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『年収300万円時代を生き抜く経済学』を読んで | |||||
森永卓郎 著<光文社単行本> | |||||
今から12年前になる、副題に“給料半減が現実化する社会で「豊かな」ライフ・スタイルを確立する!”と掲げた本書が発行された2003年当時、話題になっているのは知りつつ読んでなかったものを10余年経て手に取ってみた。いま安倍政権が改革の名の元に働いている数々の狼藉に対して苦々しさを通り越し、僕が怖れを覚え始めているのは、いつの頃からか、本来はそのようなものではないはずなのに、利権に立つのが“保守”で、理念に立つのが“革新”などといったイメージを付与するようになってくるなかで、竹中平蔵の主導するドラスティックな利権の再構成に対して平然と“改革”の名を冠した小泉政権が現れたことで“革新”という言葉が圧殺され、侮蔑的に“左翼”などと呼ぶ風潮が生まれ、世界に誇るべき平和主義を支えるリベラリズムが衰退してきたように感じていることの、今が末期症状のように思っているからだ。 だから、本書のまえがきに「建前上、それは日本経済が新しい時代に生き残っていくための「構造改革」であるとされている。しかし、その本質は、新興の金持ちが、旧勢力を追い落としていく一種の派閥争いに過ぎない。もちろん、金持ち同士の内ゲバに終始していれば問題ないのだが、この「戦争」は国民を巻き込んでいる。そして新興勢力が経済内戦に勝利した後、日本に現れるのは、「新たな階級社会」である。それは、一般市民が新興の金持ちに支配され、這い上がることの非常に困難な、安全で安心して暮らせる社会とはほど遠い社会なのである。…ところが国民は、このシナリオの本質に気付かずに、金持ち優遇社会への転換という「構造改革」を圧倒的に支持し続けているのだ」(P4~6)と記されていたことに大いに共感し、そこに示された5段階の仕掛けの第5段階域に今があることを痛感した。 安倍政権が掟破りとも言うべき金融緩和を行って自国の通貨の価値を下げて、政治献金企業最大手である輸出型の自動車産業を支援し、一時業績悪化が懸念されたトヨタを史上空前の2兆円黒字などという異常事態に導いたりしている。最近のトヨタのCMがソフトバンクも真似できないくらいの豪華キャストになっていることに幸福感を覚えられる国民が果たしてどれだけいるのかとTVを観るたびに苦々しい気分になる。 そのような金融緩和によって、大企業や一部の富裕層が多額の資産保有や国債引受けのできるだけのマネーサプライを政府が日銀に押し付けて、国債による借金を膨らませ、多額の金融資産の保有を果たした富裕層のためとしか思えない“株価上昇に対して過度に集中した経済政策”を断行している。 そのためには、もはや富裕層にとっては必要のない年金のための基金に大きなリスクを取らせてまで株価上昇を企てるばかりか、金の為なら福島原発事故を経験したばかりなのに自国での再稼働の画策のみならず海外への売込みを国掛かりで行い、武器輸出を“防衛装備移転”などと言い替えて解禁し、本来の意味をないがしろにして“積極的平和主義”という言葉を使って煙に巻くような、まるで売春を援助交際などと言うのとほとんど同じ感覚で政治の言葉を弄んでいる。それらのことの全てが“金目”の一点に凝り固まっているという、実に恥ずかしくも情けない国に成り果ててきている気がしてならない。現政権の言う“美しい国”とはそういうもので、“取り戻す日本”というのは、財閥や地主が君臨した戦前の階級社会としか思えない状況になってきているので、なおさら著者の12年前の指摘が痛烈に響いてきたのだった。 つまり、小泉政権下のデフレ政策による“構造改革”によって「日本型システムをアメリカ型のシステムに変えてきた結果、インフレ経済への転換によって得られる全体のパイの拡大が、金持ちに独占されてしまう」(P108)と著者が指摘した“インフレ経済への転換”こそをいま安倍政権が上記のようななりふり構わぬ形で推し進めていることと実に符合しているということだ。