『マレーナ』(Malena)
監督 ジュゼッペ・トルナトーレ


 相変わらず、シネスコ画面を巧みに使って見せる力の際立ちを印象づけられたが、同時に海の上のピアニストがそうだったように、どうしてこれほど魅力的な題材を掴みながら、こういう映画にしてしまうのだろうという思いが、今回は嘆きに留まらず、いささか不快ですらあった。少年期の性に対する執着と妄想にしても、肉感的な美女に向けられる男たちの好色の眼差しや女たちの妬みにしても、あるいは俗人の卑しさと美女の悲劇の対照にしても、これほどに誇張しなければ、観る側に伝わらないと思っているのだろうか。人の心は、いたずらに煽れば動くという代物ではない。ましてや性的執着に限らず、誇張そのものの仕方に品性を欠いていると、いくら映像や音楽に力があろうとも、しらけてくる以上に不愉快にすらなってくる。作り手からえらく安く見られたもんだという憤慨を観る側に与えかねないほどだ。

 実際、懐かしくも恥ずかしい自分の少年期の妄想の記憶とともに笑えるはずの事々にいささかうんざりしてきたり、俗人の卑しさに対しても憤りより不快が先に立ってくる。マレーナの哀れについても同情を寄せるよりもやりきれない気分だ。映画としては視覚的にも聴覚的にも鮮やかなだけに、却ってそこに宿らせようとしている意図があからさまに透けて見える情感というものが、結局まるで宿っていない虚ろさをあらわにしてしまっているからだろう。

 せっかくの題材をこういう形で作品化してしまう最大の原因は、作り手の感性にデリカシーというものが欠落しているからではないかと今回この作品を観て、とりわけ強く感じた。前作でもそうだったが、情緒を煽ってきている技巧だけが目立って、作り手のハートが感じられないのだ。もしも観る側を安く見ているのでなければ、作り手は、人の心の波立ちや感情体験というものについて実感をもって味わったことがあまりないのかもしれないとさえ思った。

 トルナトーレは、ひょっとすると今、現在ないしは近未来の欠陥人格のひとつのようにも目されているヴァーチャル人間のはしりのような人なのかもしれない。この作品でも、劇中映画が何度も出てくるが、実際のところ映画作品が相当に好きな人だと思う。映画で人生を教えられ、人の心を学んだと言う人は多く、彼もまた、その一人なのだろう。それ自体は素晴らしいことなのだが、もし仮にその人が人生や人の心を映画でしか学んだことがないとしたならば、それは大いなる不幸であり、ある種の欠陥とさえ言えるのではないかと思う。映画オタクぶりを遺憾なく発揮している彼の作品から観ると、そして、彼の技巧的な、あまりにも技巧的な映画の作り方を観ていると、そういう気の毒さを感じてしまう。しかし、少なくとも当人は真顔なのだろう。仮にも父親に捧げると記して始まる作品で観る側を安く見積もったりはしていないと信じたいところだ。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2001macinemaindex.html#anchor000628

by ヤマ

'01. 6.21. 松竹ピカデリー1



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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