全国映連第44回 映画大学 in 今治
会場:今治市総合福祉センター“愛らんど今治”

 二泊三日で8人の講師の話を受講する映画大学に招待されて参加した。1日目は、午後から始まったのだが、終ったのが午後八時半という長丁場。でも、なかなか充実した時間が過ごせて楽しかった。
 第1講のジャーナリスト青木理による「国家権力とメディアの深層」は、司会から発言メモを公表しないようにとのアナウンスが予めあったので、特に過激な発言やデリケートなコメントがあったようには思わないが、何も記録しないようにして、質疑タイムに僕が行った質問のみメモ。
 朝日新聞バッシングがなぜ今頃になって慰安婦問題を蒸し返す形で行われたかについて僕は、かねがね根っこは、朝日新聞がいつまでも「プロメテウスの罠」の調査報道を止めないことに苛立った原発利権勢力が、朝日叩きをしたくて仕掛けたことではないかと見ている。そして、朝日新聞を叩くという目的からすれば、かねてよりネトウヨたちがその姻戚関係などから執拗に攻撃していた植村記者をターゲットにすることがネタ的効用が高いとみて、彼が吉田証言に関する記事は書いていないのも承知の上で、慰安婦問題における誤報とからめて週刊誌に記事掲載をさせるように仕組んだように感じている。そこで、そういう話はどこからも出てきていないのか訊ねてみた。
 あのときの慰安婦記事誤報問題の炎上には妙に唐突感があって、もし「プロメテウスの罠」それ自体のなかで、後に出てきた例の吉田調書スクープにおける誤読見出しの問題が、もっと早くに起こっていれば慰安婦問題の蒸し返しは仕掛けられていなかった気がしてならないからだ。
 事前アナウンスに沿って青木氏の回答も割愛するが、後で主催者スタッフからは、とても興味深い質問だったと言ってもらった。

 第2講の小栗康平監督による「私の映画流儀」は、対談者の明石シネマクラブの岡本氏の引出しが巧みで、妙味に富んだ興味深い話を聴くことができたように思う。ストーリー性を拒むことやロングのフィックスで撮ることにこだわるのはなぜかとの問い掛けに対して、台詞を発する役者をアップで撮ると会話における主体を話す側に限定する形になることを作り手として決めてしまうことになるからだというようなことを語り、コミュニケーションとしての会話というものは、そのような形で主体が決められるべきものではない気がしているというようなことを語っていた。物語映画への抵抗は、どうやら「西洋主体に発展してきた映画とは違う在り方」に関心を持っているからのようだ。西洋型の“人・言葉を軸とした世界観”とは異なる日本的な“風景・空気を捉える世界観”を映画として表現したいと思っているというような回答をしていた。
 新作の『FUJITA』は、元々は持ち込み企画で自分から関心を持った人物ではなかったが、そういう観点からの興味深さが自分の問題意識と繋がるところもあって自ら製作するに至ったということらしい。物語性ということにおいても、単純に戻ったというのではない形で『泥の河』のところに螺旋的に戻った気がしているというような話をしていたので、俄かに『FUJITA』を観たい気持ちが強くなった。高知に戻ったら、むかしフジタの展覧会を観たのがいつだったかチラシファイルを点検してみようと思った。
 軽口を交えつつ語る小栗監督の“言葉を丁寧に選ぶことに対する誠実な感じ”に好感を覚えた。こういうのが「丁寧な説明」だと思う。映画製作における労働現場としてのフランスと日本の違いについての話も非常に面白かった。

 第2講のあとは、イサム・ヒラバヤシ監督のアニメーション作品『663114』と三上智恵監督のドキュメンタリー作品戦場ぬ止みの試写会。どちらとも触発力に富んだ作品だった。

 2日目は、朝10時から第3講。白鳥あかねさんによる「スクリプターはストリッパーではありません」という昨年発行された著作タイトルと同名の業界経験談。聴き手は呉映画サークルの山本氏で、事前に著作も読み、よく勉強していることが窺える運びだった。さすが日本映画全盛期から今に至るまで現場最前線に居続けてきた生き証人の話だけあって、面白いことこの上なかった。仲代達矢も何かで言っていたように思うが、「長く生き残った者勝ちで遠慮なくものが言える」という年長者の特権的な自由闊達さが気持ちよく、恩師たちへの思いを語っても、羽目を外したエピソードを披露しても、もはや屈託もなく心地よい。お話を聴いていて、西河克己監督の『孤独の人』を観てみたくなった。
 印象に残ったのは、映画というものは、「先ずはアミューズメントとして面白くなければいけない。そして、そのなかには思想がなくてはいけない。思想なきアミューズメントもまたダメだ」と語っていたことだ。そういう意味でのことだろうと思うが、近代映協から新生の日活に入社して栄枯盛衰をともにしてきたなかで、一般映画もロマンポルノも同じだったと明言していたタテ師ならぬヨコ師と呼ばれたりもしたという稀代のスクリプター並びに脚本家の話に大いに魅せられた。

