あの町へ                



              荒川佳洋
 
   
    荒川佳洋のブログ「花と戦車光と闇」より、著者の承諾を得て転載した。  「花と戦車光と闇」へ  
   
 
 
 

 水が、ごつごつした赤銅色の壁面を幾筋も流れていた。彼の頭の三十メートルも上に、曇った空があった。地下鉄工事の裁られた穴蔵の中にいた。水は地層が湧かし出す、湧水なのだった。灯りがこの地下三階くらいにはあたる場所の壁の四方要所に入れてあるが、それでも暗かった。湿気がすごかった。底冷えがしていた。
 飯を、そこで食べていた。あてがわれた弁当には、どぎつい色の沢庵が二切れのっていた。リフトで、金盥を肩に担いだ若い男が降りてきて、彼のいる所にも廻ってきた。そこは彼ともうひとり五十がらみの男の持ち場なので、二人しかいなかった。若い男は、金盥を二人に向けた。「一疋とってくれ」とせわしない声でいった。煮魚が、くたばった、そのままのように金盥に入っていた。五十男が、つまんだ。彼は屈辱を感じた。「お、若いの、とれよ」年齢は、彼とそう違わないように見えた。その言葉は、社員と日雇い労務者の、歴とした違いから出てくるのだ。彼は、とった。「ああ、そうか、この下には、きょうは誰も作業していないんだっけ。二疋あまる。もう一疋ずつ、とってもいいよ」と若い男が言った。親切ごかしだが、金盥を空にしたかったのだろう。五十男は社員の男の気の変らぬうちに、とでも思ったか、素早く、とった。彼が断わると、「じゃ、俺がもらっとく」と言って、三疋めに箸を出した。「そんなに食えるのかなあ、鱗がはえるぞ」ジイサン、と言って、社員の若い男が笑った。五十男はつかんだ所がわるかった。煮魚を腹の所で、崩してしまった。盥に残した魚のしっぽの方をとろうとすると、「もう、いいだろ」と不機嫌そうに、社員はいった。金盥の魚のしっぽとつゆを、地面にあけた。それが、地下水の水溜りに流れて、虹のように油が浮いた。
 「へっ、ばかやろう。なんだいてめえらばかり、ぬくい場所でめし食いやがって」相手がいなくなると、男は悪態をついた。卑屈を売った、その分、取り戻すように、飯をおわって、しゃべり始めた。
 「俺は、人を殺ったことが、ある」と言うのである。
 「もう、かれこれ、三十年になるか」彼は、男のそれが何か箔でもあるかの言い方に、ふっ、と笑いがでた。あの労務者の町には、そんなのはゴロゴロいた。前科を誇るのから、背中の色さめた夜桜ふぶき、はては戦争で負った機銃掃射のタマの痕。男は、彼の笑いを、「信じないんだな」咎めるでもなく言った。「信じてもいいよ」と彼は言った。小柄なこの五十男の、酒焼けした赭い顔を、見つめた。
 「百円が、ほしかった」と男は言った。
 「終戦直後の百円と言やあ」「今だって、五百円、千円、のために人を殺めるにんげんはいるさ」と、彼は言った。あの町を、出たかった。あの町を愛せなかった。あすこには頽嬰のアトモスフェアが、あるだけだ、と思った。しかし、かつて勤めたことのある、学生街のマージャン荘、商社マン相手の喫茶店にかんじた頽廃に比べれば、あの町のアトモスフェアはまだしも身近だった。ジャン荘勤めが、いやで、逃げだした。中産階級の傲慢、傍若無人が、たまらなかった。コカ・コーラ一つ搬ぶのに、屈折した気持を味わねばならなかった。商社マンに、ボーイじゃねえか、と言われた。腹に据えかねた。ひきずり出し、殴った。「いつまでも、オマエラが、のさばれる世のなかじゃないぞ」殴りつづけた。兎唇にさせた。首になった。一度めは逃げ出し、つぎには首になり、あの町に落ちた。傷害の科で、追われていた。捕われたところで、たいした罰は受けぬだろう。慰謝料のいくばくかを払えば内々ですむのかもしれなかった。が、逃亡した。逃亡しか、頭になかった。あの町を、出たかった。出られなかった。
 「飯場に、小ゼニを溜めてる奴がいた。俺あある日、うまくそいつをおびき出した、むろん金を持たせてだ」うすく、男は笑って、効能をはかる眼つきを、彼にむけた。「にっちもさっちもいかなくなれば、にんげん、何でも、できる。川っぷちで、首を絞めたよ。奴あ、もがいたね。首をもがれる、鶏のようだった。ふいに崩れおちて、背中が俺の足もとに、きた。そう、後ろから絞めたからね。助けよう、て気になったが、やっちまったら元に戻れん、と思ったんだ。紐で、とどめをさした。川に投げこんだ。夜の暗あい川面だったあ。蘆が、ざわついていたっけえ」その赤城山でも語りだしそうなオーバアな調子に、彼はおかしくなった。まゆつばだと思ったが、彼は男に話のつぎ穂を、与えた。「それで、逃げたの?」
 ああ、と言って、男は眼をつむった。板の切れっぱしに、二人は腰かけ、膝をかかえていた。寒かった。地の底で、なおさらだった。暖をとりたかった。せめて、温いものを体に入れたかった。最悪の現場だった。ひどい手配師につかまった、と悔いる。いや、この五十男のせいだった。
