『ディア・ドクター』をめぐって
(ミノさん)
(スーダラさん)
映画通信」:(ケイケイさん)
(イノセントさん)
(TAOさん)
ヤマ(管理人)


  ◎掲示板(No.8149 2009/10/31 11:31)から

(ミノさん)
 ヤマさん、本当にこちらではお久しぶりです。携帯からなかなかヤマさんのサイトはアクセスが難しくて・・と言い訳しつつ。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、ミノさん。ミノさんに限りませんよ。時代の潮流は、ブログやSNSでしょうから。僕自身も掲示板への書き込みはめっぽう減りましたから、ここに限った話でもない気がします。

(ミノさん)
 『ディア・ドクター』拝読しました。プロフェッショナルの仕事、とかかれておられた辺り、非常に視点に興味を持ちました。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。
 僕は僕でミノさんがmixi日記に書いておいでた“恋愛視点”からの受止めが非常に新鮮で興味深かったです。

(ミノさん)
 医者は特権階級というか、もはや権威主義の代名詞的になってるのが、どの世の中でもそうだと思いますが、確かに人の命を扱う刑事との比較で言うと、ものすごくアンバランスですよねー。所得面でも、社会的地位でも・・

ヤマ(管理人)
 相通じる点が極めて多いだけに、そこの違いが際立つように感じました。僕は、作り手にその意識が強くあったように思います。

(ミノさん)
 でも、それ言うと、野球するだけで年収何億ってのが私には到底理解しがたい現象なので、人の世ってどうしてこう不均衡なんだろうと思います。

ヤマ(管理人)
 所得や社会的なステイタスという点での不均衡は、あちこちにありますが、やはり正職と派遣のような“同じなのに違う”というものとの比較すれば、野球選手と普通の一般的な職業の場合は、“同じなのに違う”ということにはなりませんよね。
 それはともかく、この野球選手の年収の件では、またぞろ昔の話になりますが、二十余年前のバブル時代に日本の一億円プレイヤーの誕生をマスコミが煽り促していた記憶がまたぞろ苦々しく蘇ってきます(苦笑)。TVやスポーツ紙を見てファン達が、あるいはコメンテイターたちが、落合にはそれだけの価値があるとか日本も大リーグ並みにとかって囃し立てていました。
 巷間でそれを話題にしている人たちの年収がいかほどだったのか知る由もありませんでしたが、2002年のペイオフ解禁を前にマスコミが掻き立てていた「全額保護措置が解かれる不安」にすっかり同調して騒ぎ立てている人たちの大半が、どう見ても1000万以上の預金保持者には見えない不思議を感じていたときのことと併せて、どうしてこうなんだろうと思いますね(笑)。

(ミノさん)
 医者でいえば、友人で、ある地元の大病院の息子が、小さい頃から医師である父親から「医者はこの世で一番えらい。なぜかというと、どんなえらい政治家でも、医者には頭を下げるからだ」といい続けられてうんざりして、医者にだけはなりたくないという風になったすです(笑)。そして今は無名の映画監督になっていますが・・(笑)

ヤマ(管理人)
 僕の同窓生には、勉強が嫌いで成績も冴えなかったのに、開業医の父親から年収を見せられて、俄然勉強に励み、しっかと医者になったというのがいます(笑)。

(ミノさん)
 資格ってなんでしょうねえー。そもそも人の命を扱う仕事って、また別の資格(お勉強とかでない実績とか)が必要な気がしてなりませんねー。

ヤマ(管理人)
 実績を積むためには、携わる必要があるわけで、資格要件に実績を置くことって、無資格従事を一定認めるのでなければ、その資格要件自体に矛盾が生じてきますよね。

(ミノさん)
 入り口ばかりを高くするよりも入ってからどうか、ということが大事・・ってなんか自分に言い聞かせてるみたいな気がしてきましたわ。アハハ

ヤマ(管理人)
 ○○活動の件ですかね?(笑)
 そーですよ、そうですよ。先ず入れてみて育てる気持ちが大事かと(あは)。


No.8150 2009/11/01 09:27
(スーダラさん)
 ヤマさん、どうも。スーダラです。僕も此方ではお久し振りです。
 あの刑事の存在は確かに効いていて、どういう位置に据えればいいのかなぁと思っていたのですが、なるほど主人公と同じ「プロフェッショナル」という視点もあるのですね。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、スーダラさん、此方ではお久し振りですねー。
 拙日誌から触発される何かを得ていただければ、それに勝る書き手冥利はありません。書き込んでいただけて、とても嬉しいです。

(スーダラさん)
 気になった点が2つありまして、
 まずペンライトのシーンですが、僕はあれを「伊野が個人的にかづ子と親しくなるためのもの」と見ました。ヤマさんが書かれてたような意味はありつつも、あの二人は僕の中では突き詰めて言うと「男と女」でした。かづ子が伊野の来訪に合わせて口紅を塗ったり、診察されるお腹を摩ったりする表情が、まるで乙女のような可愛さで、僕はすっかり惚れてしまいました(^_^;)
 あと刑事の取調べに対しての「なにもしてくれなかった」も掌を返した言葉ではなく、伊野の共犯者としての弁護であったと感じられました。(ここはヤマさんも同じなんですかね?
 そして、村全体が同じように共犯者として彼を弁護し、最後には刑事も、何となくそういう雰囲気を感じて、何かを飲み込んだのではないかと。
 臨終を看取ったと思ったら、またその老人が息を吹き返してしまったシーンがありましたよね。あれも明らかに伊野と、そのまわりの人が共犯者になることで、あの状況ならではの医療行為が成立しているように見えて、僕の中ではとてもリアルでした。
 皆が本音を語って、最後までマジメに本気を出してたら、あの村は立ち行かなくなっちゃいますよね。そのあたりのリアリティが、とにかくハンパじゃなかったです。

ヤマ(管理人)
 まずペンライトのシーンを「伊野が個人的にかづ子と親しくなるためのもの」と見ての「あの二人は僕の中では突き詰めて言うと“男と女”」との受け止めに関しては、ミノさんもTAOさんも、かづ子が伊野に寄せる恋愛感情についてmixi日記で言及しておいでたように思いますが、スーダラさんには、伊野のほうにも女としてかづ子を求める想いがあって、さればこそ、あのような小細工をしてまで接近を試み、医療従事者を装うのなら何より避けるはずの“禁断”を犯したように映ってきたということなんですね。
 かづ子の側のそれには僕も大いに了解を覚えるのですが、伊野の側にもそれがあったというのには、かなり意表を突かれました。スーダラさんは、かづ子のまるで乙女のような可愛さにすっかり惚れてしまったとのことですが、さすが八千草薫ですよね。かづ子さんに惚れたスーダラさんは、伊野に御自身を投影なさったのでしょうねぇ(ふふ)。

 彼女の刑事の取調べに対して返した言葉の解釈については、全く正反対の受止めです。弁護どころか、共犯者にされたくないがゆえの“被害者としてのアピール”だと受止めました。だからといって、無免許だった伊野への恨みも怒りも悪意も害意もなく、自分に共犯者としてのお咎めが及ぶことさえなければ、すべてOKなので、刑事に対して自分がどういう証言をしたかなんてことは、記憶すらなく水に流して、伊野との再会を喜ぶことができるのが人間というものの実相なんだろうと思いました。
 そして、このあたりの人間観察の確かさというのが西川美和のおそるべき資質だと見てます。しかもそういったことを感知しながら、決して露悪的に批判めいて語らない彼女の作風の冷静さに僕は痺れていました。

 最後には刑事も何かを飲み込んだのではないかとのご指摘については、僕も、かづ子と刑事はもしかしたらそうかもしれないと思います。刑事は、プロをきちんと知るプロでしたから。かづ子が手遅れになって死亡してしまっていれば別でしょうが、そうでなければ、そこでの使い分けはしそうに思います。でも、村人たちはどうだったのでしょう? 彼を弁護しているとは、僕は受止めませんでした。
 端的な描かれ方をしていたのが村長(笹野高史)だったように思います。伊野が町の救命救急医(中村勘三郎)から、村の診療所医とは思えない見事な処置だと折紙を付けられ、おらが名医だと持て囃されていたときに、鼻高々で自分が見出したんだとアピールするのに熱心だったのが、まさかの免許偽造に狼狽し、己が保身と免責のことしか考えてませんでしたよね。プロの敏腕刑事が何か感じ取ったとしたら、事件の真相を暴き立てることの実益のなさと却って被害をもたらすことへのバランス判断ともいうべきものでしょうか。

 臨終を看取ったと思ったら、またその老人が息を吹き返してしまった場面についての受止めは、僕もスーダラさんと同じです。伊野が相馬をさりげなく制止する姿に明確に現れてましたよね。でも、確信的共犯者になれるのは、上記の刑事にしても、ここでの伊野にしても、やはりプロとしての力量と資質を備え磨いた技術者のみであって、免許は持っていても新米の相馬とか、ましてや素人の村人やかづ子などは、その職務責任に関わることにおいて共犯者にされることに怯えはしても、引き受ける覚悟など決してないように思います。せいぜいで見て見ぬ振りするだけで、情勢が変われば、一変するのが大半の人間の常だと僕は思っています。

 皆が本音を語って、最後までマジメに本気を出して村が立ち行かなくなっちゃうあたりのリアリティについては、確かにそうでしたねー。
 阿吽の呼吸のなかで白黒を呑み込むことが必要な領域があるのは、何も僻地の農村に限ったことではないので、「KY」などという品のない言葉が流行したりもするのでしょうが、おっしゃるような意味では、僻地の村のほうが生き延びる力において、便利な都会と違って、なければないで何とかしていかざるを得ないので、強かにしぶとく逞しく備えているように思いますねー。


