(出会い)
  昭和二十五年(一九五〇)奈良女・国文学科入学が黒部様との深い縁(えにし)につながって行きます。入寮第一夜、集会場にお出でになったお姿、戦後色がまだまだ抜けきらず十八歳の女性とはいえ、暗くくすんだ色をひきずっていた私達の中に、淡いグリーンのカーディガンをおめしになって隣に坐られた時は、本当に嬉しゅうございました。国文科ということは、既に知っておりました。受験の折の真っ赤なブレザー姿の印象が強く残っていたからです。
  翌日、梅本さん(後の矢野夫人)、正垣さん(後の吉田さん)と意気投合、すぐにグループが結成されました。クロ・ウメちん・しょうやん。私こと瀧川、タキ坊、そんな呼び名がつきました。 二十数名のクラスメートの中の四人の占めた位置は随分目立ったことと思います。当時はそういうことへの配慮は持ち合わせず、本当に大学生活を謳歌しました。
  ひときわ美しく輝く黒部さん、誰もがお友達になりたかったはずです。それなのにその後そのまま四ヵ年の大学生活を学内はもちろん、生活そのものまで共有する親友になったのです。

(人柄)
  クロほどすべてに恵まれ揃ってらっしゃる方はいないと常々話し合っていました。天は二物を与えたまわずといいますが、二物どころではありません。世界一般ではとかく美人は気位が高くわがままなどとレッテルを貼られますが、クロには全くあてはまりませんでした。本当に四拍子揃ったクロに私たちは魅せられていきました。学生の本分たる学問のことはすっかり忘れてしまいましたが、一つだけ申し上げましょう。クロは外国語、特にフランス語に情熱をそそがれ、京都の日仏会館にまで通っていらっしゃいました。「赤と黒」の原文に魅せられ、映画で主人公を演じたジェラール・フィリップへの憧れも大変なものでした。私たちにとって四人グループ結成がどれだけ大学生活に彩りを与えてくれたことでしょう。
  あの頃はヨーロッパの画家たちの展覧会が京都で開催され、マチス。ピカソ、ブラック、ユトリロとその会に誘ってくださったのもクロでした。その後、私もすっかり美術館通いが大好きになりました。本当にたくさんのものをクロから与えていただきました。

(思い出)
  その中でも特に「旅」をしたこと、入学直後の初夏、岐阜県長良川の鵜飼見物をはしりに、夏休みには相河口の黒部さん宅に一泊、母上の松阪牛のご馳走を受け、翌日賢島での初めての四人だけの旅館宿泊、どきどきしながら泊まったことも、ついこのまえのように思い出されます。二年生進級寸前の春休みには、白馬山麓でのスキー体験、一週間で上達した喜びは大変なものでした。半世紀前の私達のスキー姿、想像がつくでしょうか。防堅頭巾に普通の服装(ウールのジャケットとズボン)で滑ったのです。後にNHKで放映される羽目になりましたが、孫たちに大笑いされました。
  それは同じ列車に乗り合わせた男子大学生六人との出会いがあったからです。彼らは奈良市内の高校同窓生。後の能狂言師「金春流家元」の金春晃輝さんの「私の健康法」で、奇しくも私たち四人を含む十人の立ち姿が放映され、ビデオを届けてくださったのです。彼は京大一年生(一昨年他界)、現在も老舗として猿沢池畔の料亭旅館「四季亭」の御曹司増田さん、春日ホテル支配人となられた大橋さん、乾さん、山の面白さを教えてくれた岡崎さん(既に故人)等々、大学生とお仲間になり、その後唐招提寺、青山高原・四季亭座敷でのトランプ遊びに興じた日々が、半世紀前のことだったとは本当に夢のようです。
  その後、冬が来るたびに、神鍋山・大山、特に大山は何度も行き、理観院前のスキー場では、ストックなしでナイターを楽しむほど皆上手になっていました。こうして行く先々で楽しくすごせましたのも、余りにも魅力的なクロがいらしたからです。クロの周りには大勢の方々が集まってきました。
  もう一つ、クロの芸術への造詣の深さ、入学当初、担当教授曰く「君たちの内申書は素晴らしいね、芸術的素養に富み、その感性や抜群云々」と。ああ、クロのことだとすぐ気がつきました。

(下宿生活)
  入学当初は四人とも蔦ばりで有名な女の園の寮生活を経験したものの、二年後半には下宿生活を始めていました。かつ正垣さんは、二時間はかかるでしょうに兵庫県加古川の高砂の我が家からの通学を始めたのを契機に、私が彼女の下宿を譲り受けたことがその後の合宿生活の始まりです。
  同じ家の玄関脇の部屋には黒部さん、庭を隔てた離れの一室が私の部屋、ガスも調理用電気器具もない七輪での自炊生活ですのに、何と思い出深い生活だったことでしょう。ことあるごとに、鍋をつついての共同炊事、高砂に帰るには遅すぎるといっては四人の夕食が始まります。そしてその夜はよっぴいてのおしゃべり、時には文学論、恋愛論もたたかわし、クロの情熱的で愛情こまやかな一面も垣間見たこともしばしばございました。
  卒業を前にしたお水取りの行事、修二会の最終日、三月十四日、明日はお別れという夜、例のスキーで知り合った仲間との夜の散策、夜明け近くまでご一緒して翌日切符も買えぬほど声をとられていたことも今は懐かしい限りです。

(卒業後)
  その後、それぞれの生活に追われ、外国生活の多かった吉田さんご一家のいっときの帰郷で、大阪池田の家を訪問したのは私たち36歳の時。三樹君は小学入学前の夏、矢野さん宅の明子ちゃんは一年生、私の末娘祥子も三樹君と同じ入学前を連れての久々の会合でした。
  子供たちの就寝後、学生時代同様のおしゃべり三昧。吉田さん御主人から「やきもちを焼くほど四人は仲が好いのだ!」とちょっと皮肉な批評をいただきました。中庭の蝉を捕りたいとの三樹君の願いを聞き、白いネットを買って帰られた母親としてのお姿が目に焼きついております。
  それから40歳。矢野夫人の急逝。三人で京都のお宅へお参りした時の寂しさ、やりきれない思いで帰りました。
  50歳。私の主人が膵臓がんにおかされ死亡、その時は黒部さんはすでに右半身が不自由でありながら、紀州田辺へ吉田さんとお出でて下さいました。駅での切符購入で「私は身障者なの。旅費は半額なのよ」と笑顔でおっしゃったクロのお姿が、私にとっての別れになろうとは全く予期せぬことでした。
(別れ)
  その後、第二の発作を知ったのは、御主人様から『まぼろし戸』の御本と挨拶状を頂いた時です。それからずっとずっと奇跡を待ち続けました。「童女のごとく眠ってらっしゃる」とのお便りで、どんなに辛く悲しい思い出に浸ったことか。どうしてこのような苛酷な運命を与えたまうたのか、長い長い年月の間、何もおっしゃてくださらぬ黒部さんですが、どれだけ励まされたことか、生きていることへの感謝の念をあらためて思い知らされた日々、まだまだ発揮されたでありましょう創作への意欲、歎いても余りあるものがあります。
  今や幽明境を異にして、再び黒部さんのお姿に接する術はありませんが、知的でお美しくお優しいお姿だけは忘れることはできません。 どうぞ今度こそ、本当にやすらかにお休みくださいませ。御冥福をお祈りしてお別れの言葉とします。


 
[黒部節子さんを偲ぶ会]