小泉元首相自身は、原発政策については現在、むしろ積極的に異議を唱える側に回っているが、小泉政権時のほかの政策も推して知るべしで、要は“金目”の亡者たちの求める“ドラスティックな利権の再構成”に乗せられていたのだろう。 それにより「“完全雇用の達成”は、ずっと日本政府の最優先目標だった。“働く意欲と能力のある人に、もれなく雇用機会を用意する”ということは、社会の安定と発展のために欠くことのできない課題だから」(P27)との基本理念を捨て、大企業の経営効率を上げることに加担し、桁外れの高額報酬を恣にするCEOなどの経営責任者の創出とフリーターの急増を促してきている。この「リクルートの『フロムA』が1987年に名付けたもの」(P29)という「フリーターの急増が、日本の将来に禍根を残す」(P31)という指摘は、現実のものになっている気がする。いまは“非正規雇用”に呼称を変えているこれが潜在的、顕在的に引き起こしている社会心理としての“不安”が与えている社会コストの大きさは、計り知れない。「問題は、市場原理の強化という構造変化なのだ。この構造変化によって、サラリーマンの“安定”は失われてしまったからである。」(P109)と著者が記しているとおりの様相を呈するに至っている。 ドラスティックな利権の再構成による階級社会の取戻しに向けた初期段階の小泉政権による二大施策を著者は「税制改正の中身」と「不良債権処理の加速化」(P36)としている。 前者については、「2002年に決定された“税制改正”ほど、明確な政策意図が現れた改正は、過去になかったのではないだろうか。」(P36)とし、全体で1兆8000億円の先行減税について、「それだけ大きな減税をしても一般庶民に減税の恩恵はない。最大の減税項目は研究開発減税だ。…日本の法人税の実効税率はこれまでの相次ぐ減税の結果、すでに米国並みに引き下げられている。これ以上の引き下げが本当に必要なのかについては疑問がある。 さらに、これだけの大不況のなかで、大きな研究開発投資を行えるのは、勝ち組企業に限られている。そして、そうしたところに限って資金的な制約はないのだから、研究開発減税をしたところで、研究開発投資が活発になることはほとんど考えられない。結果として、勝ち組企業の内部留保を厚くするだけに終わる可能性が高いのだ。」(P37)と明快に、昨秋発行されて注目された『税金を払わない巨大企業』(富岡幸雄 著<文春新書>)においても指摘されていた大企業優遇策を問題にするとともに、「二つ目は相続税の減税だ。」(P37)として「相続税の最高税率を引き下げても、恩恵を受けるのはごく限られた「大金持ち」しかいない。しかし、今回の税制はそこの優遇を優先させたのだ。 さらに、証券税制では、株譲渡益・配当・投信の収益分配金の税率を20%に順次統一していく。また5年程度は10%への軽減措置も採るとしている。これも、一般庶民は証券投資をほとんどしていないから、減税の恩恵はほとんど及ばない。」(P38)とし、さらに増税のほうにも言及したうえで、「本当にデフレから脱却しようと、デフレを解消しようと思うのなら、金持ちに増税して、一般庶民に減税しなければならない。それなのに小泉税制改革は、明確にその逆をやっている」(P40)と、当時から“トリクルダウン”などと言って目くらましをしていた竹中平蔵たちの魂胆を的確に衝いていた。 後者については、「●「不良債権処理」加速化という悪夢」(P41)という項目を立てて説明し、その根本となる「景気は回復しない。不良債権も減らない。企業倒産や失業は増えていく。何ひとつ良いことが起こらない金融再生プログラムをなぜ強行しようとするのか」(P48)について、「小泉改革の正体が「金持ちをますます金持ちにする」ことになるのだとしたら、この金融再生プログラムは実によくできている」(P48)と断じ、その「目指す金持ち優遇策というのは一体どのようなものなのか。