趣味と贅沢と市場経済
趣味と贅沢と市場経済
● (1)江戸はアダム・スミスの世界 百姓は百の職業を持つ兼業農家 ( 2004年12月20日 )
● (2)東福門院和子の涙 幕府が朝廷支配のための政略結婚 ( 2004年12月27日 )
● (3)涙が絹になって尾形光琳・乾山 商売破綻から創作活動へ ( 2005年1月3日 )
● (4)衣装狂いによる貿易赤字 糸割符貿易の仕組み ( 2005年1月10日 )
● (5)後水尾院・東福門院の文化サロン 寛永文化への貢献度 ( 2005年1月17日 )
● (6)先に豊かになった人への憧れ トレンド・メーカー東福門院 ( 2005年1月24日 )
● (7)当世流行の衣装くらべ 伊達もの対決、江戸か京都か ( 2005年1月31日 )
● (8)スタイリスト尾形光琳の影響力 京都東山での伊達くらべ ( 2005年2月7日 )
● (9)♪ザッとおがんでお仙の茶屋へ♪ 大江戸美少女噂話 ( 2005年2月14日 )
● (10)美少女を取り巻く文化人 平賀源内とその仲間たち ( 2005年2月21日 )
● (11)先に豊かになれた豪商たち 特権階級相手の商売から町人相手へ ( 2005年2月28日 )
● (12)少し遅れて豊かになれた人たち 木綿の普及が生活革命 ( 2005年3月7日 )
● (13)金さえあれば、何でも買える風潮 改革とは幕府の「贅沢は敵だ」政策 ( 2005年3月14日 )
● (14)リーガル・パターナリズム 小さな政府の大きなお世話 ( 2005年3月21日 )
● (15)絹輸入のため金銀が流出 新井白石『折りたく柴の記』での心配 ( 2005年3月28日 )
● (16)代表的輸入品が主要輸出産業に 西陣の技術が地方に拡散 ( 2005年4月4日 )
● (17)拡散する技術情報と職人 技術空洞化と地方産業の発展 ( 2005年4月11日 )
● (18)東日本へ広がる絹・絹織物産業 農村に新しい産業として育つ ( 2005年4月18日 )
● (19)絹・絹織物産業の中心地は群馬県 現代でも品種改良の伝統を守る ( 2005年4月25日 )
● (20)中部地方の絹・絹織物産業 冨山・山梨・長野での発達 ( 2005年5月2日 )
● (21)本家京都はどうなったのか? 空洞化から衣裳芸術へ昇華 ( 2005年5月9日 )
● (22)木綿の由来と各地の生産 三河の綿から各地へ拡散 ( 2005年5月16日 )
● (23)贅沢に関する先人たちの見解 現代にも生きてるユートピア信仰 ( 2005年5月23日 )
● (24)東福門院和子から輸出産業へ 需要こそが生産を決める ( 2005年5月30日 )
● (25)参勤交代という公共事業 三代将軍家光時代に制度化 ( 2005年6月6日 )
● (26)道中費用はどうだった? 藩の財政を圧迫 ( 2005年6月13日 )
● (27)「総費用」とは「総売上」 参勤交代が通貨流通速度を速めた ( 2005年6月20日 )
● (28)世界一旅行好きな江戸庶民 弥次・北コンビは人気ツアーガイド ( 2005年6月27日 )
● (29)一生に一度は伊勢参り 現代人の海外旅行より盛んだった! ( 2005年7月4日 )
● (30)旅にまつわる費用など 女性も旅を楽しんでいた ( 2005年7月11日 )
● (31)夢のような伊勢参宮の旅 ハレの食事の極めつけ ( 2005年7月18日 )
● (32)お殿様以上の豪華な神楽と直会 御師の館での儀式と費用 ( 2005年7月25日 )
● (33)抜け参り,お蔭参り,ええじゃないか その不思議なエネルギー ( 2005年8月1日 )
● (34)おかげまいりの経済効果 無銭旅行を支えた「施行」( 2005年8月8日 )
● (35)「ええじゃないか」騒動の発端 お札の降下とその後の不思議( 2005年8月15日 )
● (36)いろいろな庶民の旅 富士講・大山講や富士塚など( 2005年8月22日 )
● (37)旅の普及を支えた経済制度 統一貨幣・頼母子講・為替制度・飛脚( 2005年8月29日 )
● (38)旅が第3次産業を育てた 江戸の出版文化と蔦屋重三郎( 2005年9月5日 )