No.8153 2009/11/01 20:08
(ミノさん)
 この「なにもしてくれなかった」というセリフ、面白いですねー。ヤマさん、スーダラさん、私と見え方が・・私はスーダラさんと似た見え方をしてます。

ヤマ(管理人)
 そのようですね。皆それぞれ違ってますね。みなさんの受止めを伺って、けっこう驚きました。さすが八千草薫では済まないところがあるのだなぁと(笑)。

(ミノさん)
 「被害者としてのコメント」というのも、「そう演じるしかないので」している風だし、私のmixiの日記への、ヤマさんのコメントのレスにも書いたのですが、多くの人が、家族が末期を迎えた時に、当事者が望むと望まざるに関わらず、あれやこれや専門家を訪ね、大騒ぎするのと比較して、「何もして欲しくない。静かに最後を迎えたい」かづ子の気持ちを察して共犯者になってくれた伊野への感謝の気持ちがああいう表現に込められていると聴こえました。

ヤマ(管理人)
 それだったら「何もしないでいてくれました」とか「私がお願いしたんです」とかってのが、あるのが普通だろうなどと僕なんぞは思ってしまいます(たは)。

(ミノさん)
 この映画、かなり記憶が古いんですが、確か刑事の問いかけの内容が、「あなたに対して医療的にきちんとやるべきことはやっていましたか」的な質問だったのではないかと思います。

ヤマ(管理人)
 まさしくその通りの質問だったように僕も記憶しています。

(ミノさん)
 それにたいして彼女が、「なんにもしてくれませんでしたよ」と答えたのでしたっけ・・

ヤマ(管理人)
 はい、僕の記憶では「なんにもしてくれませんでした」と、「よ」が抜けているのですが(笑)。

(ミノさん)
 私は、彼女と伊野は共犯者であって共犯意識もあるので、刑事に問われればこう答えるしかなかったのかなあと見えたんですね。

ヤマ(管理人)
 ほう。逆に「きちんとやってくれてた」と答えると、何かまずいことが生じるたりするのでしょうか?

(ミノさん)
 うーむ。「きちんとやってくれた」を言うとウソになりますね。自分が依頼して「きちんとしない(何もしない)」ように仕向けてるんですから。

ヤマ(管理人)
 だから、「(頼んだことを)きちんとやってくれた」ってことですよ(ふふ)。

(ミノさん)
 ヤマさんの言うような答え方をすると、自分と伊野の間の秘め事とかそういうのも秘密じゃなくなる感じ?なんでしょうかね。わかんないですけど。

ヤマ(管理人)
 それはそうとも言えないんじゃないですか? 「なんにもしないでいてくれました」って答えて露になる秘め事って 別にないような気がしますよ、僕は。


-------人の口から発せられる言葉と意識、その受け止めと解釈-------

(ミノさん)
 娘だったり、医療従事者では、立場上、ガンであると聞かされれば、放っておけない。私も娘だったらそうするでしょうし。

ヤマ(管理人)
 それはそうです、ダブルですもの。医療従事者+身内ってことでね。奇しくもお書きのように「立場上」ってとこが、本人にとっての善し悪し以上に、放置すること自体を避けさせるでしょうね。誰にとっての「立場」かってのが大きなポイントですよねー。

(ミノさん)
 でも身内でもなく医者でもなく、「ニセ医者」である伊野はその間にいて、彼女が望むようにして、寄り添うことが出来たただ一人の人物だった、そして彼女もそれを知っていた、わかっているからこそ、感謝の念が生じてくるんですよね。だからある意味、彼女にとっては「神様」であるとも言えるわけですよ。

ヤマ(管理人)
 彼女は、伊野が偽医者だとは知らなかったと思いますし、伊野にしても医師免許を持っていないから寄り添えたというものでもないとは思いますが、伊野が自分の望みに寄り添ってくれたことは他ならぬ彼女が一番知ってましたよね。だからこそ「なにもしてくれなかった」は、ないんじゃないの?って僕は思ったわけです。彼女が伊野に対して感謝を覚えてなかったとは僕も思っていないのですが、でも、その言葉の背後に感謝の念が窺えるようには感じられませんでした。

(ミノさん)
 「なにもしてくれなかった」と書き言葉で書くと、えらく恩知らずな言葉に見えますが、「なにもしてくれなかった(なにもしないで寄り添ってくれた)」という心の言葉が、飲み込まれたように表現された言葉に聴こえましたねー。まあ、このへんは超個人的でしょうね。

ヤマ(管理人)
 そうですね。僕は、自分がそうは思わなかったせいか、そのように聞こえたとの意見を伺うと、八千草薫の力のように思えたりしたのですが、むしろ男女観のほうかもしれませんね(たは)。

(ミノさん)
 私が彼女でもああいう風な答え方になると思ったんです。

ヤマ(管理人)
 ほう。ミノさん=八千草薫説(笑)。失礼、ずっとずっとお若いですよね〜。

(ミノさん)
 ところで、ヤマさんは彼女と伊野の関係性はどう映りました? 最後の彼女のあの微笑みは・・セリフにとらわれすぎるとわかんなくなってきますね(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕において、伊野にとっての彼女は、ちょっと訳ありの事情を抱えた普通の村人としての患者の一人という感じで受止めていました。最後の微笑にしても、行方知れずの世話になった人に思いがけなく再会できた笑顔くらいでしたね。作り手が映し出したかったのは、刑事に訊かれたときの答の冷ややかさとの対照だと思ってます。どちらにも深い意味はなく、しかも嘘でも演技でもないとこがミソなんです。

(ミノさん)
 私は、常々、「身内のためにアレコレする声高さ」と「何もしないでただ寄り添う」という姿勢において、前者が圧倒的に強いっていうことに違和感を持っていたので、「末期ガンを治すためのアレヤコレヤ」をしないで、相手の希望に寄り添うことにした伊野の選択ほど、患者にとってありがたいものはなかろーって思いながら観てましたからね・・

ヤマ(管理人)
 おっしゃるところの違和感については、僕もそうです。後者の価値、知らないんじゃないかとか、本音は自己満足なり己が体面のためなんじゃないかとか、とにかく天邪鬼ですから、素直に同調できないほうです。その点では、今日観てきた『私の中のあなた』が非常に興味深い作品でしたよ。

(ミノさん)
 これ見たいんですよー。手が廻らないけど。

ヤマ(管理人)
 それは残念。でも、患者にとって何が一番ありがたいかについては、僕も全く同じです。むしろ、だからこそ、かづ子の証言がトホホだったんですもの。

(ミノさん)
 死に行く人にとって、何が魂の救済になるかってわかんないですよね。バイブルなのか、エロスなのか、はたまた先進的医療にすがることなのか・・

ヤマ(管理人)
 それはそうですねー。でも、そのことと刑事の質問に対する答え方とは別物です。それほどに、人の口から発せられる言葉というのは、鵜呑みにできない当てにならなさがあるように思うんですよ。

(ミノさん)
 ですよねー。聞き出す人間によって、全く違うものが引き出されるものですよね。

ヤマ(管理人)
 医師にしても刑事にしても、問診力、尋問力が問われる所以です。

(ミノさん)
 自分であっても、対面する人間によって、全く違う発言や世界観が引き出されるのを体験すると、本当に自分の発する言葉そのものに過剰に期待するのってやめようとか思っちゃいます。特に私はね。

ヤマ(管理人)
 え? 売り言葉に買い言葉みたいなことでなくて、ミノさんもそんなになったりするんですか? 相手によって右翼装ったり左翼装ったりって?(笑)

(ミノさん)
 いや、そんなに右往左往しませんけど。

ヤマ(管理人)
 うまい! 一枚、やっとくれってね(笑)。

(ミノさん)
 割と引き出される局面が大きく違うことがありますね。まあ、相手次第だな、といつも思います。

ヤマ(管理人)
 あぁ、それは誰しもにあることでしょう。僕だって、そうですよ。そのこととブレとは違う気がするんですが。

(ミノさん)
 ヤマさんはブレないけど、私はすぐブレるから(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕の言うことにはブレがないとおっしゃっていただけるのは、ありがたくも畏れ多いですが、確かに一貫性には囚われがちなとこありますな(たは)。

(ミノさん)
 私なんか、書き込みの最初と最後でさえ、違うこと言うてるやん、と思うことありますし、…

ヤマ(管理人)
 僕は、さすがにそれはないかも(苦笑)。

(ミノさん)
 人が書いてることで、自分の思ってたこと吹っ飛ぶなんか、しょっちゅうですよ。

ヤマ(管理人)
 僕の場合、吹っ飛ぶということはありませんが、目を開かれるとか、思わぬ視点に感心させられるとかは結構ありますね。今回のミノさんの恋愛目線にしたってそうでした(あは)。

(ミノさん)
 伊野がかづ子に恋愛感情を抱いていたかどうかは、そうはっきり定義づけられるものではないですし、「親不孝している」母親への代償行為なのかもしれませんし。私は二人の中に「誰にも説明しにくい温かい交流」があると見えました。名づけるのは難しいですね。

ヤマ(管理人)
 僕は、他の患者と比較して特別な個人的感情を抱いているとは観てなくて、彼の患者に対して接する基本的な態度に“温かい交流”があるのだと思って観ていましたが、親不孝している母親への代償行為というのは、確かにあったかもしれませんね。

(ミノさん)
 ただ、かづ子が口紅をさしたり、スーダラさんが書いているように、乙女のような表情をするあたりは、やはり淡い恋情があってそれがこの映画をすごく色気のあるものにしてましたよね。

ヤマ(管理人)
 それには同感です。僕はそこのところを看過して、もっと違うところに目を奪われていましたが、かづ子のほうには、そういう感情はあったろうと思います。

(ミノさん)
 あと、私はこれは根拠がないのですが、村人が「手のひらを返したようなコメント」をしているのは、やはりプライドからであって、心の中でも「ニセ医者にだまされた」感情だけか、というとそうではないだろうな、と思いましたねー。確かに手のひらを返すのが人間でもありますが、多分、伊野がしてきたことは、村人の間には、ビジネスでは割り切れないものがあったと思うので・・

