茶と黄色の斑の羽をすぼめて蝶は花を吸っている。
「これかな」
と和郎がいう。これが静子の霊だろうか、と真顔でいうのである。
切るものがないため、丈高く、左右に伸びあふれた花が、墓を飾った。花瓶に活けきれぬ残りの花は、持参したコップに水をそそぎ、墓にたてかけた。いろとりどりの花だった。菓子を供える。和菓子を、途中スーパーに寄り、買ってきていた。それから、車中食べながらきた、オニギリ、煎餅、ホシイカなどを紙の皿に盛りつけ、あげる。墓の前は、まるでママゴト遊びのように、化粧され、いろどられた。祭りだった。
束の線香を、束のまま火をつける。もうもうと煙がたつ。
四人が、かわるがわる墓の前にしゃがみ、線香を焼べる。合掌する。永子は長いことそうして何か語りかけているようだった。弘子も手を合わせたまま眼をつぶり、ぶつぶついっていた。男の、孝と和郎はそうしたことが、何か気恥ずかしいのである。あっというまに終えてしまい、狭い石柵の隅に寄って、煙草を喫った。
永子がいう。
「よしきた」
和郎が、簡易ライターをとりだし、新聞紙を捩って、火をつける。つぎつぎ、もうもうと煙のたつ線香を、女たちに手渡す。突然、線香が燃えあがった。和郎の手の上で、炎がたなびき、動く。
「なんだ、なんだあ」
頓狂な声をあげ、和郎は、火をふる。いったん消えた火は、まといつくようにまた燃えたつ。
「変だぞお、リンが燃えてるのかなあ」
ちょっとおどろいたように、和郎はいう。
「静ちゃんが出てきたのかなあ」
「あんたが、さっき、静のヘンな所を洗ったから、怒ってるんじゃないの」
永子はいう。
「喜んでるんだよ」
和郎が照れ笑いする。
黒御影石の墓を、束子でかわるがわる洗った。背中に廻った永子が、
「あんたは、後ろ美人だったからね、きれいにしてあげるからね」
といった。
後藤静子は後ろだけでない、本物の美人だった。文字どおり、美人薄命であった。孝はそう思う。墓の正面を、建てたそのときの光沢によみがえらせようと丹念に磨きながら、
「おれは、じゃあ、胸だ」
ふざけて、孝はいった。
「いやあね」
弘子が笑い、
「あたしは肩を洗ったげるわ」
「そうするとお、ボクはどこだろう」
和郎もはしゃいでいた。
「残ってるのは、きまってるじゃないの、ねえ」
永子は含み笑いをする。孝から受けとった束子を、バケツの水に浸し、静子の肉体になぞらえて、和郎は墓を洗った。洗ったばかりの墓石は、けれどもいくら丹念に磨いたところで、あちこちに曇りができていて以前の光沢を放つことはなかった。
「不謹慎だよな、どうも」
孝は笑った。墓石を静子の体になぞらえたことが、である。だが、そういってみたまでのことで、孝はほんとうはそう思っていない。愛しむように静子を洗い清めたのだ。静子の二十二年の人生を不愍に思う四人が、かわるがわるそうしたのだった。蝶であれ、炎であれ、思いは確実に静子に届いていよう、と思った。永子が、孝をみた。眼がうるんでいた。
「いいじゃない、しかめっつらしい墓参りなんて、静は喜ばないわよ」
遠くに霞がかった、いくつかの山が見えた。空は曇っていた。夕べからの雨を吸った土と草のいきれがした。藁のにおいが混じった。丈の高い草が垣をつくり、墓地を囲繞している。その外側は、桑や唐黍の畑である。静子の石柵のある墓は、墓地の隅の一郭にあった。そのすぐ脇は、四人が通ってきた、細いくろである。ナントカ霊園を想像して、服も靴もめかしこんできた女たちを歎かせた、ひどい泥濘みの道であった。向こうの畑からは、さっきから草刈機のエンジン音が何度も近ずいたり遠ざかったりしていた。
缶ビールをあけ、生温くなった液体を流しこむと、
「まあ、でも、静ちゃんも早く死んじゃって、よかったかもしれないぜ」
孝は冗談をいう。
「みろ、二人とも、こんなババアになっちまってよ」
「なにいってんの、酔っぱらい」
永子はいった。
「生きてりゃ、楽しいことだって沢山あったのに」
溜息つくように、
「あんた、死ぬ気でいたなら、あんとき、そう打ち明けてくれたらいいのに」
