『落下の王国』(The Fall)
監督 ターセム


 画面としても落下に始まり、落下で終わる映画で、内容的にも、失恋に落ち込んでいたスタントマンの青年ロイ(リー・ペイス)が撮影中の事故で高い鉄橋から落ち、裕福な牧場主の娘から農園労働者の娘に転落したらしい少女アレクサンドリア(カティンカ・ウンタルー)が摘果作業中にオレンジの木から落ちして、入院先の病院で巡り合い、死を望む青年の語る作り話に豊かな想像力でイメージを膨らませている話だ。それだけ“落下”のオンパレードなのだから、てっきりそれが趣向の作品かと思っていたら、落下のイメージを手を変え品を変えて見せるだけに留まらず、そもそも“落下こそが映画なり”というような宣言をしている作品になっていて、かなり意表を突かれた。さすがは曲者ターセム。前作ザ・セルでもそうだったけれども、やはり一筋縄ではいかない。もっとも、とびきり異常な殺人事件を続けている男の頭の中を覗いていた前作と違って今度の作品で覗いていたのは、オレンジを投げ落とすくらいの悪戯しかしていない少女の頭の中だったから、風変わりではあっても、陰惨な変態性などは感じられない。

 共通しているのは、実に洗練された画面構成と意匠、色使いで、上回っていたのがスケール感だったように思う。シンプルだけれども贅沢感のある画面に、なかなか魅力があった。頭の中のイメージなのだから、現実感から自由に解き放たれ、奔放に構成できる特権を存分に活かして、圧倒的な映像を展開していたように思う。

 象の泳ぎを海中から捉えた深さが遠浅の海に浮かぶ白洲の傍だとは到底思えないし、それが最後にはバタフライ型の珊瑚礁のなかに浮かんでいたりする出鱈目ぶりや、赤茶の色が主役のような画面構成の背景のなかで最下段で小さく人物を水平に動かすカット、過剰なまでの装飾性や意匠に彩られた衣装や道具の数々、二十日鼠の回し車のような仕掛けで奴隷が車輪を回すだけでは自走できずに大勢の奴隷が車引きをしながら砂漠を渡っている巨大な客車といった桁の外れ方が、随所で目を楽しませてくれていた。

 だからこそ、それら観応えのあった映像を追いやってしまうほどのインパクトで、昔のサイレント映画のスタントアクションシーンの連続カットが最後に連なることに驚かされたわけだ。実に呆気にとられてしまった。そして、作り手が最も見せたかったのは、数々の派手な映像を上回って観る者を圧倒する創生期の映画のアクション画面だったのかとの思いが湧いてきた。それゆえに、ロイの登場していた始めの幾つかの場面は別にして、その後に続いた派手なモノクロアクションの釣瓶打ちは、よもやフェイクフィルムではあるまいなとも思った。作り手が曲者だけに油断できない気もするが、冒頭に文字で現われていた“ワンス・アポン・ナ・タイム”の時代のサイレントフィルムへのリスペクトを根底に置き、「映画とは、映像で観る者に驚きを与えることが原点なのだ」とのメッセージを送り込んでいたのだから、そんなことをしてしまうわけにはいかないはずだ。しかも、お話など二の次、三の次、少女の望みで変更もありだよ、ときっぱり言い切っているような作劇ぶりだったのだから、なおのこと、映像のほうで誤魔化しやめくらましをしては、主題がぶれてくることになる気がする。

 物語への執着を否定し、映像のもたらすサプライズに拘るのが映画であることを率直に訴えてくるところに、シンプルで贅沢な爽快感があったように思うわけだ。そのように観てくると、画竜点睛を欠くというか、折角あそこまで落下のイメージに徹していたのだから、それなら、エンドクレジットのロールは、うえに上がって行ってはいけない気もした。やはり下向きに流れて行くべきところだったように思う。

by ヤマ

'09. 1.27. 美術館ホール



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