ナイトハイスクール1970❷
荒川佳洋
(1964~1968)
一九六七年四月、ぼくは
ぼくが定時制高校に入ることを文芸部の顧問だった山中ナミ先生に言うと、ナミ先生はたぶん貧しい家を想像したのだろう、少し悲しそうな困った顔をした。ぼくは山中ナミ先生には習った覚えがないので、(職員間で情報のや
山中ナミ先生は苦学して教員になった人なので、生徒の生活環境にとりわけ同情と理解があったのだ。ぼくはその誤解をむしろ歓迎した。成積が悪いから進学できないというよりは、そのほうがいい。
ぼくの家はたしかに貧しかったが、全日制高校に行かせられないほどではなかった。ただ単に学力がなかったのである。病弱で、何度も死の瀬戸際までいったぼくは、ほとんど学校に通ったことがなかった。親も長生きできないとあきらめてか、学校の勉強などしろと言われたこともない。いわば病院というフラスコのなかで純粋培養のように育った。
いきなり中学に投げ入れられ、勉強でも対人関係でも戸惑っているうちに中学三年になった。
一九七一年の本題にたどりつくまでに、この章ではひつような廻り道をしなければならない。この廻り道がないと、ぼくの一九七〇年は語れない。
ぼくは
二十半ばで夭折した一葉樋口夏子が窮乏生活を送った土地である。一葉はここで、荒物駄菓子屋をひらき、武家の出というプライドを捨てきれない母親と、妹邦子をかかえて、苦しい生活を送った。ぼくは小児腎臓病を発病して、下谷病院に入院、以後十年ほど入退院を繰り返したが、病室の窓から下駄の音が聞こえ、下谷の喧噪がコンクリートの壁を這い上って伝わり、まさしく『にごりえ』『たけくらべ』の世界だった。
そこから、
オバケ煙突を背に、橋をひとつ渡った
一九六一年、やがてぼくもその一員となる中学に、学校を出たばかりの若い女教師は、家庭訪問に行くよう命じられる。
「迷路のような細い路地が続き、ようやくたどりついたその家は、まわりの家と同じく、バラックのような粗末な家だった。一間きりの家が長屋のようにつながっていて、隣の家との境はベニヤ一枚、そのベニヤ板の天井に近いところがくり抜いてあって、そこに二軒共有の裸電球が一つ灯っていた。家財道具らしいものは何もなく、ふとんが部屋の隅に積んであるだけだった。鍋や釜は外に置いてあり、七輪で火をおこして外で煮炊きをする暮らし」(小林トキ『歌とともに歩みきて』)を見て、これが同じ東京都かと唖然としている。
井戸を掘り、ポンプを据え付けることから生活がはじまった。井戸水を濾して使うのである。甕のなかに砂や細かい目の網を張り、井戸水を濾した。
小学校に転入したが、不思議とその記憶は少ない。大田まり子という才媛に惹かれたが、すぐぼくは上総湊の養護学園に入れられたので、名前だけ覚えているもののそれきり記憶がない。
自転車を持っていたぼくの弟たちは〝街の子〟と呼ばれ珍しがられた。自分用の自転車を持つ子など、少なかったのである。
中学校に入って、文化祭の日、ブレザーを着て学校に行ったら、数人の生徒に体育館裏に呼び出され、カッコつけやがってとこづかれ、殴られた。そのひとりは、卒業した兄が街のワルでなおさら巾をきかせていたのである。その子たちは、すでに大人の険しい眼をしていた。野卑な生徒たちが多かったので、三年生になるまで、ぼくはそうした連中から目をつけられた。
中学一年の三学期、佐伯八千代という国語の先生に、たまたま作った俳句を見せたら、ほめられた。
木の影で本を読むかな子供たち
子どもの鋭い感受性もひらめきもない平凡な俳句である。だが、佐伯先生は一見ガサツそうに見えて、感性の豊かな教師だった。生徒に対して褒め上手であった。それに励まされて、俳句を作るようになった。
先述したように、ぼくの通っていた
ぼくの生まれた昭和二十六年には、
不良というのではないが、粗野な生徒が多かった。不良の多い中学とも評判の学校で、じっさいぼくの在学中、校庭に朝鮮中学の生徒が押しかけ、迎え撃つ不良生徒と大乱闘がおこなわれた。お寺で賭博をしていて捕まったり、〝桃色遊戯〟で新聞沙汰にもなったりした。教師に反抗することも、授業妨害もしばしばであった。授業中に、ふざけて天井にひそんで遊んでいた生徒が、突然天井板を踏み抜いて落ちてきたこともあった。
