちが逮捕された時の落首に、
  かるき身へおもき御趣意の木綿ものうらまでも絹ものはなし
 というのがあった。軽い身分の者に重い禁令だが、木綿を着ていて、裏地にも絹は使われていない、といった意味であろう。財力のある商人などは、表地は木綿にし、裏地に絹を用いたのであり、そのために裏地のような見えないところに銭をかける粋な風俗が出てきたのである。
 絹と同じようにぜいたく品として、禁令の対象にされたものに、タバコがあるが、これに関連して、 
  きかぬもの煙草の法度銭法度玉のみこゑに玄沢の医者
 という落首が残っている。玄沢の医者というのは、藪医者のことである。この煙草や銭を絹にかえても同じである。
 結局のところ、為政者による奢侈禁令や過差の禁のお触れは、下級階級がぜいたくな衣服を着ることによって、上流階級を真似ることを禁止し、自分たちの地位を保ち続けることに狙いがあったのである。徳川家から後水尾天皇に入内した東福門院の衣装狂いは有名であるが、富を貯えた町人に、これを真似るな、と言っても無理なはなしである。 (「絹の文化誌」から)
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<主な参考文献・引用文献>
絹Tものと人間の文化史                       伊藤智夫 法政大学出版会   1992. 6. 1
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10 
長崎の唐人貿易                  山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館     1964. 4.15 
絹の文化誌                    篠原昭 嶋崎昭典 白倫編著 信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
( 2005年1月10日 TANAKA1942b )
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(5)後水尾院・東福門院の文化サロン
寛永文化への貢献度
<女院は優しく賢い女性だった> このシリーズ、東福門院の「衣装狂い」ということから始めたのだが、東福門院に「衣装狂い」という表現はあまり適切ではないようだ。「彼女は優しく賢い女性で、決して狂ってはいなかった」多くの参考資料を読む内にそのように思い始めた。 徳川家康の政略のためたった14歳で武家の家から宮廷に入り、宮廷では多くの気苦労があったにも関わらず、優しく穏やかな和子は賢く生きた。周囲の人たちと愛し愛され、晩年になっても天皇と円満な生活をおくった。大石慎三郎が表現する「衣装狂い」は不適切のように思える。 そこで東福門院に関する文章を幾つか引用することにした。
<東福門院> 洛北の山荘を訪ねる後水尾院のあとには、必ずといってよいほど東福門院の姿があった。晩年の円満は二人の前半生を思えば、まことに希有なこととしか評せない。入内から後水尾院の譲位に至る朝幕の確執は、想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたであろうが、そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。それが武家の血というものであったのだろう。
 女御とよばれた入内当時から、東福門院のむずかしい立場を支えていたのは、もちろんその経済力である。化粧料一万石といわれる内容は必ずしも確認できないが、もしそれが事実なら、入内当時、禁裏御領全体とほとんど同額の公式的な収入(臨時の収入が実質的には大きかったろう)が女御御所にはあったことになる。東福門院のいささか派手な好みは、生来のものであったにしろ、こうした環境のなかで育てられた面もあったのであろう。
 東福門院のはで好みは京の評判であったという。女院歿後五十年ごろの見聞記にはこんな噂があった(中村氏筆記)。お虎という女性は遠山久太夫の妻で、夫と離別後、三万両を持って京に上がり、その生活は贅沢をきわめた。烏丸光広の妻は細川家の女で、この女性も豪勢であった。これに女院を加えて「三所ニテ、京中ノ小袖模様モナニモ、イロイロ仕リ候」という。つまりニューファッションの源がこの三人であったというのである。
 たしかに東福門院の衣装好きは、その注文書からもうかがわれる。当時京都有数の呉服商であった雁金屋尾形家の史料には女院からの注文書が残されている。 まず入内後4年目の元和九年(1623)をみると、和子自身の着用分と贈答用も含め、また仕立てられたものと生地とを合わせて62点、代金7貫864匁となっている。同じ年の徳川秀忠将軍大奥の江戸からの注文は総額36貫631匁で、東福門院はその約5分の1ということになる。これだけでは多いとも少ないとも言い難いが、東福門院の注文が62点と、相当あったことだけは確かである。
 『近世世事談』に、
 寛永のころ女院の御所にて好ませられ、おほくの絹を染めさせられ、宮女、官女、下つかたまでに賜る。この染、京田舎にはやりて御所染といふ。
とあり、東福門院の注文する染物が手本となって御所染なる流行が生まれたという。御所染の特徴はよくわからない。しかし東福門院の求めた小袖等の絵柄はやはり派手なものであった。東福門院が歿する延宝六年(1678)の注文帳がやはり雁金屋の史料にある。たとえばその第1頁をみると、
  女院御所様御めし
 二月二十七日
一、銀五百目、御地上々りうもんのりんす
       御染縫         壱端
とあって竜紋の下地に染と刺繍をほどこした贅沢な着物であった。その絵柄が次に記されている。 地は白で、左の袖下から右の袖下まで滝を流し、島をおいて右の方は滝を二筋、滝は幅五寸のうち水筋を五つから二つまでとして下に桔梗鹿子、滝の間は浅黄絞り、その他波や島をだんだんに立たせ赤紅鹿子を配し、二寸七分ずつの菊をいろいろに金糸で刺繍し、菊の数は全部で九十一。七十歳をこえた東福門院の着衣としてはかなり派手好みにちがいない。琳派の祖尾形光琳の生まれた雁金屋であるから、この紋様もたぶん琳派風のものだったのであろう。
 この延宝六年の注文帳は東福門院の死によって九月までしかないが、それでも総計すると二百点にのぼり、総額は94貫581匁である。60匁1石で計算すれば、約1580石。膨大な衣装量であったことがわかる。
 東福門院の派手さには反撥もあった反面、羨望の目で見られることも多かったであろう。公家社会よりもかえって禁中の外の世界で東福門院を受け入れる部分があったように思える。寺社に対して数多くの寄進を行い、かつての豊臣秀頼に匹敵するような寺院の創建、再興に力をかしたのも、禁中以外での東福門院の仕事であった。幕府政策の一環といえばそれまでだが、人々の東福門院の経済力に期待は大きかっただろう。 寛永三年(1626)の家光上洛は幕府の力を京都の庶民に強く印象づけるもので、幕府と東福門院のイメージが重なったとき、かえって東福門院は庶民のスターでさえあった。さきにも記した町方における御所染などの流行が、東福門院を機転にしていたというのも、その一つである。また寛永三年十一月十三日、東福門院に皇子が誕生すると、町の人々の祝いの踊りが洛中から中宮御所へとくり広げられた。
  千代も八千代もあおげやあおげや、小松の枝さしそへて、竹の末葉の末々までも
  めでたき御代には下戸もないものじゃ
  上戸おどりは面白や
 と歌声がつづいてという。東福門院は、むしろ庶民にこそ受け入れられていたのである。 (「御水尾院」から)
● 大石慎三郎の「江戸時代」では東福門院の衣装代は「総代価は銀になおして150貫目におよんだとのことである」と書いてあるが、「御水尾院」では「総額は94貫581匁である」とあり、 「小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究」でも合銀九十四貫五百八拾壱匁 とあり、集計すると94貫581匁になる。
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<皇女品宮の日常生活>  後水尾院の生来の文学歌学への嗜好は、長い院生活間の勉強によって磨きをかけられ、心ある皇族公家郡を啓発して伝統文化の振興を巻き起こした。後水尾上皇(後に法皇)を囲む「寛永サロン」ともいうべきグループが古典文学、歌学、和漢連句、能筆(書と絵)、茶道、立花、楽、その他伝統芸術すべてにわたって意欲的に活躍したことはよく知られている。 後水尾院がその総指揮官としてこれらの活動に垂範した様子は熊倉功夫氏によって詳しく研究されている。品宮の日記の始まる寛文六年(1666)頃も院は文芸活動を続け、近衛家に御幸して『詠歌大概』や『新古今集』を講じて歌の詠み方などを基煕(もとひろ)や品宮に教えたり、朗詠の素読を教えたり(寛文六年六月五日、七日条)している。 例を引くと、
  法皇御幸。内府(基煕)、詠歌大概の詠み癖うかがはるる。その外新古今の歌などもうかがはるる。総じて歌の詠み様などの事仰せきかせらるる。准后の御方(皇姉清子内親王)、陽徳院殿、御喝食御所(妹大聖寺殿)なる。此御衆夕方御口(食事)相伴なり。……(寛文六年三月十二日条) (「皇女品宮の日常生活」2後水尾法皇 から)
東福門院
 品宮の日記に現れる女院は、後水尾院がそうであるように、晩年になってからの東福門院である。当然、長年にわたった徳川和子の京都での生活が、以前どのようであったかは品宮の記録からは知ることはできない。しかし穏やかでおおらかな人柄の東福門院が、周囲の人びとから愛されていたことは十分うかがい知れる。 何よりもよくわかるのは女院の周りの人びとに対する公平な心配りである。拝領品について豪放磊落であった後水尾院に比べ、女院は季節の肴や果物もたびたび下賜しているが、その女らしい優しさをもっともよく表すのは衣類の下賜品である。女院は毎年何度か美しい着物を皇室の男性や女性に送った。「女院よりいつもの如く小袖拝領す。いづれも美しき事どもにて眺めている」「美しき春の小袖一重拝領、内府も同じ」「とりどり美しきことどもなり」 というような言葉が毎年数度、暮れと初夏ばかりか他の季節にも現れるが、ある時など二日つづけて美しい小袖をたくさんもらってどれも美しいので、品宮は感嘆して眺めていった。女院はまた、華やかな伊達はものや「今様のお物好き」つまり流行のトップモードが好きだった。
  (前略)今朝女院より、此のごろ世間にはやる由仰せにて、更紗染めに縫い物好きにさせられ小袖たぶ。又鼻紙袋中へいろいろそろへさせられ美しく伊達異なる物どもたぶ。誠にかたじけなさとも嬉しさとも御心ざしのほど浅からず。喜びこの外はあらじととりどり眺むるばかりなり。(寛文十二年十二月二十二日条) 
 品宮は自分の着物を誂えたりしたことも、どんなものを来ているかということも一切日記に書いていないので、彼女の衣装に対する感覚も嗜好も全然わからないし、大体着物などに興味があったのかということさえわからない。自分の服装については無関心だったのか季節の衣替えのことさえ書いていない。東福門院から拝領した着物も芸術品を鑑賞するような見方をしているので、多分普段の服装は地味で保守的だったのだろう。 しかし拝領した美しい衣類には、自然の美しさにみとれるのと同じ感覚で素直に反応している。 
 東福門院は、明るい華やかな娯楽行事で人びとを悦ばせるのが好きだった。将軍家綱から贈られた風領(風鈴)二つ、時計の風鈴と音楽を奏でる風鈴を見せて珍しがらせたり、毎年盆に、女院御所の庭池に無数の灯籠を流したり蛍を放したり、ほうずき灯籠を庭中つりさげたりして人びとの目を楽しませた。東福門院の優美な趣味は今日でも女院御所の奥対面所(崩御後修学院の中御茶屋に移築)の有名な霞棚、その他中御茶屋客殿のしつらえによって見ることができる。
 また、女院は踊りや芸事の上手な若い女中や童女を大勢抱えていて、たびたび法皇の周囲の人びとを招いて愛らしい踊りを見せて喜ばせた。子供たちの踊りや芸は、外の一般社会でも少し後になって少女たちの芸事として大流行したが、これを宮中の娯楽としてはやらせたのは東福門院ではなかっただろうか。
  (前略)夜に入り、女院へなる。みなみなも御伴なり。幼き子たちに今程世間に流行るひょうたん踊りを踊らせてお目にかけらるる。しほらしき事、おもしろさ、いふばかりなし。(寛文十一年)
というような記事が何度か現れる。 
 女院はいつも控え目でやさしく、後水尾院の子供たちや幼い孫たちをよく可愛がった。基煕と品宮の子供たちは、たびたび女院からいろいろな人形や「しほらしきものども」を拝領している。それらは美しい布や袱紗の細工が多かったが(東福門院の押し絵については品宮は何も書いていない)、江戸から来たほうずきや柿栗など素朴な物をきれいな籠に入れて煕子に与えたりしている。 (「皇女品宮の日常生活」2後水尾法皇 から)
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<「人物日本の女性史」から>   和子自身の晩年にも絵画や茶の湯、立花(りっか)などを趣味として、上皇とともに楽しんだであろうことは、これも容易に推測される。千利休の孫の千宗旦は、その生涯をとおして大名に仕えず、清貧をよろこんだといわれるが、仙洞(せんとう)御所には出入りしていた。とくに東福門院のために爪紅(つめべに)の台子(だいす)など茶道具一式を献上し、また女房たちのために紅茶巾(ちゃきん)を工夫したと伝えられる。 それに対して和子は自作の押し絵や貝合(かいあわせ)の貝桶や硯箱などを与えたと言われ、今も京都の表千家には、和子からの拝領品として、能楽の押し絵が伝えられているという。
 ここには和子みずからの生き方として、京都の宮廷趣味にとけ込んだ柔らかで優美な、そしてあまりにもおだやかな生活感覚の現れがあると思う。もともと和子の性格がそうであったのかもしれないが、その立場を十分に心得て、つとめてそのようなあり方で、あるいはやや積極的に、そして意識的にその役割をつとめていったと思われるのである。
 たとえば、さきの堯怨(ぎょうにょ)法親王の弟にあたり、おなじく新広義門院を母とする霊元天皇を、和子は猶子にしていた。また桂離宮を造営した八条宮智仁親王は、和子入内のはしわたしをしたことがあったが、その子智忠親王に前田利常の女、富姫をすすめ、縁組みのため両人を猶子としたのも和子であった。富姫は和子の姉の子々姫につながりがあり、前田家と徳川氏、そして宮廷とのつながりは、和子にとっても望ましいものであったに違いない。
 こうした和子の近親の者への深く優しい思いやりは、京都の宮廷人としての立場からだけではなかった。『徳川実紀』をみると女院時代の和子の動きは、毎年の季節の推移とともに、京都からの様々な祝物、進物となってあらわれてくる。元旦・五節句・中元と続くその挨拶は、たんなる実家への儀礼ではなく、和子のこころのどこかに、十四歳まで暮らした江戸城の生活への愛着が生きていたと言うべきであろう、
 また飴の千姫や勝姫が没したとき、家光の病気見舞いとその葬礼のとき、そして十一歳で父を失い四代将軍に就任した甥の家綱に対するかずかずの思いやりは、和子の徳川家を思う心のあらわれであろうが、女としての和子の優しさが、もっともあざやかに表現されたものとみられるのである。幕府もまた女院和子の存在をつねに忘れなかった。たとえば八月になると必ず、京都では珍しい鮭の贈り物をつづけているのである。
 14歳で京都へ嫁いだ和子が一度も江戸へ帰らなかったというのは、立場のうえからそれができなかったという他に、このような強く温かいえどからの援助があり、心のあったためとも言えるであろう。
 延宝六年六月十五日、東福門院和子は、七十二歳の生涯をおわった。江戸では家門、諸大名をはじめ諸役人が登城して、将軍家綱の御けしきをうかがった。えどの人々の心の中でも、菊と葵の時代の幕が、静かに下ろされるのが見えたであろう。この日から二年の後、御水尾法皇も没した。八十五歳であった。
 女が女として生きることを、時代の求めに応じて、和子ほど自らの役割と一致させた幸せな女は、近世では珍しいのではないだろうか。このように思うのは、筆者が女であるためかも知れない。しいて言えば、ここに女が女を書くことの意味があるのではあろうか。 (「人物日本の女性史」8徳川家の夫人たち 東福門院和子 から)
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<「近世の女たち」から>  「近世の京都は和に始まり和で終わる、と言えますね。男性は破壊の象徴、そして女性は平和の象徴、朝廷と幕府を和で結んだ二人を見て、本当にそう思います」──元京都市歴史資料館長、森谷尅久(かつひさ)さんの言葉である。
 初めの「和」は徳川二代将軍秀忠の娘、和子、御水尾天皇の女御として入内、中宮となる。終りの「和」は光明天皇の娘、和宮親子内親王。幕末の激動に揺さぶられた皇女和宮の短い生涯が、人々の追憶にいつまでも残ったのに比べて、徳川和子の事跡はさほど知られていなかった。 しかし近年、歴史の中で女性の果たした役割に光りが当てられるにつれて、この人の影像は次第に輝きを増している。(中略)
 「譲位に至る朝幕の確執は想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたであろうが、そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。それが武家の血というものであったのだろう」と『御水尾院』の著者、熊倉功夫氏は評している。上皇の仙洞御所と門院の大宮御所では、連歌や茶の湯、華道などの集まりが催され、公家や上層の町衆で賑わった。 これを史家は「寛永サロン」と呼ぶ。本阿弥光悦の多彩な芸術や俵屋宗達の華麗な絵は、こうした交流の中に育った華だった。
 門院はまた衣装に凝り、注文した染め物を手本に「御所染め」がはやった。入内の祭持参した化粧料一万石でぜいたくもできたわけである。心にかけたのは兵乱で衰微した社寺の復興で、仁和寺、大覚寺、清水寺をはじめ数多い寺々が幕府の経済的援助で面目が改まった。その裏にあった彼女の尽力を知ることにつけ、今日の古風の風光に門院がどんなに大きなものを残したかが実感される。
 その優しい思いやりのある人柄は、33人にのぼる御水尾院の子供たちの良い母親となり、3人の親王を自分の子として即位させ、経済面で助けたことにも表れている。中でも、和子入内の直前に天皇と側室の間に生まれ、秀忠が激怒した一幕があって幕府から憎まれていた文智女王のために大和・円照寺を建立して行き届いた配慮が見られた。女王が感謝の気持ちを込めた漢詩には、水に映じた月の姿が「清らかで心ひかれる様は女院様あなたのゆかしさそのものです」と詠まれている。
 延宝六年(1678)72歳で死去。京都市編集の『京都の歴史』は門院を「希有の存在」と記している。 (「近世の女たち」文化の華あでやかに──古都の風光に余香 から)
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<「東福門院和子の涙」から>  しかしながら姫君さま、何か他にお気を外らすものなければお気詰まり、お悲しみはますます深まりゆくだけにござります。 よいことにはこのころより、衣装集めのお楽しみのほうにどうやらその思いを向けられる如くに拝され、これは一つの風穴とも申すべき救いともなったのでござります。
 ひとつには、この雁金屋、姫君さまとは浅からぬ縁にて、と申しますのは、主の尾形宗柏の父道柏どのはもと浅井家の長政さまのおん祖父君に当られます。
 その伝手(つて)にて、道柏どのは淀どの、秀頼、秀頼さま、高台院、京極さまご夫婦、また家康さま秀忠さま、ご一族のご用を相勤められしお方とて、この雁金屋をごひいき遊ばすは、徳川のご威勢をお示しになることでもあったのでございます。
 雁金屋が持参する反物をお選び遊ばすときの姫君さまのお目の輝きを拝しますと、私も思わず笑みが漏れるのでございますが、入内直後は年間六十二点、代金七貫八百六十四匁という高にござりました。
 これは、幕府大奥およそ一千人からの一年分の注文総数が三十六貫六百匁にござります故、姫君さまご用はその五分の一に当たり、そでに相当額にござりましたものが、寛永の半ばごろよりうなぎ上りに上がって行ったのでござります。
 私手許のこの書付は、おかくれになる年のもの故半年分にござりますが、それでも二百点、九十四貫と相成り、石数で申さば一千五百八十石、立派なお旗本のお禄にござります。ついでながら、書付の余りにはそのときご注文の小袖の一枚の柄ゆきも記してござります故、念のためご披露申上げますと、 「竜紋の綸子、壱反」とあり、地白に左袖下より右袖下まで波島、島をおいて右のほうは滝を二筋。滝は幅五寸のうち水筋を五つから二つまでとして下に桔梗鹿子、滝の間は浅黄絞り、その他、波や島をだんだんに立たせ、赤鹿子を配し、二寸七分ずつの菊をいろいろに金糸で刺繍、菊の数は全部で九十一、とござります。
 いかにも華やか、かつ贅を尽したものにござりましょう?
 これがおん年七十二歳の折りのご注文にござりますが、姫君さまはかような派手さがまたよくお似合いになるのでござりなす。お買い上げの品はもちろんご自身のものが多うござりますが、また贈り物とするためのものもあり、私をも含め、おそばの者たちはどれだけそのお恵みにあずかりましたことやら。
 それに、唯一おなぐさみの押絵の枝も年々ご上達になり、おそばの者に下しおかれることも多く、能舞台をそのままに、などのむずかしいものに取り組まれます故、その絵柄の人物衣装の調達もなかなかめんどうにて、かつ費用もかかるのでござります。
 このような姫君さまを指して「派手好み」とか「衣裳狂い」とか、さまざまかげ口きく者あるを知っておりますが、もはや私、それに対して、気の苛立つこともなく、知らぬ顔で打捨ておくようにいたしましたのも、いささかのわきまえ出来たと申しましょうか。
 お衣裳ごらん遊ばすことにより、姫君さま束の間にても憂さお忘れあるは何より喜ばしきこと、幕府より賜わりし門院料一万石は、禁裏の高と同じであり、なおこの上、裏よりはさらにご援助ある御身の身の上であれば、これも一つの、大いなる姫君さまの御運の強さと申せましょう。
 雁金屋、呉服の間に来る日は女院御所色めきたち、華やかに笑いさざめきて美しき衣裳選ぶ風景、またおん前にうずたかく積まれた反物を姫君さま一つ一つお手にとられ、
「これは駿河局によう似合う。常着にしやれ」 
とか、 
「ゆきも思い切って派手なものはいかがじゃ。正月着に雪持笹、これがよい」 
 などど仰せられ賜るときの、われらの喜び、かようなこと考えますと、上皇ご寵愛の女房たちいかに多くとも、皇后宮として堂々たる貫禄と、人々を追従せしめるお力とは、わが姫君さま郡を抜いてご立派なのでござります。
 禁中お儀式の折りなど、女房がた居流れるなか、姫君さまいちばんおあとよりしずしずと門院の座にお出ましになれば、そのお衣裳、お持物、頭に戴く天冠の燦き、に皆々気圧され、深いためいきを吐きつつ仰ぎみりさまを見れば、これこそ私の、会心の笑みと申すべき満足でござりました。 (「小説 東福門院和子の涙」から)
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<主な参考文献・引用文献>
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30 
皇女品宮の日常生活 『无上法院殿御日記』を読む           瀬川淑子 岩波書店      2001. 1.19 
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち              円地文子編 創美社       1977.10.25
近世の女たち 文化の華あでやかに 古都の風光に余香          松村洋 東方出版      1989. 6.15
小説 東福門院和子の涙                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13 
( 2005年1月17日 TANAKA1942b )
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(6)先に豊かになった人への憧れ
トレンド・メーカー東福門院
<東福門院のノブレス・オブリージュ> 東福門院が雁金屋から多くに衣裳を購入したことを「衣装狂い」と表現するのは適切ではないと思う。東福門院は庶民ではなく、当時日本ではただ一人の特別な人であり、歴史を振り返ってもあまりいない特別な立場の人だった。特別な人は特別な倫理基準で判断すべきで、庶民感覚で判断してはマズイ。
 たった数え年14歳で徳川家から後水尾天皇のもとに嫁いだ和子、幕府と朝廷との力のバランスの中でもて遊ばれたわけではあるが、両者の融和のために力を尽くした。幕府から1万石を自由に使えることになっていた。武士は1万石から大名と呼ばれる。その1万石を使って幕府と朝廷との融和のために力を尽くした。 寺院・神社に寄進したり、文化サロンを開いたり、周りの人たちへの心配りなどを通じて穏やかな人間関係環境を作り、それが朝廷での嫌幕府感情を和らげたに違いない。そうした行為の一つが衣装購入であり、その衣装を周りの人たちにプレゼントすることだった。優しい心の東福門院は周りの人達の笑顔を見るのが嬉しかったに違いない。 「東福門院のノブレス・オブリージュ」と理解すると、多額の衣装購入は何も不自然なことではない。東福門院の趣味も生かしながら、幕府と朝廷との融和のために精一杯生きた、と言うべきだろうと思う。
 「趣味と贅沢と市場経済」の元になったゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」では贅沢を満足させるために、贅沢産業が育ったと述べている。江戸時代の贅沢は産業を育てもしたが、朝廷の贅沢が町民にまで広まった、ということに特徴がある。先に豊かになれる者から豊かになって、それに憧れて続いて豊かになった者がいた。 東福門院の衣装道楽は町人の憧れであり、尾形光琳の雁金屋から仕入れた御所染は流行の最先端でもあった。つまり東福門院は寛永文化のトレンド・メーカーでもあったわけだ。
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<東福門院の真似をして「衣装くらべ」「伊達くらべ」>  東福門院が派手な衣装を好んだ、ということは、「幕府と朝廷との力のバランスの中で精神的に苦しい生活だったろう」と心配し、同情する者としては少しほっとする。年齢以上に地味な衣装で一生慎ましやかな生活をおくった、とすると悲しくなる。
 東福門院のトレンド・メーカーについては先週書いているが、もう一度その一部を引用しよう。
  東福門院のはで好みは京の評判であったという。女院歿後五十年ごろの見聞記にはこんな噂があった(中村氏筆記)。お虎という女性は遠山久太夫の妻で、夫と離別後、三万両を持って京に上がり、その生活は贅沢をきわめた。烏丸光広の妻は細川家の女で、この女性も豪勢であった。これに女院を加えて「三所ニテ、京中ノ小袖模様モナニモ、イロイロ仕リ候」という。つまりニューファッションの源がこの三人であったというのである。 (「御水尾院」から)
 トレンド・メーカー東福門院の真似をして何があったか?と言うと「衣装くらべ」とか「伊達くらべ」言われるコンクールあるいはコンペティションが行われた、ということだ。
 その「衣装くらべ」とか「伊達くらべ」言われる事例で現在よく知られているのは、
 @ 江戸に住む石川六兵衛の女房が京へ出向き、難波屋十左衛門の女房と伊達くらべをしてこれに勝った件。
 A 同じ石川六兵衛の女房が「もう相手になる者はいない」と言って、将軍綱吉に伊達くらべを仕掛け、綱吉の怒りに触れて夫婦共々追放、屋敷家財没収の処分になった件。
 B 京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が「東山での衣裳比べ」にあたり、光琳の意見に従って侍女には他の妻と同じような派手な衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけ、という地味な衣装で、これが抜群であったと世に伝えられている件。
 これとは別に衣装くらべが行われていた、ということが江戸時代の文献に幾つか見受けられる。
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<A 石川六兵衛の女房将軍綱吉に伊達くらべ>  延宝9年(1681)5月8日(この年の9月に天和と改暦)、江戸町人石川六兵衛の女房は、将軍綱吉が上野寛永寺にお詣りなるのにあわせて、通り道の民家を借りて伊達比べを仕掛けた。これはこの時代の象徴的な出来事であり、歴史の文献で取り上げられているし、また小説も書かれている。そこで幾つかの文献から関係する部分を引用してみよう。
「伊達くらべ元禄の豪商」から
 延宝九年(1681)五月八日、五代将軍綱吉は上野へ仏参した。この日は前将軍家綱の忌日である。長い行列が下谷大名小路にさしかかると、どこからともなく香の匂いが漂っていきた。それも有りふれたものではない。高価な伽羅をおびただしくたいているようである。
 匂いは当然、乗物の中の綱吉の鼻にも届いた。
 乗り物の両脇には、御側衆、若年寄がついている。そのうしろに御小姓、御小納戸衆が続いている。不審に思った綱吉が、乗物の中から、あの薫りはなんだと聞くと、だれも、どこでたいているのか、わからないという返事である。
 香をたく家は多いだろうが、それが道路にまで強く匂ってくるというのはめずらしい。しかも伽羅である。それでも、綱吉はまだ大して気にしていなかった。
 ところが、香の匂いはだんだん強くなってくる。大名小路から上野広小路に入ると、匂いが出てくる方角まではっきりしてきた。
 広小路は繁華の地で、道の両側は町屋である。匂いはその並んだ町屋の一軒から出ている。行列の者の目は、勢いその方へ注がれたが、間口一杯に開け放たれ、床には赤毛氈が敷いてあり、金屏風その他、結構尽くした調度がしつらえられ、中に美しく着飾った女が、晴れがましい様子で拝礼をしていた。
 それが女主人と見え、ほかに腰元風の女、下女など数人、みな善美を尽くしたいで立ちで控えていた。
 香は、その部屋に置かれた立派な香爐にくべた銘木の伽羅の煙を、下女たちが金箔刷りの扇子であおぎ立てていた。
 その光景は、行列の者の目をむかせるに十分なものだった。さながら大大名の奥御殿を切り取って持ってきたようである。
 将軍の乗物からは外を見ることができる。綱吉も町屋の様子を見て一驚を喫した。いったい何者の妻か。ああして、乗り物を拝見しているところからすれば町屋の者だろうが、それにしてはぜいたく、おごりの度が過ぎる。
 当時の綱吉は将軍職を継いだ翌年のことで、俗な言い方をすれば、張り切っていた。綱紀を粛正し、人倫五条の道を正し、財政を立て直し、節倹をすすめようと考えていた矢先である。あの者たちを召喚してきびしく調べた上、僣上のことがあれば厳罰に処さなければならんと思った。
 「不埒な町人、何者か尋ねて参れ」
 と綱吉は命じた。
 行列には両番組、御徒組などのほか、小人目付、御徒目付などが従って警備に当たっている。側の者からの命令で、早速御徒目付の組頭がくだんの町屋に行って調べると、女は町人石川六兵衛の妻とわかった。
 いったい、将軍の通行の時、その順路はもちろん、横町に至るまで人払いになり、従って制止の声を掛けることもないが、通りに面した町屋に対しては何の構いもなかったという。つまり、戸や窓をすべてとざしておく必要もなく、家々の主人が溝板の上に出て、お通りの節平伏するだけで、その他の家人、女などは店に坐って、別に改まって頭を下げることもなく、 お通りを見物していいのである。だからこそ、六兵衛の妻はそんなことが平気でできたのであろう。
 武家の場合には制限があって、長屋長屋の窓を全部閉じてしまう。主人は門内にあって、お通りの時に、行列の御徒目付、御小人などが、いまお通りですよと声をかけると平伏する定めだったという。
 その町屋は仕立屋で、石川六兵衛の家ではない。一時借り受けただけであった。
 六兵衛の妻は、将軍の目をひくように、舞台や衣装ばかりではなく、香までたいて万全を期したわけである。
 その目的は達せられた。新将軍は彼女の衣装の立派さにおどろいたが、感心はせずに怒ってしまった。これは彼女の思惑違いだったかどうか。彼女は綱吉を、風流で物のわかった、伊達好きな将軍と考えていたのだろうか。それとも、処罰を覚悟の前で、「伊達」をしかけて将軍の度肝を抜いたのだろうか。 (小説「夢魔の寝床」伊達くらべ元禄の豪商 から)
「江戸風狂伝」から  およしは、京での伊達くらべに勝ってきた。
 相手は、那波屋(なはや)十右衛門の妻で、十右衛門の妻は、洛中の名勝を金糸で刺繍した緋の繻子の小袖を着てあらわれた。ほっそりとした躯つきの十右衛門の妻に、緋の色がよく似合って、美しい人形のようだったという。
 およしは、約束の場所へ、南天を染めだした黒の羽二重を着て行った。一見したところでは地味で、伊達くらべを見ようと集まった人々は、こんな衣装を見せるためにわざわざ江戸から出てきたのかと、首をひねったそうだ。
 が、およしの着物の南天は、珊瑚の玉を一つずつ縫いつけたものだった。しかも、透きとおるように白いおよしの肌に黒が映えて、神々しいくらいの美しさだった。人々は、迷わずおよしに軍配を上げた。
 「京からも大坂からも、待っているとのお便りをいただいているのですが」
 やはり、将軍綱吉に、伊達くらべをしかけたいと言う。
 六兵衛は、大声で笑い出した。笑っても笑っても、次の笑いがこみあげてきて、しまいには涙が出てきた。
 大の男が、お家騒動の決着を将軍に咎められるのではないかと思い悩み、或いは将軍の厳しさに戦々恐々として遊びしも出てこられぬさなかに、およしは、その将軍へ伊達くらべをしかけようと、本気で考えているのである。おのが女房ながら、そののんきさが、たまらなく好もしかった。 おしゃれの好きなおよしにとっては、京の那波屋の女房も、伊達くらべを待っているとの手紙を寄越した女達も、将軍綱吉も、みな同じ仲間なのかもしれなかった。
 「やってみるがいい」
 六兵衛は、目頭にたまった涙をふき取りながら言った。
 「伊達くらべをしかける広小路の店は、わたしが見つけてやる。どうしても貸さぬと言うたら、買い取ってやる」
 嬉しい──と、およしは胸の前で手を合わせた。
 「が、言うておくが、将軍様はてごわいぞ」
 「いえいえ、わたしも負けてはおりませぬ。店先には金の簾を垂らし、わたしのうしろには金の屏風をたてまわして……」
 「そうではない」
 どんな罰をうけるかわからぬと言いたかったのだが、六兵衛は、黙っていることにした。(中略)

 店にはすでに緋毛氈が敷かれ、金屏風が立てられていて、石川屋から連れてきた手代が、金の簾を吊しているところだった。和田屋の女中がはこんできたのは白磁の香炉で、石川屋の女中の指図で位置をきめている。
 「こちらの用意はできました」
 と、和田屋の女中が言い、奥の方で小さなどよめきがあがった。およしが居間から出てきたのかもしれなかった。
 店先へは、まず八人の女中があらわれた。緋色に金糸の刺繍がある着物を着て、香木の入った箱を持っている。中に入っているのは、無論、伽羅だろう。左右の香炉に二人ずつ、中の二つに一人ずつが坐り、作法通り、灰点煎をはじめた。
 そのうしろに坐った二人は、やはり緋色の着物をまとっていたが、手には扇を持っている。伽羅の香りを、綱吉へあおぎかれるつもりらしい。
 およしな、伽羅がたかれてから店先にあらわれた。
 きれいだ──と言う、正兵衛の声が聞こえた。
 およしの着物は、涼しげな白地に浜辺を描いたものだった。動くたびに雨が光るのは、ところどころに銀糸の刺繍が混じっているからにちがいない。浜辺の砂は金糸の刺繍で、落ちている貝は、螺鈿の細工のように、光沢のある貝を磨いて金糸の中に埋め込んであった。 間違いなく、ただ一度しか着られぬ着物であった。
 六兵衛に気づいたおよしは、口許をほころばせて店の中央に立った。天女が舞いおりたようだと、六兵衛は思った。
 三保の松原におりた天女に土地の漁師が心を奪われたように、これならば綱吉も、およしに目をとめるにちがいなかった。およしに目をてめて、自分の気のきかぬ身なりが情けなくなって、早く戻れと駕籠をいそがせる筈だった。
 いい気持ちではないか。
 人の頭の上へ手をひろげ、町奉行も作事奉行も抑えたうけ、おじけづかせている将軍へ、小柄で青白い顔をした女が一矢お見舞い申すのだ。
 もっと胸を張れ──と、六兵衛は、自分の躯を反らせて見せた。
 身上など取り上げられても惜しくはない。江戸から追放になってもこわくはない。みなが恐れる将軍に勝てるのは、およし、お前だけなのだ。 (小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
 小説ではこの後、将軍の目に留まり、後日家財没収の上、江戸十里四方追放を言い渡された、ことが書かれている。小説の最後の部分を引用しよう。
 六兵衛は大勢の使用人に暇を出したあと、身のまわりの品を包んだ風呂敷包みを背負い、およしの手を引いて江戸を出た。五月も末になったというのに、雨の気配はなく、今年は空梅雨かもしれなかった。 
 水田には無情でも、旅には都合のよい空模様だったが、品川の宿を出るとすぐ、およしが足をひきずりはじめた。
 「やれやれ」
 六兵衛は、風呂敷包みをおよしの背にくくりつけたかわり、およしを背負って街道からそれた。品川の海が見える草叢に腰をおろすと、陽は暑かったが、風は快かった。
 およしな、草鞋を脱いでいる。緒の当たるところに血がにじんでいた。
 「でも、こんなものを持っています」
 と、およしは懐から紅絹を出して見せた。和田屋で伽羅をたいていた女中の一人が、餞別がわりにと持たせてくれたのだという。
 「や、そんなものがあるなら、どこへでも行けるな」
 六兵衛は、笑っておよしの背を叩いた。親類や親しい仲間からの餞別は、あらたか使用人に配っていまったが、それでもまだ、これだけは風呂敷の中へ入れてくれと言った和田屋正兵衛からの金包がある。
 「京でも大坂でも、お前の好きなところへお供するよ」
 「そうですねえ」
 およしは、草鞋の緒に紅絹を巻いている手をとめて首をかしげた。
 「鎌倉へ行こうかしら」
 「鎌倉か。頼朝公の夢の跡を追うのもわるくはあるまい」
 「それから小田原へ行って、名古屋へ行って……」
 「さあてね、そんな所まで行けるかどうか。鎌倉で働いて、小田原で働くとなると、名古屋へ行くまでに二十年はかかる」
 「お互い、年をとりますねえ」
 およしは、布を巻いた草履に足を入れた。
 「京へ行く時も、こんな風でございました。ところが、歩きつづけているうちに、肌がかたくなってしまって、──面白うございますね」
 これからの人生もおそらく面白いだろう。およしと一緒ならば。
 六兵衛は、のびをしながら立ちあがった。
 「さ、足が痛いかもしれないが、川崎まで行ってしまおうよ」
 素直に立ち上がったおよしへ、六兵衛は、片方の目をつむってみせた。
 「鎌倉へ腰を落ち着ける前に、足の擦り傷も癒さねばなるまいな」
 「箱根の湯へ行くのでございますか」
 およしが目を見張った。
 六兵衛は、風呂敷包みを肩にかけて歩き出した。およしと潮風が追ってきた。(小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
 所払いとなった二人がその後どうなったか?は分からないが、小説としてはこのような悲劇的でない終わり方がこの時代の空気を表現していると思う。「素人歴史家は楽天的である」(森鴎外「伊沢欄軒」)。
「元禄歳時記」から
 杉本苑子の『元禄歳時記(上)』「さんご珠は血の色」では最後が悲劇的に終わっている。
 ──亀屋、石川屋への厳罰が、江戸中をふるえあがらせたのは、それから十日ほどのちである。
 「町人の分をわきまえず、不相応な奢侈にふけった」
 というのが、おとがめの理由だが、直接のきっかけは言うまでもなく、寛永寺への参詣途上、綱吉将軍の鼻先をかすめた高価な焚き物にあった。一つ、たぐれば、ギヤマン天井、金無垢すだれ、能舞台と、 とっこに取れる口実は出てくる。両家はそろって、家産を没収され、江戸十里四方から追放された。
 骨の髄までしみこんだぜいたくくらしを奪われ、一転、乞食の境遇に落ちたお栄が、半狂乱となり、男泣きに、泣いて無念がる石川屋六兵衛と、身をよせた信州の遠縁の家で、最後の夫婦喧嘩をしでかし、興奮したあげく、ありあう刃物でのどを突いて死んだという悲報が届いた。 (「元禄歳時記(上)」さんご珠は血の色 から)
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<丸谷才一の衣装くらべ>  丸谷才一は『忠臣蔵とは何か』で伊達くらべのことを書いている。
 戸田茂睡といふ浪人の書いた同時代史『御当代記』に、こんな話が載ってゐる。江戸の富豪、、石川六兵衛の妻は、京都へ出かけて衣裳くらべをしたほど派手好きな女だったが、天和元年(1681)五月、上野の寛永寺に詣でる綱吉に伊達くらべを仕かけた。すなわち、行列の通る上野の下の町屋を借り、金屏風を立てまはして自分はその前に坐り、結構な衣裳の小間使ひ六人に伽羅を焚かせ、 その伽羅の煙を、外に出て立ってゐる振袖の腰元二人が、通りかかった綱吉の駕籠に金の扇子であふぎかけたのある。このため六兵衛は追放、家財は没収されたのだが、月 罰を受けるかもしれないことは充分わかってゐながらこんなことをするあたり、彼女の芝居っ気はかなりのものだ。わたしはこの話に贅沢とか町人のエネルギーとか自己顕示欲とか、そんなことよりも、まづ演劇的人間を感じてしまふ。六兵衛夫婦は隅田川のほとりに下屋敷を構へ、大名衆や幕府の役人をしきりに招待したといふことだが、その招宴ではきっと、松平大和守の邸と同じやうに役者に藝をさせたにちがひない。 六兵衛の妻が上野でしたことは、赤穂の浪士の場合と違って呪術的要素と結びつく気配はまったくないけれど、しかし命がけの華麗な自己劇化といふ点で四十六人の徒党とよく似てゐるのである。 心中の流行でも見当がつくやうに、芝居心がふんだんにあることは元禄期ないし綱吉の治世の一特徴なのだらう。豊かで平和で安定した時代はどうしても日常生活からの藝術的=儀式的離反を盛んにするし、その結果、幸か不幸か、演劇と実生活との混乱をもたらしがちなのかもしれない。とにかくこれは、飛脚宿の入り婿と見世女郎から、豪商の妻や浪人の一味を経て、征夷大将軍に至るまでに共通する風俗であった。 (「忠臣蔵とは何か」から) 
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<「御当代記」から>  この伊達くらべ、江戸時代に書かれた出典は?と捜してみた。丸谷才一が書いているように『御当代記』がそれらしい。ということで『御当代記』からの文を引用しよう。
 一 延宝八年十三月廿七日、石川六兵衛と申町人夫婦籠者(ろうしゃ)被仰付候、是ハ富貴の町人にて浅草山の宿浅草川のはたに下屋敷をもとめ、大きに家を作り結構の造作を仕、大名衆御役人を招請いたし、おごりを極め申を、兼而上聞に達し候所に、五月八日上野へ御社参の節、右六兵衛が女房かくれなき伊達者にて、すでに先年上方に小べに屋権兵衛と申者の女房だてものなるよしを聞、江戸にハなる善兵衛が女房などだてものと聞たれ共、 中々我にハ及ぶものなしとて、右小べに屋が女房とだてくらべせんとて上方へわざわざのぼりたる程の女なれば、当公方様へもだてを仕、世上に無隠名qをとらんと思ひけん、御成おがミに上野の「下」町の町屋をかり、金の屏風を立廻し、こしもとの振袖の女弐人花の如く出たゝせ、しんミよう六人にもけっこうなる衣装をさせ、台子をしかけ伽羅を夥敷くべ、御駕籠の通り候時に臨て、こしもと二人に金の扇子をもって伽羅の煙をあふぎかけ申候ニ付、誰が妻と御穿鑿有りて右のとをり也。
 一 石川六兵衛を籠者の被仰付候も、総而御仕置きび敷ゆへなれば、当御代になり候て少しの御科あるものも御改易・御追放・閉門あるひハ御役を御とりあげ、延慮の人、町人も少しも家をきれいに立、町屋の門などもひらき門に作り、庭の植木石なども大きなるをかまへたるハ、御とがめにあふ御ふれなれば、俄に家をこぼち庭の木を切、石をほりうめ、人の心さらにおちつけず候、殊ニ庚申の年八月六日大風洪水にて田畑損し、五穀みのらざるに、御代替りなればさらだに城主城主も米をたしなむべきに、 殊更御仕置ききび敷科人多く出来候へば、自然に気短なるものゝ、いかやうの心ありて逆心もあらんかと、世をあやぶミ一しほ米を廻さず候へば、江戸中米の高サ大飢饉のごとし、武具・馬具・鎧・長太刀の外ハ求る物なければ、諸色かつてあきなひなく町人もこまり果申候
 「一 乗物駕籠の御法度出ル、是ハ此以前も候事なれども此度ハ強キ御あらため也、駕籠舁曷命ニ及ト云々」
 校注 『徳川実記』には、この月二十八日条に浅草黒船町の市人六大夫という豪商が八日将軍の寛永寺御成りに家の男女を華麗によそおって出たのを咎め、宅地を没収して追放に処した記事がある。なお『改正廿露叢』には、二十八日に小舟町の商人石川六兵衛の商家に不似いの奢侈を咎め入牢のところ、昨日妻子とも追放、屋敷家財没収の処分と記す。本書の記述は二十八日の処分に先立っての噂をとったものか。 (「御当代記」申年 延宝八年 から)
 『徳川実記』も調べようと思ったが、膨大な文献でどこに書いてあるのか、時間がなく調べつかなかった。見つかり次第引用します。
(^o^)                 (^o^)                 (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30 
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20  
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 元禄歳時記(上)さんご珠は血の色               杉本苑子 講談社       1974.12.12 
忠臣蔵とは何か                           丸谷才一 講談社       1984.10.12  
御当代記 東洋文庫 将軍綱吉の時代          戸田茂睡著 塚本学校注 平凡社       1998.11.11
( 2005年1月24日 TANAKA1942b )
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(7)当世流行の衣装くらべ
伊達もの対決、江戸か京都か
<伊達くらべ、鳶魚の見方──東西の衣装競べ> このシリーズで多くの文献から引用したのだが、江戸時代の文化をテーマにしたら この人を抜きにする訳にはいかない。 ということで、三田村鳶魚の「江戸の生活と風俗」と題された文庫本の「驕妻東西の衣装競べ」から引用しよう。
 天和改革は、寛文度と大いに状況が違っておりました。石六夫妻の処刑を見ましても、様子は知れます。
