出  雲  鰐  淵  寺  三  重  塔

出雲鰐淵寺

浮浪山鰐渕寺絵図

◎浮浪山鰐渕寺絵図:江戸期木版画

 浮浪山鰐渕寺絵図:左図拡大図
 浮浪山鰐渕寺絵図三重塔部分図
北の般若坂等を登り、境内入口に仁王門がある。
仁王門から根本堂に至る参道左右に巌王院、松本坊、浄観院、是心院、覚城院、洞雲院、等澍院、現成院、密厳院があり、根本堂に至る。
根本堂附近は平坦地を造り、根本堂左に護摩堂、常行堂、右に釈迦堂、背後に宝蔵、竹林庵その他の小宇を配する。
根本堂右下の石階を降りれば、和田坊、恵門院、本覚坊、開山堂、開山廟があり、さらには念仏堂がある。
三重塔は開山廟あるいは本覚坊裏手すぐの高台にあるも、取り付き道は良く分からない。
仁王門を左手に行くと、西之門、浴室、七仏堂、七仏堂拝殿、馬頭、勝手、蔵王権現拝殿、子守、鰐淵、竜眼水、蔵王権現がある。

本図についての詳細は不明。
島根県立図書館蔵か、貴重書として所蔵か。時期も不明であるが、盛時の鰐淵寺を江戸期に描いたものと推定される。
何れにせよ、入手できた資料のうちで、鰐淵寺三重塔を描く唯一の資料である。
但し、三重塔・念仏堂・開山堂以外の堂宇(護摩堂も含む)及び12坊1庵は実際の現存堂宇及び遺構と良く照合するが、三重塔については現実から遊離している印象であり、念仏堂・開山堂については実際の遺構とは照合しない難点あるいは無理がある。


鰐淵寺略歴

◆鰐淵寺略歴:2012/11/09追加:
寺伝(「出雲國浮浪山鰐淵寺略縁起」)では推古天皇2年智春情人の開創と云う。智春上人は推古天皇の眼病平癒を浮浪瀧に祈ると伝える。その折、上人は仏器を瀧に取り落とすも、鰐が銜えて瀧の淵に登ったことに寺号は由来する。
 創建譚は以上のようなものであるが、そもそも当寺の成立には複雑な事情があるとされる。
まず、一つの寺基は、創建譚のように、浮浪瀧が落水する鰐淵窟に営まれた開山智春上人の草庵を中心に固められたものであろう。ここには比叡山無動寺や比叡山楞厳三昧院の聖などが教線拡大のため進出し、山門の拠点として強大化したものと思われる。この拠点は後の修験(蔵王権現信仰)の山陰の中心の一つとなる。
 ※「梁塵秘抄」(後白河上皇編纂・平安末期」には「聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ播磨なる書写の山、
  出雲の鰐藤や日の御崎、南は熊野の那智とかや」の歌が収録されている。
二つ目の寺基は赤塚(杵築大社西の稲佐浜付近)にあった千手観音を本尊とする寺院(後の北院)が様々の経緯で辛川(唐川)に移転してきた寺院である。
 ※赤塚から辛川への移転は史料的な裏付けがなく、疑問とする説もある。
そして三つ目の寺基は大寺(林木、鰐淵寺から南東に山越した地点)にあった薬師如来を本尊とする寺院(後の南院)で、この寺院も辛川に移転してくる。
 ※現在の鰐淵寺・蔵王堂のある地は別所であり、辛川は現在の唐川町で別所の西にある。
これ等の三つの寺院が平安後期にはいわば統合され、鰐淵寺を構成していったものと考えられる。
この頃鰐淵寺別当は山門(叡山)より補任(実際に下向することは稀であった)されるも、北院・南院には各々の長吏が各々に所属する坊舎・僧侶を統制する形態であった。
また、平安中期杵築大社は出雲一宮への転換を遂げていくが、この折、鰐淵寺は杵築大社の祭事の一端(大般若経転読、五部大乗講賛、大社祭礼への参画)を担うことで杵築大社の神宮寺的な存在となる。現実論としては、政治的なあるいは経済的な利害が一致したと云うわけで両者は共同歩調を採ったということであろう。
この頃杵築大社では祭神をオオアナムジ(オオアナモチ・オオクニヌシ)からスサノウに変更し、スサノウの本地は蔵王権現とされる。
 中世においては「国中第一の伽藍」「推古天皇御願」「為杵築奥の院」などと称され、出雲の天台寺院として大きな勢力を持つに至る。
この時代の中心伽藍の様子は以下であったと伝える。
薬師堂、千手堂、三重塔、常行堂、宝崛、温室、政所、本覚堂、鐘楼、摩陀羅神社、山王七仏堂などの存在が知られ、開山上人の宝崛を中心とした蔵王権現信仰と天台の薬師信仰 (南院)と千手観音信仰(北院)が信仰の中心であった。
 なお、以上の寺歴を編年風に纏めた史料「古今記録案」(正安3年<1324>頃の記録に基づき近世に編集とされる。)がある。
「古今記録案」では;
 鰐淵寺建立並焼失事
推古天皇御宇(593-)智春上人建立安置観音尊像勧請、金剛蔵王為地主権現・・・
寛和2年(986)千手堂薬師堂等造替・・・
天永3年(1112)建立塔、同造営国衛、・・天治2年・・塔供養三井寺長史同葉房請僧百人云々
仁平3年(1153)寺領をめぐる争いがあり、源義憲焼払鰐淵山・・・
永万元年(1165)千手堂薬師堂以下焼失、本覚坊火出・・・
治承元年(1177)千手堂造営供養
治承2年(1178)千手堂薬師堂常行堂釈迦院普賢院焼失・、乗陽坊火出僧行房(乗陽坊僧行房の放火)、
同年、千手堂立柱・勧進実光坊
元暦元年(1184)並千手院(堂)供養、檀那実光坊供養・・・・
文治年中(1185-)薬師堂造営、勧進同人常行堂朝山庁事造(国衙の在庁官人朝山氏)
この頃から根本千手堂・三重塔を中心とする北院(和多院が根拠)、薬師堂を中心とする南院(桜本坊が根拠)が形成される。
・「建長6年(1254)勧進帳」
天福年中(1233)雷火により根本薬師堂(七仏道場)、三重塔(三蓋の塔廟)ほかが炎上
 ※別所七仏薬師(5間四面)・三重塔(三重百尺塔婆)の再建は企図されるも千手堂再建の記録はなく、この火災は別所の炎上と推定される。
 ところが、三重塔再建にあたり守護佐々木氏は、祖父・父の菩提のため、南院(別所)の三重塔を北院(唐川)に再興を企図し、
 実際に北院に再建されたと推定される。
 なお、薬師堂のある南院には常行堂の存在が史料上知られる。
嘉暦元年(1326)伽藍炎上。「北院三重塔婆以下の堂舎悉く以って炎上・・・」
貞和3年(1347)本堂・三重塔・常行堂などの復興を志す。しかし北院と南院の確執で容易に着手できず。
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北院と南院の抗争確執は古代・中世初期を通じて長く続き、南北朝期には南院は南朝と北院が北朝の勢力と結びつき、ついには両院の武力衝突になで発展すると云う。皇国史観に毒されているきらいが多分にあるが、南院長吏頼源の忠臣としの活躍が伝えられる。
しかし、長い間の両院の抗争は山内の疲弊(学侶と行人=下級僧侶との対立、行人の台頭)をもたらし、両院の宥和が図られる。
即ち、室町前期には各々の本尊である薬師如来と千手観音は根本堂に纏められ、 辛川の堂宇は蔵王権現の祀られる聖地である別所に集められ、現在の鰐淵寺の伽藍が成る。根本堂・三重塔・常行堂が中心伽藍となり、支配は両院の長吏ではなく長吏の上に別当を置きこの別当がこれにあたる体制となる。この時、確認は取れないが、三重塔の再興は成ったと思われる。
 ※貞和3年(1347)の「両院一揆拳状」:本堂・常行堂・塔婆の建立次第を本堂を中心とし塔婆は左(東)、常行堂は右(西)との申合せがある。
 ※その後の三重塔の退転時期及びその理由などについては、今のところ(資料不足で)不明。
 ※この頃の本寺は青蓮院門跡と云う。
中世後期(戦国期)には当地の領主である尼子氏の保護即ち統制を受け、寺社勢力としての実態を失う。この意味では杵築大社も同様で特に尼子経久による永正16年(1519)の大社造営では寺院建築様式で行われ、護摩壇形式の拝殿、鐘楼も建立され、後には大日堂、三重塔、輪造なども建立される。また祭事も著しく仏教色を強め、鰐淵寺は導師を務めることとなる。
続いて毛利氏が出雲制圧の後は毛利氏に接近し、石935を受ける。
天文20年(1551)伽藍焼失、「堂舎一時に灰燼たり・・・」(「本堂再建勧進状」)
近世に於いても、鰐淵寺と杵築大社の関係は続くも、寛文年中(1661-)の大社造営においては、衰退する大社の時勢を回復すべく、北島・千家の両国造家が勧進聖本願寺を追放し、鰐淵寺には祭礼への参加無用との通告をなす。以降大社との関係は途絶する。
松江藩主からは300石の寺領が発給される。
◇僧坊
中世の僧坊については、記録の亡失により明らかではないが、現在史料によって確認できるのは以下(2院28坊)と云う。
和多坊(のち尊勝院、北院)、円光院、竹尾坊、竹本坊、桜本坊(南院)、竹林坊、大福坊、金橋坊、行林坊、井上坊、大蓮坊、本覚坊、学林坊、池本坊、正教坊、極楽坊、梅本坊、寺本坊、竹尾坊(重複?)、月輪坊、西本坊、一心坊、竹井坊、井本坊、正乗坊、増行坊、桜本坊、岩本坊、密厳院(如意輪寺)、金剛院