● (39)旅が江戸社会に及ぼした影響 「貨幣数量説」と「情報数量説」( 2005年9月12日 )
● (40)江戸時代の旅を総括する 欧州にはない平和な近世( 2005年9月19日 )
● (41)園芸は代表的な道楽だった 造形化した自然も好んだ江戸庶民( 2005年9月26日 )
● (42)椿から始まった江戸の園芸 無類の花好きだった徳川家康( 2005年10月3日 )
● (43)話題の多いキクとアサガオ 変化朝顔の不思議( 2005年10月10日 )
● (44)ツツジやハボタンなど 大久保はツツジの名所だった( 2005年10月17日 )
● (45)江戸園芸を総括する 現代も盛んなフラワービジネス( 2005年10月24日 )
● (46)倹約の吉宗か?贅沢の宗春か? 享保の改革に反抗したモルモット( 2005年10月31日 )
● (47)野暮将軍吉宗が格闘した享保改革 贅沢と新しいことの徹底禁止( 2005年11月7日 )
● (48)『温知政要』と『遊女濃安都』 宗春の政治姿勢をみる( 2005年11月14日 )
● (49)宗春の政治をどう評価するか? 英雄か?ケインズ政策の失敗か?( 2005年11月21日 )
● (50)倹約と贅沢を総括する ゾンバルト以上に資本主義的であった( 2005年11月28日 )
◎大江戸経済学
改革に燃えた幕臣経済官僚の夢
◎大江戸経済学
大坂堂島米会所
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趣味の経済学
アマチュアエコノミストのすすめ
Index
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2%インフレ目標政策失敗への途
量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
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FX、金融商品取引法に基づく合法のみ行為
取引の仕組みを解明する
(1)江戸はアダム・スミスの世界
百姓は百の職業を持つ兼業農家
<はじめに>
「大東亜戦争」として始まった戦争が終わって、「太平洋戦争」と名前が変わった後、日本経済は世界の政治家・経済人が羨むほどの高い成長を達成した。何故そのような高度成長が実現したのか?その答えを、『日本株式会社』と呼ばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに求めようとする日本人がいる。
しかしそれは視野狭窄的な見方で、「官に逆らった経営者が出るほど、自由な経済環境にあった」と考えた方が自然だ。特に同時代のヨーロッパ諸国──フランス、イギリス、ドイツなどと比較してみれば、一目瞭然。
戦後復興政策▲、ヨーロッパは西も東も社会主義をやっていた。
アジア諸国の指導者の中には「このような発展を遂げた日本を見習おう」との意識があった。マレーシアのマハティール首相が提唱した「ルックイースト政策」は政官協力体制の「日本株式会社」と「終身雇用」を中心とした、欧米諸国とは違った経済政策であった。
この非西欧的経済政策と並んで言われたのが「日本の経済発展は、儒教的倫理観に基づいた日本人の仕事に対する誠実な態度があったからだ」という見方だった。
「儒教的倫理観」とはマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を意識した発言と考えて良いだろう。
日本の戦後の経済成長は「日本株式会社」ではなく、「官に逆らった経営者」▲がいたからだ、と言うのがTANAKAの考え方だ。そして、こうした経済成長を支えてきたのは、「プロテスタンティズム」でも「儒教的倫理観」でもなく「趣味と贅沢が市場経済を発展させた」であり、それは「恋愛と贅沢と資本主義」と同じ考えであり、「市場経済の基礎は江戸時代にできた」がTANAKAの考え方だ。
「禁欲と資本主義」ではなくて「人々が自分の欲望を満足させようとすることによって、資本主義経済は成り立っている」とのアダム・スミスの考えや、ヴェルナー・ゾンバルトの考え方の方が経済を理解するには役立つように思える。そこで