佐伯先生は、〝ガチョウ〟という仇名のある教師だった。小柄な体で教材を胸に抱え背をまるめて歩き、つばが飛ぶほど早口でしゃべる。クラッシックを歌うとかで、声が高かった。〝ガチョウ〟とはよくもつけたものである。子どもの観察の鋭さは、その比喩力でもわかる。佐伯先生は悪餓鬼のかっこうの標的になったようで、先生は泣いて眼鏡を外し、涙を拭うと眼鏡をかけ直すや、教室を出て行くこともあった。
東京の生まれだが、父親の仕事で広島にわたり、被爆した。級友を原爆で失った。学徒動員で、瓦礫の下になった級友の死体を掘り出した、とのちに聞いた。いちばん年嵩の佐伯八千代先生も、山中ナミ先生も、それから矢張り文芸部を見ていた技術家庭の佐川光雄先生も、みな歌人中野菊夫の主宰する短歌結社『樹木』の同人だった。年齢、歌歴からいって、佐伯先生がみなを誘ったのであろう。ぼくにとっては、この歌人教師たちとの邂逅は人生の大きな幸運であった。
ぼくは二年生になって、当時「文芸・書道クラブ」になっていた文芸部に入った。佐伯先生が顧問のひとりだったので、誘われたのだと思う。みな女子生徒ばかりで、とりわけ賢そうな少女畦川道子、額の秀でた美少女川間圭子という二人の三年生が熱心だった。
川間圭子とは、ぼくはそののち学生運動に入ってからも長く交際したので、いわばぼくのはじめて得たガールフレンドである。彼女はこの物語の中にまた登場し、やがて恋人のようなそうでないような曖昧な存在として描かれることになるので、ここでは書かない。
文芸部に入って、すぐ俳句会を開いた。ぼくは作り溜めた作品を提出した。最初の凡作を出さなかったところをみると、ぼくはそれが凡作であることを知るくらいにはレベルアップしていたのだ。ぼくがいちばん数多くだした。すると、この三人の顧問教師から思いがけず称賛を受けた。ほんものの俳人のようだよ、という言葉までもらって、ぼくは舞い上がった。たぶんそれは、ぼくの人生で最初の最良の日だった。そればかりでなく、その称賛はぼくの劣等感を大きく拭うことになった。三人の歌人教師の称賛は、ぼくを文芸部の首領格に押し上げ、部員のだれもが異議をとなえなかった。
入部したてで部長格になったぼくはこの二人の少女と、文芸部の雑誌『橋』を出し、そこに詩や俳句、そして小説めいたものを書いた。この雑誌はガリ切りに慣れていなかったため読みにくいものになった。謄写印刷の蝋紙に文字を書くのは慣れるまではむつかしい。鉄筆はすぐ蝋紙を裂いてしまう。軽く書こうとすると印刷の字は薄くなった。ちょうど自転車の乗り方とおなじで、こつをつかむと蝋紙にあてる鉄筆の筆圧がわかるようになる。ぼくはだんだん上手くなり、やがて蝋紙をつぶして題字や絵まで画けるようになった。つぎに出した雑誌の、川を船が渡って行く表紙のカットはぼくが画いたのである。この経験がのちにアジビラを作るときに生かされようとは思っていなかったが……。
つづいて卒業した先輩たちが一号を出し、そのまま数年眠っていた『運河』という雑誌を引き継いで二号を出した(その先輩の一人、長畠邦雄は、のちに茂吉の高弟佐藤佐太郎の門に入り歌人となった)。そこにもぼくは『靴を盗む児の話』という小説を書いている。
靴屋をしていた父親を失って零落した母子家庭の子どもが、靴に執着があって、靴を盗む。ある日、母親が叱ると、子どもは失踪する。夜、師走の町中を、子どもを探して歩く母親は、焚火をするルンペンの一家を見たり、酩酊して歩くものらと出あったりして、自分のポケットのなかの電車賃にも足りぬ十五円を思い、人間の幸不幸に思いをはせる。かつて住んでいた靴屋の跡で子どもを見つけ朝の町を帰る、という他愛のない話だが、タイトルからしてそのころぼくが読んだ志賀直哉、武者小路実篤の影響がもろである。筆致は二人の混合のようで、ときおりいまのぼくに思いもつかない新鮮な表現もあって、この作家たちからの影響の深さをみせつけられる。
ぼくは中学時代、ふつうなら他人から遅れをとっているのだから、学校の勉強に励みそうだが、ほとんど勉強を投げていた。七年の遅れは取り戻せないとしゃじをなげていたのである。
好きなことだけをやって、嫌なことから逃げていた。将来を漠然と不安に感じていたが、どうしようもなかった。
図書室には、中学校の蔵書とは思えぬほど、子規全集、漱石全集、藤村全集がそろっており、明治大正の文学全集もあった。筑摩書房の昭和文学全集もあった。ぼくはそれらを、わかってもわからなくても読破することを目的に借り出した。生徒には図書カードが渡されていたので、カードを借り出した書目でいっぱいにすることに満足感をおぼえた。校内きっての才媛だった女の子と、図書カードの枚数を競ったものだった。