 ◆この項の参考文献:
  「中世における出雲国鰐淵寺の構造について」平岡定海(「大手前女子大学論集 16」、1982 所収)
  「出雲國浮浪山鰐淵寺」浮浪山鰐淵寺/編、「出雲國浮浪山鰐淵寺」刊行事務局、1997 など


鰐淵寺三重塔跡・本覚坊跡・開山堂跡及び現時の建物

2012/10/13追加:2012/09/29現地
◆三重塔・本覚坊跡:
三重塔は本覚坊にあったあるいは本覚坊付近にあったと伝える。しかし、現状では三重塔の遺構が残るわけではないと云う。
現在本覚院跡は荒れ、遺構などは明確ではない。その上今般の探訪では本覚院の周囲を通り過ぎただけで、十分な観察を行なったわけではなく、三重塔跡の有無・推定位置を明確にすることが出来ず。
 さて、上掲の「浮浪山鰐渕寺絵図」(以下「絵図」) の描く伽藍および坊舎の配置についてほぼ正確な絵図であると判明する。
その理由は、下に述べる開山堂・念仏堂の位置を除いて、現地と絵図との照合で齟齬をきたさないからである。
 上述のように、絵図では三重塔付近に描かれる開山堂・念仏堂の位置は現地と照合して齟齬がある。
即ち、現在開山廟の北にある開山堂が「絵図」では開山廟に登る石階の下に描かれる。
 (現在石階下には開山堂跡のような遺構は見られない。)
「絵図」の描写では三重塔は現在開山堂が建っている位置にあるようにも見えるのである。
また、念仏堂と奉納塔は開山廟のある丘を南に迂回した位置に描かれる。上掲の「鰐淵寺境内地図」によれば念仏堂跡と奉納塔は開山廟・現在の開山堂の北側・和田坊の東にあるとされる。(今般の探索で念仏堂跡は未見)
「絵図」の時代の開山廟が現在より規模が大きく、現在の開山堂を含めた丘全体を占めるとすると、「絵図」の見方によっては、三重塔は現在の開山堂の建つ位置ではなく、「境内地図」で云う「念仏堂」跡に建っていたようにも見える。この場所は本覚坊の背後である。
この場合、開山廟の丘の南にあった念仏堂はいつしか三重塔跡に移建もしくは再興されたのであろうと考えられる。
 「絵図」の描写がその他の堂宇・坊舎・参道・石階・石垣などと同じく、三重塔・開山堂・念仏堂においてもほぼ正確であるとすれば、即ち「絵図」の描写を信用すれば、三重塔は本覚坊の境内ではなく、現在の開山堂の建つ位置もしくは念仏堂跡と称する位置(本覚坊背後の一段上)にあったものと推定される。 ※いずれにせよ、後日の再調査を要する。

