momo“生肝体移植を受けて”

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 熱中してきた仕事のこと  設立した会社のこと      

熱中した仕事のこと


学校を卒業後、社会人になってから、コンピュータ関連のことを、ずっとやって来ました。
コンピュータといっても、事務用の業務を最初の数年行い、あとの長い期間は、工場向けの専用システムばかりです。
オンライン生産管理システム、CAD/CAMシステム、ロボット・ビジョン(画像処理・パターン認識)、PCベースの回路用CAD,LSI設計開発用の論理・回路のシミュレータ、論理回路合成システム、など技術の最先端を行くシステムとソフトウエアなどです。



最初の頃は、営業担当でしたが、その内に、こんな最先端のシステム(商権)を探して、代理店契約を結ぶ仕事をするようになりました。
探す先は、主にアメリカでした。 
契約できたら、今度は、販売体制を作り、カタログや販売資料を作って、営業員と一緒に営業に出て、市場を学んで、販売作戦を作ります。 
マーケティングと言う仕事です。

その一連の業務の中で、先端システムの開発者から直接、説明を受けることができました。
開発意図や目的そして特長についてです。
お客様からは、製品の評価、要望を、直接、聞くことが出来ました。
開発者の意図と製品内容を、使用するお客様に伝え、逆に、日本市場の状態と要求、お客様の個別の要望や開発ヒントを開発者に伝える。
面白いというか、楽しい仕事に携われたと、今も思っています。
こんな仕事と面白い製品を求めて、商社・海外メーカの日本法人など会社を渡り歩いてしまいました。
最後の会社勤め先は、マシン・ビジョンのトップメーカの日本法人でした。


そして、とうとう、マシン・ビジョン(画像処理)の開発業務で独立しました。
相棒になる最高の技術者と息投合して、2001年に、その4〜5人の小さく会社をスタートさせました。
因みに、私達の会社の設立は、上の息子がしました。
私自身は、勤めていた会社に、朝、出勤し、夜中の11時まで仕事し、12時帰宅。
これが週に5日といった生活でしたので、会社設立の準備ができず、困って居ました。
当時、長男は、ただただ「スノーボードに一途に生きる」生活をしていました。

スノーボードに生きる生活」とは、想像の付かないものですが、こんな生活のようです。
冬のシーズン中は、ゲレンデのあるスキー場近くに、住み込みの仕事を探して、又は、共同で家又は部屋を借りて、ひたすら滑る。練習をする。
シーズン・オフの春と夏は、賃金の良い力仕事などを探して、しゃにむに働く。
夏は、春に貯めたお金をはたいて、南半球のニュージーランドやスイスなどで、家を共同で借りて住み、またひたすらスノーボードをする。
スノーボードの大会に出て、上位に入り、プロと呼ばれることが、一つの目標です。
プロになっても、それで生活できるわけではないのですが、ものすごい熱意です。

貴重な秋のお金を稼ぐ時期に、エツロウは、会社設立のことを引き受けてくれました。
会社設立の仕方を教わる処からスタートしました。
「ベンチャー企業創設講座」に通い、先生の助言を得て、賃貸の事務所を探し、設立書類を作り、届け出をして、会社設立をしてくれました。 
設立に必要な様々な届けと提出先の役所や銀行など、面倒なことを理解して、書類・届けを作成してくれました。
更に、会社設立に対する各種の支援や補助、助成金などを調べ、私達の会社にとって可能性のあるものをピックアップし、申請書類の準備もしました。
助かりました。
彼は、設立後は、 「スノーボードに一途に生きる生活」 に戻りました。 
2年たったオフの春から、ほぼフルタイムで、新会社の仕事に加わりました。経理とマーケティング。 
但し、スノーボーダーであることは継続し、冬のシーズンはスキー場に籠りましたが。

設立した会社のこと
会社はマシンビジョン:画像処理の会社です。
このマシン・ビジョンというのは、カメラとコンピュータを結びつけたもので、写った画像をコンピュータで認識し、“もの”の位置、大きさ、長さを計測します。
その結果を、検査や機械の位置あわせなどに活用するものです。
最先端の技術です。簡単な仕事は実用化されてきましたが、まだまだ難しい、出来ない事の多い、難しい技術です。
私達の会社の仕事は、実際に使うために必要なソフトウエアを開発することです。
それに加えて、測定や検査の機械自体を作ることも、仕事になります。

小さな会社を起して、自分たちの手でやり始めてみると、これは楽しいことでした。 
自分たちの力、技術と営業力がそのまま、結果に、はね返ってきます。 はっきりしています。
スタートして2年は赤字ででした。 
手持ちのお金を全部、つぎ込んで、それでも足りなくて、私の給与が長いこと払えない状態が続きました。 
必死に会社を維持しました。 
その後、黒字になり、未だ、「儲かる」とは言えませんが、やっと順調に行く感じになりました。
元勤めていた会社の紹介や、新規に開発したお客様から、マシンビジョン:画像処理のソフトウエアの開発や、検査機械の開発を請け負って、初期の目的通りの仕事を続けることができました。
3年目からは、展示会にも、積極的に展示会に出展することができました。 
自社のブース(小間)を持って出展:JPCAショーと言うプリント基板関係の展示会をはじめ、なんと韓国の同種の展示会にも出展しました。
展示会は、長男が担当して、上手に運営してくれました。 
展示会への出展は、後々の受注に、非常に大きな成果を果たしました。

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