ヤマ(管理人)
 それは僕もそう思っています。
 だから、かづ子や村人がひどい人たちだという気は更々ありません。むしろ人間というのは、そういうものだろうと思ってて、彼らが特段にひどいのではありません。だからこそ、聞き出しの難しさということのほうが強く印象に残るわけです。そのあたりの按配というか、描出の的確さに舌を巻きました。西川美和、やっぱ凄いですよ。



-------ケイケイさんの掲示板を訪ねて2009年11月 3日(火)09時34分-------

ヤマ(管理人)
 ケイケイさん、こんにちは。

(ケイケイさん)
 ヤマさん、こんばんは。

ヤマ(管理人)
 すっかり遅くなりはしたのですが、『ディア・ドクター』の拙日誌をアップしたので、お読みいただければ幸いです。ケイケイさんがこの映画をご覧になったのは、もう四ヶ月も前のことなんですよねぇ。地域格差が身に沁みます(とほ)。医療問題の深刻さとは、比べ物にならないでしょうが(笑)。

(ケイケイさん)
 本当に何故高知がこんなに冷遇されているのか、わかりません(怒)。

ヤマ(管理人)
 高知は、地方都市のなかでは、まだ恵まれているほうだと思いますよ。都会と地方の差は、それだけ大きいということです。

(ケイケイさん)
 自主上映が盛んですもんね。でもロードショー公開の時、この作品は高知で公開されるかな?と、HPでチェックしますが、だいたい四国は香川か愛媛なんですよね。

ヤマ(管理人)
 そうなんです。映画館レベルでは、高知は最下層地の一つなんですよ。だから、自主上映が全国一盛んなんでしょうね。

(ケイケイさん)
 『母なる証明』も、本当に観ていただきたい作品です。

ヤマ(管理人)
 これ、何ヶ月か前に、あたご劇場のおじさんから、チラシを貰ったので、やるつもりがあるんだろうと思いますが、地方の鄙びた小屋には、まだ回してもらえないだろうと思います。

(ケイケイさん)
 あたご劇場さん、頑張ってますね! 私も高知を訪れる時は、是非お邪魔したいです。

ヤマ(管理人)
 もちろん御案内します。今やってるのは、大川隆法作品ですが(笑)。

(ケイケイさん)
 ヤマさんの日誌は、既に拝読済みですよ(^v^)

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。僕もケイケイさんの映画日記を拝読しました。

(ケイケイさん)
 ありがとうございます。

ヤマ(管理人)
 長文になりすぎた拙日誌では言及できなかった“娘りつ子にスポットを当てておいでの部分”がとても嬉しく感じられました。この作り手の視線の全方位性というかバランス感覚って、本当に凄いと思います。

(ケイケイさん)
 私も長文になり過ぎて、八千草薫のことに触れるのがしんどくなって、止めました(笑)。この二人の関係より、私は娘の気持ちのほうが心に残ったということですかねぇ。

ヤマ(管理人)
 ケイケイさんが娘なら、僕は刑事ってとこで、僕にとっても、かづ子と伊野の関係というのは、メインテーマではありませんでした。
 ところで、ケイケイさんは、拙サイトの掲示板で今話題になっている、かづ子の「なにもしてくれなかった」という言葉をどのようにお聞きになりましたか? 教えていただけると嬉しいです。

(ケイケイさん)
 これね、私も書きたいと思ってたんですが、

ヤマ(管理人)
 あ、そうでしたか。そいつは嬉しい。

(ケイケイさん)
 今仕事でサンドバック状態のようにボコボコにされているので疲れ果て(笑)、書けなかったんです(お詫び)。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。それは残念。

(ケイケイさん)
 かづ子は「なにもしてくれなかった」ではなく、「いえ、なにも・・・」と返答していませんでしたか?

ヤマ(管理人)
 いえ、はっきり「なにもしてくれませんでした」と言ったように、僕には残ってます。でも、しょせん記憶なので、あてにはなりませんが(たは)。

(ケイケイさん)
 この辺は私もだいぶ前なので、不確かなんですが。私には伊野がしてくれたことを、肯定しているように聞こえました。

ヤマ(管理人)
 そうですか。やっぱ僕がひねくれてたのかも(苦笑)。

(ケイケイさん)
 いやいや、視点が変わればそういうご意見も、もっともですよ。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 確かに痛み止めの薬と点滴だけの、対処療法的なものだけなので、この返答どおりなんですが、それは彼女の望みでもあったわけです。

ヤマ(管理人)
 そうですよね。意に沿わぬ治療をされるより、意を汲んでくれるほうが、余程ありがたいはずで、僕的には「実に得がたいことをしてくれた」んじゃないかと思えたわけです。

(ケイケイさん)
 私もそう感じました。なのにセリフの感じ方が違うっていうのは、面白いですね。

ヤマ(管理人)
 本当に(笑)。

(ケイケイさん)
 だから私は「伊野は私の望み通り、何もしなかった」と言う意味だと思いました。

ヤマ(管理人)
 この場面は、拙日誌にも綴ったように、僕には人の口から本当のことを聞き出すことの難しさを表しているように映りました。ですから、ケイケイさんたちのように聴いている方が少なからずおいでることに、少々狼狽しております(笑)。

(ケイケイさん)
 狼狽までされましたか(笑)。

ヤマ(管理人)
 ええ。僕にとっては、拙日誌にも綴ったように、半ば主題にも関わることでしたからね。
 僕は、この作品を田舎の村人とニセ医者の交流を描いた作品というよりは、資格を必要とされるプロとは何で、どういうものなのかを最重点主題にした作品だと思ったので、拙日誌にもプロの職業人というものをマスコミ的な軽薄さで批判的に貶めることなく描き出すことに、最も力を注ぎ込んでいると綴っているわけだし、そこんとこで言えば、この場面では、やはり“鵜呑みにはできない言葉”というものが浮かび上がらなくてはいけないわけですから、みなさんの受け止めに「えぇ〜、どーしてー」と意表を突かれた気になりました。だから、狼狽(笑)。

(ケイケイさん)
 確かにテレビのトーク番組でも、司会の良し悪しによって、全然相手の反応が違いますもんね。

ヤマ(管理人)
 ですよね。人の言葉を引き出さなければならない職業というのは、難しいものですよね。

(ケイケイさん)
 それが被害者ならば、尚更でしょう。

ヤマ(管理人)
 ん? 被害者って、ケイケイさんから見ても、かづ子は被害者なんですか?
 僕は彼女を被害者だとは思ってないんですが、やっぱ被害者なんでしょうかね。

(ケイケイさん)
 いいえ。刑事から観た被害者です。

ヤマ(管理人)
 それなら、了解です。

(ケイケイさん)
 で、私は何となく、彼女は伊野の秘密に気付いていたかと思います。

ヤマ(管理人)
 ほぅ。

(ケイケイさん)
 医師の倫理観は、娘を通してある程度はわかっているはずですし。

ヤマ(管理人)
 僕は、かづ子というのは、たとえ八千草薫が演じていようと、もっともっとフツーの老婦人だと思ってました(あは)。

(ケイケイさん)
 うん、普通のおばあさんですね。普通の人だからこそ、邪念も損得もなかったから、素直に伊野が見られたんじゃないかと思います。

ヤマ(管理人)
 それは、ニセ医者であることを察しながらもってことですよね、ケイケイさん的には。
 僕はかなり人が悪いせいか、自分も含め普通の人こそ、邪念と損得勘定にまみれてて、でも、それをあからさまにして生きるほどの根性もなくて、常にせこく葛藤している存在だと思っているので、彼女に対してそういうイメージはありませんでした。たとえ八千草薫が演じていようとも(笑)。

(ケイケイさん)
 私はこの役、八千草薫にふったのは、意味が大きいと思っています。表面だけではない感想を皆さんがお持ちなのは、やはり彼女の女としての底力が大きかったと思うんですよ。でもこの状況で、あからさまに伊野をかばう訳にはいかないわけですよ、娘の立場も考えれば。

ヤマ(管理人)
 真実を探ろうとしている娘と対立することになると思ったからということですか?
 なるほどね。庇う気があったとしても出来ないというのはあるかもしれませんね。

(ケイケイさん)
 対立というより、娘の気持ちですかね? 自分の娘が医師であるのに、偽医者と知っていてかかっていたのなら、娘は非常に傷つくし、周囲からも何だお前の母親は、と罵倒されかねないでしょう?

ヤマ(管理人)
 罵倒まではされないでしょうが、娘が傷つくとは思ったかもしれませんね。でも、僕は、かづ子が娘のことで気にしてたのは、体の不調を医師である娘にも隠していることの疚しさだったように感じていたので、入院を要するほどの不調なら、なぜ自分に相談してくれなかったのか、という形で娘を傷つけてしまうことを気遣っていたように思ってます。

(ケイケイさん)
 それはあったと思います。死ぬ事を望んでいる様な選択を母親がしたというのは、自分が医師ではなくても、普通なら子供として相当ショックだと思いますから。
 そんなこともあって、あからさまにかばう訳にもいかないので、ぼかした返答にしたんだと思いました。

ヤマ(管理人)
 ふーむ。実際の台詞は明言だったのか、ぼかしていたのか…、僕も自信はありません。

(ケイケイさん)
 あのセリフなら、どうとでも取れると思いました。ヤマさんと私の感想は違うけど、どちらでも嘘ではないでしょう?

ヤマ(管理人)
 事実、そう感じたということに何の嘘がございましょう(笑)。

(ケイケイさん)
 刑事が額面通り取ったのは、彼女の計算通りだと思います。だから、ラストの笑顔になったんだと思います。

ヤマ(管理人)
 かづ子って、そんな計算が働く人だったのでしょうか?