2012/12/12追加:2012/12/01現地
◆改めて三重塔跡の考察
 「鰐淵寺山内略図」(「出雲國浮浪山鰐淵寺」掲載)では「三重塔跡?」として2箇所の記載がある。
一つは【1】本覚坊跡(もしくは本覚坊跡東南隅)を「三重塔跡?」とするものであり、もう一つは【2】念仏堂西側(本覚坊北西・和田坊北東)を「三重塔跡?」とするものである。
 この前者の見解【1】では、三重塔が退転した後、その跡地に本覚坊が営まれたとするものであろう。
(この場合、本覚坊堂舎とその東南隅に三重塔が並存したということは、本覚坊跡の敷地では狭すぎて、それはありえないであろう。)
確かに、この可能性もあるが、上掲の「浮浪山鰐渕寺絵図」では本覚坊の背後に塔が描かれるので、「絵図」を尊重するならば、この説は無理であろう。
但し、「絵図」での三重塔の描き方は取付道が全く分からないなど不自然なこともある。これは、この「絵図」の描かれた時、本覚坊は現存するが三重塔は退転し 跡地は本覚坊に転用されたにも関わらず、現状と古の両方を描くのがこの「絵図」の性格とすれば、古の三重塔と現在の本覚坊を描かざるを得ず、本覚坊の背面に不自然な形で三重塔を描くことになった ことかも知れない。
また、塔の立地としては、山腹に南面する根本堂と対峙するように西面して建つ位置にあり、好地ではあろう。
 後者の見解【2】では、現在この地は放置された雑木の繁る地ではあるが、塔を建立するに足る削平地があり、ここに塔が建立されていた可能性はあるであろう。上記の「絵図」の描く位置とは多少 外れてはいるが、許容の範囲であるかも知れない。
但し、現在は何の施設もないので、塔の何らかの遺構などが多少なりとも残るなり、あるいは塔跡とする伝承などが残るなどすれば、決定材料となるが、それらは全く 耳にしないので、現段階では推測の域を出ないであろう。
さらに塔の立地としては、坊舎の背後・奥まった位置であり、必ずしも好地とは云えず、塔を建立する位置としては本覚坊の位置の方が優れているであろう。 即ち、この削平地は塔跡とするより、何らかの堂舎跡の可能性が高いであろう。
 ※この「三重塔?」位置は2012/12/01/現地訪問の後に知り、塔跡想定地を子細に観察した訳ではない。
 もう一つの想定地としては、前項(2012/10/13追加の項)で述べたように、【3】現在開山堂が建っている位置と想定できるであろう。
現在開山堂の建つ位置は丘状の高台であり、かつ十二分に三重塔が建つ平面を有し、塔の建立場所としては好地・適地であると思われる。
さらに、上記の「絵図」の描く位置と齟齬はせず、絵図の描く通りの位置といっても良いと思われる。
  (この説は現地での住職のご子息との面談でご子息と意見の一致を見たものである。)
 なお開山堂の建立時期は不詳であるが、様式上から江戸初期の建立で、江戸末期に大改修されたものと推定(「出雲鰐淵寺の歴史的・総合的研究 研究成果報告書」)されると云う。三重塔退転の後、その跡地に開山堂が江戸初期に建立されたものとも考えられる。
では、なぜ「絵図」では開山堂が不自然に現地の地形と一致しない位置に描かれるのであろうか。これは古の姿として三重塔を開山堂跡に描いたため、現存する開山堂を描く位置 がなくなり、かといって開山堂を描かないわけにはいかず、不自然な位置に描いたとも考えられる。
 ※開山堂はほぼ等間の三間堂であり、柱間は約6尺(一辺18尺)を測る。これは通常の三重塔ではやや大き過ぎるので、三重塔跡に建立されたとしても、三重塔の規模を引継いで建立されたものとは考え難い。
 ※開山堂とは智春上人堂と云う意味であろうが、本尊は近世以降阿弥陀如来であり、合わせて智春情人像を祀ると云う。
 なお、前項(2012/10/13追加の項)では、【4】念仏堂跡の可能性に言及した。これは「絵図」に描く位置と合致すると思われるからである。
この意味では、念仏堂跡も三重塔の想定位置である可能性はある。前項の本覚院の場合と同様に、三重塔が退転した跡地に念仏堂が建立されたと考えることも出来るからである。そして念仏堂の位置に三重塔を描いたから、念仏堂は現地とは照合しない不自然な位置に描かざるを得なかったということであったのかも知れない。
しかし、常識的に云って、塔は金堂や常行堂・法華堂と並ぶ主要伽藍であり、本来なら根本堂のある平面に建立されるか、それに対峙できるような位置に建立されるも のと考えられる。この意味では、この念仏堂の位置では奥に隠れ過ぎであり、立地としては第一に現在の開山堂のある位置、次いで、今の本覚坊の位置が好地で あろう。念仏堂跡や念仏堂西側は塔の立地としては好地とは云えないと思われる。
 結語:
現段階では、住職のご子息の云うように「三重塔跡は、遺構が発見されている訳でもなく、はっきりとは分からない。一般的には本覚坊跡にあったのではないかと云われている。」のが実情である。
三重塔跡としては、上述のように【1】本覚坊跡、【2】念仏堂西側削平地、【3】現在の開山堂、【4】念仏堂跡の4箇所が想定される。
 ※改めて、以上の4箇所を地形図上で示すと次の図になる。
   ◎鰐淵寺三重塔跡候補図・・・・本図上に赤四角で記す所である。
以上を踏まえ、「絵図」の描く位置及び塔の立地の適否という観点から、敢えて三重塔跡を想定すれば、上述のように、【3】の現在の開山堂のある位置の可能性が最も高く(この推論では住職のご子息も同一の見解であった。)次いで 【1】の本覚坊の跡と云うことになるのであろう。

