『あん』
監督 河瀨直美


 やはり永瀬正敏は、いい役者だ。風情、佇まいで語り表現できるものをたくさん持っているように感じた。それはともかく、どら焼き屋の訳あり職人を今時なぜ喫煙者の設定にしたのだろう。自分がもう煙草を止めて随分と経つから銘柄も分からず、時代設定が妙に分かりにくいところがあったが、どら焼き1個120円というのは、昭和の時代ではないような気がする。

 時代設定が現在だとなれば、徳江(樹木希林)の遺したカセットテープというのは、敢えてのカセットテープであって、外の世界を流れている時代の時間とは異なる時間の流れのなかで生きてきていることを端的に示していたのかもしれない。十余年前の小島の春』上映会のときに聴いた全国ハンセン病患者協議会元会長である高知県出身の曽我野一美氏の話のことを思い出した。

 それにしても、ハンセン病患者への差別というのは、今なお有り体にはかような状況にあるということなのだろうか? 時代設定が妙に気になる作品だった。なんだか啓発映画にありがちな展開のままに流れていくことに意表を突かれたけれども、東村山市の施設を訪ねて行った後あたりから、ありがちな啓発映画とは趣が変わってきたように思う。

 差別問題を主題にしているのではなく、いろいろ事情を負った“人としての自身の生きる標”を提示しているような気がした。そして人というものは、すべからく徳江さんが語り掛けていた小豆のように扱われるべきものであって、十把一絡げにして業務用規格品として画一的に煮立てられるべきものではなく、よき味と香りを醸し出せるか否かは、その扱われ方次第に他ならないように思った。だから、結果的には差別問題を主題にしていると言えなくもないわけだが、本作の観後感に啓発映画的な教条感がなかったのは、あくまで千太郎(永瀬正敏)やワカナ(内田伽羅)の側の問題意識で作られていてヘンに社会的ではなかったからだろうという気がする。

 小豆としての徳江は、「どら春」の雇われ店長千太郎や貧しさから高校進学は諦めなければならないと思っているワカナの心に響くような香しさを体現していたわけだが、彼女が小豆を扱うような丁重さで自身が遇されたことはないのかもしれない。いわゆる前科者ということになる千太郎にしても、平成不況後に急激に進展して来た格差社会における貧困層の代表として挙げられることの多い母子家庭のワカナにしても、小豆同様に煮立てようによっては絶品の餡になり得る素材なのだから、他者が丁重に扱ってくれなければ、自分で自身を上手に煮立ててやらなければいけないというわけだ。自前の露店を出し、徳江仕込みの餡で勝負する生き方に転じた千太郎のどら焼き人生がその後どうなったにしても、彼自身が業務用餡の原材料のような埋没を自身に覚えることはないような気がした。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1943114898&owner_id=1095496
by ヤマ

'15. 9.21. あたご劇場



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