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『海よりもまだ深く』 | |||||
監督 是枝裕和
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TVドラマ『重版出来!』で観た、長年の漫画家アシスタントを辞めて田舎に帰ることにした四十路男が、才ある後進の青年に落語を聴くことを勧めて自分のストックを譲り渡していたエピソードのことを思い出した。オープニングの老母とし子(樹木希林)と娘ちなつ(小林聡美)の会話からして、何とも軽妙な可笑しみの漂う実に練られた台詞と間合いの絶妙に唸らされたのだ。 探偵稼業の元警察官(リリー・フランキー)やら同僚(池松壮亮)との良多(阿部寛)の会話にもくすぐられたが、やはり老母と息子良多との会話に最も味があったように思う。若い時分に島尾敏雄賞(架空の賞だと思う)というマイナーな文学賞を受賞しながらも職業作家としては身を立てられなかった良多が、今なお手帳や付箋紙に言葉をメモる習慣を覗かせていたけれども、『舟を編む』(監督 石井裕也)で見られた言葉やフレーズの採録を想起させるこの習慣は、原案・脚本・監督・編集を担った是枝監督自身のもののような気がした。 ごく普通のとも言い難い「笑ってしまうほどのダメ人生を更新中の中年男」とチラシに記された、自身に対しても他者に対しても言い訳と誤魔化しばかりを重ねている人物の心に寄り添い、掬い取った言葉で味のある造形を果たす作り手の技量に、観ていて感じ入るものが湧いてきた。そして、五十路が中年と言われる時代になっているのだなとの感慨を覚えた。 ハズレ車券を握りしめながら「なんで勝負をしないんだよ、バカヤロー」というような罵声を発する良多の言葉が、観客にとっては彼自身に向けられて映ることが計算され、他方で、代打に起用されながら何故かバットを振らないで凡退してくる息子の四球狙いを見抜く良多を描き、派手なホームランを夢みることよりも堅実な出塁を企むような生の選択も並置する巧妙さに、かつて『ワンダフルライフ』['98]の映画日誌に綴ったような「真面目ではありながらも、どこか切実さを欠いた小賢しさ」や『ディスタンス』['01]の映画日誌に綴ったような不愉快や不満をいささかも覚えることがなくなった是枝監督の円熟に、感銘を受けたのだった。十二年前に観た『誰も知らない』['04]以降、『歩いても 歩いても』['08]で唸らされた「人間観察の確かさ」と「実にデリカシーと奥行きに富んだ表現」とが、同じ名前の母息子を同じ配役で演じる作品を観て改めて強く印象づけられた。 離婚してから矢庭に息子に執着するようになったらしい良多が、息子の真悟(吉澤太陽)に対して父親として振舞おうとするたびに、嫌っていたはずの亡父から得られ継いでいるものの多さや痕跡にひしひしと気づいていく過程が何とも切なかった。離婚した両親と嵐の夜に拾った宝くじのことを真悟少年が大人になって思い出すときもきっとくるに違いない。 とし子が言っていたような、失くした過去と未得の未来にばかり囚われて今の幸せを視野に置けないのが男の性だとも僕は思わないのだが、現世・現在により強いのが女性のほうであるとの思いは僕のなかにもある。『ブラック・スキャンダル』['15]の映画日誌に「若い頃から「きみは上昇志向に欠ける」と評されてきた」と記し、『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』['32]の映画日誌に「ワーク・ライフ・バランスやクオリティ・オブ・ライフといった言葉が流通し始めたのは、僕が五十代に入ってからのような気がするが、そういう意味では、僕は時代を先取りしていたのかもしれない」と綴っている僕から観てもそのように感じるのだから、とし子の嘆息には合点がいくし、かつて文学少女だったと思しき国語の教員免許を持つ元妻の響子(真木よう子)の言い分も、もっともだと思う。善し悪しの問題ではない。 それにしても、樹木希林が素晴らしかった。『あん』['15](監督 河瀬直美)のとき以上で、僕の観たなかでは一番のように思えた。いい映画だ。 推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より http://blog.goo.ne.jp/rainbow2408/e/dcfe5aa478b1a4aa379c138ce9df374e | |||||
by ヤマ '16. 6. 1. TOHOシネマズ3 | |||||
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