ナイトハイスクール1970❶
荒川佳洋
(プロローグ)
ぼくの手元に『教育闘争への模索』という本がある。著者は武藤啓司、社会評論社から1974年に出た。平野甲賀が装丁しているが、学徒出陣の様子を演台に立った軍人が敬礼して見送る、といった構図のセピア色のカバーがついた本で、もうそれだけで中身が分かる、あの当時の左翼紋切り型である。そういえば、「学徒出陣二十五周年」という言われかたもしていたなと思いだす。当時、一五〇〇円もしている。いまでも売れない本は高い。
ただしこれを手に入れたのは、八〇年代になってからだった。まだ二歳ほどだった娘を抱いたり、歩かせたりして行った古本屋(というより、ゾッキ本屋)で、たまたま手に取ったところ、その中のこんな個所に気づいて、百円で購入したという記憶がある。
それはこんな個所だった。(▲は作者の注である。)
東京都立足立高校(▲定時制、が脱落している)の正木年雄(▲仮名にしたが、原文は名前が一字欠けている)教諭は、次のような事由がその処分の対象とされることにより、懲戒免職にされている。
① 昭和四五年四月九日から四六年一月二九日までの間、同校内において、しばしばアジビラを生徒に配布し、十数回に わたり、『自主講座』などを開いた。
② 昭和四六年二月五日から同年二月一五日までの間、同校内における生徒のハンストの現場にあって、他の生徒らと共 にすわりこみ、またアジビラを配布するなどし、もって生徒のハンストを支援した。このような行為は、教育公務員 にふさわしくない非行である。
武藤は、「問題児=非行児」の提起する問題に教師が真正面から向き向き合い、それに精一杯にこたえようとすると、「教育公務員にふさわしくない非行」と断ぜられ、処分の対象となるのが「今日の学校管理体制の論理だ」という文脈の中に、この高校紛争の例をあげている。
1967年から最盛期69年を経て70年にわたるいわゆる高校紛争の、おそらく最後の斗いとなった1971年「足立高校定時制ハンガーストライキ斗争」の、これが、ぼくの知る限り唯一の記述である。
ことし(▲六九年)の状況は圧倒的だった。マス・コミ報道によって集計してみると、卒業式で何らかの波乱があった高校は全国で実に八八校。そのうち、バリケード封鎖四、労働歌・ヤジなどによる混乱二九、垂れ幕・ビラ配布・立看板三五、送辞・答辞による体制批判二三、校内デモ・集会一〇などがおもなものである。(『高校生は反逆する 激動の季節をむかえて』平栗清司編 六九年 三一書房)
これらの闘いをその後証言するものはほとんどいなかった。
四方田犬彦が『ハイスクール1968』(〇四年 新潮社)で言うように、大学紛争に比べて、高校紛争は証言がきわめて少ない。国立国会図書館でも三冊があがるのみである。引用した、ぼくの友人の書いたビラも掲載されている『高校生は反逆する』や工業高校の職業教育に疑問を突き付けた葛西工高闘争の『工業高校 その闘いと教育の本質』(高瀬勇編 七〇年 三一書房)は国会図書館に所蔵されていない。じつは、この葛西工業高校の闘いは、これから書こうとするこの物語の一方の主人公である正木年雄も関係しており、編集にあたって「都高教反戦の左氏に多くの労を負うている」と謝辞がついている。左というのは、正木の筆名である。この本は、当時、ぼくたちの自主講座でのテキストのひとつとなったのだが、それはまたあとで書くことになるから、今はさておく。
比較的最近では、『全共闘白書』(新潮社 九十四年)のアンケートに答えた高校全共闘が何人かいたので、それらも貴重なこの時代の証言といっていい。この本は詳細なアンケート(かつて全共闘あるいは学生運動に関係したことをどう思っているか/革命を信じていたか/運動に参加したことが人生に役立っているか/から、子供が学生運動に参加したらどうするか/今の収入は/などなど七三項目)の回答書を集めたもので、ぼくのところにも友人のつてでアンケートがきたが、出さないで終わった。ぼくの青春をアンケートの中に埋もれさせるのはもったいない気がしたからだが、刊行後にいくたりかの知り合いや敬愛した秋田明大さんが寄せているのを知って、少し残念に思ったものだ。
