並木は一体どういうつもりなのかと孝は腹立たしくその建物を見ていた。中に入る気にもなれなかった。
人の手を離れてしばらく経ち、雨曝し吹曝しにされ放題にされてあった平屋の家は見窄らしく朽ちかけているのだった。閉じてあったトタンの雨戸を中から並木が開け、戸袋に収めるのにいやな軋みをたて難儀しているのを見て、蓉子は眉をひそめた。孝はそれが開け放たれた途端この屋根が頽れてきそうに映った。樋は腐り割れて、苔の生
建てて十八年という並木の話だった。「人が住まなくな
「なに、きれいに掃除して、奥さんがいろいろ飾りつけしてごらんなさい、りっぱな家になりますよ」
それから家が荒家であるかわりにという口調で、「これだけの庭だもん、そこに車を入れたって充分余裕がある」と言う。
木で簡単な柵がしてある。周りに建物がない為、柵の外の空地の広さも眼にはこの土地の広さと映るのだろう。土地は三十坪ばかりである。建坪が狭い。庭が広いからなおさらそこに日を浴びて建っている家屋が貧相に見え、色をなくして木の地膚だけ浮かべているそれのどこを触ってもざらざらした砂埃に指が汚れそうな気がした。或は水をくぐった朽ち木のじっとりした湿りに触れそうな気がするのだった。
「これだけあるんだもん、結城さん、庭いじりできますよ。花を植えたり、ね、りっぱな庭ができるよ」
前の住人が引越しの時あらかた掘っていってしまい低い雑草が生えているだけの庭木のない庭を、三十三の齢の孝に老人に玩具をあずけるように並木は言う。
「ちょっと、このくらいの家は探せないとおもうなあ」
「そうだろね」
ぞんざいに孝はあいづち打ち、この二つ下の男が言ういちいちに苛立っていた。なにいってやがるかと思うのだった。
魂胆はわかっているのだった。先々週から三度こうして郊外へ車で連れだされ、見せられる家はみなこうなのであった。そのたびにこの男は似たようなことを言ったのである。
蓉子はそっぽを向いて、向こうに広がっている日に光る青い田畠に眼をやっていた。
「どうぞ。入って、中を」と並木が言い、孝は義理一遍だというように蓉子に目配せをして、玄関にまわらずそのまま縁を踏んで座敷に上がる。縁框が鈍い軋みを足の裏でたてた。
蓉子が白いソックスが汚れるのをいとうようにちょっと躊躇ったのち上がってきたのを見届け、蓉子はいま俺にいちばん不満なのだろうと孝は思った。玄関にあったらしいスリッパを持ってきて並木がすすめるのを、蓉子はにべもなく断った。そのそっけなさに孝の方が驚いたが、並木はべつに気にも留めなかったようだった。蓉子は見るまでもないというように直き表に出てしまい、孝たちを待って冷たい風に吹かれていた。
遠くに団地が白く輝いて見え、小さな杜があるほかは畠ばかりだった。人家は疎らであった。いちめん影をもたぬ景色の中を車は畠と畠のあいだのアスファルトの道路を縫って進む。いま外れてきた土手伝いの道が扇状にあいだをひろげて行った。弓なりにつづいている土手の上を橙色の電車が走っているのを見ると、休耕地の枯れた土の色と畠地の青さに慣れた孝の眼にひどく美しくあざやかなのだった。
「きれいね」と蓉子がぽつりと言う。
「そうでしょう、いいでしょう、奥さん」電車を見ていたわけでもない並木が顔をふりむけ手柄のように言った。 「ちょっと見られない景色だと思うんだよね」
そんなに言うほどの景色でもないといいたげに蓉子は横の孝を見、
「そうだな」たばこに火を点け、孝は窓をひらいた。前の並木の頭の上についている鏡に、自分の顔が捉えられているにちがいないと思いながら、
「まあ、これでいい家が手に入ればな、これにこしたことはないが」
皮肉った。事実孝はこの辺りの鄙びた感じがきらいではなかった。きょう見たのはもっと町中だが、駅からそこまで二十分余乗っていくという団地行きバスの、この辺りは順路になっている。なんなら駅まで、蓉子と散歩を楽しむこともできるだろうと思った。交通の便はわるいが、大人にとっても子どもにとっても環境のよいここらの土地に家を持つのはわるくないことだった。
