趣味と贅沢と市場経済

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが江戸時代を経済学します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が江戸時代の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

趣味と贅沢と市場経済
(1)江戸はアダム・スミスの世界 百姓は百の職業を持つ兼業農家 ( 2004年12月20日 )
(2)東福門院和子の涙 幕府が朝廷支配のための政略結婚 ( 2004年12月27日 )
(3)涙が絹になって尾形光琳・乾山 商売破綻から創作活動へ ( 2005年1月3日 )
(4)衣装狂いによる貿易赤字 糸割符貿易の仕組み ( 2005年1月10日 )
(5)後水尾院・東福門院の文化サロン 寛永文化への貢献度 ( 2005年1月17日 )
● (6)先に豊かになった人への憧れ トレンド・メーカー東福門院 ( 2005年1月24日 )
● (7)当世流行の衣装くらべ 伊達もの対決、江戸か京都か ( 2005年1月31日 )
● (8)スタイリスト尾形光琳の影響力 京都東山での伊達くらべ ( 2005年2月7日 )
● (9)♪ザッとおがんでお仙の茶屋へ♪ 大江戸美少女噂話 ( 2005年2月14日 )
● (10)美少女を取り巻く文化人 平賀源内とその仲間たち ( 2005年2月21日 )
● (11)先に豊かになれた豪商たち 特権階級相手の商売から町人相手へ ( 2005年2月28日 )
● (12)少し遅れて豊かになれた人たち 木綿の普及が生活革命 ( 2005年3月7日 )
● (13)金さえあれば、何でも買える風潮 改革とは幕府の「贅沢は敵だ」政策 ( 2005年3月14日 )
● (14)リーガル・パターナリズム 小さな政府の大きなお世話 ( 2005年3月21日 )
● (15)絹輸入のため金銀が流出 新井白石『折りたく柴の記』での心配 ( 2005年3月28日 )
● (16)代表的輸入品が主要輸出産業に 西陣の技術が地方に拡散 ( 2005年4月4日 )
● (17)拡散する技術情報と職人 技術空洞化と地方産業の発展 ( 2005年4月11日 )
● (18)東日本へ広がる絹・絹織物産業 農村に新しい産業として育つ ( 2005年4月18日 )
● (19)絹・絹織物産業の中心地は群馬県 現代でも品種改良の伝統を守る ( 2005年4月25日 )
● (20)中部地方の絹・絹織物産業 冨山・山梨・長野での発達 ( 2005年5月2日 )
● (21)本家京都はどうなったのか? 空洞化から衣裳芸術へ昇華 ( 2005年5月9日 )
● (22)木綿の由来と各地の生産 三河の綿から各地へ拡散 ( 2005年5月16日 )
● (23)贅沢に関する先人たちの見解 現代にも生きてるユートピア信仰 ( 2005年5月23日 )
● (24)東福門院和子から輸出産業へ 需要こそが生産を決める ( 2005年5月30日 )
● (25)参勤交代という公共事業 三代将軍家光時代に制度化 ( 2005年6月6日 )
● (26)道中費用はどうだった? 藩の財政を圧迫 ( 2005年6月13日 )
● (27)「総費用」とは「総売上」 参勤交代が通貨流通速度を速めた ( 2005年6月20日 )
● (28)世界一旅行好きな江戸庶民 弥次・北コンビは人気ツアーガイド ( 2005年6月27日 )
● (29)一生に一度は伊勢参り 現代人の海外旅行より盛んだった! ( 2005年7月4日 )
● (30)旅にまつわる費用など 女性も旅を楽しんでいた ( 2005年7月11日 )
● (31)夢のような伊勢参宮の旅 ハレの食事の極めつけ ( 2005年7月18日 )
● (32)お殿様以上の豪華な神楽と直会 御師の館での儀式と費用 ( 2005年7月25日 )
● (33)抜け参り,お蔭参り,ええじゃないか その不思議なエネルギー ( 2005年8月1日 )
● (34)おかげまいりの経済効果 無銭旅行を支えた「施行」( 2005年8月8日 )
● (35)「ええじゃないか」騒動の発端 お札の降下とその後の不思議( 2005年8月15日 )
● (36)いろいろな庶民の旅 富士講・大山講や富士塚など( 2005年8月22日 )
● (37)旅の普及を支えた経済制度 統一貨幣・頼母子講・為替制度・飛脚( 2005年8月29日 )
● (38)旅が第3次産業を育てた 江戸の出版文化と蔦屋重三郎( 2005年9月5日 )
● (39)旅が江戸社会に及ぼした影響 「貨幣数量説」と「情報数量説」( 2005年9月12日 )
● (40)江戸時代の旅を総括する 欧州にはない平和な近世( 2005年9月19日 )
● (41)園芸は代表的な道楽だった 造形化した自然も好んだ江戸庶民( 2005年9月26日 )
● (42)椿から始まった江戸の園芸 無類の花好きだった徳川家康( 2005年10月3日 )
● (43)話題の多いキクとアサガオ 変化朝顔の不思議( 2005年10月10日 )
● (44)ツツジやハボタンなど 大久保はツツジの名所だった( 2005年10月17日 )
● (45)江戸園芸を総括する 現代も盛んなフラワービジネス( 2005年10月24日 )
● (46)倹約の吉宗か?贅沢の宗春か? 享保の改革に反抗したモルモット( 2005年10月31日 )
● (47)野暮将軍吉宗が格闘した享保改革 贅沢と新しいことの徹底禁止( 2005年11月7日 )
● (48)『温知政要』と『遊女濃安都』 宗春の政治姿勢をみる( 2005年11月14日 )
● (49)宗春の政治をどう評価するか? 英雄か?ケインズ政策の失敗か?( 2005年11月21日 )
● (50)倹約と贅沢を総括する ゾンバルト以上に資本主義的であった( 2005年11月28日 )

大江戸経済学 改革に燃えた幕臣経済官僚の夢
大江戸経済学 大坂堂島米会所

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、金融商品取引法に基づく合法のみ行為 取引の仕組みを解明する

(1)江戸はアダム・スミスの世界
百姓は百の職業を持つ兼業農家
<はじめに> 「大東亜戦争」として始まった戦争が終わって、「太平洋戦争」と名前が変わった後、日本経済は世界の政治家・経済人が羨むほどの高い成長を達成した。何故そのような高度成長が実現したのか?その答えを、『日本株式会社』と呼ばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに求めようとする日本人がいる。 しかしそれは視野狭窄的な見方で、「官に逆らった経営者が出るほど、自由な経済環境にあった」と考えた方が自然だ。特に同時代のヨーロッパ諸国──フランス、イギリス、ドイツなどと比較してみれば、一目瞭然。 戦後復興政策▲、ヨーロッパは西も東も社会主義をやっていた。
 アジア諸国の指導者の中には「このような発展を遂げた日本を見習おう」との意識があった。マレーシアのマハティール首相が提唱した「ルックイースト政策」は政官協力体制の「日本株式会社」と「終身雇用」を中心とした、欧米諸国とは違った経済政策であった。 この非西欧的経済政策と並んで言われたのが「日本の経済発展は、儒教的倫理観に基づいた日本人の仕事に対する誠実な態度があったからだ」という見方だった。 「儒教的倫理観」とはマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を意識した発言と考えて良いだろう。
 日本の戦後の経済成長は「日本株式会社」ではなく、「官に逆らった経営者」▲がいたからだ、と言うのがTANAKAの考え方だ。そして、こうした経済成長を支えてきたのは、「プロテスタンティズム」でも「儒教的倫理観」でもなく「趣味と贅沢が市場経済を発展させた」であり、それは「恋愛と贅沢と資本主義」と同じ考えであり、「市場経済の基礎は江戸時代にできた」がTANAKAの考え方だ。 「禁欲と資本主義」ではなくて「人々が自分の欲望を満足させようとすることによって、資本主義経済は成り立っている」とのアダム・スミスの考えや、ヴェルナー・ゾンバルトの考え方の方が経済を理解するには役立つように思える。そこで 「江戸時代、趣味と贅沢とが市場経済を発展させた」との発想で「大江戸経済学」を展開してみようと思った。第1回目は題して「江戸はアダム・スミスの世界 百姓は百の職業を持つ兼業農家」。
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<八っつあん、熊さんも朝顔の品種改良を楽しんでいた> 江戸庶民の道楽と言えば先ず「園芸道楽」をあげよう。長屋住まいの、「町人」の分類にも入らない、八っつあん、熊さん、ご隠居さんが楽しんだのが朝顔の栽培。もう少し裕福な人たち、すなわち「町人」と呼ばれた土地を持っている人たちはキク作りに夢中になった。江戸時代になり、世の中が安定してくると平安時代に盛んだった「菊合せ」も復活する。もう少し上層階級である武士、殿様、将軍はツバキの鉢植えに熱中する。こうした趣味は鉢植えの鉢に凝ったり、大きなキクや珍しい品種が高く取引されたり、それを幕府が取り締まったりと、 社会問題、経済問題、政治問題へと発展していった。経済面から見れば、こうした趣味が、植木業、陶磁器制作、造園業などを刺激したし、植物の品種改良の知識はその後の日本農業に大きな影響を与えた。今日「農業は先進国型産業であり、品種改良に比較優位を持つ日本の基礎は江戸時代にあった」と言えるのも、八っつあん、熊さん、ご隠居さんをはじめ、町人、殿様、大名の園芸道楽があったからだ、と言える。(参考HP▲
 江戸時代の植物栽培はどのような品種が愛されたのか?順不同で羅列してみよう。江戸時代初期にはツバキの鉢植えに熱中した人たちがいた。それは後水尾天皇、二代将軍徳川秀忠、それに京の貴族たちだった。やはり江戸初期の寛永期にはキクの栽培が行われ珍種売買の商売も行われた。京や大坂ではキクなどの花合せ(花の品評会)も盛んであった。1772(安永元)年、田沼意次が老中になり、「田沼意次の時代」が始まると、キクは大輪がもてはやされるようになる。 田沼が失脚し松平定信のデフレ時代には巣鴨村や染井村や雑司ヶ谷が観菊の地として栄えた。アサガオの栽培熱は江戸後期、文化年間ごろからにわかに流行した。キクやアサガオのほかランは元禄のころから品種改良が行われていた。同じく元禄時代にはツツジの栽培も盛んになった。
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<何度も「贅沢禁止令」が出るほど、「贅沢は素敵」だった> 江戸時代、幕府は何度も「贅沢禁止令」を出している。主に町人の衣服に関する贅沢が対象だ。それだけ、幕府がお触れを出すほど町人が豊かになって、贅沢を楽しんでいたことがうかがえる。その衣装道楽は町人だけでなく将軍・殿様の取り巻き連中でも広まっていた。その道楽に応えるための絹をはじめとする衣装産業の発展は江戸時代の産業を考える場合に見過ごすことができない。 後の時代になって、大本営が「贅沢は敵だ」とのスローガンを出すと、庶民は「贅沢は素敵だ」と言った。それでも「禁欲は善である」との価値観はいろんな場面で主張される。「デフレを乗り切るには」との問いに対して、禁欲的な回答を寄せる識者も多い。エコノミストの立場では「趣味と贅沢が市場経済を進化させる」が正解だと思うのだが、あまりにも本音の正直な考えは、あまり歓迎されないようなので、せいぜいアマチュアエコノミストが主張することにしよう。
