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今 私が思うこと「ソ連邦崩壊」
同名文集('92. 4. 5.)掲載
[発行:グループ・ベル]


 ソヴィエトの解体で共産主義は死んだとか、マルキシズムが否定されたとか、自由主義の勝利だとか宣伝されると、何か胡散臭いものを感じないではいられない。ソ連の解体の過程は「上部構造(政治)を規定するものは下部構造(経済)である。」というマルクスの史観の見事な例証ではあっても、彼の歴史観の本質的誤謬を証明するものではないという気がする。確かに共産主義を目指すという建前でとられた社会主義体制の矛盾と欺瞞は見事に露呈し、否定されたと言えるかもしれない。しかし、それすらも、体制としての社会主義が理念としての社会主義を何ら実現できていなかったことの証明になっているのに過ぎない。では、理念における社会主義とは何だったのだろう。

 近代以降、人類が人間に固有の権利すなわち基本的人権として、初めて人類に対して普遍的に認めようとした価値が「自由」と「平等」であった。人間というものが本質的に自由と平等という価値を求める存在なのかどうか、すなわち、人間に普遍的に必要な価値と言えるかどうかはさておくにしても、それらの価値は近代以降、少なくとも人類が普遍的に目指すべき価値になったとは言える。そして、「先ず自由を、そして平等に。」というのが自由主義で、その逆が社会主義だったような気がするが、いずれの主義の許であれ、後段は無論のこと前段すら現実には実現し得ていないのが人間社会の実態であろう。その点においては、どちらが正しかったという性質のものではない。

 ただ現実の体制として社会主義体制が崩壊しつつあるのは、紛れもない事実である。しかし、それは体制の両輪とも言える“集団統治による政治”も“計画経済”も有名無実化して、権力構造化していった体制の腐敗が終焉を迎えたということであって、滅びに至るほどの腐敗と権威の喪失を招けば、いかなる主義の体制であれ、同じ結末を迎えるのである。

 “集団統治”と“計画経済”という点に目を向ければ、皮肉なことにそれらが目指したものを結果的に最もよく実現しているのは、ソヴィエト社会主義の崩壊を最も歓迎している国の一つである日本ではないかという気がする。今、国際的に有力とされる国々のなかで権力構造を持たない国は、無論のこと存在しないが、権力構造におけるヒエラルキーが極めて解りにくい国として日本はつとに有名である。政界であれ、財界であれ、トップとされる者がいるのに、トップがトップとして君臨することがほとんどない。現首相(宮澤喜一)を見るまでもなく、日本は集団統治により、強権力が存在しながらその集中があまり見られない珍しい国なのである。それは必ずしも悪いことではないが、そのことのために、権力の側にいる者が権力者としての自覚をあまり持っていない、換言すれば、非常に無責任な体質を生みやすくなっている気がする。一方、“計画経済”を実現するうえで最も必要なものは、その前提となる国民の経済観念と経済活動の同質性ということである。日本は、一億総中流意識と皆サラリーマン化、そして悲しいほどに蔓延した拝金主義の許に、国家統制による計画の強要を必要としない形で、国家的に統合された経済発展を達成することができた。それは“計画経済”と言うよりも、肥大化した法人による“市場経済における調整経済”だと思うが、そこで行われる調整は“市場経済”の原理である競争の公正さを保証するためではなく、競争によるリスクをできるだけ排除するための調整である。諸外国に比して抜きん出た日本の経済競争力は、その賜物だという気がする。社会主義国が仮想敵国としての地位を低下させたのと連動して、日本がアメリカにとって最も気に入らない国の一つとして浮上してきているのは、そういうことなのではなかろうか。
当時、日本叩きがアメリカ議会で公言されておりました。

by ヤマ

'92. 4. 5. 文集『今 私が思うこと「ソ連邦崩壊」』



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