『舟を編む』
監督 石井裕也

 国語辞典は、百科事典ともども小学時分の僕の一番の愛読書だった。面白い言葉を探したり、意味というか説明の仕方をチェックするのが趣味で、授業での速引き競争ではいつもクラス一位だった。そんな僕がいまだ原作を未読なのはいかがなものかと思いつつ、例によって映画化作品のほうから接することとなった。

 物語もさることながら、キャラクター造形が実によく、鈍臭かったり軽薄だったり呑気過ぎたりする人物が、実はとても味のある真価を発揮するのを観ながら、「人生、悪くないよなぁ」と思えてくるような作品だった。松田龍平、オダギリ・ジョー、加藤剛が素晴しく、久しぶりに観た気のする伊佐山ひろ子が、西岡(オダギリ・ジョー)の読みかけた馬締(松田龍平)の恋文を、遠くの席から寄って行って封にきちんと仕舞うところが良かった。大切に扱うべきものを大切にしない今の世から、すっかり失われているような所作だと思った。また、辞書編纂監修の松本(加藤剛)が元編集者の嘱託員荒木(小林薫)に宛てた手紙に、「“感謝”以上に“感謝”の意を表わす、この世にはない言葉の用例採集に励みます」というようなことを書いてあったのが素敵だった。そういう言葉がいかにも似合いそうな言語学者を加藤剛がよく演じていたように思う。

 だが、最も素晴しかったのは、何と言っても松田龍平だ。メアリー&マックス『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』など近ごろ何だか流行にも思えるアスペルガー症候群を入れているのかと少し気の障ったキャラクターに見事に魂を入れて、実に生き生きとした変人を造形していて見事だった。恋の病にすっかり仕事が手につかなくなっているのに対して、ちょうどいいから「恋」の語釈は馬締くんに頼もうなどという悠長さが罷り通っている職場が微笑ましくも実によく、さればこそ、終盤の夜っ引いての作業の意味が効いても来ていたような気がする。

 長くて五年、ときには一年や二年で全く畑違いの職場に目まぐるしく異動することも珍しくないような職に就いていると、十年二十年単位で取り組むライフワークに出会える勤めがある種うらやましく思えたりする。馬締と結婚した香具矢(宮崎あおい)の携わる板前や松本の従事する学者といった専門職ではない一介の勤め人であっても、ときに人はライフワークと呼べるものに出会えるわけだ。

 西岡の書いた「ダサい」の語釈を間延びした羅列説明だと酷評しつつも、用例のほうは上手くて「本当にダサい」と岸辺(黒木華)は言っていたけれども、「マーくんは泣き上戸だから…」と麗美(池脇千鶴)が涙ぐんでいた馬締の下宿での貧相な送別酒席の場面は、ダサいどころか、実に素敵だった。

 松本の遺した手紙ではないが、結局のところ、人の生涯を充実したものとできるか否かは、出会った人々との関わりや営みをどこまで掛け替えのないものとできるか次第なのだろう。長きに渡って携わり、交わることのむずかしい職にあればあるほど、やむなく対価や地位といった形でしか自己評価もできなくなるような気がする。

 用例採集の「チョベリグ」や「ルーズソックス」って一体なんだ?と思っていたら、何かの発売時期を告知する看板に“1993年秋”の文字が映り、二十年前かと納得した時点から始まって2010年と思しき全面改訂版辞書の発行に漕ぎ付けたラストの祝賀会で「明日から改訂版の作業ですね」と新版の発行には間に合わなかった用例採集カードの束を互いに見せ合う馬締と荒木が実にかっこよかった。「やっぱりミっちゃんは面白い」と十年以上も連れ添った妻から言われる夫というのは、ダサいようでも実は値打ちものなのだろう。そして、それは西岡にも荒木にも通じている“カッコいいダサさ”なんだと思った。

 思わずニヤリとしてしまったのは、岸辺が元いた部署での経験を生かして、見出し語に選んでいるファッション用語を点検し、その時代遅れぶりに呆れ返っている場面だった。言葉の達人たちは、不朽には強くても得てしてモードには弱いとしたもので、おそらく原作者の三浦しをんが、かねがね辞書というものに対して抱いている女性ならではの強い思いだという気がする。何気ないエピソードにもいろいろな触発の詰まった実に豊かな作品だ。大したものだ。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
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推薦テクスト:「Silence + Light」より
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by ヤマ

'13. 4.14. TOHOシネマズ5



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