 江戸時代の贅沢の代表は「絹」と言っていい。江戸時代で最も大概貿易が盛んであったと考えられる明暦元年の輸出入品目を調べると、次のようになる。
 輸入品 生糸 絹織物 皮革 香料 薬種 砂糖
 輸出品 金・金製品 銀・銀製品 銅・銅製品 樟脳(「江戸時代」から)
 この場合の金・金製品などは、輸出品というより輸入品の支払のための「通貨」と考えた方が分かりやすい。さて、輸入品の代表は絹と絹織物で、この二品で輸入額の大半を占めていた。この絹・絹織物は江戸時代の贅沢品の代表でもあった。そのため貿易赤字の解消のために、絹・絹織物の国産化が進み、明治維新後には日本の代表的な輸出品目になった。 つまり、贅沢品の絹・絹織物な輸入増のため、その国産化を進めることによって絹・絹織物産業が育っていった、ということだ。
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<幕府は小さな政府の典型なのだ> 江戸時代を経済学の面から特徴づけると「幕府は小さな政府の典型」と言える。諸藩は独立国のようでもあり、江戸という都市は幕府の直轄地であり、多くの行政サービスが民間に委託されていた。 100万人都市江戸の治安を司る警察機構は、南北奉行所の下に与力・同心がいて配下の岡っ引(目明)を使っていた。その数は下っ引きまで含めても千人程度、それに加えて自身番・木戸番の制度があった。 このうち与力・同心までが幕府から給料をもらっていたので、その他の岡っ引から自身番・木戸番までは民間人だった。
 国家の基本的な事業、国防、警察、教育、司法、等を調べてみると、いかに小さな政府だったかが分かる。国防は各地方自治体にまかせ、警察は民間人である「岡っ引き」に任せ、その費用の工面は岡っ引きの裁量に任せていた。 教育は寺子屋が中心で、司法に関しては中央政府ではなく、藩と言われる地方自治体が担当し、商業上のトラブルに関しては株仲間が自主的に処理していた。百万人都市江戸の清掃に幕府は関係せず、下水処理は練馬あたりの百姓が下肥として買い取っていたし、燃えるゴミは風呂屋の燃料にと、朝早くに風呂屋の小僧が集めていたので、江戸の町は世界でも有数な清潔な都市だった。
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<百姓一揆は、まるで春闘みたいだな> 江戸時代には飢饉もあったし、百姓一揆も多発していた。「封建社会」「士農工商」「百姓は生かさず殺さず」などの言葉から連想されるのは、「百姓がまるで奴隷のように扱われていて、そのために不満が爆発して百姓一揆が起きた。しかし結局弾圧されて目的を達しなかった」という図式だ。 「歴史の必然性」を強調したい人たちは、江戸時代をこのように見ている。しかし、一つ一つのの出来事見てみると少し違う。一揆を起こす百姓も、弾圧する藩主側も命がけだったわけでななさそうだ。そう考えるよりも、春闘のような年中行事だった、と考えた方が良いような例もある。百姓側も役人側も槍、刀、鉄砲はめったに使っていない。
 百姓一揆と言っても、江戸時代の人が、子供のイヤイヤとしか映らないような一揆があったのも事実のようだ。広瀬淡窓は、1812(文化9)年、在所の近くで起きた一揆について、凶作とか困窮とかいった具体的な原因もなく起きたものだと、多少の不審と軽蔑の念をにじませた感想を日記に残している。
 「此時格別の凶歳と云うにもあらす、民の窮も未だ甚しからす、只何となく人気さわきたちたるなり」『懐旧楼筆記』 (「江戸は夢か」から)
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<庶民・百姓の視点から江戸時代を見てみようよ> 暗記物としての歴史は、中世・近世・現代とか、「やあなへかなむあえめげ」のように覚えたり、政治体制、支配階級の側から見る歴史が多かった。そのため庶民の生活は「封建時代なのだから庶民はこのように抑圧された生活をしていたはずだ」のような発想だった。そうではなくて「実際に庶民・百姓はどのような生活をしていたのか?」との発想から江戸時代を見てみようと思う。 そうすると「封建時代」という言葉がとても不自然に思えてくる。このシリーズでは、そのような不自然な面を取り上げてみようと思う。つまり、「江戸時代、百姓・庶民は結構豊かな生活をしていた」との見方になる。
 例えば年貢。七公三民などと言われ、収穫されたコメの7割を年貢として納め、自分は3割しか食べられなかったため、主食はコメでななくアワやヒエなどの雑穀だった、との考えは「生産された作物をこれほどまでに領主が奪ったので、百姓は常に食料飢饉の危機にさらされていた」との貧農史観に結びつく。 「七公三民」は戦国から江戸初期にかけてのことで、これは戦国武将がコメを集め「戦の準備のために城を造る。人夫として働けばコメを分け与える」と宣言した。つまり一度年貢として納めたコメを、城造りで百姓に配り、結果として百姓はコメを食べていた。これは戦国から江戸初期のこと。城造りが一段落すると、領主はコメを商品として大坂米会所などで現金化・現銀貨する。百姓はそれを買って食べていた。買う金はどうしたのか? 答えは「百姓は百の職業を持つ兼業農家」だ。百姓はコメ以外にも収入源を持っていた。現代「米作り専業農家が減っている」と嘆く人がいるがそれは思い違い。兼業農家とはリスクを分散させようとの賢い知恵なのだ。もしかしたら江戸時代の百姓に学んだのかもしれない。だとしたら現代のお百姓さんはなかなか賢い経営者だと言えそうだ。
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<江戸時代を経済学します> 日本の歴史学者は、文学部歴史学科卒業日本歴史専攻が多いのだろう。江戸時代を見る場合、政治学から見る場合、法学から見る場合、美術から見る場合、教育学から見る場合、農学から見る場合、科学技術から見る場合、そして経済学から見る場合、見る立場によって評価も違ってくるはずだ。 士農工商という身分制度から見る場合、商法もなく商業上のトラブルは株仲間の制裁に任せていた徳川幕府という政府、平賀源内の仕事を科学技術な立場から見ると歴史学者とは違ってくるかもしれない。 それぞれの専門的立場から見るとすれば文学部歴史学科だけに任せておくこともできない。特に経済学の立場から見れば、歴史学者とは違った見方ができるに違いないからだ。 などと、自惚れながら、江戸時代を経済学してみようと思いたった。さてどこまでその試みが成功するか?新たな江戸時代の神話解明にチャレンジします。 先ず来週は、幕府と朝廷との力のバランスの中で涙を流した女性のとてつもない贅沢、についての話から始めます。乞うご期待!
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ウェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫      1989. 1.17 
マックス・ヴェーバーとアジアの近代化                富永健一 講談社学術文庫    1998. 8.10 
恋愛と贅沢と資本主義           ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫    2000. 8.10 
百姓の江戸時代                           田中圭一 ちくま新書     2000.11.20 
( 2004年12月20日 TANAKA1942b )
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(2)東福門院和子の涙
幕府が朝廷支配のための政略結婚
 人間のさいわいと徳、いえ、女子(おなご)のしあわせと申上げたほうがよろしゅうございましょうか、これはひとそれぞれなれど、世に私ほどの冥加を得た者はふたりと指折ることはできぬのではありますまいか。
 何ゆえかと申しますれば、ただいまは延宝八年、庚申の年廻りにて、長い戦乱の世も治まり、天下さまは第百十二代、霊元天皇の御代となられ、将軍さまは第五代綱吉さまにご勅諚下りましたところにございます。
 かくなる時代、将軍家にお仕え申せしお女中方のうち、生涯かけてその勤めを全うせし者、めったとあるまじく、しかもおん主(あるじ)、東福門院和子(まさこ)姫の崩御の際まで見極めさせて頂きましたばかりか、法皇後水尾(ごみずのお)院おかくれのときにもめぐり遭うという運を賜り、 そして皇女朱(あけ)宮さまご落飾ののち林丘(りんきゅう)寺へお入り遊ばした報にも接し、これにて何ひとつ思い残すこと無し、というただいまの心持にてございます。
 私、本年とって七十七歳と相成ります。
 昨年春頃より目の前に常に白雲たなびきて視力落ち、どうやらそこひらしく思われますものの、いうなれば年病い、他にはこれというて体に悪しき個所も見当たりませぬ故に、甘んじてこの成りゆきを受け入れるべく心得おります。
 その代わり、こしかたの記憶すこしずつ冴えて参り、いずれ私も冥界より和子姫さまお呼び下されるその日まで、胸にとどめおくことすべて打明け申上げたく、かくお運び頂ましてござります。
 ここは、和子姫のお眠り遊ばす御寺(みてら)の東山の麓、私の小さな庵にて、誰にお気兼ねも要りませぬ。
 お手をわずらわせますなれど、そこの灯心をいま少々お掻き立て下さりませぬか。かたじけのうござります。どうやらぼんやりと明(あこ)うなって参りました。私のそこひの目にても、虹の向うに和子姫のお立ち遊ばしておいでのご様子がはっきりと拝まれます。お小さいころの振分髪にござります。
 何ゆえか、私の目裏(まなうら)に在わす和子姫はいつとてもお小さい折のお姿ばかり、それと申しますのも、私が初めて江戸城西のまるに上りましたのは慶長十九年、姫さまお八つの年、私十二の四月ついたちでござりました。 (「東福門院和子の涙」から)
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 このように始まるのが宮尾登美子の『東福門院和子の涙』、多くの作家が東福門院和子をヒロインとして描いている。江戸時代初期、幕府と朝廷の力関係の中で政略結婚させられた和子、その数奇な生涯は作家にとって取り上げてみたい女性ではあったろう。 江戸時代の女性としては、皇女和宮とならぶヒロインと言って良い。幕府と朝廷、この力関係の中で、それでも誠実に一生懸命生きた女性、作家が取り上げたくなる二人の女性だ。
 ところでそれは文学での話。経済学では少し違った面から興味を引く存在だった。それは和子の「涙の代償」だ。 悲劇のヒロインであった和子、金に不自由はしなかった。そして買いまくった衣装の数々。 こうして、これから見ていくように「権力闘争から派生した子供である奢侈は、資本主義を生み落とした」と言うのがこのシリーズ最初のテーマだ。 「大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済」の第1回目の登場人物にふさわしい存在だと思う。そこで、当時の状況から話を始めることにしよう。
<いろいろトラブルはあったが、徳川家は天皇家の外戚になる> 戦国時代を生き抜くには先ず軍事力が物を言った。それは天下を取るまでのこと。天下を取って政権を安定させるには、軍事力とは別の権威が必要だった。秀吉が「関白」という位に喜んだのも、家柄で誇ることの出来ない秀吉にとって政権維持のためになる大きな権威だったからだ。 家康の場合は「征夷大将軍」という、武士としては最高の位に就いたがそれで満足はしなかった。長期安定政権のために天皇の権威を利用したかった。天皇家の外戚になること。これを望んだ家康は、二代将軍徳川秀忠の八女、和子(まさこ)を後水尾天皇の妃として入内させようと考えた。 男子を生んで、その子が天皇になれば、徳川家の朝廷側に対しても発言力が増す。しかし朝廷側としては徳川幕府の支配力の増大を恐れてことあるごとに抵抗した。それに対して幕府は力ずくで考えを押し通そうとした。ここに幕府と朝廷側との間でいつくかの摩擦が起きた。