 小舟町三丁目石川屋六兵衛の女房が、天和元年五月八日、綱吉将軍が寛永寺へ廟参されるのを拝観に出ましたのが一件の端緒で、この女房は中橋上槇町の石屋久三郎の娘、親の久三郎は明暦大火の記を書きました亀岡石見入道宗山でございます。 久三郎は石垣普請の請負で大いに儲けた男、石垣成金であったから、自宅へ能舞台を拵えたり、別荘を持ったり、町人の癖に、平常乗馬を飼ったり、大名暮らしをしておりました。その贅沢な亀岡の家に生まれ、大町人の石六の妻になった。 石六の女房は、江戸中に自分と伊達競べをする女はいない、京都の富豪那波屋金右衛門の妻が衣装自慢だと聞きまして、わざわざ上京いたし、東山で両人が衣装競べをしたが、遂に石六の女房が勝ったという大変は伊達女、京都は織物も本場だのに、そこへ衣装競べに行く。 前にも申し上げました通り、この頃は、西陣もまだまだ、正徳・享保以後の発達に比べれば、幼稚なものでした。延宝度の諺に、「吉原の張りを持たせ、長崎の衣装を着せ、九軒で遊びたい」と申しました。 これは遊女についての諺でございますが、長崎は織物の産地ではありません。そこの遊女が江戸や大坂の遊女に勝った衣類を持っていたと申すのは、長崎は本邦唯一の互市場で、日本にない織物の入口であったからでございましょう。 寛永以来、輸入織物を珍重いたすことが一段と盛んになり、寛文度には唐物屋というものが出来ておりました。輸入織物の愛用が追々と下漸いたしますことも、目立ってまいります。驕妻二人の衣装競べは、国産品ではなく輸入品ですから、西陣や堺の生産とは交渉がございません。 従って、関東も関西もなく、資金次第で手に入ります。その石六の女房が、綱吉将軍の廟参を拝観に出るのに、別に趣向をつけたのではないが、平素華美な暮らしに慣れたままに、自身が着飾っていたばかりか、侍女には緋縮緬の掻取(かいとり)に秋草づくしの模様、三人の童女には唐織の小袖を着せ、下女二人にもはではでしく装わせて、 下谷広小路の仕立屋の店先を借り受け、店一面に毛氈を敷き詰め、金屏風を立てた所へ、ズラリと居並んで、香を焚かせておりました。そこを綱吉将軍が経過されまして、お目に留まり、あれは何者かとお尋ねがございました。 それから、役々へ命令がございまして、御徒頭(おかちがしら)が取り調べますと、石川屋六兵衛の女房と知れました。翌九日、町奉行所へ呼び出されまして、石六夫婦と倅甚右衛門は、江戸十里四方追放になりました。この宣告書には、衣裳法度の違犯を言わずに、山の宿の別荘が身分不相応なもので、常に奢っていた咎による、と書いてございます。 しかし、綱吉将軍のお目に留まって、一件を惹き起こしましたのは、驕妻等の着類で、勿論衣裳法度を犯したものであります。しかし、石六は御用町人であって、別荘も諸役人を招待して御馳走する場所なので、当時の言葉にいたせばテレンというやつでございます。 女房の衣裳法度違犯よりも、このテレンの方が事態が重いので、宣告書には重い方を書いたものでございましょう。記録には、女房以下の衣類を、将軍が見咎められての処刑だ、と書いたのが、二三のみならずございます。 さて、かような贅沢な女房が出ますのは、町人の奢り、驕商によるのであって、こう商人を驕らせるように何故なったか、時世を検討するためにも、天和改革を知らねければなりません。 その端的を衣裳法度に捉えるのが、便利でございます。その時は、織物も、染め物も、縫物も、寛文以後著しく進展いたしております。これを大略申し述べたいのですが、紙数も尽きましたから、残念ながら他の機会に譲りましょう。 (「江戸の生活と風俗」驕妻東西の衣装競べ から)
<江戸期女性の美と芸>
 衣装くらべは「女性史」という観点からも注目すべき出来事であった。こうした面からの見方も引用してみよう。
 江戸時代初頭における女性の闊達さはほかの時代には見られないほどで、新しい風俗の煙草を吸う女も出れば、街頭に男性をとらえる遊女も現れ、自由奔放の気分に満ちていた。それはまだ粗野の色合いの抜け切れないものではあったが、寛文から元禄(1661-1704)ごろになると洗練された美を描き出すのである。
 尾形光琳が秋草を描いた白の小袖を着たのは、江戸深川の材木商冬木家の妻女である。菱川師宣の「見返り美人」は誰をモデルにしたのであろうか。豪華な衣服や調度に千金を投ずる人のために、西陣の高級織物も発達し、友禅染も発明され、蒔絵や陶芸の進歩も見られたのである。
 江戸浅草に住む豪商石川六兵衛の妻は、江戸ではかくれもない伊達者であったが、江戸には相手になる者がいないというので、はるばる京都にのぼり、難波屋(なにわや)十右衛門の妻と伊達くらべをしたのである。それでもやまず、ついに公方様(将軍)に伊達をしかけて、世間にかくれない名をとろうというので、天和元年(1681)、将軍綱吉が上野の寛永寺の霊廟に参詣したおりをうかがって、山下の町屋を借りて、 室内で名香を焚かせ、金の簾を垂れ、金の屏風を引きまわした前に美女を並べたて、金の扇子で、その香あおぎかけさせた。これを綱吉が聞き咎めて、六兵衛は家財を没収されたうえ、追放された。その妻の寝所の天井にはガラスを張って金魚を泳がせ、寝ながら見ることができるようにしてあったという。生類憐れみの悪令を発すること二十年に及び、大名・小名が一人もこれを諫めることができなかったというのに、六兵衛の妻は伊達をしかけようという、ここに元禄女の代表を見ることができる。
 西鶴が扱った五人女にしても、恋のために命を捨てた女性たちである。終わりを全うした琉球屋のおまんにしても、恋のためには家を捨てて、衆道一筋の源五兵衛のもとに出かけて行ったのである。 (「図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸」 から)
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<伊達くらべ、東西対決>  江戸で将軍綱吉に仕掛けた伊達くらべ、その張本人である石川六兵衛の妻は以前に京で伊達くらべをやっていた。 これは将軍綱吉への伊達くらべに較べれば大胆なことではなかったが、江戸と京との比較で考えると面白い。つまり、それまで江戸は田舎で京が都会だった。大坂から出津された物を「下り物」と呼び、舶来品のようにありがたがった。 当然流行に関しても東福門院がいた京の方が進んでいて、江戸はそれを真似ているだけだ、と思われていた。ところが伊達くらべでは江戸が京に勝ったのだった。江戸の人たちは拍手喝采したのではないだろうか。そのような伊達くらべ、例によって幾つかの文献から引用しよう。
元禄時代の着物の特色
 大名諸侯が天災地変やそれにともなう物価高で生活がいよいよ苦しくなっていくのと相反して、寛文年間(1661-1673)の終わりから延宝年間(1673-1681)の初頭にかけて町人の生活は向上し、これによって婦人たちの着物も大名家族とは違った豪華さを迎えた。 京都の丸山で、江戸の豪商石川六兵衛の妻女と、京の豪商難波屋十右衛門の妻女が桜花咲き乱れるもとで偶然に出会い、その衣装くらべとなった。江戸の妻女の梅の立ち木模様に対して、京の妻女は嵐山の風景を描いたものを着用、どちらもすばらしい身なりであったので雌雄を決めかねていた。 ところが、つぶさに江戸の妻女の着物を見ると、梅の蕾が全部、珊瑚で飾られていて、さすがの京雀も江戸の金持ちには勝てなかったという。この話は延宝年間に起きたものである、と『武野燭談』にみえている。 (「図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸」 から)
那波屋十右衛門の妻
 およしは、京での伊達くらべに勝って戻ってきた。 
 相手は那波屋十右衛門の妻で、十右衛門の妻は、洛中の名勝を金糸で刺繍した緋の繻子の小袖を着てあらわれた。ほっそりした躯つきの十右衛門の妻に、緋の色がよく似合って、美しい人形のようだったという。
 およしは、約束の場所へ、南天を染めだした黒の羽二重を着て行った。一見したところでは地味で、伊達くらべを見ようと集まった人々は、こんな衣装を見せるためにわざわざ江戸から出てきたのかと、首をひねったそうだ。
 が、およしの着物の南天は、珊瑚の玉を一つずつ縫いつけたものだった。しかも、透きとおるように白いおよしの肌に黒が映えて、神々しいくらいの美しさだった。人々は、迷わずおよしに軍配を上げた。 (小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
京での伊達くらべ
 男は、遊びはしなくても商売──事業というものがある。それに全力を傾けることができる。面白いと言えば、これほど面白いことはあるまい。武士なら天下の政治にたずさわるという、これまた至極生き甲斐のある仕事を持っている。女には許されていないのだ。
 六兵衛の妻のような女には、我慢のならないことだ。彼女が衣装に凝り、江戸の名だたる町人の妻と衣装くらべをやり、もう相手がいないというほどになったのも、それほど衣装好きというのではなく、胸中の鬱を散じるには、ほかにいい手段がなかったからなのだ。
 上野や浅草など、社寺詣での時、春の花見、夏の水遊びの時、芝居見物の時など、衣装を見せびらかす機会はいくらもある。一般の物が見たこともないようなものを出入りの呉服屋に命じてあつらえ、頭から足先まで着飾り、伴の女中にも華美な装いをさせて、目抜きの場所に現れると、 諸人が目をむき、あれは石川の女房だ、きょうはまた、徳にすばらしい衣装だなどとささやき合う声を聞くだけでも、胸のつかえが下りる。
 これがまた、同じように張り合う町女房がいて、申し合わせたように、自慢の衣装を着、伴を連れて、さりげなく競い合うということになると、スリルは倍加する。暗々裡の衣装くらべが、どこででも行われている。
 その衣装くらべに、彼女はいつも勝ったという。
 江戸では、もう相手になるものがいないので、いざ、本場の京に行って、京童のどぎもを抜いてやりましょうと思う。彼女にすれば、京女に勝てば本懐なのだ。複雑はことは何もない。要するに勝ちたいのであり、人目を引き、名を上げたいだけである。あとはどうなろうと構ったことではない。……その底には女の深い不満があり、 さらには町人としての、特権階級に対する抵抗があることなど、彼女自身は意識していない。意識すれば、「伊達」というものが濁ってしまう。
 伝えられるところでは、京都の豪商、難波屋十左衛門の女房が古今の衣装道楽であるというので、衣装くらべをしましょうと言い送ったところ、いつでもお相手しましょうという自信たっぷりの返事が来た。
 そこで彼女は自家仕立てのけっこうな女乗り物に乗り、女中共を引き連れて東海道を下った。衣装くらべと言っても、どこぞの屋敷で二人が並び、ファッション・ショーまがいのことをするのではなく、名所旧蹟あたりを互いにさりげなく徘徊して、見物の諸人にどちらの衣装が勝っているか、その評判によって決めようという、優雅な趣向なのである。
 さて難波屋の女房は、緋繻子に京の景色を刺繍で入れた着物を新調して、目に立つところを歩いた。関東の田舎者に負けられるものかとばかり、その衣装は見る人の目をそば立たせるに十分で、これでは江戸者がかなうはずはないと、専らの評判になった。
 これを聞いても六兵衛の女房は別にあわてず、自分の衣装を着て京の名所をそぞろ歩きする。黒羽二重に、南天の立木を染めただけの、一見なんの変哲もないものだった。人が失望して、江戸とはなんと田舎だろうと軽蔑したところ、よくよく見れば、衣装の南天の実の一粒一粒が珊瑚の玉であったので、みながびっくりし、勝負の判定はくつがいされてしまった。
 この伝説は、あまり俗っぽくてつまらないが、彼女が衣装くらべのために、京都まで出張したようなことがあったのは、事実かもしれない。伊達のためなら、遠路もいとわないのである。江戸の女の意地もあったろう。また、京坂が日本の台所なら、江戸は将軍の膝元というわけで、新旧の張り合いもある。関東、関西の対抗意識は、なかなか歴史の古いものだ。 元禄前後までは、なんと言っても関西だが、時代が下がるにつれて、次第に関東の勢いが強くなってくる。だが、経済的にも関西がおくれてしまったのは、明治、大正という頃になってからであろう。 (小説「夢魔の寝床」伊達くらべ元禄の豪商 から)
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<武野燭談から──伊達くらべ> この伊達くらべの出典は「武野燭談」にあるようだ。そこで江戸時代の文章で読むのに苦労するのだが、ここに引用し、江戸時代の空気を感じてもらいましょう。
 商家の者共、大名の真似のしたさに、或いは聖護院宮峯入(しょうごいんのみやみねいり)の伴をし、或いは官家公達に扶持を乞いて、其家来と号し、槍を持たせ、馬を牽かせける様なる奢り重畳して、京に、難波屋十左衛門が女房、江戸にて石川六兵衛が女房など、奢りの余りに衣裳競べにとて、 態々江戸より京へ上りけるに、難波屋が女房、此事を聞くと等しく、緋綸子に洛中の図を縫はせて着たりけるに、江戸上がりの石川が女房、東山辺を徘徊せし日の出立(いでたち)は、黒羽二重に南天の立木の染小袖ぞ着たりける。 是は見合いはするまでもなき、京の方こそ結構なれ。何の衣裳競べぞ。と、例の京童言ひはやすに、彼の小袖を能く能く見れば、南天の実は、珊瑚珠を磨らせて、悉く縫付けさせたるなり。此に至りて難波屋が負けしとなり。是れ延宝の末の物語なり。 綱吉公御代初めに、此石川江戸追放となり、是れより町人と名の付きたる者は、悉く刀を差止められ、衣類は絹、袖の外堅く制禁せられけるに、京都は猶ほも華美重畳して、石垣茶屋と云ふは、名こそこはごはしけれ。河原を見下し、崖作りにして、四壁金襴純子を以て張り、床をば畳を止めて天鵞絨を以て包み、天井をば水晶の合う天井として、水を湛へ置きて金魚を放ち、 障子には硝子にて張り、珍膳美味を尽くして、美女是を配膳す。さる程に高位の人々、さあらぬ富人も、金銀次第の遊興放埒なることなりしを、稲葉美濃守正通、所司代職の時、天和年中禁止せられけるとか。古へは長以が心持の商家多かりしとなり。貞享年中より、全く町人の奢侈天下になくなりしは、珍重の事ぞかし。 (「武野燭談」巻之十四 から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23        三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸      相賀徹夫・児玉幸多 小学館       1980. 4.10 
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20 
武野燭談                             村上直校注 人物往来社     1967. 7.25 
( 2005年1月31日 TANAKA1942b )
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(8)スタイリスト尾形光琳の影響力
京都東山での伊達くらべ
<東山での衣裳くらべ> いくつかの「衣装くらべ」「伊達くらべ」について見てきた。伊達くらべとしてよく知られているのは次の3件。
@江戸に住む石川六兵衛の女房が京へ出向き、難波屋十左衛門の女房と伊達くらべをしてこれに勝った件。
A同じ石川六兵衛の女房が「もう相手になる者はいない」と言って、将軍綱吉に伊達くらべを仕掛け、綱吉の怒りに触れて夫婦共々追放、屋敷家財没収の処分になった件。
B京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が「東山での衣裳比べ」にあたり、光琳の意見に従って侍女には他の妻と同じような派手な衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけ、という地味な衣装で、これが抜群であったと世に伝えられている件。
 この3番目の「東山での衣裳比べ」は『翁草』にあるので、これを引用しよう。
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<翁草>  或人曰、内蔵介世盛りの時、畫師光琳常にしたしく来る。或時内蔵介、光琳に謂て云く、来る何日東山に於て、一家の妻室参會の事有り。某が妻女も出席するなり。定て綺羅びやかなる出會成べし、右に就て能き物数寄有らん。 其の趣向奈何と問、光琳暫く考て爾々と教示す。内蔵介諾て教に任せ、扨(さて)當日に至り、晴れの會なれば、家々の妻室花を粧ひ、段々に端の寮重阿彌が許に来り、乗物を手ぐりにして奥へ昇入れ、数多くの侍女前後をとり巻、静に乗物を出たるさま、唐のやまとの美を盡(つく)し、綾羅錦繍の目もあやなるに、得なら薫り粉々として座に着ば、追々に家々の乗りものを昇入、 徐々と居流れたる有様、何れ天人の影向綺羅天を輝す計なり、などや内蔵介室の遅きと、各待頬ふ處に少し程有て中村の乗物をあないして繰入る。皆皆あはやと彼内室の出立を詠れば、襲う帯付共に黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、 前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。
 内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。 内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩(つらつら)見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。
 其の後内蔵介は島より召返され、剃髪して風竹と號し、漂客と成る。昔に引替たるさまなりし、余も風月の宴に折々出會たる事有しが、世を諷せし中にも、昔の優美残りなつかしき風情も見たり。去れども付け合の句は多分述懐成しも實に理なり。 (「翁草」巻十享保以来見聞雑記 内蔵介の世盛り から)
<スタイリスト尾形光琳の実力> 「東山での衣裳比べ」について「山根有三著作集3 光琳研究1」から引用しよう。
  「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、 正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる。内蔵助は正徳二年九月から同三年三月まで江戸詰であるから、それ以後の京都在任期のうち、正徳三年と考えられる。もし「東山の衣装競べ」の時期がこのように正徳三年中と認めてよいのなら、その過奢の噂はすぐに江戸にまで伝わり、同四年五月の内蔵助追放の理由の「過奢」として取り上げられたかも知れない。もとより内蔵助の過奢はこの他にも数多くあったのだろう。なお、「東山の衣装競べ」には、光琳による白と黒の美的効果以外に、内蔵助による銀座の同僚(夫人たちも衣装競べに参加した筈)や世俗への皮肉が籠められているように想われてならない。 またそこには「宝永後期の改鋳」に対して、消極的は反応しかしなかった自分への自嘲も入っているかも知れないのだ。とにかく「東山の衣装競べ」は、光琳と内蔵助の合作であり、傑作なのである。(「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
白と黒の美的効果
 山根有三はこう書いている。<「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる>と。「白と黒の美的効果」というと川久保玲を連想する。 それとも川久保玲は尾形光琳を研究したのかな?以前仕事で訪れた会社、そのビルにコムデギャルソンCOMME des GARCONSが入っていて、社員は皆真っ黒のスーツなのでショックを受けたことを覚えている。しかし当時はともかく、今では <蝶々> よりはずっと自然に受け入れられると思う。
 東福門院に始まった衣装道楽が、「伊達くらぶ」へと発展し、その美的センスは尾形光琳の白と黒の美的効果を狙ったものへと進化していった。そしてその美的効果は現代へと受け継がれている。
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<伊達くらべの盛行>  こうした伊達くらべ@ABについて、大石慎三郎著「江戸時代」から引用しよう。
 近世初頭、鎖国前もその後も含めてわが国の輸入品の圧倒的大部分は白糸と呼ばれる絹糸および絹織物であった。 豪奢を好むわが国の新興支配階級に、とくにその妻子たちにこのうえもなく絹が愛好されたからである。それは急速に国民の各層にまで伝播したらしく早くも寛永19年(1642)の幕法に「村役人は絹・紬・布・木綿を着てもよいが、 一般百姓は布・木綿以外は着てはいけない」とあるのでわかるように、この段階には絹・紬の使用が一般農民にまでおよび始めていたことがわかる。この傾向は農民的余剰が一般的に成立して、庶民大衆の生活水準が急向上をはじめる四代将軍家綱の後半から五代将軍綱吉の初政時代にかけてひときわ目立つようになる。 金持ちで派手好きな妻女は金にあかせ意匠をこらした衣服をつくって、それを仲間どうしで競いあった。この衣装競争のゆきつくところが、この時代を代表する社会風俗である「伊達くらべ」、つまり「衣装くらべ」であった。
 天和元年(1681)五月、綱吉が五代将軍になってまだ一年たっていないときの話である。彼が祖先の廟がある上野寛永寺に参詣したとき、上野の町を通りかかると、ひときわみごとに飾りたてて自分を迎えている女性が目についた。 彼女は金の簾をたれ、金の屏風をひきまわした前に、これも美しく着飾らせた八人の腰元を従えて立っていた。
 調べさせてみると浅草黒船町の町人石川六兵衛の妻だということであった。綱吉は身のほどをわきまえない者、ということで早速この六兵衛一家を闕所処分(財産没収のうえ追放)の刑にしているが、彼女pの言い分は「自分は将軍の行列に”伊達くらべ”をしかけたまでだ」というのであるから面白い。 衣装くらべも行きつくところまで行ったものである。これよりさきのことであるが、この石川六兵衛の妻は、江戸には自分の相手になる女性がいないというので、はるばる京都にまで”伊達くらべ”に出かけている。このとき彼女の相手をしたのは、京都の小紅屋権兵衛の女房とも、また那波や十右衛門の妻女だともいわれている。
 ともかく石川六兵衛一家は前記のように闕所になったが、それは天下の将軍に”伊達くらべ”をしかけたからで、”伊達くらべ”そのものが悪いというわけではなかった。元禄の繁栄のなかでそれはますます盛んになったようである。
 たとえば尾形光琳の最大のパトロンであった銀座商人中村内蔵介の妻も、伊達女として有名であった。彼女が京都の東山で行われた衣装くらべに、尾形光琳の助言をいれて、みずからは白無垢の着物に羽二重の裲襠(うちかけ)を着、その侍女たちには花のごとく美しく着飾らせたのを従えて、なみいる伊達女たちを圧倒したという話は有名である。 また光琳が、江戸深川の豪商冬木屋の妻女のためにつくった”冬木小袖”は、当時の伊達の到達した美として有名である。
 東福門院和子は皇太后でもあるので、さすがに自ら”伊達くらべ”に出ることはなかったが、このような”衣装狂い”のオピニオンリーダーでもあり、またそれ故に衣装製作技術の最大の育成者でもあった。そして彼女の愛顧のもとで技術をみがいたのが尾形光琳の生家雁金屋であった。 (「江戸時代」から)
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<「女郎十一人、衣裳比べの花を競う」> これとは別に衣装くらべが行われていた、ということが江戸時代の文献に幾つか見受けられる。
 難波西横堀新町の一廓、川流山瓢箪寺に、名題の太夫に揉み込まれし禿、出家して松の上座を許され、今日水上の新談義ありと、夜見世の燈明輝き、寺中九軒の其一ヶ寺、吉田院方には五々三の高盛、嶋臺の松に小判の花咲、衣桁に十二の小袖を掛け、夜着蒲団錦の山を重ね、一ツ家の女郎十一人、 衣裳比べの花を競ひ 、次の間迄に居流れ、千秋万歳の千話箱火燵に、唐織の蒲団を掛け、能化の姉女郎寄掛て聴聞あり。 教おかれし客を泳がし、節供・正月を括りつける方便、退客を留めやう、指・爪・髪・起請の書時、泣いて見せる潮合い、振ると振らぬ床入りの身拵、色道至極の奥義を示され、今日口明け初談義、聴衆は粋の女郎共、頭の白き碩學の遣手、耳を澄まして聞居たる。新艘子擧屋に陞って發願の紐を解き、紅舌を動かし述べられける。 (「傾城禁短気」五之巻第一から)
<西鶴「好色五人女」の衣装くらべ>  「世にままならぬものは情の道」と「源氏物語」にも書き残してある。
 この春は石山寺の御開帳というので、都の人々は連れ立って、東山の桜を見捨て、逢坂山を越えて出かけるのであった。参詣の女たちは、おおかた当世風のぱっとした旅姿で、誰ひとり後の世の安楽を願ってのお参りとは見えなかった。みな衣装くらべの姿自慢、その心には観音様もふき出されることだろう。
 そのころ、おさんも茂右衛門をつれてお寺に参り、この花のように我々の命も、いつ散るもnやらわからない。この浦山の景色をまた見られるかどうかわからない身の上だから、今日の思い出に存分楽しもうと、二人は瀬田から小舟をかりて湖に漕ぎだした。 (「現代語訳 西鶴全集4 好色五人女」人をはめたる湖 から)
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<「トレンドメーカー」「トレンドテーカー」> 経済学の用語で、プライスメーカーとかプライステーカーという言葉が使われる。これを「流行」について使えば、「トレンドメーカー」「トレンドテーカー」となる。 東福門院和子、遠山久太夫の妻のお虎、細川家の女で烏丸光広の妻が当時のトレンドメーカーであったとすれば、石川六兵衛の女房、難波屋十左衛門の女房、中村内蔵助の妻、冬木屋の妻女がトレンドテーカーであったと言えるだろう。 そうしてさらに多くの女性がトレンドテーカーになり、江戸時代初期の流行を作っていった。それはそれまでの時代には考えられない「生き生きとした女性の生き方」であった。江戸時代初期は、女性解放とまでは言わないが、女性が元気になっていった時代であったのは間違いないことだ。
現代の伊達くらべ
こうした伊達くらべ、現代ではどうなのだろうか?と考えると、毎日、繁華街で伊達くらべが行われているのかも知れない。それでも改まって「現代版伊達くらべ」を行ったらどうだろうか? 例えば東京の日比谷公園で、桜の季節、花見を兼ねての「伊達くらべ」。50人ほどの参加者を募って、2時間程度、園内散策、お茶会、などを行い専門家による審査を行う。入賞者にはスポンサーからの商品授与がある。 スポンサーには化粧品メーカー、繊維メーカー、家電製品メーカーなどが参加する。一般人もこれを見て楽しむ。芸能ジャーナリズムや芸能プロダクションが多く取材に来る。江戸時代がブームなら参加者も抽選をするほど多く集まるだろう。 ミスコンテストを女性蔑視のように非難する人もいるようだが、江戸時代の伊達くらべからはそれとは違った、「元気な女性」が感じられる。ということで、現代版伊達くらべは多くの人の支持を受けるだろうと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
翁草1                               神沢貞幹 歴史図書      1970.10.
山根有三著作集3 光琳研究1                    山根有三 中央公論美術出版  1995. 5. 1
八文字屋本全集 第2巻 傾域禁短気             八文字屋本研究会 汲古書院      1993. 3.
日本古典文学大系91 浮世草紙集 傾域禁短気            野間光辰 岩波書店      1966.11. 5
現代語訳 西鶴全集4 好色五人女            井原西鶴 暉峻康隆訳 小学館       1976. 7.31
( 2005年2月7日 TANAKA1942b )
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(9)♪ザッとおがんでお仙の茶屋へ♪
大江戸美少女噂話
<ミーハー的経済学> アマチュア・エコノミストに必要なのは「好奇心」と「遊び心」。東福門院から伊達くらべと話を進めてきた。ここではミーハー的な話を取り上げることにする。それがアマチュア・エコノミストらしい態度だからだ。 その話題とは、「大江戸美少女噂話」。朝廷の話から、豪商の妻女の話になり、それが江戸市井の美少女の話になる。だんだんと庶民に近い話になってくる。ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」では特権階級の贅沢の話で終わっている。江戸時代の「趣味と贅沢と市場経済」では一部特権階級の話が、庶民の段階にまで広まって行く。 これが特徴だ。ということで、例によっていろんな文献から、江戸の美少女の話を引用しよう。初めは、「笠森稲荷のお仙」から。
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<お仙の茶屋>
♪♪ 向こう横町のお稲荷さんへ、一銭あげて、ザッとおがんでお仙の茶屋へ、
腰を掛けたら渋茶を出して、渋茶よこよこ横目で見たらば、土の団子かお団子団子、
この団子を犬にやろうか猫にやろうか、とうとうとんびにさらわれた ♪♪
 この江戸の童歌はよく知られていて、いまでもうたわれる。歌のなかに出てくる「お仙の茶屋」が、谷中笠森稲荷の門前にあった。鍵屋という水茶屋で、その店の看板娘がお仙(お千)である。
 鍵屋の主は五兵衛というもので、お仙はその娘であった。明和六年(1769)にお仙は十八という娘盛りであった。「美なりとて、皆人見に行く」と、大田南畝の『半日閑話』にある。
 お仙はたいした評判で、同書によると、錦絵の一枚絵、あるいは草双紙・双六・読み売りなどに、その艶姿が出て、手拭にも染められた。芝居にもとりあげられ、またいっそうの人気をあおった。 (「図説人物日本の女性史7」多岐川恭著「笠森お仙」 から)
 明和のころ、江戸の市井では「評判娘」といわれる美女たちが注目を集めていた。美女といっても、遊女や女形役者ではない。その多くは、盛り場などの水茶屋で働く美人の茶汲女であった。
 谷中笠森稲荷の鍵屋お仙、浅草寺(せんそうじ)境内の本柳屋お藤、同境内の茶屋のおよしらが特に有名で、のちに明和の三美人と称された。なかでも、薄化粧の自然美のお仙と、化粧のやや厚い都会美のお藤は大評判で、江戸の美女一、二を競った。 人気の評判娘は、絵双紙や芝居などの題材にもなり、鈴木春信らが描く錦絵は飛ぶように売れた。さらに寛政期には、喜多川歌麿らが描いた高島おひさをはじめ、難波屋おきた、菊本おはんの、いわゆる寛政の三美人が、世人にもてはやされた。 (「ビジュアル・ワイド 江戸時代館」竹内誠著「江戸の美人たち」 から)
 ところで、三美人の筆頭、つまり当世風に言うなら「ミス江戸」の椅子は、どうやらお仙のものであったらしい。 稲荷参道の水茶屋で、来客に茶を供し菓子を運ぶこの娘は、浅草境内で石臼を回し揚枝を商ういま一人の娘はと、絶えずその美貌を競わされている。しかし、当時流行の「娘評判記」の類が、およそ軍配を上げるのは、お仙の方であった。 たとえば『江戸評判娘揃』は彼女を一位に選び、『新板風流娘百人一首見立三十六人歌仙』もまた、大極上上吉にお仙を据えていた。さらに、大田南畝や伊庭竹坡、あるいは加藤曳尾庵など好事家たちの筆も、惜しみなく彼女に江都第一の美女の誉れを与えている。
「お仙」の名が、文献の上に初めて現れるのは、明和二年であるという。その年の数え歌の中で、「八つ谷中のいろ娘」と歌われたのがそれ。そして、同五年には、狂言の中島三甫蔵の科白に、「采女ヶ原に若紫、笠森稲荷に水茶やお仙」とその名を読み込まれ、また、ほぼ同じ頃から、錦絵や、双六、手拭いなどに、その絵姿が頻出するようになった。 大田南畝の「半日閑話」は、「お仙十八歳、美なりとて、皆人見に行く」と伝えている。
 ここで、私どもは、一つのことに気付かされる。すなわち、明和の美少女「お仙」は、お仙ばかりではなく「お藤」やその他の娘たちもそうなのだが、彼女たちは、「物語の種子」となるような格別の事件とも無縁に、従って物語的興味を煽るべき何らの趣向とも関係なく、ただ、その美しい姿形だけが注視されたのだった。 ひたすらに見える姿の美しさが話題となり、そのさながらの姿態に人々の視線が吸い寄せられる……。そして、このことが指し示すのは、「物語」を解体し、「映像化された身体」という形で「断片」を浮上させる、江戸後期のまなざしに他ならない。(中略)
 さて、このあたりで、私どもの視線を、いま一度、明和の娘たちに戻そう。先に触れたように、お仙やお藤の名声は、格別の事件とも、あるいはそれを種子として枝葉を繁らせた物語とも無縁であった。ただ、人々の見開かれた目に、美しい肢体として像を結び、それが市井の噂の中に浮上してきたのだ。 彼女たちは、何よりもまず、とび切りの美少女として衆の目をそばだたせる。そして、噂に高い美女ぶりに一目触れようと蝟集する好奇の視力は、彼女らの姿・形を、さながら一枚の絵のように切り取ってその美形ぶりを鑑賞し始めるのだ。こうして、生身の娘たちのたたずまいが、飽くなく見ようとする視力で「お仙」や「お藤」という一枚絵に変貌させられたとき、彼らの一瞥を、画面に引き移して、美しく紙面に摺り着けて見せたのが、錦絵作者、とりわけ、鈴木春信だったということになる。  (「大江戸漫陀羅」本田和子著「美少女へのまなざし」 から)
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<江戸の町娘おしゃれ革命>  今から230年前、浮世絵師鈴木春信は、その頃江戸で評判だった3人の美人を描いた。3人の美女とは、役者で女形で大評判の瀬川菊之丞。谷中・笠森いなり門前にあった茶屋の看板娘お仙。それに浅草の楊枝屋の娘、柳屋お藤であった。 のちにこの3人は「明和の三美人」と称された。このほか明和の評判娘は、浅草の茶屋の娘とされる蔦屋およしをはじめ、おりん、おそでなどが有名で、いずれも20歳前後の町娘である。
 3人の中で特に評判が高かったのが笠森お仙で、その名は明和年間(1764-72)に江戸じゅうに知れ渡った。化粧、髪型、履物からかんざし、櫛などの装飾小物に至るまで、江戸の町娘のおしゃれ革命は、このお仙の登場から始まった。(中略)
 お仙の名を一躍有名にした鈴木春信は、当時、美人画で名高かった浮世絵師である。その春信が谷中にある感応寺の笠森稲荷門前の茶屋に立ち寄った折、そこで参詣人にお茶を注いでいる茶屋娘お仙の姿を見て、その美しさに心惹かれた。
 それまで吉原の遊女などを題材にたくさんの美人画を描いていたが、そうしたいわゆる商売用の美しさではない、素朴で清楚な美しさをお仙に見出したのだった。そして、お仙をはじめとする町娘を描くことを決意したと伝えられる。
 お仙は当時十八歳。田畑が広がる中に寺社があるだけの江戸の端、谷中の農家で生まれ育った。
 お仙と出会った頃、春信はいくつもの色を重ねた浮世絵、「錦絵」の絵を手掛け始めたところだった。その錦絵の特徴である精巧さ、華麗さを生かしてお仙の姿を色鮮やかに描き、それが版木に彫られ次々に摺られていったのである。
 それまで普通の町娘を描いた美人画というのはなかったので、人々に大きな衝撃を与えた。評判は評判を呼んで、一回で二百枚は摺られたと思われるお仙の美人画は、刷り上がるのをまって飛ぶように売れた。また茶屋は江戸のはずれのあったにもかかわらず、お仙を目当てにやって来る人々で賑わった。
 茶屋の娘にすぎなかったお仙の人気が沸騰したことで、江戸には次々と町娘のアイドルが登場する。
 当時、江戸で人気のある美人の名前、容貌、評判そして居場所などを記した「娘評判記」と総称される読み物がたくさん出版された。そのうちの一つ「江戸評判娘揃」の中で、お仙は「大極上上吉」と、最高の格付をされている。
 お仙の人気は男性だけではなく、女性の間にも広がっていった。「美しくなりたい」と願う女性たちは、春信が描いたお仙の絵を見て、そのファッションを取り入れることに夢中になるのである。櫛やかんざしなど、お仙と同じ物を身に着けたいと思う娘たちのために、お仙関連商品も売られるようになった。
 蜀山人の名で知られる大田南畝の「半日閑話」、明和六年(1769)の条に、「……錦絵の一枚絵、或いは絵草紙、双六、よみ売等に出る。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日之時、人形に作り奉納す。……」とあるのを見ても、あっという間にお仙がアイドルとして江戸じゅうに広まった様子がわかる。 (「NHKニッポンときめき歴史館」>江戸の町娘おしゃれ革命 から)
時代が変わっても失われないおしゃれ心  天明七年(1787)、老中松平定信による寛政の改革が始まり、人材登用、財政節約、農村新興などと同時に風俗取締りも掲げられた。質素倹約を命じ、町娘が自由に楽しんだおしゃれも、その取り締まりの対象となる。
 華美な服装や髪飾りを禁じる様々なお触れが相次ぎ、寛政七年(1795)には、女髪結禁止令が出される。女性が髪を自分で結わないのはぜいたくであるとし、女髪結は転職を命じられ、違反する者は厳しく罰せられた。
 さらに、美人の姿を広く伝えることでおしゃれブームを巻き起こした浮世絵にも、厳しい規制が加えられた。絵の中に娘たちの名前を書くことを禁じ、ファッションリーダーが生まれないようにしたのである。
 しかし、この改革はあまり効果を見ず、江戸の女房、娘たちは女髪結を家へ呼んで、「知り合いに頼んだ」として秘かにおしゃれを楽しんだりした。江戸庶民のしたたかさが、こんなところにもあらわれている。
 そうした中で、一世を風靡したお仙の名もしだいに人々の話題にのぼることがなくなり、手鞠歌の中に残るのみとなった。
「向こう横町のお稲荷さんへ一銭あげてざっとおがんでお仙の茶屋へ……」
 この手鞠歌は江戸時代から明治、大正、昭和と長く歌い継がれ、お仙に対する親しみを後世の人々の心に残した。
 それは「おしゃれをしたい」という人々の気持ちが、厳しい寛政の改革の中でも失われることがなかったからかもしれない。 (「NHKニッポンときめき歴史館」>江戸の町娘おしゃれ革命 から)
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<大田南畝「半日閑話」>  「大江戸美少女噂話」、当時はどのように噂話になっていたのだろうか?いつもながら江戸時代の文章、読み辛いのだが、これで当時の空気を感じて頂きましょう。
◆笠森お仙、お藤 谷中笠森稲荷地内お千(18歳)、美也とて皆人見に行。家名は鎰屋五兵衛也。錦絵一枚絵、絵草紙、双六、よみ売等にいづる。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形に作りて奉納す。 (明和五年五月堺町にて中島三甫蔵がせりふに云、采女が原に笠森いなりに水茶屋お千と。是より評判有、其秋七月森田座にて中村松江おせんと成る)
浅草観音堂の後、いてうの木の下の楊枝見せお藤も又評判あり、いてう娘と称す。錦絵、絵草紙、手拭等に出、よみうり歌にも出る。是より所々娘評判甚しく、浅草地内大和茶屋女蔦屋およし、堺屋おそで、一枚絵に出る。
◆童謡 なんぼ笠森おせんでも、いてう娘にかないやしょまい。(実は笠森の方美なり) どうりでかぼちゃが唐茄子だ、といふ詞はやる。
◆娘評判記 此節娘評判甚しく、評判記など出る。よみ売歌仙などにしてうりあるく。公より是を禁ず。
◆とんだ茶釜 此頃、とんだ茶がまが薬鑵と化したと云ことばはやる。
 按に、笠森いなり水茶屋のおせん他に走りて、跡に老父居るゆえのたはぶれ事とかや。上野山下の茶屋女林屋お筆、もとは吉原四つ目屋大隅といへる妓なるよし。人みな見に行。名づけて茶がま女と云。錦絵に出る。
◆鈴木春信死す 十五日、大絵師鈴木春信死す。(この人浮世絵に妙を得たり。今の錦絵といふ物はこの人を祖とす。明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかゝずして云、われは大和絵師也、何ぞや河原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。 役者絵は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す)
◆桜川お仙 芝愛宕下薬師堂水茶屋の美婦評判有。名付て桜川お仙とも、又仙台路考とも云。(去年あたりか不詳、仙台の産なるや)
(「大田南畝全集」第11巻 半日閑話 から)
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<江戸評判娘揃>   伝え聞婦人。軍中にて名を残せしをかぞふるに、漸く片手を満す。遠きおもんはかりなければ抔(など)と。上下(かみしも)でで羅れたら。何といゝわけを。駿河の不二より。高ひこと葉も高高と。唄三味線の耳には。何白雨(なにいふだち)と。 こちらがふっても。あちらはふらぬ。ふられぬように。あそびこのすが。しゃれものと。呑舞うたへ二つ三つ。ちょっきりこうと是をかう持て。受取たりや其次は。いよ市川と誉めさわぎ。無礼もみんな酒にきせ。きせ綿をあたゝめて。酒をいざや呑もふぞと。引受引受。其時は楚の時。嗚呼面倒な。是何ぞ五十年。女の徳をもふさは。 さもありなむか。仏も元はぼんぶのしるし。開帳場でさへ。女中者内陣へと。側近く拝ませ。麁相は勿論いゝあやまりも。女だけとそれなり。すぜうのしれぬ娘も。稽子なれは。貴人かうけに。お道外取附引附。恋なればこそ。手を取てのたまわく。屋敷のうち迄。眠りながら人耳寄行。婚礼には。呑始じめて男に戴かせ。又左ぎってうに楊弓を射習。 なが袖月夜もの。しんごさ息子かぶ。みなぶらつきの相手なり。亭主に飯をたかせ。摺子木は生きたを掴む。其外かぞふるに。いとまあらんなれど。ながいはおそれ在原の。昔男も思い出され。とても世を送るとならば。女にこそと。寝がへりをして。又れいこくの時。下になるを不思儀と思へは。茶人の女房が。始じめたか。上になる事を案事。 遊女はとつぱづして。男にくらいこませ。じんぜうな口つきでも。蔵も屋舗も。運ばせるを見ては。さりとは広ひ。江戸中で。かくれなき。大和茶の娘揃ひを。よみ売に拵らへ売歩行と。日毎にきかぬ事はなかりき。我も又。いわきならねは。其よしあしをと。早朝から。歩行廻り。今夜は根津に。起きどほし。谷中時分に帰へらんとおもへど。 いやいや飛鳥起ねはならぬ。身のうへと。道を急ひで。笠森にて日暮しぬ。なる程世間の評判大和絵師に銭儲けをさせしも。此娘の連のとくならんと。涎と汗とをぬくひながら。漸やどへ帰へり。じぐちまぢりのいゝ送りの手耳於葉。狼に衣をきせて。古寺へなをせし如く。あれ是とつまらぬ事而斯已おゝく。一ツとしてつかまへ所はなし。 ひやうたんで鯰をおさへるにひとし。嗚呼馬鹿な事に。紙をよごしぬとおもへば。よはりふしたる。枕の夢はさめたり
         海月庵
  明和丑  穐   無骨
江戸評判娘揃惣目録 時行娘之部
 武蔵野の秋広々と 咲乱たる見立茶屋花尽し左如し

巻頭
大極上上吉 鎰屋お勢ん 谷中笠森座 
名にしほふ江戸むらさきと名も高く人々の気にあいこび茶当世の立もの其色深く染たがられますもむりとはさらさらおもはれませぬ行さきざきて評判をききやう
 紫は江戸の手柄や桔梗まで

極上上吉 甲州屋お松 高なわ座 
若ひ衆の目に月夜にはあたまがぶらりしゃらりとそゝり歩行人々にも次第色深く袂の庭も気色に送りさりとは美しくそのひやうばんも高なわの葉鶏頭
 行秋に猶色深し葉鶏頭

大上上吉 玉屋おまん 鷺森座 
いかにもしっとりとやさしく打あかっておとなしく見へますさりとはてい女とふもいふ所はあるまいと見すしらぬもの迄も見ぬ恋にこがれて毎日毎日御噂をきくの花
 風に散あふなげはなし菊の花

大上上吉 住吉屋お富 浅草座 
なる程心も住吉やきれいにさっはりとして人好のあるさりとはおしあわせしせんと色は穂に出てそのたをやかなるやうすは陰なき月影にうつりすなをなる当世風はすゝきすゝき
 行秋を招や風の糸薄

上上吉 万歳屋お政 下谷広小路座 
人々の気にふれ菊は夕暮の秋風は身にしみしみと若ひ衆はとかく内證てつかわれます少しの情に世を送るよりははるかませ菊と夜昼となき評判はきつゐおかほのしら菊しら菊
 白菊や闇にあかるき立姿

巻軸
極上上吉 柳屋お不二 浅草いてふ座 
青柳硯に見へしも誠にことはりなり二町まちでも聞及びまづ柳屋へより風が妻の役は里香がつとめても鷺考いゝふんのないしこなし外にはなし地の乗物にめしてもなかなかひけはせまいせまい見せでもひやうばんはさりとは広ひ秋野のに咲乱れたるおみはへし
 名にめでゝ落馬あぐなしおみなへし
(「洒落本大成」第4巻 江戸評判娘揃 から)
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<あづまの花> とうざいとうざい高ふは御ざりますれど是よりおことはり申上まするとまくのそとの切口上年々かはらぬ役者評判記は見るばかりが百銅のいた事まれに出る吉原ひやうばんきな見た跡が百疋のいた事 爰にあらはす芸子ひやうばん記はわづか小銅で御もとめなされおわかい方には御近所の芸子などはその被成かたにて物いらずに御手に入る法も有と承はればくはしく御らんのうへ右の儀はぢきぢきの御相たいに被成ませ利勘先生此だん申上たく 下手の長口上上牛のせうべん十八丁芝のはてから神田の四ッ谷赤坂かうじ町深川本所浅草下谷すみからすみの若ひ衆へそのためのおことはりすらりっとさやうに明て和らけき年
  いきな月
     しゃれる日
          利勘先生勘当之門弟
                  道楽散人著
たちばな町 路考娘
瀬川菊之丞にいきうつしなるゆへろかう娘と称ずおよそ唐天ぢくはいざしらず日本の地においてこのきみにならぶはあらじ鼻すじ打とふりいろのしろき事ゆきかとあやまたれ 首すじなどははくちやうのとつくりにひとしゆびさきのじんじやうさ浅草くわんおん地内の女yすじに異ならずいきすぎ少もなく物ごしうるはしく義太夫の大めいじん長うたさみせんおどりの上手かみのゆひかたはでならずじみならずわるじゃれはきついきらいしらね 御方は武家そだちと見給ふもことわりぞかし
日本がし 慶子娘
中村富十郎によくにたるゆへ慶子むすめとせうずうそろそろとしまの部に入るといへ共いろつや十五六に異ならずひとへに艶顔すぐれしゆへなるべし せい高くしてほっそりと柳ごし三弦ぶんごの大めいじん少しかうまんのきみあれども是はきりやうと芸とつりあふ故なるべし 一め見る人はあはれ此世へ出たる甲斐に此やう成君とせめて一夜のまくらをかはさば死てもだいじないなど思はざるはなしまことに美女の上の吉也
横山町 里江娘
中村松江によく似たるゆへ里江むすめとせうず唐のやうきひ我朝の小野ゝ小町は当世見し人なければその実しれず今此やうなうつくしい君が又とあらばたて引がしたいどふ共こふともほむるに詞なし此きみに思はるゝ人は前生にどのやうなよきたねをまきしやらん当時の色男たち身だいを棒にふる共 此きみを一生の手がらに手にいれ給はゞまつだいの高名成べしびじんの親玉外にはないぞや
品川 亀音娘
瀬川雄次郎ににたるゆへ亀音娘とせうず芸もよくいひぶんもなけれ共おりおりむかばらをたつ事有又人のはなしのこしをおるか得手もの也何さま心にまがれる所有とみへたり
かうじ町 都巨娘
嵐小式部ににたるゆへ都巨むすめとせうずすこし女太夫といふ身あり手ぬぐひをかたにかけると人のみゝに口をよせてさゝやくがゑて物也 少しわきが有との説なれ共山の手ニてはひやうばんよし
(「洒落本大成」第4巻 あずまの花 から)
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<主な参考文献・引用文献>
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1 
大江戸漫陀羅                        朝日ジャーナル編 朝日新聞社     1996. 5.10  
NHKニッポンときめき歴史館5   NHKニッポンときめき歴史館プロジェクト 日本放送協会    2000. 3.10 
大田南畝全集 第11巻 半日閑話                 濱田義一郎 岩波書店      1988. 8.29 
洒落本大成 第4巻 江戸評判娘揃 評判娘名寄草 あづまの花      水野稔 中央公論社     1979. 4.10
( 2005年2月14日 TANAKA1942b )
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(10)美少女を取り巻く文化人
平賀源内とその仲間たち
<ひろしです> 東福門院和子の衣装道楽から始まり、豪商の妻女たちの「伊達くらべ」へと進み、さらに錦絵に描かれた「お仙」をはじめとする美少女へと話を進めてきた。 ところでこうした傾向は現代ではどうなっているのだろうか?そう考えている内に、こんなことを言う人がいるのに気づいた。
 ひろしです。渋谷のギャルがみんなAV女優に見えるとです。 
 夜、センター街を歩いてみる。「なるほどな」と思う。
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<絵師春信と源内> お仙をはじめとする町娘が話題になったのは、鈴木春信が描いた錦絵の影響が大きい。そしてその錦絵は1765(明和2)年、一気に多色摺りへと進化した。その進化に平賀源内が大きく関与していた。このあたりの事情について芳賀徹著「平賀源内」から引用しよう。
 春信の錦絵創製というのは明和2年のいわば突発的ともいうべき美の開花であった。その突然の開花が生じるには、勿論当年の絵暦ブームのプロデューサー菊簾舎巨川からのさまざまの具体的な注文や指示、また交換会での絵師同士の啓発や競争が、強いうながしになったにちがいない。 だが、またその創製のプロセスにはいずれかの段階で源内の思いつきやヒントが生かされていたというのも、やはり大いにありうることだったのである。
 浮世絵は単純な墨摺りの木版から始まって、丹絵、紅絵、漆絵へと手彩の色数を少しずつ増し、その摺りや彩色の技法もしだいに複雑にはなってきたが、それが紅摺絵という紅と緑を基本にする2〜4色ほどの版彩画にまで進んだのは、1740年代半ばのころ(延享期)であったという。 それから20年ほどは、いくらか色数がふえる程度でその段階で足踏みし、春信自身にしても明和元年まではもっぱらこの紅摺絵を制作していたのだが、それが翌2年からは一挙に美麗な多色摺の錦絵へと転じたのである。