灌漑用の川がきらきら日を跳ねていた。野球帽の小学生が、コンクリで打ち固められたへりに腰をかけ、腕を一杯に伸ばせば向こう側に届いてしまうような釣竿をいっしんにあやつっていた。それへ、砂埃をひっかけるようにして車は通り過ぎる。背中の窓をふりかえると、砂埃はいつまでも残っている。遮る物がない為、山からの何とか颪という風が運ぶ砂はアスファルトの上に巻きあがるくらい吹き溜まるのだろう。
さっき見てきた家を、孝は思った。長いこと野ざらしにされつづけ、それはそのまま朽ちようとしていた。建て売りで出された当時はモダンな工夫をこらした所々が、今となるとなおさらその安普請をきわだてるものでしかないのだった。
「お気に召しませんでしたか、あの家」
それはもう並木も分かっていることなのに、わざわざ問うた。孝の皮肉が利いたのだ。
「うん、あれじゃ、ちょっとな。強い風でもひとふきしたら、ばりばり、あの屋根めくりあがりそうだったもんな」
蓉子が笑った。いかにも作り笑いのそれに、
「そんなことあるもんですか」
吐き捨てるように言って、並木はフロントガラスの所にあるたばこの袋をひろった。いらついた手つきで振り、出て来ないとその切り口に二本、指を入れ、器用に裂いた。なかった。斜め後ろからさし出した孝に、「どうも。いただきます」慇懃に礼をいう並木の眼のふちが、あかく、そまっていた。短気だな、と孝は思った。会社であのように働いていれば内向もするだろうが、と思ったのだった。
それは、一か月ほど前のことだった。
「八時半、ちょっと早いんで恐縮ですが」
電話の向こうで、本当に悪がっている並木の赤らんだ顔が見えるようだった。孝はその並木に一回会って話したきりだが、そのとき持った印象とおなじ、好もしいものを感じながら、
「結構ですよ、その方が僕も都合がいい。仕事、休めないんでね」
「そうですか。そりゃあ、そうでしょうとも。結城さんのようなやりてに休まれたひにゃ、会社も大変でしょう」
似合わないお世辞を、並木は如才なくつらねた。
「ウチの社長が言ってましたよ、今度、機会をみて結城さんに、ウチの会社案内を作ってもらおうって。いや、ほんとに」
孝が笑ったので、並木はもうひとつお世辞を付け加えねばならなくなった。
「結城さんは、ウチの社長が買ってますからねえ。才能だけで食べていけるなんてのは、たいしたもんだと」
「ま、商売ですからね、お話があればいくらでもお引き受けしますよ」
と、孝は並木を救うように、ビジネスの口調で話を折った。
まだ会ったこともない不動産屋の社長が、孝を「買う」も買わぬもないのである。並木の話を聞いただけで、孝の作ったチラシ一枚見たわけでもないだろう。それに、と孝は苦笑していた。並木は孝を持ち上げているつもりだろうが、文案制作者の孝には、お前はどうせ、町の不動産屋のチラシを作っている丈がせいぜいじゃないか、と言われているも同然なのだった。ピンからキリまであるこの商売の、孝のやっているのは勿論、キリのほうである。並木に職業を聞かれ、
「友人の始めた広告会社にいるんですが。何て言うか、広告の文案を作る―」
怪訝そうな顔の並木にわかりやすく説明する為に、孝はテレビで耳覚えのありそうなコピーを幾つかあげ、
「要するに、そういった文句を考えたり、広告を作ったりする仕事です」と説明した。
「ははあ」並木は感嘆したように声をあげ、
「いい仕事ですねえ。じゃあ、テレビとか雑誌とか、新聞に入ってくる広告みたいなのとかをお作りになっているんですか」
その三番目にあがったのが自分のしている仕事なのだが、と孝は苦笑しながら思い、
「まあ、そうです。そんな、カッコいいやつじゃないですが」
と、この見るからに好人物の並木を騙して、羨ましげな眼をさせてしまったような気がして、孝は少し訂正した。それでも、きちんと説明してやらなかったから、並木は孝の職業にある華やかなイメージを抱いたままでいる。そのとき孝に虚栄心がなかったとは言えない。いや充分あったからこそテレビのCMの例などを持ち出してしまったのである。あれは不味かったな、と並木の電話を受けながら孝は後悔がわいた。と言って、いまさらきちんと説明する気にもならなかった。ひつようもない、と思った。それも虚栄心であることを孝は分かっているのだった。
