『東京スタンピード』を読んで
森達也 著<毎日新聞社単行本>


 確かに論評やエッセーは見かけるものの森達也の肩書に作家とあるのが不思議に思っていたら、小説を書いていることを知り、手にしてみた。2008年の著作だが、昨今、当時よりも遥かに顕在化している問題に焦点を当てていて、実に興味深かった。世の中が向かって行っている方向を的確に捉えていたからなのだろう。

 読み始めて早々に出てきた会話「本当に政治家からの圧力があったのかな」「さあな。そもそも政治家が呼びつけたのではなく、局の幹部が自分たちから出向いたとの説もある。つまり自主規制だ。でも自分たちで規制しているという意識はない。自覚がない。どっちにしても表現や報道の自由が聞いてあきれる。自分たちで自由を狭めているのだから」(P14)というのは、NHKの番組編集に安倍内閣副官房長官(当時)と中川昭一衆院議員(故人)が2001年に圧力を掛けた旨の報道を朝日新聞が行った2005年に、当時、自民党幹事長代理と経産相になっていた両氏が抗議して、法廷闘争を含む大きな社会問題になった出来事を踏まえたものなのだろう。明確な圧力があったのか、なかったのかは、ちょうど慰安婦問題での“強制”や強姦事件での“合意”のように、非常に主観的な要素が高いので、その有無を問うても結論は容易に出ないというか判別は困難だろうと思うし、より重大なのは原因よりも結果のほうだろうと思うのだが、放送禁止歌['99]を撮り、日本のメディアの自主規制について強い問題意識を提示していた著者も、同様に考えているような気がした。

 本作の終盤にも「圧力が働いている場合もありますが、そんなケースはみんなが思うほど多くはないようです。いわゆる自主規制的な要素がとても強い。でも自分たちで規制しているという自覚がないんです。」担当医は小さくうなずいた。「自覚なき自主規制ですか。なるほど。それでは確かに加速するばかりですね。誰もブレーキをかけようとしないのだから」(P229)といった対話が出てくるのは、それゆえなのだろう。圧力の有無も看過できない問題ながら、“自覚なき自主規制”は、それよりもずっと重大なことのような気がする。

 そのうえで、最初の会話に続く描出は言ってから岡林は、テレビはもうダメかもしれないなあと吐息をついた。視聴率はジリ貧で広告収入は下がる一方だし、報道や表現への欲がないし使命感も消えたし誇りもない。着るものもダメなら中身もダメだ。何よりもダメだと言われることに馴れすぎている。つまり本当にダメになりかけているという危機感がない。だからもう本当にダメかもな。(P14)となっていた。テレビの世界で生きてきていた著者の本音なのだろうと思う。そして事態は、本書刊行時よりも遥かに悪化している気がしてならない。