 朝、労働センターに向って、大通りを歩いていた。労務者たちがゾロゾロ、懶そうに歩いているのに混って、女が二人、歩いていた。生気のない、くずれた恰好をしていた。一人の女の長いスカートが、白なのだろうが、黄ばんでいた。彼はそれに、たくさんの男たちの精液の匂いを、嗅いだ。労務者の一人が、交差点の信号待ちの所で、「いいシリしてるな、姐ちゃんよお」と、そのスカートの女の尻を、叩いた。男たちの、猥雑で、どこか頼りなげな笑いが湧いた。「朝っぱらから、なんだよお」見返って、女が言った。「いいじゃないか、減るもんじゃなし」「なんだい、いい齢しやがって」「その、いい齢を相手に商売してるの、どこのだれだ」笑いが、湧いた。身に覚えのある笑いだった。「あたいたちにだって、選ぶ権利が、あるんだからねっ」と、笑いにむかって、女は言った。彼は、はじめて、そこで笑った。
 信号が変わった。歩いた。女をからかった男は、やっつけられた顔つきで歩き始め、その横にならんだ彼を、つと、見た。眼が、合った。彼は、愛想笑いをした。男は、「あのパンスケ」と、唸るように言った。女に、してやられたのを、弁解するように、「女陰が、さかさまについてるんだ」それが、この五十男だった。センターに行くと、男は彼の袖をひいた。「一緒に、やらないか」と、言った。頼むような、ひびきが、こもっていた。「かまわないよ」マイクロバスに、乗った。地下鉄工事の現場だった。「あと三人、あと三人いかねえかあ。にい、ごお。にい、ごお。」手配師が、呼ばわっていた。不人気の現場だな、と彼は思ったが、かんねんした。二千五百円の出面には与れるのである。建設会社、下請業者、人夫出し業者、手配師、その他、三重四重の、すさまじいピンハネの、にい、ごお、は残滓だった。基幹部門の労働者の言う、搾取なんて、甘っちょろいものだった。彼は、肉体があれば、と思った。重労働に耐え得る肉体を、天にさずからなかったことを、歎いた。肉体の差が、そのまま収入の差となった、売春婦も労務者も、存在は似たようなものであった。つれだって、マイクロバスに乗りこんだので、五十男と相棒だと見られた。作業は、地下の片づけ、だった。工事をした後の、土砂、鉄の切れはし、今、男と彼が尻にあてている板の切れはし、などを、まとめて一ヶ所にしておく。三十メートル頭上の穴の外から、声が、ある。起重機が、穴の外から、四方を吊った大きな綱を、ゆるゆる降してくるのだが、なにせ中は広いので、綱は途中でつきだした鉄骨にひっかかったり、見当外れの所に行ったり、むつかしかった。彼が誘導すると、そのありさまだった。見上げていると、ライトの交錯の中に、突然、綱を見うしなった。そして、突如、眼の前に、綱の黒い影がぶらさがるのだった。「危くて、見てられん」と、男が笑った。やさしい、眼だった。男が替った。男は手狎れていた。その綱に、スコップで、まとめたものを放り込む。満載すると、五十男は外に向って、「上げてくれえ」と、おらびつつ、片手を、大きく、捲いた。昇ってゆく、満載の、粗い綱の目から、砂が零れ、にんげんの頭ほどの石や、きっ先鋭い鉄が、墜ちてきた。完全に外に出しおおせるまで、外からの合図をまって、奥の壁にへたりついているのだが、生きた心地が、しなかった。ヘルメットを被っているのだが、こんなもの、墜ちてくる鉄や岩石の前には、とんと、気休めにもならなかった。
 数年前、建設会社の、ネームの入ったヘルメットをかっぱらった。黒いスプレーを、吹きつけた。それで、デモへいった。全共闘運動引汐の刻だった。散々な目に、あわされた。ヘルメットも、被っているにんげんも、なまくれだった。一年して、やめた。学生臭さが、鼻についていた。アジテイション一つ聞くにも、自分が学生でないことの、断差を、思い知らされるのだった。挫折、はなかった。復帰騒ぎの物情騒然とした、沖繩で、米軍のクーリーをやった。そこで、同い齢の、人民党員だという男を知った。「祖国復帰」を標榜し、代々木と同一の路線をあゆむ、人民党にありながら、その男は、復帰反対を言った。沖繩独立論者なのだった。沖繩の混乱が、そこに、かいま見えた。妙に、気があった。その男のへやに、転がり込んだ。「沖繩戦で、ニッポン人よりニッポン人らしく、十万、沖繩人を、犠にしときながら、」と、人民党員は言った。「沖繩を、サンフランシスコ条約で、アメリカに売った。三千ドルの金で、売買される、コザの、娼婦のようだ」その、コザの西センター地区を、見た。いや、吉原に、あがった。人民党員を知る、一寸前の、訪沖して直ぐのことだった。「ニッポンの復帰論者さえ、沖繩にくれば貴金属や酒と一緒に、女を買いにゆく」と、憤慨する人民党員に、登楼したことは黙っていたのだが、肺腑を衡かれた。人民党員は、日本に、集団就職で長くいたと言った。パスポートを企業主にとりあげられて、転職もかなわなかった、と言った。沖繩人蔑視の、ひどさを味わった、とも言った。日本の最下層は、日本にのみ、あるのではなかった。沖繩も、そのひとつであった。韓国、東南アジアが、そうであった。それは、他民族であることをのぞけば、あの労務者の町と、おなじなのだった。高度経済成長を、それが、支えていた。