 そのにわかな変化を小林氏は蛹から蝶への華麗な変態(メタモルフォーゼン)にたとえるが、まさにそうとでもいう以外にないような錦絵の誕生には、さまざまの技術上の新工夫と、それを求める新しい美的表現への意欲とが働いていた。 一枚一色の版木を画面に次々に何枚も寸分狂わずに押しあててゆくための「見当」のつけ方の改善、地潰し、空摺り、キメコミといった素材(木と紙)の質をフルに生かした技法の驚くべきソフィスティケーション、胡粉を混じえたしっとりと不透明な中間色の多用、そしてそれらの一枚の上に何回も繰り返される馬連による摺りの強い圧力に十分耐えて応じる良質な奉書紙の採用── ざっとあげてもこれだけの新しい工夫が集中して、あの匂い立つばかりの春信の錦絵は蝶のように舞い立ったのだが、その変態の全課程とはいわずとも、そのどこかで源内のアイディアを貸すということがあったのではないか。
 およそカラクリの類が好きで、その発想にも富んでいた源内、物産学を通じて諸国の物産や種類の顔料にくわしい上に、絵やデザインにももともと心のある源内であった。製作現場の彫師、摺師ももちろん絵師春信とともに、パトロン巨川の意匠を実現するためにありったけの智恵と経験とを傾けたであろうが、それでも制作が行きづまり、失敗が続くようなとき、春信は同町内の、歩いて数十間ぐらいの浪人学者源内宅にふらりと寄って、 中津川座の磁石石や方解石のころがる間に坐って、なにかと相談することもあったのではないか。
「どうなさいました、春信さん、例のお旗本の大小(絵暦)は。……」
「いや、それがね、実は源内先生、例のところがどうもきれいにいかなくって……」
などと、1765年ごろ、日本・江戸の神田白壁町における平賀源内と鈴木春信とのやりとり──古今東西の歴史の上で、これほど魅力的な二人の対話は、ちょっと他に思い浮かばない。
 何にせよもの珍しいこと、抜きんでてあざやかな思いつきや発明は、よかれ悪しかれみな源内のものとしてしまう、後代のあの「源内病」に、万象亭森島中良はすでに罹ってしまっていたのだろうか。しかし源内は、例の「はこいりはみがき嗽石香、はをしろくし口中あしき匂ひをさる」(明和6年)であろうと、あるいは「きよみづもち、りやうごく橋辺新見勢ひらき仕候」(安永4年?)であろうと、江戸町人からの頼みならば、ごく気軽に、はなはだ達者に、 口上書き(CM文)を書いてやるような「才気」と「侠気」に富んだ男であった。同町内の町人絵師春信の絵と才に、三歳ほど年下であろうと源内が惚れ込んで、なにかと智恵を貸し助けてやったということは、やはり「大いにありえた」ことであった。「吾妻錦絵」との命名(ネーミング)さえ、もしかすると源内のものであったかもしれないのではないか。
 春信は明和二年からわずか五年ほどの間に、あのほそやかにコケティッシュな春信スタイルの美少女たちの、八百余点の錦絵で、明和の江戸を、いや1760年代の世界を美しく飾って、同七年(1770)六月、四十五、六歳であっという間に世を去ってしまった。「徳川の平和」を、そのなかで甘く熟した夢を、そのまま宿したような彼の作品は、絵暦のサークルを離れ独立した錦絵として売り出されると、もちろん江戸中の大評判となった。 越前武生の手工業(マニュファクチュア)の特産である奉書紙に、秘技を尽くして摺られ、一枚一枚畳紙に包んで売られたから、それは従来の浮世絵とは段違いに高価であったが、それでもよく売れたという。当時の町人層は懐も肥えたが眼も肥えてきていたのである。
 吾妻錦絵の評判が高まると、さっそくそれを詩に詠んで、それによって自分を売り出すような青年才子も登場してきた。戯名陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、実は幕府の御徒といういちばん下っ端の役人大田南畝(1749-1823)で、その処女狂詩文集「寝惚先生文集」(明和4年)を出版したときは、まだ数えで十九歳の若者であった。
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<鏡餅を上から見た絵を描いてごらん─小野田直武> この時代のキーパーソンは平賀源内と田沼意次だ。天才であり、狂人であった平賀源内、失敗ばかりしていたが彼から影響を受けた人が沢山いる。そうした源内と取り巻く人たちに目を向けてみよう。
 源内は1773(安永2)年6月、秋田へ向かった。秋田藩鉱山技術指導に招聘され、その後何度か江戸と秋田を往復している。藩主佐竹義敦は絵心があり、家臣の小野田直武とともに源内から絵の指導を受けている。その折り源内は直武に言った「鏡餅を上から見た絵を描いてごらん」と。直武は初め意味が分からなかったが、源内は西洋画の手法を直武に教えたのだった。
 角館生まれで角館育ちの小野田直武(1749-1780)が秋田本藩の「銅山方産物吟味役」とも呼ばれる役に任じられ、あわせて江戸勤務を命ぜられて、角館を出立したのは1773(安永2)年12月のことだった。江戸へ来て直武は源内の家に同居し、絵を描いたり、源内を手伝って金唐革を政策したり、司馬江漢と西洋画について話合ったりしていた。その直武が源内の紹介により杉田玄白など『解体新書』翻訳のグループに紹介され、その翻訳書の挿し絵を担当することになる。 そして『解体新書』が1774(安永3)年8月に刊行された。実に短期間の内に直武は挿し絵を描いたのだった。そして、『解体新書』は直武の挿し絵があったからこそ価値があった、と言われている。源内も予想していなかった才能を発揮した。
<『解体新書』翻訳─中川淳庵・杉田玄白>
中川淳庵(1739-1786)は江戸生まれで江戸育ち、本草学者田村元雄の社中で源内と一緒だった。 その淳庵を通して源内と知り合い、生涯最良の友となったのが杉田玄白(1733-1817)であった。その玄白は源内が死んだあとその碑に一文を書いている。その最後の部分を引用しよう。
 嗟(ああ) 非常ノ人 非常ノ事ヲ好ミ
 行ヒ是レ非常 何ゾ非常ニ死スルヤ
 源内はドドネウスの『阿蘭陀本草』を1765(明和2)年に買って、これを翻訳したかった。二度目の長崎留学、それは田沼意次によって幕府の仕事として認められたのだが、結局オランダ語はものにできず、翻訳はできなかった。それだけに、玄白等の『解体新書』翻訳は悔しかったに違いない。しかし源内はそうした感情は出さなかった。「意地が廃れりゃこの世は闇さ」とイキがっていたのかも知れない。 この長崎留学について四年後に書いた源内の手紙がある。
 四年以前、田沼候御世話ニて、阿蘭陀本草翻訳のため長崎へ罷越し候。段々珍書共手ニ入れ、且つ蛮国珍事共承り出で、御国益二も相成り候事共数多御座候。(服部玄広あて、安永二年四月二十五日) (「平賀源内」から)
 こうして源内と意次の関係が浮かびあがってくる。
<日本初の銅版画─司馬江漢>
源内が神田白壁町に住んでいた頃、そこには小野田直武も同居していた。そして鈴木春信も度々通ってきた。そこに司馬江漢もいた。彼は初め鈴木春重となのり、春信の贋作を描いていたが兄貴分にあたる直武の助言で西洋画を学び、後に日本で初のエッチングを始める。源内からすれば孫弟子にあたるということか。 源内の『根南志具佐』に書かれた江戸の風景、それにピッタリなのが司馬江漢の「両国橋図」だ。江漢は絵だけでなく文章も沢山書いている。
<松平定信ににらまれた下役人─大田南畝>
大田南畝(蜀山人)が19歳で「寝惚先生文集」を出したとき、その序文を源内が書いている。
 <馬鹿孤ならず、必ず隣り有り。目の寄る所たまが寄る> 平賀源内は大田南畝の漢詩集「寝惚先生文集」の序で、こんなふうに書いた。「徳孤ならず、必ず隣り有り」徳ある者は孤立しない、必ず同じ類の有徳の者が出てこれを助ける、と「論語」に語るところのパロディだ。徳ある者もあつまるだろうが、馬鹿もまたあつまる。天明文化は、賢人ならぬ馬鹿が寄りあつまって出来た文化だ、という達見であった。(「江戸の想像力」から)
 南畝は売れっ子の作家になるが、田沼の時代から松平定信の時代になって、寛政の改革を皮肉った有名な狂歌「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といひて夜もねられず」によって、幕府からにらまれ大田南畝としての活動をやめる。その後は蜀山人と名乗って、役人と作家とを両立させながら地味に生きていく。
 源内にその処女出版作の序文を書いてもらった南畝は、山東京伝の処女作黄表紙「開帳利益札遊合」の序文を書く。この分野でも源内の孫弟子が生まれる。
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<市場を信頼した─4沼意次> 田沼意次が幕府の中心にいて政治を行っていた時代は、江戸時代にあって不思議な時代だった。幕府の政策の基本は「贅沢は敵だ」だった。程度の差はあっても常に倹約を奨励していた。このため奢侈を理由に家財没収・所払いになった町人は多い。そしてその中心には儒教や朱子学があって、外国文化の影響を嫌っていた。 ところが田沼の時代は違っていた。杉田玄白の表現を借りれば「なんとなく明るく、自由な時代」だった。源内のような天才で狂人という不思議な人間が生きて行けたのも田沼の時代だったからで、杉田玄白等の『解体新書』が出版できたのも田沼の時代だからであり、大田南畝が活躍できたのも田沼の時代だったからだ。
 江戸時代は町人が先に豊かになり、その豊かさを味わい、贅沢を楽しんだ。それに対して幕府はそれを抑え質素・倹約を奨励した。町人が趣味と贅沢で市場経済を発展させ、幕府がそれを儒教や朱子学、プロテスタンティズムの倫理などで押さえつけようとした時代だった。そして市場の勢いを抑えようとしたのが、新井白石・将軍吉宗・松平定信・水野忠邦であり、 その反対側にいて市場の力を生かそうとしたのが田沼意次と徳川宗春であった。
 「徳孤ならず、必ず隣り有り」はこの時代、源内と意次を考えるとピッタリの言葉だ。松平定信が意次を追い落としても、それだけでは「田沼の時代」は終わらなかった。それは意次一人だけで作って行った時代ではなかったからだ。そして源内も失敗ばかりしていたが、多くの人を刺激してすばらしい文化の花を開かせた。利己的な文化の遺伝子「ミーム」が東福門院から伊達くらべの豪商の妻女に感染し、 お仙をはじめとした天明の美少女へと感染して行った。そしてこの時代源内からの「ミーム」が実に多くの人々に感染していった。こうしたミームというウィルスの繁殖を抑えようとした「贅沢は敵だ」の幕府の政策があったけれども、江戸時代を通じてミームは増殖し、やがて時代は明治維新へと進んでいったのだった。
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<主な参考文献・引用文献>
平賀源内                               芳賀徹 朝日新聞社     1981. 7.20 
平賀源内を歩く 江戸の科学を訪ねて                 奥村正二 岩波書店      2003. 3.25
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
江戸の想像力                            田中優子 筑摩書房      1986. 9. 5
( 2005年2月21日 TANAKA1942b )
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(11)先に豊かになれた豪商たち
特権階級相手の商売から町人相手へ
<豪商と呼ばれた豊かな人たち> 江戸時代、先に豊かになれた人たちの中に豪商と呼ばれる人たちがいた。その中でも紀伊国屋文左衛門の名前だけはよく知られている。ここでは江戸時代の豪商について幾つか引用することにした。 象のことを知ろうと思って、目を瞑って象を撫でるとしたら、なるべく多くの所を撫でるのがいい。豪商についてもいろんな見方があるだろうから、同じようなことでも多くに人の見方を知っておこうと思う。
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<倫理観でも多視的な日本人>  江戸時代の豪商三井家には「商人に限らず、儒仏両道に心得、一向仏道にかたより候へば、家危うく成候事」とか「商人は賢者に成ては家衰ふ」という家訓が残っていた(三井高陽『越後屋反古控』)。 儒教にせよ、仏教にせよ、あまり深く信心すると家がダメになる。また、学問をやりすぎて賢人になったら家が衰える。そういう教えの中に、要するに神も仏も、適当に信仰していればよろしい、という現世的な思いが強く流れている。おそらく、西鶴の天理・冥理のようなものを念頭に置くぐらいにしてしてしてお、その日その日の仕事に励むくらいが適当ということになろうか。
 それは将軍に対しても大名に対しても、似たような態度となって現れる。いちおうの礼儀は尽くす。必要とあらば土下座して頭を下げるだろう。が、敬意を払うこともない。それは、現代人がダイアナ妃も松田聖子も区別なしに騒ぎ立てるが、いささかの尊崇の念も抱かないことにも通じる。靖国神社に参拝し、天皇を尊敬し、現代の若者にその念の薄いことを憂うる某首相にしても、 「しからば貴下は、陛下の馬前に死ぬことを光栄と思い、あるいは乃木将軍の殉死のごとく天皇に生命を捧げる心情があるか」と問われれば、「そこまでは考えていない」と答えるに違いない。
 すべて相対的で、便宜上は敬神拝仏忠君をタテマエとするけれども、キリスト教のように絶対神と対決し、神と対話をするといった態度は全く存在しない。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと、宗教が経済はもちろん人間生活のすべてに一貫して影響を持っている。そこには、唯一絶対神であるザ・ゴッドにたいする信仰が核になっている。 いってみれば、その視点から、宇宙の新羅万象が整然と秩序づけられている。それに比べ、西鶴にせよ現代人にせよ、自らの生活の一つ一つに神の定めた原理が働いているなどと夢にも信じない。 (「板坂元の江戸再発見」から)
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<柏屋の花嫁>  豪商、巨商ということばで真っ先に思い泛んでくるのは、江戸八百八町に黄金を撒き散らして豪興を競い、奢りをもって人生の理想として歴史の舞台を走りぬけていった”お大尽”紀文や奈良屋といった、一種、破滅型の豪快きわまりない大商人たちの表情である。
 それと、京の都で<<金銀をもっての歓楽は、およそ心に任ぜずと云う事もなく、あらゆる事を仕尽しぬ>>といわれ、その奢侈の咎で家屋敷を闕所競売、遠島に処せられていった中村内蔵助。大坂の陣の競争成金で<<おどり屋敷を四方に構え、庭に唐、天竺の樹を植え数奇をこらした座敷は四方にビイドロの障子をたて、天井もビイドロを張りつめ水をたたえて金魚を放ち>>と、 公方も及ぶまいと噂された大坂の淀屋。そして西鶴の『日本永代蔵』のなかに登場する絲屋十右衛門の贅をきわめた姿……などであろう。
 数奇者の十右衛門は、茶入一個を買うため大八車に銀三百貫を積ませ、市中を練るようにして運ばせたという。銀三百貫は米に換算すれば七千百余石。が、一説によるとその茶入は判金千枚、つまり一万両であったという。銀に換えれば六百貫、米にすれば一万四千二百石あまり。六百貫の銀といえば、なんと表高三十万石の長州藩毛利家の年間総収入の千二百五十三貫九十匁(寛永二十年「米と金」奈良本辰也)の約半年分にあたる。 茶入一個の値段がである。
 そんな当時の巨商の、はかり知れない財力と格式の高さを象徴するような豪華な婚礼調度の品々が、昭和の現在も遣っていて見る人の目をみはらせる。江戸中期、大名諸侯をしのぐばかりの権勢を誇った京の難波屋九郎左衛門(五代目祐英)の四女里代が、おなじ京商人の柏屋孫左衛門(四代目)に嫁いだおりの嫁入道具である。
 華やかな輿入れ行列に先だって運ばれる長持ち、唐櫃、屏風箱、そして新婦が婚儀の粧いをおこなう部屋の、長谷川等伯が松を描いた金屏風をひきめぐらせた粧の間に飾りつけられた絢爛たる、おびただしい数の調度類。そのいずれもが”柳に海棠”を描いた金時絵に”丸に角立四目菱”の定紋を散らした華麗な品々であった。 粧の間の飾りつけの中心になる三つの棚だけを眺めてみても、まず中央の……金泥高時絵の厨子棚。この棚を飾っている諸道具は、沈木(じんぼく)や唐桑などで造られた梨子地時絵総紋散らしの十二手箱(鏡台2合、櫛箱4合、白粉箱4合、油桶2合)、香道具としては、香盆の上に火道具、聞香炉、重香箱。そのとなりには空薫物の香を容れた沈箱(じんばこ)。大文箱。手紙用の通箱。進物用の水引箱。左手の黒箱には、汚れた櫛を拭っておさめる、三つ櫛十一組と櫛払い刷毛をいれた払箱。 朱うるしの小角赤箱。三つ櫛一組を納めた小櫛箱。小文箱。
 三つ目の、右手の書棚には書物や巻物が置かれ、これら三つの棚の前には、金箔を貼りそれぞれ『源氏物語』の絵を描いた三百六十個の蛤を入れた六角形の貝桶が二つ。それに書見台。羅の上に朱うるしを塗った大角赤箱。眉作箱。大鏡。昆布箱。香炭箱。耳だらいや椀嗽(うがいわん)など御歯黒道具をいれた鍍金箱。髪箱。粧の間に飾られた以外の道具には、畳紙(たとう)箱。香合せの十種香箱。外出の際に携行する食事用器の食籠(じきろう)。二十人分の弁当を入れて運ぶ円筒形の行器(ほかい)。 そして上流社会でもてはやされていた双六盤に駒石。このほか化粧箪笥。裁物箱。物指箱。色紙箱。煙草盆。硯箱。長硯箱。薬箪笥。刀掛。脇息。重箱。そしてまた寝具のなかの枕だけでも、花嫁の床入りの儀に用いられる祝まくらから、花嫁の供をしてきた女たちの枕。沈香をくゆらせて眠る風流な焚掛枕などさまざまな枕がある。そしてこれらすべてが、塵取りや炭取りにいたるまで黒うるしに蒔絵した華麗なものなのだ。
 それはそうであろう。花嫁の父、那波屋九郎左衛門は、三井総本家三代の三井高房が著した『町人考見録』にも、<<京一番の有徳人>>と書いたほどの豪商であった。那波家は大名貸の関係から諸大名との交際も深く、その生活も小川通り二条上ルの松平加賀守の屋敷を買い求めて住むという豪勢をきわめたものであった。花嫁里代の祖父素順(四代目)のとき、筑前黒田藩から二百石を与えられ、槍持ちを供に昴然と京の町を往来した素順の姿は、京雀たちの話題になったという。
 享保十年(1725)那波屋の大名貸し総額、銀一万百六十貫余。時価にすると、およそ八十五億円。これをみても那波やの財力の巨きさがわかる。 (「江戸を駆ける」から)
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<元禄の豪商たち>  17世紀後半、寛文年間(1661-1673)から元禄年間(1688-1704)にかけては、社会構造が大きく変化した時代だった。もともt江戸時代の支配体制は、絶対多数の農民を「生かさぬよう殺さぬよう」にして、かれらから目一杯年貢を搾り取るかたちをとっていたが、やがて、農業生産力の向上によって、農民の手許に少しづつではあるが、余剰が残るようになった。 そうなるちお農村にも交換経済が入り込み、全国的に諸湯品流通が活発化する。商品流通の活発化は、必然的に都市の商工業者の台頭を促し、なかでも全国流通の中心に位置した三都(大坂・京都・江戸)には、莫大な資本を蓄積する豪商が多く生まれた。
 この時代の豪商たちは、社会構造の変化を反映して、大雑把に二つの類型に分けることができる。
 第1は、前代の特権商人と同様、大坂・江戸など大都市建設に伴う土木工事、建築請負、鉱山開発など、幕府や諸藩つまり政治権力と結託して財を成した者たちで、かれらはまた、その財をもって米相場や材木の買い占めなど、投機的商業を行ったという点で共通性をもっている。このタイプには紀伊国屋文左衛門・奈良屋茂左衛門・河村瑞賢らがあり、淀屋もまたこのタイプであった。
 奈良屋の場合、日光東照宮の普請にあたって、御用材木の入札を市中相場よりはるかに安い値段で落札したうえ、当時江戸の独占的材木問屋だった柏木伝衛門が抱え持っていた檜材を、幕府御用をかさにきてだまし討ち同様の手口で横取りし、二万両という大金を稼いだ。これが奈良屋が豪商に成り上がる契機になったという。 紀伊国屋は、紀州みかんの江戸送りで有名であるが、このエピソードは伝説の域を出ず、確かなところでは、江戸の大火のたびに材木の買い占めで巨富を成し、幕府の材木御用達を命じられたものという。また、上野寛永寺の造営を請け負って50万万両を稼いだという話も伝えられている。
 こうした特権商人が存在する一方、不特定多数を相手に斬新なアイディアで勝負する新興の商人たちがあらわれた。この第二の類型の代表的豪商としては、三井越後屋が挙げられる。
 天和三年(1683)、三井八郎右衛門は江戸駿河町に呉服店越後屋を開店したが、この店の商法は「よろず現金、切り売り、掛け値なし」という革新的なものだった。つまり、それまでの呉服商が訪問販売で年三回払いであったのと違い、すべて店頭売り、一銭も掛け値は付けず、したがって、値切ってもまけない、すべて現金払いで延べ売りはしない、その代わり安いというわけである。 このようなかたちでディスカウント制を導入したほか、一反以下の半端でも切り売りし、多くの手代を商品別に配置する、さらに、急ぎの注文には数十人の職人がその場で即座に仕立てるなど、越後屋の商法は、大衆サービスを徹底的に追及したものだった。
 このように、元禄という時代は、政治権力と結託して投機的商売を行う古いタイプの豪商と、大衆を相手にすることによって財を成した新興商人とが併存する時代であった。
 ちなみに、越後屋の開店は、西鶴の処女作『好色一代男』発表の翌年のことである。西鶴は『日本永代蔵』のなかで、越後屋商法について細かく記している。かれは、これら商人の姿をつぶさに観察し、自作のなかに描き込んだのである。 (「歴史発見15 元禄の豪商たち」から
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<近世本町人の登場>  経営史的には京都経済の転換は17世紀後半の庶民経済の発達をうけて、大町人の没落していく話が数多く集められており、その歴史を反省することで、新興町人としての経営哲学を確立しようというねらいが、こめられている。
 近世初頭の朱印船貿易や金・銀座の経営、大名貸しの金融業などで、莫大な財産を蓄えた大町人が京都には数多くいた。しかし、『町人考見録』が引用した事例だけでも、大名貸、驕奢、愚かなること、投機事業、闕所等々の理由で没落したものが七十家以上にのぼっている。 その資産家度も京坂第一の大両替商とか、上京で一、二といわれる大名貸の問屋であったとか評される巨商ぶりであり、資産は二、三十万両あるいは銀数千貫と称される人びとであって、年収からいえば数万石規模の小大名に匹敵するものあったという。 (「京都 歴史と文化1」{政治・商業} から)
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<昔は掛算今は当座銀>  以前は将軍家や大名方の御婚礼、または年末の衣配りの際などには、その係の小納戸方の役人の好意で、一商いしてもうけたものである。ところが昨今は、大名方が出入りの商人だけにまかせず、入札(いりふだ)で請け負わせるようになったために、商人たちはすこしの利益を目当てに競争するので、 おたがいにじり貧となり懐は苦しく、ただ世間体ばかりで御用をととのえるようになった。あまつさえ多額の掛売りの代金は、数年でこげついてしまい、そのもうけは、京都の両替屋が預金に対して支払う利息にもおよばず、上方の問屋に払いこむ為替銀の支払いにも手づまって難儀している。そうかといって、これまで拡張してきた店を、 にえあかにしまうわけにもいかず、自然と小商いになってしまうのである。つまりは引き合わぬ算盤、この分でいくと江戸店(だな)だけ残って何百貫目の損が目に見えているのだから、足もとの明るいうちに、格を下げてでも身代を建て直そうと、それぞれ思案している時節に、また商いの道はあればあるものである。
 三井九郎右衛門という男は、手持ちの資金に物をいわせて、家康が鋳造させた駿河小判も思い出される駿河町に、間口九間に奥行四十間という棟の高い長屋を造って新店(しんだな)を出し、すべて現金売りで掛値なしと定め、四十余人の利発な手代を思うままにさばき、一人に一品を受け持たせた。たとえば金襴類一人、日野絹・郡内絹類に一人、羽二重一人、紗綾類一人、 紅類一人、麻袴類一人、毛織物一人というふうに手分けして売らせた。おまけに天鵞絨一寸四方、緞子を毛貫袋になるほど、緋繻子(ひじゅす)は槍印になるだけの長さでも、竜門は袖覆輪の片方だけでも、求めに応じて売り渡した。ことに奉公口きまった侍が、にわかに主君にお目見えする際の礼服の熨斗目(のしめ)や、急ぎの羽織などは、その使いを待たせておいて、数十人もかかえる職人が居ならび、 即座に仕立てて渡してやる。そんなふうだから家が繁盛し、毎日百五十両ならしの商売をしたという。世の調法とは、この店のことである。
 この亭主を見ると、目鼻手足があって、ほかの人と変わったところはないが、ただ家職にかけてかしこいだけである。大商人の手本といってよかろう。いろはの番号をつけた引き出しに、中国や日本の絹布を畳みこみ、そのほかさmざまの古渡りの絹までととのえてある。たとえば中将姫の手織の蚊帳、人麻呂の着た明石縮、阿弥陀如来の涎掛け、朝比奈三郎が着ていた舞鶴の紋所のある布、達磨大師の座布団、 林和靖の括り頭巾、三条小鍛冶の刀袋まで、何によらず無いというものがない。あらゆる物が帳面に書きこんである。まことにめでたい。 (「日本永代蔵」から)
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<特権商人─賄賂─役人>  17世紀後半の日本は、各地の城下町建設が急ピッチにすすみ、材木などの建築資材をあつかう商人の活躍が目立った。ことに最大の城下町である江戸では、大火がしばしばおこり、材木の需要は非常に大きかった。
 「材木」、それは今日であえば鉄鋼に相当する江戸時代の期間商品であった。城も屋敷も橋も、そのほか何をつくるにも欠かせぬ中心的建設資材である。
 折しも、五代将軍綱吉による元禄政治が展開した。神仏への信仰心が厚く、また学問好きでもあった綱吉は、護国寺や寛永寺根本中堂や湯島聖堂などの造営をはじめ、日光東照宮や下総香取社などの修復事業をつぎつぎに命じた。
 このような官営の土木事業には莫大な資金がいる。源田慰留にいえば、いくつもの高層ビルや高速道路や新幹線の建設に匹敵するような大事業である。綱吉は、幕府財政が不足してきたため質の悪い貨幣を大量に増鋳し、これらの建設資金に投下した。
 こうした元禄政治に対する従来の評価は、すこぶる悪かった。綱吉の浪費ぐせによる悪政だというのである。しかし近年の評価はだいぶ風むきが違ってきている。すなわち、幕府主導の大規模な財政投資事業をつぎつぎに断行することにより、民間の活力を刺激し、 日本経済全体の底上げをはかった良政だというのである。
 ともあれ、こうした綱吉の政治に便乗し、材木商人が利を得る機会がいっそう増大した。新井白石は自叙伝『折りたく柴の記』において、「前代(元禄時代)に土木の功しばしば起りしより、材木の価騰り貴くなれる事、古今の間いまだ聞かざる所なり、(中略)されば材木をあきなふ商人共の、たちまちに家を起して、某は幾百万を累ぬといふもの、 いくらといふ数しらず」と指摘している。
 紀文も奈良茂(ならも)も、まさにこの元禄時代の潮流にあざやかに乗って、短時日の間に江戸の超一流の豪商にのしあがった。
 特権商人─賄賂─役人(政治家)、という三題噺は、いつの世にも通用するようだ。ことに、官営の土木事業がさかんであった元禄時代には、新井白石も指摘しているように、請負の利権を獲得しようと暗躍する材木商人と、彼らと結託して私腹を肥やそうとする賄賂役人の横行が顕著であった。
 一攫千金をめざす投機的材木商人にとっては、絶えず新たな利権の獲得を意図して、自己を宣伝しておく必要があった。たとえ少々背伸びしてでも、金を湯水のごとく遊び捨てることによって、財力のあるところを誇示し、自分とむすんだ役人には、賄賂をたんまり出すぞと暗示しておく必要があった。 吉原は、自己宣伝と役人饗応の場として、格好の場所であった。才智にたけた紀文や奈良茂のことである。ただ無目的に、ばかな豪遊をしたわけではない。
 しかし元禄期をすぎるころから、濫伐による山林の荒廃が顕著となり、また城下町の建設も一段落するなど、商品としての材木が需要・供給両面ともに悪化したため、材木商たちはつぎつぎに転・廃業を余儀なくされた。
 とくに不正役人を退け、諸事緊縮を旨とする新井白石の「正徳の治」の展開は、彼ら特権商人にとっては致命的であった。しかも元禄の貨幣悪鋳によるインフレ経済時代から、正徳・享保の良質貨幣鋳造のデフレ経済時代を迎え、もはや一攫千金は昔日の夢と化した。
 紀伊国屋文左衛門と奈良茂左衛門の盛衰は、いずれも政権の交代と軌を一にしていた。その意味で二人は清祥であった。地道で堅実な商人道からみれば、それは元禄の夜空をいろどる一瞬の花火にも似た存在であったといえよう、 (「大系日本の歴史10」から)
(^o^)                 (^o^)                 (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
保坂元の江戸再発見                          保坂元 読売新聞社     1987. 7.31
江戸を駆ける                            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25 
歴史発見15 元禄の豪商たち              NHK歴史発見取材班 角川書店      1994. 8.30
京都 歴史と文化1{政治・商業}                林屋辰三郎編 平凡社       1994. 4.18 
日本永代蔵 現代語訳西鶴                    暉峻康隆訳注 小学館ライブラリー 1992. 4.20 
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20
( 2005年2月28日 TANAKA1942b )
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(12)少し遅れて豊かになれた人たち
木綿の普及が生活革命
<人は着る物によって意識が変わる> 朝廷・幕府関係者が贅沢をし始め、それを真似て金持ち町人が贅沢をし始めた江戸時代初期、庶民は木綿の普及によって意識革命がおこり始めていた。 柳田国男はその著書『木綿以前の事』で、江戸時代に木綿の普及が生活を変えたことについて書いている。今週はここから話を始めることにしよう。
(^_^)                    (^_^)                     (^_^)
<木綿以前の事>
 (一)
 『七部集』の附合(つけあい)の中には、木綿の風情を句にしたものが三ヶ所ある。それから木綿とは言ってないが、次の『炭俵』の一節もやはりそれだろうと私は思っている。
   分にならるる娵(よめ)の仕合    利牛
   はんなりと細工に染まる紅うこん  桃隣
   鑓(やり)持ちばかり戻る夕月    野坡
 まことに艶麗な句柄である。近いうちに分家するはずの二番息子の処へ、初々しい花嫁さんが来た。紅をぼかしたうこん染めの、袷(あわせ)か何かをきょうは着ているというので、もう日数も経っているらしいから、これは普段着の新しい木綿着物であろう。 次の附句は是を例の俳諧に変化させて、晴れた或る日の入り日の頃に、月も出ていて空がまだ赤く、向こうから来ると鑓と鑓持ちとが、その空を背景にくっきりと浮き出したような場面を描いて、「細工に染まる紅うこん」を受けてみたのである。 またこれとは反対に、同じ恋の句でも寂しい扱い方をしたものが、『比佐古』の亀の甲の章にはある。
   薄曇る日はどんみりと霜をれて     乙州
   鉢いひ習ふ声の出かぬる        珍碩
   染めてうき木綿袷のねずみ色      里東
   撰(よ)りあまされて寒き明(あけ)ぼの  探志
 この一聯の前の二句は、初心の新発意が冬の日に町に出て托鉢をするのに、まだ馴れないので「はちはち」の声が思い切って出ない。何か仔細ありそうな、もとは良家の青年らしく、折角染めた木綿の初袷を、色もあろうに鼠色に染めたと、若い身空で仏門に入ったあじきなさを嘆じていると、 後の附句ではすぐにこれをあの時代の、歌比丘尼の身すぎの哀れさに引移したのである。木綿が我邦(わがくに)の行われ始めてから、もう大分の年月を経ているのだが、それでもまだ芭蕉翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐこのような優雅な境涯を、聯想する習わしであったのである。 
 (二)
 木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遙かに偉大なものであったことはよく想像することができる。現代はもう衣類の変化が無限であって、とくに一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移して行くのが普通であるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせていなっかたのである。 木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行して来たものというほかに、なお少なくとも二つあった。第一に肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠く且つあまりにも滑らかでややつめたい。柔らかさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が優っていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特権かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。 そうしていよいよ綿種の第二回の輸入が、十分に普及の効を奏したとなると、作業はかえって麻よりも遙かに簡単で、僅かの変更をもってこれを家々の手機で繰り出すことができた。そのために政府が欲すると否とに頓着なく、伊勢でも大和・河内でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした根市が綿田になり、綿の実の桃が吹く頃には、急に月夜が美しくなったような気がした。 麻糸に関係ある二千年来の色々の家具が不要になって、後にはその名前まで忘れられ、そうして村里には染屋が増加し、家々には縞帳と名づけて、競うて珍しい縞柄の見本を集め、機(はた)に携わる人たちの趣味と技芸とが、僅かな間に著しく進んで来たのだが、しかもその縞木綿の発達する以前に、無地を色々に染めて悦んで着た時代が、こうしてやや久しく続いていたらしいのである。
 (三)
 色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しくかわったと思われる。木綿の衣服が作り出す女たちの輪廊は、絹とも麻ともまたちがった特徴があった。そのうえ袷の重ね着が追々と無くなって、中綿がたっぷり入れられるようになれば、また別様の肩腰の丸味がでてくる。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前より明らかに外に現れた。ただ夏ばかりは単衣の糊を強くし、或いは打盤で討ちならして、僅かに昔の麻の着物の心持ちを遺していたのだが、それもこの頃は次第におろそかになって行くようである。 我々の保守主義などは、いわば只五七十年前の趣味の模倣にすぎなかった。そんな事をしている間に、以前の麻のすぐな突張った外線はことごとく消えてなくなり、いわゆる撫で肩と柳腰とが、今では至って普通のものになってしまったのである。 それよりも更に隠れた変動が、我々の内側にも起こっている。すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の肌膚を多感にした。胸毛や背の毛の発育を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。すなわち我々には裸形(らぎょう)の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て各人の身に属するものとなった。 心の動きはすぐ形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまり木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に濃(こまや)かになって来たことは、かつて荒栲(あらたえ)を着ていた我々にも、毛皮を被っていた西洋の人たちにも、一様であったのである。 (「木綿以前の事」から)
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<新・木綿以前の事4  『木綿以前の事』が書かれたのが1939(昭和14)年のこと、それから50年経って『新・木綿以前の事』とのタイトルの書が出版された。『木綿以前の事』の話の続きとしてこちらも取り上げることにしよう。
「おあむ」の生い立ち
 戦国から江戸の初めに生きた一人の女性の昔語りが記録されて、今日に伝えられている。『おあむ物語』である。
「おあむ」は多分「御庵」で、彼女の本当の名前ではあるまい。晩年出家して尼僧となったので、「御庵さま」と呼びならわされていたのであろう。しかし名前が分からないから、ここでは「おあむ」を名前のような形で使わせてもらうことにする。
 おあむの父は、山田去暦といって、石田三成に仕え、300石の知行を受けた侍だった。初め近江の彦根の城におり、のち関ヶ原合戦のときには、美濃の大垣城にたてこもった。おあむも父に従って大垣に籠城し、家中の女たちと一緒に鉄砲玉を鋳たり、味方が取ってきた敵の首を上級者に見せるため、おはぐろをつけたり気丈に働いた。そのとき流れ弾丸に当たって戦死した弟は14歳だったというから、おあむは20歳少し前の年頃であったろう。 この物語を記録した人物も、奥書で、おあむのことを「寛文年中(1661-73)八十歳にして卒す」といっているから、当時20歳前という推定に誤りはないと思われる。  
かたび4一つの育ち盛り
 このおあむは、戦国末期の生活について、いくたの貴重な証言を残している。その中で、いま私が注目しているのは、朝夕「雑水(炊)」しか食べられなかった食生活の貧しさの話につづいて、衣生活について述べた次の一節である。
「さて、衣類もなく、おれが十三の時、手作のはなぞめの帷子一つあるよりほかには、なかりし。そのひとつのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ、ほしやと、おもふた。此様にむかしは、物事ふ自由な事でおじやつた。……今時の若衆は、衣類のものずき、こころをつくし、金(こがね)をついやし……沙汰の限りなこと」
 年寄りが、「今の若者はぜいたくだ」というのはいつの世も同じセリフでおもしろいが、おあむの衣生活はそれにしてもきびしいものだった。若い乙女の恥じらい心も日増しに強くなる十三歳から十七歳という育ちざかりの四年間、着たきりスズメの暮らしだったというのは、なんとしてもおどろきである。いかに乱世とはいえ、主君を持ち、しかも三○○石の知行も取る侍の娘である。それがこのような貧しさを強いられていたというのは、いったいどうしたことなのだろうか。
 おあむの話に誇張があれば別だが、とりわけ意図的にうそを語ることがらでもないから、実際にそうだったと受け取るほかはない。そのおどろくべき衣生活の貧しさの理由として、私は彼女のいう「帷子一つ」に注目する。
 「帷子」というのは、裏をつけない一重の着物である。その素材は、生絹(紗に似た薄織りの絹)のこともあるが、それは贅沢な場合で、普通は麻地である。戦前では、夏の着物として麻の帷子という言葉は、私たちの暮らしの中でも生きていた。
 とすると、おあむは、夏冬通じて、一重の麻の着物一枚で通したわけである。今ではとても信じられないが、古代や中世ではこの種の麻の一重を、寒い折りには何枚か重ねて着るというのが衣生活のごく普通の姿であったから、夏冬通して「帷子」ということ自体にも特別の不審はないのである。
麻の時代と木綿の時代  では、おあむは、どうしてもっとたくさんの衣類をもっていなかったのか。中世の絵巻物類を見ると、子供がはだかで遊んでいる光景が描かれており、実際そういう育て方が行われていたくらいだから、全体に寒さに対しても薄着で過ごしたことは考えられる。 しかし主たる理由は、やはり、多数の衣類をそろえるということが、一般にむつかしいことだったからと考えるのが筋である。
 結論を先にいうと、おあむの少女時代は、日本人の衣料の中心が麻であった時代の最後の段階に当たっていた。ちょうどそのころから木綿が普及し始め、急速に麻にとって代わるのであるが、おあむはまだ麻の帷子で乙女の時代を通したと思われる。 
 衣生活における麻の時代と木綿の時代とでは、以下詳しく考察してゆくが、非常に大きな違いがあった。麻の時代の民衆の衣生活は、原料植物の栽培から紡績・織布にいたるまで、全体として未分化で自給性が強い上、一反の生地を作りあげるまでの手間は非常に多くを必要とした。それにくらべると、木綿の時代は、原料作物栽培、紡績、織布の工程の分化が進み、全体として商品生産の度合いが高まるとともに(この点はのちに詳しく検討する)、 そもそもその生産工程は、麻とくらべるとはるかに効率がよく、手間が少なくてすむものだった。
 そのため、麻の時代から木綿の時代に入ると、日本人の衣生活は一変し、衣服の保有量の点でも一挙に豊かになった。おあむが昔を回顧しつつ、今の若い衆は好みにまかせたくさんの衣類を買っている、というのは、かならずしも贅沢な絹の着物だけを指しているわけではなく、木綿の着物が以前にくらべ容易に手に入るようになったからである。 (「新・木綿以前の事」から)
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<木綿の普及は文化革命>  江戸時代に入ると、文化革命といってよいほどの変化が社会の諸方面に現れた。柳田国男の『木綿以前の事』で取り上げられている木綿の普及もそのいちじるしい例の一つだが、これをパーセントで見れば、江戸時代初期にコットン使用は8パーセントの壁を破ったということができる。 万葉集の時代には、木綿は貴重品のように貴ばれている。そして、人が身に着けるものは麻か絹に限られていた。それが江戸時代に入ると、絹は贅沢品と見なされ、庶民は木綿を着るよう強制されはじめた。柳田は、木綿の綿ゴミが空中に飛び交い、日本の空の色が汚れてきたに違いないと、時代の変化を詩的に描いているが、現代でいえばテレビや自動車・冷蔵庫・洗濯機などの普及によって生じた生活革命に匹敵する変化を、江戸時代初期の人は体験したと考えてよい。 (「板坂元の江戸再発見」から)
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<衣類以外にも大きな変化が起きていた>  人が自分の生活を考える場合、比較するのは他人と、過去のことだろう。江戸時代の庶民が自分の生活を考えて、「周りの人たちとあまり変わりはない。昔よりはずっと良くなった」このように考えたと思う。そのように考えたであろう理由は、木綿の普及による衣料革命であり、その他にも大きな変化があった。こうしたことについて考えてみよう。
生産の伸びとともに庶民の生活も豊かに  戦国時代以来の大規模な開発に基づく生産力の発展と経済成長は、武士や民衆の生活を飛躍的に向上させた。享保改革期の農政家で幕府の代官を勤めた田中丘隅は、著書『民間省要』において、 「衣食住の哀レさをいはゝ、誠ニ涙もとゝめ難し。ケ様の事も近年そろそろと変し、世とともに食事もよくなれり」 、 かつて貧しかった衣食住が年とともによくなったと述べている。
 衣の分野では、麻から木綿へと衣料の変化が起きた。木綿は丈夫で着心地がよく、保温と吸湿にすぐれていた。しかし、戦国時代以前は、朝鮮や明からの輸入に頼っていたため、いまだ高価であった。戦国時代になり、兵衣・陣幕や鉄砲の火縄などに仕様され、需要が高まると、三河・河内・摂津・伊勢などの各地で木綿栽培が急速に発達し、武士や民衆の間に普及した。
 木綿を用いた衣服として、小袖・帯・羽織・浴衣などが普及したが、これらは斬新な模様や色彩とともに、さまざまな流行を生みだした。
 履き物も、かつて民衆の多くは裸足であったが、江戸時代になると草履・下駄・草鞋などが広く普及した。傘や合羽が普及したのも江戸時代である。
 享保18年(1733)に刊行された『当世風俗通』には、当時流行りの髪型として本多髷があげられている。この本には、髪型以外にも羽織や頭巾をはじめ装飾品も示されている。
 18世紀後半には、女性の髪を結う女髪結も広く見られるようになり、流行の髪型が広まった。このほか、髪の油・鬢付油・笄(こうがい)・挿櫛・お歯黒・黛など、化粧品や装飾品も大いに発達した。
 江戸時代は、衣の分野で武士や民衆の生活に大きな変化が見られ、ファッションの大衆化・多様化とともに、さまざまな流行が見られるようになったのである。
食──1日2食から3食へ──  食も大きく変化した。菜種油やろうそくによる灯火の広がりとともに1日2食から3食へと増えた。武士や公家は米を主食としたが、民衆の多くは雑穀を用いた。 魚の煮物や野菜など1,2菜のおがずも定型化した。おかずは味噌、醤油、砂糖などで味をつけた。南蛮料理から生まれた天麩羅や、中国料理から伝わった卓袱なども普及した。
 初物食いなど、季節を先取りして競って食べる風習も広まった。江戸では、4月ごろに伊豆や相模湾でとれた初鰹を食べることがさかんになった。幕府は貞享3年(1686)に、生シイタケは正月から4月まで、梨は8月から11月まで、蜜柑は9月から3月までなど、商売期間を決めた「初物禁止令」を発布して、ぜいたくや価格の上昇をおさえようとしたが、金さえ出せば人より早く食べられるということから、ブームはなかなか静まらなかった。
 江戸では、貞享4年ごろに上方から鮨が伝わったが、文化・文政期になると、江戸湾でとれるさより・穴子・白魚など、豊富な魚介類を素材に、握り寿司がおこり、江戸前寿司として広まっていった。
 参勤交代し伴う武士や奉公人・出稼ぎ人など、単身の男性が多い江戸では外食産業が発達した江戸前期はお茶漬けのような感嘆なものであったが、18世紀半ばには屋台の食べ物屋や料理茶屋が普及した。
 屋台で人気があったのは、蕎麦屋や天麩羅屋などで、江戸後期から幕末期の風俗を記した喜多川守貞『守貞謾稿』は、江戸の蕎麦屋の多さについて、「今の世、江戸の蕎麦屋およそ毎町一戸あり、不繁昌の地にても四,五町に一戸なり」と述べ、万延元年(1860)には夜鳴き蕎麦屋を除き、3763軒の蕎麦屋があったことを記している。
 他方、京や大坂においては饂飩屋が普及し、「京坂の饂飩屋、繁昌の地にておよそ四,五町に一戸なるべし、所により十余町一戸の当たるもあり」と、その普及ぶりを記している。東西の食文化のちがいが明確化したのも、江戸の後期であった。
 また料理茶屋の料理について、「今の世、三都ともに士民奢侈を旨とし、徳に食類に至りては、衣服等と異にして、貴賤貧富の差別なきがごとし」と、衣服で武士と庶民の差があっても、領地ではほとんど差がないと述べており、身分のちがいを越えて食文化が発達したようすがうかがえる。
近代に連なる生活習慣の確立  以上のように、江戸時代は衣食住の各分野において武士や民衆の生活が大きく変化し、新たな生活習慣が確立した時代であった。そしてこの生活習慣は、明治以降の近代社会へと連なるものであった。
 鎖国体制下で確立した日本型の生活は、その後の西欧化、近代化の過程においても、日本社会の基底で重要な役割を果たしたのである。 (「ビジュアル・ワイド 江戸時代館」 大石学著「生産の伸びとともに庶民の生活も豊かに」 から)
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<主な参考文献・引用文献>
木綿以前の事                            柳田国男 岩波書店      1979. 2.16
新・木綿以前のこと 苧麻(ちょま)から木綿へ             永原慶二 中公新書      1990. 3.15 
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12.