で、ぼくも五十八になるこの年齢までずっとこだわってきた人生あかつきどきの主題を、今に生きる若い人たち(じつは自分の娘たちにだが)にも納得できるようにここに詳述しておきたいと考えた。そうしておかなければ、この60年末からの夜間高校における高校紛争が永遠に闇に埋もれてしまうだろう。
タイトルはとりあえず四方田の本をパクルことにしたが、エリート高の青春を回想する四方田の手つきは高等遊民のそれのようで、とてもぼくには同世代の(文部科学省年齢一歳下)同じ思春期の少年には思えない。高価な全集をたやすく購うことができた少年と、昼食をがまんして一冊の文庫本を手に入れた少年とでは世界が違いすぎる。ただし、当時読んだ本や漫画雑誌『ガロ』の白土三平、つげ義春、『COM』の岡田史子、宮谷一彦、『現代詩手帳』の詩人たちや芸術映画など、酒場で話題にすれば看板になっても終らないほど共通頂があって、やはり同世代人たる証しである。ようは、本来の意味で頭のいい四方田のまねは逆立ちしてもできないというだけの話だ。
ぼくは、切り張り方式でつづることにしたい。
切り張りというのは、じつはぼくにはこの「高校紛争」を小説化しようと苦闘して、ついにものにできなかった原稿の束があるのだ。ある場面から書き出しては、やめ、また違う場面から書き出してはやめた、累々たる屍の山のような原稿。とうぜん小説だから、虚実取り混ぜて書いたものだ。最初の原稿は、1976年に取り掛かっているから、早や三十数年前になる。何ものにもなれず、何もしないうちに三十年も経ったと知らされるのは、はなはだつらいことだ。
さて、武藤啓司の著書に戻る。この「昭和四五年四月九日から四六年一月二九日までの間」と「昭和四六年二月五日から同年二月一五日までの間」の「生徒のハンスト」の中に、ぼくの十八歳から十九歳の姿がうめこまれている。武藤の論文の構成上、こうした単純なわかりやすい形での引用はしかたないことだろうが、足立高校定時制でおこった紛争は、けして〝問題児が提起した問題を教師が真摯に受け止めた〟といったことがらではなかった。それは、中にいた当事者たるぼくが責任もって否定したい。
ふたつの流れがあった。
1967年、高校生となったぼくの中に、佐藤訪米阻止闘争で京大生山崎博昭さんが死んだこと、つづく翌年のエンタープライズ阻止闘争、日大闘争、神田カルチェラタン闘争、東大闘争、また毎日のように報じられる各大学の大衆団交、デモ、バリケードストライキに無関心でいられないものがあった。
ある日、畳の上で朝日新聞を開くと、二面にわたって中国の文化大革命が報じられてあった。一面、あちこちの街で撮影した壁新聞(大字報)で埋められ、幼な顔の紅衛兵があふれていた。壁新聞には「造反有理」の文字が躍っていた。ベトナム戦争が激化する中、世界がゆらいでいたのだ。
なぜ、ぼくがこれを見たのを朝日新聞だと明言するかというと、ぼくの父親は死ぬまで朝日しか購読することを許さなかったからだ。新聞は朝日、選挙は社会党。これがぼくの父親の戦後のスタンスで、満洲特務機関で働き、シベリアに送られて復員した男の、戦後の生き方だった。この父親の無名だがまっとうな人生に影響されれば、ぼくもよかったのだが、DNAはわずかに反骨心だけを受け継がせた。
ぼくが、すでに大江健三郎や井上光晴を読む文学少年であったことと、政治に関わっていったことはもちろん切り離せない。またその頃、しだいに過激さを増した『日本読書新聞』『図書新聞』の読者であったことも、関係していようか。そのことは後の章で追々ふれていきたい。