 また、近未来を語ったフィクションの本作で不思議だ。街であれほどに激しい騒動が起きているというのに、なぜかテレビでは報道されていない。(P292)と綴られていた現象が、本作刊行から2年余り後に起こった東日本大震災後の反原発デモや大規模集会をリアルタイムでは全く報じることがなかったテレビの姿を見事に先取りしていて、恐れ入った。街中に特別警戒実施中などのポスターが貼られ、監視カメラが増え、市民ボランティアが数多く組織され始めた2007年は、戦後最も殺人事件が少ない年だった。でもメディアはこれを積極的に報じないままに、不安と恐怖ばかりを強調した。事件の凶悪性や残忍性ばかりをくりかえした。だから幻想の体感治安が悪化する。危ない社会なのだと誰もが思い込み始める。でも仮にそうであっても、戦後最も殺人事件が少なかった年から七年が過ぎた現在、結果的にはこれほどに治安が悪化してしまった理由がわからない。(P233)と記された2014年を既に過ぎてしまった現在から見ると、普通人の群集による大量虐殺は起こっていないけれども、2014年のニュース。竹島の沿海で操業していた日本の漁船が韓国の巡視艇に拿捕されました。…アメリカではハリケーンが次々に発生してアラバマとテキサスで多大な被害を出している。連続幼児殺人事件の犯人はまだ黙秘を続けている。…福岡では60代半ばの男性が10代の少年に刺し殺された。どうやら行きずりらしい。昨夜未明には新宿でも同様の事件が起きた。たぶん僕が帰り際に出くわした事件だ。犯人は逃走中。画面はスタジオ。司会者の隣に座っていたコメンテーターが、眉間に深いしわを寄せながら言う。「ここのところ若い男性が60代の男性を標的にした殺人事件が増えていますね。被害者のほとんどは、いわゆる団塊世代です。…これに対して凶行に走る若い男性の多くは、非正規雇用者が多いようです。彼らがなぜ団塊世代を目の敵にするのか、早急にこの謎を解明しなくてはなりません」僕はチャンネルを変える。犯人は非正規雇用者が多いとコメンテーターは言ったけれど、20代男性の半分以上が今や非正規雇用者なのだ。あまりにも杜撰で意味のないコメントだ。でもきっとテレビを見ている人たちの多くは、まともな仕事に就けないその恨みと鬱憤でキレた非正規雇用の若者たちが、かつてこの国の繁栄を築いた団塊世代に牙を剥いているとかなんとか思うのだろう。 画面には別の局のニュース。トイレットペーパーがまた値上げ。原因は原油価格の高騰。ガソリン価格は今や10年前のほぼ二倍。身の回りのほとんどの商品が激しく値上がりしている。中東ではイスラエル国防軍がシリアへの軍事展開を始めました。アナウンサーはそう言った。以前は軍事展開ではなく軍事侵攻という言葉を使っていたはずだ。言葉がいつのまにか変わっている。…文科省がキレ脳の研究を再開することを昨日発表しました。国民の要望に早急に応えねばならないと大臣は語っています。(P101)というふうに描かれた2014年には全く違和感がないどころか、実際にそうだったような気さえした。以前は暴力団関係者の抗争がほとんどだけど、最近は刺すほうも刺されるほうも普通の人たちだよ(P98)に頷き、日本の人、一人ひとりはとても優しい。親切です。でも大勢になると急に変わります。冷たくなる。怖くなる。とても不思議です。(P231)とのブラジル人マヌエルの言葉に、昨今のネトウヨの暴言やヘイトスピーチのことを思い、ドキリとさせられた。

 戦後最も殺人事件が少ない年だった2007年というのは、著者が新聞のコラムでも書いていたような覚えがあるが、現実には治安が悪化していないにもかかわらず、悪化していると誰もが思っていたような気がする。このことに対して、…でもほとんどの人の思いは修正されない。むしろ時間とともにますます強くなる。意識と現実のずれがどんどん大きくなる。そうするとやがて、現実のほうがこのイメージの集積に合わせ始めます。つまり一人ひとりの思いの集積が、状況を変えてしまうのです。…実際に今、この国の治安はとても悪化した。かつてはあれほどに治安の良い国だったのに、今ではまるで国全体が途上国のスラムのようです。…思いの集積はやがて実体化されるのです。この国における近年の治安の変動は、諸外国と比べてもきわめて特異な現象です。なぜ他の国ではこんな現象が起きないのか、その理由はおわかりですか…つまりこの国の治安が実際に悪化した最大の要因です。」「メディアですね」「そのとおりです。特にテレビ」「…一極集中や付和雷同などの属性も相まって、この国の人たちはメディアの影響をとても強く受ける。その意味ではメディアだけに責任を押し付けることはアンフェアかもしれません。しいて言えばメディアと社会の相互作用です。(P242)としてあったことが印象深い。

 本作の一番の主題は、メディア批判ではなく、表題になっている“スタンピード(集団暴走)”(P286)にいつ向かうかもしれない臨界の迫っている現在の日本社会そのものへの警告だったように思う。本書での言葉に沿って言うならば、“集合無意識に対するレジスタンス”(P245)に著者は挑んでいるのだと感じた。その観点からのキーワードとも言うべき“相転移”という耳慣れない言葉が登場するのは、ラリってコンビニに押し入りケチな強盗を働いた若者が警備員と市民パトロールを含む群集に袋叩きにされる場面の直前に当たる後半に入って間もない辺りだった。