板坂元の江戸再発見                          板坂元 読売新聞社     1987. 7.31
( 2005年3月7日 TANAKA1942b )
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(13)金さえあれば、何でも買える風潮
改革とは幕府の「贅沢は敵だ」政策
<マネーゲームは悪なのか?> トレンド・メーカー東福門院から始まった衣装狂い、これが豪商の妻女の伊達くらべへと進化し、江戸の美少女が錦絵のスターになった。この流れを支えたのは、人々が豊かになったということだ。マネー・ゲームでの勝者が豪商になり、その豪商の座を新興商人が狙う。資本主義経済の原型がこの江戸時代初期にはっきりしてきた。 しかし、イギリスでの産業革命初期とは違って、過酷な労働条件での工場労働者は出ていない。それでも豪商たちは「金さえあれば、何でも買える風習」を作っていった。それに対して幕府は幾度も「奢侈禁止令」を出している。幾度も出しているということは、結局効果はなかったということだ。大本営と同じ「贅沢は敵だ」は「贅沢は素敵だ」に変わった。 それでも「贅沢は敵だ」は時代を超えて主張されている。現代でも「金さえあれば、何でも買える風習は良くない」との主張を支持する人がいる。「ライブドアが時間外取引でニッポン放送の株を大量に買った。これは違法ではないが、グレーゾーンだ。そして何よりも<< 金さえあれば、何でも買える風習 >>が良くない」と、解説する人がいる。十分に金があって、今更取り立ててほしいものがない人は金に執着しない。しかし、 「もっと金があれば、もっと欲しい物が買える。もっと金があるといい」と言う人。「もっと金があれば、他人が考えていないようなユニークな、有効な使い方が出来る」と考えている人がいる。この人たちは「贅沢は敵だ」とは考えていない。TANAKAは前者で、堀江貴文は後者です。
 「もっと金があれば、他人が考えていないようなユニークな、有効な使い方が出来る」と考えている人の中から「官に逆らった経営者」が出てきた。
@日銀総裁からは「ペンペン草を生やしてやる」と言われ、世界銀行からの資金融資をもとに大胆な、そしてやや無謀とも言える設備投資をした川鉄の西山弥太郎。
A大切な外貨でトランジスタの特許を買って、「井深さんはトランジスタ補聴器を作るのですか?」と冷やかされた東通工(現ソニー)。 その補聴器はシーメンス(siemens)が作っている。シーメンスに関しては 戦後復興政策 ヨーロッパ 西も東も社会主義 ▲で次のように書いた。
 ドイツの電機産業と言えばジーメンス。ヨーロッパ企業の売り上げでは、(1)ロイヤル・ダッチ・シェル、(2)ブリティッシュ・ペトロリューム、(3)ダイムラー・ベンツ、(4)フォルクスワーゲン、(5)ユニレバー、(6)ジーメンス、の順になる。 しかしこのジーメンス、OECD報告にみられるようにマイクロ・エレクトロニクス(ME)技術革新の立ち後れが問題になっている。東ドイツ、東ヨーロッパ、共産圏との前線基地国として政府、西ヨーロッパ諸国、アメリカなどの意向に企業は逆らうことが出来なかった。それが長く続き保守的な経営になり、デジタルICの重要性を過小評価し、機械工学に対する固執と過大評価の企業行動をとった。こうして1970年代前半にLSI-超LSI世代の開発に立ち遅れ、技術開発力の停滞が半ば構造化する。現在ジーメンスは高速化・大容量化がいっそう進むDRAMの自力開発が困難であり、しかも半導体売上高が国際競争に耐えうる臨界点にあるとさえ言われている。戦前からの伝統ある企業も時代の変化を感じ取る経営者が現れないと、新規参入のベンチャー企業・モルモット企業の後塵を拝することになる。 この業界についても、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
B通産省事務次官佐橋滋と喧嘩した本田宗一郎、「うちの会社にはな、本田宗一郎という気違いがいてな」「本田宗一郎が本気を出せば何でもできるんだ。世間の奴らはその恐ろしさを知らないがね」との藤澤武夫の言葉で四輪車参入を決意した本田宗一郎、これまた無謀な決断でもあった。
C日本の流通機構を大きく変えた「宅配便」、そのヤマト運輸は苦し紛れの決断でもあった。従業員に給料を支払うためには「金さえあれば、何でも買える風潮は良くない」などとは言っていられなかった。
<江戸時代の改革とは>
 江戸時代の三大改革とは、「贅沢は敵だ」政策であり、「金さえあれば、何でも買える風習」を正そうとする権力者の政策であり、抑えようとしたのは、町人の「贅沢をしたい気持ち」であった。そして「マネーゲーム」や「市場でのメカニズムを生かす仕組み」を否定するものであった。それでも抑えきれなかったのは、町人の市場でもマネーゲームの力の強さだった。 市場の力を発揮させたのは豪商をはじめ町人であり、その町人が力をつけ、武士階級が抑えきれなくなって幕藩体制が崩壊した、と考えられる。この「金さえあれば、何でも買える風習は良くない」との政策実行者は新井白石・将軍吉宗・大岡越前守忠相・松平定信・水野忠邦であり、積極的な経済政策をとったのは荻原重秀・田沼意次・徳川宗春であった。 現代日本で「金さえあれば、何でも買える風習」を正そうとする人たちは……、マスコミ報道を注意深く見ていれば分かるでしょう。
 そして多くの評論家は、「どちらに味方した方が今後仕事がしやすいか?」考慮中で、自分の意見をハッキリ言わない。それでも「早い内に現勢力側に見方した方が良い」、と判断した人もいる。
 30歳過ぎて conservative であっても、かつて liberal であったときの熱い heart は失いたくない。
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<淀屋の米市>  「金さえあれば、何でも買える風潮」を正そうとして幕府は豪商を奢侈を理由に処罰した。その例を挙げてみよう。
 大坂の豪商として淀屋辰五郎の名前は有名である。大変な金持ちで豪奢な生活ぶりが幕府のにらむところとなり、五代目辰五郎(三郎右衛門)のとき財産を没収されたと伝えられている(淀屋の闕所)。 この淀屋は山崎の岡本荘出身で、岡本氏を名乗っていた。豊臣時代に初代の常安が材木商を大坂十三人町(十三軒町ともいう、のち大川町)で始め、大坂の陣では徳川家康の陣小屋を作ったとされている。その褒美として山城国八幡に土地をもらい、大坂に入る干鰯(ほしか)の運上銀を与えられたという。 常安は開発町人の一人で中之島を開発し、常安町・常安橋はその名残である。二代目三郎右衛門言当(ことまさ)は个庵(こあん)ともいい、京橋青物市場の開設や葭島(よしじま)の開発、糸割符の配分にも尽力した。しかし个庵の事跡として著名なものは米市である。 淀屋は諸国から大坂に上がってくる諸藩の米を売りさばくことを請け負う蔵元を務めていたが、北浜の店先で市を開き、これが米市場の始めとなった。この市に参加する人々の便宜のため私費で土佐堀川に架けたのが淀屋橋である。淀屋の米市は北浜の米市とも呼ばれ、多くの米問屋が集住していた。 この北浜の米市は元禄十年ころに新たに開発された堂島新地に移り、堂島米市場として賑わうようになった。
 淀屋は初代常安、二代个庵の時期に日本一の豪商に成長した。それは、諸大名蔵米・蔵物販売や大名貸を行ったことによっている。淀屋の驕奢として知られているのは、四代重当(しげまさ)のこととされるが、その有様を当時の『元正間記』は、
 家作の美麗たとへて言へき様なし、大書院・小書院きん張付、金ふすま、(中略)ひいとろの障子を立、天井も同しひいとろにて張詰め、清水をたたへ金魚・銀魚を放し
 と記している。建物は金を張り詰めて金のふすまを立て、夏にはビードロ(ガラス)の障子をめぐらせ、天井にもガラスを張ってその中には金魚・銀魚を泳がせたというのである。 誇張もかなりあると思われるが、いかに豪奢な生活ぐりかがわかる。四代目の重当は経営にはまったく関与しなかったといわれている。そのため、大名からの返済金もしだいに滞るようになり、経営が悪化した。
 淀屋の闕所として知られているのは、宝永二年(1705)、五代目広当(ひろまさ)が新町遊郭に通い、吾妻太夫を身請けしたが、その二千両という金を工面するため、淀屋の手代が第三者の印判を偽造し、天王寺屋を信用させて金を借りたが、これがもちに発覚し、手代は蓄電したため当主の広当が捕らえられ、 吟味の結果、印判偽造(謀判)は資材であるが、減刑されて闕所・所払いになったというものである。広当は十九歳とも二十二歳とも伝えられている。身請けの金策かどうかは断定できないが、手代が今でいう私文書偽造を行い、偽印を使用したことで処罰されたのである。 普通辰五郎とされるが、辰五郎と名乗ったのは二代言当と四代重当であり、通常辰五郎といわれているのは四代と五代を混同してのことと考えられる。 (「大阪市の歴史」から)
<闕所事件の背景>  四代重当は元禄10(1697)年に没し、その跡を継いだ五代目の三郎右衛門も町人の分際をこえた豪奢な生活をした。この三郎右衛門が、闕所の処分をうけた辰五郎と推定される。
 このさい、幕府に没収された淀屋の莫大な財産は諸書によってまちまちであり、いずれもそのまま信用できる数字ではない。まじめに計算していくと、金10億両とか20億両とかいう、国家予算どころではない、ばかげた金額になってしまう。
 しかし、そうした数字になる大半の要因は、たとえば「大名衆へ貸銀、凡そ1億貫目」などとあるように、大名への貸付高が巨額にのぼっているからである。これによって、その絶対値は信用できなくとも、淀屋の莫大な大名貸活動を推察することは可能であろう。
 要するに元禄〜宝永期(1688〜1711)に、淀屋の諸大名に対する債権があまりにも巨額となり、大名たちは淀屋に対し身動きできぬ状態となった。そこで幕府は諸大名の財政を救うため、倹約令違反という口実のもと、強引に淀屋を処罰したと考えられる。淀屋辰五郎の闕所事件は、表面的にはその驕奢な生活が、幕府の咎めの理由となったが、 その背景には、このような大名財政の窮迫を救うために、淀屋一家が犠牲にされた事件であったと言えよう。 (「大系日本の歴史10」から)
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<婦女の衣服を統制>  幕府の「贅沢は敵だ」政策を扱った文章を幾つか取り上げてみよう。
 天和三(1683)年正月に幕府は「金紗・縫物・惣鹿子は、今後婦女の衣服に用いることを許さない。すべて、新奇の織物・染物を製造してはならぬ。小袖の表、一端の代銀二百目を限ること」と布令した。 また二月になり、「商人にあっては、かりに月俸を給わるものでも、今後帯刀してはならない」という命令も出した。また同月に、「失火の節または旅行のときであっても、商人の帯刀は一切禁じる」命令した。
 それから同じ二月には、「先日命令した商人帯刀衣服検査のため徒(かち)目付を差し出し、違反すうるものは逮捕せよ」と触れた。商人帯刀のことは、前代すでに触があったが、年来の旧習がことごとく定まらないので、このたびまた令を出して、厳しく禁じたのである。 このころ、小舟町一丁目に石川六兵衛という豪商があった。その妻は非常な奢りもので、常に紗、絹、毛織物を着し、晴れがましい所へは、さまざまな金入りを着て出た。天和中、将軍がはじめて東叡山寛永寺へ参詣したとき、かの六兵衛の妻は行列を拝もうと黒門前に桟敷をかけ、黄金の簾をめぐらし、名香をくゆらせ、左右に赤の縮緬の大振袖を着た切禿(かぶろ)の女人を侍らせ、 自分はその中央に座して、将軍通行の歳に簾を巻き上げさせて拝した。これ見た綱吉が、町人に似合わしからぬ奢り方であると、夫婦を遠流(おんる)に処し、その家を潰してしまった。後で夫婦の寝室を見ると、天井を玻璃で張り、金魚を放して寝ながら眺めるようにしてあったという。また、大伝馬町の丸屋という豪商の妻女は、将軍通行の際、家の中で伽羅を焚いたが、この香は世にも稀な名木であることを誇って焚いたのを咎められ、 糾問の結果、日ごろの奢侈が発覚して、同様遠流に処せられた。(徳川太平記)
 このころの幕政の根本理念は、農業至上主義の考えであったから、商人が商するとき、買い取った物に対して三割、四割と値をつけ不当に高利をむさぼり、他人の弱みにつけ込むことは不道徳な行為で、悪であると考えていた。したがって、士・農・工・商という階級制度のなかの最下位におき、富があり、奢る商人をみれば、わずかの口実がありさえすれば取り潰すのであった。 (「物語日本の歴史・第23巻」から)
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<寛文・天和の衣装法度──国産織物の大回転>  こうした幕府の政策について三田村鳶魚はどのように書いているのだろうか?『江戸の生活と風俗』のなかの「寛文・天和の衣装御法度」と題された分を引用しよう。
 近年のような意味で、市民生活に制限を加えたことは、江戸時代にないのでございます。幕府の改革は、いつでも倹約を同道しないのがなく、その倹約は、必ず奢侈を禁じるのが定例でした。それもそのはず、改革はいずれも政治費節減を主要とするものですから、約三百年に、おおきな改革は、寛文・天和・享保・寛政・天保と、前後5回ありました。 その他にも、奢侈抑損はしばしば行われたのですが、五大改革の際には、殊更その取り締まりが緊しい。しかし、七七禁令とは意味合いが違うので、みだりに比較することも出来ませんけれども、ここには、寛文・天和の二大改革の衣装法度を捉えて、その大略の様子を眺めることにいたしましょう。あたかも、寛文ないし天和度は、わが国の織物業の開展し始めた際でもございますので、他の三大改革よりも、そこを考慮すべきところが多いかと存じます。
 寛文三年十月晦日、京都及び江戸の呉服調達店へ命令された制限は
  女院御所、姫君方、うへの御服一おもてに付、白銀五百目(銀六十目を金一両に換算)より高直に仕間敷(つかまじるまじく)候。
  御台様(武家では将軍の夫人のみの称)、上の御服一おもてに付、白銀四百目より高直に仕間敷候。
  御本丸女中(将軍の奥向きに仕えるもの、武家女奉公人の最高頂にあり、故に、諸大名、諸旗本の仕女は、皆これより順次に逓減するはず)、上の小袖一おもて、白銀三百目より高直に仕間敷候。
 これで、公家、武家を通じて、一切の扶助の最高分限者を初めて制限いたしました。江戸時代には、奢侈の解釈が終始一貫しておりまして、分限に相応いたしたのは奢侈だはなく、不相応なのを奢侈ということになっておりました。それゆえ、その品物によってすぐに奢侈と決定いたしません。前記の法令にいたしましても、女院御所・御台所・御本丸女中と申すのが、その分限なのでございますから、その方々にそれが相応でも、大名・旗本の奥方にすれば、不相応になります。 その相応不相応を品物で申すよりも、代価で申す方が、制限いたすのに明確適切だったのでございましょう。
 同十二年四月十三日に、当業者に対して、縮緬・紗綾・綸子・羽二重・晒布を上中下三段にいたし、毎月二日に値段の届け出を命じ、また、真綿・絹・紬をも前記の通り三段にいたし、相場の上がった度ごとに、届け出るように命じました。これで、制限の品柄が知れました上に、、もっぱら売方を抑えたことも知れます。幕府は更に、長崎貿易について、輸入織物の綸子・絖(ぬめ)・縮緬・絖綸子・羽二重・袖・木綿・真綿を、校訂値段で取引させることにいたしました。これで前記の品柄が主として輸入物であったのが知れます。
 天正年中に、シナの職人が堺へ来て、織り方を伝えまして、錦・金襴・繻子・絖綸子・縮緬を生産いたし、堺の織物業が盛んになり、それを京の西陣へ移しましたのは、寛文になってからのことらしゅうございます。西陣俵屋の唐織と申した錦も、それより以前のものでがざいますまい。縮緬も堺伝来なのでございますが、西陣で良品が出来るようになりましたのは、天和年間のことで、紋縮緬・柳条(しま)縮緬を織りだしたと申します。 岐阜・長浜・峰山は、縮緬の産地として名高うございますが、その業を西陣から伝来したのですから、それも後年のことです。天鵞絨(ビロード)は、慶長中に、西陣へ阿蘭陀(オランダ)の法を伝えて産出したと申します。綾は、天正年間から、西陣で織り出していたと聞きましたが、紋紗綾・綾唐織・加女(かめ)綾・八反掛柳条綾は、天和度からの産出で、皆シナ様式を学んで、巧妙に転化したのに過ぎません。
 寛文五年(家継将軍の時)に、一端の長さを二丈六尺と定められましたが、その時は、国産の好い絹織物がだんだん出回った機会なので、京と堺とで織ったのを羽二重といい、美濃・加賀・丹後の産を撰糸と言ったそうでございます。品物は違いませんが、名称は別でありました。本場と場違いという心持ちででもございましょうか。その際、京産の紋羽二重・綾羽二重は大いに賞賛されたものだそうでございます。同時に、筑前・上野・下野・越前・越中・但馬等で、盛んに絹を織り出しまして、諸国へ売り出しました。 かく寛文度には国産の絹織物に精品も出来、種類も増加し、国々にも織物業が起こった様子でございます。しかし、まだまだ外国品が来なければならなかったとみえます。
 転じて民間の方を眺めてみますと、代価でなく、品目で制限してございます。寛文八年三月に、庄屋は、絹・紬・布・木綿・脇百姓は、布・木綿に限る。ただし、紫及び紅梅の染色は相成らぬ、と申すので、これは、既に寛永三年、同二十年にも同様な規定がございます。慶安元年二月には、町人の召仕は絹布(平ぎぬ以上)は相成らぬ、絹または紬に限る、また、町人は羅紗のカッパを着用してはならぬ、と見えます。これで町人に外国織物を需要するもののあったが知れます。 武家の奉公人にも、寛永八年十一月に、歩侍(かちざむらい)は、練羽二重より上の衣類を着用してはならぬ。同十二年十二月には、歩・若党の衣類は、紗綾・縮緬・平島・羽二重・絹・紬・布・木綿のまかを停止す、弓・鉄砲の者は、絹・紬・布・木綿、小者・中間は、すべて木綿に限る、と定めました。弓・鉄砲の者と申すのは、麻布・細よみなどを言うのでございます。 これだけは、寛文以前に決まっておりましたから、寛文改革には、主として最高分限にある御女性に対する制限が、先頭に立つように、あったのでございます。その時の睨みは、輸出品もしくは国産でも最優良品で、その需用者はどこにあったかも知れます。
 さて、この取り締まりにつきまして、寛文八年十一月十日、御老中方申合書付に、
   婦人衣類等の儀、同列申合の書付
  縫入り候間着、持合の品にても、以来着いたす間敷事、
   但、かいどり下は勿論、帯付の節も同様の事
  衣服あつらへ候とも、先達て仰出され候直段の上に出ざる様に申付、勿論の事。
 とあるのが目をひきます。かかる取締りには、警察力が加わらなければなりませんが、従来は、町与力・町同心がだんだん動いておりますけれども、寛文度には、御徒目付(おかちめつけ)が巡回して、御法度の衣類着用の者があれば、一々主人の名前を書き留めることになっているから、家来どもの着衣のみだりにまらぬようにせよ、という達しがございます。 民間よりも武家階級を取り締まる方が主要であったのかと存じます。それも、寛永八年には、御法度の衣類を着用した者があれば剥ぎ取れ、と命じたのに、寛文度は取締りもだいぶ穏当だったらしゅうございます。 (「江戸の生活と風俗」寛文・天和の衣装御法度 から)
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<婦女の衣服を統制─「徳川実紀」から>  江戸時代の公式文書であった「徳川実紀」から、こうした問題についての部分を引用しよう。
寛永十九年  廿四日、この日郷邑に令せらるゝは、祭礼仏事等美麗になすべからず。男女衣類前に定められし如く。庄屋は絹。紬。布。木綿を用ひ。其他の農民は布。木綿のみを着し。其外の品は襟帯にも用ゆべからず。嫁娶に興用ゆる事停止すべし。 身に応ぜざる屋舎も向後造るべからず。公料私料共に本田圃に煙草植べからず。荷鞍に毛氈かけて乗るべからず。また來癸未年より。各村に木をうへ林を取立べしとなり。(紀伊記、令條記、日記) (「徳川実紀」寛永十九年(1642)五月 から)
延享元年  三日令せらるゝは。市井の男女衣服の事。前にも度々令せしが。頃日ことさら美麗を用ゆるよし聞ゆ。いとひが事なり。前々定しごとく絹。紬。木綿。布の外は一切用ゆべからず。もし着せしを見及ばゞ。めし捕べきと申付べし。旦また婚姻する時。身に応ぜざる品。あるいは金銀。蒔絵の調度用ゆる事停禁さらる。 違犯するにをいては。とがめらるべしとなり。(憲教類典) (「徳川実紀」延享元年(1744)十月 から)
将軍綱吉への伊達くらべ 廿八日 浅草黒船町の市人六太夫といへる豪商。この八日寛永寺御参のとき。御行装を拝せむと市人等あまた道路につどひたる中に。六太夫をのがとめるまゝ。家の男女みな美麗によそひ出しを御覧あり。市人に似つかはしらぬ奢侈なりとて。其宅地牧公せられ。其身を追放せしめらる。 (「徳川実紀」天和元年(1681)五月 から)
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<ようく考えてみよう。お金は大事だよう>  資本主義社会での企業活動は「マネーゲーム」であり、企業活動とは「利益追求活動」に他ならない。 江戸時代商人の考えた経済社会は市場経済であったが、幕臣はその経済システムを理解していなかった。幕藩体制維持だけを考えていて、そのために経済システムまでは考えが及ばなかった。 たとえば「大坂堂島米会所」、享保15(1730)年に幕府は公認するのだが、そこでの価格が市場のメカニズムによって決まる、ということが分かっていなかった。このため将軍吉宗は米会所に対して、米価格を高く維持するよう指示している。
 「先に豊かになれる者から豊かになる」は経済の常識であり、人々が豊かに成る速度が速ければ早いほど所得格差は広がる。平等を望むなら経済成長を遅らす必要がある。 ところでライブドア堀江社長のニッポン放送株取得問題、マスコミは興味本位で扱っている。テレビとはそういうもので、「公共性」は単なる建前で、視聴率をとるためには興味本位で扱うこともしばしばある。それにしてもテレビ東京のWBSでさえ、興味本位で扱っていた。 「落とし所は何処ですか?」との質問は、自民党と野党との国会運営委員会での駆け引きに対する質問だ。また「日本人の感覚に合う」とか「合わない」とかは、評論家同士でも会話でしかない。 マネーゲームのプレーヤーは自己の利益追求に専念すればいい。アダム・スミスの表現を借りればこのようになる。
 かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べ、かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が、社会の福祉を真に増進したという話は、いまだかつて聞いたことがない。もっとも、こうしたもったいぶった態度は、商人のあいだでは通例あまり見られないから、かれらを説得して、それをやめさせるのは、べつに骨の折れることではない。 (「国富論」第4編 第2章「国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限について」から)
 好奇心と遊び心があれば「ネットとラジオ、テレビが結びついたら、どんなメディアが出来るだろう?可能性がイッパイありそうだ。堀江社長はどんな夢を持っているのだろう?」このように質問すると思うけれど、あの場にいた人たちには好奇心も遊び心もなかった。そしてアダム・スミスも単なる歴史上の人物でしかなかったのだろう。 日経新聞の影響下にあるテレビ東京でさえ得意であるはずの経済問題を興味本位で扱っている。経済学の香りなどこれっぽっちもしない下世話な週刊紙的扱いしか出来なくなっている。この分野にも新規参入の緊張感が必要だ。
 ビル・ゲイツでさえ「市場経済は弱肉強食の社会だ」その通り。産業界では、今トップにいる企業も「われわれの次の競争相手が、どこからともなく現れて、ほとんど一夜にしてわれわれを業界から追い出すかもしれない」という恐怖心をもっている。 (「ビル・ゲイツの面接試験」から)
 マスコミ関係者がこのような緊張感で仕事するように、新規参入の危機感を与えなくてはならない。そうでなければ社員までが反対声明を出す企業になってしまう。反対意見の出ない自家不和合性に陥った組織になってしまう。江戸時代のことを考えながらも、現代の問題が頭から離れない。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
大阪市の歴史                         大阪市史編纂所 岩波書店      1999. 4.20
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館       1993. 4.20
物語日本の歴史・第23巻 ─騒動に明け暮れる江戸の権力─      笠原一男編 木耳社       1992.11.10
江戸の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23          三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
国史大系 第40巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1964.12.31
国史大系 第46巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1966. 2.28
国史大系 第42巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1965. 4.30
国富論 アダム・スミス                     大河内一男訳 中公文庫      1978. 4.10
ビル・ゲイツの面接試験       ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社       2003. 7.15 
( 2005年3月14日 TANAKA1942b )
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(14)リーガル・パターナリズム
小さな政府の大きなお世話
<幕府の衣装お節介─『徳川実紀』から> 今週のタイトルは「リーガル・パターナリズム(legal Paternalism =温情主義・お節介主義) 小さな政府の大きなお世話」。金さえあれば、何でも買える風潮に対して、「贅沢は敵だ」政策をとった江戸幕府。現代でもこの「贅沢は敵だ政策」と同じ考えの政治家・財界人がいる。 ライブドア堀江貴文社長のニッポン放送株取得問題も「贅沢は敵だ」主義の権力者と、そうした既得権者がいるのを知りつつも金で買える物は買うことにしようとする新規参入者との争い、と捉えると分かりやすい。 そうした「贅沢は敵だ」政策を江戸時代の公式文書であった『徳川実紀』から、関係する記事を抜き出してみた。
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寛永十九年五月  廿四日、この日郷邑に令せらるゝは、祭礼仏事等美麗になすべからず。男女衣類前に定められし如く。庄屋は絹。紬。布。木綿を用ひ。其他の農民は布。木綿のみを着し。其外の品は襟帯にも用ゆべからず。嫁娶に興用ゆる事停止すべし。 身に応ぜざる屋舎も向後造るべからず。公料私料共に本田圃に煙草植べからず。荷鞍に毛氈かけて乗るべからず。また來癸未年より。各村に木をうへ林を取立べしとなり。(紀伊記、令條記、日記) (「徳川実紀」寛永十九年(1642)五月 から)
寛永二十年二月  十八日万石以下の侍を営中に召して、老臣仰をつたふるは。先年より諸士奢侈を禁ぜらるゝところ。近年また奢を競ふきこえあれば。いよいよ慎み(てトア)。先令を守り。をのをの質素をむねとすべし。この後奢侈のふるまひするものあらば。采邑を牧公せられ。其上厳刑に処せらえうべしとなり。(紀伊記) (「徳川実紀」寛永二十年(1643)二月 から)
慶安元年二月  この月令せられしは。市井泥濘の道路は。浅草砂に海砂まじへ。道途高低なく中高に築くべし。芥ならびに泥もて街道を築くべからず。下水の樋井に路傍の溝渠壅埋せざるやう塵芥を除くべし。もしそむくものは曲事たるべしとなり。 また市井めし仕ひ絹布着する事。前にゆるされしことあれば。このゝち絹袖のみを用ゆべし。市人はいふまでもなく。店かり。借屋の者までもこの旨厳に守るべし。刀脇差美麗に造るべからず。羅紗の雨衣着すまじとなり。(大成令) (「徳川実紀」慶安元年(1648)二月 から)
寛文八年二月  廿八日。此日令せらるゝは。各国村里の醸酒。累年の半額たるべき旨令せらる。よて減額を注記し。勘定所に出すべし。領内の寺社領たとへ御朱印賜はり。税額のそとたりとも。醸酒の額は各地領主。代官よりかき出すべし。 本田圃に煙草培栽いよいよ停禁せらる。厳に曉告すべしとなり。」又大目付。目付より伝ふるは。侍。若党衣服。紗綾。縮緬。綸子。あま島を停むべし。元よりたくはへし羽二重は苦しからず。毛羽織あるは雨衣用ふべからず。直参のともすがら麁品を用ふべし。老臣の家士はすでに絹布のみ着せしめ。毛織はかたくとゞむれば。各其心すべしとなり。(日記、御側日記、年録) (「徳川実紀」寛文八年(1668)二月 から)
寛文八年二月  廿九日。目付して達せらるゝは。歩行。若党。紗綾。縮緬。毛布のたぐひ。是まで貯へたりとも着すべからず。羽織は貯へしまゝに着ふるし。重て裁縫の時。絹。紬より上品を用べからずとなり。(日記、大成令、憲教類典) (「徳川実紀」寛文八年(1668)二月 から)
寛文八年三月  三日。この日目付のともがらより伝ふるは。こたび火災により節約の令を下され。麾下の士等衣服。絹。紬を着するも苦しからずとの盛慮なれば。老臣もこれをはゞかり。家士等此のち紗綾。縮緬。毛布のたぐひ着する事を禁じ。羽二重。ひら縞は着ふるすまゝにして。かさねてつくる時は。絹。紬の外は禁ずれば。各家人等にも曉告し。思ひ違ふ事なく。元より貯ふる衣服はひそかに着し。この後つくらしむげからずとなり。」 (日記、御側日記、令條記、憲教類典) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年三月  七日。大目付より伝ふるは。このたびの火災により。いよいよ倹素をかたく守り。卑賤艱困せざらんやう曉告すべし。麾下の士ことに疲弊に及べるをもて。当時当直は絹。紬。木綿袴を着すべき旨令せらる。 直参のともがらすらかうやうに麁服を着すれば。藩士はことに麁悪を用ひ。綸子。紗綾。縮緬等。其他美麗をはゞかるべし。其品により。制を定めては令せられ難し。直参のともがら麁服を着すれば。それに准じ。末々のともがら其ほどほどに麁簿を用ゆべし。 又藩士には城持しもあるにより。藩士は何品と概して令し難し。熨斗目は名代の使。あるは賀使の時のみ着せしめ。其時宜に遣ひてとひはからふべし。熨斗目もて上下のうらとするは。元より用ひはらひし事なれば苦しからず。平亀綾。羽二重の小袖。羽織。貯へしは着すべし。こは絹。紬にまがへるもあれば。 新たに制するは絹。紬を用ゆべし。在府の時贈答の書簡又は口伸には。歩行使たるべし。かく毎事簡易に令せられるうへは。月次の朝會延引の時も。其事触らるまじ。主人の賜物といへども。紗綾。縮緬。綸子。其他美麗の衣服憚るべし。従者の衣服美麗に見え。憚らざるに似てしかるべからず。 老臣の家士近頃絹。木綿を着せしむれば。いかにも麁品を用ゆべし。毛布のたぐひ。かたく着すべからずとなり。(大成令、日記) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年三月  八日。此日長崎奉行に論告せらゝは。真綿。くり綿。絹。紬。木綿織物。麻布。染物。蝋燭。銅。漆。油。酒。今年より異域にをくるべからず。但油。酒は船中の常用に備ふるはくるしからず。 薬品の外植物。生類。諸器材。金絲。薬剤とならざる唐産類。珊瑚樹。たんから。丹土。蘭産器物。唐草。ひょんかつ。衣服の用に充らざる美麗の布帛等。かたく舶来せしむべからず。羅紗。羅脊板。猩々緋の三種はゆるさるべし。その他の毛布は禁ずべしとなり。(年録、大成令) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年五月  四日、此日猿楽等。鼓吹手。狂言師まで刀帯る事禁ぜらる。よて條制を下さる。旅行の時も鎗もたすべからず。をのをの其技をもはらとし。につかわしからぬ他技をなすべからず。 衣服は絹。紬を着すべし。猿楽催さるゝ時は。大夫の宅に集まり試業すべし。すべて若党めし具すべからずとなり。役者惣員三百七十人。此旨堅く守るべしとなり。(日記、御側日記、年録) (「徳川実紀」寛文八年(1668)五月 から)
将軍綱吉への伊達くらべ
 廿八日 浅草黒船町の市人六太夫といへる豪商。この八日寛永寺御参のとき。御行装を拝せむと市人等あまた道路につどひたる中に。六太夫をのがとめるまゝ。家の男女みな美麗によそひ出しを御覧あり。市人に似つかはしらぬ奢侈なりとて。其宅地牧公せられ。其身を追放せしめらる。 (「徳川実紀」天和元年(1681)五月 から)
天和三年二月
 三日長崎奉行に仰下されしは。羅紗。猩々緋。其外毛織の類。并に金糸。其外衣服に用ふべからざる織物・珍禽。奇獣及び薬品にあらざる植物。木材。はた器財。翫具の類。来泊するとも買上ぐべからず。此よし唐蘭の商人にも曉論すべしとなり。(日記、大成令) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年二月
 五日市井に令せらるゝは 金紗。繍物。惣鹿子。今より後婦女の衣服に用ふる事許さず。すべて新奇の染物を停止すべし。小袖の表一端価銀二百目限りたるべしとなり。(日記) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年二月
 十九日。進献の時服に。伊達染。紋縞。純子。繻珍を禁ぜられる。向後は男子の着用すべき服を献ずべしとなり。(日記) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年六月
 十四日。けふ令せられしは。明日山王の祭礼。ねりものゝ品々。ならびに人形の衣装。あるは其事にあづかりしもの迄も。制限の外華飾すべからず。見にまかる者も。是におなじかるべしとなり。(日記、大成令) (「徳川実紀」天和三年(1683)六月 から)
貞享元年六月
 この月令せられしは。市井にて屋形船みだりにつくるべからず。今よりのち新に造らんとおもふものは。あらかじめ町年寄へまうして指揮うくべし。もし申いでずして作るものあらば。過失たるべしとなり。(大成令) (「徳川実紀」貞享元年(1684)六月 から)
延享元年十月
 三日令さらるゝは。市井の男女衣服の事。前にも度々令せしが。頃日ことさら美麗を用ゆるよし聞ゆ。いとひが事なり。前々定しごとく絹。紬。木綿。布の外は一切用ゆべからず。もし着せしを見及ばゞ。めし捕べきと申付べし。且また婚姻する時。身に応ぜざる品。あるいは金銀。蒔絵の調度用ゆる事停禁せらる。 違反するにをいては。とがめらるべしとなり。(憲教類典) (「徳川実紀」延享元年(1744)十月 から)
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<生類あわれみの令>  江戸時代、幕府のお節介と言えば「生類あわれみの令」が思い浮かぶ。
  【解読文】   覚
一兼而被 仰出候通 生類あハれミの志、弥
 専要に可仕候、今度被 仰出候意趣ハ
 猪鹿あれ田畑を損さし、狼者人馬
 犬等をもそんさし候故、あれ候時計
 鉄砲にてうたせ候様ニ被 仰出候 然處ニ
 万一存たかひ生類あハれミの(「心」脱)わすれ、
 むさと打候者有之候ハヽ急度曲
 事に可申付事 (以下略)
 読むのに疲れるので、読み下し文を引用しよう。
  【読み下し文】  覚
一、兼て仰せ出され候通り、生類あわれみの志、いよいよ専要に仕るべき候、 今度仰せ出され候意趣は、猪鹿あれ、田畑を損ぜさし、狼は人馬犬等をも損ぜさし候故、あれ候時ばかり、鉄砲にて打たせ候よう仰せ出され候 然る処に、万一、存じ違い、生類あわれみの(心)忘れ、むざと打ち候者これ有り候わば、きっと曲事に申し付くべき事。
一、御領・私領にて猪鹿あれ、田畑を損ぜさし、或いは狼あれ、人馬等損ぜさし候節は、前々の通り、随分追いちらし、それにても止み申さず候わば、御領にては御代官、手代、役人、私領にては地頭より役人ならびに目付を申し付け、小給所にては、その頭々へ相断り役人を申し付け、右の者共にきっと誓詞致させ、 猪鹿狼あれ候時ばかり日切を定め、鉄砲にて打たせ、そのわけ帳面にこれを駐し置き、その支配支配へきっと申し達すべく候、猪鹿狼あれ申さず候節、まぎらわしく殺生仕らず候ように堅く申し付くべく候。若し相背く者これあらば、早速、申し出で候様に、その所々の百姓等に申し付け、みだりがましさ儀候わば、訴人に罷り出で候様に兼々申し付け置くべく候。 自然隠し置き、脇より相知れ候わば、当人は申さず(申すに及ばず)、その所の御代官・地頭、越度たるべき事。
右の通り堅く相守り申すべき者也
    巳の六月日

是は御付紙の御文言
猪鹿狼打ち候わば、その所に慥かに埋め置き、一切商売、食物に仕らざるべく候、右は猟師の外の事に候
右御書付の通り、きっと相守り申すべき者也
    元禄二巳年七月日
(「独習江戸時代の古文書」から)
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<生類憐れみ令>  同じような令が幾度も出されているので、別な文章を引用しよう。
   【読み下し文】  覚
一、そうじて馬に荷付け候儀、その馬の様子により荷物の分量を考え、馬難儀致さざるように軽く付け申すべく候。並びに道中荷付馬定めの貫目いよいよ相違なきよう念を入れ、重荷付け申すまじき事。
一、病馬並びに痛みこれ有る馬、随分いたわり、左様の馬は使い申すまじく候こと。
  但し、右の類の馬育みかね候者は、最前も相触れ候通り訴え出るべく候こ事。
  右の趣堅く相守るべく候。もし違背の族これ有るに於いては曲事たるべきものなり。
    午五月 日
  右の書付、小奉書堅紙、四百六十通(これを)調(ととの)える。
一、一万石以上並びに大寄合は、但馬守宅へ家来呼び(これを)渡す。
  但し、建部内匠頭は御役人にて候えども万石、榊原越中守は大寄合ゆえ、これまた但馬守宅にて相渡る。尤も奏者番・寺社奉行・喜連川左衛門・那須衆・美濃衆・信濃衆、ならびに中島与五郎・松平太郎左衛門nへも但馬宅にて渡る。
一、甲府殿・御三家城付へ但馬守より四通、御同朋頭をもって(これを)渡す。(中略)
  五月十一日に(これを)遣わす。
   京都・大坂・長崎・伏見・奈良・駿府・日光。
    このほかへは(これを)遣わされず。
      覚
諸人仁愛の心これ有るようにと常々思い召され候ゆえ、生類憐みの儀たびたび仰せ出され候ところ、今度橋本権之助、犬を損じさし不届きに思い召され候。これに依り死罪仰せ付けられ候。いよいよ人々仁愛の心に罷り成り候ように大身小身ともに相成り、末々まで急度(きっと)申し合わすべきものなり。
  午十月 日
右小奉書堅紙、四百五・六十通ほど表御右筆(これを)調える。但し余慶とも。
  午十月十五日書付渡る覚
高家・奏者番・寺社奉行・御留守居・大御番頭・大目付・町奉行・御勘定奉行
 大目付より相触れる分
  御旗奉行・御鑓奉行・御作事奉行・御普請奉行・遠国奉行・遠国役人・御留守居番
 右は書付十五通、大目付へ相模守(これを)渡す。
一、奥向きへ三十通。
一、美濃守・右京大夫一通ずつ。
一、呂宇宙・若年寄中一通ずつ。
(以下略)
(「江戸時代の古文書を読む」から)
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<小さな政府─経済紛争は株仲間任せ>  徳川幕府は小さな政府であり、警察官に相当する目明かしは民間人であった。日本では2006年6月までに 違法駐車取締事務が民間に委託されることになり、こうした点ではあたかも、江戸時代のような小さな政府を目指しているかのようにみえる。
 江戸時代金銭トラブルは当事者同士で解決するように、というのが幕府の方針だった。では実際どうだったのか、というと、業界団体が商業上のトラブルを解決する機関になっていた。 幕府は「事業をするなら、業界団体に入りなさい。そうでなければ事業することを許さない」として業界団体である「株仲間」を公認していた。株仲間では代金不払いなどの業者を仲間はずれにして、実質的に商売できなくしていた。 問屋仲間の誰かが代金不払いを起こすと、その業者の名前を文書にして株仲間全員に周知させ、取引を停止させ、実質的に商売できなくした。『江戸の市場経済』では次のように表現している。
 株仲間は、仲間の一人に代金不払いその他のさまざまな不正を働いた取引相手に対して、一致して取引を停止するという多角的懲罰戦略を採った。こうした株仲間の行動様式が、公権力による所有権と契約履行の保証に限界がある状況下で、 商取引の拡大を可能にしたと考えられる。(「江戸の市場経済」から)
これに関しては岡崎哲二「江戸の市場経済」▲>  <株仲間という江戸産業人の知恵▲を参照のこと。
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<大きなお世話─自己責任社会から過保護社会へ>  ここでは衣服のことと<生類憐れみの令>を取り上げたのだが、『徳川実紀』を読むとこの他、「火の用心」「不審者に注意」など、町人生活に細かいことに触れているし、大岡越前守忠相は江戸の諸物価について事細かに指導している。 現代ではどうかと言うと、「自己責任」という言葉に嫌悪感を持つ人がいて、「政府の責任」との表現で市民生活に行政の規制が多くなっている。一方で「規制緩和」のかけ声があって、一方で既得権者が規制を守り、その範囲を広げようとする。 そうした傾向を「市場の暴力から市民生活を守る」との趣旨で賛成し、国民の保護者としての政府を目指す思考傾向がある。こうした傾向を「母子家庭国家・日本」「老化する日本」「未熟児国家」「アダルト・チルドレン」などと表現する人もいる。 現在ヨーロッパでは「社会民主主義」という左翼政党が多くの支持を集めているが、日本で左翼は人気がない。日本では右翼・左翼との分け方よりも、「保護主義」か「自己責任」かの分け方の方が的確かも知れない。そしてイデオロギーとしての左翼は人気ないが、 市民生活を事細かく干渉・保護するリベラリズム、リーガル・パターナリズムは公の場で訴えやすく、支持されると考えられている。
 リーガル・パターナリズムに対して自己責任を大切にする考えがある。TANAKAは今まで幾度も取り上げてきたので、そちらを参照してください。 自然界に「福祉主義」はない▲ > <人間幼稚化の構造▲ >  「自助努力」と「過剰補償能力」▲
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<主な参考文献・引用文献>
独習江戸時代の古文書                         北原進 雄山閣       2002. 8.20
江戸時代の古文書を読む 元禄時代            徳川林政史研究所監修 東京堂出版     2002. 6.25 
国史大系 第40巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1964.12.31
国史大系 第42巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1965. 4.30
国史大系 第46巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1966. 2.28
江戸の市場経済                           岡崎哲二 講談社       1999. 4.10
近世日本の市場経済─ 大坂米市場分析                 宮本又郎 有斐閣       1988. 6.30 
株仲間の研究                            宮本又次 有斐閣       1958. 3. 5 
経済倫理学のすすめ                         竹内靖雄 中公新書      1989.12.20
父性なき国家・日本の活路                      竹内靖雄 PHP研究所    1980. 2.27
「日本」の終わり 「日本型社会主義」との決別            竹内靖雄 日本経済新聞社   1998. 5. 6
国家と神の資本主義                         竹内靖雄 講談社       1995. 1.27
得する生き方 損する生き方                     竹内靖雄 東洋経済新報社   2001. 4.26
市場の経済思想                           竹内靖雄 創文社       1991. 6.30
マン・チャイルド 人間幼稚化の構造  D.ジョナス、D.クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社    1984. 7.10
サバイバル・ストラテジー          ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社       1983. 4.20
( 2005年3月21日 TANAKA1942b )
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(15)絹輸入のため金銀が流出
新井白石『折りたく柴の記』での心配
<金銀の海外流出> 「趣味と贅沢が江戸時代の市場経済を発展させた」というのがTANAKAのこのシリーズのテーマだ。東福門院和子から始まった「衣装狂い」が広く民間にまで普及し、その結果絹の輸入が増加し、そのために日本の金・銀が海外に流出することになった。今週はその流出に関することを扱い、さらに視野狭窄にならないよう、この時代を取り巻く問題にも目を向けてみよう。まずは『江戸時代』から引用し、この時代を俯瞰してみよう。
『江戸時代』から
 戦国末期から江戸時代初頭にかけては、わが国は世界でも有数な貴金属の産出国であったことはT章で記したとおりだが、その結果得られたわが国保有金銀は、このようにして生糸、絹織物輸入の代価品として、どんどん国外に流出していったのである。 もしこの金銀産出がそのまま続けば問題はなかったのだが、ほぼ寛永の末年(1643)ころ底をつくので、後は保有金銀の消耗によって生糸は購入されていたことになる。貞享元年輸入額を制限したうえで糸割符制を復活したことは先に触れたが、この段階になると保有金銀の底がみえはじめ、もはや輸入額を制限する以外に方法がなくなっていたのである。
 このようにしてさしものわが国の保有金銀も衣装代として国外に流出してしまうのだが、その額を新井白石はその著『折りたく柴の記』のなかで、正確には知り難いが、慶安元年(1648)から宝永五年(1708)までの60年間に金239万7600両余、銀37万4229貫目余であると計算し、さらにその前の慶長6年(1601)から正保4年(1647)までの46年間にはその2倍あったと推定している。 これでゆくと慶長6年から宝永5年までの108年間の流出したわが国の貴金属の量は金719万2800両と銀112万2687貫となり、それはわが国の慶長以降の総産出金銀の、金はその4分の1、銀はその4分の3にあたり、このままほうっておけばあと100年もすると金は半分にもなってしまい、銀にいたってはそこまでいかないうちに零になってしまうと心配している。
 このような認識から金銀は人間にとって骨のようなものであり、農作物等の生産物は(もちろん生糸、絹も)人間の毛や髪のようなものである。したがっていくら切ってもあとから生えてくるこの(毛・髪=食料・生糸等)を買うために、一度なくなったら再生のきかぬもの(骨=金銀等)を使うのは愚の骨頂である。 すべからく輸入を制限してそれは薬種と書籍のみにすべきである(白石建議)、という新井白石の貴金属重視のうえに立った貿易管理論がうまれ、それがやがて田沼時代の本多利明などによる重商主義的貿易立国論へと展開していくのである。(中略)
 これでわかるように、元禄〜享保期には大量海外流出は重農主義者、重商主義者をとわずわが国識者の憂えとなっていたのである。ところでその原因はたとえば大飢饉による食糧の緊急輸入とかいったものではなく、ひとえに女性を美しく着飾るための輸入だったのである。
 さて新井白石はそのために江戸時代初頭から108年のあいだに海外に消えた金銀は金719万2800両と銀112万2687貫であると計算しているのだが、(この他銅が大量に出ているが便宜上省略)、いま銀50匁を金1両、金1両をいまの通貨5万円として試算してみると、総額で1兆4823億2700万円ということになる。 これを1年に平均してみると日本人は毎年主として衣装(生糸)代として137億2千万円余の金銀を海外に支払った計算となる(ちなみに当時の幕府1年間の年貢収入は同様手法で計算すると約6〜700億円ということになる)。
 もちろん大変おおざっぱな計算であるが、世界最美の和服文化も、また尾形光琳の芸術も大変高価は支払のうえに開花しているのである。
 なお最後に一言つけ加えておくと、前述したように支払手段(金銀)不足のため生糸の輸入は段々と困難になるが、それと歩調を合わせて、その国産化がおしすすめられていった。 その努力は領主財政の立て直しなどどからめていっそう促進され、約150年たった安政6年(1859)の第二次開国段階には、すでにわが国は世界有数の産糸国家に成長していたことは周知のところである。近世初頭にはわが国の保有金銀を食い尽くした生糸が、こんどは明治・大正・昭和の三代にわたってわが国経済を支える輸出資源に転化していたのである。 (「江戸時代」から)