ぼくの行動はやがて、マルクスを知らなくて権力とは闘えないと、友人たちと『賃労働と資本』の読書会をつくり、あまりにもチンプンカンプンなので、いつのまにか雲散霧消したあと、街頭デモに参加したり東大安田講堂周辺を動き回ったり、といったことになるのだが、同様に足立高校定時制には何人かの似たような生徒がいたのである。時代というものであろう。
一年後輩で、年齢は二つほど上だった小川厚などは、硝煙の臭うようなジャンパーを着て、デモ帰りでしばしば学校に現れた。途中全日制から転入した輪立登などはアナーキズムの信奉者で、実際に尾行の公安を連れて学校に来ていた。父親が自衛隊の軍事研究所のようなところに勤めていたので、「おやじは自衛隊で人殺しの研究をしている」とよく語った。七〇年、彼はアナキストの仲間とともに爆弾闘争をおこなって死ぬ、と明言していたが、おそらく場所を得ず、ゆえに死ぬこともなく、のちに御殿場の寺の住職になったと聞く。
ぼくとこの二人は、七〇年に入って出会い、やがて「足立高校定時制全共闘」を旗揚げすることになる。それは、正木年雄も自主講座も、いっさい関係のないところから、いわば夜間高校生が自発的に徒党を組むことを考えたのだ。それぞれの思惑を秘めながらであったのだが。
足立高校全日制のほうでは、69年にバリケード封鎖がおこなわれており、その残党の一部とは、ぼくは文芸部の関連で付き合いがあった。ぼくはよく彼らの部室で堂々と紫煙をくゆらせながら文学や政治論議をしていた。その全日制文芸部には、難解な詩を書く者もいた。鈴木志郎康のサイケ調や寺山修司が推して現代詩手帳賞を受賞したという、たしか十五六歳の詩人、帷子耀の空疎な言葉のつらなりをまねた詩を、掲載雑誌や生原稿で見せられ、ぼくは難解さに閉口しながら、しかし難解であるとは口にできなかった。〝難解〟であることが、サイケ(サイケデリック)、アングラ(アンダーグランド)の流行った時代の、芸術の最先端だったのだ。ぼくはというと、ぼくはもともとの頭のわるさから、抽象的な思考や観念的な言葉は苦手だった。
とまれ、ぼくの左傾化には彼らとの交際の影響もあったのだろう。
一方、正木年雄は、69年佐藤訪米阻止闘争で投石したとして逮捕され、停職処分になっていた定時制の英語教師だった。70年に入ると、正木はこの停職を認めないとして、管理職や日共の教師に阻止されながら学校に出勤を繰り返していた。まだ裁判は続行中だった。やがて、正木はその当時方々で見られた「自主講座」というやり方を思いつく。授業ができないなら自分で授業をやる、という発想だが、そもそもその発想の中に、教える→教えられるという既存の学校での関係は生きていたのである。教えようとする内容が、左傾化しているにすぎなかった。
このエッセイ風小説は1967年にぼくが定時制高校に入学するところから始めるべきなのだが、映画風に、クライマックスに近い象徴的場面をプロローグに持ってくることにする。物語はその後、年代をさかのぼることになるだろう。
1971年1月の、こんな寒々しい場面だ。
車座になった男たち。いや、まだ男というより少年のおもかげがまさっている者たちがいちように押し黙って円をつくっている。ある者は胡坐をかき、ある者は膝をかかえて、みな背を丸めていた。窮屈な円は六畳いっぱいにひろがり、遅れて来た者はその円の多少の弛みに体を捻じ込む。そのつど男たちの尻が動いて円が密になってゆく。
男たちの中であきらかに年嵩とわかる二七八の男は、窓際に膝をだいて坐り、そこが円の中心になっているようだった。雨戸は閉ざされ、アパート二階のこの部屋の窓の下を人がわたってゆく、カタカタというコンクリートの鳴る音がときおり聞こえている。どぶにコンクリの蓋を被せて人一人が通れる道になっているのだ。
誰かがいたずらで青いペンキを塗った裸電球が、車座の男たちの頭の上で、ものうげに発光している。何人かが手持ちぶさたにくゆらす煙草の煙が、青い光と入雑って狭い部屋に満ちている。孝はその円の中の一個の点になって体をすぼめていた。寒いのだった。
