線を刻む長い紙

　　タクシーは夜の県道を走っている。
　孝はいつも見馴れた窓外のたたずまいが、きょうは妙に歪むのを感じる。去っていく、スナックやビデオショップのネオン看板が、突如そこに現出したかのように映る。木枯らしに葉をなびかせている街路樹もいつもと、どこかちがう。こんなことが前にもあったぞ。いや、これはデジャ・ヴュかな…。
　しかしあれは何だろうな、孝はいま出てきたわが家のおとついから顕われている異変？が気になっている。ふたりの娘のへんな遊びだ。
　下の一歳半のムツミがオジゾウサンになって坐る。五歳のナツキが、それを、
　「ナンマイダ、ナンマイダ」
　と拝む手真似をして、
　「チン」
　鉦のつもりか、ムツミの頭を軽く小突くのである。ふたりの娘は、オジゾウサンを入れかわったりして、キャッキャッと遊んでいる。どちらにしてもナンマイダを唱えるのは、ナツキだ。ムツミはまだパパがいいところで、それもタバコを指すパッパといっしょくただった。
　「どこで覚えてきたんだろう」
　いぶかしんで、孝はいう。はじめは呆気にとられたが、背中がぞくっとした。
　「ナツキ、やめなさい」
　妻は困惑した表情をうかべ、叱りつける。
　「ヘンなことばっかり覚えて」
　「ナツキはアーメンじゃないか。ナンマイダは、ちがうぞ」
　と、孝。上の娘は、クリスチャンの営む幼稚園にかよっているのだ。
　「ナンマイダァ、ナンマイダア、あはは」
　「やめなさい」
　と、妻。ちら、と孝の母の方を窺う。
　「ああ、ナツキは隣のうちの拝んでるの、きいたんだな」
　孝はとりつくろうように、いう。しかし、隣家の宗教はナンマイダではなかったな。
　「なんでも、マネすんだから」
　と、母は孝のそれを受けて、いう。無理矢理つくった笑いを、弱弱しく浮べた。
　それは、おとついの夜だ。
　今夜も、孝は怒った。おとついより、強く。
　「やめろというのが、わかんないのか」
　「せっかく、ナッちゃん、あそんでんのになァ」
　ナツキは口を尖らせる。
　「ばかなことやってないで、リブロックでもやんなさい」
　「ばかっていうほうが、ばかなんだぞォ」
　いいながら、ナツキはべそをかきはじめる。
　何でそれが「ばかなこと」なのか、ナツキは訳がわからないだろう、孝は少し自分たちが神経を尖らせすぎているのだと思う。それが、子供たちに反映してしまうのは、いいことじゃない。
　バスタオル、パンツ代わりに下腹にあてるガーゼ、ヨーグルトなどを母は紙袋につめる。押し入れをひらいたり、古箪笥をあけては中をごそごそまさぐり、孝に持たすものを探しているが、
　「あれー、あたし何を出そうとしていたんだっけ」
　と、いう。
　「知らないよ」
　と、孝。つい冷淡な口調になってしまう。
　「あん、ナツキがうるさいから、忘れちゃうんだよぉ」
　いらついて、孫にでなく、孝をなじるようにいう。気を張りつめていることが、ときおりこうして持たなくなる。孝の冷淡な口調も娘たちのナンマイダも、母のささくれだった神経を逆撫でしておつりがこよう。
　｢ま、あとでもいいじゃない｣
　妻がナツキを宥めながら孝に目くばせを送っているのを、ちらと見て、
　｢あしたでもさ｣
　　立ちあがって、じゃあ行ってくる、と孝はいう。紙袋をもつ。この荷物をつくるために、この居間の調度が乱雑になり、箪笥など衣類が噛んだままになっている。毎日毎晩こうであった。家がだんだん荒れだしていた。
　｢寒いからあたたかくしていきなよ｣
　気を取り直した母が、のそのそ立ち上がる。もう電話で呼んだタクシーが家を出た三辻の所に着くころだ。ふと、孝は柱時計に目をやって、ちっと舌を鳴らした。ふりこが、また停まっている。四、五日前から、ずっとこうなのだ。電池切れかと、きょう新品に換えたのだった。いじると動きだすのだが、気付くと停まっている。寿命かな、といおうとして、孝は口を噤む。結婚式のスピーチじゃないが、いま、わが家には禁句が充ちていた。
　｢パパァ｣
　送りに出てきたナツキが、うらめしそうに、いった。
　｢どうして、ナッちゃん、じいちゃんのびょういん、いっちゃダメなのォ｣
　｢そのうち、つれてってあげるから｣
　と、ムツミを抱いた妻。
　｢もっと、じいちゃんにあいたい｣
　と、ナツキがいうのは、三日前に娘二人を母が病院につれて行ったからだ。
　｢わかった、あしたね、あしたきっと｣
　と、孝はいって、バイバイ、と手を振る。
　いってらっしゃあい。バイ、バァイ。パパァ、おみやげかってきてねェ。
　振り返って、孝は手をふる。もう妻も娘も闇にまぎれてその輪郭すらぼやけている。たたみこむようにいってくる声だけが明瞭だ。おみやげとはなんだ。ナツキはなんにもわかっちゃいないな。


　車のやわらかいシートに凭れて、孝は目を閉じる。病院は至近距離である。そうでなければ、うつらうつらしたいところだ。