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<『折りたく柴の記』による金銀の海外流出> 江戸時代絹輸入に伴う金・銀の流出に関しては、この新井白石の『折りたく柴の記』をもとに話を進めることになる。『折りたく柴の記』には荻原重秀批判が多く記載されているが、ここではその話題は扱わないことにして、金・銀流出に関する文章を引用しよう。
長崎貿易銅のこと  御代を継がれたはじめの年から、長崎港で外国貿易に使う銅貨が不足して、貿易が行われにくく、庶民たちが産業を失うという報告が奉行所からあって、私に御下問があった。 「簡単に議論すべきこととは思われません。そのことの本質をじゅうぶん考えたうえで申し上げましょう」とお答えした。それからあとで差し上げた草案は、別に本としたもの(『市船議』『市船新例』など)が多いから、詳細なことはここに書かない。その大要は次のとおりである。
「御当家が天下を支配されて、海外貿易が始まって以来、およそ百余年のあいだ、わが国の貨幣が海外に流れ出して、すでに大半はなくなった〔金は4分の1、銀は4分3を失った。しかし、これも、公式に示されたところから推量して言うのである。そのほか、推量できないことは、まお大きな数量にのぼるであろう〕。
 今後百年以内にわが国の財貨がつきはてることは、知者ではなくても明らかなことです。たとえ年々諸国に産出するものがあるといっても、これを人体にたとえてみれば五金(金・銀・銅・鉄・錫)のたぐいは、骨が二度と生じないのに似ている。五穀についてすら、なお肥えた土地と痩せた土地があり、豊作と凶作がある。 まして五金については、産地が多くなく、しかも採掘しようとしてもいつでも得られるものではない。
 わが国の有用の財をもって外国の無用の財にかえることは、わが国にとって永久の良薬とはいえない。むかしから、わが国はまだ外国の助けを借りたことがない。だから、こんにちも、薬以外で外国に求めなければならないものはない。貿易船がむかしのように来なくなったしても、こちらからの必要とするものを手に入れる方法はないわけではない。 もしやむをえないことがあったならば、古代の聖人の制度に『歳入の額を見きわめて支出を定める』(『礼記』王制篇)ということもあるから、わが国の財貨で現在流通しているもの、および毎年諸国から産出するものを見当したうえで、中国および西や南の海外の国々、朝鮮・琉球などに渡すべき年額を定められるべきである。 たとえ、わが国内で売買する物価が倍にあがったにしても、わが国永久の財貨を出しつくして外国に渡すよりは、その憂いは少ないように思われます」などと詳しく意見を申しあげた。 (「折りたく柴の記」から)
長崎貿易の新令
 御先代のとき、長崎奉行所に命じて、長崎で、貿易のために費やされたところの金・銀・銅の数をお尋ねになったとき、「慶長6年から正保4年までの計46年間のことはよくわからない。 寛文3年から宝永5年にいたる計60年間に、海外に流出した金は239万7600両あまり、銀は37万4229貫あまりである。銅については、寛文2年以前の61年間のことはよくわからない。 寛文3年から宝永4年にいたるまでの計44年間に、11億1449万8700斤あまりに達した」と答えた。これは慶安元年以後、奉行所でわかっただけの分である。それ以前には、長崎だけのことではなく、前にも書いたように、外国船はわが国のここかしこに来て商い、わが国の船も、外国のここかしこに行って商売をした。 このほか対馬から朝鮮に入ったもの、薩摩から琉球に入ったものなどは、すべてその数量をはかることができない。
 しかし、試みに、長崎奉行所から書き記して差し出したところを基礎として、慶長以来の計107年間に外国に、流出した金銀のおよその数を算定し、また慶長以来、国内で鋳造された金貨・銀貨のおよその数と比較してみると、金は4分の1が失われ、銀は4分の3が失われたことになる。 だから、今後、金は百年たてばその半分がなくなり、銀は百年以内に、わが国で使用すべきものはなくなってしまう。銅は、すでにいま海外貿易の材料に足りないだけでなく、わが国の1年間の使用量にも足りないのである。わが国に産出する永久の宝ともいうべきものをむだ使いして、外国から来る、ただ一ときの珍しいもてあそびものと交換し、 そうした取引きのためにわが国威を落とすようなことは、適当とは思われない。もし薬品や書籍などを求めるためにやむをえない場合は、現在わが国に流用している数量と、毎年、日本の諸国に産出する数量とを計算して、長崎および対馬・薩摩などから外国に流出すべきものの年額を定めるべきである。 すべてこうしたこともしないで、ただ長崎で、毎年貿易に使用する金・銀・銅の額だけ決められたのは、納得のいかぬことである。
 しかし、たとえ今後これらの額を決められるにしても、いままでのように、1年間に来る船数も、船ごとに載せる物資の数量をも決められないと、密貿易のやまないことは、いままでどおりであろう。だから、まず、毎年わが国に産出する金・銀・銅と、外国に流出する概数を比較して長崎で貿易のために使用すべき年額を決め、次に外国船に載せてくる ところの物資の量を計り、その船数およびその積んでくるものの数まで決めて、積んできたかぎりのものはすべて買い取るようにしたならば、いままでのように密貿易のためにわが国の宝を失うこともなくなり、外国人どもがわが国の法を無視すつということもなくなって、国威は万里の外にまでおよび、わが国の財宝は、万世ののちまで足りるようになるであろう。 (「折りたく柴の記」から)
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<糸割符制度のはじまり>  中世にあっては、中国で生産された高級絹織物が輸入され、その輸入絹織物にたいする需要は公家・社寺の荘園領主主層から御家人層にいたるまで大きかった。 ところが、中国の優れた絹織技術も同時にもたらされ、こうした動きに刺激されて、国内の絹織技術の水準が向上した。京都では、伝統的な絹織技術者であった大舎人座(おおとねりざ)の職人たちが、応仁の乱後、西軍の陣営となっていた地に住んで機織を行い、西陣織として名を知られるようになる。
 また、堺や博多は日明貿易の基地であった関係から、明の技術の影響を受けて絹織物生産が発達し、絹織物業はしだいに地方の都市や農村にまでおよんだ。いっぽう、明では蚕糸業がさかんに行われ、湖糸(こし)と呼ばれる江南産生糸の生産も急増した。 そして、わが国では、完成品である高級絹織物を輸入していた時期から、原料である中国産生糸を輸入する時期へと移行する。
 こうした中国産生糸をもたらしていた日明勘合貿易も天文16年(1547)で終了する。それと前後して、いわゆる後期倭寇が活発な動きをみせるが、それも明政府によって鎮圧される。ここに日本と中国とのあいだに一種の空白状態があらわれ、そこを往復する船は数少ないものとなった。
 このころ16世紀なかばにポルトガルは、マカオに拠点を築き、マカオと日本貿易の一体化をねらった日本貿易カピタン・モール制という制度を設け、一時期空白状態となった日中間に仲介貿易という形式で登場した。 このカピタン・モール制は、ポルトガル国王が日本貿易を王室直営ろし、任命された司令官は日本貿易の全県を掌握するとともに、マカオ滞在中は同市の行政・司法上の最高の地位を占める、といった制度である。やがてポルトガル船は日本に中国産生糸をもたらすようになり、その輸入生糸取引きに関して徳川幕府が糸割符制度を創設する。
 糸割符制度の創設期の状況は、その制度下で輸入生糸取引きに関与した糸割符商人が後世に書き上げた由緒書類によってうかがい知ることができる。それらによると、糸割符制度は、江戸開府の翌年にあたる慶長9年(1904)5月3日、伏見城で、家康の面前で糸割符奉書と呼ばれるものが下布されて始まったと記されている。 そのさい、糸割符制適用範囲の輸入生糸(当初は白糸のみ)は、堺・京都・長崎で、120/100/100の割合で配分されたという。この堺・京都・長崎を三ヶ所(のちに江戸・大坂を加えて五ヶ所となる)と称した。幕府は三ヶ所(五ヶ所)で糸割符仲間を組織させ、その代表を糸割符年寄と言った。
 糸割符制度のはじまりを示す、幕府から下付された糸割符奉書は、原文書と称されるものが天理大学付属天理図書館に所蔵されているので、それを読み下し文にして次に掲げれることにしよう。
 〔糸割符奉書〕
 黒船着岸の時、定め置くく年寄共糸のねいたさざる以前に、諸商人長崎へ入るべからず候。いとのね相定め候うえは、万望み次第商売致すべきものなり。
 慶長九年五月三日           本多上野介(花押)
                    板倉伊賀守(花押)
                  (天理図書館所蔵文書)   
(「古文書の語る日本史」から)
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<「鎖国」とは……>  元禄時代に、ドイツ人ケンプェルがオランダ東インド会社に雇われ、長崎出島に医師として滞在したことがある。彼は歴史に強い関心を持っており、後に『日本誌』を著しているが、この書が長崎に渡来し、その一部分を長崎の阿蘭陀通詞志筑忠雄(しつきただお 1760〜1806年)が翻訳した。 このときに「鎖国」という言葉が用いられており、これが文献上に現れた「鎖国」という言葉の初見であるといわれる。時に享和元年(1801)のことである。
 「鎖国」という言葉を文字通りに解釈すれば、「国を鎖す」という意味で、外国との関係を遮断して国際的に孤立するということを意味している。しかし、江戸時代の初期に幕府の大概政策によって成立した「鎖国」状態は、このような厳しい国際的孤立の状態ではなく、「鎖国的な制限がなされている状態」を内容とするものであるということは、周知のところであろう。
 幕府の行った「鎖国」政策は、明治期以降じつに多数の人々によって注目され論じられてきており、いまだに議論が絶えない課題である。 したがって、「鎖国」についての認識が、けっして一様とは言えないのが現状である。ここではおおむね次のように認識しておくことにしよう。
 すなわち、まず、「鎖国」状態について具体的に整理し、「鎖国」状態を成立させ、展開していく幕府の行為を「鎖国」政策、そして、「鎖国」状態を幕府の大概関係に関わる一つの形式・組織と見る場合に、それを「鎖国」体制とする認識に立つことにする。
 まず、「鎖国」状態とは、朝鮮・琉球・蝦夷との関係を除く、老中の直轄支配・長崎奉行の管轄下において、おおむね次のような基本的要素によって形成されている対外関係に関わる状態と認識する。
@日本船・日本人の異国渡海禁止
A異国居住の日本人の帰国禁止
Bポルトガル船の日本寄港禁止
C唐人・長崎オランダ商館関係以外の異国人の日本渡来禁止
D唐船・長崎オランダ商館関係以外の異国船の日本寄港制限
E異国人の日本居住禁止・制限
F国内港における外国貿易の相手を唐船とオランダ商館に限定
G国内港における外国貿易を長崎一港に限定
H海上銀(投銀投資)の禁止
I異国居住の人との文物交流の禁止
 したがって、このような状態を成立させ、それを展開していく政策を「鎖国」政策と認識し、さらにこのような基本的要素によって形成されている江戸幕府の対外政策を「鎖国」体制と言うように認識する。 (「長崎貿易」 から)
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<江戸時代・昭和時代の「贅沢禁止令」>  江戸時代の一時期、輸入羅紗(らしゃ)類が御法度になったこともあるが、わが国では養老律令以来、一貫して禁制品にされたのは絹であった。そして、この贅沢禁止令は、その背景を変えながら、後々まで続き、昭和15年7月7日、「奢侈品等製造販売制限規制」が公布された。これが悪名高い七七禁令で、指輪や宝石類とともに、白生地羽二重や丸帯などの絹物が対象になった。 日米開戦の千円、「贅沢は敵だ」の標語が出た時代で、暗い谷間に落ちていったころである。日本ではこれが一般的な奢侈禁令としては最後のものとなった。(T注・しかし現代でも「贅沢は敵だ」と主張する人や、その考えを基本に市民運動を起こす人がいる。 特に最近は資源・環境問題とからめて誰も反対できない「正義論」として目立っている。本人たちは「小さな親切」のつもり、受け取る方は「大きなお世話だ」の反感)。
 贅沢禁止令は欧州の諸国にもあった。ここでも絹物がその第一の対象になっている。欧州でこの種の禁令が出たのは13世紀の末だという。英国ではエドワード3世治下の1336年ごろで、衣服の制限令というより、道徳規範のようなものであった。 1363年にはには「身分相応の衣服」を強制し、奉公人や一般の職人の絹製品の着用を禁止した。欧州においても、「分を守る」ということが、体制を維持する上で大切なことであり、絹の産出しない国だけに、効果は大きかったと思う。
 当然この種の禁令への批判も出てくる。モンテーニュの有名な『随想録』(エセー)の第43章「贅沢を取締まる法律について」はその代表である。その中で絹や黄金などを庶民に禁止するのは、これらの価格を増し、これを用いてみたい気持ちを強くもたせるだけだと皮肉っている。 ここでも黄金とならんで絹が贅沢品の双璧となっている。これが書かれたのが1580年代のことである。英国ではエリザベス1世時代、国力がつき、舶来品崇拝熱が出てきた1601年、贅沢禁止令は一括廃しされてしまった。いずれも徳川幕府が開かれた時代のことである。 (「絹の文化誌」 から)
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<司馬遼太郎/ドナルド・キーンの「鎖国論」> 司馬遼太郎とドナルド・キーンが江戸時代について対談している本があった。その中から今週のテーマに関係有りそうな部分を引用しよう。
キーン 近世にオランダ人が日本にはじめて来たころは、日本は山ばかりだと思ったでしょう。自分の国と正反対でした。
司馬 いまのキーンさんのケンペルの話と同じようなことが、シーボルトにもあります。シーボルトもドイツ人ですから。「日本側がどうもちがう発音だと言ってきたときには、 自分のオランダ語は山オランダ語だと言え」という伝承があったのかなあ。
キーン もっとも、シーボルトはケンペルの『日本誌』を読んでいたのでしょう。最近、オーストラリアで教えているドイツ人の女流学者が、ケンペルがドイツ語で書いた本の英訳(1727年に刊行)を読んで、誤りが非常に多いことに気が付きました。 そこでケンペルの原文を読むと、ケンペルはもっともっと日本のことに感心していたことがわかりました。始めに英訳したスイス人は、なるべくヨーロッパ人を怒らせないように、けんぺるにいろいろ条件をつけて、たとえば仏教が嫌いだというふうに原文を変えたわけです。 今度新しい英訳をつくるそうですから、きっとケンペルの仕事が見直されるのではないかと思われます。
司馬 楽しみですね。
キーン ええ、ケンペルは日本のことを高く評価したにちがいないです。もちろん、いままであった翻訳でもそれはわかりますけれども、でも翻訳者が勝手に文章を書いていたらしいのです。 日本人にとって一番大切なところは、ケンペルの『日本誌』の最後のところですが、その日本語訳が志筑忠雄(しつきただお 1760〜1806年)によって徳川末期の1801年に出まして、「鎖国論」と訳されていました。私はドイツ語の原文を覚えていませんが、「鎖国」という言葉がそのときに訳語としてでてきたのです。新造語でした。そのときまで、日本語に「鎖国」という言葉はなかったそうです。 翻訳として「鎖国論」がでてきたときまで、日本人は自分たちが鎖国のなかにいるとは気がつかなかったようです。
 ケンペルは、鎖国は非常にいいと言っていました。私たちの常識に反します。ヨーロッパ人としては、鎖国は貿易の自由の障害になるとか、外国人が自由に日本に入れないから大変不愉快だと思うはずですが、ケンペルは「日本に何も欠けているものはない。すべてのものがあるから、鎖国がいい」と言っています。 (「世界のなかの日本」から)
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<小袖をめぐるモード>  江戸時代の人々が主に着用した衣服は小袖であった。小袖は、現代のきものの祖型であり、上下一部式で、袖口が詰袖で袂があり、垂領(たりくび)で衽(おくみ)がある。
 「小袖」といっても単純に袖が小さいという意味ではない。袖丈が地面に触れるほpどの振袖から庶民の浴衣に至るまでこの範疇に含まれる。「小さい袖」というのは、中世まで中心的な位置を占めていた狩衣や直垂(ひたたれ)といった大袖型式の衣服に対しての呼称なのである。
 衣服の変遷を数世紀に及ぶスパンで見ていくと、下位で用いられている実用的な衣服が次第に上層の公的な衣服型式に採用されていくという傾向と、下着が表着(うわぎ)に変化していくという傾向が認められる。前者を形式昇格の原則、後者を表皮脱皮の原則と呼ぶが、わが国の服装史における小袖は、この二つの原則にきわめて忠実な変遷を示すものとして注目される。
 和様の衣文化の基礎ができあがった平安時代の後期のころ、小袖は上層の公家階級において下着として用いられていた。下着は実用性を第一とした機能的な衣服である。それゆえ小袖の場合も、庶民のあいだでは労働着として用いられることが多かった。つまり、小袖はもっとも肌に近い衣服であると同時に、もっとも簡便な衣服であり、服飾のヒエラルキーの最下位に位置していた。 しかし、時代の下降とともに、小袖は表着としての型式を調え、次第に上層の衣生活に進出するようになっていった。
 近世の小袖は古代とはその有り様を一変させ、下着としてはもちろん、上層階層の表着にまで昇格し、老若男女、貴賤高下の隔てなく、衣生活のほとんどの領域を占めるに至ったのである。 (「事典 しらべる江戸時代」から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
折りたく柴の記                     新井白石 桑原武夫訳 中公文庫      1974. 2.10
古文書の語る日本史 6江戸前期                  所理喜夫編 筑摩書房      1989. 7.30
世界のなかの日本 十九世紀まで遡って見る    司馬遼太郎/ドナルド・キーン 中公文庫      1996. 1.18
事典 しらべる江戸時代             編集代表/林英夫・青木美智男 柏書房       2001.10.15
絹の文化誌                    篠原昭・嶋崎昭典・白倫編著 信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10
( 2005年3月28日 TANAKA1942b )
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(16)代表的輸入品が主要輸出産業に
西陣の技術が地方に拡散
<サプライサイドから絹産業を見る> 「贅沢が産業を育てた」と主張するには、「贅沢」の話だけではなく「産業」の話も扱わなくてはならない。絹をディマンドサイドからとりあげてきたので、今度はサプライサイドから、つまり生産者側を取り上げることにしよう。 朝廷の・豪商の・庶民の贅沢としての「絹」は多くの文献で扱われているが、「贅沢の対象としての絹産業」という文献は見当たらない。江戸時代を「贅沢」と「産業」を結びつけて考える人はいなかったようだ。「贅沢」は文化面から、「産業」は歴史・郷土史から扱われている。 「こうした今まで別々に扱われていたテーマを関連づけてみると、新しい見方が出来るだろう」というのがTANAKAの考え方。そしてそれが視野狭窄にならない姿勢だと思う。
 東福門院和子の衣裳狂いから始まった絹への贅沢嗜好が新井白石を悩ましたが、開国して気がつけば「絹産業」が日本の主要な輸出産業になっていた。貿易赤字の主な原因であったものが、何故主要な輸出産業になったのか?経済に興味を持つ人間なら知りたいことのはずだ。 日本の産業を考えたり、「国際競争力」などという言葉を使いたがる人には知りたいテーマであるはずだ、などと考えながら、絹産業がどのように発達したのか?いつくかの文献から引用することにした。
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<西陣機業の空洞化>  16世紀には、堺とともに二大織物業の産地として競合していた京都西陣は、江戸時代に入ると江戸幕府の京都保護政策と機業家の研鑽によって、堺を圧倒する随一の機業地となった。 江戸幕府のとった身分制支配は、住宅と衣装による支配といってよく、とりわけ衣装による表徴的区別が重視されたので、高級絹織物を主体とする西陣は急速に発展した。 17世紀末ごろの状況を伝える『京羽二重』によると、徳川将軍家の御呉服所7軒をはじめとして、京都に呉服所をもつ大名は143を数え、大名呉服所の数は167軒にのぼっている。
 西陣の企業家たちは、織物にかける熱意と研鑽の面でも他都市のそれを圧倒していた。16世紀から17世紀初めにかけて、井関氏の紋織、野本氏の金襴、俵屋の唐織などに代表される新たな織物技法を導入して、西陣は飛躍的な発展をとげた。 羅の復興や天鵞絨の織技の習得などもその一つである。さらに17世紀から18世紀にかけては、織技の発達に加えて、染と繍(ぬいとり)の技法にめざましい発展があって、かえって織技の方としてな白生地の需要増大に対応するかたちで、羽二重・縮緬(ちりめん)・紗綾・綸子などの生産を主とするにいたっている。 そして、羽二重における撰糸羽二重・白羽二重・紋羽二重、または縮緬における紋縮緬・柳条縮緬などのように、織技は多様化の方向で発達をみせるようになった。
 品質の向上と生産の増大は西陣共通の目標となり、織物技法も中世的な家伝の秘法というかたちをとらず、西陣の同業者たちの共有となった。元禄五年(1692)の「織物仲間一礼証文之事」によれば(『三上家文書』)、御寮織物司(ごりょうおりものし)六人衆は仲間をつくり規則を定め、禁裏御用や幕府御用については仲間全員で分配し、 仲間全員の責任と信用を保持していこうとしている。また仲間の相互扶助と団結による家名の相続も、御寮織物司たちは誓いあっている。
 西陣織物の製作工程は複雑で、また製織にいたる準備の過程もさまざまな作業分野から成り立っている。原料糸の供給と加工から織物の完成までの工程のうち、いくつかは専門の仕事として織屋から独立する。17世紀に織屋から独立して専業化したものに、機(はた)道具屋・練屋・紋屋・染屋などがあるという。 とくに17世紀末から18世紀初めにかけて、扇の絵や模様染の絵を描いたりしていた宮崎友禅の考案した染色の技法は、友禅染、または京友禅の名を得て、京染め物の世界をさらにおしあげた。
 しかし、享保15年(1730)上立売室町(かみだちうりむろまち)西入ルから出火した西陣焼けとよばれる大火で、西陣160余町のほとんどを全焼した。室町通以西、北野神社以東、一条以北、廬山寺通以南の類焼地は機業地のまさに中心地であり、この大火によって離散した技術者が地方機業に迎えられて、桐生や足利などのように西陣をおびやかす機業地に成長したところもあり、 西陣は機業の再建と地方機業勃興による圧迫という内外からの危機に遭遇した。
 大火以後、西陣は未曾有の苦境に立たされたが、延享2年(1745)西陣高機(たかはた)織屋仲間が公認されたのを最初とし、同業者の諸株仲間をつぎつぎと結成して、地方絹に対抗するとともに、西陣機業家の共存をはかった。 しかし、原料糸の確保や資金繰りの問題から、機屋たちは糸仲買や糸問屋への従属を強いられることも少なくなく、また販売上の問題から、上仲買(かみなかがい)や下仲買(しもなかがい)とも特別な関係を結んだりしながら、西陣としての総体的な発展の道を求めた。 上仲買とは、西陣区域に店を設け、機業家と卸売または小売人との間に立って、継続的な取引きをおこなった仲買・問屋であり、下仲買とは二条以南の下京中心部あたりに店舗を構えて、西陣地区の仲買から織物を仕入れる仲買・問屋であった。 (「京都 歴史と文化」から)
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<蚕品種の変遷> 「品種改良にみる農業先進国型産業論」でも取り上げた通り、江戸時代から日本人は品種改良に熱心であった。庶民はアサガオの品種改良に凝っていたし、百姓はもちろん品種改良に取り組んでいた。そうした日本人が絹・カイコにはどうであったのか?『日本人が作りだした動植物』から引用してみよう。
 古い昔のことは知る由もないが、江戸時代になると、養蚕に関する技術書がつぎつぎに刊行された。それらの中には蚕品種について記載されたものもかなり見受けられる。
 蚕書の中で最も古いのは元禄15年(1702)年に奥州津軽藩の織会所から出版された『蚕飼養法記(こがいようほうき)』であるが、この書には「土まゆ」「きんこまゆ」「金目貫」「小まるまゆ」「白玉」「かなまろ」「石まる」などの名があげられている。 「土まゆ」は多数のカイコが集まって一つの繭を作る多蚕繭で、真綿の原料にした。 (T注・半月ほど前にTVで、どこかの試験所で「数匹の蚕を使って大きな繭を作ることに成功した。この繭はインテリアとして利用できる」と報じていた。土まゆのことなら江戸時代から知られていたことで、特に新しい事とは思われない。) また「きんこまゆ」は絹子まゆで、上等の繭の総称、生糸用に供した。これらは繭形の大きいもの、小さいもん、榧実(かやのみ)形(かやなり)、楕円、俵形、黄色、白色などさまざまなものがあった。
 江戸時代には蚕種家(蚕種の製造販売を行う業者)が専業となっていたが、その多くは識見すぐれ、経験も豊かで、単に蚕種の製造販売ばかりでなく、独自の蚕品種を育成そたり、また養蚕農家の技術指導に当たった。江戸時代から明治末期まで、日本の蚕品種の改良はこの人たちによって行われていたのである。
 蚕種製造には砂質壌土の畑のクワが適する。このため蚕種家は河川の沿岸に集まり、いわゆる蚕種本場の名で知られていた。このような土地はカイコノウジバエ(寄生蠅)による被害が少ない。常陸国結城地方は文武(703)の昔から蚕種の本場として知られ、各地に饒種(にぎたね=豊饒種の意味)を提供していたが、寛保2(1742)年大洪水のため流出し、蚕種の製造が不可能になった。 そこで結城の蚕種家たちは岩代国伊達地方(阿武隈川沿岸)に格好の地を探し求め、そこの如来堂を借り受けて蚕種を製造し、その名称を「如来堂」と名づけて販売した。
 このころ土地の蚕種家からもつぎつぎとすぐれた蚕品種が作出された。すなわち「赤熟」「青熟」「世界一」「又昔」などである。いずれも中縊れのある俵形の白繭を作る。いわゆる日本種の代表とも言うべきものである。これらはいずれも純糸分離法によって作出されたものと思われる。 これらの品種の原種がもともと伊達地方にあったものか、それとも結城からもたらされたものかは知る由もない。
 ではこの時代の蚕品種の実力はどの程度のものだったろうか。幸いなことに伊達地方の蚕種家の中には毎年自家で製造販売した蚕種の親繭(正しくは親蛾の脱出した出殻繭)をたんねんに整理保存している家が数戸あった。 外山亀太郎博士はこれらの繭殻を集めて長さ、幅、繭層量(博士は繭糸量と表現したが、繭糸量は今日では繰糸した繭糸の量と定義されているので繭層量と表現したほうがよい) などを測定した。こうして宝暦から慶応に至る115年間の繭の性状の変遷のあとをたどることができ、選抜技術のすばらしさに博士は驚嘆している。
 明治の初頭フランスやイタリアへ輸出された蚕種の大部分は「青白(せいはく)」系の品種だった。ヨーロッパ人は白繭よりも着色繭を好んだ。「青白」は緑色の繭を営む。当時日本の品種はもとんど白繭で、着色繭としてはわずかに「青白」種だけが実用になっていた。 この品種は蚕種製造中の蚕室内へたまたま飛来したクワコ(野性で、カイコの近縁種)の雄蛾が、カイコの雌蛾に交配してできたものの子孫といわれる。虫は丈夫だったが、繭糸量はやや少なかった。
 ヨーロッパへの蚕種輸出は明治10年代の終わりには止まり(パスツールの研究により微粒子病対策が完成した)、再び白繭種の時代に戻った。このころ日本在来種に中国やヨーロッパから輸入した外来種を交配して新しい品種を作出する試み(交雑固定)が行われた。 このうち日中交雑固定種は飼育容易で、糸量が増大する。また日欧交雑固定種は虫が大きく、収繭漁が増大する。カイコでは異系統間の交雑が容易なので、多くの蚕種家はそれぞれ独自の交雑固定種を作り、互いに競い合った。このため異名同種や同名異種が輩出し、全国あわせて1千品種にも達するありさまだった。 このため製糸原料繭雑駁さが著しく、品種統一の必要性が叫ばれた。(「日本人が作りだした動植物」から)
<欧州で評価された、蚕の品種改良書『養蚕秘録』>  享和3(1803)年に出版された蚕書で、著者は但馬の蚕種家上垣守国。江戸時代に出版された蚕書の中の白眉と言われている。内容はわが国蚕業の起源、カイコの種類、蚕種の取り扱い、クワの栽培、蚕室、蚕具などについて述べ、さらに飼育、蚕病、製糸法等を詳述し、また和漢蚕桑故事、伝説等を紹介するなど、広汎にわたっている。
 この本はシーボルトが帰国するとき持ち帰り、それをライデン大学のJ・ホフマンがフランス語に翻訳したものに、養蚕学者ボフナーが解説を加えて1848年出版された。伊藤芳樹氏によるとこの本の仏訳はほかにも2種あるという。1つは駐日フランス公使館の一等通辞メルメ・ド・カションの翻訳したもので、サン・マルスランから出版された。 このイタリア語版もミラノから出版されている。他の1つは東洋語学校教授レオン・ド・ロニーにより日本語から直接仏訳され、パリの帝国印刷所から1868年出版された。
 カイコの微粒子病病原体を発見し、その予防策を完成してフランス養蚕業を救った有名なパスツール博士も、政府の特命を受けて、初めて南仏に赴いたときにはカイコの取り扱い方をまったく知らず、ホフマン訳の本書からカイコの取り扱い方を学んだという話が残っている。(田島弥太郎) (「日本人が作りだした動植物」から
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<諸藩の養蚕振興>  参勤交代の制度は、各藩にとり大きい財政負担となった。そのうえ年貢金のほかにも、諸藩は幕府の命令で、各地の土木や建築などの工事を負担させられることが少なくなかった。このような事情のなかで各藩は、窮乏した財政を救うため、あるいは乱脈な藩政を立て直すため、藩内の産業振興に意を注ぐようになった。 各藩のの養蚕振興策をみると、それぞれに特徴がみられるが、いずれの藩も新しい技術を導入して振興をはかっていた。
 米沢藩では、藩主となった上杉治憲(鷹山=ようざん)が、藩政の再建をはかり殖産製作を打ち出した。安永年間には、国産役所を開いて漆方・桑方・楮方を置き、漆・桑・楮のそれぞれ100万本を近国から購入し、藩内のあらゆる土地に栽植させる計画を進めようとした。しかしこの計画は途中で放棄せざるをえなくなった。 のちの寛政年間になり、 新たに「蚕桑方」を設けて養蚕の振興がはかられた。このときな専門の職工を京都から招き、良質の織物生産にも意を注いだ。また蚕桑方が中心となり、飼育法・上蔟法・採種法(蚕種のとり方)・桑の植え方などを述べた『養蚕手引』(文化3年=1806)を版行して、藩内の指導に当たった。
 津軽藩は都から遠くもあり、また冷寒の地であるため、農業生産に遅れがみられたが、藩主松平信政は鋭意産業の奨励し努め、藩内に産出しない農作物の種子や果樹の苗を取り寄せ、栽培を試みるなどした(その中に桑も含まれていた)。また学問に通じた野本道玄を京都から招き、産業振興の指導を委嘱した。 道玄の提言で、養蚕の普及と高級織物の生産を奨めることになり、桑の栽植を開始するとともに、さらに京都から養蚕と織物の指導者、および製糸工女を呼んだ。また蚕種を購入する資金のない農民には、資金の貸し付けを行ったりもした。農民には蚕の飼育法を理解させるため、道玄に『蚕飼養法記(こがいようほうき)』を執筆させ、元禄15年(1702)に版行して配布するなどの豊作もとった。 ちなみに、本書はわが国で一番古い蚕書なのである。
 肥後藩においても、藩主の細川重賢が家臣の力を借りて政治の改革を行っており、とりわけ養蚕業の発達には少なからぬ力を入れていた。『熊本県蚕業史』によると、宝暦10年のころ、桑を植えさせ、蚕飼のことをすすめ、城下の市中に糸採機織所を設けた、とある。また藩はこの分野に詳しい島己兮(きけい)を京へ上らせた。 己兮は近江から職工を連れて帰ったが、さらにその後にも糸繰りの熟練者(女性)3人を呼び寄せ、技術の普及をはかった。島己兮は各地を講話して歩くとともに、みずからは『養蚕栽桑同治法要略教論』を著した(宝暦13年=1763)。この冊子は、郡郷村へ回覧して書き写すよう指導が行われ、そのために郡代の御触状が出されたほどの、熱意の入れようであった。
 この3つの例では、経験者や指導者の意見を取り入れ、さらに専門の職人を呼び寄せ、かつ指導書(蚕書)を執筆させるなどの、こまかい配慮のもとで養蚕の振興が進められており、そこには共通するところが多くみられる。 しかしすべての藩がこのような進め方をしていたわけではなかった。また、各地で繭や生糸の生産が進んでいった一方では、農民および糸繰工・織工・染工に対する労働の強化や、利権をめぐる商人の争いの増加や、さらに絹織物にたいする新たな徴税などがあった。 (「ものと人間の文化史」から)
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<オランダ船の更紗輸入>  異国的な花鳥・人物・幾何学文様等、様々さまざまな模様を色鮮やかに主として木綿布に染めたものを、今日、われわれは「さらさ」と呼んでいる。「さらさ」の発祥地についてははっきりしていないが、今日もっとも古い染色の歴史をもつインドに求められている。 また、「さらさ」の語源についても、西インドの地名スラット Surat からきているとする説、ポルトガル語の Saraca,Sarasa 説、スペイン語の Saraza 説、ジャワ語の Srash 説、インドのグジャラットの土語 Sarasa 説等、従来からさまざまな説がとかれているが、いまだに確証が得られていない。
 「さらさ」がいつ、誰によって日本に持ち渡られたかも決め難い。しかし、16世紀後半には、ポルトガル・スペインもしくは琉球・中国等の船で輸入されていたと推測される。16世紀から17世紀にかけてヨーロッパからポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスが相次いで日本に来航し、その舶載品の中に異国情緒豊かな「さらさ」が含まれていたことは容易に推測されよう。 当時、「さらさ」は日本で好奇の眼を、おって迎えられ珍重されたに違いない。今のところ「さらさ」に関する最古の記録といわれる慶長18年(1613)のイギリス人ジョン・セーリスの日本渡航記に、当時の平戸の領主等に対して、pintados pisgars すなわち、更紗ピスガルを贈り物にしたという記事がみられ、「さらさ」が贈答品として使用されていたことがわかる。
 日本に輸入された「さらさ」はさまざまなもに使用された。江戸時代初期には、陣羽織や小袖、帯、茶道具、祇園祭の装飾品などに珍重された。しかし、中後期になると、風呂敷や煙草入れなどの袋物や下着や襦袢・着物の裏など実用的な方面にも用いられた。 『守貞漫稿』に「文政天保の頃来船の華印布俗に廣更紗と云物価廉也、故に三都ともに男女晴着略服の時の下着に専之し」とあるように文政・天保期頃になると「さらさ」も廉価なものとして一般にも用いられていたようである。
 日本に輸入されて、「さらさ」は紗羅紗・佐羅佐・佐羅左・佐良佐・紗羅紗・皿紗・更紗と表記され、沙羅染(しゃむろぞめ)・花布(かふ)・印花布(いんかふ)ともよばれた。また、特に金箔・金泥を施したものを金華布・金ザラサ・金入さらさ等ともいっている。 「さらさ」の到来は近世の友禅染をはじめとする日本の模様染の発達に多大な影響を与えた。今日よく知られている鍋島更紗をはじめとして、京更紗、堺更紗・長崎更紗・天草更紗等、インド更紗の模造ともいえる和更紗が製作されたのである。 (「日蘭貿易の史的研究」から)
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<主な参考文献・引用文献>
京都 歴史と文化                        林屋辰三郎他 平凡社       1994. 4.18
日本人が作りだした動植物── 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会 裳華房       1996. 4.25
ものと人間の文化史 絹T                      伊藤智夫 法政大学出版局   1992. 6. 1 
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
( 2005年4月4日 TANAKA1942b )
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(17)拡散する技術情報と職人
技術空洞化と地方産業の発展
<輸入制限と西陣の大火により、諸藩は絹産業を奨励> 新井白石の輸入制限と西陣の大火により、絹の供給不足が起こる。それに対処するために諸藩は養蚕・絹織物産業を奨励する。 東福門院和子から始まった衣装狂いが、糸割符貿易を促進し、新井白石をして輸入制限をさせる。ここに贅沢産業が日本各地で奨励されることになる。 幕府が贅沢を厳しく制限するが、町人・百姓の贅沢嗜好は変わらない。贅沢ができる人たちが増えてきたことによって、贅沢産業が勃興する。 日本各地で始まった養蚕・絹産業、これらがどのようであったのか?生産者側の史料を幾つか紹介することにしよう。
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<桐生の織物業>  兵農分離をへて成立した近世社会は、食料を生産する農民が住む村と、これを消費する武士・職人・商人が住む町とが切り離された社会であった。むらの生産物は、年貢としてこれを徴収した領主をとおして、あるいは、農民みずからが直接に売り払うという行為をとおして町へ供給され、町の人びとの生活を維持していた。
 江戸時代の農民の生産物販売については、慶安2年(1649)に幕府が出した、いわゆる「慶安の触書」でも、生活の向上のために少々の商心(あきないごころ)を認めており、必ずしも全面的に禁止されていたわけではない。 ただし、触書の中には「年貢の為に」とあり、この時期の生産物の販売は、あくまでも納税のため、さらには農民が再生産をつづけていくため、という枠をこえるものではなかった。
 しかし、ほぼ寛文〜延宝(1661〜1681)のころをさかいに、生産力の向上や農民闘争の成果として、農民の手元にしだいに剰余生産物が恒常的に残るようになる。農民はこの剰余をいっそう拡大することを目的として、生産を行うようになった。年貢納入や再生産のためだけではない。売るための生産活動、すなわち商品生産がはじまったのである。
 商品生産の開始は資本主義的生産の第一歩であった。ただし、それはいまだ農業経営者である農民みずからが労働するかたちをとっていたことから、経営者が賃金労働者をやとって生産を行う資本主義的生産と区別して。「小商品生産」段階とよばれる。
 さて、こうした小商品生産がすすむと、各地に特産物地帯が形成されるようになった。元禄〜享保期(1688〜1736)は、全国各地において特産物地帯が形成される時期であった。大坂西北地方の菜種(灯火用)、大和の木綿(衣料用)、常陸・下野・薩摩の煙草などはその代表的な例である。さらにその後、宝暦〜天明期(1751〜1789)になると、これら特産物地帯は質・量ともに飛躍的な発展をとげた。
 上野地方では、中世においてすでに桐生付近の仁田山絹、藤岡付近の日野絹などの名が示すように、各地で養蚕が行われた。しかし当時は国内産の生糸の質が悪く、京都西陣をはじめとして、織物の原料糸は中国産の輸入白糸(染めてない白い生地のままの糸)にたよっていた。桐生は、おもに当時質の悪い国内産の和糸を使用し、衣坐機(いざりばた)とよばれる旧式の織機を用いて平絹織物を生産する産地であった。
 ところが、絹の需要が拡大するのとともに白糸の輸入が増えて、貿易支出が増大したため、幕府は貞享2年(1685)以降、数度にわたって輸入の制限を行なった。このため西陣などの原料糸として、国産糸の需要が急速に高まった。
 正徳3年(1713)、幕府が国産糸の使用、養蚕奨励策を打ち出したこともあって、全国各地の養蚕業がさかんになり、上野地方もいっそうの発展をみた。こうした状況のなか、桐生には享保7年(1722)に三井越後屋の出店が設けられ、同8年ごろ京都から九兵衛という職人が来て、吟手染という新しい染め方を伝えた。ついで享保18年ごろには、京都の染物師張屋久兵衛・頼兵衛らが、紅染の染色技術を伝えた。
 その後、元文3年(1738)には、京都から新型の織機である高機(たかはた)が伝えられた。これは、享保12年当時7,000機といわれた西陣織機が、同15年の大火により3,000余機を失ったのをきっかけに、一部の職人が地方へと移動したことによる。
 高機生産の開始に伴い、当時の高級織物である縮緬が寛保3年(1743)から、絽が延享2年(1745)、飛紗綾(ひさあや)が寛延元年(1748)、紋絽が宝暦年間(1751〜1764)から、それぞれ生産が開始され、江戸・京都方面へと送り出された。
 西陣織の本場である京都への桐生織物の進出は、従来特権的な地位を保ってきた京都側に、大きな衝撃を与えた。寛保4年、西陣高機織屋仲間31人は、桐生地方の新規紋織の停止を幕府に請願した。そのなかで高機織屋仲間は、原料生糸の入手が困難になったうえ、製品の販路が縮小された、休機や減機をしなければならない機業家が続出しているという窮状を訴えている。
 桐生では出稼ぎの機織奉公人の雇用も増えてきて、宝暦7年の記録によると、桐生新町1〜7丁目で奉公人数331人(内男212人、女119人)が知られて、明和年間(1764〜1772)には館林郊外の川股に、桐生むけの奉公人宿が7軒あり、ここでは年間総数700人もの奉公人を口入れしたことが確認されている。
 その後、天明3年(1783)には、岩瀬吉兵衛が桐生に滞在して紡ぎ車に改良を加え、「八丁車」と呼ばれる水力利用の撚糸を発明した。さらに、天明8年、西陣がふたたび大火によって大きな打撃を受けると、桐生地方へ下った西陣の織師やその門下により、緞子・金襴・繻子・御召縮緬・天鵞絨などの高級織物が織り出されるようになり、西陣を圧倒する勢いとなった。
 また、このころになると、北上川の養蚕、中上州の製糸、桐生・伊勢崎の織物というように、地域的な分業も行われるようになった。機屋の作業も、機織・糸繰・紋引などの分業化が進んだ。
 こうした生産様式の普及や拡大を基礎に、天保年間(1830〜1844)になると、機屋の一部には、多くの雇用労働力を用いて、堅染・紡績・染色・機織・製織という生産工程のいっさいを自家作業所で行うマニュファクチュア経営もみられるようになった。
 以上のように、18世紀中頃における西陣技術の移入を契機として、桐生織物業は飛躍的な発展をとげ、「関東の西陣」と呼ばれるまでに発達した。なおこの時期、桐生と同じように織物の特産地として発達した地方に、野州足利、武州八王子などがある。 (「大系日本の歴史10」から)
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<「足利織」の成立>  文献によれば、奈良時代に足利産の織物が東大寺の大仏開眼に際し献上されている。このおりものは獣の毛を原料にしたものと考えられている。また、鎌倉時代に足利義氏(足利氏四代目当主 幕府の重臣)が、幕府の執権北条時頼に毎年染め物を贈っていた話が『徒然草』(第217段)に載っている。この織物は絹の白生地を美しく染め上げたものと考えられている。 これらの例のように、足利織物は大変に古い歴史を有している。しかし、このような文献上の織物は、後の時代のいわゆる商品としての足利織物とは異質なものであり、いずれも特産品な、工芸品的なものであったと思われる。
 商品としての足利織物は、江戸時代の中期に成立した。当地で「きるい」と呼ばれた家々の自家用織物として成立していた綿、あるいは絹綿の着尺織物が、おそらく余剰分、あるいは注文分が、商人の手で集められ、商品化され、全国的に出荷された。18世紀の頃にはすでに「足利結城」など、高い評価を得た綿織物が知られていた。
 明治時代の中頃までの足利の農村では農家のほとんどが自家用の織物を織った。女性たちが真綿(屑繭)から手で糸を紡ぎ、それを草木染めし、手機で織物を織った。平織りで小幅のきもの用の織物であって、これが「きるい」である。この種の織物、それを作り出す技術が、江戸時代中期以降、商品としての「足利織」につながったと考えられる。
 江戸時代の足利地方は、幕府により徹底的な分散支配製作が取られていた。1705(宝永2)年に戸田氏1万1千石足利藩が成立したが、足利地方を構成する足利郡、梁田郡には石高の半分しか置かれず、足利地方全体に対する藩の支配力、統制力は弱かったと考えられる。また、城が築かれることもなく、在郷町として一続きの街村として成立していたいわゆる足利町の東部分(足利新田町)の喜多川に、藩の陣屋が設けられていた。
 足利地方を貫流する利根川の支流渡良瀬川には、江戸に年貢米を運ぶことを主たる目的として、1624年(寛永元)から農民資本により猿田河岸(やえんがし)ができ、1649年(正保2)に幕府から認可されていた。水運の便は、江戸時代中期以降、沿岸の農村に江戸向けの商品作物や菜種・木綿・麻など興業原材料物の栽培をもたらし、同時に農民による農村工業の成立をも促した。足利地方はこの傾向はこの傾向が特に強かった。 水運では次第に米以外の積み荷が増加し、多くの河岸と回漕問屋が成立し、渡良瀬川水運の終点足利猿田河岸は発展し、川沿いには街村が成立し、新たな機能を備えた飛脚問屋取次も成立した。
 足利地方は北関東では例外的に赤土(関東ローム層)を乗せた台地を欠き、水田耕作が広い。米も豊富で安かったとの指摘もある。反面、桑栽培の適地は乏しく、したがって養蚕は左官ではなく、生糸の生産業は興らなかった。 織物を作る場合、足利の人は生糸は西の上州(群馬県)から、綿糸は南の東毛(上州東部)や武州(埼玉県)、東の野州(栃木県)から糸商を通して購入した。西の絹織物地帯、東、南の綿織物地帯に対し、原料生産のない足利地方が次第に絹綿交織織物地帯になっていく背景がここにあった。
 1654年(承応3)に足利新田町に上・中・下三織物取引市場が作られた。市場に出て日本各地の織物問屋と足利の織物生産者とを結び付けたのは、京屋、嶋屋といった全国規模の飛脚問屋の桐生視点の足利町取次ぎ屋であった。彼らは猿田河岸にも店を持った。織物では一般大衆向け綿織物を中心に生産が進んだ。木綿縮(17世紀前半)、小倉織(18世紀後半)、足利結城(18世紀末)などの人気商品はいずれも綿織物であった。
 18世紀の末頃、寛政年間には足利の織物「足利織」は、完全に商品化を果たしていた。町にも村にも農民、商工民による専業の機屋(元機)が成立し、足利町には原料糸商が出店し、次第に力を付けていった。そして、飛脚取次屋から買次ぎ商(のち買継ぎ商)が分離、成立し、回漕問屋と組んで流通も独占し、産地支配力を付けていった。 19世紀初頭の文化年間には京都菱陣織地域から、桐生を経て、高機が足利にも入り、綿織物生産にも応用され、生産力向上と品質向上に大きな寄与をした。また、長く続いた流通における桐生市場の支配から独立する努力が18世紀末から続けられてきたが、1832年(天保3)に独自の足利織物市場が開設された。桐生側の打撃には大きいものがあった。
 足利は桐生と異なり、織物生産の仕組みは農村工業の方向へ進んだ。すなわち元機は織物生産の企画、統括、販売を行い、染め、撚り、準備、織り、整理等々の、ほぼ全行程を農村の農家の手に委ねた。生産の中心の織りを担当したのが賃機(ちんばた)で、「きるい」を織った女子が労働力の主力であった。賃機は一切の機台、機具、原料糸を与えられ、注文の織物を織り上げ、元機に引渡し、その量に対して工賃を受け取った。 18世紀末の事典で足利の織物生産は、前貸し制を伴う問屋制家内工業が主流となっていた。こういった製造工程の足利地域内における分業が幕末の事典で一般化し、織物産業(機業)はたの農村工業とは異なり巨大な地場産業となっていった。
 1867年(慶応3)の「足利最寄織屋仲間連名帳」によれば、桐生組に入っている足利郡西部の数村を除いても610名に及ぶ多数の足利組の織屋の存在を知ることができる(足利教育会『足利の歴史』などの、故荒井勝の研究による)。 これを元機と考えた場合、この下に数千戸の賃機が存在したはずである。機屋の数は桐生領五四ヶ村のそれとほぼ同じである。機屋のうち184名(30%)がいわゆる足利町(足利五箇村と足利新田町)である。
 安政の開港後まもない1862年(文久2)、大正〜昭和期に日本有数の輸出絹織物製造販売業者に発展する足利町の織屋秋間家では横浜から輸入綿糸を購入し、絹織織物の製造に取り入れている(同じく荒井勝による)。開港による国内生産糸の価格暴騰で「桐生織」側は大きな打撃を受け、「足利織」側は逆に発展した。 (「京都、リヨン、そして足利」」から)
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<地方機業の絹>  西陣機業を揺さぶる絹機業が地方に興るのは、18世紀の20年代からである。町人はいうまでもなく農民にまで広がった絹需要の拡大と和糸の生産増加を背景にして、まずは丹後に縮緬生産が興る。 堀江英一氏によれば、1720年(享保5)丹後峯山の絹屋、絹屋、左平次という者が西陣から縮緬技術を盗み出して中野・竹野郡に伝え、2年後には加悦(かや)の絹屋も与謝郡に伝え、生産勃興した。縮緬は経糸(たていと)に無撚の生糸、緯糸(よこいと)に郷土の撚りをかけた片撚糸を用い、右撚の片撚糸と左撚の片撚糸を交互に打ち込んで織る。 当時西陣は片撚糸を撚糸車で撚り、右撚・左撚に撚り分けることもできる八丁撚糸機を持っていた。西陣から盗み出した縮緬技術とは八丁撚糸機の設計図では、と想像をたくましゅうするのも面白い。(中略)