並木にたいして気がさすものがあるので、孝は話を本題に戻した。時間が決まったのだから、並木の電話の用件は済んでいるはずだった。孝は時間を復誦して、
「じゃあ、そういうことで」
切るつもりだった。食卓に夕食が並んでいた。蓉子のたてる包丁の音がたっていた。
「あ、それから」
孝の気配を察して、あわてて大きな声になった。
「ウチの社長は、時間に厳しい方なもんでね、ぜったいに遅刻しないでもらいたいんですよね」
並木の口調があわてた為か、ぞんざいになったことにちょっと孝はむっとした。客が遅刻をしようが、それに文句が言えないのが商売というものではないか。それとも、何か、不動産業というのはそれほど殿様商売なのかね、と浮かんだ皮肉を孝はかろうじて押しとどめた。
「大丈夫だよ、それは」
孝の不快が伝わったか、
「ホントですよう」
並木はまた馴れ馴れしい口調に戻った。
「結城さんは折角、ウチの社長のお目に適ったのだから、ここで遅刻したりして、悪い感じを持たれたりしたらつまらないですからね」
「それ、どういうことなの」
と、孝は腹に据えかねて言った。
「え?」
「僕は客じゃないの。さっきから聞いてると―」
「そりゃあ、そうですよ。きまってますよう。大事なお客さんですよう」
並木は孝に終いまで言わさず、声をさらに大きくした。並木の狼狽が、孝の耳に伝わった。
「ですけどね」
と、急に並木は声をひそめ、聞き分けのない子供をあやしつけるようにつづけた。
「そこはそれ、……あるじゃあないすか、魚心あれば水心とも言いますしねえ。わたしはただ結城さんに喜んでもらえる家を買っていただければ、それでいいんでねえ。で、ウチの社長はいろいろ顔も広いことだし、けっして結城さんがよく思われて損することはないはずだと、そう判断したもので―」
孝は何か足もとにぬめついた生き物がからみついてくるような気がした。
「分かった、ええ、分かりました」
並木の話が煩くなって、孝はいいかげんにあしらった。
「明日、時間通りに行きますから」
「そう、お願いしますよう。きっとですよう」
明るさを戻した声で並木は言った。
「ええ、ええ、なるたけそうしますよ」
孝はそう言って、「なるたけ」という言葉に相手が反応する前に、それじゃ、と電話を切った。小さな腹癒せだった。
また掛ってきそうな気配を漂わせている電話機を、少しの間孝はねめつけて、変な奴だ、と吐き捨てた。この間はじめて会ったときの並木の印象が、大きく修正された。
中古の家を東京の郊外に買うことにした孝は、休日のたび、不動産屋を探し歩いた。仕事先の付き合いに幾つか不動産業者はあったが、孝はそれをあえて避けた。新聞のチラシに手頃なものが出ると、行ってみるのである。蓉子も一緒になって歩いた。「私たちには高い買い物ですから。あだおろそかにできないわ」と言っていた。私たちには、というのは中古住宅のそれも一等小さな物しか手が届かないような寡ない頭金をやっと用意できただけだったから、それでさえ、という意味である。
はじめは、新築の建て売りを考えていた。蓉子の空想の内には、何度も見に行ったあちこちのモデルハウスのようなものがあったにちがいないのだ。不動産屋を何軒かめぐるうち、それがついえた。孝たちが用意した頭金のせめて倍を持って行かぬことには良い家は手に入れられないのだった。
訪ねるうち、中古住宅の広告を入れた、不動産会社の白い瀟洒な建物が、孝は気に入った。飾り気がなく、よく町で見かける戸口にベタベタとチラシの類を張り付けた安っぽさもない、建物の扉に金文字で社名が書かれた会社だった。全面ガラス張りで、窓には白いレースのカーテンがかかっていた。飛び込みの客を相手にしていないという鷹揚さがその建物からは感じられた。
そのとき孝に応対したのが並木なのである。生憎、社長が留守で、と言って相手をした並木を見て、孝はこの会社を選んで正解だったかもしれないと思った。