その彼女は、ぼくの入った高校の全日制に入学後まもなく〝妊娠事件〟を起こし、ついに相手を明かさぬまま学校をやめて行った。噂でそれを知ったぼくは、あれほどの優等生だった彼女と〝事件〟とが結びつかず、人生にはさまざまな陥穽があるのだと思った。
図書室で、なかでもぼくが熱心に読んだのが、白樺派の作家たちだった。たぶん中学生らしく単純に当時〝文学の神様〟と称されていた志賀直哉を読まねば文学はわからないとでも思って読みはじめたのであろう。
武者小路実篤はなぜかこの当時人気作家だった。『愛と死』『友情』『真理先生』は必読書だったのだ。これは当時の人生論ブームと関係があったのではないだろうか。武者小路も亀井勝一郎も人生論がよく読まれていて、ぼくも高校に入って文庫になっていたのを手にとったことがある。どちらもこれは為になるようなものではなかった。後になって知ったことだが、当時文庫化された彼らの人生論の類は、戦前・戦中のものだったという。どうりで、オヤジの説教みたいなものだった。しかし小説は、面白かった。武者小路の『愛と死』など、結末がタイトルからしてバレテいたが、小説としてはまず満足できた。
この大正ヒューマニズムの文学に浸ったことが、ずっとあとでぼくを政治活動に向かわせる素地となったことはまちがいない。ぼくは高校生になってから、武者小路の「新しき村」運動に多少の関心を持って武者小路を読んだことがある。のちに、この運動が新中国の人民公社の発想に引き継がれて行ったことを知って、ぼくの感覚はそう外れていない、とちょっと満足したものであった。
プロレタリア文学には手を出さなかった。読まない理由をぼくは、六七年の『運河』四号に書いている。中学生のぼくの言いたかったことを要約すると、〝流行と不易〟という観点からすれば、政治=〝流行〟であって、変わっていくもの。文学は〝不易〟を描くものとかんがえていたようだ。これを読んで山中ナミ先生が、プロレタリア文学批判まで書くんだものね、と笑ったのを覚えている。こまっちゃくれた文学少年だったのである。
ぼくたちの文芸部は、いささか大正教養主義の教室のようだった。子規、鉄幹、晶子、藤村、白秋、啄木。とりわけ『若菜集』を愛唱した。序文を暗記して、「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。そはうつくしき曙のごとくなりき」とそらんじて悦に入っていた。ぼくは自分の気に入ったそれらの詩や俳句、短歌を藁半紙にガリ版で刷ってみなに配った。『若菜集』の文語の詩の美しさに魅せられたぼくは、中二のとき、韻だけをまねた内容のない文語詩を書いている。やがて女の子が高村光太郎の詩集『智恵子抄』を持込み、思春期のぼくらは競って暗誦したが、それがもっとも新しい詩集だったくらい、ぼくたちの文芸部は古臭かった。
ぼくは文芸部に男子を入れたくて、一年生のなかで一人をスカウトした。江守哲志といった。ひとつのことにガムシャラになるタイプの少年であった。政党と結んだ新興宗教の団体に入ったときは熱心な活動家となり、印刷工場で御本尊が大量印刷されるのを見て、それを見限った。彼は後年、川柳作家として名をなしラジオ出演などもしている。
もう一人、上島樹之というちょっとシャイな男の子は、たしか佐伯八千代先生がつれてきた。上島はのちにジョージ・オーウェルの研究書に翻訳を載せたりしている。この二人とは、ぼくは六九年に同人誌を発行し、さらに七十六年にまた雑誌を作った。二人とも早稲田に入って、高校教師になっているので、そもそも最初からぼくとは出来がちがかった。しかし学校で一、二を争う劣等生と、この一、二を争う優等生が、ともかくここで出会ったのだ。
ぼくは文学知識のいっぱい詰まった、いわば一芸に秀で、しかしそれ以外はまったく何ものももたない劣等生だった。ほかはみんな投げていた(就職も進学もなにも考えていなかった)から、中三になっても文芸部の活動ばかり熱心にやっていた。中三で、文芸部(いつしか書道部は消えていた)の部長になり、雑誌のガリ切りをしていた。そのころには、校内の不良たちもぼくに一目を置くようになって、手を出してこなくなった。あるいは、彼らはぼくから自分たちと共通の匂いを嗅ぎとっていたのかもしれない。