{幕府の承認を得ずには内大臣にはなれない}
勧修寺(かじゅうじ)大納言兼勝が、徳川幕府の承認を受けずに内大臣に任じられた。徳川幕府は「禁中並公家諸法度」を出し、公家の官位は家々の旧例を基礎とし、それに本人の器用如何を勘案し、幕府の諒解を得たうえで昇進させるようにと決めている。 しかし名族ではあるが摂家・清華につらなるほどの家柄でもなく、また大臣に任じられた先例も絶えてなかった勧修寺の者を、幕府の了解なしに朝廷の一存で内大臣に任命するのはけしからぬ、とクレームをつけた。
{後水尾天皇が子供を産ます}
後水尾天皇が藪左中条詞良の妹於四ノ局の子供を産ませ、これが和子の父秀忠を怒らした。宮廷の常識としては特別問題はなかった。江戸時代では正妻の他に妾を持つことは珍しくなかった。極端に言えば武家にしても公家にしても、身分を問わず「相手が誰でもいいから、男の子を産める者」を見つけて種付けをすることが社会的な合意として成立していた。 十一代将軍徳川家斉(在職期間は1787-1837,天明7年ー天保8年の50年間)の場合は正妻の他に何十人といった妾に50何人もの子を産ませている。 宮廷側としては和子の父秀忠が怒っていることに戸惑っていた。
{豊臣家の滅亡と家康の死}
入内の宣旨が正式に発せられた後、大阪冬の陣、大阪夏の陣があり臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する。その1年後には家康が 駿府城で急死する。このように入内までに多くの出来事があったが、1620(元和 6)年6月18日に入内が決まる。
{入内時のトラブル@}
二条城でのお迎えには、関白九条忠栄、左大臣近衛信尋、内大臣一条兼遐(かねとう)、武家伝奏の広橋兼賢、三条西実條、その他主な公卿はほとんど頭を揃えた。これについては宮廷でちょっとした騒ぎがあった。 はじめ徳川側から申し入れがあったとき、女御入内に関白や左大臣が供につく前例がないと公家方が突っぱねたが、結局徳川側に押し切られた。
{入内時のトラブルA}
禁中に入ると中門でお供車の人たちは降りる。女御の車だけ進もうとすると、後宮の女官たちがたむろしていて馳せ寄り、車を止め会釈を求めた。これは女御入内の慣習で最初に女御を見るのが後宮の女官の特権であった。「われわれの仲間入りするなら、誰よりもまずご会釈を賜りたい」という一種の示威だった。 このとき物見の窓を和子が開けようとするより早く、藤堂高虎がとんできて、大声で怒鳴った「不埒者奴。何故に御車をさえぎるぞ」。宮廷の慣習を破る藤堂高虎の態度に対する反発はその後も長く残った。
{紫衣事件}
最高の僧衣である紫衣は武家伝奏をとおして願いでたものを勅許するという形で許される規定であるのに、伝奏の儀もなく朝廷側が勝手に勅許したものが数多くあるのはけしからぬとして、幕府がその取り消しを求めたために起こった騒動だった。 この件では大徳寺、妙心寺の長老たちが15人紫衣をはぎとられ、これに講義を申し立てた大徳寺派の沢庵宗彭、玉室宗柏、妙法寺の東源慧等、単伝士印らは咎められ遠隔地に流刑になった。
{興子内親王が明正天皇として即位}
朝廷側では豊臣家に親近感を持ち、徳川家には反感を持つ者も多かった。また平清盛の娘徳子以来の武家からの入内には天皇をはじめ朝廷側では抵抗した。 多くのトラブルが発生しながらも幕府側の「天皇家の外戚になる」目論みは、興子内親王が明正天皇として即位したことによって達成された。
 因みに平清盛の娘(建礼門院)の場合は、高倉天皇の中宮として入内させ、やがて徳子は安徳天皇をもうけた。これにより清盛は天皇家の外戚となったと、狂喜している。 なおその安徳天皇は1185(文治元)年、祖母の平時子に抱かれて壇ノ浦で入水。このとき三種の神器のうち宝剣が海中に没した。
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<東福門院の入内> 徳川和子の入内について戦前に書かれた文献から一部引用してみよう。と言っても現代と違った見方をしている訳ではないが、視野狭窄にならないために読むのも良いだろうと思う。
 家康が秀忠の女和子の入内を望んだのは藤原氏が競ってその女を入内せしめたのや、彼が盛に大名と婚姻を結んだのとは、頗趣を異にして居る。即藤原氏の如くこれによって政権を支持せんとする必要も感じて居なければ、大名の如く、懐柔策とのみは断ぜられない。 固よりこれによって徳川氏の栄誉を増し、又朝廷懐柔策の機会を造ることも一部の理由ではあったろうが、主とする所は形を公武融和に仮りて、その勢力を内廷にまで及ぼす手段であった。
 武士の女の入内は建禮門院以外にないことであり、これさへ清盛が後白河法皇の猶子として入内せしめたのであるから、先例故格を主とする朝廷では悦ばれなかったことは勿論だが、幕府の圧力と藤堂高虎の運動とによって、慶長十九年に女御入内の宣下となった。然るにその後大坂陣や、家康の死去によって延々になり、元和五年秀忠上洛の際に漸くその準備に当たらんとしたが、はしなくも主上に内寵があり、皇女まで降誕せられたことが判ったため、再び行悩となった。 秀忠はこれを不快として、近侍の奉仕宜しからず、「内裏にて傾城、白拍子其外當世流布女猿楽等被召寄、但夕遊覧酒宴」に耽ったのを名として、前大納言萬里小路光房、中納言中御門尚長、同四辻秀継、中将藪嗣良、同堀川康胤、同土御門泰重等を或は流罪に処し、或は出仕停止を命じ、入内も延引となった。この処分には主として傳奏廣橋兼勝が興ったと見え、土御門泰重の如きは、「一応理非の無穿鑿、被軽赦慮候事、天罰如何難計事也、廣橋内府兼勝は三百年以来之姦妄之殘臣也」と憤慨した。 天皇も秀忠の「無道」の擧の逆鱗あり、旦入内延引のことを宸襟を悩させられ、御落飾の赦慮を漏されるに至った。かくて九月五日御胞弟近衛信尋を通じて、入内の事に當って居た藤堂高虎にこれを傳へられた。 (「江戸時代史 上巻」から)
略年表
西暦 年月日 出来事
1600 慶長 5. 9.15 関ヶ原合戦
1603 慶長 8. 3.24 徳川家康が征夷大将軍となり、幕府を開く
1605 慶長10. 4.16 家康、将軍職を秀忠に譲る
1607 慶長12.10. 4 和子、2代将軍徳川秀忠の8女として生まれる
1613 慶長18. 3. 8 入内の宣旨が正式に発せられる
1614 慶長19.11.15 大阪冬の陣 20万の徳川軍が大坂城攻撃に出陣
1615 元和元. 5. 8 大坂夏の陣 豊臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する
1616 元和 2. 4.17 徳川家康が駿府城で没 75歳
1620 元和 6. 6.18 後水尾天皇の妃として入内 和子12歳 後水尾天皇23歳
1623 元和 9.11.19 17歳で興子内親王(明正天皇)を出産
1623 元和 9. 7.27 徳川家光が将軍となる
1629 寛永 6. 7.25 紫衣事件 大徳寺の沢庵宗彭(そうほう)らは流刑に、沢庵は出羽の上ノ山(山形県上山市)へ流される。
1629 寛永 6.11. 8 後水尾天皇退位し、興子内親王が明正天皇として即位。和子は女院御所にうつり、東福門院とあらためた
1635 寛永12. 5.28 日本人の海外渡航と帰国を禁止、外国船の入港地を長崎1港に限定
1637 寛永14.10.25 島原の乱起こる
1643 寛永20.10.21 明正天皇、後光明天皇に譲位
1657 明暦 3. 7.22 江戸明暦の大火 振袖火事とも言う 死者10万人
1658 万治元 尾形光琳生まれる
1678 延宝 6. 6.15 東福門院和子崩御 享年72歳

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<東福門院和子の衣装への執念> 徳川家が朝廷と外戚関係になるために利用された和子、1629(寛永12)年に興子内親王が明正天皇として即位したことによってその役目を完了した。 20歳そこそこで政治的使命を完了した和子は、「雁金屋」(かりがねや)という京都の呉服商を通して多くの衣装を買い求めたり、1659年に完成した修学院離宮を舞台に文化サークルを開いたり、後の元禄文化への先駆けを作った。 特にその「衣装狂い」はすさまじいもので、その日本経済に及ぼした影響は大きい。このためアマチュアエコノミストが「江戸時代、趣味と贅沢が市場経済を発展させた」と主張する材料の一つになっている。
 京都の呉服商「雁金屋」には2人の息子がいて、兄の尾形光琳と弟の乾山は修学院離宮を舞台に開かれた文化サークルに参加し、その仕事は後の絵画・陶芸に大きな影響を与えた。
<精一杯生きた和子の崩御>
江戸時代幕府と朝廷との力関係のなかで政略結婚させられた2人の女性、和子と皇女和宮、2人ともに精一杯生きた。 東福門院和子の場合は結局幕府の朝廷支配に利用されたのだが、その状況で和子は精一杯生きた。当初後水尾天皇をはじめ朝廷側では強く抵抗していた和子の入内、しかし和子の人柄のせいか、あるいは誠意が朝廷側の人びとの心を動かしたのか、次第に和子への抵抗は減っている。 和子は幕府の財力を利用し、修学院離宮を舞台に文化サークルを開き、これが後の元禄文化へと発展していった。そして「衣装狂い」と言われるほど雁金屋から絹織物を買い込み、それが江戸時代の絹産業発展を刺激し、さらに民間人の伊達くらべをも誘発した。 こうした和子は特にその最期も印象的なので、一部小説から引用することにしよう。
*                     *                      *
 東福門院和子ご最後は、まことにご立派で、崇高なまでに神々しいみまかりぶりであった。
 意識の混濁はみられず、遺志をしっかりと述べられての御臨終を迎えられるのである。
 この日の昼過ぎ、苦しい息の下から、
 「お見舞い忝うござりますが、今より心静かに臨終の時を迎えたく、大変恐縮ながら、尼公にのみ此処にお残りいただき、他はご遠慮願わしゅう存じます」 と仰せ下された。御臨終を看取るべくお詰めの皇子皇女がたも、すべて別室に退かせて、女院は文智尼公と文梅尼だけを枕頭に残された。
 女院御所の誰れ一人も、想像だにしかなかったこの場面に息をのんだ。
 女院と尼公の宿命のお二人が、晩年に心を寄せ合い、親しく往来するのを、周囲は感嘆と好奇の目でずっと見守って居た。しかし女院の実子である内親王方が在しますのに、常識的には最も難しい立場の、つまり継子(ままっこ)の文智尼公に立ち会って死を迎えたいと願われた女院のお言葉が、人々には意外であったのだ。
 この時、修学院でお二人が顔を合わせてから三十三年もの歳月が流れており、その間の女院の仏道への傾斜も含めて、このお二人の精神的レベルの高さは、凡人には計り知れないほどの域に達しておられた。
 和子は生来おっとりと、しかも恬淡とした性格であり、梅宮こと文智尼公に対しても、純粋に真正面から現実を直視あそばれた。詰まらぬ他人の噂や目には一切気にせず、本質だけを見据えて取り上げ、生きてこられた。
 最晩年の寝て過ごされた時間も、死の為の準備期間として無駄にしなかったからこそ、あの大往生は為しとげられたのである。
 透き通って水鏡のような魂になられた女院は、髪こそ下ろさないが、その死の迎え方は高僧の如くであられた。
 [観音経]を、読誦する尼公と文梅尼の声だけが、息を詰めた女院御所の中を流れていた。それは東福門院が死に臨み、西方浄土の御来迎を頼み参らす、心に沁みこむような読経であった。