死ぬ二日前に静子に町で偶然あってお茶を飲んだという永子は、しんみりとする。静子はそのとき、子供を婚家において、実家に帰っていると口数少なくはなし、顔色がわるいけど大丈夫かと訊く永子に、弱々しくほほ笑み、首を振った、という。
「体がこう、揺れてて、支えてられないふうに」
と、通夜の席で永子はいった。八年前のことである。
墓石は静子の数年前に死んだ父親のものであった。静子の名前は刻まれていない。八年も経つというのに名前を刻んでもらえないということは強い意志的なものが感じられるが、孝はそのことにふれなかった。みなもふれない。静子は父親の懐にだかれて眠っているのである。もう、それで仕合せではないか、と孝は思う。
その父親のために、あけていない缶ビールを、静子にはジュースを供え、帰ることにした。湿った風がでていた。来る途中、和郎の運転するダットサンの中で、降られた雨が、また来るかもしれなかった。
むしった草や、新聞、空缶などが詰まったビニール袋を、孝は持った。その中に、枯れて色のなくなった花が、入っていた。花瓶を洗うとき、挿してあったそれを抜きだすと、花弁も葉もことごとくカラカラと崩れたのだった。今、新しく活けられた、みずみずしい花も、こうなるのだ、そうなる前に人が訪れることはないだろう、と孝は思った。
こけむした墓石や、傾き、打ち捨てられたように半身を埋もれさせた墓石の間を抜けて、墓地をでる。
老松は、曇った空にのたうつように伸び、骨組だけになった傘のように、痩せた枝を張っていた。
国道沿いの焼肉屋に、車を横づけする。たそがれだった。
ドアをひらくと、タレのしみた肉の焼けるこうばしい匂いが鼻をうつ。座敷に上がり、三時間余り車に乗って、疲れた足を投げだした。靴をみると、どれも泥濘みの土が白く乾いて、こびりついていた。孝の下ろしたての革靴も台無しだった。永子が、
「野良仕事、してきたみたいだわ」
という。
つぎつぎに肉を焼き、ほうばった。孝と女たちが、ビールを呑む。運転のため呑めない和郎に遠慮していた彼女らも、和郎の「いいから、やんなよ」という勧めに、それじゃあとグラスにそそぎだしたのである。もともと、和郎は酒が好きではないのだ。付き合って呑むにはのむが、一杯のビールで、首が赤く染まる。少し杯を重ねると、茹だこのように顔にでた。火照った頬を、ぴたぴた叩き、「ひゃあ、熱くなった、熱くなった」と喘ぐようにいい笑う。人なつこい表情が、くずれる。
その和郎を、孝は好きだった。一年のうち、こうして会うことはそう滅多にないが、会えば打ち解けた。何年、会わずにいても、その期間のへだてがなかった。
それは孝の女ともだちの、この二人もそうだった。気のおけない幼友達だった。
思えば、こうして四人が今つながっているのは、後藤静子がとりもつ縁だった、という気がする。
中学を出ると、みなばらばらになった。いや、三人は行き来していたのだ。孝が疎遠になったのである。ときおり誘いをかけてくれたが、孝は乗れないことが多かった。そのうち、十八の頃から、孝は学生運動にのめりこんでいったので、いっそうこの仲間から疎遠になっていった。
噂はそれでも入ってきた。後藤静子の結婚もそうだった。一回りも年齢のはなれた男と、親の反対を押し切って、一緒になったと聞いて、そのころ十七、八だった孝は中学の同級生の大人びた行動におどろいたものだった。負い目のようなものも感じたと思う。孝はといえば、定時制の高校に通ってはいたが、それも休みがちであり、昼の勤めも長くつづかず転々としていたからである。
静子がそこでアルバイトをするうち、夢中になったという男の経営する衣料品の店は、孝が夜学に行く途中に通り抜ける、賑わったマーケット街にあった。かつての同級生が、そこに生活を築いている、と思った。くらべて、わが身がみすぼらしく見えた。孝はいつも足早にそこを通り抜けたものなのだ。だが静子とついぞ会うことはなかった。
永子の結婚は、デモ通いがはじまった頃知った。孝はもう、それどころではなかった。明けても暮れても、デモ通いだった。友人のアパートに屯して、家にも帰らなくなった。そこから出撃していった。金が切れると土方仕事をしに行く。一九七○年だった。孝は息をふきかえしたように政治活動にのめり込んでいった。
