『交渉術』を読んで
佐藤優 著<文藝春秋 単行本>


 新聞コラムなどでその明晰さと視座の基軸に窺える独特の価値観が気になっていた論者の2009年の著作である本書を手にしてみた。ちょうど先ごろ(1~2か月前)TBSが夕方の報道番組で、小泉政権時に外務省で現憲法下での集団的自衛権の行使を可能にする研究を行っていたことをスクープしていたのを観て、あの当時、更迭された田中真紀子外務大臣が外務省のことを“伏魔殿”だと言っていたのは、そういうことだったのかもしれないと思ったからだ。

 折しも今現在、安倍内閣が強引に法制化を図っている、いわゆる安保法制の元になった安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会の報告書を取りまとめた座長が柳井俊二元外務事務次官であり、かのアーミテージから「ショー・ザ・フラッグ」などと言われたときの駐米大使であり、外務省機密費流用事件(本書にいう“松尾事件”)で更迭されながらも、今に至るまでアーミテージと安倍首相を繋いで取り持っている人物で、本書にいうところの“アメリカ・スクール”の最優等生であることが推察されたことも作用したからでもあった。

 刊行時、若くして既に死去していたロシア語通訳で作家の米原万里を16 米原万里さんの仕掛けと章題の一つにまで設けて著作のなかで非常にうまく使っていて、とにかく読み物として滅法面白かった。“外務省のラスプーチン”とさえ呼ばれた海千山千の専門家で、極めて“インテリジェンス”に長けた人物の言うことだから、その全てを額面どおり受けとめることはできないけれども、インテリジェンス社会でのゲームのルールとして真実をすべて言わなくてもいいが、積極的な嘘だけは絶対についてはいけない(P53「2 本当に怖いセックスの罠」)とする著者は、彼の矜持として「交渉術」を標榜する自著においては少なくともそのインテリジェンス社会でのルールを課しているようには感じられた。

 それからすれば、田中外相が伏魔殿だと言ったのは、多くの人々が憲法違反だと考える集団的自衛権を現憲法下で行使する手立てを外務省で研究していたということよりも、イスラエルからロシアに関する情報を取ることが重要なことが分かっていても、杉原千畝名誉回復を推し進めてイスラエルとユダヤ・ロビーに大物として認知された鈴木宗男元衆議院議員を排除するために外務省執行部が、国際情勢がわからない検察庁を利用したりすることや外交秘密文書を共産党に流したり、果てには志位委員長に改竄文書を流したりまでして「今だけ金だけ自分だけ」的な既得権益を守ろうとする体質と謀略能力を持っていること(P16「1 神をも論破する説得の技法」、P378~P380「17 交渉の失敗から学ぶには」)を指していたようだと思い直した。

 あとがきを感動的な出来事や、桁違いに面白い出来事に出あうと、出来事と私の魂との間で触発が起きると書き起こしている著者にとって、外交官時代の仕事は飛び切りの触発に恵まれていたのだろうが、田中真紀子元外相が伏魔殿と呼び、東郷和彦元大使がそれにしても、人間の世界は、どうしてこう難しいんでしょうね(P186「8 上司と部下の危険な関係」)とぼやき、著者がこういう職場環境に長くいると「陰険力」がついてくる(P279「13 意地悪も人心掌握術」)とか、部下から恐れられないようではトップではない。…小さなエゴを主張し、部下から恐れられる環境を自ら作り出していたのである。その代償が孤独だ(P288「13 意地悪も人心掌握術」)優れた学者…は、…自己の業績を含め、研究に関して批判的視座をもつようになると、下品な政治家や、見かけ上は上品だが、本質的に下品な外務官僚と付き合わざるを得なくなる現実の外交に関与する気持ちにならなくなるようだ(P314「14 総理の女性スキャンダル」)と述べ、上は外務省ナンバー・ツーの外務審議官、下は入省十年くらいの課長補佐まで、このように鈴木氏に擦り寄るほとんどがキャリア職員だった。そして、そのほとんどが二〇〇二年には鈴木宗男叩きに回った(P386「17 交渉の失敗から学ぶには」)というような世界に身を置くことの気がしれないという気持ちになった。著者のような失職ではない形で優秀な官僚が辞めていく背景の一つには、外務省に限らずこういったことがあるからなのだろう。