●写真:無印は2012/09/29撮影、◇印は2012/12/01撮影
 三重塔跡候補地【1】本覚坊跡・・・通常、本覚坊に三重塔があった、もしくは本覚坊跡が三重塔跡と云われる。
  鰐淵寺本覚坊跡1:入口であるがピンボケ写真しか手持ちになし。
  鰐淵寺本覚坊跡2     鰐淵寺本覚坊跡3     鰐淵寺本覚坊跡4     鰐淵寺本覚坊跡5
  本覚坊入口2◇       本覚坊入口3◇       本覚坊入口4
  本覚坊跡6◇         本覚坊跡7◇         本覚坊跡8
開山廟所・開山堂
 鰐淵寺開山廟入口     鰐淵寺開山廟石階     開山廟所下2◇     開山廟所下3
開山堂:17世紀後期の建立と推定され、幕末に大改修が行われたとも推定される。3×3間、宝形造、屋根板葺。
 三重塔跡候補地【3】現在の開山堂・・・立地や浮浪山鰐渕寺絵図(上掲)の描く位置などから、最も可能性が高いと思われる。
  鰐淵寺開山堂1       鰐淵寺開山堂2     開山堂3◇     開山堂4◇     開山堂5
  開山堂11◇:本覚坊跡の裏から開山堂を見上げた写真である。この開山堂の位置に三重塔があった可能性が高いと思われる。
  開山堂12◇:念仏堂跡から開山堂を見上げた写真である。同上。
  鰐淵寺開山廟拝所     開山智春上人石塔     開山廟所
 三重塔跡候補地【2】念仏堂西側削平地・・・和田坊背後(和田坊北東)の地でもあり、上述のように「鰐淵寺山内略図」ではこの付近も三重塔跡の候補地とする。
  和田坊背後1◇     和田坊背後2◇:何れも写真中央は頼源石碑であるが、その背後の雑木の平坦地に塔婆のあった可能性がある。
念仏堂跡:念仏堂は明治38年焼失
 三重塔跡候補地【4】念仏堂跡・・・ここに塔婆があった可能性も僅かながらあると思われる。
 念仏堂跡1
 念仏堂跡2◇:中央が念仏堂跡である。なお、右やや上に雑木の平坦地が写るが、これが候補地【2】念仏堂西側削平地である。
 念仏堂跡3
 念仏堂奉納塔1◇     念仏堂奉納塔2

◆現時の建物:「島根県史要」 より
以下が挙げられる。
根本堂(本尊薬師如来・千手観音、7間四面)、法華三昧堂(3間半四面)、常行三昧堂(3間半四面)、護摩堂(3間4間)、馬頭観音堂(5尺四方)、四衝地地蔵堂 四宇(各1間半に2間)、摩陀羅社(2間に4間)、祇園山王北野合社及拝殿(各2間に3間)、蔵王権現及拝殿(各2間に3間)、勝手明神社(8尺に9尺)、子守社 (5尺四方)、稲荷社(4尺四方)、児子淵地蔵権現社(3尺四方)、鐘楼(9尺四方)、宝蔵(2間半に3間)、浴室(2間半に6間)、仁王門(2間四方)、西之門 (2間四方)、常念仏堂(4間半に9間)、坊舎(松本坊<6間に15間>、密厳院<4間半に9間>、洞雲院<4間半に9間>、浄観院<4間半に10間>、等澍院<4間半に9間半>、是心院<5間に11間半>、現成院<4間半に10間半>)
 鰐淵寺根本堂2
 ◆この項の参考文献:
   「島根県史要」藤本充安編、松江:川岡清助、明治40年

以上に挙げられた建物は、確証はないが、「島根県史要」に挙げられるので、おそらく明治40年頃までは存在していた堂舎と推定される。
以上と仮定して、
まず「現時の建物」にある法華三昧堂が「浮浪山鰐渕寺絵図」(以下「絵図」)に存在しない のが眼につく。
推測するに、この法華三昧堂とは「絵図」に描く「釈迦堂」であろう。釈迦堂は「絵図」では根本堂を挟んで常行堂とほぼ対称に位置に描かれ、しかも同じ堂形(平面3間の方形造)に描かれる。 さらには「現時の建物」で示す3間半四面の規模は法華堂と常行堂が同規模であることを示している。以上から法華三昧堂とは「絵図」云うまた現存する釈迦堂のことと推定される。
 逆に「絵図」にあり、「現時の建物」にない堂舎は以下の通りである。
三重塔、開山堂、開山廟同拝所、坊舎では和田坊、本覚坊、覚城院、恵門院、竹林庵である。
和田坊、本覚坊、覚城院、恵門院、竹林庵の坊舎は明治40年までには退転していたのであろう。
三重塔も既に退転する。
開山堂は現存するが、その位置は開山廟の北側であり、「絵図」の示す開山廟下ではない。おそらくは開山廟下にあった開山堂は明治40年頃には退転していたが、その後開山廟北に接して再興されたのでは ないだろうか。
開山廟同拝所は敢えて「現時の建物」には記載されていないだけなのか、あるいは退転していたのかどうかは定かではない。
 次に、「現時の建物」にはあるが、現在存在しない堂舎は以下の通りである。つまり明治40年ころには存在したが、現在では退転した堂舎と云うことになる。
護摩堂、馬頭観音堂、祇園山王北野合社及拝殿(粗末な山王七仏堂が現存するが明らかに明治40年以降の再建であろう。)、蔵王権現拝殿、勝手明神、子守社、宝蔵、浴室、西之門、常念仏堂

◆鰐淵寺蔵王堂

蔵王堂は浮浪瀧の瀧裏、蔵王宝窟にある。正面3間で前面に縁が付く。側壁・後壁は持たず、千鳥破風を載せた片流屋根を10本の柱で支える。(平面図参照)
この蔵王堂の古い経歴の詳細は不明であるが、弘化3年(1846)蔵王堂は再興される。(旧蔵王堂棟札)
この弘化再興蔵王堂も腐朽のため、弘化再興堂の旧規のまま、昭和58年に再建される。
 鰐淵寺蔵王堂(再建前)   鰐淵寺蔵王堂(昭和再興堂)     鰐淵寺蔵王堂平面図
 鰐淵寺蔵王堂立面図:園山和正氏作成所蔵   鰐淵寺蔵王堂古図:「浮浪山鰐渕寺絵図」部分図
 ◆参考文献2:
  「鰐淵寺蔵王堂、円蔵寺虚空蔵堂(菊光堂)、鷹栖観音堂について I : 懸造建築の研究 別1」松崎照明、荒木正也
   (学術講演梗概集、社団法人日本建築学会、1987 所収)

■「出雲みやげ名所写真帖」福井写真館編、松江:福井写真館、大正6年
  鰐淵寺根本堂


明治維新後の鰐淵寺

2012/12/12追加:
「出雲國浮浪山鰐淵寺」浮浪山鰐淵寺/編、「出雲國浮浪山鰐淵寺」刊行事務局、1997 より

◎鰐淵寺山内略図

鰐淵寺山内略図:左図拡大図

 

