“生肝体移植を受けて”
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熱中してきた仕事のこと | 設立した会社のこと |
2006年夏の頃
私たち家族は、5人家族。
私たち夫婦と3人の子供(男・男・女)の構成。
住んで居る所は、さいたま市にあり、上野・東京方面・新宿・渋谷方面に通勤する人も多い住宅地です。
2006年4月から次男が、東京でひとり暮らしをスタート。
我が家は4人の暮らしになる。
子供達は結婚しておらず、長男は、やや遠い距離を車通勤。娘は、電車通勤で都心のOLさん。
私も近くの事務所へ、バイクか、車で通勤。
我が家の奥さんは、主婦業が忙しく、30年間と変わらず、毎日、毎日、いつ帰ってくるか判らない夫と子供達のために、沢山の食事を用意する日々が続いている。
奥さんは言う。「そろそろ、体力的も怪しくなってきたし、ゆっくりもしたいのだけれど」、などと、子供の同級生の家の状況と比べて、言い出している所。
長男は、学校を出て、スノーボードに打ち込み、全国大会で上位に入りプロの資格を取得。
やっと2006年4月から、念願かなって、スノーボードを扱う会社に職を得て、競技とビジネスの両立を図れることになった。
それまでは、春と秋の間に短期の職を見つけて、がむしゃらに稼ぎ、そのお金で、冬は日本のスキー場で、夏は、南半球のニュージーランドやスイスで練習生活。こんな不安定な生活から、やっと安定した生活が始まったところ。
次男は、作業療法士という資格を取り、自分の仕事を探し当てた様子。
娘は、一度やってみたいといっていた都心のOLさんを体験中。
奥さんは、山ほどの家事をこなし、週に1回のダンス(体操)に行き、自宅で、 「お絵かきクラブ」と称するトールペイント(木工品や布地などを、キャンバスにして絵を付ける)をメンバーと一緒に、愉しんでいる。
私たち夫婦の年代は、所謂「団塊の世代」に入る年で、そろそろ、皆さん定年を迎え、第2の人生を、ゆっくり愉しむか、仕事を継続するか、そんな、少し、落ち着きのある生活へ入りたい世代。
私は、この夏に62才。
長年会社勤めをしてきましたが、どうしたことか、55才の時に、小さな会社を共同設立。
早くも6年目。4〜5人の小さな会社で、技術力に特長がありますが、未だ未だ、安定軌道とは言えません。
それなりに評価され継続的な開発の委託を受け、更に、自社開発の製品も出来た処。
これから、一緒に会社をやってきた人たちとエンジョイできるかなと期待している。
中々、忙しい現役の仕事をしています。
子供達のこと
2学年違いの子供達:3人は、同じ幼稚園・小学校・中学校に通い卒業しました。
上の息子が入った高校が、「自主・自立」をモットーとする少しユニークな学校で、親達も気に入って居ました。
次男もその高校に入り、続いて娘も同じ高校に入ったのは、驚きでした。
そう、うちの子供達は、幼稚園・小学校・中学校・高校と全員同じ学校に通い、卒業しました。
2年・6年・3年・3年の合計14年です。
ここまで、一緒というのも珍しいことと思います。
流石に、大学は3人とも別々でしたが。
今になっても、幼稚園の時からの友達、小学校からの友達が、我が家に遊びに来たりします。
転校が無い為、友達が途切れないで、どんどん累積し、増えていくように見えます。
これは、彼らの生活にとって、便利で、良い環境だったようです。
彼らの母親は、三姉妹の中で育った運動嫌いの人で、自分の子供・娘時代には有り得なかったイタズラ、喧嘩、怪我に、びっくりしていました。
彼女は、このビックリの原因は、父親の遺伝子だと、いつも言います。
上の息子は、少年野球・バスケットをやり、次男は、サッカー・合気道・柔道、娘もバレーを続けていました。
私には、バレーなど舞踏は、スポーツとは、ほど遠い優雅なものと思っていましたが、激しいスポーツと判り、びっくり、認識を改めました。
そう、学習しました。
子供達の試合があると、私達夫婦は、二人して、応援?見物?に出かけました。
野球、柔道、バスケット、バレーと、喜んで行きました。
3人の子供達の母親は、保護者会や、友達の母親同士ということで、顔見知りの人が増えました。
今となるとすっかり、この地域の住人となりました。
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