『政党が操る選挙報道』を読んで
鈴木哲夫 著<集英社新書>


 これも随分前の新聞での紹介記事で見かけて読んでみた本だ。2005年の小泉首相による、郵政民営化をシングルイシューにした総選挙で圧勝した際に、僕の目には、TVと小泉が結託して劇場型選挙を演出しているように映った出来事を、自身が放送記者である筆者がどう捉えているかに興味があって買っておいた2007年発行の新書を今ごろになって読んだ。

 飯島政務秘書官や自民党コミュニケーション戦略本部の世耕参議院議員によって気づいたときにはやられていたというのが、先の自民党大勝の総選挙(P18)などと記し、メディアの側の敗北というふうに位置づけていたが、本当に気づいてなかったか、僕は大いにアヤシイと思っている。積極的に乗じていたとしか思えないタイアップぶりをそのように語りたがるのは、視聴率至上主義の節操なき無責任ぶりを直視できていないからのような気がした。意地の悪い読み方をするならば、政党側の操作手法の周到さを具にし、メディア側が敗れても仕方がなかった練達ぶりをアピールすることで、むしろ免責すると共に、敗北という位置づけによって対立軸を演出し、さも抗う部分を内在しているかのように語ることで弁明しているようにも感じられた。

 いつの間にかといった間抜けさでもって、筆者自身が引いている選挙から一ヶ月半経った一〇月二二、二三日に朝日新聞が実施した世論調査でも、メディアの選挙報道の影響を受けたと答えた人は五三%と半数を超え、中でもテレビをもっとも参考にした人が五一%、二位の新聞は四〇%だった。しかも、自民党に投票した人に限ってみると、テレビをもっとも参考にしたという人は五五%に跳ね上がる。そして、メディアが特定の政党や選挙区ばかりを取り上げていた印象を持ったかとの問いに対しては、五〇%が持ったと答えた。(P103)というような事態が起ころうはずがない。本当に絵になるものに飛びつき、刺客やマドンナ、造反といったインパクトの強い派手なキャッチコピーを駆使してしまうというテレビの習性が露骨に表れた(P107)だけだったのだろうか。“習性”などという言葉で片付けているところに、非常に意図的なものを感じた。世論誘導の怖さを封じ込めるのもまた、今回は敗れてしまったが、テレビメディア自身にかかってくるのだ。テレビがいかに政治現場の真偽を取材し、是々非々で報道する力を持てるか。新たな覚悟を迫られることになったのではないか。(P108)という一節が、少し時を置いた今読むなかで、いかに空しく響き、何も活かされないまま推移してきているかとの思いを強くした。

 通常政治をニュースとして扱う報道番組以外に、ワイドショーや報道系の討論番組、さらにはバラエティ番組などで政治が盛んに扱われるようになった(P116)のは、いつ頃からだったか…。筆者は、自民党が政権を失い細川政権が発足した一九九三年を起点に政治がテレビを利用し始めた……(P112)としているが、ワイドショーのニュース化、ニュースのワイドショー化である。“視聴率を言われる限りこの傾向は変わらない”というのが現状(P148)というのは、決して政治側の意図によるものではないし、視聴率を言われるようになったのが一九九三年からというわけでも決してないにもかかわらず、視聴率に責任転嫁するような無責任ぶりこそが一番の問題なのではないかという気がしてならない。

 メディアが盛んに“二大政党の選択”を争点として伝えたことで、共産党、社民党という第三極にある政党は敗北した。(P162)ことや、富田メモが明らかになった七月下旬や八月上旬にかけて、世論調査は、“参拝すべきでない”が上回っていたわけだから、この短期間での逆転は、明らかにテレビメディアが加担した小泉劇場の影響である。(P219)といったことを引き起こし、要は、テレビに露出して、かっこよくやれば、そのあとの世論調査の支持率はぐっと上がる。北に行った意味は何なのか、靖国とは何なのかといった深い話は関係ない。今小泉さんとか安倍さんがやっていることは、好感が持てるなあ、と。つまり、厳密な支持率ではなくて単なる好感度ではないか(P242)という風潮を醸成していることへの反省と危機意識による結論が、私なりの結論は次の通りである。まずは、政治報道を、少しでも、いわゆるネガティヴ報道に変えていくことだ。それは、政治家を褒めない。その政治家の政策的弱点や政治家としての資質を批判することに力点を置くのである。(P247)といった体たらくでは何とも情けない。

 もちろん政治権力との結託や提灯持ちなんぞは願い下げだが、反動的にネガティヴ報道に転じるのでは、羹に懲りてなますを吹くような的外れというほかない。ネガティヴ報道で政治不信を煽って、何を果たそうとするのだろう。与党権力と結託しているわけではないぞとのアリバイ証明にすぎないようなことを本気で考えているのだろうか。だとすれば、ますます以て、あのときの報道は、本当のところは“テレビの敗北”なんぞではなくて“テレビの結託”だったということを問わず語りに吐露しているようなものだと思わずにいられなかった。
by ヤマ

'11. 8.12. 集英社新書



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