「江戸時代、趣味と贅沢とが市場経済を発展させた」との発想で「大江戸経済学」を展開してみようと思った。第1回目は題して「江戸はアダム・スミスの世界 百姓は百の職業を持つ兼業農家」。
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<八っつあん、熊さんも朝顔の品種改良を楽しんでいた>
江戸庶民の道楽と言えば先ず「園芸道楽」をあげよう。長屋住まいの、「町人」の分類にも入らない、八っつあん、熊さん、ご隠居さんが楽しんだのが朝顔の栽培。もう少し裕福な人たち、すなわち「町人」と呼ばれた土地を持っている人たちはキク作りに夢中になった。江戸時代になり、世の中が安定してくると平安時代に盛んだった「菊合せ」も復活する。もう少し上層階級である武士、殿様、将軍はツバキの鉢植えに熱中する。こうした趣味は鉢植えの鉢に凝ったり、大きなキクや珍しい品種が高く取引されたり、それを幕府が取り締まったりと、
社会問題、経済問題、政治問題へと発展していった。経済面から見れば、こうした趣味が、植木業、陶磁器制作、造園業などを刺激したし、植物の品種改良の知識はその後の日本農業に大きな影響を与えた。今日「農業は先進国型産業であり、品種改良に比較優位を持つ日本の基礎は江戸時代にあった」と言えるのも、八っつあん、熊さん、ご隠居さんをはじめ、町人、殿様、大名の園芸道楽があったからだ、と言える。(参考HP▲)
江戸時代の植物栽培はどのような品種が愛されたのか?順不同で羅列してみよう。江戸時代初期にはツバキの鉢植えに熱中した人たちがいた。それは後水尾天皇、二代将軍徳川秀忠、それに京の貴族たちだった。やはり江戸初期の寛永期にはキクの栽培が行われ珍種売買の商売も行われた。京や大坂ではキクなどの花合せ(花の品評会)も盛んであった。1772(安永元)年、田沼意次が老中になり、「田沼意次の時代」が始まると、キクは大輪がもてはやされるようになる。
田沼が失脚し松平定信のデフレ時代には巣鴨村や染井村や雑司ヶ谷が観菊の地として栄えた。アサガオの栽培熱は江戸後期、文化年間ごろからにわかに流行した。キクやアサガオのほかランは元禄のころから品種改良が行われていた。同じく元禄時代にはツツジの栽培も盛んになった。
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<何度も「贅沢禁止令」が出るほど、「贅沢は素敵」だった>
江戸時代、幕府は何度も「贅沢禁止令」を出している。主に町人の衣服に関する贅沢が対象だ。それだけ、幕府がお触れを出すほど町人が豊かになって、贅沢を楽しんでいたことがうかがえる。その衣装道楽は町人だけでなく将軍・殿様の取り巻き連中でも広まっていた。その道楽に応えるための絹をはじめとする衣装産業の発展は江戸時代の産業を考える場合に見過ごすことができない。
後の時代になって、大本営が「贅沢は敵だ」とのスローガンを出すと、庶民は「贅沢は素敵だ」と言った。それでも「禁欲は善である」との価値観はいろんな場面で主張される。「デフレを乗り切るには」との問いに対して、禁欲的な回答を寄せる識者も多い。エコノミストの立場では「趣味と贅沢が市場経済を進化させる」が正解だと思うのだが、あまりにも本音の正直な考えは、あまり歓迎されないようなので、せいぜいアマチュアエコノミストが主張することにしよう。
江戸時代の贅沢の代表は「絹」と言っていい。江戸時代で最も大概貿易が盛んであったと考えられる明暦元年の輸出入品目を調べると、次のようになる。
輸入品 生糸 絹織物 皮革 香料 薬種 砂糖
輸出品 金・金製品 銀・銀製品 銅・銅製品 樟脳(「江戸時代」から)
この場合の金・金製品などは、輸出品というより輸入品の支払のための「通貨」と考えた方が分かりやすい。さて、輸入品の代表は絹と絹織物で、この二品で輸入額の大半を占めていた。この絹・絹織物は江戸時代の贅沢品の代表でもあった。そのため貿易赤字の解消のために、絹・絹織物の国産化が進み、明治維新後には日本の代表的な輸出品目になった。
つまり、贅沢品の絹・絹織物な輸入増のため、その国産化を進めることによって絹・絹織物産業が育っていった、ということだ。
