壷の碑
壷碑 市川村多賀城にあり。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里をしるす。「この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人のおくところなり。天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣朝獦修造而、十二月朔日」とあり。聖武皇帝の御時に当たれり。昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老て若木に代はれば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここにいたりて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。
末の松山・塩竈
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松のあひあひ皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの末も、終にはかくのごときと、悲しさも増りて、塩竈の浦に入相の鐘を聞く。五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。蜑の小舟漕ぎ連れて、肴分かつ声々に「つなでかなしも」とよみけん心も知られて、いとど哀れなり。その夜、目盲法師の、琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃といふものを語る。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上げて、枕近うかしましけれど、さすがに辺国の遺風忘れざるものから、殊勝におぼえらる。
早朝、塩竃の明神に詣づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞に重なり、朝日朱の玉垣をかかやかす。かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそわが国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈あり。鉄の戸びらの面に「文治三年和泉三郎寄進」とあり。五百年来の俤、今目の前に浮かびて、そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士なり。佳命今に至りて慕はずといふことなし。まことに「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従ふ」といへり。日すでに午に近し。船を借りて松島に渡る。その間二里余り、雄島の磯に着く。
松島
そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮を湛ふ。島々の数を尽くして、欹つものは天を指さし、伏すふすものは波に匍匐ふ。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左に分かれ右に連なる。負へるあり、抱けるあり。児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲おのづから矯めためたるがごとし。その気色よう然として美人の顔を粧ふ。ちはやふる神の昔、大山祗のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ
雄島が磯は、地続きて海に成出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、坐禅石などあり。はた、松の木陰に世をいとふ人も稀々見えはべりて、落穂・松笠など打けふりたる草の庵、閑に住すみなし、いかなる人とはしられずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改む。 江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ
松島や鶴に身を借れほととぎす 曽良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るる時、素堂松島の詩あり。原安適、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解きてこよひの友とす。かつ、杉風・濁子発句あり。