八年前の九月、永子が自転車を漕いで孝の前にあらわれた。パートに出ている、そのままのいでたちで昼食時間を盗んでやってきたのである。家人に伝えて貰おうと思っていたという永子は、思いがけず本人が出て来たので、面食らったように佇っている。
「おや、めずらしい」
と孝はすっかりオカミサンくさくなった姿を少しまごついて眺めた。
「それは、こっちのせりふよお」
永子はてれたように笑いをつくり、
「いつ来てもいなくて」
眩しそうな眼をしていう。その日、孝はたまたまに家にいたのだ。
「静子がさあ、後藤静子がさあ、自殺したのよう」
請じ入れるなり、永子は来意を告げた。
その晩が通夜だった。静子の実家は、永子の実家の近所にある。いったんそこで待ち合わせた。孝には懐かしい永子の実家である。中学の頃、何度か上がったことがある。弘子と和郎が先に来ていた。六、七年ぶりの再会であった。弘子は孝を見るなり、薄笑いをうかべ、それまでの不義理を怨むようにちょっと睨んだ。それから、
「この子、変わったねえ」
和郎と永子にいった。
孝はビールを呑んだ。熱のそばにあるため、冷蔵庫から取り出したばかりのビールも、すでに温まっている。
「ちっとはたべなさいよお、呑んでばかりいないで」
永子は孝の皿に焼きあがった肉をいくつか入れ、
「どおして、こんなのんべいになったんだろうねえ、あの可愛かった、坊ちゃん坊ちゃんした子が」
自分でいって可笑しそうに、あははと笑った。高い所で、テレビがついていた。
「永子だって、可愛らしいセーラ服の乙女だったよ」
孝はいう。
「弘子もな」
「あはは、花咲く乙女たちよね」
永子は中学の頃流行った歌の文句をいって、
「オバアちゃんになっちゃったもんねえ」
と体をかしげて笑う。
「オバアちゃんはないでしょお、ちょっとう、あたしまだ独身なのよお」
弘子はいう。
「オバアちゃんだって、結婚してなきゃ、独身なんだよね」
和郎がまぜかえす。笑いになる。
みな三十歳だった。八年前、この四人が身内の者につづいて静子の棺の蓋を打ち、骨をひろった。
静子の妹が、姉と瓜二つの顔立ちの美人であった。孝たちの中学の二年後輩で、顔は見知っている。その妹が、かいがいしく弔問客に酒を注ぎ廻っていた。孝は注がれながら、喪服のその姿を顔をあげて見られなかった。襖を外した、部屋の中央にかもいがある。かもいの上は、飾りになっていて木の壁が何かの形に刳り貫いてあった。孝の視線がそこに向いたのを知ってか、隣の永子がささやく。
「前にもやられたんで、おかあさんも警戒してたらしいのよねえ。ちょっと気をゆるして、買い物に出掛けた隙だったんだって」
涙声になっている。そんな死に方をされては、母親もたまらないだろう、と孝は胸がつまるように思う。買い物から帰って、かもいに吊りさがった、周りの闇より濃い影を見たときの、母親のその衝撃がつたわるような気がした。重苦しい通夜の席だった。
こんなことした人たちに、この先いいことあるわけないもん、おてんとうさんが、見てるんだからあ。寿司をつまみながら同じようなことを繰り返し言っている女の声がやけに耳にさわった。孝はただ黙々と酒を呑みつづけた。姑、小姑にいじめられ、婚家に子供を取られて身ひとつで放りだされた静子のために、ノイローゼに罹っていた静子のために、孝は杯を重ねた。
静子を荼毘にするあいだも、控室で孝は冷酒を呑みつづけた。棺に蓋をする前に見た、花に埋もれた静子の首の消しようもない索条の後が眼に焼きついていた。化粧を施された顔の、頬が、たった今の火傷のように充血して、赤い。
「静ちゃんよお、なんで、あんたこんなことになったんだよう」
泣きながら、近所の主婦が静子の髪をあらあらしく撫ぜた。髪は生えぎわの白さを浮きたたせると、パラパラと額に、鼻にと落ちた。長い、黒い髪だった。それでは静子が痛かろう、とその主婦の手を取り押さえたい衝動を、かろうじて孝は耐らえていた。