それは章を改めて整理していく」(P49)として、第2章に、①ITバブルを起こして、成り上がるための「頭金」を作る ②デフレで企業を追い込む ③不良債権処理を強行して、放出された不動産を二束三文で買い占める ④デフレを終わらせてキャピタルゲインを得る ⑤さらなる弱肉強食社会へと転換する ⑥国民に反論させないための「罠」を仕掛ける との「“カネの亡者”が日本を階級社会に作り変えるシナリオ」(P53)について、詳述している。 この第2章「日本に新たな階級社会が作られる」を読んで、大いに腑に落ちたのは、日本のエスタブリッシュメントたちが何故、あそこまでアメリカに追随し、日本をアメリカの第51番目の州にしたがっていると揶揄されるほどにアメリカ型を志向するのか分らず、敗戦ショックによる負け犬根性だとか言われたりする度に「そんなものではないだろう」と感じていた僕の積年の疑問に対する回答だった。 著者によると、「彼らには共通点がある。それは大人になってからのアメリカへの留学経験を持っているということだ。…官庁や大企業からの派遣留学生や駐在員…は、言ってみれば受け入れ国にとってお客さんである。彼らは黄色人種としていじめに遭うようなことはなく、むしろ歓迎されるのである。だから彼らは途端にアメリカのファンになる。 さらに、アメリカの学者やビジネスマンたちと付き合うと、彼らのあまりのリッチさに日本人はみんなカルチャーショックを受けてしまうのだ。…それを見て…アメリカのエリートのように、エリートにふさわしい生活をしなければならないのではないかと思うのだ。 日本との余りの生活ぶりの違いにショックを受けた彼らの結論は一つだ。日本をアメリカに変えてしまおうということである。」(P52~53)なるほど、同国日本の一般庶民よりも、異国人であれ同じエリート同士としての同一視のほうに向かうほうがむしろ自然なのかもしれない。彼らの多くが装っているナショナリズムとは、むしろ反対方向にある心性だ。道理で、彼らの標榜するナショナリズムに本音の響きが感じられずに、装いのように映るわけだと納得した。 そして、「成果主義というのは、ごく一部の人の処遇を想いきり高くするためのシステム」(P87)だとして、「ベアゼロはおろか、定昇さえも凍結を考えよと言う。さらには、春闘の“終焉論”まで掲げているのだ」(P85)と、経団連が2002年に発表した2003春闘に向けた指針である「経営労働政策委員会報告」を批判し、「戦後の日本の歴史のなかで、これだけ経営者が暴走した時代があっただろうか。デフレで労働力需給が緩むなかで、「文句があるなら代わりはいくらでもいるんだぞ」という強者の論理がまかり通っている」(P86)と評していることに共感を覚えた。 そういった“強者の論理”がまかり通っている理由についても、「いまの小泉政権が行っている“デフレ下の構造改革”が、これまでの平等社会を破壊し、弱肉強食社会を作ろうとしているのに、いったい何故国民は小泉改革を支持するのだろうか」(P88)との自問への回答として述べていたが、そのなかで特に印象深かったのが「発言力の強い人が、弱い人への思いやりをなくしている。それが、いまの日本だ。そういう意味では、政府も財界も政界もそしてマスコミも足並みを揃えているのだ」(P93)と核心を衝いていた。「だから経済強者の評論家たちは、意識的か無意識的かは別にして、デフレを進めたいのだ」(P92)し、それによって12年前に「日本型システムをアメリカ型のシステムに変えてきた結果、インフレ経済への転換によって得られる全体のパイの拡大が、金持ちに独占されてしまう」(P108)と指摘されていたことが罷り通っている。 マスコミの関心が一般庶民と大きくズレていることを僕が痛感したのは、ペイオフ問題として「預金保護が1000万円まで」となることを騒ぎ立てたときだった。大変なことになったかのように報じていたが、1000万円を超える預金を保有している一般庶民がどれだけいるのだろうかと滑稽でならなかった。