(ケイケイさん)
 計算というか、彼女なりに出来る範囲で伊野を庇いたかったんじゃないですか?

ヤマ(管理人)
 「何も(しないでいてくれた)」と証言することは、娘に気遣いつつ出来る“庇い”なんですね。ふーむ。とすれば、ケイケイさん的には「(悪いことは)何も(しないでいてくれた)」ということなんですね。なるほどねー。

(ケイケイさん)
 そうです、そうです。ありがとうございます(笑)。

ヤマ(管理人)
 「してくれなかった」と「しないでいてくれた」との大きな違いは、悪事を主語に受けられる受けられないってとこだと気づきました(笑)。ただ僕には、そんなふうには感じられませんでしたし、刑事のほうは逆に、かづ子の証言をそのまま鵜呑みにするようなタマではないように感じました。

(ケイケイさん)
 映画は観る人が観たい様に見えるというのと同じで、刑事も、相手は明白な被害者なんだから、自分が感じるように聞きたいように聞こえるということは、ないでしょうか?

ヤマ(管理人)
 勿論そうなりがちなものだと思います。そこのところをどれだけ払拭できるかが、普通人の及ばないプロの証なんですが、その職についているってことだけで得られるものではないですよね。

(ケイケイさん)
 それはそうですね。本人の素養、努力、色々ありますから。でも、刑事の勘が働くのは、もっと怪しげな場面であって、かづ子が気付いていようがいまいが、伊野の犯した罪の量刑には、それほど変わりはないと思うんです。だから、言葉通り受け取ったと思いました。

ヤマ(管理人)
 並みの刑事ならそうでしょうし、敏腕刑事ならそうとも限らないでしょうし、僕は、他の言動からしてあの刑事は後者のように感じていましたが、実際彼がかづ子の証言をどう聴いたかは明示されてなかったように思います。

(ケイケイさん)
 実は、私は松重豊の刑事さん、実直な良い刑事さんだとは感じていますが、敏腕とは感じませんでした。どちらかと言えば、人間としての素直さのほうが印象に残っています。

ヤマ(管理人)
 このあたりの受止め方の微妙な差異って面白いですね。どこから来るのでしょうね(笑)。

(ケイケイさん)
 かづ子に対する視点かもしれませんね。

ヤマ(管理人)
 まさしく!(笑)そのとおりですね。

(ケイケイさん)
 でも、私も二人には恋愛感情というのは、なかったと思います。

ヤマ(管理人)
 同感です。

(ケイケイさん)
 ただかづ子の年齢になっても、相手が男性であれば、少しでも綺麗に見えてよく思われたいという女心は、すごく感じましたね、あの口紅を塗るシーンで。

ヤマ(管理人)
 僕もあの場面は、そのように観ていました。彼女の想いを窺わせた場面というより、彼女の人となりを感じさせる場面だと受止めてました。

(ケイケイさん)
 恋ではなくても、好ましい異性だと感じてはいたと思います。

ヤマ(管理人)
 あの程度でも異性視だというのが女性サイドの感覚ならば、僕が若い頃から感じていた「自分は女性からあまり異性として見られない」との思いが、女性視点に立てば、けっしてそうではないってことが判るような気がしますね(たは)。

(ケイケイさん)
 その通りですよ。私はヤマさんが大阪に来られる時は、念入りにお洒落して行きますよ(^v^)。
 医師にしろ患者にしろ、特別な異性としての恋愛ということではなくても、やはり特別な存在というのはお互いあると思うんですね。それがこの二人だったと思います。

ヤマ(管理人)
 僕はね、伊野が禁断を犯したのが、かづ子という特別な患者だったからとは思ってないんですよ。あのエピソードにしても、ちょうど彼女の口紅のシーンと同じように、伊野の“かづ子に寄せる思いを窺わせるエピソード”ではなくて、真摯に村人の心に寄り添う医師であろうとしている“伊野の人となりを感じさせるエピソード”として受止めていました。

(ケイケイさん)
 私が特別な関係と感じたのは、ラストシーンですね。わざわざかづ子が入院している病院に出向くなんて、大変大胆な行動ですよ。それに気づいたかづ子の笑顔も、私にそう感じさせました。これが「何もしてくれなかった」の感想の、私の後押しにもなりました。ヤマさんはあのラスト、どう感じられますか?

ヤマ(管理人)
 僕は、全然「わざわざ」とは感じてなくて、むしろ「たまたま」と見てました。で、それって映画的“偶然”としての言わば約束事のようなもので、そこでご都合主義を言うべき場面ではないと思っています。

(ケイケイさん)
 偶然ですか!全く思い浮かびませんでした(笑)。

ヤマ(管理人)
 あれを「わざわざ」と受け止めておいでれば、ご都合主義など無縁ですよね〜。
 僕がラストシーンに何を感じたかといえば、TAOさんとこのmixi日記にも書き込んだのですが、無免許ながらも医師として村人に尽くし感謝されてきた何年かの蓄積によって、彼が“人を助ける現場職”というものに嵌っていることを示していたように感じました。介護師であれ、看護師であれ、伊野が免許を持っているとは思えませんから、ある意味、止められなくなってもいるわけですよね。

(ケイケイさん)
 看護も介護も国家資格ですから、逃亡中の犯罪者である彼は、取得出来ませんね。また偽の資格証を作れば、別ですけど(笑)。
 お茶を入れに来てたでしょう? ヘルパーさんの補助のような仕事があるんですよ。患者さんに食事を運ぶのは、そういう方には主だった仕事です。これなら無資格でも大丈夫なので、私はそういう職についたんだと思いました。この辺、監督はよく現場をリサーチしているなぁと思いました。

ヤマ(管理人)
 まぁ、もしかしたら、ただ給食業者に雇われてただけだったのかもしれません。

(ケイケイさん)
 給食というか、病院の調理は必ず病院内の厨房でしますから、調理の方は大手の給食会社の派遣さんが多いですね。そういうのもありかな? でもほとんど女性ですけどね。

ヤマ(管理人)
 ま、それだと「わざわざ」はあり得なくなりますが、そのいずれの職にしても“人を助ける現場職”であるのは間違いないですよね。

(ケイケイさん)
 そうですね。一般に医療関係と言いますが、すごくたくさんの人の手から成り立っていますから。

ヤマ(管理人)
 彼にそういう心根を授けたのは、やはり村の診療所で医師として過ごした年月なんだろうと思いました。そして、僻地医療に従事する職というものは、医師免許の有無に関わらず、そういうものなんだろうと思いました。

(ケイケイさん)
 そうだと思います。逃げ出さなかったのは、香川照之の言った、「愛」ですよね。

ヤマ(管理人)
 上にも書いたように、僕は専らこの作品を「資格を必要とされるプロとは何でどういうものなのか」を描いている映画として受け止め、かづ子を含めた村人とニセ医者の交流のほうに重きを置いては観ておらず、かづ子と伊野の間にも何ら特別な関係を感じていなかったので、ラストシーンの見え方もそんなふうになったわけです。面白い違いでしょ(笑)。

(ケイケイさん)
 でも様々な視点から観られるということこそ、この作品の上質さを感じさせますよね。

ヤマ(管理人)
 最初のほうの場面での、相馬を制止して“措置せずにそのまま死なせようとした場面”と同じです。かづ子に対しては、単に不作為だけでは済まずに、偽装という作為を要することになりますが。特別な関係というのが前に出てくるようになると、何が“いい医師”像なのか、という焦点がぼやけてきてしまうように思うのです。

(ケイケイさん)
 それ以外にも良い医者であるというエピソードはありましたし、医師の母親相手の作偽ですから、他の患者よりリスキーだったと私は思ったんです。

ヤマ(管理人)
 だからこそ、それ自体が“特別な関係”を指し示しているというわけですよね。そうも言えるのでしょうね。でも、僕は上にも書いたように、そういう“個人的特別”よりも“職業的特別”を描き出そうとしている作品だと受け止めているので、作り手がラストで“個人的特別”を前に出す気を持つはずがないと思ってしまうわけです。

(ケイケイさん)
 なるほど。食い違うと言うより、視点の違いですね。ヤマさん視点なら、仰る事は全部理解出来ますよ(^−^)。



-------再び拙サイトの掲示板『間借り人の部屋へ、ようこそ』にて-------
No.8158 2009/11/07 00:27

(ミノさん)
 こんばんわ。今日は『母なる証明』見てきたので、なんか濃いいです。脳内が。これもかなり人によって別れる興味深い映画でした。

ヤマ(管理人)
 いいですねー。高知で上映されるのは、いつになることやら(たは)。『ディア・ドクター』も随分と後れを取りましたからねー(苦笑)。

(ミノさん)
 ところで、あの刑事と伊野が並ぶシーンあったでしょ。駅で。その後、電車が通ると、伊野はいない。刑事は逃がしたように見えましたが、どうなんでしょ?

