『サイの季節』(Rhino Season)
監督 バフマン・ゴバディ

ヤマのMixi日記 2016年02月26日22:31

 タイトルがサイだからと言って、まさかホントに犀の出てくる映画だと思わず、ターセムの落下の王国の象の水中撮影を思い出させるような、水中で犀が逆さまに浮かぶ奇抜な画像にニンマリした。イランもしくはクルド民族において、犀はいかなる象徴性を帯びた動物なのだろう。

 ともあれ、実話に材を得たとされながらも、凡そリアリズムとは対岸にあるようなイメージ性の強い作品で、バフマン・ゴバディ監督の面目躍如たるものがあるとも思った。『ペルシャ猫を誰も知らない』['09]こそ観る機会を得ていないが、亀も空を飛ぶ['04]もわが故郷の歌['02]も酔っぱらった馬の時間['00]も、観賞後に映画日誌を綴っている作品だ。犀のみならず亀も馬も出てくる。そのような前作があるからか、亀は空から降ってくるし、車のなかに突如首を突っ込んできた馬の目は心なしか酩酊しているように感じられた。

 それにしても、ミナを演じたモニカ・ベルッチって、どうしてこう不幸を招くフェロモンが似合うのだろう。マレーナといい、アレックスといい。

 本作で語られていたどの部分を、三十年の獄中生活を送った詩人サヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)の回想なり想像と受け取るかで、受け手によって観方の異なる作品になっていたように思う。実際のサデッグ・キャマンガールがどうなったかはともかく、本作でのサヘルは結局、死を選んだように僕は受け取ったけれども、異見もあるような気がする。


コメント談義:2016年02月27日 07:49~2016年02月28日 21:22

(TAOさん)
 「ペルシャ猫」はゲリラ的に撮ったせいか、めずらしくリアルというか生で、あれ?と思うほど素朴なドキュメンタリーでした。今度のはまさに面目躍如でしたねえ。

 本作でのサヘルは結局、死を選んだように僕は受け取ったけれど、異見もあるだろうなぁ。
 なるほどそれもありですねえ。
 私はそのまんま受け取ってましたよ。

 それにしても、ミナを演じたモニカ・ベルッチって、
  どうしてこう不幸を招くフェロモンが似合うのだろう。

 同感です~↓
 http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3700229&id=1944449405
 私も犀の意味が気になって調べてみました。

 クルド人やイランではどうかはわかりませんでしたが、釈尊の言葉に「犀の角のようにただ独り歩め」というのがあるそうです。アフリカ犀の角は2本ですが、インド犀の角は一本。その角は肉の塊だからそれほど硬くないので闘争の武器にはならない。だからか、あまり闘わない。でも、体はでかいから、ほかからつっかかってこない。孤独のままずっと一人でのこのこ密林を歩いている。釈迦の時代はインドの森の中にたくさんいて孤独の歩みを続けていたらしいです。
 それで、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずさわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって歩めという教えなのだそうですよ。

 それから、イヨネスコの戯曲「犀」では、犀の大群がファシズムを象徴しているそうで、こちらに詳しいです。『サイの季節』のポスターにもある干からびた大地で倒れたサイは前者のようにも見えますが、イヨネスコ流の寓意も大いにありそうですね。


ヤマ(管理人)
◎ようこそ、TAOさん、

 「イタリアの至宝」と呼ばれながらも使いこなせる監督に恵まれず、とうとう50歳を超えてしまった大器、ともお書きでしたねー。いや全く(笑)。マルティナ・ゲデックもフェロモン、強いですよねー。必ずしも不幸を招くとは思ってなかったですが、エロのたちは似てる感じだ、確かに(笑)。

 犀については、水中で逆さまに浮かんでたのも2本角だったから、アフリカ犀ですね。一角犀と二角犀での違いはなさそうだから、釈尊ではともに孤独の歩みなんですね。

 ファシズムの象徴として描かれた演劇を踏まえての犀というのは、なかなかに魅力的な視点でした(礼)。ホメイニの率いたイラン革命の渦中においてサヘルとミナは投獄されたんですよね。宗教的熱気に包まれた革命騒ぎにファシズムを観るのは、作り手の視点としても大いにありそうな納得感があるので、僕は、こちらに乗りたく思います。ミナの父親がパーレビ国王に仕える大佐だったことによる投獄でもあったことですし。

 ところで、TAOさんは、10年の刑に服したはずのミナが獄中で産んだと思しき子供が双子ということになっていた点については、どのように解しておいでますか?
 また、娘(ベレン・サート)のほうしか大人になった姿が出て来なかったことについて、何か思うところはありませんか?
 それと、かの子供たちの父親は、誰だと御覧になってますか?


(TAOさん)
 普通に考えれば子供の父親は元運転手なのでしょうが、二卵性の双子にしたことで、あたかも両方が父親であるかのようなイメージが与えられますね。生物学的な事実はどうあれ。

 で、娘は母の心情に寄り添って、自分の父はサヘルだと信じているわけですが、息子は自分の出自の重さに耐え切れず母の元を去った、もしくは若くして死んだかなと。


ヤマ(管理人)
 わお、これは面白い!(笑)
 伺ってよかった。完全に意表を突かれました。二卵性の双子で詩人サヘルも運転手アクバル(イルマズ・アルドアン)も、ともに父親なんだということですね。だから、父娘相姦の可能性に狼狽するのですね?

 では娘は、サヘルが父親だと知っていて、詩の言葉の刺青を施す彫師として母親を紹介したのでしょうか?
 いつの時点で、サヘルが父親なのだと信じたように思われますか?
 確かにミナから「死んだ父親は詩人だ」と聞かされてはいたとは思いますが、それがサヘルで、実は生きていたと思ったのは、なぜなんでしょう?