永子と一緒につまみとった、静子の骨は、嘘のように軽かった。いまひとつ、箸に力を籠めれば、くずれてなくなってしまいそうであった。
「あーあ、でも気になってた墓参りができて、ほっとしたわあ」
伸びをして、永子はうれしそうに笑った。
「こないだなんか、へんな夢みちゃったわよお。静が、黒いウェディングドレスなんか着て出てくるのよう。あんた、どおしたのお、って訊いても、あのこ笑ってるだけでさあ」
「いやだあ」
弘子は声をあげる。
孝は思い出す。永子が、後藤静子の死を報せにきた前の日、孝は金につまって日雇いにでたのだった。そこに生きる者らが、ナミセンとかヤマと呼ぶ町である。
にい、ごお、にいごお、と呼ばわっている手配師についてマイクロバスに乗り込むと、つれていかれたのは地下鉄工事の現場であった。
坑道の中に入れられた。長く暗い坑道をトロッコの軌道に沿って降りてゆく。自然と足が速くなるような傾斜だった。行き止まりの、奥に積んである鉄屑を束ねてトロッコで表へはこびあげる雑役だった。それを四人でやるのだ。荷を積むとトロッコは重い。手え抜くとケガすっからなあ、と若い現場監督はヘルメットを目深に被って、自分の父親のような年齢の者に、はっぱかける。
手の抜きようなどないのだった。孝はけんめいに力をふるった。自分の痩身から出る力でさえ、今四分の一の支えになっていた。そのことが孝を充実させていたのだ。
《一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも。世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ》
孝は、前のめりの姿勢で息をあえがせながら、頭の中で、愛読しているアデンアラビアの一節をそらんじたりした。明るみの中に鉄骨を押しあげると、またその錆ついたトロッコをもどしてゆく。ごつい腕をした歳とった男が、その役だった。
「あんちゃん、学生かい」
その男はロープを握りながら、孝に話しかけた。
「ちがうよ」
と孝は眼の前にずれてきてしまうヘルメットを被り直しながら答える。
「あんちゃんは、ゼンガクレンだな、一目でわからあ」
男はにっと笑っていった。孝は黙っていた。他で働ける者が、日雇い労働をやって、そこでしか生きられない者の一人分の職を奪っている、と孝の友人は言ったのだ。が、孝は他でまともに働けないのだった。気づくと、はみだしているのだった。生れながらの商店の跡継ぎ、などというのを孝は羨ましくてならなかった。それはそれで苦労のあることだろうが、職にありつく苦労やそれをつづけてゆく苦労にはかなわないと孝は思うのであった。
一九六八年、安田講堂が陥ちた日だった。孝はさんざんちゅうちょしたあげく、勇気をふるって募集の張紙のしてあるガラス戸を引いて中に入った。表の紙を見たんですがあ、と孝がいいきらぬうちに、つかつかと出てきた男が、あ、わるい、今はずそうとしてたんだ、もうきまったんでね、といいながらけんもほろろに孝を追いたてたのだった。値踏みしたのはあきらかだった。一月のかじかむような風に吹かれながら、孝は恥ずかしさとくやしさで泥のようになって歩いたものだった。
作業に慣れだすと、トロッコを戻すとき孝は男より先に手綱のロープを握った。孝は油断していたのだ。男が難なくやっていたので、甘くみていたのでもある。軽い気持ちで、トロッコを坑道の中に入れ、軌道のあいだをひろって歩きだした。ゴト、ゴト、と車が鳴った。
手綱のロープが、弛んでいた。斜面を、急にトロッコは走りだし、ロープがピンと張った。凄い手応えだった。あっという間に、トロッコは勢いを身につけていた。孝はあわてた。両手でロープを把んで抑えつけようとした。軌道の間を跳んで走った。体がよろけ、足がもつれた。孝は軌道の外に転げおちていた。ロープは孝の手を抜けていった。トロッコは黒い生き物のように、暗い奥に向かって軌道を走っていく。鉄のかたまりは、唸りをあげた。咆哮そのものだ。危ないぞお、と叫ぼうとしたが、声にならない。人がつぎつぎと鉄のかたまりに弾かれてゆく光景が目に映るようで、孝はうめいた。血が凍るようだった。凄まじい音が、坑道にひびいた。孝は、悲鳴がなかったことで祈るように軌道のわきを奥へ走った。
