黒部節子氏が二月十一日に永眠された。わたしはそれを、 五月二十二日に名古屋グランドホテルで偲ぶ会が開催されるとのご案内を頂戴して知った。
  面識はなかった。黒部節子氏は、和田徹三の詩誌「灣」の詩人としてわたしの前に姿を現したが、そのときすでに彼女は病床にあったからである。わが国の形而上詩の牙城であった「灣」は、鷲巣繁男、澤村光博、星野徹、鈴木獏、片瀬博子、香川紘子といった執筆者が、毎号、純粋で、真剣な、光り輝くような誌面を創造していた。その執筆陣の中に、重要メンバーとして黒部節子氏もいたのである。美しい人であったというこの詩人は、わたしの中で、いつも片足を引きずりながらゆっくりと歩いている。それは小柳玲子さんから話をうかがって以来、わたしのこころに住み着いた黒部氏の姿なのだ。
  一九三二年、松阪で生まれた詩人は、奈良女子大に学び、中野嘉一の「暦象」に所属して詩人として歩み始めた。三十代に終わりに蜘蛛膜下出血で倒れたとき、彼女は「灣」の同人だったが、失語症の後遺症に苦しみ、退会を考えた。しかし、和田に引き留められて、詩作を継続したのである。そして五十代前半に再び倒れて以後、彼女は意識を回復することなく、家族に支えられて病床生活を送ることとなった。
残された多数の作品が散逸することを惜しむ小柳玲子氏らの尽力で、『まぼろし戸』(花神社)と『北向きの家』(夢人館)の二詩集が刊行され、それぞれ日本詩人クラブ賞、晩翠賞を受けたことは改めて記しておきたい。黒部氏の世界には、スタジオの人工照明的な明るさもなければ営業的笑顔の軽やかさもなかった。下降していく感覚、濃密な時間性、暗がりへの愛着、うわずることのない静かで低い声……。ファッショナブルな当世の女性詩人たちに決定的に欠けているものが、彼女の作品世界にはある。
  全詩集の刊行には困難もあろうが、詩書出版各社の詩文庫などに収録されてしかるべき詩人である。若い編集者の奮起を期待して追悼の言葉に代えたい。


 
[黒部節子さんを偲ぶ会]