ヤマ(管理人)
 僕は、普通に“擦れ違い”を感じてましたね。
 出会いたくても出会えない、出会いたくなくても思わぬそばに接近してたりする。そういう人の世の不可思議ままならなさ危うさのようなもの。だから、刑事が見つけたうえで見過ごしたとは思いませんでした。


No.8160 2009/11/07 04:13
(イノセントさん)
 お久しぶりです。ディア・ドクターの感想興味深く読ませていただきました。

ヤマ(管理人)
 お久しぶりです、イノセントさん、お読みくださり、ありがとうございます。

(イノセントさん)
 西川美和の濃厚なドラマ作りには、ホント感心させられますね。

ヤマ(管理人)
 ですよねー。TAOさんなんか「いまや日本一の監督」とまでおっしゃってますもの。
 イノセントさんも橋口亮輔と並べて、ご自身の注目監督と書いておいでましたね。ゆれるは、ラストがダメやったそうですが(笑)。

(イノセントさん)
 『ゆれる』は、確かにラストがひっかかりましたが、監督の人間観察力の鋭さには脱帽です。
 僕は刑事の存在感にはあまり意味を感じぬまま観てしまったのですが、ヤマさんの日記を読んで「なるほど!」と納得させられました。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。僕には、松重豊の演じたあの刑事の存在が、製薬プロパー以上に、かづ子以上に強く残ったのですが、どうもそういう方は、あまりおいでなかったようで些か驚いております。

(イノセントさん)
 『ディア・ドクター』の刑事の存在感については、TAOさんも感心しておられましたよ。

ヤマ(管理人)
 そうでしたっけ。かづ子については、ミノさんと同じような捉え方で言及しておいでで、刑事のほうについては、そう多くを語っておいでなかった気がしますよ。

(イノセントさん)
 ヤマさんの日記を読んで「なるほど!」と納得したのとは逆に、あれっ?って思ったのは、伊野の居宅の畳敷きの部屋には膨大な医学書・文献が積み開かれ、彼がいつも熱心に勉強している姿がたびたび映し出される。というところなんですが、度々映し出されていましたっけ?
 記憶力が悪いので何とも頼りないのですが、僕の印象に残っているのは、かづ子の病気を知ってから、何もしない約束をした後の伊野の机の上に広げられたガン治療の本の山。何もしないといいつつ、何とか手立てはないものかと焦る伊野の姿を想像し、これが伊野のかづ子への想いなんだなと感じました。よって、僕の記憶には、伊野が医学の勉強をしているこのワンシーンだけしか残ってないのですが・・・(汗)。

ヤマ(管理人)
 そうですか。僕は少なくともワンシーンではなかったように感じてます。
 また、彼の部屋は何度か映し出されましたが、あの本の山は、かづ子を診るようになってから急遽集めたものではなさそうでしたよ。

(イノセントさん)
 そうでしたか。急患の場面での伊野の動揺が強烈だったのも手伝って、僕にはこんな印象として残ってしまったようです。

ヤマ(管理人)
 で、僕はイノセントさんが「これが伊野のかづ子への想いなんだな」というところを「これが伊野の患者への向かい方なんだな」というふうに受止めていました。

(イノセントさん)
 これって、あれからまた考えたのですが、がん治療を施さないための偽データ作りのための知識が必要だったから、本を読み漁ってたのかもしれませんね。

ヤマ(管理人)
 そこんとこについては、替え玉検査で凌ぐのですから、やっぱり病状把握とか診断、予見とかのための勉強でしょう。ああ、でも、偽データを作りじゃないけど、りつ子に説明するために癌以外の原因によるデータ異変の説明の仕方を考えておく必要はありましたね。痔というのも、そのひとつでした(笑)。


-------気になる「なにもしてくれなかった」との証言-------

(イノセントさん)
 スーダラさんやミノさんが指摘していらっしゃる「なにもしてくれなかった」という、かづ子の証言は僕も気になります。僕もあの台詞を聞いたときは、ヤマさんと同じく随分冷たい返事だなと思ったのです。

ヤマ(管理人)
 あ、こちらへ書き込みをしてくださった方で唯一の同意見者ですね。

(イノセントさん)
 しかし、僕もあの言葉を表現どおりに受け取る気にはなれませんでした。

ヤマ(管理人)
 我々観客ほどには事情を知らないはずの刑事とても、同じだったのではないでしょうか。

(イノセントさん)
 だからと言って、落としどころを見出せたわけでもないのですけど・・・

ヤマ(管理人)
 僕は、被害者の立場に身を置く村人に同調している言葉と受け取り、作品的な落としどころとしては、拙日誌に綴ったとおり、人の口から発せられる証言のあてにならなさを痛烈に描き出していると思いました。その言葉を発したときのかづ子に、伊野に対する悪意も害意もないとこがポイントです。なかなか痺れた台詞でした。

(イノセントさん)
 ヤマさんの「証言のあてにならなさ」という視点なら、確かに素直に台詞どおりに解釈したほうがよさそうですね。

ヤマ(管理人)
 了解いただけて幸いです。

(イノセントさん)
 でも、やっぱりそれだけでは僕には居心地が悪いというか、悪意がないというのは同感なんですが、被害者意識があったかどうかってところが・・・彼女は「天然」というイメージもあるから、先回りしてそこまで考えるのかなって。
 「天然」はむしろ女優としての八千草薫のイメージかもしれませんけど、この映画での八千草薫と鶴瓶は、演技なのか地でやってるのかわからないくらい、役者と主人公が一体化しているように僕には思えましたから。

ヤマ(管理人)
 これについては、僕も同感ですねー。二人とも嵌り役でした。
 被害者意識については、かづ子にそれはないと思いますよ、僕は。彼女の場合、自分にとって彼がどうだったかを深く考えるのではなく、伊野の無免許が露顕して、マスコミ的に「偽医者に騙されていた村人」みたいな捉え方がされる空気に単に同調しただけのことだろうと思います。被害者とも共犯者とも、さしたる自覚なく回答していた気がします。そして、それこそが普通の人の姿だと思います。

(イノセントさん)
 最初は僕もスーダラさんミノさんと同じように受け止めていたのです。でもそれもなんだかひっかかってしまうんですよね。

ヤマ(管理人)
 弁護となると、僕の受止めとは正反対ですから、スーダラさんやミノさんからそのような意見をいただき、かなり驚きました(あは)。

(イノセントさん)
 あるいは最後まで寄り添ってくれなかった無念さ心細さだったのでしょうか?

ヤマ(管理人)
 なるほど。そういうことなら、大いに頷けます。恋愛目線で眺めれば、確かに突然姿を消されるのは不都合なことですから、ちょっと拗ねちゃって、あんな「冷たい返事」をしたというはアリですね。

(イノセントさん)
 大事に育てられた人に時折見られるような、純朴というか無邪気な感情が口に出てしまったようにも思えてくるのですが・・・

ヤマ(管理人)
 そういう無邪気さって八千草薫のキャラですもんねー(あは)。それ、なかなかイイんじゃないですか?

(イノセントさん)
 犯罪者とか被害者とか共犯者という意識はなく、「あの人、約束破って逃げちゃって・・・私また一人だわっ(溜息)」

ヤマ(管理人)
 なんの約束よってなことは、仮に伊野が言ったって無益なんですよね(笑)。彼女がそんなふうに受止め想いを膨らませていれば、事実がどうであろうと(たは)。

(イノセントさん)
 そう考えられるとしたら、ラストの無邪気な笑顔にもしっくり繋がるような気がするんですけど・・・

ヤマ(管理人)
 なるほどね。見失っていた恋人との再会を無邪気に喜んでいると。
 でも、僕は駅での伊野と刑事のニアミスの偶然性と同じく、かづ子と伊野の再会にも偶然性のほうを受止めていて、伊野がかづ子に会うために彼女の入院している病院を訪れたとは思っていません。バレそうになるたびに姿を消し、ずっと偽医者を続けてきた用心深い伊野が今回も捕まる前に思い切りよくきちんと逃走をしながら、恐らくはまだ事情聴取を続けられてそうに思える彼女の元をわざわざ訪ねるとは考えにくいのですよ。
 イノセントさんがラストの再会を伊野の企てた行為か偶然かのどちらを受止めておいでになるのかはまだ承知しておりませんが、恋愛とまで言うか否かは別にして、二人の間に“特別な関係”を見て取った方は、概してラストの再会は、伊野自身が敢えて危険を冒して行ったものだと受止めておいでのように思います。イノセントさんは、いかがですか?

(イノセントさん)
 え〜!病院での伊野とかづ子の再会って偶然ですか???? だって、あの病院はかづ子の娘が勤める病院ですよね? だとしたら、既にその病院にいくこと自体、身の危険を冒すわけだし、そこに行けばかづ子に会えることはわかりきっているし、配膳係になって帽子を被りマスクをして、かづ子の前に訪れた伊野は、どう見ても確信犯でしょ!!

ヤマ(管理人)
 「どう見ても」とはならないところが、いろいろな人の感想を伺うことの最大の妙味なのですが(笑)、僕の場合、上にも書いたように敢えて身の危険を冒して会いに行く“個人的特別”を感じていないから、伊野がかづ子を訪ねていく動機自体が成立しないわけで、そうなると偶然を受け取る他なくなるのですが、それで全く違和感なしでした。

(イノセントさん)
 ヤマさんの感じたことを否定することは出来ないですね。

ヤマ(管理人)
 お互いそうですよ。それぞれが感じ観て取ったことの説明を交わし合ってるのであって、そこに疑問や問い掛けは起こっても、相手に生じたものの否定は馴染みませんもの。

(イノセントさん)
 ただ、「職業的特別」という観点からも、ラストを必然と解釈することだって可能だと思いまして・・・刑事とのニアミスも、あの駅が娘の病院の近くだと仮定するなら、病院で待ち伏せしていれば伊野がやってくるはずだと張り込む刑事の執念を感じさせる場面と受け取ることもできるし、伊野は「職業的特別」の想いから、かづ子を見守りたいと思って病院を訪ねたと考えるなら、「個人的特別」がなくても、必然と解釈できますよね。いずれにしても一解釈ですけど。