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<幕府は小さな政府の典型なのだ>
江戸時代を経済学の面から特徴づけると「幕府は小さな政府の典型」と言える。諸藩は独立国のようでもあり、江戸という都市は幕府の直轄地であり、多くの行政サービスが民間に委託されていた。
100万人都市江戸の治安を司る警察機構は、南北奉行所の下に与力・同心がいて配下の岡っ引(目明)を使っていた。その数は下っ引きまで含めても千人程度、それに加えて自身番・木戸番の制度があった。
このうち与力・同心までが幕府から給料をもらっていたので、その他の岡っ引から自身番・木戸番までは民間人だった。
国家の基本的な事業、国防、警察、教育、司法、等を調べてみると、いかに小さな政府だったかが分かる。国防は各地方自治体にまかせ、警察は民間人である「岡っ引き」に任せ、その費用の工面は岡っ引きの裁量に任せていた。
教育は寺子屋が中心で、司法に関しては中央政府ではなく、藩と言われる地方自治体が担当し、商業上のトラブルに関しては株仲間が自主的に処理していた。百万人都市江戸の清掃に幕府は関係せず、下水処理は練馬あたりの百姓が下肥として買い取っていたし、燃えるゴミは風呂屋の燃料にと、朝早くに風呂屋の小僧が集めていたので、江戸の町は世界でも有数な清潔な都市だった。(^_^) (^_^) (^_^)
<百姓一揆は、まるで春闘みたいだな>
江戸時代には飢饉もあったし、百姓一揆も多発していた。「封建社会」「士農工商」「百姓は生かさず殺さず」などの言葉から連想されるのは、「百姓がまるで奴隷のように扱われていて、そのために不満が爆発して百姓一揆が起きた。しかし結局弾圧されて目的を達しなかった」という図式だ。
「歴史の必然性」を強調したい人たちは、江戸時代をこのように見ている。しかし、一つ一つのの出来事見てみると少し違う。一揆を起こす百姓も、弾圧する藩主側も命がけだったわけでななさそうだ。そう考えるよりも、春闘のような年中行事だった、と考えた方が良いような例もある。百姓側も役人側も槍、刀、鉄砲はめったに使っていない。
百姓一揆と言っても、江戸時代の人が、子供のイヤイヤとしか映らないような一揆があったのも事実のようだ。広瀬淡窓は、1812(文化9)年、在所の近くで起きた一揆について、凶作とか困窮とかいった具体的な原因もなく起きたものだと、多少の不審と軽蔑の念をにじませた感想を日記に残している。
「此時格別の凶歳と云うにもあらす、民の窮も未だ甚しからす、只何となく人気さわきたちたるなり」『懐旧楼筆記』
(「江戸は夢か」から)
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<庶民・百姓の視点から江戸時代を見てみようよ>
暗記物としての歴史は、中世・近世・現代とか、「やあなへかなむあえめげ」のように覚えたり、政治体制、支配階級の側から見る歴史が多かった。そのため庶民の生活は「封建時代なのだから庶民はこのように抑圧された生活をしていたはずだ」のような発想だった。そうではなくて「実際に庶民・百姓はどのような生活をしていたのか?」との発想から江戸時代を見てみようと思う。
そうすると「封建時代」という言葉がとても不自然に思えてくる。このシリーズでは、そのような不自然な面を取り上げてみようと思う。つまり、「江戸時代、百姓・庶民は結構豊かな生活をしていた」との見方になる。
例えば年貢。七公三民などと言われ、収穫されたコメの7割を年貢として納め、自分は3割しか食べられなかったため、主食はコメでななくアワやヒエなどの雑穀だった、との考えは「生産された作物をこれほどまでに領主が奪ったので、百姓は常に食料飢饉の危機にさらされていた」との貧農史観に結びつく。
「七公三民」は戦国から江戸初期にかけてのことで、これは戦国武将がコメを集め「戦の準備のために城を造る。人夫として働けばコメを分け与える」と宣言した。つまり一度年貢として納めたコメを、城造りで百姓に配り、結果として百姓はコメを食べていた。これは戦国から江戸初期のこと。城造りが一段落すると、領主はコメを商品として大坂米会所などで現金化・現銀貨する。百姓はそれを買って食べていた。買う金はどうしたのか?