孝はその場にへなへなと坐り込んだ。軌道をはずれたトロッコは、横倒しになっていた。人はいなかったのだ。誰も偶然に作業していなかったことが、信じられない気持ちだった。孝は呆然としていた。
「さかみちだぜ。車輪ついてんだかんな、ツナがゆるんでりゃ走りだすさね。おめえ莫迦かよ」
頭の上からののしる声がふってきた。
ちょっと考えれば、そんなことは解るのに、と孝も自分がいぶかしかった。思い出せば、似たような失敗は幾つもあった。自分には何か世の中に生きていくうえのかんじんなものが欠如しているのだ。孝はしんそこそう思った。
あやうく人を殺めるところであった。もうその日かぎり日雇いの仕事にでる気がしなくなった。永子が訪ねて来た日それで孝は家に帰っていたのである。食いつめると孝は親をたよって家に帰るのだ。二千五百円のその日のデズラは、労働者の町に帰るや呑屋の酒代に消えてしまった。きたない店の床几に腰かけ、オカマを相手に、しおたれたこころに安酒をついでいたとき、後藤静子は死ぬ準備をととのえていたのだろうか。
「あんた、静を好きだったんでしょ」
永子が光る目で和郎を見る。和郎はにやにやする。
「やっさんと張りあってたのよ、この子。あ、いいオジサンつかまえて、この子はないか。あっはっは」
「ふられたのう」
と弘子がいう。
「ふったんだよ」
笑って、和郎はいう。
「あの子、女王だったからね、周りにいつも男の子がいたもんね」
弘子は遠い昔を思い出す目つきになって、
「あんたは、どうだったの」
孝にきく。
「好きだったのう」
「さあ」
孝は小首をかしげ、
「どうだったんだろう」
ビールをあおった。
答えにくいのだった。じつをいうと孝は、静子と話をした記憶がひとつも残っていないのである。何度もあったはずなのに、これはなぜだろう。この弘子が、都会での生活を畳んでしばらく遠い郷里に帰ったことがあった。その送別会をお好み焼き屋で開いたときも、静子はすでに嫁いでいたが、それに参加したはずだ。それなのに、何も覚えていない。
孝が覚えているのは、中学生の後藤静子が、ある同級生を慕っているという噂を耳にして、ショックを受けたことだった。後藤静子を好きだったわけでもないのに、ショックだったのである。女の子に相手にされるような存在ではなかった孝は、もとより、静子の対象になどなりえなかったはずなのに、自分が静子の慕うその同級生ではないことに失望したのだ。
「おれ、もてない男だったからな」
孝はいう。
「いっぱい好きな子いたけど、永子も弘子もね」
笑いになる。ふと孝はこの二人はなぜ中学で他の同級の女の子のように自分を無視しなかったのだろうと思った。
気まぐれで入った演劇クラブで、文化祭のときその他大勢のひとりで、舞台に立った。ヒロインの女の子のドレスの胸に花を付ける役割だった。孝が布をつまんで、バラの造花についた安全ピンをさすと、見物席の男子生徒がわっとはやしたてた。孝は上擦ってしまい、ヒロインのふくらみのない胸に刺した花の安全ピンを留め金に収められぬまま退場したのだった。女の子は自分の手でそれを留めた。幕が下り、女の子は控室に戻ってくると、
「あんたなんか」
孝をさげすむように見て、ひきつった声をあげた。
「わたしは、好きでもなんでもないんだからねっ」
はやしたてられたことを誤解したのだろうか。孝は卑屈な笑いを、こわばった頬に浮かべていたと今思いだす。げんなりするような記憶だった。
まだある。酔いと鉄板の熱が、いやな記憶を釣り上げていた。女の子が万年筆を呉れるというのだ。その子はクラス委員をしている指折りの優等生だった。
「つかってくれる」
ときく。孝は一も二もなかった。女の子からプレゼントを受けたことなどなかったのだ。箱に入ったそれを貰って、孝は有頂天になった。小躍りしたい気持ちで箱をひらく。万年筆は新品だった。永子がちょうど居合わせて、それをのぞきこみ、手にとった。
「あれ」
といった。
「莫迦にしてるわ、これ、だれかにあげるつもりだったのよ、ほら」