そのことについては、ケン・ローチ監督の『天使の分け前』['12]の映画日誌や内橋克人著の『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』['07]の読書感想文、西川美和監督の『ディア・ドクター』['09]をめぐる談義などにも繰り返して記してあるから、よほど印象深かったのだと思う。 そして、そういうマスコミを操ることに小泉政権が長けていたことを「小泉首相が巧みだったのは、“シャーデンフロイデ”をうまく演出したことだ。“他人の悲しみを喜ぶ”という恐ろしい言葉は、もともとドイツ語だが、そのまま英語にもなっている」(P97)との記述に思い出し、4年前に読んだ『政党が操る選挙報道』(鈴木哲夫 著<集英社新書>)で名の挙がっていた小泉政権当時の“自民党コミュニケーション戦略本部の世耕参議院議員”が現政権で、竹中平蔵パソナグループ取締役会長ともども重用され「“カネの亡者”が日本を階級社会に作り変えるシナリオ」(P53)の仕上げに掛かっていることに憤懣やるかたないものを覚えた。 その「市場原理主体の経済構造への転換が完成したあと、姿を現す経済社会の実態をみていく」(P105)とした第3章「1%の金持ちが牛耳る社会」において大いに共感を覚えたのが、著者が「アメリカ型社会」に反対する理由だった。「問題は、市場原理の強化という構造変化なのだ。この構造変化によって、サラリーマンの「安定」は失われてしまった」(P109)、「経営者に有利な制度改正が進む一方で、サラリーマンの生活を安定させてきた働く側の権利はどんどんと失われていっている」(P112)、「それはレーガン政権で市場原理が強化されたアメリカで起こったことと基本的に同じなのである。いま日本は確実にアメリカ社会への道をばく進している」(P114)としたうえで、「謙虚と思いやりと調和を重視する日本社会と違って、アメリカは、積極的に自分の権利をアピールしないと生き残れない社会だ。道に空いた穴で転んだと言っては市役所を訴え、たばこを吸って肺ガンになったとたばこメーカーを訴える。 小学校でも、積極的に手を挙げて質問や意見を言わないと評価されない。くだらない質問をして、授業のペースを乱すことなどに気を遣ってはいけないのだ。しかし、仮にそうした行動を取ったとしても、仲間にしてもらえるわけではない。彼らのルールのなかに収まるというのが存在を許される必要条件で、あくまでもWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)が実質的に支配する社会なのだ。 だからアメリカ型社会への構造改革を行ったからと言って、アメリカと対等な立場にたてるなどということには、決してならないのだ。」(P118)としていた。 「アメリカの階級社会の大きな特徴は、社会的地位とお金が正比例しているということだ。つまり、アメリカでは金持ちイコール社会的地位が高いのである。 アメリカでは社会的地位の高い人には必ずお金がついてくるし、お金さえ稼げば社会的地位は後からついてくる。だからアメリカ人にとって社会的に成功するということは、高い収入を目指すこととまったく同じ意味を持つのだ。 日本の場合はそうではない。少なくともいままではそうではなかった。 大学教授になっても年収はせいぜい1000万円。助教授クラスだと、600万円程度というのもザラだ。ところが、日本の公務員の場合、例えばバスや電車の運転手とか清掃事業の現業部門の職員でも(大学教員と)同じ程度の年収を得ているケースがめずらしくない。 それが悪いと言っているのではない。むしろそのことが日本の社会的安定を確保してきたのだが、アメリカではそんなことは絶対にありえないのだ。」(P119)という部分は、大学教員のみならず警察官や学校教員、一般公務員など、公職に就いている者自体の社会的地位の低下が昨今は著しく、既にほとんどアメリカ型に近くなっているから、今となれば「日本の場合はそうではなかった」と読み替える必要があるような気がした。 また「ヨーロッパの普通の市民にとって、人生の目的とは「いかに楽しく人生を過ごすか」ということなのである。