答えは「百姓は百の職業を持つ兼業農家」だ。百姓はコメ以外にも収入源を持っていた。現代「米作り専業農家が減っている」と嘆く人がいるがそれは思い違い。兼業農家とはリスクを分散させようとの賢い知恵なのだ。もしかしたら江戸時代の百姓に学んだのかもしれない。だとしたら現代のお百姓さんはなかなか賢い経営者だと言えそうだ。
(^_^) (^_^) (^_^)
<江戸時代を経済学します>
日本の歴史学者は、文学部歴史学科卒業日本歴史専攻が多いのだろう。江戸時代を見る場合、政治学から見る場合、法学から見る場合、美術から見る場合、教育学から見る場合、農学から見る場合、科学技術から見る場合、そして経済学から見る場合、見る立場によって評価も違ってくるはずだ。
士農工商という身分制度から見る場合、商法もなく商業上のトラブルは株仲間の制裁に任せていた徳川幕府という政府、平賀源内の仕事を科学技術な立場から見ると歴史学者とは違ってくるかもしれない。
それぞれの専門的立場から見るとすれば文学部歴史学科だけに任せておくこともできない。特に経済学の立場から見れば、歴史学者とは違った見方ができるに違いないからだ。
などと、自惚れながら、江戸時代を経済学してみようと思いたった。さてどこまでその試みが成功するか?新たな江戸時代の神話解明にチャレンジします。
先ず来週は、幕府と朝廷との力のバランスの中で涙を流した女性のとてつもない贅沢、についての話から始めます。乞うご期待!
(^o^) (^o^) (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
江戸時代 大石慎三郎 中公新書 1977. 8.25
資本主義は江戸で生まれた 鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1
江戸は夢か 水谷三公 ちくま学芸新書 2004. 2.10
江戸の道楽 棚橋正博 講談社 1999. 7.10
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ウェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫 1989. 1.17
マックス・ヴェーバーとアジアの近代化 富永健一 講談社学術文庫 1998. 8.10
恋愛と贅沢と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫 2000. 8.10
百姓の江戸時代 田中圭一 ちくま新書 2000.11.20
( 2004年12月20日 TANAKA1942b )
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(2)東福門院和子の涙
幕府が朝廷支配のための政略結婚
人間のさいわいと徳、いえ、女子(おなご)のしあわせと申上げたほうがよろしゅうございましょうか、これはひとそれぞれなれど、世に私ほどの冥加を得た者はふたりと指折ることはできぬのではありますまいか。
何ゆえかと申しますれば、ただいまは延宝八年、庚申の年廻りにて、長い戦乱の世も治まり、天下さまは第百十二代、霊元天皇の御代となられ、将軍さまは第五代綱吉さまにご勅諚下りましたところにございます。
かくなる時代、将軍家にお仕え申せしお女中方のうち、生涯かけてその勤めを全うせし者、めったとあるまじく、しかもおん主(あるじ)、東福門院和子(まさこ)姫の崩御の際まで見極めさせて頂きましたばかりか、法皇後水尾(ごみずのお)院おかくれのときにもめぐり遭うという運を賜り、
そして皇女朱(あけ)宮さまご落飾ののち林丘(りんきゅう)寺へお入り遊ばした報にも接し、これにて何ひとつ思い残すこと無し、というただいまの心持にてございます。
私、本年とって七十七歳と相成ります。
昨年春頃より目の前に常に白雲たなびきて視力落ち、どうやらそこひらしく思われますものの、いうなれば年病い、他にはこれというて体に悪しき個所も見当たりませぬ故に、甘んじてこの成りゆきを受け入れるべく心得おります。
その代わり、こしかたの記憶すこしずつ冴えて参り、いずれ私も冥界より和子姫さまお呼び下されるその日まで、胸にとどめおくことすべて打明け申上げたく、かくお運び頂ましてござります。
