『わが故郷の歌』(Gomshodei Dar Araq)
監督 バフマン・ゴバディ


 『酔っぱらった馬の時間』で深い印象を残してくれたイランのクルド人監督の第2作『わが故郷の歌』は、映画としてのトーンは異なるものの、日誌にも綴った「人々の姿に圧倒的な存在感がある」という点では、ある意味で前作以上に強い印象を残してくれた。また、僕が映画に求める非日常性という点では、人々の生きている境遇にしても、行動選択にしても、会話の交わし方にしても、何から何まで自分の馴染んでいる社会とあまりにも違い過ぎていて、半ば呆気にとられているしかないというくらい飛び抜けている。それでも観る側が“真実の宿り”を感じられるのは、やはり「人々の姿に圧倒的な存在感がある」からだろう。前作のように痛切で透明感のある悲劇性が前面に出てこないのは、もちろんイラン・イラク戦争がようやく終わった時期を背景としていたからというのが理由ではなく、何と言っても、いい歳をした異母兄弟の息子二人を連れたミルザ親父(シャハブ・エブラヒミ)三人組の珍道中ぶりにある。むしろイ・イ戦争の終結は、フセインに内政統制に力を入れさせ、クルド人の迫害強化に向かわせたことで、彼らには却って難儀が増したのだったというようなことを聞き囓った覚えがある。

 ミルザ翁は、大人のクルド人なら誰もが知っているほどの大歌手ながら、著名であることが何ら特権的な境遇に結び付いていないところが、芸能人だか芸なきタレントだか判らぬ連中をセレブなどと言って憚らない日本のTV文化の恥ずかしさと根本的に違っていて気持ちがいいのだが、とんでもないワガママ親父だ。息子の生活や意向など全く無視して、おそらくは息子らと同じ歳の頃か、むしろ若いくらいのはずの、23年前(だったような気がする)にバンド仲間と駆け落ちした妻ハナレを探しに連れて行けというわけだ。それも、彼女がイラク側のクルド人居住地域で自分に助けを求めていると人づてに聞いたから、などという何やら覚束ない話が元で、当てにもならないことなのに有無を言わせない。

 だが、息子が出来ないとのことで何人もの妻を抱え、娘たちも含めた一大家族を養いながらも、煉瓦工房のような事業を構え、そこそこの暮らしをしていたように見える弟アウダ(アッラモラド・ラシュティアン)にしても、気ままな一人暮らしをしながらサイドカー付きの立派なバイクを乗り回していた兄バラート(ファエグ・モハマディ)にしても、文句を言いながらも父親に付き従うのは、父権の絶対性が残っているということなのだろうか。強盗に襲われたり、散々な目に遭いながらも、歌や演奏とともに道中を愉しんでいるようにしか見えない逞しさが不可解で仕方がないのだが、滅法説得力があるのも彼らに圧倒的な存在感があるからだ。また、町は爆撃されて危ないからと子供たちを連れ、山に逃げてきて授業をする教師が戦闘機か爆撃機だかを指さして、飛行機というものについて教え、頂から子供たちに一斉に紙飛行機を投じさせる授業をしている“感覚のゆとり加減というか大きさ”というものも、不可解で仕方がないのだが、構えも気負いもなく当たり前のようにしてそうしている姿を映し出されると、格別変だという気もしてこなくなる。そして、そもそもハナレの難儀が本当のことかどうかも、それが何だったかも判らぬまま、到底辿り着けるとも思えない当てずっぽうのような捜索の旅がきちんと帰結し、あまつさえ、不承不承ながら付いてきた兄弟が期せずして結果的にそれぞれが最も望み求めていたものと巡り会えることになったりする作品の顛末を観て、人生の不可解・不思議さのほうを思い、御都合主義だとは露とも思えぬ不可思議にまたまた魅了される。

 クルド人の住む現地で彼らの生の姿を捉えていたからだろうか。国家を持たない民族の自由と不自由さが威勢のいい音楽や踊りとともに画面に溢れ出ていて、いささか破天荒な展開が、エミール・クストリッツァ監督の描くロマ族の世界にも通じているような気がした。だが、同じように、珍妙で可笑しく圧倒的な存在感があっても、クストリッツァ作品より慎ましくて、より深い悲しみの影が色濃く差していたように感じる。

推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2004wacinemaindex.html#anchor001077
by ヤマ

'04. 8.29. 県立美術館ホール



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