だから、年次有給休暇は全部消化するし、残業もしない。そして定年年齢を早めて、一日でも早くリタイアしようと考えている。」(P121)との記述が、グローバル・スタンダードという名のアメリカン・スタンダードを意味する言葉が日本でやたらと使われるようになった時代を経た今なお、ヨーロッパが本書に記されているような形であり続けているかは疑問があるが、「本当の豊かさとは世界中を飛び回って土産を買いあさることではなく、田舎のひなびたホテルのプールサイドとかカフェのオープンテラスで、一日ゆったりと本を読んで過ごすことではないのだろうか」(P124)という部分には、今なお通じる普遍性を覚えるし、大いに共感した。 そして、「家が貧しくても能力があって努力を惜しまない若者を救う日本的な仕組みがどんどん失われてきた…日本では、昭和20年代、30年代までの社会の二重構造が大きな問題だと言われていた。それは給料が高くて雇用の安定している大企業の社員と、そうではない中小企業社員の間の格差を示していた。 この二重構造を解決することが、戦後の長い間、日本の最大の政策課題だと言われてきたのである。…ところが、このところまったく形を変えた新しい二重構造が出現している。それは企業規模間というより、(正規非正規という[私注])個人間の所得格差の拡大である。…いま産業構造は、確実にサービス産業化(モノからの遊離[私注])してきている。ということは、放っておいても所得格差は拡大する方向になっていくということなのだ。…(しかも[私注])報酬の単価で差が生まれるだけでなく、仕事の量でも差が生まれる。だから、知的創造社会化は、半端ではない所得格差を生み出すのである。…だから、知的創造社会化が進むなかで社会の安定を保つためには、高額所得者から一般庶民への所得の再分配を強力に仕掛けなければならない。金持ちから思い切り税金を取って、それを一般市民に分配しなければ、社会の平等が確保できないのだ。 ところが、これまでみてきたように、いま日本政府はまったく逆の分配政策を取り始めている。金持ちに減税して、一般庶民に増税していこうとしているのだ」(P130~P133)と指摘したことの進んだ現在において、株価上昇に特化した経済政策というか、経済政策を装った株価操作に奔走しているように映ってきて仕方のない有様となっているわけだ。 今後の日本社会について、著者は「所得の三層構造化」が現実化し、「1億円以上稼ぐような一部の大金持ちと、年収300万~400万円ぐらいの世界標準給与をもらう一般サラリーマンと、年収100万円台のフリーター的な人たちの三層構造」(P135)になるよう、「かつて中流と言われたサラリーマン層がリストラのたびに低賃金労働層に落ちていき、新卒者は正社員としての就職を経ないままで低賃金層に入っていく」(P137)とし、「親の経済力、年収階層の差が、そのまま子供の学力差となって現れてくる(ことで)、エリート階層は自分の子供をエリート学校に入れる。そういう形で金持ちの階級が再生されていくのが、新階級社会なのだ」(P141)との予見を述べているが、概ねそのとおりになってきていると僕は思う。これにより、「都心に不動産を持つ経済強者たちは、どんどん資産価値を増やす一方で、郊外に住む一般市民たちの資産価値は着実に減っていく」(P142)そうだから、都会と地方都市ではさらに大きな格差が生じるのだろうし、「日本には戦後アメリカのようなスラムは存在しなかった。それが今後、高級住宅地とスラムに分れ」(P142)、「新階級社会では、食べ物に関しても、金持ちは安全な物を食べ、低所得者層は危ないものを食べさせられるようになる」(P143)し、「経済力の差が受けられる医療の格差を生むという二極化が進む」(P144)とも言う。「そのモデルもアメリカ」(P144)というわけだ。 そして、もはや「景気が回復しても、企業は以前のように正社員を採用しない」と断言する。「失業率は改善したとしても、「仕事はあるが低賃金」というような仕事ばかりが増える。