『ディスタンス』
監督 是枝 裕和


 観客としてスクリーンに向かい、鑑賞して得たのは、皮肉にも作り手との間に横たわる大きなディスタンスだった。まず最も不愉快だったのは、録音技術の未熟さというか無神経さによって、会話がろくに聞き取れず、かといって矢崎仁司監督がかつて『風たちの午後』でやっていた総ての言葉を意図的に聞き取れないようにして観る側を画面に注視させるとともに、そこで交わされた会話そのものを観る側の想像力に委ねた手法とは異なり、聞き取れる部分と聞き取れない部分が混在して、終始苛立ちと疲労をもたらす。日本映画の音声に対する無神経さが少なからずの映画ファンを邦画から遠ざけていることにもういい加減に気づいてもらいたいところだが、この作品は特に顕著だったように思う。
 題材には非常に心惹かれた。カルト教団の無差別大量殺人事件の実行犯を家族に持つなり持ったなりする四人の男女と実行犯に指名されながら直前に教団から脱走した元信者の五人が一夜をともにして過ごす対話と回想の物語だ。彼らががなぜ教団に入り、凶行に及ぶまでに至ったのかということについては、多くの人の関心を集めたのであろうが、なかでも最も割り切れない思いを残していたのが家族であったことは間違いない。
 しかし、どうにも表層的で響いてくるものがなく、思わせぶりな映像があざとく間延びした編集のもとで延々と続き、二時間を越えるのだ。説明を極力排したと言えば、聞こえがいいが、排したうえで観る側のイマジネーションを喚起してもくれなければ、結果的には技巧的に仕掛けたことの総てが裏目に出て無残な鑑賞体験を与えてしまう。動きもないままにやたらと長いワンショットとかラストの不自然に燃え上がる炎の映像など外形だけがタルコフスキーを思わせたりして、うんざりさせられた。
 前作『ワンダフル・ライフ』の鑑賞日誌にも、「映画の作りや人の生に向ける眼差しに、真面目ではありながらも、どこか小賢しさが潜んでいたような気がしてきた」と綴ったのだったが、今回もカルト教団やその信者、なかんずく凶行に及んだ実行犯とその家族に切実な関心を寄せていたという以上に、それを題材にすることで得られる映画的成果やそのための手法や技巧に対する関心のほうが強かったのではないか。
 題材よりも映画のほうが優先されているわけだが、娯楽性の強い作品であれば、映画的面白さや奇抜さなりインパクトが優先されて、題材に向けられる眼差しが二の次三の次でも、面白ければそれで救われたりもする。だが、敢えて娯楽性を排除して向かう作品において、充実した内省の成果が窺えないとやはり無残なことになるという気がする。うまく噛み合って想像力を触発された観客もきっといるのだろうとは思いつつも、釈然としないものが残った。

推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/01_8/DISTANCE*KOREEDA-Hirokazu.ht
by ヤマ

'01.10.25. 県立美術館ホール



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