『運河』はぼくが卒業したあとも、後輩たちが出し、五号までつづいた。卒業後もぼくは関係して、俳句などをだしている。
俳句といえば、図書室にあった筑摩書房の昭和文学全集の現代俳句に載っていた古沢太穂の写真を見て、弟子入りの申し込みをしたのもこのころである。本格的に俳句の勉強をしようと思いたったのだ。いま思うと、若い古沢先生はうちの父親に写真の感じが似ていたので恐いもの知らずに手紙を書いたのだと気づく。古沢太穂の俳句はとても中学生の理解のとどくようなものじゃなかった。古沢先生はぼくの一句一句を書きだして、批評と添削をしてくれ、その手紙はいまも持っているが、中学生俳人をあなどったところのない丁寧な書簡である。会うことはなかったが、古沢先生の人柄をかんじさせる。
長く新聞『赤旗』で俳句選者を務め、句誌『道標』を出して後進を育てた。一貫して、勤労者の側に寄り添った古い、だが清潔な共産党員であった。
それから、ぼくが中学に入って最初に友人になった黒子芳明の父親も俳句を作る人で、黒子は父親と二人で暮らしていたのでそのアパートを訪うと、雑誌『俳句研究』が何冊も積まれていてぼくが現代俳句に接したのはそれが最初だった。黒子の父親はインテリ労働者という感じの人であった。ぼくの知っている俳句は、子規や虚子の主に写生句だったが、そこで読むのはもっと難解な俳句だった。石田波郷や中村草田男はそのころ知ったのである。
黒子は、中学でやっと得た友人で、ぼくはすぐに警戒心を解いて彼にはなんでも話すようになり、気が合った。彼は一人っ子の気難しさを持っていたが、ぼく自身も鎧を着て人と接することが多く、どこかで通じるものがあったのだ。
ぼくたちは誕生日のプレゼントを交わすようになり、十月のぼくの誕生日に父親からなんでも好きな本を買ってやれといわれたのだろう、ぼくを本木新道のちいさな本屋に連れだし、ぼくはただ単に冊数が多いというだけの理由で、石川達三の『人間の壁』(新潮文庫で全三巻、合計四百二十円だった)を買ってもらった。小磯良平の装丁で、授業風景、職員室などがデッサン風に画かれていた。
『人間の壁』は新聞小説で連載中から評判になり、昭和三十四年に完結版が本になったもので、新潮文庫の初版は三十六年、ぼくの持っているのは昭和四十年八刷である。鳩山一郎内閣から岸信介内閣にいたる強権が支配した時代に、教育行政の中央集権化に抗して闘う教師たちの姿を、ひとりの誠実な女教師の視点から描いた傑作である。しかし、中学生の読める小説ではなく、これを買ったと父親に見せた黒子に、父親はなにも言わなかったが、苦笑していた。ぼくがこれを通読したのは、七〇年の喧噪が過ぎてのちであり、すでに石川達三は保守主義者のように言われていたが、その文学の持つ力に深く感動したものだった。
黒子とはいつ疎遠になったのか覚えていない。夏に父親とその友人に連れられ、九十九里の浜辺で、テントで一夜を過ごした。そのおりの黒子とぼくの写真があるが、あれほど親しんだ友だちなのに、別れをどうやっても思いだせないのはなさけない気がする。
そういうわけで、ぼくは足立高校定時制に入るなり、当然のように文芸部に入部した。
じつは事前に文芸部があることをぼくは知っていて、というのが、ぼくが中学二年のときの一年先輩だった畦川道子の姉がやはり同じ高校にいて文芸部の部長だったからである。入学式のとき、部活紹介で演題に立った畦川芳子は、そのあとわざわざぼくを探しにきて、
「結城さん、待っていたわよ」
と美しい顔を紅潮させていった。畦川芳子はその翌年、やはり部活紹介の演題に立って、ぼくが文芸部誌に書いた詩を朗読し、「うちの文芸部の部長は、こんな素晴らしい詩を書く人です」と言って、ぼくを喜ばせてくれた。容貌だけでなく内面も美しい女の子だったが、二つ三つ年上である彼女はすでに成熟した女性のように見えて対かうと心が臆した。
その朗読された詩というのが、当時詩集がばか売れしていたサトウハチローばりの抒情詩で、ぼくのその〝作風〟はその一年で様変わりして、ぼくはもっと〝苦渋に満ちた現代詩〟をめざしはじめる。それとともに、あれほど熱中した俳句を作らなくなった。形ばかりを模倣するのに飽いて、自己表現に目覚めたぼくに、俳句はものたりなく思えたのだ。じつは十七音で自分を表現する技術を(高校生時の寺山修司のように)持っていなかっただけなのだが。いまでも、恩師たちと呑むと、あのまま俳句を作っていたら、結城くんは、いまごろはヒトカドの俳人になっていたわよ、という笑い話がでるが、ほんとうにそうだったかもしれないと思う。しかし持続も才能のひとつとすれば、ぼくには才能がなかったということなのである。