一方でエリートはエリートとして、今後もずっと終身雇用を保証される。基本的にはやはり階級分化なのである。」(P152)というのは、今後ではなく、いま現在になっている気がしてならない。「会社が言う「成果主義」というのは、いわばお題目に過ぎない。何度も言うが、能力主義・成果主義が強化されるということは、特定のエリート階層だけが受け取る分け前を増やしていこうという意味なのである」(P153)。かくして高額報酬のCEOが居並ぶこととなった。 最終章の「4章 年収300万円時代の「豊かな」生き方」とは、要するに、価値観・発想の転換の勧めであるが、30年来、月の小遣い2万円で過ごしてきた僕にしてみれば、ある種、時代を先取りしてきた気がしなくもなかった。「もういままでのように収入が増えていく時代ではない。収入が減っていくのは避けられないし、いままでのような「安定」は失うとしても、すでに日本は物質的には十分に豊かなのだ。物は溢れるほど持っている。生活のリストラをしても、それほど生活水準が悪くなるわけでもない。 それなのに、“負け組”になる不安に怯えながら毎日走り回るような生活を続けるのか。あるいは“勝ち組”になるという幻想を捨てて、自由な時間を余裕を持って楽しめる生活を求めていくのか。 私は後のほうがすっとまともだと思う。“負け組”になることを恐れ、何とか“勝ち組”に残ることを目標とした人生は、手段と目的を取り違えていないだろうか。 私は、エリート・ビジネスマンは社会の“必要悪”であると思っている。24時間操業で働き、ビジネス・ジェットに乗って世界中を飛び回り、月に1~2回しか家に帰れないほど働く人は、社会には必要だ。だが、彼らのようなライフスタイルを全員が踏襲する必要性はどこにもない」(P198~P199)としてあることは、僕もその通りだと思った。 だが、そういう価値観・発想の転換とともに、やはり階級分化を志向する世の中の動きに対しては、諦めずに「ノン」と言っていかなくてはいけないのではないかと思う。奇跡の復興と謳われた昭和の後半期、僕は、本当の奇跡は、旧に復する復興ではなくて、シャウプ税制からスタートしたことで果たされた一億総中流社会の実現だったように感じている。世に言われるように高度経済成長が支えた面もあるけれども、それが一番の理由ではなく、過度の富裕層を生み出さない税制による所得徴収(赤字国債ではなく)によって“公共投資や産業振興という仕事と雇用の創出”を果たして、(福祉的給付ではなく)失業率を抑える形での再配分を行ったことで、世界にも類例のない“国民の経済観念と経済活動の同質性”を実現したと観ている。それは、ある面においては、ちょうど24年前に求められて寄稿した『今 私が思うこと「ソ連邦崩壊」』で言及したようなマイナス面も生んだように感じているが、今のような時代を迎えてみると改めて、本当に掛け替えのないものだったように感じる。 僕とは同学年となる生年の著者は、都会と地方の違いはあっても、同時代を過ごしてきているからか、最後に「あとがき」で述べていることが本当に良く沁みてきた。曰く「日本は良い国だったと思う。商店街が賑わって、近所のおじさんやおばさんの顔には、いつも笑いが溢れていた。みなが、周りのことを気遣い、一歩引いてお互いを傷つけないような優しい文化があった。 それが、いつの間にか、自分の利益しか考えない、カネの亡者たちに、経済も社会も支配されるようになってしまった。「弱い者は市場から退出せよ」。強者のその声を聞くたびに心が痛む。なんて貧しい心なのだろうと思う」(P205)。本当に、そのとおりだ。 参照テクスト:マイケル・ムーア 監督 『キャピタリズム マネーは踊る』['09] 参照テクスト:古賀茂明 著 『官僚の責任』(PHP新書)を読んで 参照テクスト:佐藤優 著 『交渉術』(文藝春秋 単行本)を読んで | |||||
by ヤマ '15. 4.25. 光文社 | |||||
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