並木はベージュの作業着姿で、その頭に黄色いヘルメットを被せれば現場監督然とするような男だった。名刺を差しだすとき、こんな恰好で、と言って頭に手をやり、わたしはふだん建築現場をあちこち車で廻ってるもんですからね、と赤ら顔を人なつこそうにほころばした。それはべつだん客のまえに作業着で出ていることを羞じているというのではなかった。むしろ若年でありながらあるセクションの責任ある仕事にとりたてられている人間に見られがちな、衒いと気負いがろこつに感じられた。が、厭味でもなかった。孝には並木が単純で善良な人間に見えたからだ。それがかえって孝を安心させもした。
並木は、壁に貼ってある建て売り住宅の建設予定図を指さし、埼玉県にもう幾つもこういう住宅群を作ったんですよ、と眼を輝かせた。社長がいるときに話を詰めましょう、ということでこの日は帰って来た。帰るみちみち、
「ちゃんとした会社みたいじゃない」
蓉子は上機嫌だった。使い慣れぬ金を投じて大きな買い物をするということに、蓉子も詐欺などにつけいられる危険を覚えていたのだ。いま出て来た不動産会社のガラス張りの明るい建物は、そんなふたりにいかにも身持ちの堅さを思わせて映ったのだった……。
並木の電話を受けた翌日、孝は余裕をもって出かけて行った。やはり並木の言葉が頭にあったからだった。
だが、指定された刻限より十二三分早めに着いた孝は、それから長く待たされることになった。
扉をひらいたとたん、いらっしゃいませと打ち揃った声を浴びせられた。孝をみとめると、並木が安心したような笑顔をつくり、社長の机の前に行った。鯱張って立ち、何か言った。社長が頂突いて、何か短く言うのが見える。並木が最敬礼のように直立し直し、低頭した。
「きょうは、社長が直にお会いになるそうだから」
曇りガラスの衝立で仕切られたブースに案内しながら、並木はいま社長の前に立った緊張が解けないといった面持ちで言った。
「ああ、そうですか。それは……」
その後の言葉を、孝はうやむやに濁した。いまの光景を孝はニヤニヤして見ていたので振りかえった並木に見られてしまい、こっちの思いが伝わったかと、見られたばつの悪さに孝は少しへりくだって答えたのである。だが、孝の忖度に関わりなく、並木は気にもとめていないふうであった。
並木は直ぐ元の場所に戻り、事務服の女が茶を持って来た。孝の方に、ガスストーブを向き直らせ、元栓をひねる。もう四月だというのに、お寒いですね、と身をかがめ向こうをむいたまま言って、スイッチを廻した。ガチャ、ガチャという乾いた音が、朝の始業前の静寂を小さく破った。それが合図だったように、
「じゃあ、始めよう」
太く甲高い声がした。社長の声であるらしかった。吸いさしのたばこを、磨かれているガラスの灰皿にあわてて揉み消し、居ずまいを正した。それから、まるで入社の面接試験を受けに来たみたいだな、と思った。並木の調子が伝染ったかな、と苦笑した。今にもその衝立の影からあらわれると思えたのに、孝を置き去りに始まったのは朝礼なのである。
朝礼は点呼から始まった。呼ばれた者は男も女もそろって小学生のように、はいっ、と答える。一渡り見廻せばすむものを、とその愚劣さが我が事のように腹立った。客を待たせてやることかどうか。
肩すかしを食った孝は、新しいたばこを咥え、卓上ライターを鳴らして火をつけ、まだぬくまっていない床に冷えた片足をストーブの熾ってきた炎にむけ組んだ。莫迦にしてるな、とちょっと腹が立った。客をほったらかして朝礼を始める会社がどこにあるだろう。蓉子を連れて来ないでよかった、と思った。
それでも孝は、なに直ぐ終わるにちがいないと高をくくっていた。あれほど時間厳守を言ったのだから。
ソファに坐って数本のたばこに火を点け、聞えよがしに舌打ちしながら孝は待った。衝立の向こうでは、きびきびした社長という男の甲高い声が響いていた。業務報告を誰かかしたのを受けて、叱りつけるように喋っているのだった。何かを注意された社員のはいっ、という大きな返答が聞こえた。はいっ、申し訳ありません、という声も幾度かたっていた。その中に、並木の鯱張った声もまじった。並木は、何を考えてこれを聞かせているのだろう、と孝は思った。孝は、途中からはっきりとこれは自分に朝礼を聞かせているのだとさとったのだ。しかし、何の為に?