 参考:◎碗淵寺略図:原本は「週間古寺をゆく 40」
 参考:◎鰐淵寺堂舎配置図:「鰐淵寺境内の歴史的建造物」 より
 参考:◎鰐淵寺坊庭園の立地:「鰐淵寺坊の庭園」 より
      何れの図も鰐淵寺伽藍概要の把握に有用と思われる為、掲載する。

○神仏判然令
明治2年の鰐淵寺寺領は「450石他米230表蔵米」(松江藩「支配地社寺領録」)で、近世を通じては松江藩寄附の300石であった。
 明治初頭の神仏判然令は鰐淵寺においても影響を及ばす。
即ち、松江藩神社調役木村庫右衛門を首唱者とする論調は常行堂奥社摩多羅神はスサノウと同体であり、鰐淵山は杵築大社の奥の院であるので、鰐淵山は神地であり、堂舎は毀釈し、僧侶は放逐して、杵築大社に返還すべしとのことであった。
これに対しては村田寂順が論駁し、寺院消滅の危機を脱する。
 ※かたや、伯耆大山寺は大智明権現と称し、地藏菩薩が本尊であったが、明治2年鳥取藩神社取締係小谷融の建白で、祭神はオオヤマツミとされ、大神山神社とされる。

○明治8年「鰐淵寺見取惣絵図」
本堂を中心の12坊(寺と云う文字のみで坊舎名や建物が描かれているわけではない。)が描かれる。
 ※明治維新直後には、未だ12坊が維持されると推定される。
 因みに、享保2年(1717)の「雲陽誌」も明治維新後と同じ12坊があると云う。
 但し和田坊・松本坊・洞雲院・本覚坊の名称は維新後も継承されるが、他の8坊の名称は明治維新前後までに名称変更が行われたものと
 推定される。

○明治20年「明細帳」
明細帳添付「鰐淵寺現境内縮図」

明治20年明細帳添付◎「鰐淵寺現境内縮図」:左図拡大図

堂舎については以下のように記載される。
本堂:6間5尺8寸×6間3尺2寸
鐘楼堂、仁王門、裏門
境内23、635坪
境内仏堂7宇
 釈迦堂:寛文12年再建
 常行堂:寛政7年再建・天保年中大修理
 荼枳尼天:3尺×3尺6寸 →現在は稲荷社と云う。
 開山堂:3間5寸×3間5寸、創立年月不詳
 七仏堂:釈迦如来、延宝4年再建、3間1尺1寸×2間9寸
 地藏堂:2間2尺3寸×1間3尺 →※現在は退転してなし。
 十王堂:1間4寸×1間4寸、創立年月不詳

境内僧院 12宇
 松本坊:本尊不動明王、建物(14間×5間3尺)、蔵廊下、木小屋、唐門、長屋門
 厳王院:本尊薬師如来、建物(11間×5間)、木小屋、門
 浄観院:本尊不動明王、建物(10間3尺×4間3尺)、木小屋、門
 是心院:本尊阿弥陀如来、建物(11間6歩×5間7歩)、蔵廊下、木小屋、門
 洞雲院:本尊阿弥陀如来、建物(10間×5間)、廊下、蔵木小屋、門
 等澍院:本尊釈迦如来、建物(10間×4間3尺)、廊下、蔵木小屋、門
 密厳院:本尊観世音菩薩、建物(10間×5間)、廊下、蔵木小屋
 現成院:本尊千手観音菩薩、建物(10間3尺×4間3尺)、木小屋、門
 覚城院:本尊不動明王、建物(9間×4間3尺)、木小屋、門
 恵門院:本尊文殊菩薩、建物(9間3尺×5間)、蔵廊下、木小屋、門
 本覚坊:本尊不動明王、建物(10間3尺×4間3尺)、蔵廊下、木小屋、門
 和田坊:本尊阿弥陀如来、建物(4間2尺×6間)、蔵廊下、木小屋、門
境内庵室 2宇
 竹林庵:本尊阿弥陀如来、建物(5間3尺×3間)、納屋
 念仏堂:本尊阿弥陀如来、建物(1間2尺×5間3尺)、木小屋
境外仏堂並行場
 蔵王堂:本尊不動明王、万治2年再建、堂宇(2間5尺×1間5尺7寸)
  以下(略)・・・

○明治30年頃鰐淵寺古写真

明治30年頃鰐淵寺古写真:左図拡大図、坊舎名の書込みはなし
 ※少なくも和田坊、恵門院、現成院、浄観院、是心院、洞雲院の建物は写る。
 この頃には建物は存在する。
 逆に覚城院、密厳院の坊舎は退転する。

覚城院は「明治43年答申書」(後出)では「明治36年頃焼失」とあるも、「松本坊霊記」(後出)では「明治21年9月焼失」とあり、これを採用したい。
一方
浄観院・洞雲院は「明治43年答申書」では「明治39年5月焼失」(実は明治38年が正)とある。
従って、
この写真は明治21年9月から明治38年5月までに撮影されたものと判断できる。

○明治の絵図(「出雲國鰐淵寺之圖」であろうか、未見)では、松本坊、嚴王院、浄觀院、是心院、洞雲院、等澍院、密嚴院、現成院、七佛堂、覺城院、恵門院、本覚坊、和田坊、念仏堂、開山堂、釈迦堂、竹林庵、常行堂、根本堂が描かれると云う。
 2012/12/12追加:本図は上記の明細帳添付「鰐淵寺現境内縮図」とは別の図である。
 「出雲國浮浪山鰐淵寺」では「出雲國鰐淵寺之圖」について、以下のように解説する。
 本図は明治35年9月発行の石版画(49×64cm)であり、発行人は住職荒木泰心、松江殿町印刷所印刷である。
 しかし、12坊全部が健在のように描かれる。盛時の様子を描いたものではあろうが、同時代を考察する史料価値はほぼ無い。

明治43年答申書
明治43年、僧院取調に対して、鰐淵寺住職佐藤泰運が鰐淵村村長経由県に提出した「僧坊ニ関スル答申書」であり、図面3枚が添付される。
3枚とは「明細帳中記入之全図」「現今実地図」「将来革新ノ参考図」であり、以下で順次示す。

○明治43年「明細帳中記入之全図」
 ◎「明細帳中記入之全図」:図中の等樹院は等澍院が正しい。
12坊と竹林庵・念仏堂が屋根を朱色に着色し描かれる。勿論本図は12坊と1堂1庵が揃っていた時の図である。