　きょう、孝は学校警備の夜勤明けの体を、本郷の街へはこんだ。大学病院へ、父のレントゲン写真を借り出してくるためであった。今度こそ、借りてくるぞ。シノゴノぬかしたら、医局に押し入ってでも奪ってくるぞ、と孝は思っていた。四日前の雪辱をはらすぞ。
　三年前、父はそのＴ大学病院に一週間ほど入院したことがあるのだった。会社の定期検診で、肺に影があるといわれて検査入院したのである。けっきょく何でもないということになったのだろう、父はそのまま定年まで働きつづけた。そのさいのレントゲン写真が見たいと主治医はいい、借り出し願いの手紙を孝に託した。
　医局に電話すると、保存してあるという。いわれたとおり、その主治医の手紙を持って大学病院に赴いたのだが、こんどは無いという。窓口から医局に何度確かめてもらっても、無いという返事なのだった。四時間以上もねばって、けっきょく孝はから手のまま大学病院を後にするしかなかった。
　何だ、この権威主義的な建物は―。孝はせいいっぱい毒づいた。十七年前の嵐はここから沸きあがったのではないか。あれは、何でもなかったというのか。この白衣をまとって特権的に闊歩している連中は何だ。こいつらの足元を掬うことさえ、あれはできなかったのか。ダイガクカイタイは素晴らしいスローガンだったじゃないか。カイタイもフンサイもタイシュウダンコウも、もはや痕跡すらとどめていないというのか。キャンパスを駅に向かって歩きながら、孝はすっかり荒だち、胸のなかで檄をとばしている。宙を仰ぎ、寒風にさらされている高い建物に、時計台よ、と呼びかけるしまつだ。
　それが四日前のことだった。しかしきょうの孝は不首尾で終わらさぬための根回しを施していた。Ｔ大のことは、Ｔ大をして解決させよ、だ。
　｢澤山先生ですか｣
　と、孝は先方の自宅に電話を入れた。先生と面とむかっていうと露骨にいやな顔をする人だが、電話だからしかとだ。澤山は小児科の開業医だから、先生は不自然ではない。
　｢めずらしいなあ、生きてたんかあ｣
　孝より五歳ほど年長の澤山の大仰な手ぶりが、目に見えるようだ。じつは、と孝は事情をいって、その医局に誰か知り合いはいないかと尋ねる。
　｢いる、いる｣
　と、澤山はいった。いないわけがないと孝も踏んでいたのだ。だが孝も大仰にしてみせる。
　｢いますかぁ｣
　澤山は二人の医局員の名前をあげ、
　｢かつてのハンゾウ仲間だよ｣
　といった。周りの家族をおもんぱかってか、｢造反｣をひっくりかえしたのである。孝はあの屈辱のキャンパスで胸のうちにとばした檄を思い浮かべたが、嚥みこんだ。澤山はかつてある政治党派の書記長であり、丁大学の紛争で講堂に立てこもったひとりであった。大学と名のつくものに縁のなかった孝とは、また別の思い入れが澤山にはあるであろう。それに、そんな話は、今どうでもいい。
　その二人の手を煩わせて、ダメならまたオレにいってくれ、と澤山はいう。
　｢ところで｣
　と、さいごに澤山は思い出したように、きいた。
　｢三年前に、きみのおとうさんを診たっていうのは、だれ｣
　医局できいた、現在フランス留学中だという医師の名をあげると、
　｢ああ、知ってる、知ってる｣
　と、こともなげにいう。
　ちっ、と孝は舌打ちしたい思いだった。三年前にそのことを知っていれば、と歯噛みした。もう、おそい。もう、おそいぞ。
　本郷の街を空っ風に吹かれて歩きながら、
　｢もう、おそい｣
　ひとり、ごちる。せめてこの熱心さを三年前にだしていたら、と自分の薄情さを呪った。これから借りに行くレントゲン写真だって、じつは無用の長物となるのではないか。…
　なに、これは依地なんだ。孝は憤然として、かつてのカルチュラタンの空を仰いだ。


　手に入れたレントゲンフィルムを、Ｔ大からそのまま父の病院に持っていった。保存用の丈夫な黄色い紙袋は意外に大きくて、小脇に挟んでも、手に持っても、冷たい風の抵抗をまともに受ける。折れ曲がりそうである。孝はそれを胸に当てると両腕でかかえるようにした。医局の受付の中年女は癪にさわったが、これはオヤジさんの大切な肺の写真なのだ。
　あの女のために、つごう四日も無駄にしてしまった。この写真の保存の有無をたしかめる孝の電話を受けたのは、たしかにあの女の声だ。四日前もあの女だったのにちがいない。何が、
　「用意して待っていたのに、あなたが不手際をしたから」
　であるか。窓口をつついて何度も医局へ電話を入れたのに、無いと言い張ったのは、だれだ。セクショナリズムだ。狭い了簡だ。孝はよっぽど、これがもう役にはたたないかもしれぬと、いってやろうかと思った。だがそんなことは、相手には痛くも痒くもないことであろう。それに、実のところこれが四日前に手に入ったとて、父の病状にどれほどの変化があっただろう、と孝は思ってもいたのである。おとつい、会わせたい人を会わせてくれ、と主治医にいわれ、親戚がぞろぞろと父を見舞っていた。つまり、すべては、もう、おそい。
　「じゃあ、お借りします」
　孝は慇懃に頭をさげ、
　「―先生によろしくお伝えください」
　圧力をかけてもらった医局員の名もつけ加える。これは、あてつけだった。この口利きは、この女には面白くないことだったはずだ。
　「わかりました。用がすみしだい、返却するようにね、大事な資料ですから」
　と、女はいった。
　返却？　これはオレのオヤジさんの写真だぞ、と孝はゆえしらずムッとしたが、それが理屈になっていないと気づく。くそったれめ。何が、大事なものであろうか。医局に向かってたどってきた廊下に、放置してあるように高い棚がしつらえてあって、この黄色い袋が乱雑にぎっしりと詰め込んであるのを見てきたんだぞ。何千、いや何万人のからだが、晒しものになって呻いていたぞ。その気になれば、外部の者がやすやすと盗みだせるものが、なんの大事なものであるだろう。……
　「ご苦労さまでした」
　昼食後のだれもいないナースセンターのなかで、主治医は孝をねぎらった。もうフィルムはあきらめていたのだが、と顔をほころばす。
　「役にたてばいいんですが」
　今ごろこんなものを持ってきても、気やすめにしかならない。そういう思いが頭を去らない。すでに父は、この四十代半ばとおぼしい温厚な主治医から引導を渡されてもいるのだ。
　主治医は複雑な表情になった。
　「まあ…おとうさんも、がんばっておられるんだから、我々もね、最善をつくしましようよ」


　まだ消灯には間がある。個室のドアを開く。
　弟の卓が、孝を見るなり、
　「レントゲン写真、どうなった？」
　孝は親指と人差し指を丸めてみせ、
　「昼にきて、先生に渡しておいた」
　卓はそのレントゲン写真が父の病状の好転に貢献すると信じているのか、ほっとした表情をつくり、
　「だいぶ、いいみたいだ」
　うれしそうに、いって、折りたたみ椅子をあけわたした。
　「岬と会った？」
　「いや。帰ったばかりか」
　「とうさんにヨーグルトを、ふた匙、食べさせて、薬嚥まして、今」
　岬は孝の妹である。末っ子であった。
　「食事は摂った？」
　「手つかずで配膳室にかえした」
　「そう…」
　父は、上半身からすっぽりとビニールのフードに覆われて、眠っている。酸素テントである。そのテントにはいってなお酸素吸入マスクで鼻と口を覆っているのであった。それは、父の双つの肺の状態が良好に向かっているわけではないことを示している。親戚たちがぞろぞろ見舞いに来たおとつい、父は酸素吸入器を酸素テントのほうに切換えていたのだ。きのう父は身をよじって呼吸困難をうったえ、それから酸素が二重になった、と母がいっていた。きのうは、母と孝の妻が昼間を交替で付き添い、夜は弟がついた。その前の日は、妹だ。バトンタッチは、母か孝の妻がする。弟の妻も、協力してくれた。そうやって、この十日ばかりを送ってきたのである。
　「眠いだろう、あにき」
　「二、三時間は眠ってきた。大丈夫だ。缶コーヒー買ってきたから、外でのもう」
　個室の外は、破れかけたソファが置いてある喫煙所になっている。その前に流しとガス台。どこもかしこも古い病院だ。リノリュウムの床は染みがつき、ところどころ剥げかけている。病室も染みが浮いて汚い。
　缶コーヒーは、エレベーターでこの六階に上る前に下の真っ暗なロビーの、そこだけ明るみをつくっている自動販売機で買ってきた。熱いくらいの缶だ。
　「とうさん、どう、いいの？」
　声をひそめたのは、壁一枚むこうに父の耳があるからだ。眠っていても安心できない。
　「だいぶ楽になってるし…さ」
　「うむ…」
　そうだろうか。きのう来られなかった孝には、おとついより悪くなっているとしか見えない。たしかに今、呼吸はおちついているが。
　「点滴はさっき取り替えたばかりだから」
　「わかった」
　タバコに火をつけ、弟は、あにき、という。いっそう声を低めて、
　「叔父さんたちに来て貰うの、早すぎたんじゃないのかなあ。皆して突然代わるがわるやってきたんで、とうさん、変に思ってるんじゃないのかなあ」
　だれにも父の入院のことは知らせずにいた。ひとつにはそれほど重い病だとはだれも思わなかったからであり、遠くに散っている親戚を煩わせてはいけないからと、父自ら口止めをしたからである。七十になる父は矍鑠としていて、貸し農園の畑仕事を娯しみ、ノコギリを握っては家のあちこちに手を入れていた。呼吸が苦しいから病院にいってくる、と父は自転車でここへやってきたのであった。十日前のことである。父はそのまま入院することになったが、自転車で出掛けていった姿は畑の肥料でも買いに行くような軽やかさで、母は入院のことさえ信じられぬという顔をした。
　さきおといの夜、病院から電話がはいって、夜間の付き添いをつけてくれといわれた。トイレに自分の力で行けなくなっている、というのだった。驚いて、孝と母が駆けつけると、父はフードテントのなかで荒い呼吸をしていた。近所に住まっている弟も車でやってきた。母を父のかたわらに残して、孝たちは主治医に説明を求めた。
　壁のシャウカステンに、手際よくレントゲンフィルムを何枚も装填してゆき、父の双つの肺が一眸できるようにして、光源を入れた。孝はその浮かびあがった胸の映像に、あっ、と息を呑んだ。それは素人目にも分かる病勢のいちじるしい進行である。
　｢この白い部分で呼吸しているというですね、きわめて不味い状態なんです｣
　｢この、白っぽいところ、これ丈でですかあ｣
　と、卓は呆れたように声を出し、唇を噛んだ。
　その白い部分、というのが、入院時にはまだ二、三才児の塗り絵のように、まだらに残っていた。例い癒っても副作用がでるであろう強い薬の投与によって、病院としてはその状態での安定をはかった、ということらしい。ところが七日経ったその日の写真では、白い部分は圧倒的に黒い陰に浸蝕されて、双つの肺の上方に残っているきりであった。進行が早くて治療がおっつかない、と主治医はいって、声をおとした。
　｢我々としてはむろん、力を尽くしますが、会わせたい方がおれば、会わせておあげになったほうが良いでしょうな｣
　えっ、と卓が信じられぬという声をあげ、孝はうつけたような顔に一瞬なっていた。……
　｢卓だって見たろ、あの肺の写真｣
　孝は空になったコーヒー缶に指輪のようにしていたリングを落とした。
　｢みんなに来て貰って、そりゃとうさん、びっくりしたろうよ。いちどに、どっとだものな。しかもみながみな、そこまで来たから序でに、なんて口実で。シラジラシイ嘘ってのは、聞いてるほうが恥ずかしいもんだなあ。……癒ったらなおったで、そんなことを笑い話にすればいいんだからよお。だけど、もしものときは｣
　消灯の時間を告げるアナウンスが流れだす。
　｢もしものときは、どうするんだ。とうさんに、近しい人との訣れもさせないなんて残酷なことだろう｣
　病棟が暗くなる。真直ぐつづいている廊下の突き当たりは、非常階段のドアである。そのガラス窓に東の空があかるい。工業団地の明るみであるらしい。
　親戚を呼んだことを、弟は悔いている。父はそれをどう受けとめただろう、孝だって胸がふさがれる思いがする。何もいわないけれど、父は衝撃を受けただろう。自分の余命がいくばくもないと宣げられたようなものなのだ。それ以来、父はあまり口を開かなくなった。そんなに自分のからだが危険であるとは信じられぬ、といった凛とした態度にもそれは映る。
　孝もみなが来たことは何でもなかったという、あっけらかんとした顔を、病床で装った。弟もまた、明るくややぞんざいな調子を殊更に病人に向けていた。ちょっとした病勢の好転に一縷の望みをつなぐのは、卓よ、オレも同じなんだ。そりゃ助けたいさ、何としてでも助けたい。ナツキやムツミの記憶に、もっとおじいちゃんのことを残してやりたいと思う。だが、あのジュウタン爆撃を受けた地面のような肺で、生きのびるということがあるのだろうか。


　スチームが切られると、急速に病室が冷えていった。フードテントに両手を差し入れ、厚いバスタオルを父の肩先に掛ける。テントのため胸のなかほどまでしか白い蒲団は覆っていない。一月の深夜の寒気が父のその露わな肩口を噛むのだ。目をひらいた父に、
　｢あかり、消そうかぁ｣
　｢あ、そうだな、消してェ、このォ｣
　左手を泳がせ、枕辺のライトを指している。点滴の刺さっている右手はじっと不動のまま蒲団のなかだ。少しは動かしても大丈夫といわれても、父はけっして動かさないでいる。痺れきって、感覚のなくなった柔かい棒と化しているのだろう。
　ライトを点ける。光と陰があざやかに分かれる。
　｢眩しくない｣
　｢だいじょうぶ｣
　左手で酸素吸入器を少しずらして、あえぎあえぎ、いう。また、目を瞑った。
　部屋の光源を切る。常夜灯の青い光が、天窓のスリガラスに映えている。黄色い灯りに照らしだされたフードテントは、あたかも博物館の陳列ケースを思わせる。父はそのビニールのなかで、光を避けるように目をきつく閉じ、浅いまどろみを漂っているように見える。
　他にすることはないかと、孝はベットの傍らに立っている。サイドテーブルの抽斗の上を片付けて収め、蒲団をめくって尿袋がまだ代えたばかりでわずかしか尿がたまっていないのを確かめる。父の膀胱とこのビニール袋は管で結ばれている。大便は、おしめで受ける。それまで点滴スタンドを転がしてトイレに行っていた父は、母には、
　｢便所にゆくのが、つらい｣
　と、いっていたそうだ。つらくても、つらいといわぬことが多い父がそうこぼしたのは、よくよくのことであろう。それでも父は、点滴の瓶とともに、トイレにゆき、階下のレントゲン検査室に自力でかよっていたのである。
　三日前、父はエレベーターのなかでしゃがみこんでしまった。顔が真青だったという。検査がすんで病室に戻る途中であった。たまたま乗り合わせた老婆が、ナースセンターに知らせ、ストレッチャーで父は病室に戻った―。その話を、孝は病室のある階の病人たちの溜り場になっている談話室で、当の老婆からきかされたのであった。そのときはじめて、トイレだけでなく検査室にも父はひとりでいっていたことを知って、孝は憤然としたのだ。酸素マスクをせねばならぬほどの状態であるというのに―。しかもその事実を故意にかどうか、家族に伝えず、電話でいってきたのは、トイレにひとりでゆけぬようになったので、夜も付き添いをつけよ、という要請のし方だった。孝はそのこともふくめてこの市立病院の看護のありかたに沢山の不満や疑問をもっていたが、父のからだがすでに他の病院を択べる状態でない以上、口にしても詮ないことだと思っていた。
　なにより、当の父が、毅然としている。恨みがましいことを、一言もいわなかった。孝の怒りが、まるで孝のもつ青臭さや未熟に見えてしまうほど、父は小柄な体軀を毅然と見せて病床に在った。
　その父が、膀胱にビニール袋を結びつけられ、おしめを腰に当てがわれている。そのことをどれほど情けなく、屈辱に思っているか、孝はわかるような気がする。
　｢水が、のみたい｣
　父は目をひらいて、孝を見る。いつもの目の光りだ。孝は安心する。布巾を掛けておいた湯冷ましを、フードテントのなかに入れると、父は左手で酸素マスクをずらして持ち、頭をもちあげて、孝の手のらくのみを一口吸った。それ丈の動作で疲れたというように、父はまた瞑目した。孝はフードテントの裾の隙間をしずかに手でつぶす。看護婦がシャーレを持ってきたことを思いだした。
　｢痰がでたら、これに採るから、ティッシュちょうだい｣
　｢ああ｣
　瞑目したまま、応える。
　父の痰を採って、医師たちは父の肺の病いを研究するのだな。だけど、それはもう、父のためになる研究じゃないのだ。もう、すべて、おそいのだ。ちらとそう思い、孝はかぶりを振った。ろくでもないことは思うまい、と暗い想念を追い払う。
　｢脚だるくない、揉もうか｣
　｢いいよ｣
　ややあって父は応える。
　

　夢のなかで、孝は十六、七年も前の大荒れしたデモ隊のなかにいた。耳元すれすれにガス弾の赤い火の玉が飛んでいた。硝煙のにおいがたちこめているが涙はでていなかった。あんなに目に染みるにおいなのに、ふしぎなことがあるものだった。追われながら、ヘルメットを放棄した。あちこちにヘルメットが棄てられていて、ドクロの山のようだった。ひたすら逃げた。新宿の街頭で機動隊と対峙していたはずなのに、山のなかを這うように逃げ、川のなかに入って逃げた。川は孝の胸のあたりで透明なちいさな波をゆらした。
　川をたどってゆくと、明るい場所へ出ている。見渡すかぎり何もない原野だった。赤い土、黄塵にかすむ空。大地と空は遠い果てのところでまじわっていた。そうか。これは、満洲にちがいない。
　孝は、満洲に兄を探しに来たことを、はっきり思いだした。ここはソ連と満洲の国境にほどちかい開拓村だ。急がねば、二度と兄は父に会えなくなると、心がせいた。走りだした。オンドルの煙突が立っている低い煉瓦造りの戸口を片っ端から開いていった。なかから、おどろいて威嚇する数々の目が光った。どこも、ちがう。走って、走って…
　ドアがひらかれ、白い衣があらわれて、孝は夢との境から戻った。椅子から立ちあがった。
　｢大丈夫ですから、少し横になってけっこうですよ｣
　点滴の落下速度を測りながら、看護婦はいう。
　｢はあ｣
　といって、孝はこのとき父の息ざしがやや荒くなっているなと気付いた。咳もでていたが、看護婦は何でもないように行ってしまう。夜中はいつもこうなのか、と孝は思う。
　父が唸った。うっうっ、ううう―。魘されているような声だ。怖ろしい夢でも見ているのだろうか。むせるように咳こむ。かっ、と目をひらく。あん、という目で孝ののぞきこんだ顔を見つめる。孝の顔をみとめるまで、いぶかしげだ。ややあって、おまえかといった目になる。寝汗をかいているのか、左手でタオルをつかみ首のあたりを拭う。フードテントのビニールの前が垂れてくるのを煩げに手で払う。孝はそのビニールを引っ張ってやるがそれはすぐしなだれてしまう。
　｢水あげようか｣
　｢あ、そうだな｣
　口をひらくのも苦しげだ。水を吸ったのち、乾いた唇を水を含ませた脱脂綿でしめした。それからベッドを操作して傾斜をつける。父の半身が少し持ちあがった。父は何もいわず、もの思いに耽るようにまた目を瞑る。
　孝は病室の壁一枚へだてた喫煙所にでる。そこの病棟西側の窓は市街の果てまで一眸にできる。六階のここは、父の病室もそうだが、見晴らしがきくのだ。孝は煙草に火をとぼして、常夜灯の青い光のなかに立っている。冴々とした月がのぼっていて、この廊下より戸外のが明るいくらいだ。寒さにぴんと張りつめた闇が家々や路や樹々の間に沈殿し、市街は深い眠りについていた。
　紫煙は逃げ場がないように、孝のまわりに漂っている。親父は、ヘビースモーカーだったな、と思う。それが肺の病気の進行をどれほど早めたか、わからないな。オレも親父の誕生日になど妻にいってナツキにハイライトのワンカートンもプレゼントさせたものなのだ。
　孝はさっきの夢のつづきを考えた。いつもなら目醒めしなに忘れてしまう夢が、あれは妙に、褐色をおびた色つきで、のこっている。
　夢のなかで、孝は満洲の黄土をさまよっていたのだ。兄を捜しているのであった。急がねば急がねば、と焦りだけが先をゆき、足がもつれている。焦りともどかしさが、鮮明に頭にこびりついていて、孝はほんとうに満洲の原野を走りつづけたような疲れをおぼえていた。水滴のはりついた窓に、街の遠い夜景が凍てついた銀色の光をまたたいている。


　あれは六年前のことだ。
　台風の去った翌朝、孝は古利根川沿いの狭い路をたどっていた。
　風が孝のジャケットをはためかせていた。塵芥を吹き払った秋空は、光の粒子が舞っていて、目に眩しい。雲がちぎれて飛んでゆく。川は水量を増してふくらみとうとうと流れていた。ふだんはただのおとなしい川なのに、六年前のこの日、雄大にすら映るけしきである。岸を固めたコンクリートブロックの対岸の白さが、つねなら目に沁みるのに、ふくれあがった濁水が隠していた。水はコンクリートの橋桁を大半呑み込み、橋を舐めるかのようにうねる。橋の裏側が、日の光を撥ねている水面にあからさまに映っている。きゃしゃな橋なら押し流されかねぬ水の勢いだ。
　孝はいつかその川を、見も知らぬ満洲の大河に見たてて眺めていたのだ。父の一家が、一九四五年の夏に離散するまで暮らしていた満洲の、北部を流れていた河である。そしてその異郷の地にたたずむ、親に置き去られた幼い兄のことに思いを馳せらせていた。
　ソ満国境沿いのその街に硝煙の臭いがまだたちこめている。街角には戦車が駐めてある。ソ連兵があちらこちらの日本人家屋や官舎に機関銃を片手に入り込み、日本人の残していった荷物を物色している。ほとんどの日本人が着の身着の儘逃げ出して行って、オンドルの煙突のある小さな窓の石壁の家々は、唐突な主人たちの消失に困惑のていである。
　孝の兄は母親の姿をもとめて自分の家の遊び慣れた周りをよちよち歩き廻る。かくれんぼをしているのではないか。ばあ、といって今にでてくるぞ。そしてやさしく笑って、抱きあげてくれるのだ。
　いくら待ってもでてこない。兄は火がついたように泣きはじめる。泣き喚く。マーマと、おらぶ。中国人のこどもたちが、シャオリーベンハイズとはやしたて、取り巻いて小突きはじめる。ついきのうまで一緒に遊んでくれたオニイチャンたちの、この手のひらをかえした冷たさはどうしたというのだろう。
　市中では、日本軍協力者たちの裁判がたけなわで、血腥い喊声がきこえている。銃声がとどろく。異母兄はそれを祭の日の爆竹の音かと首をめぐらすが、黄塵にきいろくかすんだ空に昼の盛りの陽が燃えているきりだ。何もかもが、変わってしまい、在ったものが悉く無くなっている。パーパも、マーマも、いない。隣近所の小父さん、小母さんも、こどもらも、兄が廻らぬ舌で、見かけるとマーマに教えた兵隊さんも、煙のようにいなくなり、かわりに戦車が山の向こうから黄塵をけたててやってきたのだ。
　目の色のちがう、血走った顔つきの大男たちが、毛むくじゃらの腕をふりあげて、わけの分からぬ言葉をまきちらしだす。鬼かけもののように思っていた、反満抗日のゲリラがどうどうと街を闊歩する。そして、親切だった中国人の大人たちやこどもらの豹変ぶりである。二歳半の幼い兄は母親の姿が見えなくなった恐怖に泣いている。周囲の異変が恐怖をいっそうかきたてる。
　数日まえ、馬に乗った男が、退避せよ、退避せよっ、と呼ばわって廻り、とりあえずのものを詰めたリュックを背負って彼の母親は戸口に立ったのだ。両の手に、彼と彼の妹の手をとって。なに、きっとパーパたちがこの街をソヴェットから奪い返してくれますよ。そういって、彼の母親は火の始末をし戸締りもきちんとしたのだ。それがいつのまにか、農夫然とした中国人の家に彼はいる。彼を苛める中国人のこどもたちを蠅のように追い払って、なきじゃくる彼を抱き上げ、笑っている。おまえのマーマはもう帰ってこぬ。おまえはわしたちのこどもになった、といいきかす。見知らぬこの男も、坊主頭に刺青をほどこしたからだのソ連兵どうよう、恐怖の対象でしかない。兄はその家を脱けでてきては、母親の匂いの残っていそうな煉瓦づくりのもとの家の辺りに戻る。探しにくる養父母の手を逃れて、河のほとりをさまよう。
　いまもきっと、さまよっているのだ。


　異母兄の存在を孝が知ったのは、二十歳のときだった。まだ下に高校生の弟と中学生の妹がいて、これから金がかかるというのに、定職ももたず、毎日学生デモに明け暮れて外泊をつづける孝を、母が嘆いていいだした。
　「長男なのに、ちっともしっかりしていないんだから。金になんないことばっかり夢中になって。おとうさんがかわいそうだよ。わたしはおまえが長男だから、しかたないけど」
　うっかり口をすべらした母に、
　「何それ」
　と、孝は問いかえした。
　「…満洲で、他人に預けてきたこどもがいるんだよ、おとうさんには」
　「へぇ」
　「生きてるって、おとうさんいうんだけど。あたしと一緒になってからも、ずいぶん捜したのよ。昭和十八年生まれ、ヤスオさんていうの」
　「とうさん、再婚だったのかあ」
　「おとうさん、満洲で、憲兵だったの、知ってるでしょ」
　「憲兵じゃなくて、特務機関だろ」
　「そうそ。若いころに満洲に渡って、満鉄にはいって。おとうさん八人兄弟の末っ子だから茨城じゃ食べられなくて。満鉄に入って、しばらくして田舎に帰ってきて、結城の人と結婚したんだって。そのまま田舎で暮らしていれば、満洲であんな目にあわなかったんだけどね。またその人つれて、満洲に戻ったばかりに」
　父は伴侶を得るために満洲から一時帰国したらしい。
　「かあさん、その人、知ってるの？」
　「知ってるよ、写真だけだけど」
　父の茨城の実家に、予科練に志願して亡くなったという航空服の伯父の写真と並んで、和服姿の若いきれいな女性の写真が架かっていた。あの女性は父の兄姉のひとりかと、孝はそれまで思っていたのだが、母は、父の前妻だという。
　「ソ連が参戦したとき、亡くなったんだ…」
　「妹もいたらしいけど」
　昭和十八年生まれの異母兄の妹では、そのころ乳飲み子だったはずである。
　「おとうさんは、ソ連が来たとき、召集で家族と離れてたから、どうしようもなかったんでしょうよ。三井の人たちが、途中までいっしょだったんだって。でも自分たちのこどもだけでせいいっぱいで、おとうさんの長男までつれて来れなくて、中国人のお金持ちに預けて引き揚げて来たそうなの…。田舎のハツ伯母さんから聞いたんだけど」
　｢ハツ伯母さんは、だれから聞いたんだろ｣
　｢だから、三井の人でしょ。あのへんに満洲からの引揚者ばっかりの集落があるのよ｣
　父の住んでいた満洲の街には、三井系列の会社の社宅かなにかがあったのだろう。父は家族の運命を知らないまま、武装解除した兵隊たちといっしょにシベリアに抑留され、帰国したのは昭和二十三年だった。父が帰国したとき、茨城には父の墓があったという。父はきっと、満洲から引き揚げてきた人々を訪ね歩き、自分の妻とこどもたちの消息を知ったにちがいない。
　｢シベリア抑留から帰ったあとは、年中ＧＨＱに呼び出されて、おとうさんは嘘発見器にもかけられたのよ。あっちの国のいろんなこと聞かれるんだって。でも、ちゃんとアメリカさんは日当と、缶詰やなんか一杯もたして帰してくれて｣
　母の話はしまいには昔話になっていったが、父にほんとうの長男が存在すること、いや異母兄が中国の戦災孤児になっている事実は、孝を驚倒させた。
　「おとうさんがあんたに何も話さないんだから、あんたも黙っていなさいよ」
　と、母は釘をさした。孝は肯いていた。もとより父にきき質す気はなかった。孝は、中国共産党の革命にいたる歴史が好きで読んでいたのだが、それからはひそかに満洲に関する本も読むようになった。異母兄のことをさまざまに空想する癖が、そのときからついた。
　古利根川の濁流を眺めていて、満洲の河を想った六年前のことは、今でもはっきり記憶のなかに蔵ってあるのだった。
　そういや、父は酒場の酔漢のように戦争中の自慢話や思い出話をすることがなかったな、と孝は思う。軍歌を歌ったのも、聞いたことがないな。
　いや、いちどだけあった。法事か、お盆のときか、孝は父と二人きりで田舎に行ったことがあった。雑木林の蝉時雨のなかに入ると平屋の文房具屋があったのだ。そこで父は黒い表紙の手帳を孝に買い与えてくれた。天が金ぴかに光っていて、孝は見蕩れながら歩いたものだった。
　酒盛りになったのは、満洲から一家で引き揚げてきた｢まんしゅう｣と呼ばれる人の家だった。大きな仏壇を前にしていた。孝は甘みの薄い西瓜を齧って、酒盛りを見ていた。何人もの手をいきつもどりつした一升瓶がちゃぶだいの横に落ち着くと歌になった。