 息子の不在について、社会的事情ではなく出自の重さのほうを受け止めておいでなのも、非常に興味深いです。僕は、活動家であれ、何であれ、いわゆる“反革命分子”の子として育った男の子だし、どうも“穏やかな社会”とは到底いえなさそうなイランにおいては、若者が大きくなっても家庭に安住してはいられない状況が現れている気がしました。でもって、なんとなく既に亡くなっているイメージを抱かされるような“不在”を感じました。


(TAOさん)
 キバツですよねー、異父双子。生物学的にありえるんでしょうか(笑)。でも、父娘相姦を匂わせる設定としてはいいでしょう?

 娘は、父サヘルは死んだと信じて疑ってなかったと思います。ただタトゥーに反応した目の前の男に親愛の情を感じて母を紹介したんじゃないかなあ。でなければ実の父と寝るなんてショックなはずだし、ましてそのことを母に感づかれるような真似は絶対しないでしょう。

 息子についてはほんと”不在”を感じますよね。私の妄想では、この子は不幸にもアクバルにそっくりだったので、母親の愛を得られず、心を病んだに違いないと思っているのです(笑)。


ヤマ(管理人)
 イメージ性の強い作品ですから、生物学的にあり得るか否かはさほど重要でもないように思います。TAOさんが実娘か否かに関して然様な解釈を加えてまでも、血縁をイメージされたことのほうが鮮烈でした。

 僕的には、実娘かどうかを意識する前に“ミナの娘”であるだけで充分に衝撃的だし、サヘル自身は、かつて収監中の自分がミナの身体から引き離された直後に、アクバルが覆面をしてミナに迫り犯したことをそもそも知らない気がするので、詩の言葉を刻んだ娘がミナの娘であり父は詩人だと聞いただけで確信できたわけで、実際に誰の娘かどうかは、各自においては紛れのないものだったはずですからね。(引き離された時点では射精に至っていなければいないでまた、紛れはないでしょうし。)

 また、仮にそのような経緯がなかったとしても、『マンマ・ミーア』を思い起こせば容易に想像もできるように、ある種の男たちにとっては、実の血縁以上に、“自分が関係した女性の娘”ということで充分なのだろうと思います。親子丼なる俗語が特別な意味を持つのも、そういうことなんでしょうしね(笑)。

 で、娘のほうについて「父サヘルは死んだと信じて疑ってなかった」と伺い、こちらは意表を突かれる解し方ではなかったのだと分かりました(礼)。でも、息子はアクバルに似てたために心を病むまで追い込まれたとの“妄想”(笑)には、またまた意表を突かれました。ネグレクトですか? 怖いですねー。

 でも、僕の“妄想”(笑)では、ミナは悪感情であれ、そこまでアクバルにコミットしてはいなかった気がしますよ(ふふ)。時間を経てとはいえ、執拗に消息を訪ねて来たアクバルに対して、たとえパスポートを用立ててもらうためとはいえ、身を任せていたように思いますから、身過ぎ世過ぎの為に身を任せる男たちとさほど変わらぬくらい感情的に冷めた対象でしかなかったような気がします。

 あ、でも、あのパスポートの場面、確か画面左下に3冊重ねられていたような気が…(およ)。だとすると、最後の場面の船のうえで肩寄せ合っていた母娘のほかの第三の人物は、誰だということになるのだろう。息子は不在のほうが作品的にしっくり来ますよねー。やっぱ、3冊じゃなかったのかなぁ。ん、アクバルの分か? それなら分りますね(笑)。

 僕が「本作でのサヘルは結局、死を選んだように受け取った」のは、母と暮せばヒアアフターの最後を思わせるようなサヘルの後ろ姿の歩みを見せていたからです。その前には、アクバルを突き止めて車に乗せてもろとも海中に没したかのようなイメージが提示されてましたしね。刑期を終えて釈放され、政治犯支援組織にサポートされながら見知ったイランの現実、ミナの現実は、彼を厭世感へと駆り立てるのに十分だったように思いました。


(TAOさん)
 ん、「結局死を選んだ」というのはラストのことだったんですね。それなら私もまったく同感です。アクバルを殺して自死したように見えましたよね。

 私はまた、サヘルはすでに獄中でみずから死を選び、出所後のことはすべて想像だとヤマさんはとらえておられるのかと思ってました。そんなわけないですよねー(笑)。ずいぶんな早とちりで失礼しました。


ヤマ(管理人)
 いえいえ、とんでもありません。
 おみおくりの作法を観たとき、推薦テクストにも拝借したmixi日記へのコメントに映画を観ていたときには唐突で衝撃的に感じられた二連発は、同様の悔しさというか動揺を覚えるなかで、もしかすると、一発目の事故によって路上に倒れ、頭から血を流しつつ、静かに瞬きをしていたジョン・メイが彼自身の心の内に夢みていたものなのかもしれないと思い始めているところです(笑)。と書き込んで賛同していただいたことを思い出しました。ちょっとそのパターンのイメージがあったのかもしれませんね(笑)。


(TAOさん)
 そうです。言われてみれば、私の早とちりのベースには、ジョン・メイに関するヤマさんの発言があったように思えます。理由がわかって少しホッとしました。
 人はこうやってズンズン思い込みに突っ走っていくのですね(笑)。


ヤマ(管理人)
 おやまぁ、それが理由でしたか。わかってよかった。

編集採録 by ヤマ

'16. 2.26. 美術館ホール



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