『ワンダフルライフ』
監督 是枝 裕和


 最後の審判ではないが、死者が彼岸に旅立つ前に自分の人生のなかから大切な思い出を一つだけ選んで“映画”に撮ってもらい、死後の世界では、その思い出の映画の世界で永遠の命を得るという発想は、いかにも映画人らしくて面白い。今、自分がそんな選択を迫られたら、自らの人生をどのように語り、どの思い出を選ぶのだろうかとついつい考えさせられたりした。そういう面では、出だしの一般人を含めた様々な歳の人たちが自らの人生を、素っ気ない木の椅子に腰掛けて、次々と語っていく場面が素敵だった。その姿に名もなき個人の生きていた時間の重みと存在感というものが、穏やかな優しさのなかである種の透明感とともに、自然体で浮かび上がってきていて味わいがあったからだろう。

 しかし、ある種の心地好さとともに観続けているうちに、次第に奇妙な違和感が底のほうに溜っていく感じが気になり始めた。人間にとってとても大事なことを真面目に見つめ描いていこうとする作り手の真摯な誠実さを感じながら、どこか好きになれなくなってきたのだった。観終えてから何故なのだろうと考えていたら、映画の作りや人の生に向ける眼差しに、真面目ではありながらも、どこか切実さを欠いた小賢しさが潜んでいたような気がしてきた。

 そのように感じてきたのは、渡辺(内藤武敏)の亡妻と望月(ARATA) に因縁があったことからくるドラマに主軸が移ってきたあたりからではなかったか。自然体で浮かび上がってきていた名もなき個人の生の時間の重みと存在感も、結局のところ、作り手の意図を反映した物語を効果的に語らせるための仕掛けでしかなかったのかと裏切られたような気がしないでもない。むしろ値打ちがあり、光っていたのは、その自然体の重みと存在感だったのに…。

 そもそも人の生は、ただひとつの大事な思い出を選び取ることで総括できるようなものではないはずだ。そんな際立った思い出が何一つない生は淋しいものかもしれないが、それで否定されるべきものではない。もちろん作り手もそれで否定するつもりなどなくて、逆にどんな人にも必ずそれに相応しい思い出というものがあるはずで、それに気づかせることこそが死者を彼岸に送り出す映画を作る職員の仕事なのだというのがこの映画の根底をなしている。しかし、それならそれで一つしか選べないというところにもどこか嘘があるし、それ以前に、総括し選び出すべきものとして生の時間を捉えていることになるのは確かで、そこに違和感が生じるのだ。そうしたい者は、そうしたらいい。だが、人が生の最終ステージでなすべき課題として、そのような選択が当然のようにして課せられるべきものなのだろうか。そういったところに無自覚であると見受けられるところが、いささか不遜で、結果的に胡散臭さを感じさせてしまうのではなかろうか。
by ヤマ

'99.12. 8. 県立美術館ホール



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