見ると、イニシャルを彫り込んであった個所をナイフで削った跡があるのだ。万年筆の黒い柄が、そこだけ白っぽくぎざぎざになっていた。
「返しちゃいなさいよ、こんなもん」
怒った声で永子はいった。目が射るように光っていた。いいんだよ、と孝は首をふる。その女の子もかあいそうだと思っていた。が、そのときも孝は逃げ隠れできない恥ずかしさに、卑屈な笑いを頬に浮かべていたと今思うのだった。
焼肉の卓をはさんで向かいにいる、この永子はそのとき見下げた男だという目で、孝をにらんだのである。永子は覚えているだろうか。孝はそういう扱いかたをされる少年だった。そしてヒロイン役の女の子のほおに一撃くわせたり、万年筆を突っ返したりするのでなく、受けた傷を周りから隠そうとする性向がつよかったのである。あの万年筆は、たしか箱ごとどぶに捨てたのだ。
「墓参りしたいっていったら、みっちゃん、電話口で泣いてたわ」
永子はいいながら、涙ぐむ。静子の妹に、墓地の場所をきいたのである。弘子もまばたきしながら、うなずく。
「もう、子ども、大きくなっただろうな」
和郎が煙草のけむりに顔をかくしていう。嫁ぎ先に、静子がのこした子どもである。
「十歳かそこらだと思うけど」
と永子。
「静がなくなって、八年だもん」
その子どもを孝は見たことがある。定時制に歩いて通うとき、抜けてゆくマーケット街の、衣服が吊るされ靴下やハンカチが所狭しと並べられた静子の店から、ヨチヨチ歩きの半ズボンの幼児がでてきて、一目でそれが彼女の二世であることがわかった。後を追って、中年のほっそりした顔の男がとびだしてきてその児を後ろからかかえあげ店の中にもどしていった。あれが静子のダンナかと思いながら孝はいそいでそこを通りすぎたのだが、静子の仕合せな家庭をかいま見たようで、すっかり足どりも重くなっていた。
安保闘争や沖縄闘争の余熱もさめかかって、孝は一年留年して五年目に入っていた定時制生活も半ば投げているときだった。留年は、高校を十日間占拠した結果だった。定時制での紛争はめずらしさもあって、新聞ダネにもなった。孝はあいかわらず定職についていなかった。さりとて政治活動家としてやっていく覚悟があるわけでもないちゅうぶらりんさだった。
かつて、駄菓子のビニール包装をするちいさな町工場に一年いてやめたとき、かわりにと中学のころの友人を後釜にした。二年もたたないうち、町でばったり会うと、そのころ一万七八千円の給料を孝はとっていたものなのに、今五万円ちかくに昇給しているというのである。世の中が大きく変化しはじめているらしい、と孝は思ったものだ。デモに明け暮れてずっと家に帰らないでいたら、最新の大型冷蔵庫がよそいき顔で据えてあったので、びっくりし、孝の、うちは貧乏だという概念がいちぢるしく揺らいだのもそのころのことであった。
世の中の変化に、すっかり孝は取り残されていた。そして孝が転覆しようと爪をたてた、安定した生活の人々はしだいに驕慢になってゆくように見えた。静子の嫁いだ先もそちら側に与していた。その店の前を抜けてゆく孝は手元不如意をかこち、将来の見通しのなさに脅え、安定した生活への憎悪と羨望にまみれながら、うつむきがちになっていたと思う。そのころ静子が婚家でどのような扱いをされていたか知ることもなく。
「よそに女つくったんじゃないのお」
と永子は、静子の通夜にむかうみちみち声をあらげた。
「別居するずっと前から、もう指一本ふれなかったんだってよう、あの男」
すでに結婚していた永子のいうことは露骨だったが、孝たちはうなずく。
「おしゅうとさんも、こじゅうとも、静につらくあたって、あの男までそっちに味方するんじゃ、居場所がないじゃない」
「一回りも歳がちがうのよお、いいオトナじゃないのお、それが子どもを虐めるみたいに…」
うっ、と声をつまらせて、永子は泣きだし、弘子も泣きだした。
「ね、こんどは一泊旅行でもしようよ」
弘子が名残り惜しそうにいう。
「いいねえ」
ハンドルを握っている和郎が答える。車は夜の街道を走っている。遠くに、黄色い光につつまれた橋が見えていた。