 静かに読誦が続いていた。合掌して心の中で読誦に加わる御身内の皇族方。
 やがてこの普門品読誦に、弱々しいながらお声が加わった。東福門院御自ら、最後の力をふり絞ってお二人の尼僧の経に、ご唱和あそばれたのである。
 東福門院、文智尼公、文海尼が心を一つにしての読経に、誰もが感動をし、涙した。
 と、不意に女院のお声が途絶えた。時に女院七十二歳。
 怨讐を超え、至高な愛に帰結させたこの場面は、劇的な、と申しても過言でないのに、実際には澄み切った、余りにも静かなあの世への旅立ちであった。
 延宝六年六月十五日 東福門院和子 崩御 享年七十二歳。 (「養源院の華 東福門院和子」から)
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<主な参考文献・引用文献>
小説 東福門院和子の涙                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13 
小説 東福門院和子                        徳永真一郎 光文社文庫     1993. 4.20 
養源院の華 東福門院和子                  柿花仄(ほのか) 木耳社       1997. 9.20 
歴史ロマン 火宅往来──日本史のなかの女たち            澤田ふじ子 廣済堂出版     1990
小説 江戸の花女御 東福門院和子                  近藤富枝 毎日新聞社     2000. 1.15
花の行方 後水尾天皇の時代                    北小路功光 駸々堂出版     1973. 4.15
近世の女たち                             松村洋 東方出版      1989. 6.15
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち               円地文子 創美社       1977.10.25
新・歴史をさわがした女たち                     永井路子 文芸春秋社     1986.11.15
修学院と桂離宮 後水尾天皇の生涯 歴史と文学の旅         北小路功光 平凡社       1983. 6.15
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
江戸時代史 上巻 1927(昭和2)年の復刻版           栗田元次 近藤出版社     1976.11.20 
( 2004年12月27日 TANAKA1942b )
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(3)涙が絹になって尾形光琳・乾山
商売破綻から創作活動へ
<「雁金屋」への莫大な注文> 東福門院和子は後水尾天皇退位の1629(寛永6)年11月、23歳の若さで事実上の後家・隠居の立場にまつりあげられ、夫からも生家からも見捨てられたこの不幸な女性は、それから死ぬまでの50年間にもわたる長い年月をなにを生き甲斐に暮らしていたのであろうか。 それは一言でいえば”衣装狂い”狂気のような着物の新調にあけくれた一生であった。東福門院和子は1678(延宝6)年6月20日に死亡するが(72歳)、この死亡する年の半年間にでも山根有三氏の計算によれば御用呉服師「雁金屋(かりがねや)」に、
  御地綸子御染縫         31反
  御地りうもんノ綸子御染縫    49反
  御地ちりめん御染縫        7反
  振袖御地りうもんノ綸子御染縫   2反
  御遣物りうもんノ綸子御染縫   10反
  御帷子御染縫          96反
をはじめとして都合340点もの衣装を注文している。そのどれも、「御地上々りうもんノりんす」「御地上々りんす」「御地上々類なし」「御地上々ちりめん」といった極上上の地のものだけである。 そしてその総代価は銀になおして150貫目におよんだとのことである(山根有三「尾形光琳について」)。いまこれを銀50匁を金1両、金1両を今日の通貨5万円として試算してみると1億5千万円という額になる。これが72歳の老婆が半年間に雁金屋という御用呉服店につくらせた衣装だからただただ驚くほかはない。 それはまさに”狂気”としか言いようがない。雁金屋のこの帳簿をみつめていると、寒気のなかに荒廃しつくした彼女の心象風景が瞼に浮かび、私はそこに鬼気といったものさえ感ずるのである。
 ちなみに彼女が入内して3年目の元和九年(1623)1年間に雁金屋につくらせた衣装は小袖45点、染物14反で金額にして都合銀7貫868匁(前記のような計算をすると787万円)であるので、彼女の”衣装狂い”は後水尾天皇退位以降、年とともにはげしくなったとすべきであろう。 (「江戸時代」から)
<「雁金屋」の大福帳>
このシリーズ「趣味と贅沢と市場経済」を思い立ったきっかけはこの”衣装狂い”だった。この”衣装狂い”のため貿易赤字が積み重なり、新井白石が指摘したように金・銀が流出し、その後これを改善しようとして絹産業が育っていった。こうしたことから「趣味と贅沢が江戸時代の市場経済を育てた」との発想になった。
 上記、「雁金屋」への莫大な注文のこと、山根有三「光琳関係資料とその研究」からいくつか興味を引く部分を引用してみよう。
雁金屋女御和子(徳川和子)御用呉服書上帳  一冊
(表紙)
┌─────────────────┐
│(印)         (印)  │
│ 元和九年いのとしノ分      │  
│ 女御様めしの御ふく     │    
│ 同 御つかいこそて上申候帳   │ 
│          かりかねや  │
└─────────────────┘
(T注 現物は縦書き、縦長 31.6X23.5 )

一 御ねり嶋小袖       五つ
   壱つニ付九拾五匁つゝ
    代銀四百七十五匁

一 御綾嶋小袖        弐つ 
   壱つニ付八拾七匁五分つゝ
    同百七十五匁

一 御かわり物小袖      三つ
   壱つニ付九十七匁つゝ
    同弐百九拾壱匁

雁金屋東福門院御用呉服書上帳  一冊
(表紙)
┌──────────────┐
│(印)        (印)│
│   延宝六年     留 │
│女院御所様御用       │
│御呉服諸色調上申代付之御帳 │
│          雁金屋 │
│午戊正月〜同九月迄     │
│           宗謙 │
└──────────────┘
(T注 現物は縦書き、縦長 29.2X21.3 ほぼA4の大きさ)

女院御所様御めし(召)
 二月廿七日
一銀五百目  御地上々りうもん(竜紋)ノりんす(綸子)  壱端
     御染縫
御ゑやうハ御ち白左の御袖下より右の御袖下迄波嶋とり」
御かたの方二嶋にいたしひしかのこ(菱鹿子)あかへにかのこ波の下
左の」御身より右の御わき迄滝をなかし嶋とり右の方滝
二通り」はゝ(幅)五寸の水筋五つふより二つふ迄の打ちきゝや(桔梗)
うかのこあいあい」同程つゝきゝやう滝のあいあいあさき
しほり但右の御身御わきより」左の御わきへ立波段々に┐
たゝせあかへにかのこひ(鶸)はかのこ波の内より左より左の」御す
そへ水筋にて嶋取右の方水筋あいあさきしほり(浅葱絞)御上もん
に」二寸七分つゝのきく色々にかさねかけつゝけ金糸へ
たぬい」御まへも同やうすきく(菊)九十一
 1678(延宝6)年の半年間に受けた注文、雁金屋の大福帳には次のように書かれている。
雁金屋宗謙東福門院御用書上
    右御帳壱冊之寄
一 御地綸子御染縫        参拾壱端 但紅裏
一 御地りうもんノ綸子御染縫   四拾九端 但紅裏
一 御地ちりめん御染縫        七端 但紅裏
一 御帷子御染縫         九拾六端 
一 振袖御地りうもんノ綸子御染縫   弐端 但紅裏
一 御遣物地りうもんノ綸子御染縫   拾端 但紅裏
    以上
 (上記雁金屋の資料は『光琳関係資料とその研究』からの引用)
[徳川秀忠大奥関係] 『光琳関係資料とその研究』には徳川秀忠大奥関係のものが多く記載されている。「慶長十七年十月廿七日 徳川秀忠大奥老女刑部呉服支払書」から 「元和五年八月十二日 徳川秀忠大奥局支払書」など、元和九年十二月廿日までのものが記載されている。当時の高級呉服を知るのに貴重な資料になるように思われる。
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<雁金屋のぼんぼん、尾形光琳と乾山> 東福門院和子は雁金屋から衣装を買い求めていた。その雁金屋に2人の息子、次男尾形光琳と三男乾山がいた。光琳と乾山の仕事は日本美術史に残るすばらしいものだ。そこで和子と光琳・乾山のことに少し触れておくことにしよう。
 光琳は、万治元年(1658)に、京都の裕福な呉服商の雁金屋、尾形宗謙の次男として生まれた。はじめ市之丞といい、34歳(元禄4年)ごろから光琳と改めた。5歳下の三男権平が陶器と画に名をあげたのちの深省、すなわち乾山である。
 尾形はもと緒方で、本国は豊後、『平家物語』や『源平盛衰記』に出てくる無精の緒方三郎惟義がその遠祖だという。しかしそれ以後、戦国時代末の伊春までのことは不詳なので、尾形家家系図も伊春を元祖としている。ただ光琳や乾山がそれぞれ惟富、惟充と名付けられたのは、遠祖惟義のあやかったためで、かれらも父からその由来を聞かされていたことだろう。
 二代目道柏のとき雁金屋と号し、三代目宗柏(光琳・乾山の祖父)の代に雁金屋は名実ともに非常な発展をなした。
 一般にそのころは平和が到来して華麗な呉服の需要が急激に高まり、いわゆる桃山染織の花が咲いた時代であるが、雁金屋は、慶長年間は淀君、元和年間は秀忠夫人を最大の顧客として、その一族子女の高給呉服を作ったから尚更であった。宗柏は早くからこの道に入った上に、刀剣のめきき・とぎ・ぬぐいを職とした本阿弥家の血統をうけているから、染織家としても大きな役割を果たしろう。 現在桃山小袖のうちには宗柏の関係したものも含まれているかもしれない。それはともかく、宗柏によって雁金屋の基礎は固まり、財産もおのずから豊かになった。ただ、雁金屋と幕府の関係は秀忠夫人を通じたもpので、茶屋・後藤・亀屋などのような表向きの幕府呉服師ではなかったから、それらの諸家のように、巨富を積んだり、貿易に乗り出すほどではなかった。「謙遜家」と伝えられる宗柏の性格もそれには適しなかった。 その代り、秀忠夫人の信用は厚く、その娘和子が後水尾天皇の女御(東福門院)になると、その呉服御用を命ぜられ、秀忠夫人死後(寛永3年)はもっぱら東福門院御用達となったのである。
 宗柏は母方の叔父光悦が鷹峰のいわゆる光悦町を営んだとき(1615年)、これに加わって間口二十間の居を構えた(この家は宗柏の息子宗謙から乾山に譲られた)。宗柏は、学問を好み、茶の湯を愛し、書を能くしたと伝えられるが、親しく接した光悦から大きな影響を受けたことと思われる。
 また宗柏は、光悦と姻戚であったという節のある俵屋宗達(したがって尾形家とも遠い姻戚)、そうでなくても光悦と深い芸術的関係にあった宗達を知っていたはずである。宗達が、元和七年に秀忠夫人の再建した養源院(浅井長政のための寺)に障壁画を描くにいたったのには、秀忠夫人─宗柏─光悦─宗達という線さえ想像される。なお、もし宗達が織屋俵屋の一族とすれば、染織を業とする宗柏との関係はさらに早く、また密なものがあったろう。 のちに光琳と乾山が光悦や宗達から大きな影響をうける素地は、この祖父宗柏のときに作られたと言える。