ヤマ(管理人)
 可能不可能で言えば、映画で明示されていない以上、いかなるものも可能でしょう。
 先のかづ子の想いについてイノセントさんが恋愛の可能性を探りつつ、今ひとつしっくり来ないと思いを巡らせて“神様”で落ち着かれたように、要は、何が最も自分にしっくり来るかであって、それは必ずしも観た当座に自分が感じ取っていたものである必要はないのですが、そういうことで言えば、もちろん解釈として職業的特別からの必然を否定するものでは決してありません。ただ僕がこの解釈に乗り換えるだけの“必然”も、それこそなくて、むしろ僕的には、訪ねていっても医師として向かいようのない状況でかづ子を病院に意志としてリスクを取って敢えて訪ねることの動機に“職業的特別”は想起しにくいですね。
 また、刑事の執念としての張り込みを描きたいのであれば、やはりきちんと張り込み場面を入れるべきであって、駅での擦れ違いで済ますのは、ちょっと表現として不適切な気がするので、僕は採りませんが、可能性としては勿論ありますよね。もっとも、張り込むためには伊野とかづ子の間に、個人的に特別な関係があるといった彼が訪ねてくるに足るだけの動機を刑事の側が受止めていなければなりませんけどね。あの捜査状況のなかで、刑事たちにそこまでの確信があったかどうか、そもそも、あの駅での擦れ違い場面では、伊野にしても刑事にしても、何のためにどこに向かおうとしているのか、或いは帰ろうとしているのか、それさえ映画のなかでは明示されていませんよね。ただ駅でのニアミスを描いているだけで、後は全て観る側の想像に委ねられていたように思います。

 イノセントさんが御指摘の件に即して言えば、取るものも取りあえず白衣さえ途中で脱ぎ捨てていく失踪をした伊野がりつ子の勤め先を記した名刺などを携えていたとは思えませんし、そうしたものを手元に置いてなければ、そのようなことを何ら記憶に留めていられないのが僕自身なので、りつ子の勤める病院を伊野が覚えているはずがないことをついつい前提にしてたんでしょうね(苦笑)。でも、普通、そんなもんだと思いますよ。帽子を被りマスクをしてたのも、普通に配膳係の制服として違和感なし。駅で刑事たちとニアミスを起こしながら何も起こらない場面を置いていたことが周到に作用して、偶然性を受け取るのに全く不都合がありませんでした。

 偶然にしては出来すぎではないかい?ってなことを言い出せば、映画なんてそもそも成立しない世界ですから、偶然か確信犯かってことよりは、その場面で何が描かれているのかってところのほうが重要なのですが、確信犯として受け取る場合は、当然ながら、二人の関係性における“個人的特別”となろうと思います。そう見ても、ちゃんと辻褄の合っている作品ですよね。
 一方、僕のように“個人的特別”を排しても辻褄は合っているように思います。でもって、僕は、上にも書いたように、医師や刑事の“職業的特別”を描こうとしていた作品だと受け止めましたから、そこをぼやかしてしまう“個人的特別”を作り手がラストで前に出すはずがないと思ってしまうわけです。そして、ラストで伊野が病院で働いている姿には、無免許ながらも医師として村人に尽くし感謝されてきた何年かの蓄積によって、彼が“人を助ける現場職”というものに嵌っていることを示していたように感じました。

(イノセントさん)
 医師や刑事の“職業的特別”を描こうとしていた作品だというのは全く同感です。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(イノセントさん)
 僕はこの映画の主題は、医療技術の進歩に対して、医者と患者の人間的な関わりがあまりにも希薄になっていることへの危惧だと思いました。その点は多分ヤマさんも皆さんも同じように感じていらっしゃることだと思うのですが・・・

ヤマ(管理人)
 ええ、そうですね。そして、それへの対処は町の大病院では叶わず、地域医療の現場でないと難しいことが示唆されていた気がします。
 鋭いのは、そのうえで地域医療に携わり続けられる医師が、過激な言い方をすれば、伊野のように鄙の地に潜むしかない“偽医者”か、でなければ、相当に奇特な医師でないと望めないという現実の示唆だったように思います。伊野が単に篤志のみで村に留まっていたのではなさそうに描かれていたのが秀逸でした。それでも、地域医療の現場に携わり続けていると、確実に篤志も湧くのが医療で、そこのところに免許の有無は関係してこないことが描かれていた気がします。

(ミノさん)
 ころころ意見の変わる私ですが(笑)。

ヤマ(管理人)
 いいじゃないですか。ときは秋!女心と秋の空と言いますし。耳が素直で頭が柔らかい証拠です(笑)。

(ミノさん)
 イノセントさんのおっしゃってる「あの人、約束破って逃げちゃって・・・私また一人だわっ(溜息)」というのが私の感じたことに一番近い気がしました。

ヤマ(管理人)
 でしょうね。二人の関係を恋愛目線で眺めれば、最も了解しやすいご意見だと僕も思います。

(ミノさん)
 彼女がなんとなく伊野に関して抱いている「ひどいわ、彼ったら」な感じは、彼が途中で消えてしまったことへであり、だからこそ、最後には、彼が自分の前に再び現れた時に、とっさに「ひどいわ」→「でも嬉しい」な、微笑みに変わったというか。それが非常に女性的な、恋情に近いものに感じたのですよ。

ヤマ(管理人)
 恋愛目線で見れば、まさしくそこにリアリティありですもんね。女性のミノさんがここで太鼓判を押しておいでくださったから、イノセントさんの女心の洞察力にお墨付きが出ましたね(うふ)。

(ミノさん)
 だから私は、最後に余韻として老女のラブストーリーという印象に残ったんだなあと、今拝読して思い出しました(笑)。(色々忘れてます

ヤマ(管理人)
 口紅ショットが目に付いて恋愛目線で眺めていたからそのように映ってきたということではないのかという気もしますが、物語として立派にそれで成立しているように僕も思います。それで言えば僕は、口紅ショットよりも刑事の存在が焼きついたために、拙日誌に綴ったような映り方をしてきたんでしょうね。
 で、ケイケイさんとこの掲示板にも書き込んだように、僕は専らこの作品を資格を必要とされるプロとは何で、どういうものなのかを描いている映画として受け止め、かづ子を含めた村人とニセ医者の交流のほうに重きを置いては観ておらず、かづ子と伊野の間にも何ら特別な関係を感じていませんでした。なので、ラストシーンの見え方も、かづ子については、刑事に訊かれたときの答の冷ややかさとの対照。伊野については、“人を助ける現場職”というものに嵌っている姿などという、色気もナンもないものになってしまいました。
 でも、面白いですねー。二人の関係に対して、恋愛感情を観ている方は「何もしてくれなかった」との台詞を冷たさには拗ね、でなければ弁護として聞き、恋愛感情には至らずも特別な関係を感じた方が、同じ台詞をやはり可能な限りでの庇いとして聞き、恋愛であろうがなかろうが“特別な関係”を観て取らなかった僕は、人間の業のようなものの露悪的ではない描出として聞いたわけです。どれが正解というものではないのが映画鑑賞の大原則ですが、そのいずれで聞いてもラストシーンがきちんと腑に落ちるところが実に大した作品ですよねー。改めて感心します。


-------伊野はかづ子の心の中の“神様”だったのかも-------

(イノセントさん)
 「拗ねちゃって」というのが彼女の心境なら、凄く納得ですね。でも、恋愛目線と言ってしまうと、これまた僕にはちょっと違和感があるんですよ。むしろミノさんが始めのほうでおっしゃっていた「神様」という表現がぴったりのような気がしています。余命わずかであることを知ってしまった(直感した?)かづ子にとって、実際は恋心と同等の感情なのかもしれませんけど、心の中では「神様」と思い、決して口には出さない。態度には出てますけど(笑)

ヤマ(管理人)
 僕は、かづ子が伊野を神様視しているようには思えませんでしたが、娘に知らせずにいてくれたことには感謝してたでしょうね。

(イノセントさん)
 でも、神様ってそんな存在でしょ。いると安心だけど時々いなくなったりもするし、怒らせると怖い存在であったり・・・

ヤマ(管理人)
 伊野をそういうふうに描いてないところが僕はこの作品のよさだと思っているので、当然ながら、そんなふうには感じていないのですが、村人のなかには、そんなふうに感じていた人がいたかもしれませんね。

(イノセントさん)
 そして伊野にとってのかづ子は、これもミノさんが「母親への代償」と仰ってますけど、まさにそれじゃないかなと。ミノさんのこの解釈、とっても鋭いんじゃないかなって思いました。

ヤマ(管理人)
 かづ子にとっても、伊野にとっても、互いが互いに“特別な存在”であることを受け止めるうえでは、恋愛なり神様なり母親投影なり、何らかの“特別”があってこそのことになるわけですが、僕は、彼らの関係に対しては、むしろ“個人的な特別”を排することで、医師なり刑事なりの“職業的な特別”を炙りだそうとしている作品のように受け止めましたから、それらのいずれにも与しないのですが、“個人的な特別”を感じた方々において、そのように様々なバリエーションがあろうことには了解できますし、そのいずれもが誤りでもなんでもないような気がしますね。

(イノセントさん)
 ミノさん、
 ラストの再会、あれって老女のラブストーリーでもいいと思うんですけど、むしろ「神様」が戻ってきた・・そう考えるほうが素敵じゃないかと思えてきましたよ。


-------のろけとしての「なんにもしてくれませんでした」-------
No.8168 2009/11/08 21:01

(TAOさん)
 ヤマさん、みなさん、こんばんは。
 ちょっと見ない間に談義が進んでいたんですね〜。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、TAOさん。既にTAOさんのこともちらほら話に出てきてます(笑)。

(TAOさん)
 あの〜意外かもしれませんけど、私にはあの「なんにもしてくれませんでした」は公然たるおのろけに聞こえました。

ヤマ(管理人)
 お〜、最も踏み込んだご意見ですねー(笑)。“拗ね”どころかそこまで突き抜けちゃうと、恋愛感情も仄かではない熱情ですが、そこまでおっしゃいますか!(笑)

(TAOさん)
 秘かに媚びをふくんだような声色のせいでもありましたが、彼女、はじめから治療は何もしてほしくないって言っていて、本物の医者ならそれでは済まないだろうところを彼はちゃんとなにもしないでくれたんですから。