 午後からの第4講は映画プロデューサー李鳳宇による「私と映画」で、今回の講義のなかで最も楽しみにしていたものだ。事業に失敗したのは、ファンドという手法に挑んだことと韓国に作った映画館で受けたダメージによるものだったとの話から始めたシネカノン代表辞任以降の話は、いずれも興味深いもので刺激的だった。最近の興味は、昔は読まなかった経済学の本だそうで、成熟社会においては、“あらゆるものの商品化”に向かうことを余儀なくされる「経済成長率」という指標の役目は終わったという観方に共鳴しているそうだ。
 そして、最近観て気に入った『マッドマックス』や『サンドラの週末』のような“強い映画”を作りたいと言っていた。そのうえでは、誰をどう見せるかがポイントだと思っているそうで、ケン・ローチのオーディション方法やイ・チャンドンのオアシスがベネチア上映会場で引き起こしたざわつきのことを意識していると話していた。いろいろ準備中の企画や映画作品の話もあって、今後が楽しみになった。

 1時間弱のセッティング休憩を経た第5講は、地元の南海放送ディレクター・映画監督の伊東英朗による「『X年後』制作から見えてきたこと」。放射能を浴びたX年後』は二年前に観て映画日誌も綴っている作品だが、伊東氏にとって変数Xは途切れることなく続いているからこそ「X年後」なのだなということがよく伝わってきた。ビキニ環礁での度重なる水爆実験は、第五福竜丸事件以後も続くどころか増加したなかで報道も同時代に頻繁にされていながら、なぜ今や第五福竜丸に限定された形でしか人々の記憶に残らなくなっているのか、福島原発事故も同じような限定が働くことになるのではないか、といった視点に共感を覚えた。

 午後6時半からは、会場を今治国際ホテル23Fラウンジにかえての交流会。しばしば高知に取材に来ているという伊東監督といろいろな意見交換をすることができた。

 3日目の午前中の第6講は、土肥悦子シネモンド代表・こども映画教室代表による「映画館と街、子どもと映画」だった。彼女がコミュニティシネマとしての公設民営映画館の設立を自治体に求めていたことや、その具体的なソフト展開の例示の一つとして“こども映画教室”に取り組んでいたことは知っていたが、金沢での公設民営映画館の実現には見切りをつけざるを得なかったことや、こども映画教室の取組みがここまで進化し発展していることは知らなかったので、いささか感動した。
 '90年に僕も観ている『100人の子供たちが列車を待っている』を手本にプレ映画装置の工作から始めた映画教室が今や一流映画人のもとで子供たちに映画の製作と上映を自身の手で行わせるようになっていて、その様子をNHKで紹介された番組ビデオや子供たちの撮った作品そのものの映写を観ながら、大いに感心した。
 映画を素材にした教育こそがメディア・リテラシーを涵養するうえで最も適しており、重要であることについては、僕も十余年前に地元紙に掲載した随想「映像言語と読書で触れており、大いに共鳴するところだ。土肥氏が加えて制作に係る共同作業や折衝などによる人間教育としての効果を挙げていたことにも大いに共感を覚えた。彼女のライフワークともなりそうな“こども映画教室”を、言うように公教育の場に定着させることができたら、どんなにいいかと思うが、彼女の提唱する“こども映画教室”の2大ポリシー「大人は手出し口出しをしない」「一流の映画人と出会わせる」をそのままにして、公教育としての全国一律性実施を担保する形で「一流の映画人と出会わせる」製作現場を確保することは、なかなか困難なことのような気がしてならなかった。
 後者を抜いた形での公教育の現場への導入ですら困難だと思われるが、これは是非とも実現してもらいたいことだと思った。

 午後からの第7講は、石井裕也監督に加え彼とコンビを組む作曲家・音楽プロデューサー渡邊崇による「映画と音楽のフシギな関係」だったが、石井監督が「音楽は諸刃の剣で、芝居の色付けに大きな影響力を持っていて、音楽が強くなりすぎると芝居を殺すし、のべつまくなく垂れ流されることで時に音楽すら殺してしまう場合もある」と聴き手の女性に答えていた言葉に大いに共感した。
 二十年前に刊行してもらった拙著にて、第1部第1章(2)映画を構成する諸要素に「音楽・言葉・音」という項を設け、映画作品の基調となる印象を…決定づけているのは、場合によっては、映像以上に音楽ではないかという気がしますP46)と記し、映画音楽というものにも大きく分けて二つのタイプがある…ひとつには、メロディアスで個性的な楽曲として作品とともに耳に残っていくもの。もうひとつは、主に響きとして場面の演出に貢献し、作品に溶け込んでしまい、縁の下の力持ちとなってしまうものなどとしていた僕としては、非常に興味深い話が聴けて面白かった。
 また、お二人とりわけ石井監督の個性に、癖のある面白さが宿っていて、まさしく彼の映画作品と通じてくるようなところがあって、可笑しかった。それにしても、クレバーな二人で、聴き手の方も実に聡明で事前準備もよくしており、非常に刺激的な話が巧まざるユーモアとともに次々と繰り出される良い対話になっていた気がする。なかなか大したものだと思った。

 閉講式のとき、思い掛けなくも招待聴講者として紹介され、予告もなしに一言とマイクを向けられ少々慌てたが、充実の三日間の映画大学だった。

by ヤマ

'15. 7.18.~20. 今治市総合福祉センター“愛らんど今治”



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