「旅行もいいけどさあ」
永子が笑い声をあげる。
「あんた、いいかげん結婚しなさいよね、オバンになっちゃうわよ」
「あ、もうおそい」
バックミラーをのぞいて、和郎はいう。笑いがおこる。
「ほんとよお、あたし、会社の若い子に、お子さんの面倒はどなたがみてるんですかっていわれて、がっかりしたんだからあ」
また笑い。
「弘子、おれ、どお」
と孝は助手席からイスの間に顔をふりむける。
「なにいってんのよお、あんた、いいひといるじゃないの」
「今の仕事、つづいてるじゃない」
永子がいう。闇の中で、目が光る。
「ああ、気楽だしな、いるのが仕事だものな。おれにうってつけさ」
「ザ・ガードマンか」
弘子がいう。
「そんなカッコいいもんじゃないさ、制服も着けてないし、見廻りだってろくにしないんだ」
郊外の学校の警備員を数年前から孝はしている。夜中の勤務である。私服だった。制服をきちんと着けろとうるさくいいはる年寄りもいるが、若い者はだれも着ない。
「じゃあ、ちかいうち、あんたの結婚式だね」
永子がいう。
「でも夜中の仕事じゃあ」
と弘子。
「奥さん、こまるわよねえ」
「あら、昼日中、するのもいいのよう」
永子はちゃかしていう。
「する、って何を」
弘子はとんちんかんだ。
「あんた、ほんと、オボコだねえ」
永子ははじけるように笑う。対向車のライトが一瞬車内に明るみをつくる。
「おい、こんどは仕事やめちゃだめだぞお、わかったあ」
永子は孝の肩をポンポン叩いた。
「ああ」
孝はこころもとなくうなずく。いつ嫌気がさすことか。
「まだ、ああいうこと、やってんのう」
弘子のむじゃきな問いに、
「ああ、細々とな」
孝はいった。
孝は、海の向こうの国を思った。韓国の光州蜂起はつい数日前、独裁者の率いる戒厳軍の銃火のもとに、ついえさられていた。その間、刻一刻と変わる情勢を、孝は警備室の雑音の入るラジオで聞いていた。だれひとりいない、鉄筋の校舎で、遠くを走る貨物列車のひびきを聞きながら、インスタントラーメンをすする。今このとき、光州ではつぎつぎと市民が殺されているのだ。空挺部隊が投じられ、戒厳軍は空から地上から、戦車や銃剣で、光州を制圧しつつあるのだ。
コミューンを防衛しよう、と孝はシミだらけの白いコンクリートの壁に浮かびあがるまぼろしの重装備の男たちに、体をのりだしかける。ダ、ダ、ダ、ダ、と声をあげ、機関銃を乱射するしぐさをする。―こんなことをしていていいのだろうか、と思うことしきりだった。
「バクダンなんか、やってないわよね、まさか」
永子はいう。
「まさかあ」
孝は笑う。この自分が、バクダンだものな、孝はつけたりをいおうとして、口を噤む。このおれは、自分で自分を持て余しているんだからな。
「トウサンだよ、トウサン。給料でないよ、もう少しでボーナスだってのにな。何てことかね、困ったねえ。ま、とにかく組合の方針でね、職場放棄はしないように、ということなんだ。給料でないのに、アホらしいって、学校カラにして帰宅しちゃったのもいるんで、ま、ひとつ頼んますよ、了解? あ、了解ね。それじゃ」
切れた電話を孝は放るように戻す。スチール机が音をたてた。内線を幾つも書いて貼りつけた黒電話をにらむ。倒産。未払い。失職。ことばが渦をまいている。クモの巣のはった薄暗い警備員室で、孝はブロック長の伝えてきた内容を整理しなおす。
一緒になるはずの彼女に、それをどう伝えようかと思う。壁に吊るした巡回時計がコチコチと時を刻んでいる。ほんとに、ついてないんだねえ、と彼女は溜息まじりにいうことだろう。
一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も…いや、まてよ、三十歳を若者というだろうか。それに―、足を踏みはずしたわけではない。おれの場合、噛み合せに失敗して途中から進まなくなってしまったファスナーのようなものなのではないか。
ファスナーの金具は永久にたもとにたどりつかず、戻るにもどれないのだ。
静子よ、耳あらば聞いてくれ。生きている者には、死んだ者にわからない苦労があるんだ。