おくのほそ道

市振/越中路/金沢/多太神社/那谷/山中

市振

 今日けふは親知らず・子知らず・犬もどり・駒がえしなどいふ北国一ほっこくいち難所なんじょえてつかれはべれば、まくら引きよせてたるに、一間ひとまへだてておもてのかたに若き女の声ふたりばかりと聞こゆ。年老としおいたるおのこの声もまじり物語ものがたりするを聞けば、越後えちごの国新潟にいがたといふところ遊女ゆうじょなりし。伊勢いせ参宮さんぐうするとて、このせきまでおのこおくりて、あすは古郷ふるさとに返すふみしたため、はかなき言伝ことづてなどしやるなり。「白浪しらなみのよするみぎわをはふらかし、海士あまのこの世をあさましうくだりて、さだめなきちぎり、日々ひび業因ごういんいかにつたなし」と、ものいふを聞く聞く寝入ねいりて、あした旅立たびだつに、我々われわれかひて、「行方ゆくえらぬ旅路たびぢさ、あまり覚束おぼつかなう悲しくはべれば、見えがくれにも御跡おんあとしたひはべらん。ころもの上の御情おんなさけに、大慈だいじめぐみをれて、結縁けちえんせさせたまへ」となみだを落とす。不便ふびんのことには思ひはべれども、「われわれは所々ところどころにてとどまるかたおほし。ただ人のくにまかせてくべし。神明しんめい加護かごかならつつがなかるべし」といひすてでつつ、あはれさしばらくやまざりけらし。


  一家ひとつや遊女ゆうじょも寝たりはぎと月


曽良にかたれば、きとどめはべる。


越中路

 黒部くろべ四十八ヶ瀬しじゅうはちがせとかや。数らぬ川をわたりて、那古なごといふうらづ。担籠たご藤浪ふじなみは、春ならずとも、初秋はつあきのあはれふべきものをと、人に尋ぬれば「これより五里いそ伝ひして、かふの山陰にり、あま苫葺とまぶきかすかなれば、あし一夜ひとよの宿すものあるまじ」と、いひをどされて、加賀かがの国にる。

  早稲わせる右は有磯海ありそうみ


金沢

 の花山・倶利伽羅くりからが谷をえて、金沢かなざわは七月なかの五日なり。ここに大坂おおざかより通ふ商人あきんど何処かしょといふ者あり。それが旅宿をともにす。
 一笑いつせうといふ者は、この道にける名のほのぼの聞えて、世に知る人もはべりしに、去年こぞの冬早世そうせいしたりとて、その兄追善ついぜんもよおすに、


  つかも動けわが泣く声は秋の風


   ある草庵そうあんにいざなはれて


  秋涼し手ごとにむけやうり茄子なすび


   途中吟


  あかあかと日はつれなくも秋の風


   小松こまつといふ所にて


  しをらしき名や小松吹くはぎすゝき


多太神社

 この所多太太田の神社にもうづ。実盛さねもりかぶとにしきの切れあり。往昔そのむかし源氏に属せし時、義朝よしとも公よりたまはらせたまふとかや。げにも平士ひらさぶらいのものにあらず。目庇まびさしより吹返ふきがへしまで、菊唐草きくからくさりものこがねをちりばめ、龍頭たつがしら鍬形くわがた打つたり。実盛討死うちじにのち木曽義仲きそよしなか願状がんじょうに添へて、このやしろにこめられはべるよし、樋口ひぐち次郎じろうが使ひせしことども、まのあたり縁記えんぎに見えたり。

 むざんやなかぶとの下のきりぎりす


那谷

 山中やまなか温泉いでゆに行くほど、白根しらねだけ跡になしてあゆむ。左の山際やまぎはに観音堂あり。花山くわざんの法皇、三十三所の巡礼とげさせたまひてのち、大慈大悲の像を安置あんちしたまひて、那谷なたと名付たまふとなり。那智なち谷汲たにぐみの二字をかちはべりしとぞ。奇石きせきさまざまに、古松こしょう植ゑならべて、萱葺かやぶきの小堂しょうどう、岩の上に造りかけて、殊勝の土地なり。

  石山いしやまの石より白し秋の風


山中

 温泉いでゆに浴す。その功有間ありまに次ぐといふ。

  山中やまなかや菊はたをらぬ湯のにほ

 あるじとするものは久米之助くめのすけとて、いまだ小童せうどうなり。かれが父、誹諧を好きて、らく貞室ていしつ若輩の昔、ここに来たりしころ、風雅にはづかしめられて、洛に帰りて貞徳ていとくの門人となつて世に知らる。功名ののち、この一村いっそん判詞はんしの料をけずといふ。今更いまさらむかしがたりとはなりぬ。

成功