 一人称語りの本作における「僕」たるテレビ番組制作会社のディレクター伊沢が、大学時代に同じ映画研究会に所属し一年間の半同棲生活を共にした元新聞記者の専業主婦(P26)である飯島令子から科学環境部に在籍した時分の知識として教わっていた。相転移って知ってる?…簡単に言えば、水が氷になったり水蒸気になったりすることよ。お豆腐を煮たら固くなったり、下敷を曲げるとある瞬間にぽっきりと折れる現象も相転移よ…マクロな視点で水が氷になるとき、つまり温度が0度近くになったときの状態をミクロな視点から見たら、部分的な水の状態と氷の状態とが共存しているのよ。これを“ゆらぎ”とも言うの。常に揺れ動いている。相の境界におけるこの状況は、科学用語的には“臨界”と呼ばれている。…“ゆらぎ”が重なったとき臨界が現れる。水が水蒸気になるときは、外部から熱を与えたり奪ったりすることが必要だけど、地震の場合は地殻が自ら臨界を作り出す。これを物理学用語では自己組織化というの。…(P184)

 群集心理という概念を初めて提唱した学者とのギュスターヴ・ル・ボンは“断言・反復・感染”の三つを、群集が為政者に先導される際のキーワードにあげています。曖昧な述語は使わず、合理的な説明や推測は排除して、語彙はなるべく少なくせよとの提案でもあります。もしもそういう政治家が支持されるような状況だとしたら、相転移のアラートが鳴り始めていると考えた方がいい。(P266)との植木等【集合無意識研究所所長・国際ジェノサイド機関予防局長】(P238)の弁により、当時の小泉政権高支持の状況に警鐘を鳴らしていた。そしてル・ボンのこの本の初版は1895年。オウム真理教による地下鉄サリン事件のちょうど100年前ですな。そしてこの100年で、為政者は群衆を扇動するうえで、とても有効なツールを手に入れました。…メディアです。自律的な“断言・反復・感染”装置です。映像メディアと音声メディアが誕生したのもちょうどこの時期です。どちらも20世紀初頭。それまでのメディアは文字でした。だから教育を受けていない人には意味がない。そして当時の一般の人の多くは無学でした。だから伝わりようがない。ところが映像と音声のメディアは教育を必要としません。つまり大規模なプロパガンダが可能になった。だからこそファシズムが同時多発的に歴史に登場した(P267)との弁を奮わせていた。だが、それが有効に作用するのは、そう胃腸が丈夫ではないと言いながらも仕事柄、世界各地の生水を飲んできた伊沢が身体的に知っている人間の特性とも言うべき“耐性”と“馴致”(P25)というわけだ。そして、かつて日本では冴えないスポーツの代名詞だったのにある日気づくと、サッカーは女の子たちに大人気のスポーツになっていた。不思議だ。ルールが変わったわけでもないし圧倒的なスター選手が生まれたわけでもない。でも気づくと変わっていた。そんな事例はけっこうある。たぶん何かの一線を越えたのだろう。(P53)ということが起こるのが人間社会なのだ。

 それは鏡に水をはってカエルを入れて蓋をする。次にその鍋を火にかける。いきなり熱湯に入れられたらあわてて飛び出すはずのカエルは、水の温度変化がゆっくりなのでその変化に気づかず、やがてすっかり茹ってしまうとの有名なたとえ話がある。 つまりこのカエルは、ぬるま湯と熱湯の境界に気づけなかった。気づかないうちに事態は進んでいた。 僕も決して敏感なほうではない。熱されたお湯の中でいい湯だなと鼻歌を唄うタイプだ。でもここしばらくは、年のうち半分ほどはこの国にいない。言い換えれば鍋の中に浸っていない。出たり入ったりしている。だから温度の変化がとてもよくわかる。空港や行政府の周囲などでマシンガンを持った武装警官を目撃する国は決して少なくない。武器を携帯すると人はどうしても尊大になる。だから少し前までは、帰国するたびこの国の治安のよさを実感していた。水道から出る水を好きなだけたっぷりと飲めて、マシンガンを持った警官や迷彩服を着た軍人の視線を気にせずに歩ける国に生まれてよかったと思っていた。でもどうやらそれも変わりつつある。(P117)という形で訪れるのだろう。守りを固める。確かにそれは第一段階。でもそれだけじゃまだ安心できない。次の段階で人は敵を見つける。逆説めいているけれど、見えない敵の存在に脅えているときにいちばん安心できる方法は、その敵を可視化することなんだ(P85)という手法で確実に日本社会が変化してきている部分は、まさしく本書に綴られたとおりのように思えてならなかった。