○明治43年「現今実地図」

◎明治43年「現今実地図」:左図拡大図

松本坊:住職現存
是心院:現今本坊代使用中
等澍院:鰐淵寺寺務所ニ使用中 とある。
 (図中の等樹院は等澍院が正)
上記3坊のほかに現成院、密厳院、洞雲院の建物が現存するように描かれる。
一:厳王院、ニ:浄観院、三:覚城院、四:恵門院、五:和田坊、六:竹林庵、七:念仏堂は跡のみとして描かれる。(本覚坊跡が描かれないのは理由不明)

必要の寺院(4ヶ寺)
 是心院:以内唯一ノ地ニアレバ住職常ニ絶ゲズ去ル明治40年マデアリ現今本坊代ニ用
 松本坊:住職古来絶ヘズ
 等澍院:明治28年住職和田坊ヘ転住ノ名義ニテ尚オ当院ニ在住現今山内寺務所ニ使用
 和田坊:元亀天正毛利元就再建ノ所去ル明治39年焼失
建築アリ住職ナシ(3ヶ寺)
 現成院:明治25年住職絶ユ
 密厳院:南北朝ノ時ヨリアリタル事績見ヘ維新以降住職ナシ
 洞雲院:維新住職ナシ
有名無実(5ヶ寺)
 恵門院:明治39年5月焼失、建築物ナシ
 覚城院:明治26年頃焼失、建築物ナシ
 浄観院:敗頽シテ寺跡ノミ、建築物ナシ
 本覚坊:敗頽シテ寺跡ノミ、建築物ナシ
 厳王院:敗頽シテ寺跡ノミ、建築物ナシ
有名無実寺院ニ大概同ジ
 念仏堂:古来一人ノ留守居ヲ置ク例ナリシモ明治39年5月焼失
 竹林庵:住人ナク敗頽寺跡ノミ
  ※寺坊の焼失については誤りがある。和田院・恵門院・念仏堂の焼失は明治38年5月である。
  これは下記の「松本坊霊簿」にあるように、明治38年5月である。
  明治38年5月18日の「山陰合同新聞」に「15日山内出火の際は」と住職・檀徒総代の名で「火事見舞御礼」の広告が載る。
  因みに、この出火は鰐淵寺山林の盗伐を厳しく咎められた犯人の放火との伝承がある。
  覚城院の焼失についても、上述のように、2つの記録があるが、どちらが正しいにかは決め手がない。

○明治43年「将来革新ノ参考図」
 ◎「将来革新ノ参考図
松本坊、是心院、等澍院の3坊の堂舎を残し、本覚坊位置に「本坊カ或国宝殿建設ノ目的地」と記される。

○大正期以降の記録である「松本坊霊簿」
「明治45年度、一山支院整理・・、本覚坊現成院ハ松本坊へ合併・・洞雲院浄観院ハ等澍院ヘ合併・・厳王院密厳院ハ是心院ニ合併・・・
和歌坊恵門院念仏堂ハ明治38年5月15日焼失、覚城院は明治21年9月焼失ニ付キ何レモ廃寺タル事ニナレリ。
現在建造物ノアルハ現成院密厳院洞雲院ノ3坊ニシテ何レモ大破ニ及ビタリ。其余ノ寺院ハ焼失或立朽レノ寺院ニシテ松本坊是心院等澍院ノ僅ニ旧観ヲ維持セリ」

○昭和56年撮影「鰐淵寺全景」

昭和56年撮影「鰐淵寺全景」:平田市蔵:左図拡大図

上段に根本堂など伽藍、中断左から恵門院跡に建つ宝蔵殿・旧宝物拝観所、是心院、下段左から松本坊・厳王院跡に建つ滴翠観が写る。
現成院、密厳院、洞雲院のある場所には建物は写らず退転したものと思われる。
昭和56年坊舎で確認できるのは是心院と松本坊だけ(等澍院は写真範囲外で分からない)となる様が分かる。
 →○昭和56年撮影「鰐淵寺全景」2:上図に文字記入したもの

昭和20年の戦後まで建物が続いたのは松本坊、是心院、洞雲院、等澍院、現成院の5坊であるが、現存(平成9年)するのは松本坊・是心院の2坊である。
厳王院跡には平田市営の休息所滴翠館が建つ。


鰐淵寺現況:2012/09/29撮影、2012/12/01撮影

◎鰐淵寺略図

 ◎碗淵寺略図:左図拡大図:
この図は「週間古寺をゆく 40 鰐淵寺と山陰路の名刹 島根ほか」小学館、2001
に掲載の「鰐淵寺境内地図」をベースにして、加筆・修正したものである。

明治初頭の絵図では多くの堂舎が描かれるも、明治以降も急速に衰え、
現下では、主たる伽藍は松本坊(本坊)、七佛堂(昭和35年造替・RC造)、開山堂、釈迦堂、常行堂、根本堂、蔵王権現道しか残存しない。
坊舎の実態は上に掲載「明治維新後の鰐淵寺」の項で述べたとおりである。
あるいは、上掲の「現時の建物」の項では、明治40年頃は
松本坊、密厳院、洞雲院、浄観院、等澍院、是心院、現成院が存在し、
和田坊、本覚坊、覚城院、恵門院、竹林庵は明治40年までには退転していたと推定されると云う。

 参考:◎鰐淵寺山内略図: 「出雲國浮浪山鰐淵寺」 より
 参考:◎鰐淵寺堂舎配置図:「鰐淵寺境内の歴史的建造物」 より
 参考:◎鰐淵寺坊庭園の立地:「鰐淵寺坊の庭園」 より
      何れの図も鰐淵寺伽藍概要の把握に有用と思われる。

以下の参考文献:
「鰐淵寺境内の歴史的建造物」山岸常人
「鰐淵寺坊の庭園」田中哲雄
(「出雲鰐淵寺の歴史的・総合的研究 2009年度〜2011年度科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書」井上寛司、2012 所収)
鰐淵寺堂舎配置図:「鰐淵寺境内の歴史的建造物」 より
鰐淵寺坊庭園の立地:「鰐淵寺坊の庭園」 より