客を安心させる為に規律正しい会社の始業風景を見せたいのだとしたら、これは逆効果である。孝は生来、こんな会社ごっこを愚劣と感じる性質なのである。長く関わった学生運動の時期でも、孝は組織らしさや規律や会議を嫌った。
長く待たされてから、光沢のある紺の背広に身をつつんだ社長という四十がらみの男の挨拶を受けた。ソファに大柄な体を深々と落としている男の隣に、あたかも伺候然として並木は直立していた。何か訊かれるたび、はっ、と勢いよく返事をし、耳打ちするように体を前かがみにして答える。することによろずそつがなかった。念が入っていた。君主と臣下のように見える社長と社員のやりとりは、下手な芝居を見せられるようで孝の眼には奇異だが、客としては気分を損なうものではない。並木の大げさな伺候ぶりだって、裏に廻れば、あいつの気分をよくしてやったぐらいに舌を出してほくそ笑んでいるのだろうと察しがつく。そう思っていた。
孝は訊かれて、頭金になる額を言った。社長という男の金壺眼がジロリと剥かれた。意を汲んだようにすかさず、並木が言った。
「もう少々、何とか都合つかないでしようかねえ」
「ありったけをはたいて、借金もして、作ったんですよ。これでせいいっぱいです。これで駄目ならあきらめますよ」
事実を言った。それ以上増えるもんじゃない。
「分かりました」と金壺眼が言った。笑っているが、眼が笑っていない。
「引き受けました、並木君、きみが担当になって、結城さんがお気に召す家を手に入れられるよう、ひとつ、骨を折ってさしあげたらどうかね」
言われて、直答を許された臣下のように、
「はっ、社長がそのように仰有るのでしたら」
並木は直立不動のまま幾度も頭を下げた。
「ま、もう一、二軒来週見てみましょうよ。じつはね、とっておきのがあるんですよ。ウチの社長が得意先にあげるつもりでとっておいたものなんだ。それ、結城さんにやってもいいって、社長、仰有ってね。まあ、結城さんの人徳ですよ、これは」
あきれたという眼を蓉子はした。孝は返す言葉が見つからず、蓉子を意識して苦笑いを浮かべる。並木の敬語使いはどうなっているのか。孝の笑いを気をよくしたととったか、眼の上のミラーをちらと覗いて並木は顔中をほころばしながら、
「ほんとですよ、奥さん」
孝の〝人徳〟の件かと思ったら、
「ウチの社長が」と社長の話をはじめた。
「そんなことを仰有るのは、異例なんだよね。よくよく結城さん、気に入られたんだね。第一印象がよかったんだと思いますよ」
孝は、その第一印象で、その社長という人物を好きになれぬタイプだと思ったのだが。挨拶を交わしながら、この男はいま俺のことをどう感じているのか不安になるようなタイプの男だった。はじめに応対したのが、並木でなくあの社長であったら或いは孝は他所を当たってみようとしたかもしれなかった。
「ま、社長がそう仰有るからには、大丈夫、きっといい家が手に入りますよ。頭金が寡いことですしね、せいぜい社長に気に入られるようにしないといけませんよ」
哄笑が、腹の底からこみ上げて来た。並木は正直な男なのだ。心から雇用主に傾倒しているのであろう。あの雇用主がヤクザでなかったことは並木にとって幸いであった。ヤクザなら並木のような男はきっと鉄砲玉にされているところだ。
「頭金、そんなに寡いのかしら」
蓉子が腹に据えかねたという声で、ぼそっと言った。そんなに多くはないのは蓉子だって承知しているのだ。だが並木が言うほど寡くはないはずだと孝も思うのである。郊外に小さな中古住宅を求めるのにそれほど寡いというわけではないのである。
「奥さん」並木は改まった声を出して、ちょっと後ろを振り返った。蓉子は並木の真裏のシートにいるので、並木の眼のふちが軽い怒りで赤くそまっているのを見たのは斜め位置の孝である。たしなめるように言った。
「そんなこと、いっちゃいけませんよ。ウチの社長に奥さんがそんなふうに思ってるのが知れたら、怒って、もうこの話なかったことになりますからね」
蓉子はちらと孝を見、どうして言い返さないのかとなじるような眼つきを残すと、ぷいと窓側に表情を張り付けた。
厄介だな、と孝は思った。不動産屋を変えたい、変えぬ、で又蓉子と諍うのは気が滅入るのだった。頭金の寡いことに付け入って買い手のつかぬ遊ばせている中古住宅を何とか捌きたい、というのが本音なのであろうに、この男、恩着せがましく言いすぎる、と並木のおしゃべりがいまいましい。
あすこに何か義理でもあるの、と言われた先週の日曜のことが思いだされて来た。
やはり物件を見廻っての帰り、送るという並木の車を断って降りてからすぐのことだった。そんなものないさ、と孝は言った。だが、われながら歯切れがわるいのであった。なら、何故、と蓉子はいいつのった。何故、あんなたちのよくない不動産屋にこだわるのよ。変えてしまいましょうよ、と気が知れぬというように言った。ねだるように、孝の気をそこねぬように言っていたのが、終いに怒りだし、並木がこれまで見せたあれこれを孝にあてつけてあげつらいはじめたのであった。
家を買うことになってそういう諍いが蓉子との間に起きるようになっていた。
(「家を買いに」その一)