 「逃げるにゃ、逃げたが」と、五十男は、眼をひらいて、言った。「直ぐには、逃げなかった。そんなことをしたら、犯行を、明かすようなもんだ。それに、飯場の賄に、惚れた女がいたのさ。そいつと、夫婦になりたかった。小股の切れあがった、いい女だったあ。そいつあ、他のやろうと、恋の道行きとしゃれやがった。何のために、かね、ほしがったのか、わかりゃせん。にいさん、これ、あるのか」と、皹の手の、くろい小指をみせ、そのままそれを鼻の穴につっ込んだ。
 「いや、いない」と、彼は答えた。いるには、いた。同衾したことも、ある、娘だった。あの町に落ちた時、みれんを断った。
 煙草ないか、と男が言った。彼は、男の小指を気にした。ハイライトを一本、抜き出して男にやり、自分もくわえた。マッチを擦った。火が、ぼっと波のように、軸の上に起った。湿っぽい、味がした。異様な味が、口内の粘膜に、はりついた。棄てた。もったいない、という眼で、彼の地下タビに踏まれた煙草を、男は見た。吸殻は、みるみる、水を吸った。「女に、貢ごうとしたことが」と、男は言った。「一生を、たまなしにしちまった」笑った。顔を歪めて、笑った。
 「サツが、聞き込みをして廻った。ところが、ヘンなんだ。新聞には、過失死、とでた。川べりで足をすべらし、水死したというんだ。これは、どうしたことか、と思ったよ。首に紐が、まきつけてある。よしそれが、外れたにしても、跡がのこるわね。他殺だと、わからぬ筈がない。狐につままれたようだった。しばらくは、枕も高こう、できなかった。奪った金も、つかわないでおいた。女に、いい物を買ってやるからと、言ってやりたかったが、気取られそうでこわくて、言えなかった。夢にあらわれて、魘され、寝言にそれがでやせぬか、怕れたが、夢はついぞ見なかったよ。そのうち女が他の男と、消えた。俺も、そこの飯場を離れた。気味が悪かったんだ。逃げて、他の土地の飯場へ移った。若かったしね。どこでも傭ってくれた。あの頃あ、にいさんと同じ歳ぐれえで」男は、頭上の空を、見た。雨が、静かに、降りそそいでいるのである。穴の外にある空が、裂れて、細かな線が、中の膿のような光を、縦にそそいでくるのだった。すっかり手足がこわばり、ふるえが、気泡のように間歇的に、わきおこった。
 男は立ち上がって、「しょうべんが、してえ」と言った。「こう、寒くっちゃ」黒くしなびた性器から、小便が、壁の暗がりに放たれる。立ちのぼる湯気が、男の体を、這った。小便しつつ、男は、彼にあたるように、この現場の待遇のわるさを、なじった。「あんたが先に、バスに乗ったんだ」と、その言いがかりに、憮然として彼は言った。この男が自分に、人殺しの話などを聞かせるのは、なぜだろう? 彼の筋肉は、この五十男を組み伏せる力ぐらいは、ありそうだった。男は、彼の言葉に、あわてた。ああ、ああ、と頷いて、「そうだった。俺が、わるい。わるい奴に、ひっかかったもんだ」と、これは手配師のことだった。「あいつあ、前にも」と言いだした。それを知ってて、誘われたなら、あんたがわるい、と言おうとして、彼はやめた。あの町を出たい、と痛切に思った。
 町中が、焼酎の、小便の匂いがしていた。初めそれが、ひどく気になった。そのうち、狎れた。幾度か、彼も酔漢となって、小便を町にひっかけて歩いた。あの町の、酸えた臭気の責任の一端は、彼にも帰した。体中に、あの町の住人の匂いを染み込ませていることだろう。あの匂いから、逃れて、生きることが、今のおれにできるだろうか? 市民社会に洗濯機が普及した結果、御祓いになった盥が、まわってきて、労務者用に煮魚が入れられる。昔、女の汚れものを洗ったかもしれぬ、盥、の魚を、屈辱もおぼえず食らう日が、いずれは、来るのだろうか? それが、怕かった。自分の肉体と神経に、信がおけなかった。