ヤマ(管理人)
 そりゃそうですが、刑事相手に“媚を含んだような声色”を使いますか〜?(笑)

(TAOさん)
 はは、なにも刑事に媚びてるんじゃないですけどね、不満を訴えるふりをして、ほんとは自慢してる自分を楽しみつつ、楽しかった日々を思い出すと、口元が思わずゆるんじゃう感じです。

ヤマ(管理人)
 なんか女性にいかにもありがちな心理という気はしますが、刑事相手になぁ〜(苦笑)。

(TAOさん)
 深い感謝の思いで言っている発言が、表面的には警察に対して協力的に聞こえる状況をも面白がってるように見えました。

ヤマ(管理人)
 そんな喰えないキャラなんですかね、かづ子(苦笑)。伊野に対する無理難題も、せんせーがどう対処するか面白がってたとか(笑)。

(TAOさん)
 生真面目な若い時分はともかく、ある程度年齢のいった女はみんなそうしたもんですって(笑)。

ヤマ(管理人)
 ま、言えそうなのは、無邪気な“拗ね”なんかより、しれっとのろける“悪戯っ気”ってことなんですね。若いときでも女性には敵わないのに、これじゃあ太刀打ちのしようなし、ですな(苦笑)。

(TAOさん)
 それに伊野はちゃんと最後の挨拶をして消えたのだから、拗ねてるわけではないと思うんです。

ヤマ(管理人)
 女性が筋さえ通せば、常にそう冷静で合理的であってくれれば、我々男の苦労は、もっと少ないんですけど(笑)。

(TAOさん)
 それはそうと、ヤマさんの「再会=偶然説」にはびっくりしました!
 ラストの解釈に関してMixiでも少しお話してましたが、まさかそんな風に思っていたとは!!

ヤマ(管理人)
 僕は逆に皆さんの“二人の特別な関係”説のほうに驚きましたもの。

(TAOさん)
 私はやっぱりイノセントさんの“「神様」が戻ってきた”がいちばんしっくりきます。

ヤマ(管理人)
 あら? のろけるくらいだから、恋愛ではないんですか?

(TAOさん)
 恋愛未満でもウフフなのです。

ヤマ(管理人)
 まぁ、イノセントさんへのレスにも書いたように、恋愛でも神様でも母親投影でも、どれが誤りというものではありませんよね。映画そのものでは決して明示していない領域のことですから。一番しっくりくるもので受止めればいいことだと思うのですが、TAOさんが「かづ子にとっての伊野は“神様”」というのがいちばんしっくりくるというのは、かなり意外な気がしますね。にしても、神様との関係をのろける彼女って何者?(笑)

(TAOさん)
 孫悟空を手のひらで遊ばせるお釈迦様ですかね(笑)。

ヤマ(管理人)
 ほぅ。

(TAOさん)
 神様といっても小僧の神様というか、私のイメージではトリックスターです。

ヤマ(管理人)
 伊野がトリックスターで、かづ子がお釈迦様ねぇ(笑)。ま、しょせん男は、女性には敵わないってのは判りますが…。

(TAOさん)
 かづ子は夫の闘病生活を見ていたからとはいえ、ガンになっても娘には内緒にしたまま医者にも行かず、ひとりでそっと死んでいこうとしていましたよね。

ヤマ(管理人)
 はい。

(TAOさん)
 医師である末娘に隠すだけでなく、長女や次女にもひと言も漏らしてないあたり、かなり意志が強く、警戒心の強い性格だと言えそうです。

ヤマ(管理人)
 そうですね。

(TAOさん)
 娘たちとのやりとりを見ても、母子ならではの親和力があまり感じられません。おそらく娘との絆よりも夫との絆のほうが強かったのでしょう。

ヤマ(管理人)
 ほぅ、なるほど、そう観ましたか。確かに娘りつ子の人物造形を思うと頷けるところがありますね。冷たいのでは決してないのですが、親子の情愛的なところに溺れるタイプではなさそうに思います。

(TAOさん)
 女性の友だちもいないようですし、同性と仲良くなるより、異性に甘える方が得意なタイプと見受けられます。

ヤマ(管理人)
 おや、そう来るのですか(笑)。

(TAOさん)
 必ずしも恋愛感情ではなくても、異性に媚びることがデフォルトになっているんです。

ヤマ(管理人)
 そこまでおっしゃいますか(笑)。

(TAOさん)
 だからこそいくつになってもどこか色っぽく女を感じさせ、往々にして同性から嫌われたりもするのですが。とにかくまあけっこう喰えないキャラだと思います。

ヤマ(管理人)
 なるほどねー。でもまぁ、彼女にそういうキャラを受け止める方は、そう多くはない気がしますが、意表を突かれながらも、言われてみると頷けるところがありますね。男の僕が観てさえそう思うのだから、女性においては決して「そう多くはない」こともないイメージなのかも(笑)。

(TAOさん)
 また、二人の関係は、恋愛といっても疑似恋愛で、母と息子に近いと捉えてます。とくに伊野はかづ子の家で実家にいるかのようにくつろぎ、甘えていたんじゃないかなあ。本物の実家ではくつろげなかったでしょうから。

ヤマ(管理人)
 伊野の側にも、かづ子に対して“個人的特別”があったってことなんですね。それはともかく、かづ子にとって伊野が特別な存在というのは、僕にも共有できるところではあります。恋愛でも神様でもしっくりとはきませんが。
 ですが、伊野にとっても個人的に特別な存在だというのは共有できないところだったので、スーダラさんがここで教えてくれたペンライトの場面の観方というのにはとても驚きましたが、面白かったです。TAOさんは、あの場面を、どのようにご覧になってますか?

(TAOさん)
 ペンライトをわざと忘れるところは、医師として、扱いづらい患者に近づくためだと思いました。

ヤマ(管理人)
 ここは僕とも似たような御見解だったんですねー。

(TAOさん)
 私なんかも、取材のとき、いったんインタビューが終わった後、相手がリラックスした瞬間を狙うと、本音が引き出せるという実感があります。

ヤマ(管理人)
 刑事コロンボの去り際の追加質問にこそ、真の狙いありって奴ですな(笑)。

(TAOさん)
 この段階では私心はなかったのではないかなあ。

ヤマ(管理人)
 では、どの段階から“個人的特別”が生じてきたとお感じですか?

(TAOさん)
 え〜と、半年前なので時系列がすでに怪しくなっていますが、伊野がビールを飲みながらTVを見てくつろいだ顔を見せた時には、医師ではなく、すっかり息子化してると思いましたねえ。

ヤマ(管理人)
 ほほぅ。なるほどねぇ。
 僕は、伊野がくつろいだ顔を見せることで、かづ子の警戒心をほぐしているように受け止めましたが、あそこでもう息子化し、個人的特別の領域に踏み込んだと御覧になりましたか。

(TAOさん)
 ペンライトを取りに戻ったときにはすでにそうだったかもしれません。

ヤマ(管理人)
 おやおや、これまた更に早い段階ですね。

(TAOさん)
 初めは職業的使命だったのが、思わぬ居心地の良さにハマったというか。

ヤマ(管理人)
 ほぐそうとした心を解き始めてくれると、確かに嬉しく、その場にいることに心地よさを覚えるだろうとは思うのですが、その度にすぐさま“個人的特別”に行っちゃうと少々身が持たない気も(笑)。

(TAOさん)
 ヤマさんはパーシー・アドロンの『シュガー・ベイビー』という映画をご存じですか?

ヤマ(管理人)
 観たかった覚えがありますが、こちらでは上映されませんでした。

(TAOさん)
 太った中年のおばちゃんが若くてハンサムな地下鉄の運転士を今で言うストーカーになって追っかけ廻し、年齢からいっても母子くらい違うし、どう見ても釣り合わないんですけど、あの手この手で男を自宅に連れ込んで、甲斐甲斐しく面倒を見るもんですから、男もすっかり味をしめちゃって、妻のいる自宅には帰らず、オバチャンの家に入り浸るんです。

ヤマ(管理人)
 そういうとこ、ありますね、男には(苦笑)。恋愛とか何とかとは少し違ってもね。
 ふと魂萌え!での談義を思い出しました。隆之(寺尾聡)にとっての昭子(三田佳子)が、女性の皆さんが仰るような意味での“愛人”には、僕は感じられなかったのですが、そのへんとも繋がりそうな気がします。

(TAOさん)
 妻はたしか子育てで忙しく、甘やかしてもらえないので。

ヤマ(管理人)
 なるほど。『魂萌え!』でもそうだったのでしょうか(苦笑)。

(TAOさん)
 このオバチャンを演じるのが『バグダッドカフェ』の主演の女優で、ふくふくしたその身体と柔らかい雰囲気がとっても魅力的でしたから、こりゃ男はたまらんだろうなと思った記憶があります。

ヤマ(管理人)
 京塚昌子さんにもそのようなところをお感じになってやしませんか?(笑)
 それはともかくバグダッド・カフェは素敵な作品でしたね。何人かの方から拙日誌を褒めていただいたことでも記憶に強く残っている映画です。

(TAOさん)
 伊野の場合、かづ子に性的な関心はないと思うんですが、男として医師として頼られ、家庭的な雰囲気を味わえる喜びに嵌っちゃったんだろうなあと思いましたよ。

ヤマ(管理人)
 なるほどねー。『魂萌え!』の隆之もそんな感じだったようには思いませんか?
 で、僕はといえば、やはり伊野の場合と隆之の場合では、そこにニセとはいえ、医師という職として関わるということでの大きな違いがあるように思いますね。『シュガー・ベイビー』は観てませんが、それを引いてTAOさんが指摘された点は、まさしく『魂萌え!』の隆之に当てはまることのように思いました。なかなか面白い視点をご提示くださり、とてもありがたいです。