 さて本題に戻って、峯山・加悦地方は従前、農民が撰糸絹・精好・紬を作間稼ぎに織っていて、地場機業があったところである。この絹屋というのは、堀江氏によれば機屋・織屋とも呼ばれ、居坐機で農の作間の織っていた農民のうちから現れてきた者である。 注意されるのは丹後縮緬の素材、原糸である。堀江氏によれば、それはまず丹後地元の糸問屋が関東・奥羽、あるいは京都西陣糸屋町の分糸屋から仕入れ、地元の糸問屋から糸を仲買いする糸仲買人がいて、絹屋はその糸仲買人から原糸を手に入れた。 先に1725年の京都の京都の糸・絹問屋37軒の答申書に触れたが、37軒のうち8軒の関東問屋があり、関東とはいわゆる関八州(上野・下野・常陸・武蔵・上総・下総・安房・相模)ばかりでなく、奥州(磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥、すなわち原材の福島・宮城・岩手・青森の諸県)も含めている。この答申書には出羽国・陸奥国からも糸・絹が上がると記しているが、 これは関東問屋から答えたもので、奥州問屋というのはなく、関東問屋が奥州産の糸・絹を扱っていた。奥州とは陸奥国・出羽国(羽前・羽後・原材の山形県・秋田県地方)である。つまり注意されるのは、丹後縮緬の原糸は上州(上野国・原材群馬県)・野州(下野国・現栃木県)・奥州産の各糸、すなわち現在の関東・東北地方から京都に上す糸であったとされている点である。 おそらく上州糸がその中核であったのではなかろうか。(「事典 絹と木綿の江戸時代」から) (「日蘭貿易の史的研究」から)
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<主な参考文献・引用文献>
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20 
京都、リヨン、そして足利                 日下部高明・随思舎 随想舎       2001. 5.10
ものと人間の文化史 絹T                      伊藤智夫 法政大学出版局   1992. 6. 1 
事典 絹と木綿の江戸時代                     山脇悌二郎 吉川弘文館     2002. 6.20 
( 2005年4月11日 TANAKA1942b )
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(18)東日本へ広がる絹・絹織物産業
農村に新しい産業として育つ
<桐生・足利だけでなく、東日本あっちでもこっちでも絹・絹織物産業> 前回、桐生と足利を中心に絹・絹織物産業を取り上げたのだが、調べてみると、東日本あっちでもこっちでも絹・絹織物産業が興っていた。 日本各県の歴史を扱った本を調べて見ると、江戸時代各藩が絹・絹織物産業を奨励し、各地で西陣に代わる地位を得ようと努力していたことがわかる。しかし、領主主導と言うよりも、実際の生産者である農民やそれを売買する商人の活躍の方が目立つようだ。 絹・絹織物産業が農村に新しい産業として育ち始める。そして「百姓は百の職業を持つ兼業農家」となっていく。 その絹・絹織物産業がどのように広がって行ったのか、今週だけではとても書ききれない程の普及速度、東日本の北の方から段々に取り上げてみることにしよう。
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<米沢藩の養蚕・織物=山形県>  米沢藩においては安永の改革時、桑・漆・楮(こうぞ)の各100万本植立てが計画された。また、寛政4(1792)年には蚕養(さんそう)役局が設けられ養蚕と桑栽培が奨励されることになった。 上杉鷹山も隠居所である餐霞(さんか)館で蚕を飼わせるなど力を入れている。養蚕は家中の貧苦を救う副業としておおいに奨励された。また、農民・町民のあいだにも生産の広がりをみせた。 文化・文政期(1804〜1830)になると、養蚕家の発達を背景に養蚕業も盛んになった。その中心となったのは下長井地方と北条地方である。文政11(1828)年の調べでは、蚕利1000両以上をあげる村が、宮内村(2132両)、五十川村(1718両)、宮村(1640両)など10ヶ所を数えている。
 安永期にはまた、越後から縮織(ちぢみおり)の熟練技術者を招き、家中の婦女に織り方の技法を学ばせた。やがて織物の種類は縮布から横麻(横糸が麻、縦糸が絹)、絹織物へと推移した。米沢織といえば絹織物をさすようになったが、その技術の導入は文化年間初頭である。 米沢の織物問屋高橋嘉左衛門や渡部伊右衛門は、京都の織師宮崎球六を招き織り方の伝授を受けた。彼の製法は、縦・横ともに絹糸を用いるもので唐糸織と呼ばれた。 また、下級藩士町田八之丞は、藩命で京都に出かけたときに織り方を修得し透綾(すきあや)と称される絹織物を作りあげた。彼は積極的に織物業に取り組み、文政12年には絹糸の買入高1900両、透綾の生産量2004両にも達し、士族のなかで第一の富豪といわれた。
 紬布は、絹糸にむかない屑繭から紡いだ糸で織る布地である。下長井地方では寛政のころから白紬や縞紬の生産がみられた。その後成田村の飯沢半右衛門が結城で織り方を学んできてその技術を周辺の村に広めた。これはのちに長井紬として発展した。また、桐生と米沢の技術交換が盛んになり、米沢に招かれた桐生の縮緬師田島常右衛門は、 万延元年(1860)年米沢節糸織を寛政させた。これは幕末には年間7000反を超える生産量をあげるようになっている。
 米沢織に従事したのは多く中・下級藩士とその婦女であった。織師は「御物師(おものし)」と呼ばれ、織物問屋から織機や絹糸を渡され織物に仕上げる問屋制家内工業の形態をとっていた。米沢藩の織物問屋には前述した高橋嘉左衛門や渡部伊右衛門などがいるが、織物の総売上高は弘化・嘉永(1844〜1854)ころで10万両余といわれている。 織物は初め藩が設置した国産所ですべて買い上げ、江戸の国産掛をとおして御用商人三谷三九郎手代志摩屋に一手販売した。寛政期には生産額が増加したため志摩屋の注文分以外は自由取引になった。また、文政期には織物運送の円滑化をはかるため、産物会所が江戸と米沢に設置された。産物会所の運営は有力織物問屋にまかせられた。こうして米沢織の販売も間接的な専売制に移行した。 (「山形県の歴史」から)
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<信達地方の養蚕業=福島県>  阿武隈川がその中央を流れ、東岸には阿武隈山地、西岸には吾妻の山々がせまっている信達(しんたつ)両郡は、洪水がいんぱんに起こる氾濫原に桑の木を植え、湿気の少ない丘陵地で蚕を飼育する、古くから養蚕業の盛んな地方であった。 伝承によれば、古代にはすでに「伊達の絹」「信夫毛地摺(しにぶもじずり)」と呼ばれた絹が世に知られていたという。しかし、本格的にこの地方の産業として養蚕業が登場してくるのは、近世に入ってからのことである。
 寛文4(1664)年までこの地を領有した上杉氏の殖産興業政策により、畑地への桑栽培が急速に広がり、周辺の丘陵地に養蚕業が展開していった。保原・梁川・掛田(伊達郡霊山町)・桑折・藤田(同郡国見町)に開かれた六斎の定期市は、農村における養蚕業など商品生産の発展と深いかかわりを持っていた。 陰暦六月十四、五日、伊達郡岡・長倉(伊達町)で開かれた天王市は、まさに養蚕の一代市で、糸・蚕種・真綿などが取引されていた。この市で売買された糸が、寛文十一年には「登せ糸」として京都西陣へ送られている(吉田勇『佐藤友信』)。蚕業技術もしだいに発展していった。口伝のよれば、天和年間(1681〜1684)ころ、柳田村(伊達郡梁川町)の鈴木吉之丞が、早生桑を栽培してよい結果を得、「吉之丞早生」と呼ばれ、元禄以降盛んに栽培されるようになっていったという。 同じころ、伏黒村(同郡伊達町)の八城六之丞が育てた「六之丞桑」、同村佐藤市兵衛発見の「市平桑」など、早生桑が登場し、蛆の被害を免れるための早期の蚕の掃く立てが可能になっていった。
 信達の養蚕がさらに一段と発展したのは、白糸割符制による中国生糸の輸入制限により、西陣機業の原料生糸の需要度が増大したころからである。良質の糸を出す繭を生産するために良質の蚕種が要求されるようになり、蚕種製造が阿武隈川沿岸の村々を中心として専業化していった。 さらに糸の需要に応じ、絹産業が川俣を中心に形成され、近世中期には、信達地方で生産された良質な蚕種は進達地方内部で売られるばかりではなく、上州・信州など遠隔地へも売りさばかれるようになっていった。元禄のころには最盛をほこった結城種も、近世中期をすぎると信達地方に蚕種製造の中心地を譲らなければならなくなった。
 しかし、このように信達地方の蚕種が優れているということになると、本場福島産と偽って粗雑な蚕種が出回りはじめた。これを防ぎ、流通面での利を守ろうとした蚕種商人たちの要望により、さまざまな経緯を経たのち、幕府公認の良種として、信達産蚕種は、冥加金を納入するかわりに本場銘を記入することが認められた。 安永2(1773)年のことである。小幡(伊達郡保原町)・二野袋・粟野・梁川(ともに同梁川町)・桑折・伏黒など17か村が本場、箱崎(同郡伊達町・柳田・瀬上(福島市)・福島など8か村の村々が場脇(ばわき)となり、場脇につぐ村13か村と合わせ計38か村で冥加金を納入することとなった。 だがこの成り行きによっても、他の地方の蚕種制阿産を抑えることはできなかった。そればかりか、冥加金を納入しなければならないことになった本場種は価格が高くなり、かえって他の地方の安価の蚕種との競争に破れるという事態がでてきた。農民は、安永6年冥加金と改印の1年休止を願い出、それがだめなら3ヶ年、5ヶ年の半額上納を希望、冥加金を半額にしてもらった。 さらに天明元(1781)年には全廃を願い出、幕府は、同3年この制度をやめることとした。
 以後の信達養蚕業は、他地方との競争のなかで、天明3年著わされた佐藤友信の『養蚕茶話記後編』に述べられている「清涼育」すなわち気温の変化に注意し、湿気には火気を有効に使用する方法や寛政年間(1789〜1801)、田口留兵衛によりとなえられた「温暖育」すなわち蚕の飼育に炭火を用いる方法、弘化3(1846)年中村善右衛門が寛政した「蚕当計」すなわち蚕室で用いる寒暖計の発明など、技術改良に努力し、 奥州種の声価を維持していき、安政の開港によってなおいっそうの活況をみることとなった。 (「福島県の歴史」から)
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<結城紬=福島県>  結城市を中心とし、栃木県小山市の東北部を含む鬼怒川と田川に沿った地域は、古くから養蚕業が盛んで、絹織物の紬の生産地であった。周辺の地名にも、鬼怒(絹・衣)川・小貝(蚕飼・養蚕)川・糸繰川(小貝川の支流)のように、養蚕・製糸にかかわるものが多い。 結城市内の旧小森村は、古くは蚕籠と呼ばれ、村内の大桑神社は養蚕の神として農家に信仰されてきた。結城地方は17世紀後半に蚕種生産地として知られ、結城種とよばれる蚕種は、関東のほか、信濃や南陸奥(福島県)に販売市場を広げていた。 蚕種の生産地は結城本郷の他、下野都賀・河内両郡・下総結城郡・常陸真壁郡に広がっていた。蚕種生産をささえていた有力な条件は、鬼怒川・田川沿岸の桑畑だったが、享保8(1723)年の「五十里水」とよばれる大洪水をはじめとする度重なる鬼怒川の洪水のため、この桑畑が壊滅的な打撃をうけ、蚕種の主産地は奥州伊達地方(福島市ほか)に移ってしまった。
 一方絹織物の方は、寛永15(1638)年刊行の『毛吹草(けぶきぐさ)』諸国土産下総の条に「結城紬」と出ている。また享保17(1732)年の三宅也来著『万金産業袋(ばんきんすぎはいぶくろ)』は、「下総の結城よりいずる。幅九寸五分、広といふは一尺、丈五丈四尺、六尺有もあり、いかにもつよし。 練屋にてざっとふかして染むべし」と結城紬を具体的に説明している。丈(長さ)の記述は、当時結城紬が布地二反分に相当する一疋単位で取引されていたことを示し、また後半の記述は、結城紬が丈夫で、染色しない状態で取引されていたことを示している。
 18世紀初めの生産地は、おもに中川原・中島・福良・梁(以上小山市)、山王・上山王・大谷瀬・小田林(以上結城市)など、鬼怒川や田川に誓い村々で、現在でも紬の生産が盛んな土地である。結城紬は本来無地の平織りで、近世中期に縞紬や貫紬とよばれる緯紬が織られるようになった。 縮織の技術は明治期に導入されたものである。結城紬は真綿から糸を紡ぎ、これをいざり機で織り上げた。寛政2(1790)年の史料によると、上質の紬一疋のために、210匁の真綿を金3分で購入し、糸紡ぎに約70日かかり、約20日かけて織り上げ、これを結城町の紬買継商人が金一両三分で買い取った。縞紬の柄や模様は、いざり機で織る前段の作業として、色の違う数百本の糸を一定の法則で並べて筬(おき)にとおさなければならない。
 結城縞紬は18世紀初頭から江戸に出荷され、同世紀後半には江戸の人ぎとの人気を獲得するようになった。結城紬には、秩父紬には、秩父絹や信州紬のような競争商品も出現したが、結城紬の声価は高く、寛政期には京都・大坂・近江など上方へも販路を広げている(『結城市史』第二巻近世史編・第五巻近世通史編)。 (「茨城県の歴史」から)
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<足利の絹織物=栃木県>  中世以来の機織りの伝統を有する足利では絹織物の生産が盛んになり、養蚕・製糸と機織りの分業が進展した。すでに宝暦・明和(1751〜1772)のころ紗綾織・白縮緬・縞縮緬・八丈縞・竜紋など、比較的高級な絹織物が生産され、桐生市場をとおして江戸に出荷されていた。 まもなく江戸の問屋で足利にも出店を開くものがあらわれ、足利と周辺の機屋の数も増加してきた。小佐野茂右衛門の足利小倉の創織や岩瀬吉兵衛の水力撚糸機(水力八丁車)の発明もこれに拍車をかけた。さらに化政期(1804〜1830)の高機の導入と大衆的な綿織・絹綿交織への進出は、その後の発展を決定的なもnにし、桐生とならび北関東を代表する全国有数の機業地帯として発展していった。 (「栃木県の歴史」から)
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<秩父の絹織物=埼玉県>  入間郡から比企・秩父・児玉郡にかけての丘陵・山間地帯では、養蚕・絹織物業が、原料の生産から加工まで農家の副業として盛んで、織り出された製品は付近の市場で取り引きされた。入間郡では川越絹平とよばれた川越・坂戸周辺のものと、扇町屋(入間市)を中心に取引された多摩郡青梅地方から続く縞織の生産が大きい。 一方、秩父・児玉・榛沢・男衾郡地方は、上州から続く養蚕・絹織物生産地帯で、とくに秩父郡では寒冷な大滝地帯を除くほぼ全郡で絹織物が生産され、「秩父絹」の名で広く知られた。この地方での絹織物がいつごろから始まったは明らかではないが、近世初頭の年貢関係史料には「絹のわり」という項目が広範にみられる。 また、寄居の六斎市でも寛永8(1631)年の段階で絹や繭の取引が確認され、さらに延宝6(1678)年には絹の売場についてあらためて議定が結ばれるなど、近世前期から盛んに生産・流通していたことがわかる。 秩父郡での年間取引量は5万2000疋、絹一疋(二反)の価格が同史料では金二分とされているので、郡全体での売上高は2万6000両にのぼると推計される。織り上げられた絹は郡内の六斎市で取引され、とくに大宮郷妙見宮(秩父神社)の霜月大祭の市を「大市」とよび、諸国からきた絹商人で賑わい、その豪華な祭礼は秩父夜祭として現在に引き継がれている。 (「埼玉県の歴史」から)
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<縮に代わる紬生産=新潟県>  縮みの販売には問屋の手を通さずに、縮み布を直接江戸に持ち運び行商する、江戸行商人も出現した。文化3(1806)年、魚沼・頸城・刈羽などからの江戸商人は500人を数え、直接江戸市中で縮を売り歩いたので、江戸十組呉服問屋の経営をおびやかすほどであった。
 縮みの生産は天保期以降停滞し10万反前後で明治期を迎えた。この停滞の原因には天保改革の節約令により、模様・品質・染色にまで厳しい統制が加えられ、さらには武士の経済的困窮からの需要減や天保飢饉による羽州青苧生産の減少で青苧価格が高騰し、機屋の利を減じ縮生産を減少させるなど種々の要因があげられる。
 こうした縮の生産減少のかなで、養蚕・製糸・紬など、絹織物生産が農民の余業として増加した。絹織物の産地は栃尾・五泉・山辺里(村上市)・加茂・新津などの形成され、近世中期以降、絹織物需要増のなかで特産化していった。 栃尾紬が各地にその名を知られるようになったのは縞紬寛政以降で、栃掘村(栃尾市)などでは庄屋植村角左衛門の努力で寛政年間(1789〜1801)の商品化に成功し、文化初年には1万疋の生産高に達した。幕末期には魚沼七市場(小千谷・堀之内・小出島・須原・塩沢・六日町・十日町)全体の扱い高は絹8000反、紬2万反、生糸5000貫に達していた。
 平野部で生産がはじまった木綿織物は天保期に急激に発展し、亀田縞・加茂縞・見附結城などの産地が形成された。これらは日本最北の綿織物物産地として発展し、庶民の平常着、農作業用着として広く利用された。
 このように、18世紀から19世紀にかけて越後の村々の産業・経済の発展は著しく、在郷町の六斎市などを中心に、地域的な市場経済を発展させつつ大坂・江戸などを中心とした経済圏との結びつきを強めていた。 (「新潟県の歴史」から)
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<主な参考文献・引用文献>
山形県の歴史 県史6            横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信 山川出版社     1998.12.10
福島県の歴史 県史7          丸井佳寿子・工藤雅樹・伊藤喜良・吉村仁作 山川出版社     1998.12.10
茨城県の歴史 県史8    長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司 山川出版社     1997. 6.20
栃木県の歴史 県史9            阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大獄浩良 山川出版社     1998. 2.10
埼玉県の歴史 県史11                 田代脩・重田正夫・森田武 山川出版社     1999. 6. 5
新潟県の歴史 県史15 田中圭一・桑原正史・阿部洋輔・金子達・中村義隆・本間恂一 山川出版社     1998. 1.25
( 2005年4月18日 TANAKA1942b )
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(19)絹・絹織物産業の中心地は群馬県
現代でも品種改良の伝統を守る
<にぎわう村と町=群馬県><高機と桐生織物業> 安永4(1775)年、新田郡出身の尊皇論者高山彦九郎は、西上州の桐生織物業について、「左右の人家皆ナ糸織を以て業とす」と記し、なかでも女性はつねに絹織業をしているので戸外に出ることが稀になり、紗綾(地紋に紗綾形がある絹織物)・縮緬・綸子・緞子・龍紋・魚子(ななこ=織り目が方形で魚卵のようにみえる、いずれも高級絹織物)など多く生産して繁華であり、 「人驕奢の風あり」と書きとめている。それから60余年後の天保9(1838)年4月22日、幕府の巡検使も、「この地機織を業とするもの多く」、山間僻村の村民も「茅屋破壁」に住居しながら、女性の頭髪に紅絹をまとい、身に綿布の着物を着ながら、その下の襦袢の袖にぜいたくな縮緬を使っていると記し、その盛んな生産とそれによって消費生活が活発であったようすを伝えている。
すでに、近世初頭から絹織物業が展開していた桐生領五四ヶ村(桐生市から山田郡大間々町・勢多郡東村におよぶ)は、もともと山間の村で田畑が少なく農業生産だけでは生活できなかった。絹織物業が農民経営を補完するために、農業の片手間に女性が中心となって養蚕・製糸・織布を家内で一貫して行う、零細な副業の一つになった。生産性の低い「居坐機」による、縦糸と横糸を交差した平組織の絹織物は、 染色仕上げをしてない「生絹(きぎぬ)」と呼ばれる半製品で、「登せ絹」として京都西陣に送って加工され、商品となった。そのため桐生地方の生産は高級織物技術をもつ京都に従属し、独自の発展性に乏しかった。
 元文3(1738)年、桐生織物業は、京都から「高機」の導入に成功した。高く組み立てられ、織る人が端の横板に腰掛け、足で踏木をふんで綜絖(そうこう=横糸を通すために、縦糸を上げ下げする装置)を作動させて織る高機は、居坐機より生産性が高く、飛紗綾・縮緬・龍紋・紋絽など、複雑・高度な高級絹織物の生産を可能にした。 しかも、天明3(1783)年には、高級絹織物の原糸となる、強い撚りをかけた撚糸を生産する。水力八丁撚車が発明され、同6年には、京都西陣から先染技術の染色仕上げ行程も得て、桐生織物業は発展そ一途をたどることになった。天保6(1835)年には、桐生領54ヶ村を中心(下野国足利郡内20ヶ村を含む)に、絹織物を織りだす織機数が1万5000台におよび、元治元(1864)年には、販売した絹織物が70万両に達した。
 絹織物を生産する機屋のなかには、機織女などの大勢の奉公人を雇用するものも現れた。自家内に作った作業場に、「糸染」2人、「機織」2人、「手子」3人、計12人の奉公人を配置して、準備行程の原料糸の染色から織布工程までを組織するとともに、近隣の農家に各行程の一部や賃機を委託して外業部に編成した、 嘉永元(1848)年の下広沢村(桐生市)の彦部家の経営は、2352両の帯地1317本の生産を行うマニュファクチュア(手工技術に基づく分業と協業の生産形態)と見られている。この地域の機屋に雇用される奉公人は、「上機」200人・「中機」200人・「並機」100人・「紋引」200人・計700人とも言われている。山田郡堤村(桐生市)の大沢家で、嘉永3年、前貸金3両をもらうとはいえ、7月から12月までのあいだに、 1両に11疋の割合で絹織に雇用された「まさ」や、同4年、前貸金2両2分をもらい、8月から12月までのあいだに、1疋10匁の割合で縮緬織の雇用された「きさ」のような「反織奉公人」は、「居消(いけし)奉公人(単に前借金を返済する奉公)ではなく、事実上の賃労働者の登場ともみられている。
 もっとも、すでに宝暦期(1751〜1764)に、織布から仕上加工行程までを自家作業所内に一貫して編成した、桐生新町の新居家では、慶応2(1866)年、逆に作業場を縮小して、織布を行う16人のうち14人が外業部になる賃機となり、生産量も6〜7割を担当するようになっていることをみると、自家作業場は農民に技術の普及をはかる技術伝習所的性格をもち、 その経営形態は、技術を習得させて家に帰した農民を賃機に編成する、問屋(といや)制家内工業ともみられるところがある。
<広がる蚕糸業=群馬県>  養蚕・製糸行程からなる蚕糸業は、上州ではすでに近世初頭から、零細な農民の副業として、一部地域で展開していたが、享保期以降、ほぼ全域に広がった。
 山田郡内では養蚕の収入をあてにしない人は稀となり、明和7(1770)年ごろの養蚕が、夜も寝ないほど「心をつくし身をくるしめて養ひ育て上げる」ほど(「養蚕極意伝」)の上州東部の村々に広がる盛況ぶりであった。 新田郡武郡島村(尾島町)の宮下家は、宝暦8(1758)年に、蚕種5枚からの上族(じょうぞく=あがりこ)220籠、それから得た収繭量55籠半・19貫400目、同12年に、蚕種6枚からの上族290籠、収繭80籠・25貫目という大きな生産量をあげ、 養蚕にかかった経費は、宝暦8年には2両1分ながら、桑の売上代が3分あったことから、実際には、1両2分であった。同12年、2両2朱・3貫700文ほどかかった経費の内訳は、桑の売上げがあったので、実際の経費は2両余、収益は8〜9両ほどであったとみられる、雇用労働に依存する養蚕経営であった。
 西部でも、山中領中山郷(多野郡中里村)の黒沢家は、寛政3(1795)年には蚕種2枚半からの収繭量71籠と3倍に増加し、桑を30駄余も購入している。文政7(1824)年、同家は、蚕種8枚半からの収繭量122籠・30貫550目も生産するようになった。購入した桑31駄に6両1分2朱をはらい、4月10日に掃立て、6月11日に揚終い、およそ掃立てから上族までの日数は47日ほど、「蚕大当たり」の年であった。
 零細な養蚕農民にまじり、宮下・黒沢両家のように、大規模に発展する養蚕経営が展開するなかで、生産された繭の集荷にあたる商人も登場した。享保6(1721)年、吾妻郡五反田村(中之条町)の田村家が、6月22日に、村内外の農民14人から、繭を最高2貫700目(代2両2分)〜最低120目(同250文)、 翌23日に同じ農民14人から、最高6貫目(同6両)〜最低90目(同150文)、さらに、7月2日にも1人から190目(同1分)を買い集めている。これだけでも、同家は農民62人から65貫200目(1人平均1貫余)においぶ繭を、59両余(1人平均1両弱)かけて集荷したことになる。
 農民から繭を集荷する商人のなかには、零細な農民が自家製の繭から挽いた糸も回収する、「出釜」「釜掛」などと呼ばれる、製糸の賃挽経営を営む者も現れた。金融業者、糸繭集荷商人でもある、勢多郡水沼村(黒保根村)の星野家は、寛政12(1800)年に、賃挽人50人に挽かせた糸量77貫目余、享和2(1802)年に、賃挽人63人に挽かせた糸量94貫目余、天保12(1841)年には、賃挽人97人に挽かせた糸量177貫目余のおよんだ。 享和2年の「釜入帳」を見ると、同家では、正月17日に清水の孫左衛門の繭2貫400目を渡し、2月19日に挽いた糸475目を回収し、21日に挽賃2朱を払い、正月19日に、涌丸(いずれも黒保根村)の権之丞に繭2貫400目を渡し、2月19日に挽いた糸450目を回収し、21日に挽賃1分を払っている。 星野家では、1人の賃挽き人に渡す1回の繭量は2貫200〜2貫400目ぐらい、それから挽く糸量は400〜470目ぐらいで、作業期間は1カ月ほど、挽き賃は挽いた糸量により2朱から2分ほどの差があった。 実際に繭から糸を挽く作業は、零細小作層の婦女子の労働で、年間の挽糸量は平均2貫目ほど、就労機関は冬から」春にかける平均4〜5カ月であった。星野家が編成する賃挽製糸経営は、問屋制家内工業とみて良いだろう。
 発展する上州の蚕糸業は、幕末期には桐生・伊勢崎絹織業に原料糸を供給する、北部の養蚕、中・東部の製糸という地域的な分業を形成するようになるが、西部では養蚕・製糸・織布工程を一貫して行う生産形態をとっていた。
<在町の発達と市=群馬県>  商品経済の進展は、村のなかに、商工業従事者を増加させ、農業集落から商工業集落へと装いを変える「在町(在郷町)」を生みだし、その核が、広く展開をはじめた商品生産物の集荷・販売市場となる「市」の登場であった。在町は、上州の北部では、中之条(吾妻郡中之条町)・原町(同吾妻町)・長野原(同長野原町)・月夜野(利根郡月夜野町)、西部では藤岡(藤岡市)・富岡(富岡市)・下仁田(甘楽郡下仁田町)・東部では桐生新町(桐生市)・ 大間々(山田郡大間々町)・堺(佐波郡堺町)・小泉(邑楽郡大泉町)などがあげられるが、なかでも、東の桐生新町とならび、西の藤岡はその典型であった。
 上州西部の山中領(多野郡上野村・中里村・万場町)のついて、文化2(1805)年、甘楽郡神原村(多野郡中里村)の割元名主・黒沢覚太夫は、瓢亭百成のペンネームで書いた「山中竅過多(さんちゅうあなだらけ)」のなかで、「上毛山中の繁栄は、花の都にもならぶと見える。蚕は化して山中絹の丈夫向きとなり、楮(こうぞ)ハたちまち山半紙の徳用ものとなる。 煙草は名産の館をもしのぎ、大白豆ハ秩父産よりもすぐれている。酒糟は、麻畑の肥料に用いて効果があり、春に蚕種を購入する商人は、秋には生糸を買い集め、夏には麻布を売り、冬は唐松苗を売り、同じ商人がさまざまな商品を売買するのも、富裕の地のほまれである」と、商品経済の進展を述べている。この地域の生産物は、元文3(1738)年、緑野郡三波川村(多野郡鬼石町)の「明細帳」に、「女ハ蚕飼、絹仕候、尤、紙漉候者茂有之、右之市場(鬼石・渡瀬・藤岡)ニ商売」るとあるように、藤岡の市にも出荷・販売されていた。
 緑野郡藤岡は、「前橋風土記」によれば、貞享期(1684〜1688)に、毎月6甲斐開かれる「六歳市」で絹綿の売買が行われ、とくに6,7月には諸国の商人が群れ集まるとあり、すでに近世初頭から在町化していた。 明和7(1770)年の「村明細帳」に、市は「1・4・6・9・11・14・16・19・21・24・26・29」の各日と倍加した「十二斎市」となり、「絹綿たばこ売買」がさかんに行われたとある。 藤岡の市で取引される最大の産物の「生絹」「太織」は、天明期(1781〜1789)には、上州の絹市21ヶ所で取引で取引される。それぞれ計19万8500疋(1疋は2反)・7100疋のうち、その25%にあたる5万疋、15%にあたる1000および、2位の高崎の3万疋・1000疋 を多きく引き離してトップにあった。藤岡には、安永5(1776)年、手数料の「口銭」を得て、江戸関東物呉服問屋の買付けにあたる「絹買宿」が11軒存在し、文化11年には、取引する呉服問屋が、三井越後屋八郎右衛門を始め40軒にも達した。 京や江戸の大商人に従属しながらの繁栄とはいえ、絹買宿の星野兵四郎家では、取引する戎(えびす)屋だけでも、口銭が5000両〜9000両もある隆盛ぶりであった。
 明和7(1770)年、藤岡(村高1022石余)の戸数666戸・人口2721人は、いずれも標準的な農村の2〜3倍であった。「男は耕作の外、絹・真綿・煙草、その他品々を売買し、女はきぬ・真綿を製造し」として、商品生産の担い手となるが、50余年後の文政5(1822)年には、さらに戸数15%にあたる109戸も増大し775戸となった。 天明8(1788)年、「藤岡町は、田舎にも似ず、繁昌の栃になった。その証拠は市日へ人が集まるのも、高崎よりも多く、栄えている。そのうえ他国からの地借人・店借人も覆いため、高1020石余でありながら人数もことのもか多い。そのため衣食住におごり、江戸表へもたびたび出かけ、江戸の風俗を見習い、男女とも驕奢になり、その身の分限をもわきまえず、 紗綾・縮緬・絹袖を着て、鮫鞘などの拵えの立派な長脇差を持ち、遊芸・歌舞・琴・三味線を習う遊び人が多く、江戸町人よりも増長している。農業だけで生活するものを、田夫野人等と軽蔑して不敬粗略に取り扱い、神事仏事吉凶の行事に農民を下座し着席させる風俗になるので、農民が農業を止め、商売に移り、江戸へ出て商売を心掛候」 (『群馬県史』資料編9)と、もはや農村の面影もとぼしい、在町の変貌ぶりを伝えている。
<絹糸運上一揆=群馬県>  緑野郡藤岡町(藤岡市)に出店を設け、1年間で5万疋もも絹の取引を行っていた三井越後屋の手代は、天明元(1781)年8月8日から各地でおこった「上州甚大大騒動」の様子を連日詳細に江戸の本店へ知らせた。 「14日より高崎宿へ入り込み候処、飛道具にて御固め遊ばされ候故、猶々騒動に相成り、人数およそ6万人程も相集り候の由の御座候」と記し、高崎城下へ6万人もの農民が押しよせ、高崎藩は禁制の鉄砲で武装して農民と対立したことにおどろいている。 高崎藩は実際に城内から300余挺の鉄砲に紙玉をつめて打ち、空砲の轟音で農民を威嚇したり、または「城中の士鉄砲をもて、前にすすみもの1,2人打ちころし」(『徳川実紀』第10篇)と、一部の農民を射殺して撃退しようとしたのである。 高崎藩だけでなく、役所が攻撃されるとの風聞があった吉井藩でも「日野(藤岡市)や多比良(吉井町)などから鉄砲打ちを大勢召集して、そのうえ江戸屋敷からも目付衆・物頭衆20人ほどが、8月16日に到着した」(『島高堅自記』)とあり、領内の猟師などを呼び寄せて鉄砲で迎撃する態勢を調えるとともに、えど屋敷へ応援を依頼したのである。
 領主が「仁政」をかなぐりすて、むきだしの武力で弾圧しなければならない程の威力を示した絹運上一揆に結集した6万人もの農民は、絹糸改会所(きぬいとあらためかいしょ)の設置に反対して立ち上がったのである。絹糸改会所とは、田沼意次が実権を握っていた幕府が甘楽郡金井村(藤岡市)の高山半兵衛や新町宿本陣・問屋ら3人の出願をうけて、 絹取引の不正取締と円滑化をはかるという名目で、3年をかぎって上野・武蔵両国の47ヶ所の絹市場に10ヶ所の改会所を設立して、農民が生産した絹の企画などを検査し、その改料を商人から徴収して幕府財源そ一部にあてようとする計画であり、この触書は天明元年6月27日に発せられ、7月20日から実施の予定であった。 改料は「端物1疋につき銀2分5厘、糸100目につき銀1分、真綿1貫目につき銀5分」の割合で商人が上納するというものであったが、実質的には生産者である農民の負担になることは明白であったため、農民による猛烈な反対運動が一部の在方商人や都市商人なども巻き込んで各地で展開されたのである。
それまでの百姓一揆は、主として村の代表による直訴という形態が多かったが、18世紀なかばから小さな藩や旗本領、幕府領が錯綜する非領国地帯では支配領域を越えた広域型一揆が打ち壊しを伴って起こるようになった。 明和元(1764)年に上野・信濃・武蔵3ヶ国の農民20万人が中山道の伝馬増助郷に反対して西上州を中心に起こした伝馬騒動とともに、この絹糸運上一揆がその特徴をよく示している。 一揆の原因は、近世中期から上州や武州で盛んになった蚕糸業への課税であった。そして絹糸改会所の設置の動きも、すでに元禄11(1698)年2月、寛延2(1749)年7月、宝暦9(1759)年12月に特定商人らの市場独占のために試みられたが、いずれも農民の反対で失敗に終わっている。
 上州では桐生・大間々・伊勢崎・高崎・藤岡・富岡などの絹糸市場を中心とした地域からつぎつぎと反対の訴訟がおこされたが、その中で最も強硬な手段に出たのが西上州の農民たちであった。とくに、西上州の絹市場の中心地であった藤岡町では8月の初め農民集会が開かれ、地頭所へ提出されるはずの願書が町役人のところで止められていたことに激怒した農民が改めて江戸に直訴することを評決し、 同月8日にはその準備も整えられた。これに呼応して周辺の村々でもそれぞれ鮎川や三名川などの河原で寄合を開き、会所設立反対の気勢をあげた。
 翌9日になると、53ヶ所の農民3000人余が徒党して小幡町(甘楽郡甘楽町)の新井吉十郎宅を打ち壊したことに端を発し、以後、会所設立に参道する富民豪商の家がつぎつぎと打ち壊された。 11日には吉井町4軒、12日には藤岡町・新町・一ノ宮町・富岡町など41軒、そして13日には倉賀野町など8軒におよび、西上州一帯に広まっていったのである。この騒動がピークに達したのは、農民らが倉賀町から高崎へ出て、藩主松平右京大夫輝高の高崎城へ押し寄せた13日であった。
 このように農民が高崎城を包囲するという実力行使に出たのは、幕府老中という要職にいた松平輝高が勘定奉行松平秀持の意見を容れて絹糸改会所の設立に深く関与していたからである。事態を重くみた幕府は同年8月16日、ついに改会所の設立を 断念せざるを得なくなった。これによって騒動もようやく鎮静化にむかい、19日には藤岡、翌20日には高崎の絹市場で農民や商人の自由な取引が再会されたのである。 なお幕府はこの騒動の首謀者の捜索を行って数十人の農民を逮捕し、天明2年11月徒党や打ち壊しの罪で処罰した。こうして西上州を中心に展開された天明の絹糸運上騒動は落着した。
 一方、絹糸改会所の設置に対して東上州の桐生周辺の54ヶ所の農民は、同年7月に訴訟費用を高割りで負担することを決めて9人の総代を選出したのち、「恐れながら権現様(徳川家康)が江戸へ御入国遊ばされ候節、御旗絹2410疋を献上たてまつり候吉例の地なので、諸役御免を仰せつけられ」と、 徳川家康に旗絹を献上した由緒を根拠に、広域の訴訟という合法的な反対運動をおこし、西上州の百姓一揆とは対照的な形態で目的を達し、のちに「神妙の致し方」と幕府役人からほめられている。 (「群馬県の歴史」から)
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<ふわふわジャンボ繭>  直径15センチの巨大な繭がランプシェードや置物になる。全国一の生産量を誇りながら、衰退の一途をたどる群馬県の養蚕業、絹製品の既成概念を打ち破るアイデアや新技術が、新しい商品をつむぎ出した。繭の化粧品も発売中だ。
 このようなリード文で朝日新聞では品種改良による巨大繭の紹介をしている。
 群馬県蚕業試験場の小林初美主任研究員(52)は、80匹のカイコに同時に糸を吐かせ、繭をどんどん大きくすることに成功した。直径15センチのまん丸なジャンボ繭で、内側はツルツル。普通の繭よりもふわふわした感触で、綿菓子のような優しい雰囲気がある。 中に電球を入れると、淡い光の趣がある。「ひとつ千円ほどでマーカーが商品化すれば、養蚕業の励みになる」と小林さんは話す。
 以前、カイコの餌である桑、これをペースト状にする技術を開発した、蚕を育てるのにかける手間が大幅に少なくなる、とニュースで報じていた。「品種改良にみる農業先進国型産業」養蚕業でも日本の得意芸は発揮されている。 しかし、江戸時代は養蚕も農業も「産業」であったが、現代では「環境保全のための公共事業」であり、採算性は問題にされない。農業に携わる人たちは、環境や地域社会のために農業をする、となっていてその生活は保障されない。いや、保障されている、「百姓は生かさず、殺さず」との程度の保障はされている。
 研究者たちは品種改良の伝統を守ろうとする。日本の農業は品種改良を含む、新しい事へのチャレンジ、改良の積み重ねであった。現代では古いものを守ることに重点が置かれているが、江戸時代は新しいことに重点が置かれていた。
 この<ふわふわジャンボ繭>は<蚕品種の変遷>▲で書いた「土まゆ」の改良種なのかも知れないが、品種改良の歴史的面からの記述はなかった。
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<主な参考文献・引用文献>
群馬県の歴史 県史10               西垣晴次・山本隆志・丑木幸男 山川出版社     1997. 5. 5 
朝日新聞 2005年4月15日夕刊                伊藤隆太郎記者 朝日新聞社     2005. 4.15
( 2005年4月25日 TANAKA1942b )
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(20)中部地方の絹・絹織物産業
冨山・山梨・長野での発達
<にぎわう村と町=群馬県><高機と桐生織物業> 今週は絹・絹織物産業が冨山・山梨・長野でどのように発展していったかを見ることにしよう。
<井波絹と菅笠=冨山県>
 元禄期(1688〜1704)の越中農村では、『元禄中農隙所作村々寄帳』によると、つぎのみるような自然産物以外の特産物の生産が行われていた。 山間部の紙や炭・蝋生産をのぞくと、瀬戸焼(新川郡上下瀬戸村・同新瀬戸村)、塩硝(五箇山)、茣蓙・筵(氷見庄の飯久保・深原村など)、箕(氷見庄論田村)があった。 織物関係では布さらし稼ぎがあるが、八講布・五郎丸布の名称をもった布が礪波郡農村で産出された。また、在町・町方には城端に絹や冨山の売薬業などもある。 その後、商品経済が展開した文政期(1818〜1830)には、『諸産物盛衰上帳』(「林家文書」)によると、五箇山の蝋や新川郡の瀬戸焼など一部の商品生産は衰微したが、五箇山の生糸・紙煙草入れの生産、礪波郡高月の売薬が盛んとなっていた。 在町を加えるならば、戸出の八講布・縮・嶋、福光の生糸・真綿・生布、福岡の笠、和田町の紙・煙草入れの生産、そして新庄新町・滑川・氷橋では売薬稼ぎが盛んとなっていた。 このほか城端と井波では絹織物、福野では木綿の桟留縞生産が行われている。また、天保元(1830)年の加賀藩産物調査によると、輸出高では松本行き木綿が京都問屋売りの絹紬類とならぶ最高額商品となっており、文政以降に松本売りの新川木綿生産が新川郡で盛んになっていったことも見落とせない。
 天保期に最盛期を迎えた井波の絹生産の中心となっていた柳絹の製法は、観寿という僧が文政年間に武蔵国小川から指導員を招いて普及させており、また彼は京都から染物師を招き、経糸を紅染にする糸紬生産を始めさせている。
 藩の殖産興業政策も越中の特産物生産発展に大きな役割を果たした。安永年間(1772〜1781)設置の産物方は、井波の絹織物業に天明2(1782)年に資金を貸与した。この結果、井波では移出用の緞子・綸子・大紋の生産が行われ、絹織物を主産業とするようになった。 井波絹業は文化10(1813)年以降に生産を拡大させ軌道にのるが、これには化政期の藩からの借銀も大きな役割をはたした。井波絹業の発展もこのときの江戸への市場進出とからんで文政末以降にさらに生産を増大させ、4万疋(8万反)もの生産をあげた。一方、福野の桟留縞生産も一丸の援助により生産が始まり、当初は産物会所の買い上げが行われた。
 福光の曽代糸などを使用する城端・井波の絹業では女工を雇用して生産する機業者が存在した。元禄期の城端には機織女の下女10人を雇う絹屋もいたが、手間機といって下請けで機織りをする者も多かった。のちの天保8年の井波の場合、町続きの村も含めると織機を10台以上かかえる業者が15人もいた。また、彼らのもとには懸機や・煉屋・糸繰屋などの下請けの業者も出てきていた。 (「冨山県の歴史」から)
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<郡内織=山梨県>  郡内織または単に郡内とも呼ばれた絹織物を産出したのは、郡内領(都留郡)の村々であった。郡内領は、山国の甲斐のなかでも、とくに山地が大部分を占めて耕地は狭少なため、面積は甲斐四郡のうち28%ほどにあたるにもかかわらず、19世紀初頭の数字で石高はわずか6.8%(2万911石)と農業生産力はきわめて低く、それに比して人口は22.3%(6万2961人)と過大であった。 このような郡内領の経済を支えてきたものに、甲州街道や鎌倉往還で展開された駄賃稼ぎや、入会山の利用による林産物の収入、その他の稼ぎがあったが、もっとも大きな比重を占めたのが絹・紬の織出しであったことは言うまでもない。江戸後期に村々から支配役所へ差し出された文書に、つぎのような箇所がある。これは諸種の願書などにほぼ共通してみられる内容で、「織物渡世専一に仕る」ことで地域経済が成り立っていることを端的に示している。 「当郡は山間の地で耕地が狭く、米穀が払底のため、他郡から七分どおり買い入れて主食の不足を補わなければならない。したがって、男女ともに養蚕と機稼ぎに専念して収入を得なければならない。それから織物の運上を納め、年貢・諸役を上納するので、皆金納となった土地柄である」と。
 郡内領で古くから営まれてきた絹・紬の生産が、この地方の特産物として定着し発展することになったのは、寛永10(1633)年の谷村藩主となって入部した秋元泰朝の殖産政策に基づくものと考えられている。やがて江戸をはじめ京都・大坂などへむけた商品として、元禄期(1688〜1704)にかけて生産を漸増させていくが、江戸の越後屋では店内に日野嶋(上州絹)と郡内絹を並べて販売しており、 また、白木屋の江戸店でも上州絹についで貞享3(1686)年から郡内嶋の仕入れをはじめたという。当時、郡内縞に代表された上州絹が、中等の品として都市の庶民生活のなかに普及していたことは、井原西鶴の天和2(1682)年の『好色一代男』や、貞享3年の『好色五人女』の八百屋お七の物語などに郡内縞の名がみえることからもわかる。 元禄3年の『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』が秋元喬知の郡内領について、「国民絹布ヲ織ルヲ業トスル故ニ民豊カ成」と述べているのを、そのまま認めがたいが、当時の郡内絹の風評にもとづいたものであろう。
 幕府領になって20年ほどを経た享保10(1725)年の『郡内領郷帳』には、絹紬運上として金235両2分余がみえ、その上納は210両余が請負人によったもので、25両2分余が村々直納の分であった。そのころの郡内織の展開のようすを、享保17年の『万金産業袋=ばんきんすぎわいぶくろ』は、郡内縞・白郡内・織色郡内(海気=かいき)・郡内太織・郡内平などの各種織物とその特色について記し、全体に谷村(都留市)の辺から織り出されるのが上品だと述べている。 同年の『甲州噺』によれば、上物と目される織物の山地がさらに明らかにされていた。白絹は真木・花咲(ともに大月市)、菱絹は小形山(都留市)、縞の類は上下谷村(都留市)、八反掛は新倉(富士吉田市)と玉川(都留市)、紬は松山(富士吉田市)、夏袴地は暮地(富士吉田市)と小沼(西桂町)というのである。 そして、これらの織り出しを一年に五万疋とし、したがって土地の生糸だけでは不足していたと記録される。
 絹生産は元来、養蚕─製糸─製織と一貫して営まれた作業で、ほとんどは女性の稼ぎであったが、少なくとも18世紀初頭には領外からの購入原糸を必要とするようになっていた。先の花咲村では、享保5年に織り出した600疋のうち360疋 (60%)が購入糸繭に依存していた分であったというように、機業地としての発展は、相模・駿河や国中東部の養蚕地帯からの原糸の購入を増加させていった。
 この間、越後屋・白木屋など呉服商売の江戸の大店は、谷村のほか流通上の拠点となる土地商人を買宿とし、手代をむけて織物の仕入れにあたらせた。買宿は買継を努めたわけであるが、絹問屋へ営業を拡大した者もあった。そして問屋の下に仲買人や、問屋に抱えられその指図に従いながら目利によって絹の買い集めを業とした場造の活動が広く見られたほかに、他国へ旅売り行商を営む者が多く存在した。 先に八反掛の山地として名を現していた新倉村が天保3(1832)年に谷村の問屋の場造2人をなじめ、仲買2人、他国出し10人の商人を書き上げていたように、絹の流通にかかわった小商人の簇出が目立った。一方、甲州道中東端の上野原宿(上野原町)には、1・6の日を市日とするいわゆる六斎市が寛保2(1742)年に開設されて以来、郡内領における唯一の市として賑わった。後に猿橋宿(大月市)、ついで下吉田村(富士吉田市)に市立の運動が起こったが、上野原宿の故障にあって挫折している。
 文政12(1829)年、幕府は絹・紬の運上の徴収を従来の運上請負人制にかえて、農民(生産者)が所有する機具数を基準に賦課しようとした。これに対する織物運上場77ヶ所村の反対運動が運上仕法替(しほうがえ)一件と呼ばれるもので、村方側から出された村請負制が天保3年に決着をみるまで、生産者によって執拗に展開されたのである。
 この頃の織物の生産規模を、個々の農民が所有する機具台数についてみると、3〜5台の所有者もわずかながら認められるが、1〜2台に集中して平均値で1戸当たり2台弱となる。また、織出数を葛野(かずの)村(大月市)と小明見(こあすみ)村(富士吉田市)の2ヶ村についてみると、1戸平均では前者が6疋、後者が9疋と零細性は否めないが、一方、村内での個々の生産にかなりの差異が明らかにされる。 つまり織物の生産者のなかには、すでに専業化の途をとっていた者の存在が知られよう。江戸末期における郡内織の生産は10万疋を数えるまでになっていたという。
<東部の養蚕と登せ糸=山梨県>  東郡(ひがしごおり)と呼ばれた甲府盆地東部(山梨・八代両郡東部)の村々は、用水や土壌など農業生産の諸条件に恵まれていたうえに、養蚕が営まれて、甲斐ではもっとも富裕な地と言われた。 「民多クハ驕奢ニ弊(おち)ユ」(『甲斐国志』)と指摘されたのも、江戸時代、地域産業として形成されたこの養蚕地域における消費生活の高まりを伝えるものであろう。
 慶長検地で桑1束が米1升に換算されて本高に組み入れられていたように、旧来この地域で営まれてきた養蚕が、一層の進展を見せるこのになったのは、貞享2(1685)年白糸(中国産生糸)輸入がされたため、元禄年間(1688〜1704)から一般に国内産生糸の生産を増大させたことにある。 宝永2(1705)年の東部の村明細帳に、女の稼ぎとして「蚕仕り、糸に引き申し候」と記されるのは、京都糸問屋へ送るいわゆる登せ糸の生産であった。
 正徳2(1712)年に甲斐藩が行なった施策に注目してみたい。一つは桑代金の貸付で、蚕養いのため他から桑を買い入れる元手で、4カ月後に元利を返納させる定めであった。在地の登せ糸商人(豪農層)は自己資金に基づいて、仲買人を通して集荷した生糸を京都に送ったが、京都糸問屋の仲間組織による糸値段の規制に対抗するための、 在地糸商人の組織化を図ったことである。そして釜元(生産者)の直売や商人の抜け売りの禁止と、釜元への糸代金支払いに差し支えないように、藩から糸商人に糸買金の拝借が許されるというものであった。この頃、そでに自家栽植の桑だけでなく、買桑により養蚕規模を拡大したり、やがて享保期(1716〜1736)になると、他から繭を買い入れて糸生産の増大を図る農民がある一方で、商人が繭を農民に貸し付けて糸を挽かせる賃挽もみられるようになっていた。 同じ養蚕地帯にあっても、個別的には煙草栽培や他の商業的農業へのかかわり方で、村方による違いはあったが、少なくとも村内の半数以上から、「百姓残らず」と書き上げる村まで、養蚕は広がりをみせていた。
 寛延3(1750)年7月、養蚕地帯における象徴的な一揆がおこった。発展の顕著な養蚕と煙草に着目した八代郡米倉村(八代町)の豪農平七が、幕府へ新規運上の上納を出願し、みずから運上請負人となる利権を得ようと企図したことにあった。これに対する反対運動が、東郡の村役人主導の惣百姓による蜂起となって、平七宅が打ち壊されるに至った。 発頭人をはじめ多数の犠牲者を出したが、この運上願いは沙汰止みとなったもので、「米倉騒動」と呼ばれる。