雪は積もるのだろうか、と思った。他のことを考えていないとやり切れない思いだった。胸がつまるようである。じっさいこの部屋は酸素が薄くなっているのかもしれない。咽喉がからからになって、ひりついている。
さびれた、砂塵でざらついたような町筋を津布久章と歩いて来るとき、雪が降ってきたのだ。何処か遠くで降っていたものが風に吹かれて迷い込んで来たように、はらはらとした降り方だった。掌にうけてみて、雪だとわかった。
「ひゃ、雪だよ」
孝は言って、津布久を見た。
津布久は眼鏡の奥の眼を気弱そうにしばたたかせ、何も言わなかった。先刻まであんなに饒舌で、きょうの会議のことで頭が一杯で気もそぞろの孝を苛立たせていたのに、この町筋をたどりはじめると彼はふさいだようになっていた。津布久もおれと同じなんだな、と孝は思い、灯を点しはじめた商店の並びに見える暗い隙間を見つめる。そこを入って、暗渠のコンクリートを踏んでゆくと、アジトと呼んでいる崩れかかった木造アパートがあるのだ。夜になると、ひときわ濃い闇がその暗渠のあたりをおおうのだった。
おれはきちんと言えるだろうか、と孝は思った。こころもとなかった。
「それじゃ、集まったようやから、はじめよう」
と正木年雄の声がして、孝は我にかえる。いよいよだ。
円の中心になっていた二十七八の男が、正木だった。孝は、正木さんと呼ぶのが身についているが、慣れない者は気づかぬうちに正木先生と呼びなれた方に戻っている。A高校定時制の、休職処分をくっているとはいえ現在だって教員なのだから仕方がないのだ。
「ぼくたちは七〇年の四月から、今年にかけて、自主講座を防衛しつつ、さまざまな闘争に取り組んできたわけやけど……」
その一年も経ないあいだに、と孝は思う。どれだけの者が去っていっただろう。岡林信康のランブリングボーイじゃないが、「一つ仕事を分け合って 一つの部屋で 一つ茶わんで食べあった」者らが、もうこの車座の中には一人も残っていないのだった。正木がビラ入れをして、A高校定時制に自主講座をはじめるのとほぼ同時期に結成した、孝たちのA高定時制全共闘の当初のメンバーはことごとく去ってしまっていた。
一個五百円のヘルメットをあのとき十個購ってきて、セロハンテープで字をつくって貼り、新聞紙の上で黒いスプレーを吹き付けたのである。十人がいたってことだ。やがてそれは正木の自主講座に結集した者を含めてふくれあがり、二十人ちかい者がA高定時制全共闘の白抜きのヘルメットを被って、六月の街頭に旗をひるがえして闘ったのだが……。
「2・13は、校内に、流動化をつくり、われわれの運動の新たな局面をひらく闘いになるやろう、と思う。教師と生徒の人間的結合をはばむ、ぼくにたいする休職処分の内実、それは自主講座に仕掛けられるさまざまな攻撃をふくめてやが―、を粉砕する闘いとして、2・13は戦い抜かれなくては――」
ニイイチサン、という声だけが孝の耳に籠る。正木のそれを、孝はろくに聞いていない。正木さんの声には張りがあるな、と思う。空気が入っているな、と思う。いよいよ言いづらくなったな、これじゃあ。はすかいに体をはめこんだ津布久を見ると、彼は正木の話を膝にのせてひらいたノートにメモしている。そして顔をあげ話し手の方を、耳を傾けて聞いているというように見つめ、凝っとそらさない。黒淵の眼鏡が光って、表情を窺がいにくい。ややあって、またメモをとる。
こんなに真剣に聞いているのだから、ハンストに入るのだけは許してくれというのかな。孝はちらっとそんなことを思い、他の者を見ると、小林も澤貫もみなメモの手を動かしているのだ。
あ、おれだけかよ。
孝はちょっとうろたえる。これが正木の結城孝評価になるのはたまらない。しかし生憎肩下げカバンは、引き戸の前のガス台の下に置いてきてあったので、何も手元になかった。正木の視野にはいっているだろう自分を、孝はにわかに意識した。
「さぁて、と」
正木はくだけた調子になって、
「人選や、だれがハンストに入る?」
と言って、ひとわたり首をめぐらせた。