 宗柏の息子宗謙は書画のほか能を深く愛し、3人の子供たちにも早くから教えた。その感化で光琳はすでに15歳のとき、「花伝抄」や「装束付百二十番」を筆写し、19歳のときには渋谷七郎右衛門から「諸能仕様覚書」を伝授された。宗謙はよく能の会を開いて、藤三郎や光琳とともに舞ったが、光琳はそのころの能や仕舞の華やかなうちに静かさの漂う雰囲気や、その洗練された美しい形に魅せられたようである。能はかれの生涯の楽しみとなり、またそれによってかれは公卿との交わりを結んだのであった。
 宗謙の雁金屋は母の力で東福門院を顧客とすることができ、寛文から延宝年間にかけて、非常に栄えた。延宝六年(1678)の正月から九月の間に女院関係だけでも、各種の染縫二百反ほど、その合計九十四貫五百八十一匁となっている。しかしこれが絶頂で、この年、東福門院が死ぬと、女院との特殊関係に頼っていただけに、注文もにわかに衰えたようである(特権承認の衰退期にもあたっていた)。宗謙はそのころから貯えた富をもとに金融業の方へも手をのばしたが、老年に達したことと共に、なにか焦りが見えはじめ、長男藤三郎を勘当したりした。
 しかし光琳・乾山がともに商売に向かないのは確かだし、光琳などもとりなしたので、結局勘当を許して家督を藤三郎に譲った。そして、光琳と乾山には、二軒の大きな屋敷と、諸道具や買いためた反物や大名方への資金などを、丁度同じだけ与えた。藤三郎に家業を与えたかわりに光琳・乾山には貸金の手形すべてを譲ったらしい。宗謙は貞享四年(1687)に死んだが、そのとき、光琳は30歳、乾山25歳であった。光琳の母は木下宮内少輔利房の家来である佐野笑悦の娘としか分からない。 (「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
*                     *                      *
<光琳のその後> 和子なき後、雁金屋は長男の籐三郎が継いだがうまくゆかず、光琳は生活費のために絵を描き始める。しかし贅沢な生活は急には変えられず苦しい生活を強いられる。さらに女性関係で問題を起こしたり、京を離れて江戸へ出たり、又京に戻ったりと、生活は安定しなかった。
 光琳画で制作年代の明らかなのは元禄17年の中村内蔵助像1点しかない。 これは、昭和12年(1937)秋に発見されたとき、尾形光琳の唯一の肖像画「藤原信盈(のぶみつ)像」として話題を呼び、やがて像主信盈が絵師光琳のパトロンともいうべき中村内蔵助とわかり、いっそう有名になった作品である。黒の小袖・黒地に白の山字文様の上下(かみしも)・ひざもとに梅と波を描く扇、すずやかな目元・ひざにおくやわらかな手など、能役者を思わせる内蔵助は、いかにも雅びな京の優男(やさおとこ)である。 (「千年の息吹き 京の歴史群像 赤井達郎著中村内蔵助」から)
 その中村内蔵助とは親しいつきあいをしていくのだが、とくに伊達くらべの話はよく知られている。それは、京の東山で富豪の妻子が参会する催しがあったとき、内蔵助の妻は光琳の趣向で、他の女達の華麗な色模様の中へ白無垢を重ねた上に黒羽二重の無地という衣装で出かけ、大評判を得たといわれる。この内蔵助の過奢として有名な逸話「東山の衣装競べ」は、いつ行われたのか。山根有三は次のように書いている。
  「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、 正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる。内蔵助は正徳二年九月から同三年三月まで江戸詰であるから、それ以後の京都在任期のうち、正徳三年と考えられる。もし「東山の衣装競べ」の時期がこのように正徳三年中と認めてよいのなら、その過奢の噂はすぐに江戸にまで伝わり、同四年五月の内蔵助追放の理由の「過奢」として取り上げられたかも知れない。もとより内蔵助の過奢はこの他にも数多くあったのだろう。なお、「東山の衣装競べ」には、光琳による白と黒の美的効果以外に、内蔵助による銀座の同僚(夫人たちも衣装競べに参加した筈)や世俗への皮肉が籠められているように想われてならない。 またそこには「宝永後期の改鋳」に対して、消極的は反応しかしなかった自分への自嘲も入っているかも知れないのだ。とにかく「東山の衣装競べ」は、光琳と内蔵助の合作であり、傑作なのである。 (「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
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<京の着倒れ> 衣装くらべに関しては改めて取り上げるとして、とりあえず次の文章をここでは引用しておこう。
 着物に対する関心の強さは、たとえば井原西鶴の『好色五人女』に「都人、袖をつらね、東山の桜は捨てものなし、行くもかへるも是や此、関越えて見しに大かたは今風の女出立、でれかひとり後世わきまへて参詣(まいり)けるとは見へざりき、皆衣裳くらべの姿自慢比心ざし、観音様もおかしかるべし」(巻三の三)。又、絵島基磧の『傾城禁短気(けいせいきんたんき)』に「吉田院方(揚屋吉田屋喜右衛門)には五五三の高盛、嶋台の松に小判の花咲、衣桁に十二の小袖を掛け、衣着、蒲団錦の山を重ね、一つ家の女郎十一人、衣裳比べの花を競ひ」(五の巻第一)。 又、『武野燭談(ぶやしょくだん)』には、江戸の石川六兵衛と京都の難波屋十右衛門の両妻女のことが書かれ、難波屋の女房は緋綸子に洛中の図を縫あわせた立派なものを着て歩いたが、石川の女房は黒羽二重に立木の南天の小袖を着ただけであったので、見合わせるまでもなく京方がよいと言ったが、よく見ると南天の実は珊瑚珠を砕いてひしと縫いつけさせていたので、これは難波屋の負けと人々が言いあったことが記されている。 『翁草』には、京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が衣裳比べにあたり、光琳の意見に従ったことが記されている。即ち、他の妻女方は唐織りや綾羅錦繍をまとい、又数度の着替えも結構を尽くしたものであったが、内蔵助の妻は、その侍女には他の妻と同じような衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけであった。しかも数度の着替えも全く同じ姿で出て来たので、これが抜群であったと世に沙汰されたという。京都の着物に対する好みを示唆するものであった。現在、京都の有名な祭りである十月二十二日の平安神宮の時代祭りの近世婦人列に、中村内蔵助の妻としてこの姿が執り入れられているのも、京都の立場における「衣」に対する認識と言える。 (「歴史の花かご 井筒雅風著京の着倒れ」から)
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<度重なる幕府の「贅沢は敵だ」のお触れ> 朝廷での東福門院和子の衣装狂いは民間にも広まっていった。それが衣装くらべであり、町人の衣装贅沢は留まるところを知らぬほどであった。それに対して幕府は明暦の大火(1657明暦3)年後の、1663(寛文3)年10月にお触れを出す。
一 女院御所姫宮上之服、一おもてにつき白銀五百目より高直に仕間舗候
一 御台様上之御服、一おもてにつき白銀四百目より高直に仕へべからず
一 御本丸女中之小袖、一おもてにつき三百目より高直にいたすまじく候、それより下之衣類ハ品により弥下直ニ仕へき事右之通、京都、江戸呉服師之輩共にかたく申付候云々 (「図解人物日本の女性史7 江戸期女性の美と芸」から)
 このような通達が以後何度も出るが、町人の「贅沢は素敵だ」の気持ちは変えられない。そしてこうした趣味と贅沢によって江戸時代の市場経済は進化していったのだった。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
山根有三著作集3 光琳研究1                    山根有三 中央公論美術出版  1995. 5. 1 
千年の息吹き 京の歴史群像               上田正昭・村井康彦編 京都新聞社     1994.11      
歴史の花かご 上 人と文化                吉川弘文館編集部編 吉川弘文館     1998.10. 1
図解人物日本の女性史7 江戸期女性の美と芸             相賀徹夫 小学館       1980. 4.10
( 2005年1月3日 TANAKA1942b )
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(4)衣装狂いによる貿易赤字
糸割符貿易の仕組み
<絹・絹織物が主要輸入品目> 江戸時代初期の貿易では絹・絹織物が主要な輸入品目であった。東福門院和子は絹・絹織物消費者の象徴として取り上げてみた。戦国時代が終わって世の中が平和になり、金・銀の産出量が伸び、人びとが豊かになり始めると、先に豊かになれる者がどんどん豊かになり、贅沢品を購入し始める。 その贅沢品が絹・絹織物であった。当時の貿易は「糸割符」との言葉で象徴されるように、絹・絹織物を輸入することが主要な貿易目標であった。 そこで、江戸時代初期の貿易、つまり「糸割符」について調べてみることにしよう。
<家康の決断、白糸割符>  17世紀の初頭、1隻のポルトガル船が長崎に入港してきた。このころの長崎には主に明の船が入港していたし、南蛮船の入港は、松浦郡の平戸ということになっていた。 このポルトガル船には大量の中国生糸が積んであったが、1年以上たってもまだ買い手がつかず、船は長崎に停泊したままであった。  『糸乱記』ではその様子を、「サレドモ金銀イマイゴトク沢山ナラネバ、積来ル白糸買手ナク、両年マデコソ逗留シテ、此船ノ紅毛、一庵老ヘ御願ヒ申セシコソトワリナレ……」と述べている。
 たしかに、打ち続いた戦いで国内は疲弊し、金銀に不自由していたのであろう。この一庵老とは、家康の腹心で、長崎奉行として赴任してきていた小笠原為宗(一庵)である。なんとか生糸を買い取ってもらえないだろうかという、ポルトガル人の要請を受けて、為宗は伏見に上がり、家康に申し出ている。
 家康は堺の10人の豪商を呼び、この白糸を買い取るよう指示した。もし売れずにこのままポルトガル船が帰ることにでもなれば、もう二度とわが国へ生糸を運ぶことはあるまい……、このように考えた家康の、機敏な対応であった。10人の商人は長崎へ下り、白糸を全部引き取ったのであるが、このとき長崎に来ていた京都の豪商一人と、長崎の町年寄一人も、この取引に加わっていた。
 その翌年にも多量の生糸が船で運ばれてきた。これを機会にこれらの商人は、一手売買の権利をお与えくださいと願い出た。家康はこの願いを受け入れ、かれらには次のような奉書を授けた。
  黒船着岸之時、定置年寄共、糸ノ直イタサヽル以前ニ、諸国商人長崎ヘ入ルベカラズ候、糸ノ直相定候上ハ、万望次第商売致ス可者也
     慶長九年五月三日  本多上野介
               板倉伊賀守
 これによって、いわゆる糸割符(白糸割符)法が制定されたわけである(1604)。これにより後は、ポルトガル船が運ぶ生糸の価格と一括購入の特権は京都・堺・長崎の商人(つまり定め置いた年寄りども)に限られることになったし、かれらの交渉が終わらなければ、諸国の商人はポルトガル側との商売が許可されなかった。
  白糸一二○丸……堺
  白糸一○○丸……京
  白糸一○○丸……長崎
 一丸は五○斤であったが、荷の多少にかかわらず、按分はこの数量の一二○・一○○・一○○の割合で行われた。