 この頃の蚕(春蚕)の飼育日数についてみると、享保9年に東郡の北東部にあたる上於曽(かみおぞ)村(塩山市)で、3月下旬(旧暦)の掃立(はきた)てから5月上族まで50日ほどとしていたが、隣接する赤尾村(塩山市)の保坂家日記の宝暦5(1755)年と同10年にみえる養蚕記録では42日ほどに短縮されていた。30数石を持高とする保坂家のような豪農層によるこの間の飼育法の向上であろう。
 働き手としての女子の労働が求められた養蚕期間中でも、熟蚕の時期を迎えると、家族のほかに他家からの手伝いを必要とする同家の日記では「蚕ひろい」(熟蚕を取り上げる)に近所の3人の女性を頼んでいるが、その後の記録でも「ほこひき」(上族)の日には3人ずつの女性を他に求めていたことがわかる。 この地域の百姓が女子を奉公に出した証文に、とくに蚕飼中には夜中とも手伝いをさせることの文言を入れているのは、いかのも養蚕地帯にみられる特色と言えよう。5月上旬に養蚕が終わると、麦刈りから同月中旬には田植えが始まり、田仕事が一段落したあとの夏のうちが繭から糸を挽く作業となる。 このように養蚕と製糸は一貫して女性によって担われ、商品経済の進展に伴い、地域農民の経営上ますます大きな役割を果たすことになった。豪農層のなかには女子奉公人を糸挽きに従事させたり、一定の時期に近村から糸取り女を雇い入れることも行われた。また、糸繭商人として活動する仲買人が糸を賃挽きさせる形態(問屋制家内工業)も広範化していた。
 19世紀になると、この養蚕地帯で2つの養蚕手引き書が著されている。文化13(1816)年の山梨郡竹森村下切(塩山市)の萩原治兵衛の『蚕養育伝書』と、天保8(1837)年の同郡上萩原村(塩山市)の宮原良弥の『蚕養秘録=こがいひろく』である。 とくに後者は、蚕の掃立てから上族までの育蚕の方法のもか、蚕病防止法、桑の管理、種紙(蚕卵紙)の取り方などにも及んで詳細である。村役人であった治兵衛も良弥も、養蚕の巧者だったに違いない。 (「山梨県の歴史」から)
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<養蚕の発達と蚕種・製糸=長野県>  養蚕は古来行われていたが、幕府が貞享2(1685)年輸入白糸を制限してから発達した。小県郡や下伊那は早く、上田領では宝永3(1706)年に養蚕を営む村が全領の83%、桑の栽培村90%に及んでいた。 だが、養蚕が本格的に広がるのは18世紀後半から19世紀にかけてのことである。この時期、信州各地で農民が河川敷や山畑の桑畑化を進め、桑の新品種を発見したり先進地の奥州・上州から苦心して導入したりした。 より育ちが翌広葉の品種に更新され続け、幕末には四ツ目・鼠返し・道元などが普及している。桑樹の仕立て方も改良され、根刈り法が一般化した。幕藩役所も養蚕を奨励し、桑苗の無償配布、養蚕資金の貸しつけ、養蚕技術書の回覧などを行った。 松代藩は文化8(1811)年、吾妻銀右衛門らに命じて関屋御林(長野市)に藩営桑園を造成させている。幕末開港後には、農民が本田畑に桑を植える動きも広がる。
 養蚕の成否は蚕種(蚕の卵)にも左右される。蚕種は初め自家用を採取していたが、18世紀初め頃から良質の蚕種の遠隔地取引が活発になった。信州には、幕府が「本場」と公認した奥州伊達・信夫郡(福島県)の蚕種が上田付近の蚕種商人によって移入、販売されていた。 しかし、19世紀に入ると上塩尻村(上田市)などでつくる上田蚕種の品種が高まり、信州一帯や関東・中部に販路を拡大し、市場価格でも奥州物を凌ぐに至った。蚕種屋(たねや)は秋から冬にかけて蚕種場(たねば=得意先の地域)を廻り、蚕種を貸し渡すとともに前年に貸しておいた蚕種代金を回収した。 前貸し法を取るため、蚕種屋優良蚕種の製造・販売につとめるとともに、養蚕技術の改良や伝授にも熱心だった。上塩尻村の藤本善右衛門がみいだした「青白」、善右衛門や同村清水金右衛門が春蚕(はるご)と夏蚕(なつご)を交配してつくりだした「掛合(かけあい=信州かなす)などの品種は、開港後に外国貿易商人に評価され高値で取引される。 養蚕はずっと春蚕だけだったが、品種と飼育法の改良により18世紀後半に夏蚕、19世紀になって秋蚕(あきご)が飼われるようになった。
 蚕種屋と養蚕農民のなかには、経験的実証に基づき優れた養蚕技術書を著す者も出てくる。宝暦7(1757)年刊行の上塩尻村塚田与右衛門が先進的な方法を記した『新撰養蚕秘書』をはじめ、同村の藤本善右衛門『蚕(こ)かひの学』、清水金右衛門『養蚕教弘録』、更級郡中沢村(長野県)の玉井市郎治『養蚕輯要』などは、なかでも代表的な養蚕書であった。 実証的養蚕書の半面で、蚕玉(こだま)神社が村々に勧請されて祀られた。また養蚕にネズミは大敵であるため、「猫絵の殿様」で有名な上州新田郡の旗本岩松徳純が文化10(1813)年に善光寺参りに来たときには、沿道で所望されて猫絵96枚を描いている。
 蚕種屋は小県郡のほか更級・植村・高井・水内・佐久・安曇・伊那郡にも増し、寛政13(享和元、1801)年信州の蚕種屋仲間は「神明講」を結成し、優良蚕種の確保・販売価格の安定、蚕種場の独占などを取り決めている。諸藩も国益政策から蚕種の奨励と統制にのりだす。 上田藩は天保4(1833)年と安政4(1857)年に鑑札制と改印(あらためいん)制をしき、無鑑札者の商いを禁じ、「信州上田産」の改印を押して領内産蚕種の品種向上を期した。
 繭から生糸をとる糸取りも盛んになった。上質の生糸は京都西陣に出荷されて為登糸(のぼせいと)と呼ばれ、18世紀に飯田領などで始まり信州全域に広がる。飯田領では宝暦2(1752)に生糸に運上を課し、翌3年領内225人の糸取り人(掻子=かきこ)に鑑札を渡している。 糸掻きは当初は農家の小規模な家内生産だったが、諏訪郡では糸師(糸元師)が多数の専属の掻子を集めて行うものも現れた。高島藩は寛政6(1794)年自宅に集めることを禁止し、これ以降は糸師が繭・薪炭・蒸気釜などを貸しだし、賃金を支払って生糸を回収する出釜方式が発達した。他の地域でもこれと似た問屋制家内手工業による生糸生産が広がった。
 松代領では文化6(1809)年、上田町商人に流れていた生糸をおさえるため領境の鼠宿・新地村(植科郡坂城町)に糸市を立てた。上田町が訴えて幕府から禁じられると、藩は松代城下町に月3回の糸市を立てさせ領内生産糸流通の掌握を図った。さらに文政3(1832)年糸会所を改組して産物会所を設け、絹・紬も対象とした。 同様にこの頃、諸藩もそれぞれ領域のさまざまな産物を対象に国産(産物)会所を設けた。
 商品作物や養蚕などの発達と軌を一にして、さまざまな加工手工業が信州各地におこり、地場産業として発達した。
 蛾が食い破った巣殻繭(すがらまゆ=屑繭)を原料に真綿が作られるが、上田近辺では真綿から糸を取り紬を織った。上田紬とそれを縞柄平絹も織られた。上田紬・上田縞の最盛期は19世紀初めで、文政13(天保元、1830)年上田城下町の商人は計3万8800反の絹紬を仕入れている。 このころを境に上田付近では蚕種・生糸の生産に比重が移り、紬・絹織りは松代領の植科・更級郡に広がった。木綿衣料では、帯地・袴地・足袋裏などに用いられた諏訪の小倉織が「諏訪小倉」「諏訪平」の銘柄で江戸・京都にも知られた。 (「長野の歴史」から)
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<主な参考文献・引用文献>
富山県の歴史 県史16          深井甚三・本郷真紹・久保尚文・市川文彦 山川出版社     1997. 8.25 
山梨県の歴史 県史19           飯田文弥・秋山敬・笹本正治・斎藤康彦 山川出版社     1999. 1.25 
長野県の歴史 県史20    古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文 山川出版社     1997. 3.20 
( 2005年5月2日 TANAKA1942b )
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(21)本家京都はどうなったのか?
空洞化から衣裳芸術へ昇華
各地に拡散した絹・絹織物産業、では本家の京はどうなったのか?を取り扱う。その前に各地の絹・絹織物産業、岐阜県の例がまだ取り上げてなかったので、そちらを先に取り上げることにする。
<岐阜縮緬と美濃縞=岐阜県>
 美濃は、古代から絹(当時は山繭から作られる絹が中心か?)の産地の一つであった。近世にも寛永15(1638)年の『毛吹草=けふきぐさ』には、美濃国の名物として糸・綿・絹とあり、正保2(1645)年の「美濃国郷帳」にも桑木高が41ヶ所あって、147石、紙・桑木高は74ヶ所で771石と記されている。 郷帳から桑が栽培されていた地域は、おもに池田・方県・本巣郡の山麓地域や安八郡の村々であったことがわかる。
 岐阜町についてみると、明暦2(1656)年の「美濃国尾張領村々覚書」には「この所に刀脇差しを作る鍛冶多し、美濃絹も多く織り出し申し候」とある。小田信長時代には京都と呉服などを取引する商人がいたし、長良川上流で生産される繭や生糸が舟運などによって入手しやすかったこともあってか、早くから絹織物とくに薄絹が織り出されて京都などに販売されていた。 美濃絹という名称はおもに京都向けのものであろう。
 岐阜町や周辺地域の絹織物がさらに発展する契機は、享保15(1730)年の京都西陣での大火であったと言われている。火事で西陣を離れた職人が日本各地に高級絹織物の技術を伝え、各地で高級絹織物が織られるようになり、岐阜町では絹縮緬が織り出されるようになったとされる。絹縮緬は普通の絹糸の横糸に撚りの強い絹の縦糸を織り込んで、むるま湯につけて縮ませた絹布であった。
 しかし『増補岐阜志略』によれば、享保期ではなく寛延期(1748〜1751)に上笹土居町の九助というものが縮緬を織り始め、京都から職人を招いて紋縮緬、すなわち模様の入った縮緬を織りだしたのがきっかけとなって町中に織り屋ができ、さえあに周辺農村でも織るようになったという。小熊・忠節・早田村などの岐阜周辺の村々では、やがて縮緬を織る高機を出機(問屋が機具を貸し出す)して織り出すという生産形態が展開していった。
 岐阜で縮緬生産が発展したように、丹後・近江・加賀・越前・甲斐などでも絹織物生産が発展し、各地から大量の縮緬や絹布が京都西陣に持ち込まれたために、西陣の織物業者は経営を圧迫された。そのため延享元(1744)年、宝暦9(1759)年、明和6(1769)年に西陣の織屋は京都町奉行を動かして、地方産絹織物の京都流入を制限し始めた。 それに対して岐阜町の織屋たちは、岐阜縮緬を西陣の規制外である尾張藩の「御藏物」として出荷しようと画策した。明和6年、小熊村吉三郎が織屋総代として尾張藩国奉行に「御藏物」扱いを願い出た。こうして京都の絹問屋との交渉の結果、安永3(1774)年に尾州御藏縮緬として京都へ出荷することに成功し、岐阜町の織屋は京都西陣の絹問屋の規制を受けない販路を確保したのである。
 一方御藏縮緬としての認可を受けることを通じて、岐阜町の織屋(問屋)は岐阜町周辺の村々の織屋たちを支配下に置くことに成功した。しかし寛政期(1789〜1801)になると、名古屋の問屋水口屋が進出してきて岐阜縮緬を一手に独占しようと動き始めた。これに対して岐阜町の織屋に支配されていた加納や竹鼻の織屋たちが水口屋を支持したが、岐阜町の織屋たちは巻き返しをはかり、水口屋の一手取り扱いを断念させることに成功した。 (「岐阜県の歴史」から)
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  今まで見てきたように絹・絹織物産業は東日本各地で盛んになった。熱力学の第2法則「すべてのエネルギーはエントロピーの増大する方向へ向かう」ならば、情報工学で言えば「すべての情報は拡散する方向へ向かう」となる。 つまり、西陣の技術が日本各地へ広がっていったのは、ごく自然な現象と言える。それによって西陣の絹・絹織物産業が衰退しても、先端技術を誇っていた西陣ならば、さらに新技術を開発するなり、新たな産業を興すなりして生き延びて言ったに違いない。 「日本の技術が韓国・中国へ流れて、日本の産業空洞化が心配だ」との悲観論もあるが、日本の技術がアジア諸国へ拡散するのは自然なことで、これを無理に止めようとすると、どこかに歪みがでる。道のない所に道を造って、新しい分野を開拓してきた者は、その道を後からついてきた者に技術を譲り、新たな技術・商品を開拓すればいい。 大宅壮一の言葉を借用すれば、「ソニー、モルモット論」ならば、「日本産業モルモット論」であり、「西陣モルモット論」になる。そのような観点から京都西陣の絹・絹織物産業について調べてみよう。今週は、このように大火災(西陣焼け)後の西陣を中心に扱うことにした。
<伝統の形成と継承=京都府>
 平安京依頼の歴史を背景に、他に隔絶した技術水準を誇った工芸・文化都市京都は、18世紀に入ると、その展開に陰りが見え始めた。首都として成長を遂げつつある江戸や、「天下の台所」としての地位を占めるに至った大坂に押されて、三都 のなかでの地位が下がり、また、全国市場のルートにのって大量に出回り始めた地方産の絹織物、陶磁器、紙などの流通によって京都の特産品は圧迫され始めたのである。こうしたライバル都市やライバル業者の成長のなかで、京都は、それまでにつちかってきた伝統を維持・革新しながら、活路を切り開いていった。
 16,7世紀を通じて隆盛を誇っていた西陣機業に陰りが出始めたのは、直接的には享保15(1730)年の大火災(西陣焼け)である。この火災で西陣は160余町の過半数108町、3千輯百軒が焼失、3000余の機を失った。しかし、西陣機業いきずまりの根本的な原因は、西陣の技術を持ち帰った丹後、美濃岐阜、上野桐生や、 丹後経由で技術伝播が行われた近江長浜などに輩出した全国各地ライバル業者の成長にあった。なかでも、北関東の桐生や足利の成長と、これらの製品の江戸市場への参入は、西陣機業と京都呉服商人に深刻な打撃を与えた。
 こうしたマイナス条件に対して、西陣機業は、得意とする分野の伸長と、大衆品・流行織物の政策という両面作戦で対抗しようとした。たとえば、18世紀末期の段階でみてみると、僧衣、仏具用品、能装束などの分野や、諸大名・富裕町人層が好む打掛けなどの高級衣料品の分野では、西陣製品は相変わらずの独壇場である。 他方、当時流行となりつつあった綾・紋織・竜紋・精好・平については、桐生・足利にさきだって手掛け、武蔵川越や上州安中などに対抗して、新天地の開拓に努めている。染色の部門においても、国内各地への染色加工技術の伝播という不利な条件の元で、京都では、高度な模様染め部門を重視し強化するといった新しい方向が追求された。
 技術面でも努力が払われた。安永年間(1772〜1781)には井筒屋瀬平が綴れ錦を製作して大奥にも賞され、彼の下に、紋屋次郎兵衛、長岡常之進、天野房義、生駒兵部らの門人がつぎつぎと輩出された。紋屋次郎兵衛は、綴れ綿を発展させて、祇園会占手山(ぎおんえうらでやま)の日本三景の胴巻や菊水鉾の水引、西本願寺兆殿司筆の五帝図を織りだした。 房義門下の天野弥助と妻もんは、藤森神社の鎧直垂をつくり、また仁和寺からの注文も多く御室織りと呼ばれた。こうした努力もあって、元治元(1964)年の調査では、高機機屋1978軒を筆頭に、19の織屋仲間3819軒の水準にまで回復し、近代における発展の基礎となった。 (「京都府の歴史」から)
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<京と染色─芸術を着る>  絹・絹織物産業が日本各地で発展し、京の西陣を脅かす程になった。ちょうど現代日本のモノ作り産業技術がアジア各地に移転し、あたかも日本で産業空洞化が起き始めたかのようであった。こうした技術移転をどのように評価すべきか?一方で産業空洞化を憂い、日本のモノ作り大国が衰退するような危機を訴える人もいる。一方で「モルモットはさらに新たな技術へ挑戦していけばいい」との楽観論もある。 「素人歴史家は楽観的である」との性格から、TANAKAは楽観論を採る。江戸時代、京はどうであったか?京の都は衰退したのだろうか?そうではない。モノ作り産業としての絹・絹織物産業は東日本各地に拡散していったが、京は相変わらず文化の中心であった。そうした観点から、京の文化の一端を探ってみることにしよう。
<京と染色─芸術を着る>
 日本の着物は芸術とまでいわれ、なかでも京都の染織は、古代以来の伝統をふまえつつ各時代に多彩な華を咲かせた。そのなかに宮崎友禅が完成させた「友禅染」がある。それは伝統の品格と、洗練された当時の現代的感覚とを調和して人々の心をつかむ、一方、応仁の乱あとに再興した「西陣織」も、多難な道のりを歩みつづけた後、能装束によって芸術水準に昇華する。
芸術を着る 江戸時代の染織美をうかがおうとするとき、きわめて印象的に思い起こすことができるのは、神沢貞幹(杜口)著『翁草』(安永5年<1776>序)が述べる次の一条である。
 内藏介(助)の世盛り
<翁草>  或人曰、内蔵介世盛りの時、畫師光琳常にしたしく来る。或時内蔵介、光琳に謂て云く、来る何日東山に於て、一家の妻室参會の事有り。某が妻女も出席するなり。定て綺羅びやかなる出會成べし、右に就て能き物数寄有らん。 其の趣向奈何と問、光琳暫く考て爾々と教示す。内蔵介諾て教に任せ、扨(さて)當日に至り、晴れの會なれば、家々の妻室花を粧ひ、段々に端の寮重阿彌が許に来り、乗物を手ぐりにして奥へ昇入れ、数多くの侍女前後をとり巻、静に乗物を出たるさま、唐のやまとの美を盡(つく)し、綾羅錦繍の目もあやなるに、得なら薫り粉々として座に着ば、追々に家々の乗りものを昇入、 徐々と居流れたる有様、何れ天人の影向綺羅天を輝す計なり、などや内蔵介室の遅きと、各待頬ふ處に少し程有て中村の乗物をあないして繰入る。皆皆あはやと彼内室の出立を詠れば、襲う帯付共に黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、 前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。
 内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。 内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩(つらつら)見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。
 其の後内蔵介は島より召返され、剃髪して風竹と號し、漂客と成る。昔に引替たるさまなりし、余も風月の宴に折々出會たる事有しが、世を諷せし中にも、昔の優美残りなつかしき風情も見たり。去れども付け合の句は多分述懐成しも實に理なり。
 引用が長くなったが、この興味ある記述にはいろいろ教えられる点がある。そのうちから次ぎのことどもに注目したい。
(1)近世の服飾にとって江戸時代中期はまた最高の華を開かせた時期であったが、ここで第1に注目したいのは、その極まりいたった服飾意匠の概念を、画家尾形光琳が痛快に打ち破ることである。これは光琳が、承知のように呉服商雁金屋の出身であることと無関係でないにしても、もっと広い意味で芸術家光琳の営為と考えたい。 たんに人目を驚かすばかりであれば、黒衣での登場はそれなりの効果を示したと思われるが、着替えのつど黒衣で終始したとあるのは、服飾という形式によった造形芸術の世界だと言えるであろう。中村内藏助夫人は芸術を身につけ、彼女自身が作品でもあったのである。 
 ところで近世日本の服飾が芸術であると明確に言い切った展覧会が開催された。それは1992年秋、アメリカ、ロサンゼルス・カウンティ美術館で開催された「小袖」の展覧会で、その副題は When Art Became Fashion とされた。内容は、桃山時代後期の辻が花から江戸時代後期におよぶ諸作による構成である。 かねて、諸国の民族衣装と着物をならべて論じ、ともに民族衣装であるとすることにある種の違和感を持っていたが、この展覧会が、なぜそのような違和感を持つのか、ついての明解な回答を与えてこれることとなったと言える。
 すなわち、日本の服飾は芸術作品であるというのである。それは、身に着ける人の、作る人の考えを反映して豊かな内容をもち、見る人に大きく働きかけて感じさせるという、まさに造形芸術の本質を備えたものなのである。
(2) またいま一つの別の点に注目される。それは、近世における染織意匠の展開においては、染織の専門家や注文主の力が大きく働いていたことは言うまでもないことであるが、しばしば表面に明らかな姿を現すのが画家たちであることをいっそう印象づけるのである。 たとえば、浮世絵師として周知の菱川師宣であり、後にいま一度述べなければならないが、友禅染を完成した扇絵師宮崎友禅、友禅流の文様を広めた大坂の浮世絵師吉田半兵衛、うあはえい浮世絵師西川佑信、そそて尾形光琳である。
 この衣裳競べにおいて光琳はこのような意匠で注目を集めたが、別に独自の画風を文様表現にとりあげたものが、光琳文様として染織意匠で大いにもてはやされた。やがて江戸時代中期末から後期にかけて丸山・四条派の絵師が活躍した。とくに応挙一門は三井越後屋の意匠を手がけたことが、小袖類と原寸大の意匠紙絵、あるいはそれによったことが明らかな小袖や振袖、打掛類の現存例によって知られるのである。
江戸時代の京の染織
 江戸時代を通じて京の染織は、その伝統を生かしつつ、各期特有の特色を示して大いに栄えた。なかでも、他の多様な文化と同様に染織工芸においても、江戸時代中期はまさに日本の染織史上、最も華やかな頂点の一つであると言える。そのことがうかがえるのは、実際に遺品について明らかであり、画中の資料、あるいは当期にいたって矢継ぎ早に出版される「ひいなかた(雛形)本」の、この期における集中ぶりである。 しかし、こうした様相はしだいに姿を変え始める。ことに今田洋三氏の『江戸の本屋さん──近世文化史の側面』(NHKブックス299)での詳細な調査考察によって指摘される。上方・江戸の出版物の数にみる変化は大いに興味深く、当時の文化の実態が推考できるのである。
画期的な友禅染
 近世の京の染織を代表するものに友禅染を落とすことはできない。友禅染は、天和・貞享(1681〜1688)のころ、東山知恩院門前に住まった扇師宮崎友禅によって完成された染である。当時は友禅染のほかに多彩な染技の行われていたことが知られている。たとえば貞享4(1687)年の『源氏ひなかた』には、「御所染・御江戸染・正手染・すがはら染・千種染・伊達染・よし長染・しや室染・唐人染・さらさ染・よし岡染・遠山染・かう染・ひんろうじ染・加ゞ染・ ほそ染・茶屋染・しゅんさい染・一ちん染・焼刃染・うこん染・ふすべ染・ゆかた染・玉子色染・大夫染・あかね染」などがあげられている。現在ではこれらの染の実際はほろんど不明に近くなっている。そして友禅染完成以降は、各種のひいな形本の染の注記にこの中のいくつかの染の名を見出すことができるが、友禅染流行の前には光を失ってしまった観がある。当時の染織界を驚かせた友禅染、その魅力は今日も生き続け、世界にも類のないこの文様染は、まさに芸術そのものの感動を与えている。
西陣──織物美の世界
 染の美が主として庶民の側に属するものとすれば、織の美は公家・武家や寺社などろ深い関係があると言えよう。西陣織の名は周知のように京が戦場となった応仁の乱で、日本の各地に逃れた京の織り手たちが、その終息を待ちかねたように焼け野が原となり果てた京の地に帰り来て、乱の間、東西の陣に分かれたうち、山名宗全が構えた西陣のあった場所に機業を再開したことによる。 西陣織の美についてひとことで言えば、それはきわめて高級な美しさであるということであろう。まさに公・武や寺社とともに存在したその特色がよくうかがえる。しかしその歴史を振り返れば、高級機業地として今日では欧米でも知られている西陣織の展開は、なみたいていではなかったことに感動されるであろう。(中略)
 高級織物を中心とした西陣機業のなかでも、諸悪条件を乗り越えて、西陣織に、さらに日本の織物に芸術的水準を保ち続けさせたのが、能装束の成織である。能が将軍家や諸大名の後援を得ていたことは、たとえば禁令の対象にもされにくかったし、織技や意匠の工夫や精進も、一般の人々とは一見繋がりがないように見えつつも、実際はそこに芸術制作の火が燃えているということは、いかばかり京の染織全体を活気づけたことであろう。
 なかでもその代表とも言える唐織は女役系の装束で、不思議に伝存する例を見ないが、緯糸(よこいと)には絹に代えて麻糸などを用いて禁令を避けたというが、ごく平凡な身近の存在する四季の草花に注目して、誰をも魅了させずにはおかない織物美を現出させる、あるいは舞衣や長絹(ちょうけん)は意匠美はいうまでもなく、絹そのものの素材の特色を十分に生かした、工芸ならではの成果を、江戸時代を通じて展開させたのである。 一方、男役用の厚板は唐織の和様の世界とは異なる唐様の意匠で工夫が凝らされたし、なかでも格子文様は、日本の格子意匠の原点とも言えるような変化ある魅力を示している。これら能装束が、日本の近世の染織をいかに豊かに、しかも高度な芸術性で彩ったかを思うのである。
 現在もなお京の特色の最も重要な部分の一つを担っていると言ってよい染織の、ことに近世後期に視点を据えつつうかがったのであるが、そのあらましを粗雑に述べるばかりであった。
 最後に次の資料をあげて、京の工芸の特色の片鱗をのぞいておこう。それは寛政2(1790)年の雛騒動の際に、奉行所が新案の古今雛を売り出して大好評を得た大槌屋半兵衛に対する取り調べの控えで、細々とした役人の質問の中に
 上着之候は別段に京都へ注文を遣したるいとにしき哉
 其方雛は江戸にて頭を彫 京都へ塗に出しおつくう成儀を致
 が見出せる。実際はともかくとして、取り調べの役人の頭には、高級品は京ならではとの思いがあったであろうし、きわめて専門的な、すなわち高度な仕上がりの必要ないわば高級品は、京での制作が当然であるとの思いが見てとれるのではないかと感じられるのである。 そしてこの人形頭についての問答にうかがえるのは、けっして染織関係ばかりでばいのも言うめでもないことである。 (「匠 成熟する都」から)
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<江戸の産業ルネッサンス>  江戸時代の絹・絹織物産業を京都やその他地方の面から見てきた。いわばミクロの視点であった。これをマクロな視点から見るとどうなるか? 江戸の産業と言う面から見た文を引用しよう。
 京都は江戸・大坂に比べると、もっと芸術性の高い、技術の工芸都市であった。まず西陣に代表される織物は、中国からの長崎経由輸入品のほか、信州・機内からの国産系、越中からの平絹などを原料とするもので、これを有する京都は最高の機業地であった。 これとならんで、染色、漆器、武具などの美術工芸品や薬種などの生産も全国最大のスケールを誇っていた。 (「江戸の産業ルネッサンス」から)
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<今日の衣裳贅沢はどうなっているのか?>
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<主な参考文献・引用文献>
岐阜県の歴史 県史21  松田之利・谷口和人・筧俊生・所史隆・上村恵宏・黒田隆志 山川出版社     2000.10.10 
京都府の歴史 県史26    朝尾直弘・吉川真司・石川登志雄・水本邦彦・飯塚一幸 山川出版社     1999. 8. 1 
匠 成熟する都                             松井康彦 講談社       1994. 8.25
江戸の産業ルネッサンス                         小島慶三 中央公論社     1989. 4.25 
( 2005年5月9日 TANAKA1942b )
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(22)木綿の由来と各地の生産
三河の綿から各地へ拡散
江戸時代旺盛な消費意欲に支えられて絹・絹織物産業がめざましく発展した。幕府の度重なる「奢侈禁止令」にも関わらずこれだけ産業として発展したのは、「贅沢は素敵だ」との思いが強かったとみるべきであろう。 一方、絹ほど贅沢品ではないが江戸時代の庶民の生活を大きく向上させたものに「綿・綿織物」がある。『木綿以前の事』『新・木綿以前のこと』を読めばいかに「綿・綿織物」が庶民の生活を変えたかが分かる。その綿・綿織物は主に西日本で発展していった。 桑と綿、どちらも気候の影響を受ける。そのために東日本と西日本で分業することになった。こうした点に注目すると、幕藩体制でも産業の地域分業と生産物の流通が大量に行われていたことに気づく。各藩が独立した経済体制を敷き、各所に関所があって、自由な往来が妨げられていたかのように思われるが、実際はかなり自由に人々が行き来し、入津・出津(藩対藩の貿易)が行われていて、決して各藩が鎖国していたわけでは無いことがわかる。
 絹・絹織物産業の発展として取り上げたのは、山形県、福島県、茨城県、栃木県、埼玉県、新潟県、群馬県、富山県、山梨県、長野県、京都府、岐阜県。
 綿・綿織物産業として、このシリーズ『○○県の歴史』に登場するのは、愛知県、鳥取県、岡山県、香川県がある。こうした中から特徴的な文章を抜き出してみることにしよう。
<河内・摂津・三河・尾張の順=愛知県>  明治20(1887)年の愛知県の綿の作付面積は、大阪府を上回って全国1位であった。生産高は、明治9年から15年までの年平均で、河内国が全国生産の12.2%、摂津国8.1%、それと同率で三河国、ついで尾張国5.3%の順位であった。明治中期のこのような生産の高さは、近世の生産活動の延長上にある。
 尾張では尾西を中心とした尾州縞が盛んに織り出されていた。大蔵永常は弘化元(1844)年に脱稿した『広益国産考』のなかで、「尾州より織り出し諸国へ売り出すこと数百万反とも云うべし」と記したほどであった。生産方式は、三河や知多のように問屋から資金を前借りし、織り糸支給されて家内労働で織るのではなく、専門の織物業者が自分の家に工場をもち、織機を数十台据え付け、織り子雇って織り出すというものであった。 工場をもたず、織機を何軒のも貸し出し、織り糸を渡し、工賃を払って織物を入手する業者もいた。このように尾州縞は新しい生産方式で大量に生産されていたのであった。 (『愛知県の歴史』から)
<伯州綿=鳥取県>  綿の栽培には、排水のよい砂質の土壌が適している。海岸沿いの砂丘や河川の下流の沖積平野をもつ伯耆で盛んに行われ、「伯州綿」と大坂市場で呼ばれるほどの産地になっていった。
 主産地の一つである弓浜半島は、米川開削によって綿作地として発展していく。元禄14(1701)年在方吟味役である米村広治の主導で米川開削が着手され、60年近い歳月をかけて、19キロにおいぶ用水路が宝暦9(1759)年に完成する。 米川開削により水利に恵まれなかったこの地域に用水を確保し、多くの農地が造成されたのである。弓浜半島に綿作を導入したのは、延宝年間(1673〜1681)とされている。 (『鳥取県の歴史』から)
<失敗に終わった毛綿会所=岡山県>  備前・備中の南部では、江戸時代の前期から木綿の生産が始められ、中後期には新田地帯を中心に綿作が広く行われるようになった。 綿作の盛んな村では、田の40〜60%、畑の70〜80%で木綿が作付されるようになっていた。木綿は米などに比べて収益の多い作物であったが、他方で乾鰯(ほしか)などの金肥を大量に投入する必要があるため、農民たちは貨幣経済に深く巻き込まれていった。 
 綿作の発展に伴い、江戸時代の中後期には綿加工工業が展開する。岡山藩では領内で産出する毛綿(日本綿)を城下の御国寄問屋3軒に集中させ、これを通じて大坂へ一括して売りさばく体制をとっていた。しかし、文政4(1821)年に国産会所をつくって専売制を始めた姫路藩が、岡山産毛綿の買い占めをはかるようになる。 これにより独占集荷体制は大きく動揺する。これに対して岡山藩では、弘化元(1844)年に改めて城下に毛綿会所を設立し、再び領外移出の独占をはかった。さらに弘化3年には毛綿集荷量を増加させるために、1軒が1カ月1反の木綿を織り出すよう命じた。これは、とくに邑久郡・上道郡・赤坂郡など備前東部において、農家の副業として展開しつつあった毛綿生産の成果を吸収しようとするものであった。 しかし、こうした強制策にもかかわらず毛綿の独占集荷体制は確立せず、安政3(1856)年毛綿会所は廃止となった。 (『岡山県の歴史』から)
<綿が丸亀藩の特産に=香川県>  讃岐は気候が温暖で作物の生育に適しているのみならず、西廻り航路の瀬戸内の沿岸に位置し、しかも「天下の台所」の大坂に近いという地理的関係もあって、近世中期以降に各種の商品やその原料の生産が盛んになった。 綿および木綿・和紙・塩・菜種および絞り油・砂糖・蝋などが作られたが、これらのうち讃岐を代表する特産物となったのは、塩・綿・砂糖で、これを讃岐三白(さんぱく)と言う。
 近世にはいると麻に代わって木綿が用いられるようになり、元禄(1688〜1703)頃に全国的に普及していった。讃岐からは元文元(1736)年に木綿と繰綿、天明6(1786)年には白木綿5万反が大坂に送られていた(『大阪市史』)。丸亀藩ではすでに元禄8年に丸亀城下での夜間の綿打ちを禁止し、宝永元(1704)年には綿の取引のため旅商人が郷村へ入ることを禁じ、また同じ7年には城下の繰綿問屋として唐津屋清治郎を指定しており、 このころ領内での生産が相当盛んになっていた(「古法便覧」『新編香川叢書 史料編(1)』)。
 これからほぼ1世紀後の寛政末には、以前より大量に木綿が大坂に送られていたといい、文化4(1807)年ころは「木綿売りには「木綿売り代より外、他国より銀入り候義は御座無く」とあるように、丸亀藩第一の特産となっていた。(覚帳「長谷川家文書」)。こうして発展してきた綿の生産に対して、丸亀藩では文化元年ころには年間銀300貫匁の「生綿銀」を割り当て、江戸藩邸での費用の財源にあてていた。
 幕末の天保(1830〜1843)ころには、「国々へ積み出す雪綿は、大与(大坂屋与十郎のこと)がかどさきにむれをなし」(丸亀繁盛記」『日本都市生活史料集成7』)と言われたように、丸亀城下での活発な綿の取引の様子をうかがうことができる。なお綿の生産状況は安政3(1856)年の三野郡勝間村の場合をみると、計11町余の土地に174人が綿を植え付けており、 ごく零細な規模での綿の栽培であった(「安藤家文書」)。嘉永5(1852)年に城下商人太田岩蔵・高貴清八の要望をいれて、綛糸(かせいと=綛に糸をまいたもの)を大坂へ積み送るために城下に綛糸寄会所を設置している。
 高松藩では丸亀藩ほどではなかったが、享保の尾張ころには「近年打ち続き鵜足郡・那珂郡は、別して木綿作り大分仕り」とあるように、藩領西部の鵜足郡・那珂郡で綿作りが盛んになっていた。 (『香川県の歴史』から)
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 木綿に関する話題をいくつかの文献から拾い出して引用しよう。
<綿作による利潤の発生>  「米遣い経済」においては、米作農民の手元に、ほとんど余剰は残らなかった。しかし、綿作に好適する地帯、とりわけ河内木綿地帯などでは、綿作は米作の2倍以上の収益があげられるということを、彼らの努力によって体験した。 このことは日本の経済史上におけるきわめて重大な新事実であった。すなわち利潤の発生である。もちろん利潤の発生は綿作や木綿織に限らないし、河内木綿地帯に限ったことではない。そして三河地帯でも、畿内には劣るが綿作は有利なものであった。 (「綿と木綿の歴史」から)
<繰綿延売買会所=先物取引所>  宝暦10(1760)年に大坂と堺に綿の先物取引をする繰綿延売買会所が設けられ、さらに明和9(1772)年に摂津平野郷に出店を、また内本町橋詰町にもあらたに増会所ができた。 このために摂津泉の綿作農民にあたえた打撃は絶大なものであった。安永6(1777)年11月13日に河内国若江郡村々の庄屋たちが、また同26日に河州各郡村々の惣代が、さらに、翌安永7年1月13日には河州各郡村々の惣代および摂州住吉郡の村々の惣代が、それぞれ合同で再三綿延売買会所差止(廃止)要求の訴状を奉行所へ提出している。 これらの訴状は、都市の特権的商人あるいは問屋資本の不当な圧迫から逃れようとする綿作農民の切実な声にみちみちていた。 (「綿と木綿の歴史」から)
<綿による衣料革命>  記録上、日本へはじめて綿種子がもたらされたのは、延暦18(799)年に三河へ漂着したインド青年とされているが、これも1年で栽培に失敗している。その後何回も綿種子を導入・栽培した記録はあるが、いずれも成功した事例は見られない。 応仁(1467〜)のはじめのころは輸入文綿と言われ、木綿は奢侈・珍品であった。文献上、ほぼ日本に綿栽培が定着するのは、早めに見ても永正・大永(1504〜1528)ころとみられる。
 以後、綿の栽培は西南暖地を中心に急速に普及し、温かくて、丈夫で、肌ざわりのよい木綿は、ほぼ全国的に織られ、多くのすぐれた銘柄木綿を産出した。
 江戸時代の三大農学者が、霊財・霊草・宝物とたたえた綿や木綿が普及する前の庶民は、厳寒のときでも、暖かみが少なくて、肌ざわりの悪い麻で織った刺児(さしこ=刺子)や、葛衣・藤衣や、楮(こうぞ)や科木(しなのき)の樹皮の繊維で織った太布(たふ)などを着て、寒さのために疫病(はやりやまい=感冒か?)にかかり、死亡する者も多かったというほどの惨めさであった。
 日本における綿や木綿織の普及・発展は、とりわけ庶民に衣料生活にとって、画期的な変革をもたらしたことからみて、それはまさに衣料革命と言える。渡しは、日本で初めて織物が織られたことを第1次衣料革命と言うならば、綿や木綿織の普及・発展を第2次衣料革命と言い、その期は、ほぼ近世=江戸期の初期とみるのが適当と思う。 日本の綿と木綿の歴史のうえで、この意味における第2次衣料革命が、大切なことだと思う。 (「綿と木綿の歴史」から)
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<綿種の渡来>  綿の花は白や黄色の花を咲かせ、その花弁の奥に濃紅を秘めて開花する珍しい植物である。10月の声を聞くと、桃の形をした綿の実が割れて白い綿が開き、綿畑は白く彩られる。これを摘んで糸に紡ぎ、布とされた。
 綿は日本古来の植物ではない。今から約1200年の昔、延暦18(799)年7月に三河の国幡豆郡天竹村(西尾市天竹町)に漂着した異国の若者が綿種をもたらしたと言われている。そのことを、菅原道真が寛平4(892)年に編した『類聚国史』を基に、徳川光圀の『大日本史』が伝えている。
 「桓武帝ノ延暦十八年、一人ノ小舟ニ乗リテ漂ヒ参河ニ至ルアリ。布ヲ以テ背ヲ覆ヒ、犢鼻ヲ著ク。袴ナク、左肩ニ紺布ヲ著ケ、形袈裟ニ似タリ。年二十ナルベシ。身長五尺五寸、耳長ク三寸余。言語通ゼズ、唐人コレヲ見テ曰ク、コレ崑崙人ナリト。 ソノ人、後ニ中国語ヲ習ヒテ、自ラ天竺人ト謂フ。常ニ一弦ノ琴ヲ弾ジ、許シヲ得テ所持ノ貨物ヲ売リ、屋ヲ西郊ノ外ニ作ルニ、路傍ノ行人ミナ停リテ息ヲ止ム。ソノ人初メテ綿種ヲ持チ来タリテ、試ミニ紀伊、淡路、丹後、讃岐、伊予、土佐ノ国及ビ太宰対ニコレヲ植エシム」云々。(原漢文)
 この異国の若者は、恐らく難破して三河の国に漂着したものであろう。今この付近は花や植木の産地であるが、昔は海浜の砂まじりの地であり、三河湾がこの地まで深く入り込んでいた所で、その後土地の隆起や海流によって海岸線から遠くなったものである。
 顔も衣服も異なった異国人の漂着に、村人は驚愕し、鐘を打って大騒ぎになったことは思いやられるが、自称天竺人の若者の持っていたツボの中に綿の種があった。
 若者は綿の栽培法を知っており、許しを得て南の暖かい国々に植え、その栽培を指導している。しかし、気候や地味が適さなかったのか、国によっては育たなかったが、その中でも一番よく出来たのは太宰府(福岡県)だった。それでもいろいろ障害があって、その栽培には苦労したらしい。 (「綿づくり民俗史」から)
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<主な参考文献・引用文献>
愛知県の歴史 県史23                    三鬼(みき)清一郎 山川出版社     2001. 1.10 
鳥取県の歴史 県史31             内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門 山川出版社     1997. 2. 5 
岡山県の歴史 県史33       藤井学・狩野久・竹林榮一・倉地克直・前田昌義 山川出版社     2000. 6. 5
香川県の歴史 県史37           木原溥幸・丹羽佑一・田中健二・和田仁 山川出版社     1997.10.10
綿と木綿の歴史                             武部善人 御茶の水書房    1989. 6.25 
綿(わた)づくり民俗史                          吉村武夫 青蛙房(せいあぼう)1982.10.20 
( 2005年5月16日 TANAKA1942b )
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(23)贅沢に関する先人たちの見解
現代にも生きてるユートピア信仰
東福門院和子の衣裳道楽から始まったこのシリーズ、そろそろ絹・絹織物産業のまとめをすべき段階になった。その前に今までとは少し違った面を見てみようと思う。「贅沢が市場経済を発展させる」との考えは「贅沢は素敵だ」に通じる。しかし、世間ではこれと違った「贅沢は敵だ」との考えもある。そこで「贅沢」に関するいくつかの考えを調べてみた。 経済学の分野ではあるが、倫理学、思想、信仰といった言葉の方が適しているようなものもあるが、視野狭窄にならないように、自分の感覚と違った思想に触れてみるのもいいだろう。そのような考えで、先人たちの考えを取り上げてみた。
 「贅沢は敵だ」の考え方で書かれた著作にトマス・モアの『ユートピア』がある。いくつかの個所に出てくるので、それを抜き出して引用してみよう。16世紀に書かれた書物だが、現代でも「衣服」や「贅沢」に関しては、『ユートピア』思想が根強く生き続けている。「省エネ」とか「エコロジー」といった言葉と結びついて強い信仰の対象にもなっている。
<『ユートピア』の服装観>
 ひとつの仕事は、すべての人に男女の別なく、ひとりの例外もなく課せられており、それは農業です。農業についてはすべてのひとが子どものころから教えこまれ、一部には学校での倫理教育を通じ、一部には都市周辺の農村地帯に連れ出されて遊びがてらに教え込まれます。 (遊びがてら)といっても傍観しながらではなく、体力錬成の機会として実習しながら教え込まれます。農業{いま申したように、これはみな共通(の職業)です}のほかに、だれもがなにか一つのものを自分の職能として覚えます。それは普通、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、錠前職、または大工です。 ほかに、言及するに価するほど多数の人が従事している職業はありません。(製服職もありません)というのも、衣服は、性別や、既婚未婚の別がわかるようになっているほか、全島を通じ、あらゆる年齢層にわたり同じ形をしているからです。見た目に不快でなく、体の動きが楽なようにできており、寒さ暑さどちらにも適しています。 各家庭がこの衣服を自分たちで作ります。ところで、さっきあげた職業のうちどれか一つは、男だけでなく女も習います。女は弱者として軽い仕事をします。たいてい羊毛や亜麻織りです。男にはほかの、もっと骨の折れる仕事が回されます。(中略)
衣服費削減法 衣服についても、彼らがほんのわずかな労力しか費やしていないことに注目してください。まず、彼らは、仕事をしているあいだはなめし皮か毛皮の質素な服を着ており、これは7年間持ちこたえます。外出するときはその上に外套をひっかけ、それで下の粗末な服を隠します。 この外套は島じゅうどこでも同じ一色、つまり布地本来の自然色で作られています。ですから、ほかのところに比べると、あそこでは毛織物がきわめてわずけで足り、その値段もたいへん安いのです。しかし亜麻地のほうがもっと労力をかけずに作れるので毛織物よりよく用いられます。 彼らが注意するのは、亜麻の場合には白いということ、毛の場合には清潔であるということだけで、織り糸の質が上等かどうかということなど勘定に入りません。それゆえ、ほかのところでは一人のために種々の色の毛織の服が4、5着と、同数の絹の下着があっても十分でなく、そしてもっとやかましい人には十着あってもまだ足りることはないのですが、 あそこでは誰でも大体2年間に1着の服があれば満足しています。事実、それ以上欲しがる理由はありませんし、たとえそれ以上もらっても、普通以上に防寒の役に立つ訳でもなく、衣服のおかげでもっとエレガントに見えるなどということもまったくありません。(中略)
 まやかしの快楽のなかには、私が前にあげた人たち、つまり衣服が良ければそれだけ自分たちの善くなると考えるような人たちの楽しみがあります。こういう人たちは、一つの点で二つの誤りを犯しています。というのは、衣服がより良くなったと考えるのは、自分自身がより善くなったと考えるのに劣らず間違っているからです。 つかり、衣服の実用的機能ということを思いいたすならば、どうして、細い糸で作った布地の方が太い糸で作った布地より上等だなどと思われますか。それなのに彼らは、まるで誤謬によってではなく、ものの本性によって自分たちが他人に優越しているかのように鼻を高くし、上等な衣服をまとえば、自分たちの価値がももっと上がるかのように思い込んでいます。 ですから彼らは派手な服を着ると、粗末な服装のときにはあえて期待しようともしまかった敬意を、まるで自分たちの当然のけんりであるかのように、他人から強要します。そして人がそれに気づかずに通り過ぎようとすると、憤慨するのです。 (『ユートピア』から)1535年7月6日、国王ヘンリ8世の怒りに触れ、断頭台の露と消えたサー・トマス・モアに黙とう。
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<スモール・イズ・ビューティフル>  この言葉は大変大衆受けする。この本から衣服に関する部分を探し出してみた。この文章は、後に出版された『スモールイズビューティフル再論』にも出てくる。著者が言いたかった主要な部分なのだろう。
 唯物主義者が主としてモノに関心を払うのに対して、仏教徒は解脱(悟り)に主たる関心を向ける。だが、仏教は「中道」であるから、けっして物的な福祉を敵視しはしない。解脱を妨げるのは富そのものではなく、富への執着なのである。楽しいことを享受することそれ自体ではなく、それを焦がれ求める心なのである。 仏教経済学の基調は、したがって簡素と非暴力である。経済学者の観点からみて、仏教徒の生活がすばらしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである。
 現代経済学者には、これが非常に理解しにくい。「生活水準」を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人より「豊かである」という前提に立って年間消費量を尺度にするのが常だからである。 仏教経済学者に言わせれば、この方法はたいへん不合理である。その訳は、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである。
 そこで、もしも衣服の目的とするところが一定の快適な温度と見た目のよさだとすると、この目的を、最小限の労力、つまり年間の衣服の消費を最小限にし、衣服のデザインももっとも簡素にすることで達成しなければならない。 このような労力が少なければ少ないほど、芸術的創造に力と時間を割くことができる。たとえば、裁断しない布を巧みにひだをとってまとえばずっと美しくなるのに、現代のヨーロッパ風の手の込んだ仕立ての衣服はすぐすり切れたり、形がくずれて醜くみすぼらしいものになってしまうのは、野暮で粗野なことである。 衣服について述べたことは、他の必需品のすべてに当てはまる。モノの所有と消費とは、目的を達成するための手段である。仏教経済学は、一定の目的をいかにして最小限の手段で達成するかについて、組織的に研究するものである。
 これに反して現代経済学は、消費が経済活動の唯一の目的であると考えて、土地、労働、資本といった生産要素をその手段と見る。つまり、仏教経済学が適正規模の消費で人間としての満足を極大化しようとするのに反して、現代経済学者は、適正規模の生産努力で消費を極大化しようとする。 消費を適正規模に抑える生活様式をとるには、最大限の消費への欲求を満たす場合よりはるかに少ない努力で足りることは誰にもわかることである。であるから、たとえばビルマではアメリカと比べて、省力機械はほとんど使われていないのに、生活の圧迫感は非常に少ないのも驚くには当たらないのである。
 簡素と非暴力とが深く関連していることは明らかである。適正規模の消費は、比較的に低い消費量で高い満足感を与え、これによって人々は圧迫感や緊張感なしに暮らし、「すべて悪しきことをなさず、善いことを行う」という仏教の第一戒律を守ることができる。 物的資源に限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これをたくさん使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会の中で高度に自給自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも、戦争などに巻き込まれることが稀である。
