『歩いても 歩いても』
監督 是枝裕和


 四年ほど前に誰も知らないを観たときに、ワンダフルライフ』('99)DISTANCE/ディスタンス』('01)にあった「映画の作りや人の生に向ける眼差しに、真面目ではありながらも、どこか小賢しさが潜んでいたような」印象が少しも感じられなかったことに対し、長男明を演じた柳楽優弥の寡黙な透明感や弟妹を演じた北浦愛[京子]・木村飛影[茂]・清水萌々子の表情の豊かさを引いて「今回いささかもそのように映ってこなかったのは、彼らの存在に拠るところが大きいように感じた」と綴った覚えがあるが、本作を観ると、役者陣の嵌り役だと思える演技の充実にもかかわらず、監督・原作・脚本・編集全てを担った是枝裕和の作家としての成熟と洗練を強く感じ、演じ手の力に負うものではないように思えた。先の三作品のある種派手とも言える非日常的な設えとは異なる日常性の場に立脚した作劇のなかに、情緒と覚醒が絶妙のバランスで備わった視線による人間観察の確かさが、実にデリカシーと奥行きに富んだ表現によって沁みてくる映画になっていたように思う。

 どんな人の心のなかにも必ず天使と悪魔が住んでいるというのは、単に昔から言われている至言であるばかりか、誰しもにある実感なのだが、天使においても悪魔においても、男は女性に到底及ぶものではないことをつくづく感じさせられるとともに、天使の力量が大きい者ほど悪魔の力量も大きいことを改めて知らされる気がした。良多(阿部寛)の母親とし子(樹木希林)を筆頭に彼の妻ゆかり(夏川結衣)、姉ちなみ(YOU)にしても、良多や彼の父親(原田芳雄)の敵うところではない“強かなタフさと懐の深さ”が見事に描出されていたように思う。これは、人の器の問題なのだから、当然と言えば当然のことなのだが、ついつい人は、表に現れてきている穏やかさや優しさ、賢さ、懐の深さといったものに目を奪われ、シンプルにそういう人物なのだと思いがちだが、それだけのものが存在感として顕著に現れてきている背後には、それに見合うだけの重さで悪魔を恨みや屈託として抱えているというわけだ。

 それどころか、むしろ応分の悪魔を抱えてバランスを保つことができていないと見合った天使も育てられないような気さえ僕はしている。過酷な人生経験が人を鍛え器を大きくするか、破綻させ不適合を起こすかの境目は、そこのところにあるように思う。先ごろ観た接吻の坂口や京子が逸脱の挙に出て破綻と不適合を露にしたのは、そこに至るまでの過程において、天使に見合う悪魔すなわち坂口の兄の言う“冷酷さ”を欠いていたからであろうし、よくは知らないながらも稀人として僕が敬服を覚えている松本サリン事件の河野義行氏にしても、彼が逸脱や不適合を来たさないバランスを得るためには、かほどに大きな天使を育むことを要したのかという形で、彼が抱えざるを得なかったであろう悪魔の重さのほどを偲んでいるようなところが僕にはある。

 それにしても、それなりの自負と表層的なプライドに拠って生きてきている夫の内実を看破していながら、むしろそれゆえに、“思い出の曲”と問われて夫の浮気の因縁を示す『ブルーライトヨコハマ』を今なお真っ先に持ち出して、夫に針を刺す古女房の恐さには参った。映画のタイトルさえもそこから来ているようだから、このエピソードに対する作り手の思いは深いのだろう。僕が小学六年生の時分に大ヒットした歌だから四十年ほど前になるこの唄の歌詞の映画タイトルに続く部分は「小舟のように私はゆれて」なのだから、なおさら始末が悪い。子供や孫が来ても、あまり居場所がなくて自室に逃げ込むことの多い夫に比して、屋台骨の全てを支える存在感を「私ぁサンペイ師匠かと思ったぁ」などとボケをかます闊達さで振りまいているのだが、一番風呂には必ず「おとうさ~ん」と呼び、決して夫をないがしろにすることなく家の規律と秩序を保つことで屋台を支えている手練ぶりが、計算ではなく“器”として映ってくるところが見事だ。娘のちなみには、器よりもまだ計算が透けて見える加減が母親には遠く及ばない年季の不足を窺わせ、同様に年季の及ばなさによる役者の違いを窺わせながらも、ちなみよりは苦労しているぶん器を広げている嫁ゆかりの姿が描かれていたようにも思う。なかなか見事なものだ。

 とし子は、次男良多に「死に別れの後家を貰うのは離婚女を嫁にするのとわけが違う。思いが残ってるからねぇ。もう死んじゃってるから、どうしたってそっちがよく見える」などと諌め、嘆息するのだが、婚前ならまだしも既に子連れ妻を得ていることに対して言っているのだから、嫁のことよりも、父親と同じ医師の道を歩んでいた長兄を不慮の事故で亡くし、父親が次男の良多を一家の跡継ぎと目するしかなくなっているなかで、兄の生前から双方の抱えている屈託が経年によって融けるどころかしこってしまい、もはや双方が払拭したいと思いながらも解せずに覆い取り繕うのが関の山でしかなくなっていることの止む無さを、滅多にないこの機を逃さずに気づきを促しているようにさえ感じられた。親にとって息子の死は、それによって時間が止まり固着化するものであることを窺わせるうえで、その命によって救われた少年に十年のときを経てなお毎年の命日供養に参拝を求めていることの心根をとし子がちなみに明かす場面が効いていたように思う。彼女においては、もはや二十代半ばとなった少年の参拝それ自体が重要なのではなく、彼にそれを求める続けることで、長男の死が身内のなかだけの記憶に埋没していくことに抗う行為を取るという形での亡き息子に対する証を立てているとの自己証明が得られるところに、意味があるのだろう。その心情の悪魔的なまでの深さと比すれば、律儀に参拝を続けている青年の姿を目にする度に、あの程度の男のために長男の命が犠牲になったのはいかにも悔しいと嘆く父親の心情にある悪魔は粒が小さく表層的な気がする。少なくとも父親には、亡き息子に対して証を立てることを要するほどの切迫感はなくなっているように感じられた。

 そういった人の心の襞に分け入って描き出しながらも、暴き立てるような描き方をしない作り手の品性に、年季を重ねた成熟と洗練を覚えるとともに、その人間観察の確かさに対してもいささかの小賢しさをも感じることがなかったわけで、大いに感心させられた。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20080724
推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=883783319&owner_id=425206
by ヤマ

'09. 1.21. 美術館ホール



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