 糸割符の法とは、政策的には幕府の輸入管理であったが、経済の面では、上質の生糸(白糸)を独占的に購入し販売できるシステムであった。輸入価格は、特定の年寄だけが交渉に参加して決められた。堺・京・長崎の糸割符年寄の下には、何人かの糸割符仲間が置かれていた。糸割符法の施行により、商人だけでなく幕府もまた、輸入からあがる利益を分かちあうことができた。 (「絹Tきものと人間の文化史」から)
<パンカド=ホール・セール>  江戸時代の初期から中期にかけての長崎輸入品の大宗は、生糸であった。寛永十年前後には、一ヶ年およそ30万斤ないし40万斤ほどを、御朱印船・イスパニア船・唐船・蘭船などが舶載した。 生糸は、はじめは自由取引であったが、1604(慶長9)年、京、堺・長崎三都の有力商人が、糸座を結成し、ポルトガル船が舶載する生糸──当時、ポルトガル船は最も多く生糸を輸入していた──を一定価格ですべて買い取ることにさだまった。 ポルトガル人は、この取引をパンカドPancado と言った。平戸のイギリス商館長リチャド・コックス Richard Cocks はその日記で、「いわゆるパンカド、すなわちホール・セール Whole sale 」と言っている。「 Whole sale 」は、全部売却する意味であろう
 資金がどのように出資されていたかは明らかでない。糸座のメンバーだけが出資して買い取り、家康をはじめ後藤庄三郎(光次)のようなかれの側近の政商たちが、その一部を元値で先占的に買い上げることになっていたのか、それともはじめから、かれらも出資していたのか、どうかわからない。 それはともかく、慶長年代には、買い取った生糸は家康がまず手をつけ、側近の者へも配分して、残り糸を糸座に与えることにしていたらしい。配分方法には二段階があって、慶長9年の定めでは、堺のメンバーたちの優位が決められてあり、糸座に与えられる総糸量を、堺へ37.5%、京・長崎へそれぞれ31.25%の割で、まず配分することになっていた。 次に、堺・京・長崎への配分糸量が算出されると、それぞれのメンバーの間では、その糸量を前提として、座の役付きの者(糸割符年寄・糸請払役などがある。より多くの出資者であったろう)が最も多く配分を受け、無役の者(平割符人と言う。少額の出資者であったろう)が最も少なく配分を受けるという具合に、やはり一定の配分率が決められてあった。 このように、パンカドで買い取った生糸を、一定比率に従って配分するのを、糸を割符(わっぷ)すると言った。ゆえにパンカドと糸の割符とは同一ではない。けれども、パンカドを前提としない糸の割符はないから、一般には、パンカドから配分までを一貫して糸割符と理解している。 糸割符商人自身も同様であって、パンカドの場合を糸割符と言い、また糸の配分をも糸割符と呼んでいる。 (「長崎の唐人貿易」から)
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<糸割符仕法の概要>  糸割符仕法は、最初は、長崎におけるポルトガル船との貿易の方法として、慶長九年(1604)に始められた。堺、京都、長崎の三都市から富裕な町人が選ばれて、糸割符仲間と称される株仲間が結成された。これを三ヶ所糸割符仲間と呼んでいる。この株仲間は、ポルトガル船が長崎に持ち渡った種々の品物のうち、白糸と称された中国産の生絲を一括輸入し、これを国内市場へ売り出して得られる利益を得る権利を幕府から与えられていた。
 糸割符仲間の代表者を糸年寄あるいは糸割符年寄りと言い、堺。京都、長崎の各都市の町年寄がこの役を兼務した。ポルトガル船は、通常はマカオから各年六月頃から長崎に来航する。この頃に、各都市の糸年寄は長崎に来て、長崎奉行の指示に従って、ポルトガル船からの白糸の輸入を行う。
 まず、糸年寄は、長崎奉行の貿易開始の指示が出ると、夏から秋にかけて長崎に渡来したポルトガル船側と白糸の輸入価格を折衝し決定する。この行為を色糸値組(しらいとねぐみ)とかパンカドと言う。ここで決められた白糸の輸入価格は、その後、翌年の同時期に改定されるまで一年間適用された。
 そして、色糸の輸入価格が決定すると、色糸以外の品物の輸入が一般の商人に開放される。すなわち、糸割符仕法では、色糸値組によって、その輸入価格が決定されるまで、一般商人の長崎市内立ち入りが禁じられており、色糸の輸入価格が決定した後に、色糸以外の品物の輸入が、輸入承認とポルトガル商人との間の自由売買の方式で許可されたのである。 こちらの自由売買の方式を相対売買法と称している。
 輸入価格が決まった白糸は、糸年寄によって一括輸入され、家康から注文分を差し引いて、その残部を堺120、京都100、長崎100の比率で三都市へ配分される。この比例配分の方法を題糸配分(だいしはいぶん)と言う。三都市に配分された白糸は、各都市の糸割符仲間の構成員へその持ち株数に応じて分配される。そして、この白糸は市場へ出され売られていく。すなわち、白糸の輸入価格と市場への売却価格の差額が糸割符仲間の利益となる。 この利益銀を糸割符増銀(いとわっぷましがね)と言う。もっとも実際には、長崎で一括輸入された色糸は、糸割符仲間の構成員個々へは分配されずに、すぐ売却され、ここに生じた糸割符増銀が三ヶ所いと割符仲間へ所定の比率で配分され、各都市でその構成員へ個々の持ち株数に応じて配当金が支払われる仕組みであったろう。 (「長崎貿易」から)
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慶長3年(1650)唐船70艘の輸入品目、数量表
生糸
白 糸 108,120斤
広南絹糸 20,150斤
ボイル絹糸 5,810斤
絹縫糸 2,306斤
トンキン生糸 30,500斤
ふしいと 18,700斤
生糸計 185,586斤
織 物
りんず 79,608反
しやあや 27,826反
ちりめん 12,490反
北絹(黄絹) 655反
1,086反
9,517反
バー 493反
つむぎ 880反
びろうど 414反
どんす 296反
繻珍 66反
海黄 87反
金入りらしゃ 10斤
はぶたえ 11,017斤
さらさ 7,145斤
麻布 4,675斤
らしゃ 52斤
赤色らしゃ 1斤
織 物 計 156,318反
砂 糖   
白・黒砂糖 790,960斤
氷砂糖 6,150斤
砂糖計 797,110斤
皮 革   
鹿 皮 38,773枚
大鹿皮 9,700枚
牛の皮 4,390枚
ロホの皮 8,140枚
皮革計 61,003枚
薬 物   
土茯苓 138,750斤
こしょう 31,900斤
10,750斤
肉桂 1,050斤
その他 488斤
薬 物 計 182,853斤
その他   
明 礬 214,645斤
木 香 8,350斤
うるし 35,400斤
水銀 1,000斤
水牛の角 1,845斤
白色さんご 21コ
白色さんご樹 25束
枝さんご 3本
 この売高 銀15,299貫415匁余  (「長崎の唐人貿易」から)
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<絹はどの程度の贅沢品だったのか? 「江戸時代、絹は贅沢品であった」と言って、それに反論する人はいないだろう。しかし、どの程度贅沢だったのか?ピンとこないかも知れない。歴史問題を扱う場合、事実関係の把握も大切だけど、「当時の人はどのように感じていたか?」を考えることも大切だと思う。私たち21世紀に生きる人は「現代に比べて、不便だった、人権が無視されていた。江戸時代の人はかわいそうだった」と言うことができる。しかし江戸時代の人は21世紀を知らないし、考えもしなかったろう。 「村の古老から聞いていた室町、戦国時代に比べて、今は良い世の中だ。家族は夫婦子供と一緒に暮らせるし、食事は1日2食から3食になったし、木綿という温かい着物も着ることができるし、武士同士の天下取り戦に巻き込まれる心配はないし、良い世の中になったのものだ」と思ったに違いない。
 大切なことは、「当時の人はどのように感じていたか?」を理解することだ。21世紀の価値基準ではなく、江戸時代の価値基準を考えることだ。ということで、江戸時代の絹はどにような贅沢品だったのか?それを考えてみようと思う。そうしたことに参考になりそうな文章を引用してみた。
『絹の文化誌』から  絹は衣服の材料として古い歴史をもっているとはいえ、これはあくまでも支配階級に属する人たちの衣服についての話である。わが国では、庶民の多くはからむし(苧麻=ちょま)のような麻の繊維で織った衣服を着ていた。麻は植物の茎や幹の皮を細く裂いたもので。その織物を「布」と言い、さらに粗いコウゾ(楮)やシナノキ(科の木)やフジ(藤)の木の皮で織ったものを「太布」と呼んでいた。
 日本の各地に「麻績=おみ」「麻植=おえ」「麻布=あさふ」のような、麻にちなんだ地名が沢山あることからも、麻の方が絹よりも庶民にとっては身近な衣服材料であったことがうかがわれる。わが国で、麻に代わって庶民の繊維となる木綿が普及するのは、江戸時代になってからで、柳田國男が有名な『木綿以前の事』の中で、この事情をいきいきと描いている。
 一方、上流階級の人たちの間では、古代から愛用されている。唐の国からの舶来品が、王侯貴族の手にわたり、平安時代になると、織り方染色も、かなり高度なのもが提供できるまでになっていた。『源氏物語』に登場する人物の服装をみると、豪華な十二単が目に浮かんでくる。しかし、この衣服の材料である絹糸、そして絹糸を吐く蚕を飼う農民たちは、絹物を着ることができなかったのである。
 昔は絹の糸や織物は米と同じように、租税として物納しなければならなかったため、農民は蚕を飼い、糸を繰り、機を織っても、自分では絹を着ることはできなかった。実はこんな時代がつい半世紀くらい前まで続いていたのである。
 享和三年(1803)に出版された上垣守國の『養蚕秘録』という書物の下巻に、
  粉色全無飢食加 豈知人世有栄華
  年年道我蚕辛苦 底事渾身着紵麻
という詩がのっている。作者はわかっていない。詩の内容は、「お化粧もしいないで、毎日毎日苦労して蚕を飼っても、なぜか身につけるのは、ごわごわした麻の衣服だ」というほどの意味である。紵は苧と同じで、からむしのことである。 (「絹の文化誌」から)
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<町人は東福門院和子を真似たがる>  天和三年(1683)正月には「女衣類の製作禁止品目」として、金紗、惣鹿子(そうかのこ)小袖などを禁制品に指定し、同じ年に「町人男女衣類之事」とか「町人の衣類は絹袖、木綿、麻のうち分に応じて選ぶこと」といった内容のお触れが矢つぎ早に出された。ところが数年後にはまた元の木阿弥になってしまう。そしてまた禁令、と江戸時代を通じてこの繰り返しであった。
 延享元年(1744)には「絹袖、木綿布の外は一切用いるべからず、もし着せしを見及ばば、めし捕べきと申付べし」というお触れが出ているが、実際に町人で召し捕らえられた者もいた。天保の改革期に着飾った花見の女たちが逮捕された時の落首に、
  かるき身へおもき御趣意の木綿ものうらまでも絹ものはなし
 というのがあった。軽い身分の者に重い禁令だが、木綿を着ていて、裏地にも絹は使われていない、といった意味であろう。財力のある商人などは、表地は木綿にし、裏地に絹を用いたのであり、そのために裏地のような見えないところに銭をかける粋な風俗が出てきたのである。
 絹と同じようにぜいたく品として、禁令の対象にされたものに、タバコがあるが、これに関連して、 
  きかぬもの煙草の法度銭法度玉のみこゑに玄沢の医者
 という落首が残っている。玄沢の医者というのは、藪医者のことである。この煙草や銭を絹にかえても同じである。