-------改めて「職業的特別」と「個人的特別」について------

(イノセントさん)
 しつこくてすいません(苦笑)。

ヤマ(管理人)
 とんでもありません。

(イノセントさん)
 ヤマさんが仰る「職業的特別」と「個人的特別」に対して、僕が解釈するそれらとは隔たりがあるのかもしれませんが、ヤマさんの言葉を借りて言うならば、僕は「職業的特別」の究極は「個人的特別」の積み重ねの上に成り立つものではないかと、これがこの映画の伝えたい本質ではないかと思うのです。

ヤマ(管理人)
 なるほど。イノセントさんは、両者に接点を見出しておいでるわけですね。でも、僕は少し違った考え方をしています。個々に対して丁寧な向かい方をすることが「個人的特別」ではなく、むしろ「個人的特別」を要しなくても個々に対して丁寧な向かい方のできることをもって“職業的特別”を果たしてもらいたいと思うわけです。
 乱暴な例で恐縮ですが、娼婦の携わる性行為は、普通の者においては「個人的特別」なしには行えないことを“職業的特別”によって果たしているものですよね。近頃はそうとばかりも言えない気がしますが(苦笑)。僕は、“職業的特別”と「個人的特別」の違いにそのようなニュアンスを見出しています。医師が患者に寄り添った親身な向かい方をするのに「個人的特別」を要したら、それはもう惚れた相手としか枕を共にできない娼婦と同じで、プロではありません。
 また、プロだからといって客の全てに惚れることを求めるのは、プログラミングされた機械ではない人間には無理というもので、酷に過ぎます。普通の者なら惚れてなきゃできないことを惚れてなくてもきっちりこなすのがプロというものではないのでしょうか。確かに“職業的特別”の究極は、受け手に「個人的特別」と錯覚させるだけのものを「個人的特別」抜きで果たせるレベルを指していうのでしょうが、それと実際に職業者が個人的特別に陥ってしまうこととは異なると思うのです。

(イノセントさん)
 例えば一病院の先生ではなく伊野先生に診てもらいたいと患者が思ったとしたら、それは既に「個人的特別」ではないかと考えるのです。

ヤマ(管理人)
 患者にとっては間違いなくそうでしょうね。かづ子にそれがあった可能性は僕も否定しません。

(イノセントさん)
 先生が患者一人ひとりの性格や家庭環境をも配慮してケアするとしたら、そこには必ず先生の人生経験も反映されることになるわけだし、その時点で「職業的特別」と「個人的特別」というのは切り離せないということになると思うのです。

ヤマ(管理人)
 ここのところが、僕は少し異なっているのは、上にも書いたとおりです。

(イノセントさん)
 娘が絶対の自信を持っていた自分の仕事に対して一瞬懐疑の念を持って振り返ったのも、かづ子が頑なに拒んでいた娘の病院に行こうと思ったことも、伊野という人物を介してであり、その伊野とは、医者としての伊野というよりは、情のある一個人としての伊野に負うところが大きかったのではないでしょうか。

ヤマ(管理人)
 これには全く異論ありません。
 おっしゃるところの「情のある一個人」が、職業人としてか、プライヴェートな私的個人であるか、の見解に相違があるのであって、私的感情の極大とも言える“恋愛”のほうに向かうベクトルを僕はイメージしないのですが、数学とは違って人間の心は割り切れるものではありませんから、どう見ても伊野には全く“個人的特別”がなかったと言うつもりもありません。
 でも、伊野に“個人的特別”を見出さないほうが“職業的特別”の何たるかがより鮮明に浮かび上がってくるような気はします。だからといって、そのために敢えてそういう観方をしたというのではなくて、普通に映画を観ているなかで、僕が伊野に患者かづ子に対する“個人的特別”を感じることなく観続けていた結果、ラストの再会に“偶然”を感じたまでのことです。そして、そのように受け止めたことで、僕にとっては、より鮮明に、主題とも言うべき“職業的特別”が浮かび上がり、拙日誌に綴ったように「免許と資格」というものについて思いを巡らせる動機付けになったような気がするわけです。
 で、そこにこの映画の作品としての値打ちも感じたという次第です。

(イノセントさん)
 伊野とかず子の関係を、恋愛という言葉でくくるには違和感があると僕が感じたのは、男と女の艶かしい感情という以前に、人と人との触れ合いとか、信頼とか、「この人に出会えてよかった」とか、そんな感情を彼らに感じたからです。

ヤマ(管理人)
 伊野はともかく、かづ子に対しては、僕もまさにそのように感じてました。

(イノセントさん)
 ヤマさんのご指摘の通り、監督は言葉の頼りなさや移り気な心を鋭く描写しつつも、人を物として扱わない、人と人のふれあいが生きる支えや喜びとなることを描こうとしたのだと、僕は思うのです。

ヤマ(管理人)
 同感です。

(イノセントさん)
 だから、それをミノさんやTAOさんが恋愛と解釈しても、僕が神様と解釈しても、ヤマさんが名医と患者と解釈しても、そこのところは人それぞれでいいと思うのですが・・・

ヤマ(管理人)
 はい。もちろん僕もそう思っております。どこに何をどうして感じたかをお伺いし、自分の受け止めを対照することで相互の違いを確認するとともに、違いへの納得もしたいわけで、それこそが、ここでの談義の醍醐味だと思っています。そういう意味では、イノセントさんにはとても感謝しております。

(イノセントさん)
 上にヤマさんは、医師や刑事の“職業的特別”を…ぼやかしてしまう“個人的特別”を作り手がラストで前に出すはずがないと思ってしまうとお書きでしたが、上記の次第で、僕は「個人的特別」が前面に出てくることこそ、この映画の本質ではないかと考えるのですが・・・。

ヤマ(管理人)
 言葉を継いでくださったおかげでイノセントさんの感じ方がよく理解できました。職業者における“個人的特別”というものに対する捉え方が僕とイノセントさんで違っているということですよね。どちらが正しいというようなことではない問題です。

(ミノさん)
 おおおおお盛り上がっている!

ヤマ(管理人)
 おぉぉぉ御ありがとうございます(笑)。いっぱいいろんな意見を聞かせてもらえるのはとても面白く、ありがたいです。対照することで、いろいろなことが判ってきました。こういう作業って絶対に一人では出来ませんからね。

(ミノさん)
 イノセントさん、そうですね。原作タイトルも「昨日の神様」ですもんね(笑)。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか! 手厳しいな〜。昨日の神様扱いも今日は罪人呼ばわりって?(笑) 村人においては、そのとおりになってましたね。では、その違いが何によって生じたかといえば、医療ミスでも医療事故でもなく、“無免許の露見”なんですよねー。


-------焦点は恋愛であるか否かよりも目線の違いの面白さ-------

(ミノさん)
 恋愛感情の有無が問題になっていますが、対象が男であれ、神様であれ、相手を信じる気持ちは広い意味で愛ですから・・「恋愛」なのか、否なのかを論じるのもナンセンスなのかなあと思います。

ヤマ(管理人)
 黒白をつけようという態度で臨めば、答のない問題ですからナンセンスですが、ナンセンスなのは、黒白をつけようとすることのほうで、論じることのほうはナンセンスではないと思いますよ。ミノさんのご提示くださった恋愛目線での捉え方は、僕にとっては物凄く新鮮でしたし、なるほどねって思いつつ、じゃあ、僕はなぜそう受け止めなかったのだろうとの自問も誘ってくれましたしね。

(ミノさん)
 ポイントは、かづ子が死に直面した人間であるという点で、死ぬ前の人間が身近な存在に神様的なものを求めるというのは自然な感情なんだと思います。

ヤマ(管理人)
 そうですね。
 イノセントさんにも返しましたが、伊野はともかく、かづ子にそういう感情が生じていたであろうことに僕も全く異論はありません。でも、僕的にポイントなのは、そんな彼女でありながらも、イノセントさんの言葉を借りれば“随分冷たい返事”をしてしまうとこですが。

(ミノさん)
 「この人に出会えてよかった」という思いを最後に持ってこの世を去れるというのは誰にとっても圧倒的に幸福なことですから、最後、伊野と再会して、本当に私は嬉しかったですね。

ヤマ(管理人)
 かづ子の微笑には、そのことが窺えましたねー。

(ミノさん)
 ヤマさんの「病院偶然再会説」には私もちょっとびっくりしちゃいました(笑)。

ヤマ(管理人)
 だって、伊野のほうも個人的感情を抱いているとは観てなかったから、敢えて会いに行く動機がないじゃありませんか、僕的には(笑)。そしたら、自ずと“偶然”と受け止めるでしょー。そういう偶然って映画作品には付き物なんだし(笑)。

(ミノさん)
 確かにこの映画って職業としての部分が一番濃く描かれていると思うんです。ヤマさんのレビュー読んで、もう一つの物語が見えてお得です(笑)。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ミノさん)
 色んな見え方しても、秀逸な映画。一粒で2度美味しい。

ヤマ(管理人)
 そうですねー。

(ミノさん)
 あの刑事だけで物語一本作れそうなぐらい深い人物ですもんね。冒頭に、刑事が医者と自分たちの年収を比べてボヤくシーンありましたが、あの二人の映画も見てみたいです(笑)。

ヤマ(管理人)
 直接自分たちの年収と比べていたわけではなく、村の診療所の医師の給与待遇がどれくらいかを問い掛けてその金額に驚くといった遣り取りでしたが、あれは本当は不自然で、刑事がそのへんの事情を知らないとは思えませんでした。訊かれたほうの刑事は、確か「四百万くらいか?」なんて答えてたような気がします。それとも、村の診療所勤めだとそれくらいに安いから成り手がいないのだろうというような認識が普通なんでしょうかねぇ。
by ヤマ(編集採録)



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