ここは、和子姫のお眠り遊ばす御寺(みてら)の東山の麓、私の小さな庵にて、誰にお気兼ねも要りませぬ。
お手をわずらわせますなれど、そこの灯心をいま少々お掻き立て下さりませぬか。かたじけのうござります。どうやらぼんやりと明(あこ)うなって参りました。私のそこひの目にても、虹の向うに和子姫のお立ち遊ばしておいでのご様子がはっきりと拝まれます。お小さいころの振分髪にござります。
何ゆえか、私の目裏(まなうら)に在わす和子姫はいつとてもお小さい折のお姿ばかり、それと申しますのも、私が初めて江戸城西のまるに上りましたのは慶長十九年、姫さまお八つの年、私十二の四月ついたちでござりました。
(「東福門院和子の涙」から)
* * *
このように始まるのが宮尾登美子の『東福門院和子の涙』、多くの作家が東福門院和子をヒロインとして描いている。江戸時代初期、幕府と朝廷の力関係の中で政略結婚させられた和子、その数奇な生涯は作家にとって取り上げてみたい女性ではあったろう。
江戸時代の女性としては、皇女和宮とならぶヒロインと言って良い。幕府と朝廷、この力関係の中で、それでも誠実に一生懸命生きた女性、作家が取り上げたくなる二人の女性だ。
ところでそれは文学での話。経済学では少し違った面から興味を引く存在だった。それは和子の「涙の代償」だ。
悲劇のヒロインであった和子、金に不自由はしなかった。そして買いまくった衣装の数々。
こうして、これから見ていくように「権力闘争から派生した子供である奢侈は、資本主義を生み落とした」と言うのがこのシリーズ最初のテーマだ。
「大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済」の第1回目の登場人物にふさわしい存在だと思う。そこで、当時の状況から話を始めることにしよう。
<いろいろトラブルはあったが、徳川家は天皇家の外戚になる>
戦国時代を生き抜くには先ず軍事力が物を言った。それは天下を取るまでのこと。天下を取って政権を安定させるには、軍事力とは別の権威が必要だった。秀吉が「関白」という位に喜んだのも、家柄で誇ることの出来ない秀吉にとって政権維持のためになる大きな権威だったからだ。
家康の場合は「征夷大将軍」という、武士としては最高の位に就いたがそれで満足はしなかった。長期安定政権のために天皇の権威を利用したかった。天皇家の外戚になること。これを望んだ家康は、二代将軍徳川秀忠の八女、和子(まさこ)を後水尾天皇の妃として入内させようと考えた。
男子を生んで、その子が天皇になれば、徳川家の朝廷側に対しても発言力が増す。しかし朝廷側としては徳川幕府の支配力の増大を恐れてことあるごとに抵抗した。それに対して幕府は力ずくで考えを押し通そうとした。ここに幕府と朝廷側との間でいつくかの摩擦が起きた。
{幕府の承認を得ずには内大臣にはなれない}
勧修寺(かじゅうじ)大納言兼勝が、徳川幕府の承認を受けずに内大臣に任じられた。徳川幕府は「禁中並公家諸法度」を出し、公家の官位は家々の旧例を基礎とし、それに本人の器用如何を勘案し、幕府の諒解を得たうえで昇進させるようにと決めている。
しかし名族ではあるが摂家・清華につらなるほどの家柄でもなく、また大臣に任じられた先例も絶えてなかった勧修寺の者を、幕府の了解なしに朝廷の一存で内大臣に任命するのはけしからぬ、とクレームをつけた。
{後水尾天皇が子供を産ます}
後水尾天皇が藪左中条詞良の妹於四ノ局の子供を産ませ、これが和子の父秀忠を怒らした。宮廷の常識としては特別問題はなかった。江戸時代では正妻の他に妾を持つことは珍しくなかった。極端に言えば武家にしても公家にしても、身分を問わず「相手が誰でもいいから、男の子を産める者」を見つけて種付けをすることが社会的な合意として成立していた。
十一代将軍徳川家斉(在職期間は1787-1837,天明7年ー天保8年の50年間)の場合は正妻の他に何十人といった妾に50何人もの子を産ませている。
宮廷側としては和子の父秀忠が怒っていることに戸惑っていた。
{豊臣家の滅亡と家康の死}
入内の宣旨が正式に発せられた後、大阪冬の陣、大阪夏の陣があり臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する。その1年後には家康が
駿府城で急死する。このように入内までに多くの出来事があったが、1620(元和 6)年6月18日に入内が決まる。