 数年前のあの日、コザで、吉原にあがった。その目的で歩いたのだ。腕をつかまれた。若い、娼婦だった。化粧をそげば、十六七かもしれぬ。「ね」と、言った。彼は、引っ張られるに、任せた。体の奥に、拒むものと欲望を、二つながら感じていた。めちゃくちゃなのだ、と思った。沖繩に来たことすら、理由も薄弱で、つまるところ、めちゃくちゃなのだった。圧しひしがれた、エネルギーが、めちゃくちゃな形をとって、発露された、といったものだろうか。「早く、してね」と言って、スカートをたくしあげた、下にはなにもまとっていないのだった。つやつやした、陰毛が、見えた。メンソレータムのようなものが、匂った。ベッドに横たわると、態勢を、取った。肉がピンク色に割れた。彼は、彼女の言葉を受けて、あたかも、やっとオハチが廻ってきた、戦地の兵士のように、自分を感じていた。部屋の隅に、大判の古びた週刊誌が開かれてい、そのグラビアは、あろうことか、正月の天皇家一家であった。いやなものを、見た。ますます、皇軍兵士じみた。これを、彼女はどのような思いで、見ているのか? 眼をそむけ、背突かれるように、彼女にかぶさった。
 土地を、アメリカ帝国主義に、経済を、日本の独占資本に、奪われている沖繩の女を買った、うしろ暗さが、今もつづいていた。コザの女は、人種もさまざまだと聞いたから、あれは、沖繩人ではなく、朝鮮人の女だったかも、しれなかった。それをしもおれが、金で抱いたのだ。めちゃくちゃではないか、と彼は、己を苛む
声を、たえず胸奥にひそませているのだった。
 あの町を、出たかった。出られなかった。他の人々が、出たくても出られぬのは、前科者への市民社会の白眼視や、食いつめ、やむなく堕ちた、などの冷酷の事情があるであろう。だが、おれが出られぬのは、このようなことになったのは、その天罰だと思った。沖繩からやっとの思いで帰りついたあげく、勤めたそこで、生意気な商社マンを殴り、逃亡したのも、すべてが、罰をあたえたまう、天の意志のしからしむるところだという気がした。
 「俺あ、嵌められたのさ。あとんなって、それがわかった」と男は言った。
 「どうしてさ。逃げおおせたんだろ?」やゆして言った。しんじていなかった。うっかり信じて、うっちゃりをくわされるのがおちだった。
 舌なめずりをして、男はちょっと眉根をよせた。
 「俺が移って行った飯場に、ある日、デカが訪ねてきたんだ。牙をちらつかせる、仏様ってわかるか。仏様みてえな顔してた、、デカだったな。おまえが、殺ったなあ、知ってるんだぞ、と言うんだ。俺あ、むろん言い逃れた。そいつは俺の必死の言い逃れを、にやついて聞いていて、抑えつけるような声で、こう言うんだ。そういうことに、してやっても、いいよ、とね。驚いたあ。俺あまじまじとそいつを見たもんだ。デカか、とも疑った。よく窺うと、そいつ俺とそうしてる所を、あまり人に見られたくないふうなのだ。飯場のにわか造りの建物の裏に、雑木林があった。東京にもそんな所がたくさんあった時代だ。その枝が葉を繁らせて影を落してる下で、俺あそいつに、無理やり、約束させられたんだ。にいさんには、信じられんだろうが」
 男はしわぶき、笑った。さめた笑いだった。男の兎のようなやさしげな眼が、怕い、とはじめて彼は思った。