 アパートでチラシを撒いている男が現行犯で逮捕されたことについて、別に珍しいことじゃない。数年前まではかなり問題にする人がもいたけどな。最近はもう馴れっこになってきた。メディアももう話題にはしない。伊沢はあまり日本にいなかったから違和感があるのかもしれないけれど、チラシ撒きやデモ隊の逮捕はもう普通の日常になっている(P126)といった会話が出てくるのは、2004,5年のいわゆる立川反戦ビラ事件、葛飾政党ビラ配布事件、国公法弾圧堀越事件、世田谷国公法弾圧事件などを前提にしてのことなのだろうが、…刑事訴訟法の条文の解釈などどうにでもなる。警察がその気になれば誰だって逮捕できる。重要なことは条文に何が書かれているかではなくて、警察や検察がやることに対してこの社会がどのように評価するかだ。社会が容認するなら治安権力は肥大するし暴走する。これは法則みたいなものだ。だから珍しいことではない(P126)と語らせていた著者は、本書から十年も経たないうちに、刑事訴訟法どころか憲法ですら“解釈改憲”などという言葉が罷り通る時代が訪れることを予見していたのだろうか。ならば掲示を目にしたときにそう抗議すべきだろう。何も異を唱えないのなら、それは黙認したことになるんだよ。黙認。わかるね。あなた認めたんだよ。それがいざ自分が当事者になった瞬間に、いきなり不当だとかなんだとか言うのは、私に言わせればご都合主義だね(P161)との刑事の弁を読みながら、少々忸怩たる思いに駆られた。

 2007年当時に、十年も経たない2014年を想定して、東京で集団暴走が発生した三日目の段階で判明している死者数3,400人あまり、行方不明者およそ6,000人、重軽傷者は24,000人を越え、逮捕者は一晩だけの拘留を含めれば東京だけで1,400人、加害者の数はたぶん数千人と報じられる事態が発生する小説を書くなかで、著者はこの社会は人々の善意を前提に成り立っていると誰かが言っていた。貯水池に毒を投げ込めば多くの人が死ぬ。新幹線の線路にちょっと細工をするだけで大惨事になる。でも人はそこまではしない。これからのことはわからないけれど、少なくとも今までは、そこまでする人は現れなかった。そしてこの社会の側も、そこまでする人は現れないと無自覚に思い込んでいた。 人は本質的に善意の生きものだ。悪意では大勢の人を殺せない。人はそこまで強くはない。でもこの善意が正義や大義に名を変えながらいろんなギアの潤滑油になるのなら、人は人を抵抗なく大量に殺せるようになる。(P295)と指摘し、過冷却の状態の水は、些細な物理的刺激で一気に氷結する。『碑』(映画)はそのきっかけになった。サッカーもきっかけになった。プレカリアートのデモ隊もきっかけになった。不安が感染する。だから人は不安の根源を探す。なければ無自覚に作る。この仮想敵への不安や恐怖をメディアは煽る。増幅する。不安と恐怖は内圧を急激に高めながら出口を探す。自らを守るため。愛する人を守るため。過剰な防衛の意識は過剰な攻撃性へと転化する。こうして人は人を殺す。何千人も。何万人も。何度も同じ歴史をくりかえす。人が死ぬ。殺される。わかっちゃいるけどやめられない(P301)と叫ぶ。

 だが、加藤や植木所長の弁を借りてほとんどのジェノサイドは、正義や大義や愛するものを守るなどのセキュリティへの希求が駆動力として働いています。そしてほとんどの戦争も、やらねばやられるとの自衛意識が高揚して、正義や大義と結びつきながら始まります。つまり悪意ではなく善意。だからこそ誰もが加害の側に回る可能性を秘めている。そんなことを人々に本気で実感させることができれば、ジェノサイドは必ず阻止できるはず(P317)と語り、僕はうなづいた。わかっている。これから自分が何をすべきかを僕はわかっている。方向はわかっている。あとは真っ直ぐ歩くだけだ。がんばる。そろそろ起きる。(P325)と結んでいることに心打たれた。

 それと同時に、本書から数年を経て著者が「一度落ちるところまで落ちないと、この国は変わらない」と、深い絶望を漏らしていたのを何かで読んだことを思いだした。


by ヤマ

'15. 4.10. 毎日新聞社



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