黒部さん、節子さん。独りの部屋で繰り返し名を呼ぶとき、懐かしさが込み上げてまいります。 吹く風は肌を刺す冷たさだけれど、陽光のこの明るさ。枝垂梅の蕾について、 あなたと言葉を交わせなくなって十五年目の、春が巡ってまいります。

かすかな波の音――。あれからそれらしいものを二度ほど耳にしたことがあった。 紙に字を書いていた。Sara Saraと書く。間違えると、その字のまん中に、Suと線を引いて、消す。 すると何かが私のもう一つのぼんやりした闇の中で、Suと線を引いて、消している。
<本星崎(X)>

 こんなに書き出しの作品を、同人詩誌「アルファ」に残して、あなたは何処へいらしてしまったのですか。 つややかなお顔、切れ長の済みきった眸。変らぬお姿をベッドに置いたまま。 「本星崎」連作中のことゆえ、作品にのめり込み、その町のどこかに、身を潜めてしまわれたのか、とも思い、 郵便局ならひょっとして、あなたのアドレスを捉えているかも知れないと、 「ラ・メール」(新川和江・吉原幸子編集)の特集<手紙詩>を通じて、あなた宛の手紙「本星崎のポストへ」を投函致しました。 お返事はありませんでした。 暫くたって「ラ・メール」で、特集<新鋭同人詩誌展>の企画があり、選ばれた八誌の中に「アルファ」も含まれました。 あなたのお作を載せなくてはと、ご主人にお願いし、探して下さったメモ書きの詩。


マックラナ ハコガアッタ
ソバニヨッテミルト ハコ
デハナク ドアダッタ ド
アヲアケ マックラナヘヤ
ニハイッタ (ホタルグサ
ノニオイガシタヨウダケレ
ド ヨクオボエテイナイ)
アルイテユクト ソレハヘ
ヤデハナク マックラナア
ナダッタ ムコウニマック
ラナソコガミエタ ソバヘ
ヨッテミルト ソコデハナ
ク マックラナハコダッタ

 優れた詩人には未来を予知する才能がある と聞きます。私ははたと思い至りました。あなたは何処にもいらしてはいない。 あなたはあなたのお体の中。ただ何物かに閉じ込められ、自由がきかないだけなのだと。
  あなただけには「アルファ」をお手渡ししなければと、発行毎にお許しを得て会いに行きます。 四十年以上も前から、通いつめた高台のお宅。白いレースのカーテンの向う、 ご本人にお報せする術もない、日本詩人クラブ賞、晩翠賞のレリーフの飾られたお部屋のベッドのあなたは、 歳月に曝された私など比べようもない程、ふくよかで若々しい。昨年末でした。
  枕元で、「黒部さん」と呼びかけると、ゆっくりとこちらを向いて下さいました。視線こそ合わせられなかったけど。 最新号を枕元にそっと置き、「次号が出る時には二十一世紀よ。でも私、抱負っていうよりは危機感の方が大きいわ」そして、 日頃胸に積っている事あれこれを、耳元で訴えるとき、ああ、解って下さったのかしら。両の眼尻から伝わり落ちる涙でした。

  初対面の折、その気品に溢れた美貌に息をのみました。あなたは幼い坊ちゃん二人を連れたうら若いお母さんでした。 新築された六供町のお宅に伺えば、三人になられた坊ちゃんと芝生の上で、エプロン姿のまま竹馬に興じておられたりして。 ある時は本を片手に洗濯機をかけてみえ、「ねえ、○○さんの詩って、この詩集が下敷だと思わない?」と示されました。 勉強不足の私は、その慧眼に驚くのみでした。丸山薫先生があなたのことを、「現代詩の優等生」って評されたとお話すると、 「優等生なんて嫌いだわ」とご機嫌斜めでしたね。催しがあり、名古屋の中小企業センターに行く約束をしました。 あなたは既に来てみえて、会場前の道で平光善久氏と立話されてました。急ごうとして、私ははっと立ち止まりました。 あなたのお姿だけが周りの人と異なって、透明な光にうっすらと包まれているのです。 それはお体自体が放つ微光なのかも知れず、不思議さの余り抱いた畏怖の念でした。 「本当に見たことを書いてきただけ」とおっしゃるあなたです。よもや現在の体験を、無駄になさることはありますまい。 必ず、言葉の世界に戻っていらっしゃる奇蹟を信じます。何といっても、世に稀な、百握りの手をお持ちのあなたですから。


 
[黒部節子さんを偲ぶ会]