 2 本当に怖いセックスの罠で主人公として描かれていた生真面目な性格で、東京大学法学部を卒業した後、民間企業に勤めたが、「個別企業の利益ではなく、世のため人のために仕事をしたい」と考え、外交官試験を受けて合格した。過去に日本で女性とは何人か付き合ったが、あまり深い付き合いにはならなかった。外務省に入った後は、いまはロシア語と英語の実力をつけることに集中しようと考え、特に彼女を見つけようとも考えなかった三十少し手前の外務省キャリア職員というのは、一つの典型と言えるようなものなのかもしれない。そして、6 外務省・松尾事件の真相での会計担当の中堅幹部職員の評として松尾さんよりも松尾さんに甘えている上の方に問題があるんですよ。もともと松尾さんは仕事の鬼みたいな人でした。がんばり屋で、役所に泊まり込んで仕事をする。後輩を大切にして、嫌な仕事や辛い仕事は自分でやる。それから、在外(海外)勤務で貯めた金を東京では、後輩や部下と一杯飲みに行くときに使う。親分肌の人ですが、権限を持つようになってから人格が変わった。(P138)というような点では、政治とは酔っぱらいやすい現象で、意地とか嫉妬心をきちんと統制して、国家指導者が酔っぱらわないようにしておかないと国家が崩れ、悲劇をもたらすと痛感した(P89「4 酒は人間の本性を暴く」)と、今の政治状況にも的中する弁を述べている政治とも相通じるものがあるのが官僚の世界だという気がする。

 そして、国際スタンダードでは、情報は「区分(クォーター)化の原則」が徹底してい(P92)ることに対し、これは日本人、特に官僚と政治家に適用すると効果が大きいのであるが、秘密情報について、相手に質問し、返事が返ってこないときに、「ああ、失礼しました。あなたは知らないのですね」とさりげなく呟くことだ。次の瞬間に相手が、色をなして「そんなことはない。俺はちゃんと知っている」と言って、秘密を語ることが、私の経験則では三割程度の確率である。「情報を伝えられていないということは、重要人物でないことの証拠」というような、情報伝達を巡る日本特有の文化に付け込む(P92「4 酒は人間の本性を暴く」)といった指摘に大いに納得感を覚えた。

 納得感という点では、著者が東京拘置所の取調室で西村尚芳東京地検特捜検事が言ったという自分の金を仕事のために使っている。役人はこういう仕事の仕方をしたらダメだよ…滅私奉公型でも公私の線を一旦越えると、権限をもって組織の金を自由に使えるようになったとき、過去に組織のために持ち出した分を取り返してもいいという気持ちになる。しかし、人間の認識は非対称なので、持ち出した額よりも遥かに大きな公金を流用しても何とも思わなくなる。松尾さんも外務省に対して言いたいことはいろいろあったんだろうけども、自分があまりに汚いことをしていたんで、全て一人で呑み込んじゃったんだと思うよ(P142「6 外務省・松尾事件の真相」)との弁がとても印象深く、結局こういう使われ方をされるようになる世界だということだ。

 そして、何かと言えば国益、国益と御大層に構える界隈の住人が囚われている欲というのは、色、金、権勢の三大欲である点では、三文小説そのままであることを痛感させられたように思う。永田町(政界)は、妬み嫉みの世界だ。人の不幸をよろこぶというのが永田町に生息する人々の特徴だ(P383「17 交渉の失敗から学ぶには」)という住人における“信頼関係”というのは、要は単なる好き嫌いということらしいと感じた。メディアで報じられる言葉としての“首脳同士の個人的信頼関係”なるものに対して、信頼関係が数回直に会ったり話したりするだけで構築されるはずもなかろうにとの違和感が長年抜けなかったが、ただの好き嫌いだと解すれば腑に落ちるような気がした。そして嫉妬心が稀薄であるということは、他者の嫉妬に…鈍感だということだ(P383)との一節に膝を打った。また、鈴木宗男外務政務次官が外務省の抵抗を押し切るようにして杉原千畝元カウナス領事代理の名誉回復を図ろうとしたことの意義と効果(P368~P379「17 交渉の失敗から学ぶには」)については大いに納得感があって、それだけにキャリア外務官僚というものがいかに身内意識でしか物事を考えていないか思い知らされるような気がした。