ぼくは俳句を捨て、詩だけでなく、小説を書きはじめていた。ほんとうは、文学でもっとも高級なのは文芸評論だとひそかにおもっていたが、理詰めでものをかんがえるのが不得手ではしかたがなかった。その不得手の根本的な理由は、十年にわたる腎臓病治療の薬物投与の影響だと、ぼくは中学のころから信じていて、いまもそう信じている。毎日通ったような道でもぼくは忘れて迷うこともあるので、これは薬物の影響としかいいようがない。
しかし詩も、小説も、自己実現の方法のひとつに過ぎなかったから、ぼくは大人になって別の自己実現の方法を見つけると、それらもあっさり捨ててしまった。やはり継続は才能のひとつであり、持続できなかったのは才能がたりなかったのであろう。ぼくは、もし輪廻転生があるとしたら、こんど生まれ変わったら六三三四制の教育をまともに受けて、大学の教師になって、学生に文学を教えながら、研究室に籠って文学研究をする学究になりたいと、半ば大真面目にかんがえているのだ。
入学の日、もちろん式は夜間の体育館でおこなわれた。ぼくは電燈の下でおこなわれた式の間、違和感をもちつづけていた。高いガラス窓の外は真っ暗だった。周囲には同じ年少者が多かったが、ぼくの隣にはあきらかに大人の顔が立っていた。就職をしているものに混じって、就職先も探していないぼくは、「働きながら学ぶ」大変さを説かれても、ただ違和感と実感として都落ちしたような気分がわいていたのである。
「みんな名もなく貧しいけれど、学ぶよろこび知っている」という歌謡曲を中学生のころ、音楽教師から教わった。学ぶ喜び、なんていう歌詞がまだ歌謡曲のなかで生きていた時代なのである。ぼくはその歌を思い出し、ここにいる男女の同級生たちからさえ疎外されている自分の姿を思った。
その〝アカ〟と仇名されていた音楽教師のことを少し書いておきたい。その教師は堀辺先生といった。音楽の時間、「みんな名もなく貧しいけれど」も、ロシア民謡も、「若者よ体を鍛えておけ」もその先生から習った。
それからぼくはいまでもソラで歌えるが、テレビドラマの主題歌だったと思う「次郎物語」や、山田太郎の「明日を信じよう」もその先生から教わったように記憶していたら、それは、一年のとき担任だった木祖先生が授業の前にみなに合唱させた歌を混同していたようだ。そういえば、木祖先生は謄写版の二色刷りで歌詞をうつしてきて、男の先生なのに字がきれいで、ぼくは永くそれを何枚も立原道造の詩集に挟んでおいたものである。それを見ながら合唱したのだ。山本有三の人道主義物語や苦学生の歌などを生徒に教える教師の存在は、まだ民主主義教育の残照があった証しである。
音楽教師堀辺先生には苦い思い出がある。ぼくが文芸部の部長をしていることを知っていたからだろうが、ある日、本を貸してくれた。『緑のほのお少年団』という児童文学だった。エンジ・ペトリーニというイタリアの作家が、一九四六年に発表し、六六年新日本出版社から翻訳が出ている。つまり、先生は読んだばかりの本を貸してくれたのだ。
「北イタリアのアルプスの谷間の村を舞台に連合軍のシチリア島上陸後の反ファシズム戦線に参加した少年英雄たちの物語」である。これはぼくがタイトルだけ覚えていて、あとで調べてわかったことだ。共産党系の出版社といい、内容といい、じゅうぶん〝偏向〟児童書である。ぼくは借りただけで、子どもの本だと思い、読まなかった。かえすがえす生意気だったのである。堀辺先生はぼくに会うたび、返してくれと言ったが、ついに返しそびれ、いつか所在がわからなくなった。返してあげればよかったと、後年ぼくはそれを思いだしてはなんども悔やむことになった。
灰色の高校生活がはじまった。ぼくは相変わらず劣等生だった。学校に行っていれば、単位を取れるのに、エスケープは習い性になっていた。働き口が見つかっても、仕事の単調さに倦み、職場の人間関係が嫌になり、続かなかった。昼の高校に行っていれば働いていないのだから、という理屈をつけていた。鞄のなかには、いつも文庫本が数冊入っていた。