 「お前のいる飯場に、なにがしがおるだろう、そいつについて報らせてくれりゃ、金をやろう、と言う。何のことだかわからぬし、怖しいので断ったが、背に腹はかえられん、威されるまま、やった。なんどもやった。なんども、金もらった。デズラやバンク(売血)よか、そいつは金になったよ。楽して、金になる。こんな甘い話はなかろうが。そうだろ? おまけに殺しの件は、なかったことにするってんだ。くっくっ、くっ。そのうち、そいつらあ、一網打尽にされた。アカだったんだ」
 くっくっ、くっくっ、と禽獣のように笑った。雨はやまなかった。作業再開の声が、頭上から、かかった。
 「はやくう」と、鼻にかかる声をあげた。「どうしたのさあ」
 女の体に跨った、そのままのかっこうで、彼はいた。女の黒い鼻孔を、みつめる。彼の性器が、女のやけに白い脹らんだ腹の上で、撓った。そこは、砲台のようだった。後手に、女の下腹をまさぐった。剃ってあった。ひらいた。「へんな人だね、あんた」女は、彼の下で笑った。顔はおさなく見えた。三十にあと二つ三つだというとこだろう女の、化粧の下は、やつれはあるが、心栄えがよさそうだった。「重いわ、だいじょうぶ、バイドクなんかもってないわよお」いらっしゃい、と、二の腕をひろげた。さも可笑しそうに不自由な体を捩って、また笑った。もらったら、もらっただ。そんなのは、もんだいではなかった。
 「なんで、あたいを、さがしたのさ」女は笑いをおさめて、きいた。
 「なんでだろうな」と、彼は言いよどんだ。わからなかった。ただ、あの女をさがしたい、あいたい、と思った。思いつめた。労務者にきき、たむろしているおかま達にも尋ねた。「わたしじゃ、いけないの」脛毛がスカートをはみだしているおかまが、からから笑った。それでも、あすこの店でよく見かけるわよ、と教えてくれた。見ていられない嫌悪感が、いつもならあった。いまの彼に、なかった。おかまに対する変化が、なにゆえなんだか、わからぬ。しかしいつもある種の酷さと同情と嫌悪の入りまじった気持で見ていた女、あの娼婦を、さがしたい、あいたい、と思った、変化と、それは同質のもののようだった。それはまた、あの町を見る眼の変化が、彼におこったことでもあった。その店に、女はいた。でがらしの珈琲を、すすっていた。「さがしたんだ」と女に言った。それにはこたえないで、女は、「やっとこ、客がついたわ」と、カウンター越しにこちらを見ていた、頬にきずのあるマスターに、笑って言った。
 それを、いま、きかれた。なんでだろうな、と言って、彼は思いついた別のことをくちにだした。「おとついの朝、あんたをからかった男、死んだんだ」
 「だれのこと? 気色わるいこといわないでよ」体に跨っている彼を、頭をもたげて、睨んだ。いぶかしげな眼になった。「ほら、交差点の」女の体をおりて、隣に転がった。宿の煤けた天井を眼に入れながら、五十男のはなしをした。「ああ、あのじじい」彼の体に足をからませ、乳房をおしつける。「そんなの、いいわよ。いまは、ね」いや、よくない。よくはなかった。だが、黙った。この娼婦に、かかわりない、自分の事情だと思った。乳房をにぎる。黒ずんだ乳首をいらい、吸った。
 雨の音がした。まばらに、屋根をたたいた。まんべんなく強く、降りはじめた。
 雨のなか、小走りに町へ消えていった、五十男の姿が、思い出された。千円はかえってこない、と思った。端金なんかもうよい。彼にとってもこの町の人々にとっても、それは端金ではなかったが、吐きすてた。憎悪がこもった。