写真:無印は2012/09/29撮影、◇印は2012/12/01撮影
○鰐淵寺仁王門:大正7年建立(棟札)
 鰐淵寺仁王門1     鰐淵寺仁王門2     鰐淵寺仁王門3:仁王像     鰐淵寺仁王門4:仁王像
 仁王門5
○鰐淵寺坊舎:2009年度から実施されている総合学術調査で2011年に等澍院、2010年に和田坊跡の発掘調査が実施された模様である。
松本坊(現本坊):16.9m×11.2m、寄棟造、屋根鉄板葺。18世紀中葉の建築か。御成門は江戸末期の建立と推定される。
 鰐淵寺松本坊1     鰐淵寺松本坊2     鰐淵寺松本坊3:勅使門     鰐淵寺松本坊4:長屋門
 松本坊5◇      松本坊6◇      松本坊7◇      松本坊8◇      松本坊9◇      松本坊勅使門
厳王院:明治維新後すぐに退転か。
 鰐淵寺厳王院跡:左に写るのが滴翠館で厳王院跡に建つ。
 厳王院跡2◇     厳王院跡3
浄観院:明治30年には堂舎が写るも、明治43年までには退転。
 鰐淵寺浄観院跡
 浄観院跡2◇     浄観院跡3◇     浄観院跡4◇:庭園跡?
十王堂;開山堂背後の下に十王堂跡があり、この堂の元地である。
 鰐淵寺十王堂1     鰐淵寺十王堂2     十王堂3
覚城院:明治21年か36年に焼失
 覚城院跡恵門院跡
 鰐淵寺覚城院跡1     鰐淵寺覚城院跡2
 覚城院跡3◇     覚城院跡4◇     覚城院跡5◇     覚城院跡6◇     覚城院跡7
恵門院:明治38年焼失、現在は宝蔵と旧宝物拝観所が建つ、旧宝物拝観所は崩落寸前の状態である。
 鰐淵寺恵門院跡1     鰐淵寺恵門院跡2     鰐淵寺恵門院跡3     鰐淵寺恵門院跡4
 恵門院跡5◇:宝物殿     恵門院跡6◇      恵門院跡7◇:旧宝物拝観所     恵門院跡8◇:同左

 鰐淵寺恵門院下1     鰐淵寺恵門院下2:正面は本覚坊跡
 覚城院下道◇        恵門院下道◇:本覚坊下石階に至る
 覚城院恵門院下◇     本覚坊下石階

本覚坊:明治維新後すぐに退転か。
 本覚坊跡の写真は「★鰐淵寺三重塔跡・本覚坊跡・開山堂跡及び現時の建物」の項に掲載
開山廟所・開山堂
 開山廟所・開山堂の写真は「★鰐淵寺三重塔跡・本覚坊跡・開山堂跡及び現時の建物」の項に掲載
念仏堂:明治38年焼失
 念仏堂跡の写真は「★鰐淵寺三重塔跡・本覚坊跡・開山堂跡及び現時の建物」の項に掲載

十王堂跡:
 鰐淵寺十王堂跡:写真中央には石の基壇が写る。
 十王堂跡2
和田坊(和多坊):明治38年焼失
 和田坊跡平面図:下に掲載「鰐淵寺境内の分布調査・発掘調査」より:2012/12/12追加
 鰐淵寺和田坊道:正面が和田坊、右は本覚坊石垣      本覚坊下和田坊へ◇:同左
 鰐淵寺和田坊下石階     鰐淵寺和田坊下中段     鰐淵寺和田坊入口石階     鰐淵寺和田坊入口
 鰐淵寺和田坊跡1     鰐淵寺和田坊跡2     鰐淵寺和田坊跡3     鰐淵寺和田坊跡4     鰐淵寺和田坊跡5
 和田坊より根本堂への石階
 和田坊下2◇;左手上が和田坊跡、中央右の石垣が本覚坊跡      和田坊下3◇     和田坊下4
 和田坊跡6◇     和田坊跡7◇     和田坊庭園跡◇      和田坊跡8◇     和田坊跡9
 和田坊下本堂へ

○西側坊舎:
裏門(西ノ門):
遥堪峠からの下り道と矢尾峠からの下り道の合流地点にあった「裏門」は昭和20年後に暫くは存在したが、やがて腐朽して退転する。
 鰐淵寺西之門付近
 西之門跡2◇:柵が設置されている付近に裏門(西之門)があったと思われる。
 西之門跡3◇     西之門跡4◇:写真中央の亭付近 やや奥に裏門(西之門)があったと思われる。
等澍院:昭和20年の後も暫く堂舎は残るも、何時しか退転。
 西之門より等澍院への石階:正面 石垣は洞雲院      鰐淵寺等澍院入口     鰐淵寺等澍院跡
 等澍院跡2◇     等澍院跡3◇     等澍院跡4◇     等澍院入口石階2
洞雲院:明治維新で無住、昭和20年の後も暫く堂舎は残るも、何時しか退転。
 鰐淵寺洞雲院下部石垣    鰐淵寺洞雲院上部石垣
 鰐淵寺洞雲院跡1         鰐淵寺洞雲院跡2     鰐淵寺洞雲院跡3     鰐淵寺洞雲院跡4     鰐淵寺洞雲院跡5
 洞雲院石垣◇     洞雲院跡6◇     洞雲院跡7
是心院:昭和56年の写真には写る、近年退転。
 是心院庭園実測図:「鰐淵寺坊の庭園」より:2012/12/12追加
 鰐淵寺是心院跡1     鰐淵寺是心院跡2     鰐淵寺是心院跡3     鰐淵寺是心院跡4     鰐淵寺是心院跡5
 鰐淵寺是心院跡6     鰐淵寺是心院跡7     鰐淵寺是心院跡8
 是心院跡11◇     是心院跡12◇     是心院跡13◇     是心院跡14
 是心院跡15◇:立手水鉢、役石、飛石、短冊石      是心院跡16◇:庭園石組跡      是心院跡17◇:軒先手水鉢
密厳院:明治維新で無住、明治30年の写真には写らず。
 鰐淵寺蜜厳院石垣     鰐淵寺蜜厳院入口石階     鰐淵寺蜜厳院石垣2
 密厳院入口石階2◇     密厳院跡
現成院:明治25年無住、昭和20年の後も暫く堂舎は残るも、何時しか退転。
 鰐淵寺現成院入口石階     鰐淵寺現成院入口石垣1     鰐淵寺現成院入口石垣2
 鰐淵寺現成院跡1         鰐淵寺現成院跡2          鰐淵寺現成院跡3
 現成院跡4◇     現成院跡5◇     現成院跡6◇     現成院跡7◇     現成院跡8
 現成院石階入口◇      現成院入口石階2◇     現成院入口石階3
 現成院跡9◇:立手水鉢、役石、飛石、付近には短冊石もあるが紅葉に埋もれて殆ど見えない。