 結局のところ、為政者による奢侈禁令や過差の禁のお触れは、下級階級がぜいたくな衣服を着ることによって、上流階級を真似ることを禁止し、自分たちの地位を保ち続けることに狙いがあったのである。徳川家から後水尾天皇に入内した東福門院の衣装狂いは有名であるが、富を貯えた町人に、これを真似るな、と言っても無理なはなしである。 (「絹の文化誌」から)
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<主な参考文献・引用文献>
絹Tものと人間の文化史                       伊藤智夫 法政大学出版会   1992. 6. 1
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10 
長崎の唐人貿易                  山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館     1964. 4.15 
絹の文化誌                    篠原昭 嶋崎昭典 白倫編著 信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
( 2005年1月10日 TANAKA1942b )
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(5)後水尾院・東福門院の文化サロン
寛永文化への貢献度
<女院は優しく賢い女性だった> このシリーズ、東福門院の「衣装狂い」ということから始めたのだが、東福門院に「衣装狂い」という表現はあまり適切ではないようだ。「彼女は優しく賢い女性で、決して狂ってはいなかった」多くの参考資料を読む内にそのように思い始めた。 徳川家康の政略のためたった14歳で武家の家から宮廷に入り、宮廷では多くの気苦労があったにも関わらず、優しく穏やかな和子は賢く生きた。周囲の人たちと愛し愛され、晩年になっても天皇と円満な生活をおくった。大石慎三郎が表現する「衣装狂い」は不適切のように思える。 そこで東福門院に関する文章を幾つか引用することにした。
<東福門院> 洛北の山荘を訪ねる後水尾院のあとには、必ずといってよいほど東福門院の姿があった。晩年の円満は二人の前半生を思えば、まことに希有なこととしか評せない。入内から後水尾院の譲位に至る朝幕の確執は、想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたであろうが、そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。それが武家の血というものであったのだろう。
 女御とよばれた入内当時から、東福門院のむずかしい立場を支えていたのは、もちろんその経済力である。化粧料一万石といわれる内容は必ずしも確認できないが、もしそれが事実なら、入内当時、禁裏御領全体とほとんど同額の公式的な収入(臨時の収入が実質的には大きかったろう)が女御御所にはあったことになる。東福門院のいささか派手な好みは、生来のものであったにしろ、こうした環境のなかで育てられた面もあったのであろう。
 東福門院のはで好みは京の評判であったという。女院歿後五十年ごろの見聞記にはこんな噂があった(中村氏筆記)。お虎という女性は遠山久太夫の妻で、夫と離別後、三万両を持って京に上がり、その生活は贅沢をきわめた。烏丸光広の妻は細川家の女で、この女性も豪勢であった。これに女院を加えて「三所ニテ、京中ノ小袖模様モナニモ、イロイロ仕リ候」という。つまりニューファッションの源がこの三人であったというのである。
 たしかに東福門院の衣装好きは、その注文書からもうかがわれる。当時京都有数の呉服商であった雁金屋尾形家の史料には女院からの注文書が残されている。 まず入内後4年目の元和九年(1623)をみると、和子自身の着用分と贈答用も含め、また仕立てられたものと生地とを合わせて62点、代金7貫864匁となっている。同じ年の徳川秀忠将軍大奥の江戸からの注文は総額36貫631匁で、東福門院はその約5分の1ということになる。これだけでは多いとも少ないとも言い難いが、東福門院の注文が62点と、相当あったことだけは確かである。
 『近世世事談』に、
 寛永のころ女院の御所にて好ませられ、おほくの絹を染めさせられ、宮女、官女、下つかたまでに賜る。この染、京田舎にはやりて御所染といふ。
とあり、東福門院の注文する染物が手本となって御所染なる流行が生まれたという。御所染の特徴はよくわからない。しかし東福門院の求めた小袖等の絵柄はやはり派手なものであった。東福門院が歿する延宝六年(1678)の注文帳がやはり雁金屋の史料にある。たとえばその第1頁をみると、
  女院御所様御めし
 二月二十七日
一、銀五百目、御地上々りうもんのりんす
       御染縫         壱端
とあって竜紋の下地に染と刺繍をほどこした贅沢な着物であった。その絵柄が次に記されている。 地は白で、左の袖下から右の袖下まで滝を流し、島をおいて右の方は滝を二筋、滝は幅五寸のうち水筋を五つから二つまでとして下に桔梗鹿子、滝の間は浅黄絞り、その他波や島をだんだんに立たせ赤紅鹿子を配し、二寸七分ずつの菊をいろいろに金糸で刺繍し、菊の数は全部で九十一。七十歳をこえた東福門院の着衣としてはかなり派手好みにちがいない。琳派の祖尾形光琳の生まれた雁金屋であるから、この紋様もたぶん琳派風のものだったのであろう。
 この延宝六年の注文帳は東福門院の死によって九月までしかないが、それでも総計すると二百点にのぼり、総額は94貫581匁である。60匁1石で計算すれば、約1580石。膨大な衣装量であったことがわかる。
 東福門院の派手さには反撥もあった反面、羨望の目で見られることも多かったであろう。公家社会よりもかえって禁中の外の世界で東福門院を受け入れる部分があったように思える。寺社に対して数多くの寄進を行い、かつての豊臣秀頼に匹敵するような寺院の創建、再興に力をかしたのも、禁中以外での東福門院の仕事であった。幕府政策の一環といえばそれまでだが、人々の東福門院の経済力に期待は大きかっただろう。 寛永三年(1626)の家光上洛は幕府の力を京都の庶民に強く印象づけるもので、幕府と東福門院のイメージが重なったとき、かえって東福門院は庶民のスターでさえあった。さきにも記した町方における御所染などの流行が、東福門院を機転にしていたというのも、その一つである。また寛永三年十一月十三日、東福門院に皇子が誕生すると、町の人々の祝いの踊りが洛中から中宮御所へとくり広げられた。
  千代も八千代もあおげやあおげや、小松の枝さしそへて、竹の末葉の末々までも
  めでたき御代には下戸もないものじゃ
  上戸おどりは面白や
 と歌声がつづいてという。東福門院は、むしろ庶民にこそ受け入れられていたのである。 (「御水尾院」から)
● 大石慎三郎の「江戸時代」では東福門院の衣装代は「総代価は銀になおして150貫目におよんだとのことである」と書いてあるが、「御水尾院」では「総額は94貫581匁である」とあり、 「小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究」でも合銀九十四貫五百八拾壱匁 とあり、集計すると94貫581匁になる。
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<皇女品宮の日常生活>  後水尾院の生来の文学歌学への嗜好は、長い院生活間の勉強によって磨きをかけられ、心ある皇族公家郡を啓発して伝統文化の振興を巻き起こした。後水尾上皇(後に法皇)を囲む「寛永サロン」ともいうべきグループが古典文学、歌学、和漢連句、能筆(書と絵)、茶道、立花、楽、その他伝統芸術すべてにわたって意欲的に活躍したことはよく知られている。 後水尾院がその総指揮官としてこれらの活動に垂範した様子は熊倉功夫氏によって詳しく研究されている。品宮の日記の始まる寛文六年(1666)頃も院は文芸活動を続け、近衛家に御幸して『詠歌大概』や『新古今集』を講じて歌の詠み方などを基煕(もとひろ)や品宮に教えたり、朗詠の素読を教えたり(寛文六年六月五日、七日条)している。 例を引くと、
  法皇御幸。内府(基煕)、詠歌大概の詠み癖うかがはるる。その外新古今の歌などもうかがはるる。総じて歌の詠み様などの事仰せきかせらるる。准后の御方(皇姉清子内親王)、陽徳院殿、御喝食御所(妹大聖寺殿)なる。此御衆夕方御口(食事)相伴なり。……(寛文六年三月十二日条) (「皇女品宮の日常生活」2後水尾法皇 から)
東福門院
 品宮の日記に現れる女院は、後水尾院がそうであるように、晩年になってからの東福門院である。当然、長年にわたった徳川和子の京都での生活が、以前どのようであったかは品宮の記録からは知ることはできない。しかし穏やかでおおらかな人柄の東福門院が、周囲の人びとから愛されていたことは十分うかがい知れる。 何よりもよくわかるのは女院の周りの人びとに対する公平な心配りである。拝領品について豪放磊落であった後水尾院に比べ、女院は季節の肴や果物もたびたび下賜しているが、その女らしい優しさをもっともよく表すのは衣類の下賜品である。女院は毎年何度か美しい着物を皇室の男性や女性に送った。「女院よりいつもの如く小袖拝領す。いづれも美しき事どもにて眺めている」「美しき春の小袖一重拝領、内府も同じ」「とりどり美しきことどもなり」 というような言葉が毎年数度、暮れと初夏ばかりか他の季節にも現れるが、ある時など二日つづけて美しい小袖をたくさんもらってどれも美しいので、品宮は感嘆して眺めていった。女院はまた、華やかな伊達はものや「今様のお物好き」つまり流行のトップモードが好きだった。
  (前略)今朝女院より、此のごろ世間にはやる由仰せにて、更紗染めに縫い物好きにさせられ小袖たぶ。又鼻紙袋中へいろいろそろへさせられ美しく伊達異なる物どもたぶ。誠にかたじけなさとも嬉しさとも御心ざしのほど浅からず。喜びこの外はあらじととりどり眺むるばかりなり。(寛文十二年十二月二十二日条) 
 品宮は自分の着物を誂えたりしたことも、どんなものを来ているかということも一切日記に書いていないので、彼女の衣装に対する感覚も嗜好も全然わからないし、大体着物などに興味があったのかということさえわからない。自分の服装については無関心だったのか季節の衣替えのことさえ書いていない。東福門院から拝領した着物も芸術品を鑑賞するような見方をしているので、多分普段の服装は地味で保守的だったのだろう。 しかし拝領した美しい衣類には、自然の美しさにみとれるのと同じ感覚で素直に反応している。 
 東福門院は、明るい華やかな娯楽行事で人びとを悦ばせるのが好きだった。将軍家綱から贈られた風領(風鈴)二つ、時計の風鈴と音楽を奏でる風鈴を見せて珍しがらせたり、毎年盆に、女院御所の庭池に無数の灯籠を流したり蛍を放したり、ほうずき灯籠を庭中つりさげたりして人びとの目を楽しませた。東福門院の優美な趣味は今日でも女院御所の奥対面所(崩御後修学院の中御茶屋に移築)の有名な霞棚、その他中御茶屋客殿のしつらえによって見ることができる。
 また、女院は踊りや芸事の上手な若い女中や童女を大勢抱えていて、たびたび法皇の周囲の人びとを招いて愛らしい踊りを見せて喜ばせた。子供たちの踊りや芸は、外の一般社会でも少し後になって少女たちの芸事として大流行したが、これを宮中の娯楽としてはやらせたのは東福門院ではなかっただろうか。
  (前略)夜に入り、女院へなる。みなみなも御伴なり。幼き子たちに今程世間に流行るひょうたん踊りを踊らせてお目にかけらるる。しほらしき事、おもしろさ、いふばかりなし。(寛文十一年)
というような記事が何度か現れる。 
