『アレックス』(Irreversible)
監督 ギャスパー・ノエ


 僕は、揺れるカメラが大の苦手で『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『リリィ・シュシュのすべて』などでは、鑑賞以前の状態に追いやられて閉口したものだった。この作品も相当カメラが揺れると知人から聞いて、いつもの席からは10列以上も後ろに下がって観たのだが、なるほど凄まじいまでの揺れ方で何が映っているのか掴みにくいほどだった。おまけにブィーィンという不快な音と汚い言葉と暴力的な映像が連なっていく。映画自体の始まりがエンド・ロールからの逆進というあざとさのなかで、シーン展開が時間を遡る形で進行するので、誰がどういう経緯で眼前の事態に臨んでいるのかも解らないままに、ただただ唖然とする理不尽な時間を強いられることになる。

 しかし、映画の作り手としては、この手法で何を伝えたかったのだろう。映画の作り自体の暴力性でもってアレックス(モニカ・ベルッチ)の受けた暴力とマルキュス(ヴァンサン・カッセル)やピエール(アルベール・デュポンテル)の発揮する暴力性を体感させる映画を作ろうとしたのかもしれないが、今ひとつ僕には響いてこなかった。チラシには「時はすべてを破壊し、行為は取り返しがつかない。」と記されているが、この災難を以て“招いたもの”と観るのか、偶然“見舞われたもの”と観るのかはともかく、取り返しがつかないと言われてもなぁと釈然としない思いが残る。

 チラシにはまた「96分の衝撃!ラスト2分の陶酔!」とも記されていたのだが、ラスト2分の陶酔というのもピンと来ないところだ。しかも、あの草上のシーンを以てそう位置づけているのであれば、少なくとも予告編で流すのは背信行為だろうという気がする。黒沢清監督の『アカルイミライ』でも思ったことだが、川を流れ行く大量のアカクラゲのイメージは、あの作品では決して予告編で見せるべき映像ではなかったと本編を観て憤慨したものだった。『アレックス』では、そのシーンの重要性がさほどピンと来なかったために憤慨には至らなかったが、これらの作品に限らず、昔に比べて予告編で流す映像に配慮が乏しくなっているような気がする。

 衝撃ということでは、96分と言うよりも、やはりアレックスの凌辱シーンであったように思う。あまりに生々しく不快であるために、とても10分程度とは思えない長さだったが、例外的にフィックスで捉えられた凌辱シーンを振り返ってみるに、視覚的には、露出度が低く動態的にも派手さはない。にもかかわらず、陰惨の限りのような不快感が生々しくもたらされるのは、捉えられた凌辱行為そのものの暴力性が第一であるにしても、やはり音声のもたらす効果が絶大だったように思う。アレックスの苦痛と怒りと絶望の篭もった呻き声や嗚咽、意図的に音量が増幅されていたグチョグチョという音、これ以上、野卑で下劣なものはないと思える強姦者テニア(ジョー・プレスティア)の言葉を、絶妙のバランスで相俟った形で延々と聴き続けることのほうが、より耐え難かったのだと思う。そういう意味では、前作カノンにも通じる手法を用いていたのだという気がする。

 ラスト2分には陶酔できなかったが、その前のアレックスとマルキュスが睦み合っているシーンの親和性にはただならぬ濃密さが宿っていて恐れ入った。直接的な性行為には一切及ばないままのシーンに、今時あれほど濃厚な性と官能の匂いが立ちこめていることも珍しいような気がする。

 いずれのシーンを取ってみても、やはり只者ではない演出力を持っているような気がする。しかし、それをあざといまでに際立たせ過ぎて、ドラマとしての厚みや説得力をもたらすことに繋がるような使い方をしていないところが、妙に勿体ないというか、作品として今ひとつ物足りないところだと思った。




推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordI.htm#irreversible
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2003/2003_03_03_2.html
推薦テクスト:「シネマ・サルベージ」より
http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/kanso_2003.html#alex
推薦テクスト:「THE ミシェル WEB」より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~T-M-W/moviearekkusu.htm
by ヤマ

'03. 7.30. 県民文化ホール・グリーン



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