 彼にとっぴな話を聞かせたあの日、男には、彼の予想どおり、魂胆があったのだった。わけがらを、金盥の魚を食らった時の、骨がらみの卑屈さで、彼にしゃべった。男はその日、一日の労働の報酬を、にい、ごお、のマイクロバスに乗り込む前、すでに、朝っぱら、まだシャッターのおりている労働センターの前の路上でやった賭博で、かけて、まきあげられているというのだった。きょうのデズラは一銭にもならぬのだ、と言った。千円、貸してくれ、とねんごろに手を合わされた。彼を朝の路上で、おなじ現場へさそいかけたのには、無心の思惑があったのである。そうすると、れいの話は千円を円滑に剥がすための、威嚇、フィクション、ということになる、とそのとき、彼は思った。幼稚な手をつかった、見さげられた、と苦笑した。「もってきなよ」ぞんざいに、わざと言った。男の手のうちで、新しい札がパリッと鳴った。「すまんなあ」男はしんそこ、晩めしに、あるいは何勺かの酒に、これでありつけるといった顔をした。「はいしゃくするよ、にいさんにゃ、すまぬことした」その五十男の、よれた、薄い上着の釦が、上の二つをのぞいて、外れているのを見た。三つとも、ボタンホールが破れているのだ。それをかがってくれる肉親も妻も女もいないのであった。厚くもない、男の胸は、木枯をまともに受ける、と思った。おれもおなじ、みすがらなのだ、と思った。身につまされた。
 その千円は、もはや帰ってこない、五十男が、死んだからだ。いや、殺された。今朝、死体が発見された。撲殺だった。犯人はたちまちあがった。付近を、酒の匂いをむんむんさせて、うろついていた労務者だった。夕刊に小さく、《情報提供者、殺害される》と出た。この町にひそんでいた、爆弾をしかけて手配されていた学生の逮捕を、あの五十男が手引きしたというのだった。それを、あるいは学生を売った報酬をもらうところを、見られたものだろう。腐れはてたやつをころしてどこがわるいか、とそればかりを、取調室で犯人は喚いていると嘲るような報じかたをしていた。くだらない差別用語の自主規制とやらで、日雇労働者とはなっているが、かんじんのところは蔑視がありありだった。労務者に思想的背景はなかったと出ていた。買ったばかりの新聞を、丸め、蓋の壊れているくろくなった木の屑箱に、捨てた。後からきた乞食が、屑箱をあさっていたが、その新聞は拾われなかった。
 酒場の床凡に腰かけ、酒をあおった。なんどか、目頭が熱くなった。だが、涙とは、ならないのだった。
 あの地の底で聞かされた五十男の話は、真実だったのだと思った。事実ではないかもしれない。たぶん、なかろう。とっぴすぎて、しんじられなかった。虚実はもはや確かめられぬが、狗の、そうした身になりはてたことの、せつない言いわけが、あの話にはある、と思った。だが、ひとりのにんげんを狗に貶める力の存在があるのであれば、あの話は事実ではなくても真実なのである。五十男があわれだった。自分の肉親のように、かわいそうでならなかった。権力への、かねへの、憎悪が、こみあがった。兇暴な感情をもてあました。
 それは、あの五十男を撲殺した見知らぬ労務者のせいであった。みしらぬ男の、けがれない、たましいが、彼に、吹きつけているのだった。五十男を撲りころした手は、さだめし温かかったろう。さかむけ、爪垢がくろくたまっていても、それは、きれいな手だと思った。その手にかかった五十男は、せめてものにんげんらしい死に方を与えられたのだと思えた。鉄骨にやられる、トロッコの下敷きになる、轢死する、野垂れ死ぬ、訃の報せどこに届けえよう、あの町のあまたの無縁仏たちより、それは、どれほどにんげんの死らしいことか。
 酔いつぶれたかった。酔いはまわらなかった。床凡の両隣、前、はすかい、立ちあがりよろよろ銚子をとりに行った労務者、あばたの女将、だれもが、いま、ちかしい、なつかしかった。胸にむらだつものを酒の力ではつぶせなかった。あの娼婦に、おとついの朝の、五十男に尻をなでられた娼婦に、あいたい、黄ばんだスカートの、男たちの精液にまみれたい。とうとつに、思った。そう、思いつめた。
 女の体を抱きつつ、おれは又コザでのあやまちを、しょう懲りもなく、くりかえしている、と彼は思った。だが、ちがう、と思いなおした。これは、たぶん、あのコザのとしわかの娼婦へ、かつてとはことなった出会いをするための回路なのだ、と思った。しんじた。