ある日、学校で読んでいた三浦哲郎の新潮文庫『忍ぶ川』を、何かの拍子にめくった女の子が目次にある短篇の一つのタイトルを見たのだろう、「初夜だって、イヤだあ」とエロ本を見たように騒ぎ、さげすんだ眼をむけていらい、こんな莫迦な子たちとは口もききたくないと思った。ぼくは教室の同級生から意識的に孤立していた。
学校へは土手下から千住大橋を渡るバスが出ていた。最初はそれに乗っていたが、すしづめで窮屈なバスが嫌になり、定期代も惜しくなり、歩いて行けるところに仕事を見つけると、学校も歩いて行くようになった。中学を出てすぐさま結婚した同級生の女の子がいて、嫁いだ服飾店がその途中にあった。そこをぬけるときだけ、ぼくはうつむきかげんに足早に通り過ぎた。何となく落ちぶれた姿(と、思っていた)を、女店主となった彼女に見られたくなかったのである。その女の子はのち姑、小姑の虐めにあい、二十二の若さで自死した。
一九六八年、二年生になって、同級生で姉と二人で暮らしていた神埼翼と親しくなり、よく学校をサボっては彼のアパートで過ごした。
神埼は美男子で、タッパもあり、並んで町を歩くとぼくの貧相が目立った。彼も働いていなかったのである。美しい姉の手料理で夕飯をごちそうになったこともあった。ぼくはそこで煙草を覚え、純喫茶に入ることを覚え、昼の時間をつぶしたりした。
神埼翼はやがて中退し、十数年後、巷で会ったときはヤクザの親分になっていた。肩で風を切る、というがまったくそのままで、久々に神埼に声をかけられたぼくはオールナイトでよく見た高倉健の映画に出てくるようなヤクザに見えた。しかしそのヤクザは鉄砲玉にされたり殺されたりするのである。神埼は、子分を連れて颯爽と歩き去り、ふたたび会うことはなかった。ぼくは別れてから、どうしてあの美しい姉さんの消息を尋ねなかったのだろう、と少し悔やんだ。
晝さがりの街を 僕らは闊歩した
ある何かをもとめて
與えられるものなど ありはしないから
ふらすとれーしょん の僕らは
闊歩した 晝下がりの街を 僕らは
また同じころ書いた詩は、どれも頽廃的で、ぼくの六十七、八年の精神を写している。それはかなり病んで不健全だと、いまのぼくには思われる。
短いものばかりだから、書きうつしてみる。
海を見ていたら
ひんまがった心も
まっ直ぐになって
忽ち息ぐるしい感傷の
俘囚となった
「のぞみ」
僕みたいな、小心な不具でも
世の中に、ひらきなおって
ふてぶてしく、生きることが
のぞみなんですよ。
「のん・たいとる」
ぼくの朝は珈琲ではじまるのだ。きのうもおとといもそうであったし、あしたもあさってもそうにきまっている。
あの憂鬱なブラック珈琲から、ぼくは遁れられない。
ぼくの舌には珈琲がこびりついていて、執拗に離れようとはせず、それどころか妙な気怠ささえ醸しだしたりするのだ。
けれどもぼくは、その珈琲を容器ごと壁に打ちつけたりはしない
そんな莫迦なことはしない
何故ならば、ぼくと珈琲は友だちであらねばならないからだ。
「おれァ跳ばねえよ」
飛翔せよ、だって。じょうだんじゃない。
まっぴら御免だね。だって面倒くさいじゃねぇか。
恣意のまんまに生きるって、
とっても愉しいんだ。
何にもかんがえねえで、
こうるさい係累たちともエン切って、
そうして一生くらすなんて
これはなかなかすてきじゃねえか。
「喪失」
己れを欺いて くらしているうちに
帰るべき「故郷」を喪失してしまったのだ。
それから ぼくの彷徨がはじまった。
「彷徨」
與えられた地図を ぼくの全くの不注意で
無くしてしまったので
帰るべき故郷へ帰れなくなった ぼくの
それから はじまった虚しい彷徨。
「異国」
線路を驀地に疾走すれば
行きつくところは異国である
廃屋ばかりの異国である
ありとあるものが涸渇した異国である
何人も棲んでおらぬ異国である
さらに遠く疾走したとしても それは
徒労というものだ
どこまで行っても異国である
行きつくところは異国である
「おれァ跳ばねえよ」など、あきらかに大江健三郎『見るまえに跳べ』への返歌である。大江は『死者の奢り』からはじまって短篇ばかり読んでいた。六七年の長篇『万延元年のフットボール』は終いまで読み切れなかった。大江は、短篇では気にならないのに、あの翻訳調の文体が長篇になるととたんに読みづらくなるのだ。もっとも、それはたぶんぼくが「珠玉の短篇小説」に憧れていたせいもある。梶井基次郎の『檸檬』のように、たった一篇で文学史に残る、という生き方にぼくは文学少年らしく憧れていたのである。たった一篇なら、長い人生、書けるような気もしていたのだ。ぼくは新潮社の『大江健三郎全作品』六冊を本棚に揃えていた。当時、ぼくの持っていた本のなかでもっとも高価な本だった。ぼくの母親はもとより純文学作家の名など縁のない女だが、ぼくが好きだったから大江健三郎だけは知っていて、大江がノーベル文学賞をうけて、テレビで東大生が大江は難しいと言うのを聞いて、うちのあんちゃんはちっちゃいときから大江健三郎を読んでいたと自慢したものである。