今、正木の眼が舐めて過ぎたとき、ねっとりしたもので貼りつけられたように、みな息をつめるのがわかった。孝は難を避けるように体をすくませる。顔だけは何か含むものがありげに上げていた。
「小林はどうや、やるか」
正木は名差して言う。どこか挑むような物言いだった。
小林はその物言いに反撥したように、苦笑めいた笑いをうかべ、
「やるもんいなきゃ、やっていいよ、俺」
小柄な、けれども機敏そうな体をふたつみっつ、ゆすった。
「結城、きみはどうや」
正木の顔が真っ直ぐ孝に向けられた。不意打ちをくらった感じで、孝は一瞬いいよどむ。うろたえが顔にでてしまう。正木のひややかな眼が、孝を射るように見ていた。
「……ぼくは、体力に自信がないし、そのう……」
ちがう、考えてきたことはちがう、と孝は思う。ハンストの当事者になるのも大事だが、それには支援がひつようだ。情宣はだれがやるんだ、集会や団交はだれが……。支援する側に廻ることは、ちっとも恥ではない、と孝はずっと考えてきたのである。ハンストに入った場合の、その後の入院費はどうなる、治ったばかりの病気がふたたび勢いを持った場合はどうなる、と孝はあれこれ悩み、それを伝えなければとこころは逸るのに、舌がもつれるのは、やはり、だれか一人の者に犠牲を押しつける負い目があるのだった。
「何や、尻ごみしてぇ」
鼻白んだように、正木は顔をそむけた。
終ったな、おれの番が、と孝は穴を穿たれたようなこころで思った。もう番は廻ってこない。言おうとしていたものが、ひとつも言葉になっていないのに。「尻ごみ」した自分の姿だけが、みなの前に晒されただけだ。
「ほな、津布久はどうや、きみは」
津布久の上体がかしいだようだった。
津布久、と孝は渇ききったこころの内で言っている。言えよ、言ってやれよ。理論派のおまえにわからないわけがないだろう。
「ぼくは、いろいろと事情があって……」
津布久は指で眼鏡のはしを押さえ、苦しそうに言いよどむ。
そうだ、「事情」だ、桎梏だ。おまえの口癖のシッコクだ。孝はこころでおらぶ。家庭の事情、それはほぼ経済事情なのだが、その桎梏のつよさ、深さが、おれたちが定時制に来ているそもそもの理由でないのか。
「申しわけないけど、ぼくは支援のほうに」
言い切らないうちに、突然、
「やる気のない奴は、やらんでええよ」
焦ついた正木の声がとんだ。
打たれたような顔に、津布久はなった。
顔を伏せた。
自分も言われたのだと孝は思った。
ハンストに入る当事者になるかならぬかは、「やる気」のもんだいだった。ハンストは踏み絵だった。正木は最初からそういうつもりでいたのだ。
「ぼくが、ハンストやるよ。体はじょうぶだしな、エヘヘ」
空気の気まずさに耐えかねたのか、澤貫が買ってでて、自分の格好のよさを照れるように笑い、
「体だけが取り柄だもんよ」
骨太の体を反らして言った。コートを羽織った胸を、任せとき、というように掌で叩いた。
親分肌の澤貫は、三年生で孝より後輩だが、年齢はふたつ上だった。右翼的で有名な大学の付属高校から、どういう理由でか、七〇年の後半に定時制に転入してきた。空手のおぼえがあり、坐禅を組む。
孝はもうどうでもよかった。硬骨漢の澤貫は口に出したからにはやるだろう。もう、どうでもいい、早くこの場から解放されて、一人になりたいと思った。
外は雪が積もっていた。
その晩から、津布久は行方が知れなくなり、つぎに会うのはこの2・13ハンガーストライキ闘争の最期の場面になるのだが、それもまた別の章でこの場面の再現のように苦い記憶をつづることになる。
こうして、「昭和四六年二月五日から同年二月一五日までの間」の「同校内における生徒のハンスト」が具体的に走り出した。正木はけして「他の生徒らと共にすわりこみ、またアジビラを配布するなどし、もって生徒のハンストを支援した」わけではないのである。
それにしても、誰がハンスト行動に出ることを言いだしたのか、ぼくにはさっぱり記憶がない。そのための会議が持たれたはずなのに、これはどうしてだろう。たしかに、七〇年の一年間、ほとんどすべての学校行事に異議を申し立て、生徒手帳の改正や生徒の処分反対、給食費値上げ反対と、しまいにはまるで闘争のための闘争のようになっていった。共産党の教師や民主青年同盟、創価学会、右翼とのいがみあいも、ほとんど労働組合のない職場から通う一般生徒には初めは新鮮さも興味もあっただろうが、しだいに飽きて、またぞろという顔をされるようになった。ビラ入れをしても、反応がにぶくなった。つまり、闘いは手づまりの状態にもなっていたのだ。
正木の第一回公判が、この二月に開かれることが、ハンストの大義名分となったのはじじつだが、校内に漂うシラケムードを流動化させる目的もあったのである。
正木は、あの雪の日、ハンストに入る一人を決める会議(?)で、結城孝や津布久章らの気に入らないメンバーを篩にかけたのだと、今になってぼくは思い当たる。結城孝も津布久章もいわば「理論派」で、正木年雄からすれば理屈をこねまわすだけのうつとおしい存在だったのかもしれない。それらを排除すること、いわば集団を正木好みに純化することが目的だったのではないか、と。集団の純化というと、ぼくは連合赤軍を思いだす。
この二月闘争とぼくらがひそかに呼んだ闘いの翌年、1972年の同じ二月には連合赤軍のあさま山荘銃撃戦、つづく同志虐殺が発覚して、新左翼運動にとどめがさされるのだが、ぼくは掘り出される痛ましい骸の中に自分がいてもちっとも不思議ではないのだという感覚が、あるいはその加害者の側に立ったかもしれないという感覚が、その後も長くつづいた。関係者による関連書や回想、あるいは小説が出版されて、ぼくはいくつか所持してはいるが、いまだに読もうという気になれない。映画もあるが、ツタヤでDVDを見かけても手にとれない。ぼくは、彼らは生きていれば、いま何歳になったのだろう、とよく思う。彼らの年齢の倍も生きていることを不思議に思うこともある。
この日、同じ場にいた笹塚善行は1982年にタイプ打ちの五十頁ほどの歌集『十代の性典』を携えて、ぼくの前にあらわれた。
笹塚は地方公務員になっていた。二人で焼酎をしたたか飲んで、勘定をすませた別れしな、笹塚はぼくにそっとその紫色の本を差しだした。そんな映画があったな、大事な自分の本にそんなタイトルをつけるかあ、とぼくは笑ったが、笹塚は黙ってふらつきながら帰って行った。
その中に、あの雪の日の会議を歌ったとおぼしい短歌が連作で含まれているのを知って、ぼくは吃驚したものだった。酒場では、離婚調停中で、一人娘は取られそうだ、というような話以外、七〇年のことなどは互いにおくびにもしなかったのだ。
ハンストに入る一人を選ぶ夜は傘かたむけてアジトに向かいぬ
★
車座の裸電球四畳半外は雪なり唇凍てぬ
ハンストに入れぬ理由言いよどめば君に冷たきリーダーの声
疎まれて人の輪はずれわれは座すリーダーの声何と寒々し
憎むこと敵のみにあらじ苛立ちて「やる気ない奴やらんでいい」とは
ハンストはもはや戦術ならず一気に「やる気」を問われておりぬ
★
もうにどとパルチザンたらんと思うまい今宵会議が解かれしならば
★
踏み絵なら踏み絵だと言えそれならば心して踏む雪の固さよ
なにゆえ論理もて断れぬ降りつのる雪に役立たず傘も言葉も
笹塚はぼくと同年で、日立造船でベトナムから帰ってくる船舶の修理に携わっていたはずである。船の甲板にこびりついた肉の破片の話をよく聞かされたものだった。
笹塚もまた「疎まれて」いた、とは知らなかった。ぼくの記憶からこぼれていたのだろう。疎んでいたのは、もちろん正木である。
あの夜のことを、(というより、71年2月のことを)ぼくと同じようにこだわって、笹塚もずっと生きていたのか、とぼくは、それがぼくだけではなかったことに何とも不思議な気分にとらわれた。しばらくして、この自叙伝的歌集を何度も読み返して持った感想を率直にぼくは笹塚への手紙にしたためた。
それを