 女の腹が、半球にみえた。山のいただきに、窄ったほぞがあった。そこから縦にすじが走って陰部へおちていた。その白っぽいすじに、性器をあてがい腹で挾んだ。それを、道になぞらえた。あの町へ、つながる。走狗におちた男へ、その男をころした見知らぬ男のたましいへ、つながる、それは道だった。女は、彼の首に腕をまきつかせ、「ひどい雨になったわ、これじゃ商売あがったり」と言って、興ざめを言ってしまったと思ったか、「ゆっくりして、いいのよ」首を抱く腕に、力をこめた。もだえてみせた。
 女は、自分の思いとはかかわりなく、ここにいる。この思いを話せば、女はまちがいなく、なにいってんのよ、と一笑に付すだろうと、彼は思った。道にそって、体をずらした。女の体をくだった。腹に挾んでいたものが、ふいに撥ねた。外れた。ふかく、いま、つるむ。つながる。生きる。
                                        
                
                              (1976年12月『方位』第2号)

 
 
 荒川佳洋の作品

線を刻む長い紙
旗を揚げる
K湊
もし耳ありなば/墓参

掌編三つ(蚕/春の幽霊/跛行)
ナイトハイスクール1970❶ 
ナイトハイスクール1970❷
蹠の春(あしうらのはる)
伺候(しこう)
(連詩)あにのくに、まぼろしのくに
定本 中学生句集
あの町へ

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