「喪失」「彷徨」「異国」には、つげ義春の影響、というかイメージの模倣が感じられる。ぼくは当時、手塚プロダクションの『COM』と、青林堂の『ガロ』を読んでいた。定期購読していたのは『COM』で、『ガロ』は立ち読みしたり買ったりしていた。どちらも漫画研究誌の知的なおもむきがあって実験漫画が画かれていたが、一九六八年、『ガロ別冊 つげ義春特集』に発表された『ねじ式』という、つげの夢を主題にした短篇を読んでぼくは衝撃を受けた。
現実のような非現実のような世界が奇妙なリアリズムで描かれていて、手塚治虫の物語性豊かな漫画やちばてつやの下町少女漫画に慣れた目に、たいそう新鮮で、漫画でこんな世界が書けるのかと驚いた。ぼくの憧れる〝珠玉短篇〟の作品だと思った。『愛の生活』という小説で、太宰治賞次席で小説デビューしたばかりの詩人金井美恵子や宮沢賢治研究で知られた詩人の天沢退二郎が、さっそくこれを読書新聞や現代詩手帳などで批評したが、彼らの使う批評言語のほうがはるかに難解で、さっぱりわからなかった。この連中はどういうあたまの構造をしているのだろう、と思った。つげの作品はもっと素直に読めるものである。
粗筋を書くと、朱色の空に大き
そののち、つげが発表した、『ゲンセンカン主人』などのやはり夢もの、『紅い花』『ほんやら洞のべんさん』『長八の宿』などの私小説系の作品のどれもがぼくを魅了した。ぼくは溜息を吐きながらそれを読んだものだった。
つげ義春の作品には、一所にとどまろうとしない旅人の意識が一貫している、と佐藤忠男は作品集で指摘していたが、それはつげ義春その人の人生の反映でもあるのだろう、とぼくは思った。ぼくはたぶん、それに共鳴したのだ。毎日鬱々と暮らしていたぼくは、旅人になりたかったのではなく、「ここより他の場所」に行って別の何者かになりたかったのである。
六九年にぼくは同人誌『珊瑚』第二号を出し、そこに「旅人に憧れる」という短文を書いたが、それはつげ義春に触発されて書いたのである。そのころのぼくの自意識のありようも窺がわせてつらいものがあるが――。
僕の背後にあるもの、それは〈他人の目〉だ。僕はつねにそれにつきまとわれる。それから逃れる―というより、それを突っ撥ねるために僕は偽悪ぶらざるをえない。つまり、僕に終始注がれる、さまざまな〈他人の目〉に対して、ひらき直るのである。そうした演技を自らに強いることは、ひどく苦痛だ。うしろめたい。僕はそこで自己嫌悪に陥るのだ。
僕は旅人に憧れる。つげ義春の漫画にみられる旅人の意識――「旅人は、その土地の状況と深くはかかわらない。ただ観察して通り過ぎてゆくだけである。状況と深くかかわり合いたくない、という気持ちの強さが旅への憧れのひとつの原動力であるかもわからない。」(「つげ義春論」佐藤忠男)――に共感する。旅人ならば、〈他人の目〉をそう意識することはないのだ。その土地は旅人にとって、《行きずり》の土地であり、そこでどんな失敗を起こそうとも恥の掻きすてである。旅人はまた、見知らぬ土地に向かって風のように旅に出ればよいのだ。
〈人生をば旅人のような傍観的な目をもって見たい〉(前同)と僕は願望する。けれども、それは現代において幻想でしかないのかも知れぬ。
じっさいの僕の日常といったら、〈他人の目〉に晒され、居直りながら、とりたてていうべきこともなく生活を送っているにすぎないのだ。
一九三七年生まれのつげは、赤面癖のある対人恐怖症で、小学校卒業後、義父を嫌って、密航を企てたり、メッキ工場ではたらいたり(『大場電気鍍金工業所』という、池田政権下の日本の下請け工場を背景にした私小説系の傑作がある)、そば屋の出前持ちをしたりして、社会の底辺を転々として生き、ひとりで部屋にこもって出来る仕事として、貸本漫画を画きだす。
