雲巖寺
当国雲巌寺の奥に仏頂和尚山居の跡あり
「竪横の五尺にたらぬ草の庵
結ぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書き付けはべり」と、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと、雲岸寺に杖を曳けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある景色にて、谷道遥かに、松・杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡つて山門に入る。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢ登れば、石上の小庵、岩窟に結び掛けたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。
木啄も庵は破らず夏木立
と、とりあへぬ一句柱に残しはべりし。
殺生石・遊行柳
これより殺生石に行く。館代より馬にて送らる。この口付きの男「短冊得させよ」と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと、
野を横に馬牽き向けよほとゝぎす
殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
また、清水流るゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。この所の郡守戸部某の「この柳見せばや」など、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄りはべりつれ。
田一枚植ゑて立ち去る柳かな
白河の関
心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便り求もとめしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なおあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曾良
須賀川
とかくして越え行ゆくままに、阿武隈川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山連なる。影沼といふ所を行くに、今日は空曇りて物影映らず。
須賀川の駅に等窮といふ者を尋ねて、四、五日とどめらる。まづ「白河の関いかに越えつるにや」と問ふ。「長途のくるしみ、身心つかれ、かつは風景に魂奪はれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流の初めや奥の田植歌
むげにこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつづけて、三巻となしぬ。
この宿のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼みて、世をいとふ僧あり。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚えられて、ものに書き付けはべる。その詞、
栗といふ文字は、西の木と書きて、
西方浄土に便りありと、行基菩薩
の一生杖にも柱にもこの木を用ゐ
たまふとかや。
世の人の見付けぬ花や軒の栗
浅香山・信夫の里
等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮の宿を離れて浅香山あり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもやや近うなれば、「いづれの草を花がつみとはいふぞ」と、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に泊まる。
明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遥か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける。「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らして、この石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺り