『酔っぱらった馬の時間』
監督 バフマン・ゴバディ


 十二歳のアヨブ(アヨブ・アハマディ) が虚弱で障害を持つ兄マディ(マディ・エクティアルディニ) を元気づけるために買ってきたものが、ちょうどボディビルダーの写真だったからか、先日観たばかりで、妙に違和感につきまとわれた記憶が新しかったせいか、ジョンQを思い出してしまった。ともに難病で緊急に手術を受けさせなければならない肉親を抱え、その金がない貧しさに苦しめられる、家族愛に満ちた家長の話だ。どっちがより苛酷かなどという比較は全く意味を持たないと思うから、見舞われた境遇に対して思うことではないのだが、対処の仕方には大きな違いを感じ、『ジョンQ』は善くも悪くも“アメリカン・ウェイ”なのだということを再認識した。

 目的や結果が手段を正当化し得るという考え方がベースにあって初めて成立するのが『ジョンQ』であり、そこに妙な形でのプラグマティズムの弊害のようなものを感じて、違和感を覚えたような気がする。それが無私の父性愛であれ、国家正義であれ、自己の目的のために関係のない他人や罪なき民に難儀を及ぼしたり、犠牲を払わせることをやむなき“コラテラル・ダメージ”とするところに不遜きわまりない傲慢さを覚えるとともに、勝つことが正義だという力の論理を感じないではいられない。

 苛酷な境遇のなか一家を支えている少年とその兄姉妹弟の姿を観ていると、彼らの貧しさに対して更なる苦難を与えるような政治や経済の論理に、いかなる正当性を理論化しようとも、重ねるほどにいかにも空しいことを思い知らされる。一発の爆弾に要する金で劇的な救済が大量に図れるほどに状況が劣悪だ。しかし、彼らは抗議も怒りもあらわさず、救いをも求めず、ささやかでしかない自助努力に黙々と懸命に勤しむ。けっして自己目的のために他者に犠牲を強いたりしないし、そんな発想も力もない。だからこそ、その生きている姿が美しく、かけがえないものとして観ている者の目に迫ってくるのだろう。この子供たちの姿が、そのまま国際社会におけるクルド人たちの置かれた姿だということなのだ。ゴバディ監督は、この作品のクルド人たちは私の想像ではなく、生きようとあがく現実の彼らそのものだ。三十年間身近に接した同胞たちの姿なのである。と語っているそうだ。こうのとり、たちずさんでなどで垣間見た頃には、クルド人の話はトルコのことだと思っていたが、イラクのみならずイラン、シリアにも住んでいて、言語はイラン語系なのだそうだ。抑圧されている少数民族の一つだとは思っていたけれど、国家を持たない少数民族としては、世界最大規模なのだという。この作品で描かれていたところからは、国際社会からの経済制裁で貧困に追いやられていると聞くイラク人民よりも貧しくて、その経済制裁をかいくぐって命懸けの密輸をおこなうことで、わずかの金を得ているようだった。

 現地のクルド人を起用して、厳しい自然のなかで撮った人々の姿に圧倒的な存在感がある。こういう境遇でもというより、むしろこういう境遇だからこそ、却って素朴な人間的感情が豊かに宿っているようにさえ感じられて、複雑な気持ちにさせられた。映画の最後でアヨブとマディが何とか国境を越えたのは、ある種の明るさでもって終えたということなのかもしれないが、僕が感情的にはかなりつらい思いとともに辿ってきていたからか、からくも国境越えはしたものの、とても無事に帰還できるとは思えなかった。本来のルートで越えたわけではないだけに、早晩、雪の下に埋まっているであろう無数の地雷のどれかを踏んでしまうのではないかという気がして仕方がなかった。残念ながら、今の国際社会は、まだ彼らクルド人に明るい未来が待ち受けているように思える状況ではないのじゃなかろうか。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0212-1yoppa.html#yoppa
by ヤマ

'02.12.14. 県立美術館ホール



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