 女院はいつも控え目でやさしく、後水尾院の子供たちや幼い孫たちをよく可愛がった。基煕と品宮の子供たちは、たびたび女院からいろいろな人形や「しほらしきものども」を拝領している。それらは美しい布や袱紗の細工が多かったが(東福門院の押し絵については品宮は何も書いていない)、江戸から来たほうずきや柿栗など素朴な物をきれいな籠に入れて煕子に与えたりしている。 (「皇女品宮の日常生活」2後水尾法皇 から)
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<「人物日本の女性史」から>   和子自身の晩年にも絵画や茶の湯、立花(りっか)などを趣味として、上皇とともに楽しんだであろうことは、これも容易に推測される。千利休の孫の千宗旦は、その生涯をとおして大名に仕えず、清貧をよろこんだといわれるが、仙洞(せんとう)御所には出入りしていた。とくに東福門院のために爪紅(つめべに)の台子(だいす)など茶道具一式を献上し、また女房たちのために紅茶巾(ちゃきん)を工夫したと伝えられる。 それに対して和子は自作の押し絵や貝合(かいあわせ)の貝桶や硯箱などを与えたと言われ、今も京都の表千家には、和子からの拝領品として、能楽の押し絵が伝えられているという。
 ここには和子みずからの生き方として、京都の宮廷趣味にとけ込んだ柔らかで優美な、そしてあまりにもおだやかな生活感覚の現れがあると思う。もともと和子の性格がそうであったのかもしれないが、その立場を十分に心得て、つとめてそのようなあり方で、あるいはやや積極的に、そして意識的にその役割をつとめていったと思われるのである。
 たとえば、さきの堯怨(ぎょうにょ)法親王の弟にあたり、おなじく新広義門院を母とする霊元天皇を、和子は猶子にしていた。また桂離宮を造営した八条宮智仁親王は、和子入内のはしわたしをしたことがあったが、その子智忠親王に前田利常の女、富姫をすすめ、縁組みのため両人を猶子としたのも和子であった。富姫は和子の姉の子々姫につながりがあり、前田家と徳川氏、そして宮廷とのつながりは、和子にとっても望ましいものであったに違いない。
 こうした和子の近親の者への深く優しい思いやりは、京都の宮廷人としての立場からだけではなかった。『徳川実紀』をみると女院時代の和子の動きは、毎年の季節の推移とともに、京都からの様々な祝物、進物となってあらわれてくる。元旦・五節句・中元と続くその挨拶は、たんなる実家への儀礼ではなく、和子のこころのどこかに、十四歳まで暮らした江戸城の生活への愛着が生きていたと言うべきであろう、
 また飴の千姫や勝姫が没したとき、家光の病気見舞いとその葬礼のとき、そして十一歳で父を失い四代将軍に就任した甥の家綱に対するかずかずの思いやりは、和子の徳川家を思う心のあらわれであろうが、女としての和子の優しさが、もっともあざやかに表現されたものとみられるのである。幕府もまた女院和子の存在をつねに忘れなかった。たとえば八月になると必ず、京都では珍しい鮭の贈り物をつづけているのである。
 14歳で京都へ嫁いだ和子が一度も江戸へ帰らなかったというのは、立場のうえからそれができなかったという他に、このような強く温かいえどからの援助があり、心のあったためとも言えるであろう。
 延宝六年六月十五日、東福門院和子は、七十二歳の生涯をおわった。江戸では家門、諸大名をはじめ諸役人が登城して、将軍家綱の御けしきをうかがった。えどの人々の心の中でも、菊と葵の時代の幕が、静かに下ろされるのが見えたであろう。この日から二年の後、御水尾法皇も没した。八十五歳であった。
 女が女として生きることを、時代の求めに応じて、和子ほど自らの役割と一致させた幸せな女は、近世では珍しいのではないだろうか。このように思うのは、筆者が女であるためかも知れない。しいて言えば、ここに女が女を書くことの意味があるのではあろうか。 (「人物日本の女性史」8徳川家の夫人たち 東福門院和子 から)
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<「近世の女たち」から>  「近世の京都は和に始まり和で終わる、と言えますね。男性は破壊の象徴、そして女性は平和の象徴、朝廷と幕府を和で結んだ二人を見て、本当にそう思います」──元京都市歴史資料館長、森谷尅久(かつひさ)さんの言葉である。
 初めの「和」は徳川二代将軍秀忠の娘、和子、御水尾天皇の女御として入内、中宮となる。終りの「和」は光明天皇の娘、和宮親子内親王。幕末の激動に揺さぶられた皇女和宮の短い生涯が、人々の追憶にいつまでも残ったのに比べて、徳川和子の事跡はさほど知られていなかった。 しかし近年、歴史の中で女性の果たした役割に光りが当てられるにつれて、この人の影像は次第に輝きを増している。(中略)
 「譲位に至る朝幕の確執は想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたであろうが、そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。それが武家の血というものであったのだろう」と『御水尾院』の著者、熊倉功夫氏は評している。上皇の仙洞御所と門院の大宮御所では、連歌や茶の湯、華道などの集まりが催され、公家や上層の町衆で賑わった。 これを史家は「寛永サロン」と呼ぶ。本阿弥光悦の多彩な芸術や俵屋宗達の華麗な絵は、こうした交流の中に育った華だった。
 門院はまた衣装に凝り、注文した染め物を手本に「御所染め」がはやった。入内の祭持参した化粧料一万石でぜいたくもできたわけである。心にかけたのは兵乱で衰微した社寺の復興で、仁和寺、大覚寺、清水寺をはじめ数多い寺々が幕府の経済的援助で面目が改まった。その裏にあった彼女の尽力を知ることにつけ、今日の古風の風光に門院がどんなに大きなものを残したかが実感される。
 その優しい思いやりのある人柄は、33人にのぼる御水尾院の子供たちの良い母親となり、3人の親王を自分の子として即位させ、経済面で助けたことにも表れている。中でも、和子入内の直前に天皇と側室の間に生まれ、秀忠が激怒した一幕があって幕府から憎まれていた文智女王のために大和・円照寺を建立して行き届いた配慮が見られた。女王が感謝の気持ちを込めた漢詩には、水に映じた月の姿が「清らかで心ひかれる様は女院様あなたのゆかしさそのものです」と詠まれている。
 延宝六年(1678)72歳で死去。京都市編集の『京都の歴史』は門院を「希有の存在」と記している。 (「近世の女たち」文化の華あでやかに──古都の風光に余香 から)
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<「東福門院和子の涙」から>  しかしながら姫君さま、何か他にお気を外らすものなければお気詰まり、お悲しみはますます深まりゆくだけにござります。 よいことにはこのころより、衣装集めのお楽しみのほうにどうやらその思いを向けられる如くに拝され、これは一つの風穴とも申すべき救いともなったのでござります。
 ひとつには、この雁金屋、姫君さまとは浅からぬ縁にて、と申しますのは、主の尾形宗柏の父道柏どのはもと浅井家の長政さまのおん祖父君に当られます。
 その伝手(つて)にて、道柏どのは淀どの、秀頼、秀頼さま、高台院、京極さまご夫婦、また家康さま秀忠さま、ご一族のご用を相勤められしお方とて、この雁金屋をごひいき遊ばすは、徳川のご威勢をお示しになることでもあったのでございます。
 雁金屋が持参する反物をお選び遊ばすときの姫君さまのお目の輝きを拝しますと、私も思わず笑みが漏れるのでございますが、入内直後は年間六十二点、代金七貫八百六十四匁という高にござりました。
 これは、幕府大奥およそ一千人からの一年分の注文総数が三十六貫六百匁にござります故、姫君さまご用はその五分の一に当たり、そでに相当額にござりましたものが、寛永の半ばごろよりうなぎ上りに上がって行ったのでござります。
 私手許のこの書付は、おかくれになる年のもの故半年分にござりますが、それでも二百点、九十四貫と相成り、石数で申さば一千五百八十石、立派なお旗本のお禄にござります。ついでながら、書付の余りにはそのときご注文の小袖の一枚の柄ゆきも記してござります故、念のためご披露申上げますと、 「竜紋の綸子、壱反」とあり、地白に左袖下より右袖下まで波島、島をおいて右のほうは滝を二筋。滝は幅五寸のうち水筋を五つから二つまでとして下に桔梗鹿子、滝の間は浅黄絞り、その他、波や島をだんだんに立たせ、赤鹿子を配し、二寸七分ずつの菊をいろいろに金糸で刺繍、菊の数は全部で九十一、とござります。
 いかにも華やか、かつ贅を尽したものにござりましょう?
 これがおん年七十二歳の折りのご注文にござりますが、姫君さまはかような派手さがまたよくお似合いになるのでござりなす。お買い上げの品はもちろんご自身のものが多うござりますが、また贈り物とするためのものもあり、私をも含め、おそばの者たちはどれだけそのお恵みにあずかりましたことやら。
 それに、唯一おなぐさみの押絵の枝も年々ご上達になり、おそばの者に下しおかれることも多く、能舞台をそのままに、などのむずかしいものに取り組まれます故、その絵柄の人物衣装の調達もなかなかめんどうにて、かつ費用もかかるのでござります。
 このような姫君さまを指して「派手好み」とか「衣裳狂い」とか、さまざまかげ口きく者あるを知っておりますが、もはや私、それに対して、気の苛立つこともなく、知らぬ顔で打捨ておくようにいたしましたのも、いささかのわきまえ出来たと申しましょうか。
 お衣裳ごらん遊ばすことにより、姫君さま束の間にても憂さお忘れあるは何より喜ばしきこと、幕府より賜わりし門院料一万石は、禁裏の高と同じであり、なおこの上、裏よりはさらにご援助ある御身の身の上であれば、これも一つの、大いなる姫君さまの御運の強さと申せましょう。
 雁金屋、呉服の間に来る日は女院御所色めきたち、華やかに笑いさざめきて美しき衣裳選ぶ風景、またおん前にうずたかく積まれた反物を姫君さま一つ一つお手にとられ、
「これは駿河局によう似合う。常着にしやれ」 
とか、 
「ゆきも思い切って派手なものはいかがじゃ。正月着に雪持笹、これがよい」 
 などど仰せられ賜るときの、われらの喜び、かようなこと考えますと、上皇ご寵愛の女房たちいかに多くとも、皇后宮として堂々たる貫禄と、人々を追従せしめるお力とは、わが姫君さま郡を抜いてご立派なのでござります。
 禁中お儀式の折りなど、女房がた居流れるなか、姫君さまいちばんおあとよりしずしずと門院の座にお出ましになれば、そのお衣裳、お持物、頭に戴く天冠の燦き、に皆々気圧され、深いためいきを吐きつつ仰ぎみりさまを見れば、これこそ私の、会心の笑みと申すべき満足でござりました。 (「小説 東福門院和子の涙」から)
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<主な参考文献・引用文献>
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30 
皇女品宮の日常生活 『无上法院殿御日記』を読む           瀬川淑子 岩波書店      2001. 1.19 
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち              円地文子編 創美社       1977.10.25
近世の女たち 文化の華あでやかに 古都の風光に余香          松村洋 東方出版      1989. 6.15
小説 東福門院和子の涙                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13 
( 2005年1月17日 TANAKA1942b )