 そこで、仏教経済学の見地からするならば、地域の必要に応じ、地域でとれを資源を使って生産を行うのが、もっとも合理的な経済生活ということになる。遠い外国からの輸入に頼り、その結果、見知らぬ遠い国の人たちに輸出品を送り込むために生産を行うといったことは、例外的な場合、またごく小規模な場合はともかくとして、きわめて不経済なことである。 現代経済学者が通勤のために高い交通費は不幸であって、生活水準の高さを意味するものではないと認めているのと同様に、仏教経済学者は、欲求を満たすために手近にある資源を使わずに、遠隔地の資源に頼るのは、経済学的成功どころか、むしろ失敗だと主張するものである。現代経済学者は、国民一人当たりの輸送量(1マイル当たりのトン数で表示される)の数値が上がれば、 それが経済的進歩の証左だというのが、この同じ数値が仏教経済学者にかかると、消費の様式が悪化した指標となる。 (『スモール・イズ・ビューティフル』から)
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<贅沢からの資本主義誕生>  このシリーズ「趣味と贅沢と市場経済」を思いついた元になった本、その『恋愛と贅沢と資本主義』、どのようなことが書かれているのか、よく知られている題名の割にあまり読まれていないと思うので、一部紹介しよう。
 どんな時代でもよい、奢侈が一度発生した場合には、奢侈をより派手なものにしようという他の無数の動機がうずき出す。野心、はなやかさを求める気持ち、うぬぼれ、権力欲、一言で言えば他人に抜きん出ようという衝動が、重要な動機として登場する。 ヴェブレンは、その精彩ある著書『有閑階級の理論』の中で、あらゆる奢侈ならびに所有を求める気持ちのすべてを、他人に先駆けて何か所有しようというこの衝動に帰着させようとした。 たとえこの衝動が、飢えや性欲に直面したときの人間の本来自然の衝動と同じであると認めるにしても、どうしてこの衝動が贅沢にふけるという方向をたどるかについては、つねに特別の事情の絡み合いを必要とする。 つまりそのさい、奢侈な生活がすでに現存していること、また人並み、あるいは人並み以上の贅沢にふけることによって、他人に抜きん出ようという欲望を満足させうる手段が発見されていることが、前提とされるのは明らかだ。 他の場合では奢侈が量的に他人にたち優っていること、すなわち奴隷の数、所有する土地の大きさ、財産の額、位階の高さやそれに似たものについて他人を凌ぐことが、おのれを見せびらかす最も適切な形式となる。 だが、同じ贅沢でも、個人的な、唯物的な贅沢をしようとなると、感覚の楽しみが煽られなくてはならず、とりわけ、性の楽しみが生活の形成にあたって決定的な影響をおよぼさなければならない。
 私が展開しようと思う問題、すなわち奢侈は資本主義の発展にとってどんな意味をもっていたかということ、換言すれば、奢侈によって、あるいは奢侈を通じて、資本主義の歩みは促されたかどうかという問題は、理論家、実業家を問わず、17、8世紀の経済学者の間できわめて熱心に論議された。 この問題は、ある意味で、その周りに他のすべての経済ならびに政治上の問題を集める中核的問題であり、今日ではさしずめ「農業国か、それとも工業国か「といった問題に匹敵する重要なものである。17、8世紀では、資本主義という言葉は用いられず、それぞれ思い思いに、工業、製造業、富などと言われていた。 だが、事柄そのものについては、意見の一致が見られた。そして、奢侈とはその発生の途上にあった経済形式であり、資本主義的な経済形式の発展を促すものであることが認められた。そのため経済的進歩主義を称える者はすべて、奢侈を歓迎した。 彼らは極端に走った奢侈消費は資本形成を中段するのではないかと恐れただけで、アダム・スミスと同様に、必要な資本の再生産と蓄積を確実ならしめるためには、倹約家たちがすでに大勢いるはずと信じては、おのが心を安じさせたものだ。
 各国政府は、奢侈を奨励する方向で政策を広げた。
 17世紀を通じ、すみやかな歩みで資本主義が発展した国々では、贅沢禁止令が消滅していった。
 一定の奢侈支出、たとえばある種の美味は食物をとることを禁じることを含む「衣服令」は、イギリスで1621年廃止された。それでも1644年および1672年に、贅沢の目的のために貴金属を過度に使用することが禁ぜられた。(もっとも、これはもともと貨幣政策を考慮して行われたものだ)。 1656年には50リーヴルを上まわる(ビーヴァー皮の)帽子の禁令が出ており、1708年にはフランス最後の衣服に関する法律が発せられた。それ以後支配層は、(資本主義的工業の利益にとっての)奢侈支出の必要性を革新し、分断のリーダーたちも奢侈礼賛に傾いた。(中略)
 奢侈はたしかに害悪であり、罪であるけれども、産業を促進することによって全体には利益をもたらすものであるというこうした考え方は、イギリスにも広まっていた。「浪費の悪徳は、個人にとって害はあるが商業にとってそうは言えない」倫理的色彩の強いデイヴィッド・ヒュームさえ次のような結論に達した。 すなわち、よい奢侈はよい、悪い奢侈はたしかに悪徳ではあるけれども、悪い奢侈がなくなれば、おそらくその代わりに登場するであろう怠惰と比べれば、遙かに優れているというのだ。この考えは、社会哲学組織の一形式として、バーナード・マンデヴィルによって、「蜜蜂の詩」の中に表現された。彼が奢侈が称えた詩句は次の通りである。
 おそるべき悪徳、これ以上呪われ
 憎まれるべきもののない吝嗇(りんしょく)は、
 あの高貴ある罪、浪費の奴隷だ。
 奢侈は百万もの貧しき人々を
 養うことに役だっている。だが、
 かの不思議なる華美を誇る心根は
 さらに百万もの人々をとらえている。
 羨望と虚栄が産業を振るわせる。
 つねに嘲笑され驚嘆されているが、
 衣裳、住居その他もろもろの事柄で、
 流行におくれまいとする欲望は、
 商業の真の原動力である。
 (『恋愛と贅沢と資本主義』から)
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<『大転換』>  よく知られた題名の割にあまり読まれていないと思われる本として『大転換』も取り上げてみよう。最近の「経済人類学」と題された本を読むと、この『大転換』の影響を受けているな、と感じる。
 1世紀のあいだ近代社会のダイナミックスは二重の運動に支配されていた。すなわち、市場は絶え間なく拡大したが、その運動は特定方向へ拡大を妨げる対抗運動に出くわした。 こうした対抗運動は社会の防衛にとってきわめて重要なものであったが、結局のところ市場の自己調整作用とは相容れないものであり、したがって市場システム自体とも相容れないものだった。
 市場システムは飛躍的に発展した。時間と空間を席巻し、さらに銀行通貨の創造によってかつて例を見ないダイナミクスを作りだしたのである、市場システムが最高潮に達したころ、つまり1914年ごろには、 地球上のあらゆる地域、地球上の全住民および将来生まれてくる世代、自然人のみならず法人と呼ばれる巨大な擬制体も、そのシステムに包み込まれたのであった。キリスト教が歩みを開始して以来絶えてなかったほどの普遍性への要求を伴って、一つの新しい生活様式が地球上に広がった──ただし、今度は、運動は純粋に物質的レベルでありはしたが。
 しかし時を同じくして対抗運動が起こった。これは変化に直面した社会がとる通常の防衛行動を越えるものであった。それは社会の骨組みを侵そうとする反作用だったのである。この混乱は、市場が生みだした生産組織そのものをも破壊しかねないものであった。
 ロバート・オーウェンの洞察は正しかった。そなわち、市場経済は、もしそれ自身の法則に従って発展するにまかされるならば、巨大かつ永続的な害悪を作り出すことになっていたであろう。
 生産は、品限と自然の相互作用である。それゆえ、もしこの過程が交易や交換の自己調整的メカニズムを通じて組織されることになれば、その時、人間と自然はこのメカニズムの軌道に乗らなければならない。人間と自然は需要と供給に従属しなければならない。 言い替えれば、商品つまり売るために生産される財としての扱いを受けなければならに。
 それがまさしく市場システムのもとにおける仕組みであった。労働という名で人間が、土地という名で自然が、売り物になった。労働力使用権は賃金という価格で売買できたし、絽地仕様は地代という価格で譲渡された。労働と土地は売るために生産されたのだという擬制が矛盾なく受け入れられた。 こうして労働と土地にさまざまの組合せで投下された資本は、諸部門の収益が平準化するように、ある生産部門から他の部門へと移動することができた。
 しかし、生産は理論的にはこのやり方で組織できたとしても、土地と人間の運命を市場に委ねるということは結局のところ9それらを破壊させるも同然であるという事実を、商品化擬制は無視していたのである。 それゆえ、対抗運動はこの生産要素つまり労働と土地にかんする作用の抑制を目指したのである。これが干渉主義の主要な役割であった。
 生産組織もまた同一方向から脅かされた。価格水準の変化の影響に関する限り、危険は──工業、農業、商業を問わず──個々の企業に対して存在した。市場システムのもとでは、価格が下がれば企業は損害を被り、コストの全要素が比例して下がらなければならない「会社」は整理を余儀なくされたのである。 ところが、価格の低下はコストの一般的低下に因ってではなく、もっぱら貨幣制度のあり方に因るという可能性もあった。実際、後に見るように、自己調整的市場下で生じたのは後者のたぐいであった。 (『大転換』から)
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<制度派の祖=ヴェブレン>  これまたよく知られている題名の割に読まれていないと思う、『有閑階級の理論』。ヴェブレンをどのように評価するか?経済学の本流から外れた異端であり、とくに注目するほどの評価はできない、との見方もあるだろうし、「制度派」の祖とみなし、経済学の主流である「新古典派」を批判する人もいる。経済学と言うよりも、思想、哲学、宗教に分類されそうで、数式も使わず、反証不可能な非科学的な仮説のようでありながら、かつて数理経済で業績を上げた人が「制度派の祖」と認めている、という程の不思議な存在だ。 『有閑階級の理論』をどのように評価すべきか?アマチュア・エコノミストには荷が重すぎる。それでも遊び心をもって取り上げるなら、「資本主義経済が成長してくると、このように生きていく上で必ずしも必要でない贅沢品に多くの需要が集まってくる」とのメッセージと取ると面白い。、 ゾンバルトは「恋愛と贅沢と資本主義経済を成長させた」と言い、ヴェブレンは「資本主義経済が成長すると贅沢と見栄のための消費が増える」と言った、と理解すると面白い。それでもこの本は要約しにくい。ポイントがどこなのか?難しい表現を優しい言葉にはどう言い替えたらいいのか?などで悩むので、ここではあちこちの部分から引用して、その雰囲気を感じてもらいましょう。
序文 この研究の目的は、近代生活のひとつの経済的要因としての有閑階級の地位と価値を論ずることであるが、しかし、その議論をそのような確然とした限界のなかに厳重に閉じこめることは、実際にはできないことがわかった。 そこで、やむを得ず、この制度の起源とか系譜とか、普通は経済的なものとして分類されていないような社会生活の様相に対しても、多少の注意を払った。(中略) 
緒論 有閑階級(Leisure Class)の制度がもっともよく発達しているのは、たとえば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のような野蛮文化の比較的高い段階の場合である。諸階級の間の区別が極めて厳重に守られる。そして、これらの階級間の差別の、もっとも際立った経済的意義をもつ特徴は、 いくつかの階級に固有な職業の間にこたれる区別である。上層階級は習慣上、生産的職業から免除、もしくは除外され、ある程度の名誉をともなう特定の職業のために留保される。すべて封建社会の名誉ある職業のうち主要なものは、戦争である。そして僧侶の職務が、多くの場合、戦争の次位にくる。もしもその野蛮国がとくに好戦的でないならば、 僧侶の役目が上位を占め、軍人の役目が次位となるかもしれない。しかし、軍人でも僧侶でも、上層階級は生産的職業から免除されるという原則は、ほとんど例外なしに当てはまる。そして、このような免除は、彼らの卓越した地位の経済的表示である。(中略)
金銭上の見栄 文化的進化のなかで、有閑階級の出現が、私有財産制の始期と時を同じくするのは必然的な事柄である。というのは、これらの二つの制度は、経済的諸力の同じ一組から生まれ出るものであるからである。それらのものは、その発展の端初の段階では、社会的構造の同一の一般的事実の異なった様相にすぎない。
 閑暇と私有財産制が当面の目的にとって興味ある事柄となるのは、社会構造の要素──因習的事実──としてである。仕事を等閑にする習慣が有閑階級を作り出すものではない。また、使用や消費の機械的事実が私有財産制を作り出すのではない。それゆえに、現在の研究は、怠惰の起源に関するものでもなければ、有用な品物の個人的消費への充当の起源に関わるものでもない。 問題点は、一方では習俗としての有閑階級の起源と正確であり、他方では習俗的な権利ないしは請求権としての個人財産の起源である。(中略)
衒示的閑暇 いま大雑把に述べたような金銭的闘争の直接の効果は、もしもその作用がその他の経済力や見栄をきそう過程のその他の様相によって妨げられないとすれば、人々を勤勉にし節約的にするものであるに違いない。 下層階級に関する限り、このような効果がある程度まで現実に起こってくる。彼らが財貨を獲得する普通の手段は、生産的労働であるからである。このことは、農業的産業段階に立っている定住共同体の労働階級について、いっそう特別に当てはまる。そこでは財産のかなりの細分割がが行われ、またその社会の法律や習慣は、 これらの階級に、その勤労の生産物の生産物の多かれ少なかれきちんとした分け前を保証しているからである。これらの下層階級はいかなる場合も労働をされることはできない。だから、彼らにとっては、少なくとも彼らの階級の内部では、労働を引き受けることは、はなはだしく名誉を傷つけることではない。 むしろ、労働は彼らの公認の生活様式であるから、彼らのその仕事に有能であるという名声のなかに、ある種の見栄による誇りをいだく。けだし、これこそしばしば、彼らに許された見栄の唯一の方向であるからである。生産的能力や節約の分野においてだけ、獲得や見栄を行うことができる人々にとっては、金銭的名声を争うことは、 ある程度、勤勉や吝嗇(りんしょく)の増大をもたらすであろう。しかし、後に論ずるはずの見栄をきそう過程のある種の第2次的様相が入り込んできて、たんに上層階級のあいだばかりでなく、金銭的に劣等な階級のあいだにも、このような方向の見栄を、きわめて著しく限定し修正することとなる。(中略)
衒示的消費 代行的有閑階級の進化と、その勤労階級の一般的母胎からの分化について論じたところで、さらに進んだ分業──すなわち各種の使用人階級の間の分業──についても言及した。 使用人階級の一部のもの、すなわち主として代行的閑暇を職務とするものは、新しい副次的な範囲の義務──財貨の代行的消費──を引き受けるようになる。このような消費が起こるもっともはっきりした形態は、制服の着用や、広大な使用人宿舎の占拠に見られる、もう一つのそれに劣らず目立って効果的な形の代行的消費、しかもそれよりも遙かに広く行われているものは、貴婦人によって行われる食物、衣料、住居、家具の消費や、その他の家庭備品である。
趣味の金銭的な基準 消費を規制する規範は、概して衒示的消費の要求であるけれども、消費者があらゆる特定の場合に、それにもとずいて行動する動機は、単純率直な形のこの原理であると考えてはならない。という警告はすでに一度ならず繰り返したことである。 普通の場合、消費者の動機は、確立された慣行に従い、都合の悪い注意や噂話を避け、消費する財貨の種類、分量および等級なり、彼の時間や労力の作法にかなった使い方なりの点での世間並みの対面の基準に従って生活しようとする願望である。 ことに、見物人の目の前で行われる消費についてそうである。しかし、外部のものには、決して目立った程度には、わからないような消費の場合にも、慣行的贅沢の多くの要素が見られる。──たとえば、下衣、ある種の食品、台所用具その他、一目につくことよりもむしろ便益のために作られた家具類などがそれである。 そのような便利な品物のどれをとっても、よく調べてみれば、当該財貨の生産費をまし、その商業的価値を高めるに違いないが、しかし、これらの品物が、外見上、それに役立つだけのために作られている物質的目的にたいするその効用を比例的に増大させるとは限らないような若干の特徴が見出されるであろう。
金銭的文化の表示としての衣服 いままで述べてきた経済原理が、生活過程のある方向の日常の事実に、いかに当てはまるかを、実例によって、多少詳しく示すことが適当であろう。 この目的にとっては、衣服に対する支出ほど適当な例証を与える消費の方面はない。金銭的名声の、これに関連する他の原理も、同じ考案のなかに例証されるけれども、衣服のなかに表示されるのは、とくに財貨の衒示的消費の法則である。そのひとの金銭的立場を証明して見せるその他の方法も、そのような目的に効果的に役立つし、したがって、その他の方法も常に、またどこでも盛んに用いられる。 しかし、衣服に対する支出は、その他の方法の多くのもの以上に、次のような長所をもっている。それは、われわれの服装は、いつでもはっきりとわかるものであって、われわれの金銭的な地位を、あらゆる観察者に対して、一目で示す、というのである。また、衣服については、他のいかなる方面の消費よりも、衒示のための公認の支出がずっとはっきりと表れており、 またおそらく、ずっと一般的に行われていると言ってよいであろう。あらゆる階級が服そうのためにまねく金銭支出の大部分は、身体の保護のためよりも、むしろ尊敬されるような外観のために行うものであるという常識に同意することは、なにびとにとっても少しも困難ではなかろう。そして、もしもわれわれがこのような衣服の点で、社会的慣習によって定められた標準に劣るようなことがあれば、 それほど、みすぼらしい感じが鋭く感ぜられることは、他にあるまい。人々が、見苦しくない程度の浪費的な消費と考えられるものの余裕をもつために、非常に大きな程度の、生活の愉楽や必需品を犠牲にすることをしのぶということは、他の多くの消費項目よりも衣服について、ずっと高い程度に当てはまる。それゆえに、人々が、気候が悪いときに、、立派な衣服を着ているように見せるために、薄着で行くことは、決して珍しくない。 そして、あらゆる近代社会で衣服に使われる財貨の商業的価値は、その財貨が衣服を着る人の身体を包むために提供する機械的効果よりもずっと大きな程度で、流行の性質、すなわち、その財貨の名声を博する性質からなり立っている。衣服の必要は明らかに、「高級な」もしくは精神的な必要である。 (『有閑階級の理論』から)
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<主な参考文献・引用文献>
ユートピア                     トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫      1978.11.10 
スモール・イズ・ビューティフル  E.F.シューマッハー 酒井懋(つとむ)訳 講談社学術文庫   1986. 4.10
スモールイズビューティフル再論  E.F.シューマッハー 酒井懋(つとむ)訳 講談社学術文庫   2000. 4. 1
恋愛と贅沢と資本主義               W・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫   2000. 8.10
大転換      カール・ポラニー 吉沢英成・野口達彦・長尾史郎・杉村芳美訳 東洋経済新報社   1975. 4. 5 
有閑階級の理論             ソースタイン・ヴェブレン 小原敬士訳 岩波文庫      1961. 5.25  
( 2005年5月23日 TANAKA1942b )
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(24)東福門院和子から輸出産業へ
需要こそが生産を決める
東福門院和子の衣裳道楽から始まったこのシリーズ、開国し貿易を再開したら絹が主要な輸出品になっていた。こうして、「江戸時代、贅沢が江戸の産業を発展させた」との主張が証明されたので、今週はそのまとめを書いて、来週からは「趣味の贅沢と市場経済」別の側面から検討することにしよう。
1865(慶応元)年の主要輸出入品
輸出品目 生糸 蚕卵紙 海産物 そのほか 輸入品目 毛織物 綿織物 鉄砲など 艦船 綿糸 そのほか
79.4 10.5 3.9 2.9 3.3 40.3 33.5 7.0 6.3 5.8 7.1

<主要輸入品目から輸出品のトップへ>  江戸時代初期、代表的な輸入品は絹であった。
 ⇒新井白石により貿易量が制限され、日本は自給自足を始めた。
 ⇒東福門院和子から始まった衣裳道楽、豪商、庶民へと絹への憧れに続き、幕府の奢侈禁止令にもかかわらず消費は増え続けた。
 ⇒「贅沢は敵」か「贅沢は素敵」か、江戸時代の人は「贅沢は素敵」を選択した。
 ⇒享保15(1730)年の大火災(西陣焼け)から京都西陣の絹織物産業が日本各地へ拡散し始め、西陣の絹産業は空洞化した。
 ⇒日本の繊維産業は東日本では絹、西日本では綿、と分業が進んだ。
 ⇒1865(慶応元)年、外国との貿易が再開されて日本からの輸出品目を見ると、生糸が全体の80%近くを占めた。
 ⇒このように「贅沢」が江戸時代の産業を発展させた。
<贅沢が江戸経済を発展させたポイント>
 これまで書いてきたことをまとめてみよう。
十分な需要
 幕府が何度も奢侈禁止令を出したにもかかわらず、絹への憧れは強かった。「絹を扱えば儲かる」と藩主も商人も百姓も思った。 藩主も商人も百姓も自己責任において絹産業に取り組んでいった。江戸時代の絹産業をみると、「需要量が消費量・生産量を決定する」が正しく思えてくる。その反対は「供給はそれ自らの需要を創造する」というセイの法則だ。 セイの法則の感覚で言えば「世界の人口増に食料生産が追いつかない。日本も食料自給率を向上させるべきだ」になる。これに対して、「需要量が生産量を決定する」のセンスで考えると、「先進諸国が農業保護政策をやめれば、最貧国の農産物輸出による外貨獲得の可能性が生まれ、少しでも豊かになった国民の食料需要に対して、その人たちへの輸出を目指して諸国の農民が利益拡大を狙って食料生産に力を注ぐだろう」との考えになる。 「生産か?需要か?」一般論は話が抽象的になるが、江戸時代の絹産業は「需要量が生産量を決定する」の良い例だと思う。
各地へ拡散する生産技術
 京都西陣の生産技術が東日本各地へ拡散した。本家の京都は生産工場都市から文化都市に進化した。絹産業の技術拡散は、初めのうちは京都にとって不幸な出来事のように思われていたが、その後京都は芸術性の高い製品を生みだし文化都市として栄えていった。 現代物作り大国日本の生産技術がアジア諸国に拡散している。「産業空洞化」と表現し、危機感を煽る人もいるようだが、日本は更に付加価値の高い技術を開発し、高品質を目指し道を開いて行くであろう。そのような先頭にたって新しい付加価値を生み出すことは日本人に適していると思う。 産業空洞化などと怯える必要はない。
活発な物と情報の往来
 江戸時代のイメージとして各地に関所があって、諸藩は人や物の出入りを厳しく制限していたかのように思うが、絹産業について見ると、原材料・職人・技術・生産された商品が活発に日本国内を移動していたことがうかがわれる。 結果的に見れば東日本で絹が生産され、西日本で木綿が生産されていた。東日本でも木綿を着たし、西日本でも絹は着た。米は大坂堂島と江戸蔵前に集まった。絹と木綿はそのような中心地はなく全国の人たちに供給されていった。
各地で取引市場が開かれた
 米は大坂堂島で1730(享保15)年8月から「帳合い取引」とよばれる先物取引が行われた。絹でもこうした取引が試みられた。大坂堂島と同じように、商人が中心での取引所が多かった。幕府が司令塔になっていた訳ではない。現代の米取引は「自主流通米価格形成センター(「自主流通米価格形成センター」から平成16年4月1日に名称変更)」によって行われる。 理事・監事・運営委員の名前を見れば国の意向によって出来たことがわかる。大坂堂島米会所に例えれば、大岡越前守忠相が常任理事に名を連ねたようなものだ。
 絹に関する取引所は各地で試行錯誤の連続で、必ずしも成功したとは言えない。商人が自分たちの既得権を守るために取引所を作ろうとしたり、他藩に負けないようにと藩が中心になって計画したりと、それだけに計画経済とは違った自由な市場経済であった。
贅沢は特権階級だけではなかった
 このシリーズ、東福門院和子から始まって、豪商の妻子、そして庶民のアイドル「笠森稲荷のお仙」へと話を進めた。ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』は18世紀、ロココあたりの宮廷や貴族生活を中心に書いている。庶民のこと、笠森稲荷のお仙のような例はない。「著者まえがき」には次のようにある。
 本書の内容をなすこの前半部分は、「恋愛と贅沢と資本主義」と題して然るべきである。なぜなら、本書の根本思想は、ヨーロッパ社会が十字軍依頼経験した変革を通じ、男女両性の互いの関係も変化したこと、またこの関係の変化のために、支配階級の生活様式がすべて新しく形成されたこと、それにこうした新しい形成が、近代の経済組織をつくり上げるにあたって、本質的な影響を与えたことを指摘することにあるからである。 (「恋愛と贅沢と資本主義」から)
 江戸時代には支配階級だけでなく庶民も贅沢を楽しみ、そうして産業が栄え、人々は豊かになっていった。このことをゾンバルトが知ったら、わが意を得たり、と「恋愛と贅沢と資本主義」の続編を書いたかも知れない。ゾンバルトには及びもつかないが、それでもゾンバルトの知らなかった社会について、ゾンバルトの考えを補足できそうな見方を展開できそうに思う。
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<マックス・ウェーバーの見方>
 マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はよく知られている割に、あまり読まれていないのではないかと思う。そこで一部分を少し引用し、雰囲気を味わって頂きましょう。
信仰と社会層分化  さまざまな種類の信仰が混在している地方の職業統計に目を通すと、通常つぎのような現象が見出される。それはドイツ・カトリック派会議の席上や同派の新聞、文献の中でたびたび論議されていることだが、近代的企業における資本所有や企業家についてみても、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業者たちについてみても、彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているという現象だ。 この現象は、たとえば東部ドイツにおけるドイツ人とポーランド人の間のように信仰の種類が国籍の区別と一致し、したがって文化の発達程度とも一致しているような地方で見られるだけではない。およそ資本主義の発展期に、その結果として、住民たちの間に社会層分化と職業分化が生じた地方ではいたるところ──この分化が激しければ激しいほど明白に──信仰統計の数字をとおして明らかに見出される。 このように近代の大商工企業における資本所有や経営、それから高級労働にかかわりをもつプロテスタントの数が総体的にきわめて大きいということ、換言すれば、それらに参加しているプロテスタントの数が総人口におけるプロテスタントの比率よりも大きいということは、ある点まで、古い過去の時代に発した歴史的な理由によるものと見ることができる。
禁欲と資本主義  禁欲的プロテスタンティズムの宗教的基礎諸観念と経済的日常生活の諸原則のあいだに存する関連を明らかにするには、なかんずく、霊的司教(牧会)の実践から生まれてきたことの確かめられるような神学書を用いることが必要となってくる。 なぜなら、来世がすべてであって、聖餐に参加できるかどうかがキリスト教徒の社会的地位を左右し、霊的司教と教会規律と説教による聖職者の感化が──>>consilia<<「勧告」集や>>casus conscientiae<<「良心問題」集などを一見しても分かるように──われわれ現代人にはもはや簡単には想像もできないほどの影響をおよぼした時代には、そうした霊的司牧の実践のうちに働いていた宗教的諸力こそが「国民性」の決定的な形成者だったからだ。 (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」から)
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<主な参考文献・引用文献>
 来週からは「大江戸経済学=趣味と贅沢と市場経済」東福門院和子の衣裳道楽から「旅」に話題を移そうと思う。そこで今までに扱った<参考文献・引用文献>をまとめてみた。
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ウェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫      1989. 1.17
マックス・ヴェーバーとアジアの近代化                富永健一 講談社学術文庫    1998. 8.10
恋愛と贅沢と資本主義           ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫    2000. 8.10
百姓の江戸時代                           田中圭一 ちくま新書     2000.11.20
小説 東福門院和子の涙                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13
小説 東福門院和子                        徳永真一郎 光文社文庫     1993. 4.20
養源院の華 東福門院和子                  柿花仄(ほのか) 木耳社       1997. 9.20
歴史ロマン 火宅往来── 日本史のなかの女たち           澤田ふじ子 廣済堂出版     1990
小説 江戸の花女御 東福門院和子                  近藤富枝 毎日新聞社     2000. 1.15
花の行方 後水尾天皇の時代                    北小路功光 駸々堂出版     1973. 4.15
近世の女たち                             松村洋 東方出版      1989. 6.15
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち               円地文子 創美社       1977.10.25
新・歴史をさわがした女たち                     永井路子 文芸春秋社     1986.11.15
修学院と桂離宮 後水尾天皇の生涯 歴史と文学の旅         北小路功光 平凡社       1983. 6.15
江戸の素顔                             暉峻康隆 小学館       1995. 7. 1
遊びをする将軍 踊る大名                      山本博文 教育出版      2002. 6. 6
江戸時代 町人の生活                       田村栄太郎 雄山閣       1994. 5. 5
江戸のまかない                           石川英輔 講談社       2002. 1.30
江戸の助け合い                            芳賀登 地歴社       2004. 1.10
江戸時代史 上巻 1927(昭和2)年の復刻版           栗田元次 近藤出版社     1976.11.20
江戸の火事                              黒木喬 同成社       1999.12.25
図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸           相賀徹夫 小学館       1980. 4.10
大江戸曼陀羅                        朝日ジャーナル編 朝日新聞社     1996. 6
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
山根有三著作集3 光琳研究1                    山根有三 中央公論美術出版  1995. 5. 1
千年の息吹き 京の歴史群像               上田正昭・村井康彦編 京都新聞社     1994.11  
歴史の花かご 上 人と文化                吉川弘文館編集部編 吉川弘文館     1998.10. 1
図解人物日本の女性史7 江戸期女性の美と芸             相賀徹夫 小学館       1980. 4.10
絹Tものと人間の文化史                       伊藤智夫 法政大学出版会   1992. 6. 1
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10
長崎の唐人貿易                  山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館     1964. 4.15
絹の文化誌                    篠原昭 嶋崎昭典 白倫編著 信濃毎日新聞社   1991. 8.25
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30
皇女品宮の日常生活 『无上法院殿御日記』を読む           瀬川淑子 岩波書店      2001. 1.19
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち              円地文子編 創美社       1977.10.25
近世の女たち 文化の華あでやかに 古都の風光に余香          松村洋 東方出版      1989. 6.15
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 元禄歳時記(上)さんご珠は血の色               杉本苑子 講談社       1974.12.12
忠臣蔵とは何か                           丸谷才一 講談社       1984.10.12
御当代記 東洋文庫 将軍綱吉の時代          戸田茂睡著 塚本学校注 平凡社       1998.11.11
江戸時代の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23        三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸      相賀徹夫・児玉幸多 小学館       1980. 4.10
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20
武野燭談                             村上直校注 人物往来社     1967. 7.25
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25
翁草1                               神沢貞幹 歴史図書      1970.10.
八文字屋本全集 第2巻 傾域禁短気             八文字屋本研究会 汲古書院      1993. 3.
日本古典文学大系91 浮世草紙集 傾域禁短気            野間光辰 岩波書店      1966.11. 5
現代語訳 西鶴全集4 好色五人女            井原西鶴 暉峻康隆訳 小学館       1976. 7.31
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
大江戸漫陀羅                        朝日ジャーナル編 朝日新聞社     1996. 5.10
NHKニッポンときめき歴史館5   NHKニッポンときめき歴史館プロジェクト 日本放送協会    2000. 3.10
平賀源内全集 上 根南志具佐                          名著刊行会     1970
大田南畝全集 第11巻 半日閑話                 濱田義一郎 岩波書店      1988. 8.29
洒落本大成 第4巻 江戸評判娘揃 評判娘名寄草 あづまの花      水野稔 中央公論社     1979. 4.10
平賀源内                               芳賀徹 朝日新聞社     1981. 7.20
平賀源内を歩く 江戸の科学を訪ねて                 奥村正二 岩波書店      2003. 3.25
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
江戸の想像力                            田中優子 筑摩書房      1986. 9. 5
保坂元の江戸再発見                          保坂元 読売新聞社     1987. 7.31
江戸を駆ける                            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25
歴史発見15 元禄の豪商たち              NHK歴史発見取材班 角川書店      1994. 8.30
京都 歴史と文化1{政治・商業}                林屋辰三郎編 平凡社       1994. 4.18
日本永代蔵 現代語訳西鶴                    暉峻康隆訳注 小学館ライブラリー 1992. 4.20
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20
木綿以前の事                            柳田国男 岩波書店      1979. 2.16
新・木綿以前のこと 苧麻(ちょま)から木綿へ             永原慶二 中公新書      1990. 3.15
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12.
大阪市の歴史                         大阪市史編纂所 岩波書店      1999. 4.20
物語日本の歴史・第23巻 ─騒動に明け暮れる江戸の権力─      笠原一男編 木耳社       1992.11.10
江戸の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23          三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
国史大系 第40巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1964.12.31
国史大系 第46巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1966. 2.28
国史大系 第42巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1965. 4.30
国富論 アダム・スミス                     大河内一男訳 中公文庫      1978. 4.10
ビル・ゲイツの面接試験       ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社       2003. 7.15
独習江戸時代の古文書                         北原進 雄山閣       2002. 8.20
江戸時代の古文書を読む 元禄時代            徳川林政史研究所監修 東京堂出版     2002. 6.25
江戸の市場経済                           岡崎哲二 講談社       1999. 4.10
近世日本の市場経済─ 大坂米市場分析                 宮本又郎 有斐閣       1988. 6.30
株仲間の研究                            宮本又次 有斐閣       1958. 3. 5
経済倫理学のすすめ                         竹内靖雄 中公新書      1989.12.20
父性なき国家・日本の活路                      竹内靖雄 PHP研究所    1980. 2.27
「日本」の終わり 「日本型社会主義」との決別            竹内靖雄 日本経済新聞社   1998. 5. 6
国家と神の資本主義                         竹内靖雄 講談社       1995. 1.27
得する生き方 損する生き方                     竹内靖雄 東洋経済新報社   2001. 4.26
市場の経済思想                           竹内靖雄 創文社       1991. 6.30
マン・チャイルド 人間幼稚化の構造  D.ジョナス、D.クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社    1984. 7.10
サバイバル・ストラテジー          ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社       1983. 4.20
折りたく柴の記                     新井白石 桑原武夫訳 中公文庫      1974. 2.10
江戸幕府御用金の研究                        賀川隆行 法政大学出版局   2002. 3. 7
江戸幕府財政の研究                         飯島千秋 吉川弘文館     2004. 6. 1
古文書の語る日本史 6江戸前期                  所理喜夫編 筑摩書房      1989. 7.30
世界のなかの日本 十九世紀まで遡って見る    司馬遼太郎/ドナルド・キーン 中公文庫      1996. 1.18
事典 しらべる江戸時代             編集代表/林英夫・青木美智男 柏書房       2001.10.15
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10
京都 歴史と文化                        林屋辰三郎他 平凡社       1994. 4.18
日本人が作りだした動植物── 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会 裳華房       1996. 4.25
ものと人間の文化史 絹T                      伊藤智夫 法政大学出版局   1992. 6. 1
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
京都、リヨン、そして足利                 日下部高明・随思舎 随想舎       2001. 5.10
ものと人間の文化史 絹T                      伊藤智夫 法政大学出版局   1992. 6. 1
事典 絹と木綿の江戸時代                     山脇悌二郎 吉川弘文館     2002. 6.20
山形県の歴史 県史6          横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信 山川出版社     1998.12.10
福島県の歴史 県史7        丸井佳寿子・工藤雅樹・伊藤喜良・吉村仁作 山川出版社     1998.12.10
茨城県の歴史 県史8  長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司 山川出版社     1997. 6.20
栃木県の歴史 県史9          阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大獄浩良 山川出版社     1998. 2.10
埼玉県の歴史 県史11               田代脩・重田正夫・森田武 山川出版社     1999. 6. 5
新潟県の歴史 県史15田中圭一・桑原正史・阿部洋輔・金子達・中村義隆・本間恂一 山川出版社    1998. 1.25
群馬県の歴史 県史10             西垣晴次・山本隆志・丑木幸男 山川出版社     1997. 5. 5
富山県の歴史 県史16        深井甚三・本郷真紹・久保尚文・市川文彦 山川出版社     1997. 8.25
山梨県の歴史 県史19         飯田文弥・秋山敬・笹本正治・斎藤康彦 山川出版社     1999. 1.25
長野県の歴史 県史20  古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文 山川出版社     1997. 3.20
岐阜県の歴史 県史21松田之利・谷口和人・筧俊生・所史隆・上村恵宏・黒田隆志 山川出版社     2000.10.10
京都府の歴史 県史26  朝尾直弘・吉川真司・石川登志雄・水本邦彦・飯塚一幸 山川出版社     1999. 8. 1
愛知県の歴史 県史23                  三鬼(みき)清一郎 山川出版社     2001. 1.10
鳥取県の歴史 県史31           内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門 山川出版社     1997. 2. 5
岡山県の歴史 県史33     藤井学・狩野久・竹林榮一・倉地克直・前田昌義 山川出版社     2000. 6. 5
香川県の歴史 県史37         木原溥幸・丹羽佑一・田中健二・和田仁 山川出版社     1997.10.10
匠 成熟する都                           松井康彦 講談社       1994. 8.25
江戸の産業ルネッサンス                       小島慶三 中央公論社     1989. 4.25
綿と木綿の歴史                           武部善人 御茶の水書房    1989. 6.25
綿(わた)づくり民俗史                        吉村武夫 青蛙房       1982.10.20
江戸の誕生 史話 日本の歴史17      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15
元禄の美と粋 史話 日本の歴史18     梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15
飢饉の生き地獄 史話 日本の歴史20    梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15
日本史再発見 理系の視点から 朝日選書477            板倉聖宣 朝日新聞社     1993. 6.25
日本史を読む                       丸谷才一・山崎正和 中央公論社     1998. 5.25
江戸の暮らし図鑑 道具で見る江戸時代                高橋幹夫 芙蓉書房出版    1994. 5.25
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
原色日本服装史                           井筒雅風 光琳出版      1989.12.16
近世風俗事典              監修=江馬務・西岡虎之助・浜田義一郎 人物往来社     1967.12.15
ユートピア                     トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫      1978.11.10 
スモール・イズ・ビューティフル  E.F.シューマッハー 酒井懋(つとむ)訳 講談社学術文庫   1986. 4.10
大転換      カール・ポラニー 吉沢英成・野口達彦・長尾史郎・杉村芳美訳 東洋経済新報社   1975. 4. 5 
有閑階級の理論             ソースタイン・ヴェブレン 小原敬士訳 岩波文庫      1961. 5.25  
 来週からは、「旅」をテーマに、参勤交代、お伊勢参り、おかげまいり、などを取り上げるつもりです。ご期待ください。
( 2005年5月30日 TANAKA1942b )
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