○鰐淵寺伽藍:
根本堂:本尊千手観音及び薬師如来は33年に一度開扉する秘仏と云う。
 5×5間、入母屋造、正面軒唐破風付設、屋根杮葺。元禄4年(1691)の棟札写が収録されているが、建築様式上は18世紀中葉頃に下る建築と判断される。
 鰐淵寺根本堂1     鰐淵寺根本堂2     鰐淵寺根本堂3     鰐淵寺根本堂4     鰐淵寺根本堂5
 鰐淵寺根本堂6     鰐淵寺根本堂7     鰐淵寺根本堂8     鰐淵寺根本堂9     鰐淵寺根本堂0
 根本堂11◇       根本堂12◇       根本堂14
釈迦堂:3×3間、宝形造、向拝1間付設、屋根鉄板葺。寛文4年(1664)、同11年(1672)の棟札あり。近世には法華三昧堂と称する。
 鰐淵寺釈迦堂     釈迦堂2
鐘楼:懸かる梵鐘は昭和59年鋳造の模造品である。(重文梵鐘<寿永3年1183銘>は宝物殿にある。
 あるいは、現在は重文梵鐘を吊るようである。正徳3年(1716)棟札。
 鰐淵寺鐘楼1       鰐淵寺鐘楼2
 鐘 楼3◇         鐘 楼4◇        梵  鐘
常行堂:3×3間、寄棟造、向拝1間付設、屋根銅板葺。寛政7年(1795)の建立と云う。
 摩陀羅神堂:天保5年(1834)建立か。
 鰐淵寺常行堂1     鰐淵寺常行堂2     鰐淵寺常行堂3     鰐淵寺摩陀羅神
護摩堂:近世初期に焼亡し、現在六十六部回国紀念の青銅製阿弥陀如来露座仏(正徳5年1715銘)がある。
 鰐淵寺護摩堂跡

○竹林庵・宝蔵
竹林庵:明治維新後敗頽
 竹林庵跡1◇     竹林庵跡2◇     竹林庵跡3
 竹林庵跡4◇:跡地東北にある整地:竹林庵には建物(5間3尺×3間)と納屋(2間×1間3尺)があると記録されるので納屋跡であろうか。
宝蔵:詳細は不詳
 宝蔵跡1◇       宝蔵跡2

○蔵王堂道:
  蔵王堂道入口1:上部は巌王院跡      蔵王堂道入口2:右手前平坦地は浴室跡      蔵王堂道石階:石階頂部は七仏堂
 浴室跡:発掘調査中である。蔵王堂道入口を入りすぐ右は、上掲の「浮浪山鰐渕寺絵図」では浴室が描かれるので、浴室跡と推定される。
 発掘調査は2009年度から実施されている総合学術調査(全貌や経過の成果が良く見えない)と云うべき調査の一環と思われる。
  鰐淵寺浴室跡1     鰐淵寺浴室跡2     鰐淵寺浴室跡3:鰐淵寺川左岸から撮影
  浴室跡4
 ○制札場・遥堪峠道起点:
  上掲の「浮浪山鰐渕寺絵図」では、浴室の奥に塀重門、制札場が描かれ、ここが遥堪峠道の起点終点であったと推測される。
   遥堪峠越えの道は杵築大社に至る道である。
   浮浪山鰐淵寺絵図・部分図◇:制札場?付近部分図
    鰐淵寺制札場1:鰐淵寺川左岸から撮影
    鰐淵寺制札場2:中央を横切る石列と奥の石垣の間が 制札場(遥堪峠道起点)であろう。
    制札場・浴室跡
    制札場3◇     制札場4◇     制札場5◇     制札場6
   仏心橋:
    裏門から浮狼の瀧に至る道に架されていた仏心橋(石造)は昭和18年の水害で流失する。
     仏心橋跡1◇     仏心橋跡2
 鰐淵寺山王七仏堂:昭和20年の後も暫くは木造のまま残っていたが、昭和35年RC造で再建される。
  鰐淵寺七仏堂入口     鰐淵寺七仏堂跡    鰐淵寺七仏堂     鰐淵寺七仏堂内部:粗末な空の厨子があるのみである。
 鰐淵寺蔵王堂:写真撮影時、浮浪瀧は全く落水せず。
  鰐淵寺蔵王堂1     鰐淵寺蔵王堂2     鰐淵寺蔵王堂3     鰐淵寺蔵王堂4     鰐淵寺蔵王堂5

◎鰐淵山山容
 出雲北山山系南側:出雲北山山系を南側・客垣谷方面から撮影、左は天ケ峰、右手前は高鍔山、左奥が鼻高山であろう。写真中央部分の山を越えた北側に鰐淵寺は位置する。
 鰐淵山山塊1◇     鰐淵山山塊2◇     鰐淵山山塊3◇:鰐淵寺常行堂前より鰐淵山山塊を望む。
 出雲北山:2012/12/02撮影:斐伊川南神立橋から出雲北山(南麓)を望む。
向かって左のピークは弥山であろう。さらに西には八雲山があり杵築大社がある。中央やや左のピークは鼻高山であろう。その山の向う(北側)には鰐淵寺がある。

「鰐淵寺境内の分布調査・発掘調査」野坂俊之・石原聡 より
(「出雲鰐淵寺の歴史的・総合的研究 2009年度〜2011年度科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書」井上寛司、2012 所収)
 調査の結果鰐淵寺地形測量図全体図、和田坊跡・現成院跡・等澍院南地区詳細地形測量図を得る。
境内には絵図に見られない平坦面が残されるが、その数は10数箇所程度であった。また境内北東にある松露谷には歴代僧侶の墓地が形成されるが、その西及び北には幾つかの平坦面が見られる。さらに浮狼の瀧入口付近や境内南の山中にも幾つかの平坦面が見られる。
以上現段階では、現境内と其周辺では坊舎数は多いと云うことはできない。
 北院の想定地である唐川(境内から西北西約1.5km)では、坊舎の痕跡・遺物の散布が見られず、聞き取りでも遺跡発見情報が皆無であった。従って、北院は唐川とは全く別の場所に求めざるを得ない。


2007/09/14作成:2012/12/12更新:ホームページ日本の塔婆