 そのうえで目を惹いたのは、著者自ら「読者にはなかなか理解してもらえないと思うが」と断りながら内閣総理大臣には独特のオーラ(後光)がある。そして総理官邸には、何とも形容しがたい見えない渦巻きがある。ある限度を超えて、権力の中心である総理官邸に近づくと、この渦巻きに呑まれ、思想が変容してしまう(P314「14 総理の女性スキャンダル」)との弁や首脳会談の際、どのようなスタイルで発言をするかは、総理の個性によって異なる(P262「12 小渕 vs プーチンの真剣勝負」)として、橋本・森・小渕の三氏の手法を紹介したりしながら、日本人は、政治家の底力を軽視する傾向がある(P393 あとがき)と指摘し、私がそばで観察し、頻度の差はあれ、話をする機会があったエリツィン、プーチン、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗の五首脳には独自のカリスマがあった。こういうカリスマをもった人に触れると、「この人のために命を差し出してつくしたい」という気持ちにさせられる。 特に、腹の中で政治家をバカにしていた学校秀才型のキャリア官僚が、総理や閣僚級の政治家のカリスマに触れ、政治家に心酔していく姿をよく見た。狡猾な官僚が政治家を利用していると解釈する人が多いのであるが、ほんとうに官僚が政治家に惚れ込んでいる例は結構多い(P395 あとがき)などと記している部分で、成程と思う部分もありながらこれらを額面どおりに受け取るのはかなり困難で、記述の真意がどの辺にあるのか、いろいろ想像させられた。

 本書に記された著者による外事分析の点では、中国は、日本とロシアが提携して、それにアメリカも参加して、「北方同盟」のような戦略的提携がなされ、中国に対して圧力を掛けてくるシナリオを本気で懸念し始めた(P303「14 総理の女性スキャンダル」)との分析が最も目を惹いた。日露の戦略的提携を破談に導いたのは中国筋の戦略によるものとの観方もあるのかもしれないが、本書刊行から6年余を経て過度にアメリカ従属が進んでいる日本の外交状況を思うと、日露提携を阻んだ最大要因は、外務省内部のアメリカ・スクールとロシア・スクールの権勢争いだったような気がした。「今だけ金だけ自分だけ」の権化のようなものだと思う。

 一九九七年十一月のクラスノヤルスク日露非公式首脳会談以降、外務省内の幹部人事でロシア・スクールが優遇されるようになった。二〇〇〇年までに北方領土が日本領と確認され、日露平和条約が締結されるならば、それに関与した外務官僚は出世する。官僚の職業的良心は出世することである。出世して、権力を手にすれば、権力を手にすれば、官僚は、自らが信じる国益を増進する政策を現実にする可能性が広がる。従って、霞が関官僚の内在的論理では、自らの出世と省益と国益は一体のものと観念されている。(P312)と記された状況に窺える権勢争いに敗れたのが鈴木宗男事件だったということなのだろう。著者が別件について7 私が誘われた国際経済犯罪の章で一般論として、人間が巨悪を行うのは、自らの行為が正しいと信じているとき(本来の意味での“確信犯”[拙註])だ。それに「国益のために正しい」という自己正当化が可能になると、とんでもない悪事をしでかす。(P156)と書いているようなことが、外務省内部で繰り広げられたから、田中真紀子外相は自分が追われる際に“伏魔殿”と呼んだわけだが、うまく田中真紀子を追いやった後に務めを果たした鈴木宗男も追いやったということらしい。いま安倍内閣が強引に推し進めている安保法制も、まさにこの自己正当化による悪事に他ならない気がした。

by ヤマ

'15. 9.16. 文藝春秋 単行本



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