貸本漫画は、昭和三十年代の零細企業労働者の青年たちが読んで隆盛になったものだ。つげは、注文を受けるようになるが、それもイヤイヤ画いている身の入らぬもので、そのうち書き飛ばしていることが嫌になり、自己表現として目覚めた最初のころの作品が『ねじ式』だった。その作品は漫画の世界だけでなく、文学はもちろん他の表現の世界でも絶賛された。
つげ義春は変わった人で、芸術漫画という分野を拓いたとまで評価されているのに漫画を画くのを嫌い、極端に寡作で、古いカメラを集めてカメラ店を開いたり、河原にある石を集めて石屋を開いたりする。つまり、名を遂げてからも、いつも別の何者かであろうとするのだ。
ぼくは、つげ義春の主だった作品をいまも所持していて、おりにふれ読み返すのだが、四十年余もたって発表当時の新鮮を失っていない作品群にはおどろかされる。やはり、珠玉である。
わき道にそれたが、こんなふうな、詩ともつかぬものを、ぼくは文芸部の雑誌に書くようになり、文芸部の顧問をしていた、たぶんまだ学校出たての若い女教師(お嬢さまと呼ばれていたが)に、「結城君のは、詩じゃないわよ」と冷たく批評されていた。彼女にとっては、文学芸術はもっと高尚なものであるらしかった。学生時分のアメリカ・ヨーロッパ旅行の話を得々と定時制高校生にはなすこの教師は、ぼくが文芸部を牛耳っていることじたい憎かったのであろう。しかし、この定時制高校に来ている生徒の事情にいささかの理解ももてないプチブルのお嬢さんの批評も、詩の巧拙などもどうでもいい。むしろ、ぼくは、こうした書きものの背景に、折からのベトナム反戦で高まる学生運動を横目に見ている危うい精神状態が痛切に感じられる。
新聞を開けば、同世代の者たちの活動ぶりがつねに伝えられ、それは日ごとに数がましてくる。八月、名古屋で、8・15全国反戦高校生集会。十月、国際反戦統一行動。十一月、大阪で、ベトナム・沖縄・安保高校生集会。仙台で、ベトナム反戦集会。東京で、全国高校生統一行動。十二月、東京で、安保粉砕高校生統一集会……。高校生の政治参加がそろそろ問題になってきた頃で、政府は、教師が一丸となって説得して何としても学校に〝つれ戻すよう〟指示を発した。
ぼくは将来の自分が不安であり、いまの自分は貧しく、それに引き比べて彼らはいきいきと活動している、という「友がみなわれよりえらく見ゆる」悶々とした日々を生きていた。路を行くとき、電柱に貼られた反戦ステッカーにさえ強烈な引け目をおぼえて鬱々としているありさまだった。
先に書いた佐伯八千代先生は、一九六九年に歌集『萬聲』をまとめた。佐伯先生も山中ナミ先生もそののち何冊か歌集を持つが、そのたびにぼくたちはお祝いの会をひらいて痛飲するのがきまりになっている。佐伯先生にはほかに『楠焼尽』『化鳥』と歌集があるが、みな広島体験がいたいたしいほど基調にある。一瞬の閃光で焼尽した楠、火災で広島の街に舞った化鳥のような紙束である。その第一歌集はぼくが人から著書をいただいた最初の経験だった。
その『萬聲』の、最後の一首が印象に残っている。
きはだちて寒波この国を過ぐるらし新しき何を伴ふならむ
そう、きわだった「寒波」はそこまで来ていた。一九六九年、七〇年。それが「新しき何を伴ふ」のか、おそらく誰にもわからなかった。ぼくはただこころのなかに荒々しいものを飼いながら、ほんとうに単調なつまらない日々を過ごしている。
一月、エンタープライズ寄港阻止闘争。
二月、中大闘争。清水市の射殺事件の金嬉老、寸又峡温泉に籠城。
三月、王子野戦病院反対闘争。
五月、日大闘争。
六月、神田カルチェラタン闘争。東大闘争。
九月、米軍タンク車輸送阻止闘争。
十月、明治百年記念式典挙行。国際反戦デーに騒乱罪適用。
十二月、三億円事件。
この年、全国の大学百十六校で学園紛争が続発……。
この世情のなかを、ぼくより二つ年上の中卒の少年が、やはり職を転々としながら巷を彷徨し、十月には窃盗に入ったホテルで射殺事件を引き起こしていたことをもちろんぼくは知らなかった。密航常習者の少年永山則夫は翌年に「一〇八号」事件の犯人として逮捕され、三年後、ぼくは彼とわずかな縁を持つことになる。
ぼくは詩的な言い回しで自分の状態を、水の中の鳥だ、とよくかんがえた。跳びたちたいのに、跳びたつ契機がみつからない。遠い近い将来と、現在のポケットの小銭と、働いていることになっていたから月末に家人に渡すべき生活費を思って、一九六八年、胸の晴れた日がなかった。
(「1964~1968」の章 了)