　ここは御国を何百里、離れて遠おき満洲のぉ、赤い夕陽に照らされてぇ。手拍子を静かにとって、父も和していた。その子供心にも哀しげにひびく歌はえんえんとつづいたのだった。それきり軍歌はでなかった。わたしのラバさぁん、酋長の娘、と誰かがうたい、歌いながら踊りだした。湿っぽくなった場をすくう、機転だとは孝にもわかった。
　孝はいまにして理解できる。父はあの歌を口吟みながら、まだついと手を伸ばせば摑めそうな満洲での歳月を、そこに心ならずも置き去りにしてきてしまった二歳のわが子の姿を、なまなましく浮かべていたにちがいない。
　民間人に退避命令がでるより早く、父は特務機関員としての任務についたであろう。関東軍は潰走し、数十倍の火力をもつソ連軍の進攻にもはや打つ手がなかったのだ。任務につくため家を出る父を上がりがまちに送るとき、異母兄は泣いて後を追っただろう。父をてこずらしただろう。父もこれが最期になるやもしれぬと思っていたはずだ。それでも父はそんな場面が面映いのだ。細い目をしばたたかせると後ろ髪ひかれる思いを断ち裁って、じゃ行くよ、と思いきりよく外にでていったのだろう。
　父は歌いながら、満洲に渡った自分の野心さえ呪わしく思っていたのかもしれない。満洲にさえ行かなければ、二歳のわが子を荒海に放りだすような無体をせずにすんだのだ。自責の念は、長く父の胸を噛んだにちがいない。


　病院から借りたサマーベッドに角度をつけ背凭れにして、孝は本を読んでいる。父のテントフードは斜め前に眺められる位置だ。孝の横に酸素の機械を挟んで蒲団を被った父の脚がある。父の枕辺のライトが光源だ。酸素の機械が大型なので、孝の胸ちかくまで影ができていた。父はときおり大きく呻いた。そのつど孝は伸びあがってフードテントを窺った。
　一時間ほど、まどろんでいた。はっ、と目をひらいた。呼ばれたような気がしたのだ。
　フードテントのなかで、父のからだがくねっていた。息がせわしい。孝は、父のベッドに寄っていった。
　「苦しいの」
　「ああ」
　父は応えながら、上体をくねらせ、はげしく喘いでいる。点滴の管が揺れている。
　孝はフードテントに手を入れ、枕元のナースコールを押した。押しつづけた。ややあって、天井のスピーカーから看護婦の応答があった。どうしましたかあ。とても苦しがっているんですがあ。そう天井を仰いで、いうと、病室に俄かに緊張がおりてきたのだった。孝の膝が震えはじめる。
　看護婦がきて、酸素の濃度を上げ、ベッドの角度をさらに高くした。
　「いま、先生を呼びにいってますから」
　と、いう。脈搏をとり、でていった。
　いれかわり、宿直医がきた。仮眠をとっていたのだろう、目をしょぼしょぼさせて動作もどことなく緩慢だ。看護婦のとった処置を見て、
　「うん、これでいいよ。他にはすることないよ」
　と、いった。すぐでていった。付いてきた看護婦が病室をでていきしなに、主治医がいま自宅からこっちに向かっていますからね、といたわるように告げた。
　ベッドが軋みをたてた。父がのたうつのだ。ハァハァハァ、荒い息ざしが波のようにうねりをあげる。ギムギム、ギムギム、ベッドが軋む。他にはすることがないよ、だと。くそったれめ。孝はただおろおろするだけだ。ギム、ギムときこえるベッドの軋みは、病魔に食い尽くされ、スカスカになった父の黒い双つの肺の泣き声だ。
　父は、孝が掛けたバスタオルを剥ぎとり、あらわになった胸をかきむしった。酸素マスクがずれるのだろう、しきりに右手でかけなおす。点滴の刺さった左手は、こんなにもあがいていてなお動かそうとしなかった。痺れはてているのでもあった。汗の玉がういていた。顔が歪み、右手がしきりにフードテントのビニールを引掻いた。
　「たすけてくれっ」
　突如、父は叫んだ。いきなり、体軀を起こし、
　「たすけてえー」
　父の赤黒くそまった顔が、ビニール越しに、孝に迫った。目を剥いていた。幽鬼に追われるもののようだった。
　孝は、よろぼうように病室をでて、駆けていた。ナースセンターは光が溢れていた。看護婦は見当たらなかった。父の息づかいが、ここまできこえている。それはリノリュウムの廊下を這い、冷たい壁に反響している。突き当たりの非常扉の窓はまだ真っ暗な空を映していた。
　「ありていにいって」と、宿直医はいいづらそうにいった。
　「患者さんの呼吸が楽になるというのは、亡くなるということです」
　父の苦痛を見ていられなくて、主治医の到着を待ちきれずに宿医師につめ寄った孝は、冷水を浴びたようになった。いわれてみれば、そうであろう。あの真っ黒に食い尽くされた肺。あの肺で、生きる、ということは、こういうことなのだ。病棟いっぱいに、苦痛のあえぎを響かせることだ。それがきこえつづけるかぎり、父は存命しているということなのだ。
　父の苦痛の息づかいに追われるように、孝は、一階の自販機の明りだけが照らす暗いロビーに降りて、ダイヤルを廻した。午前四時を回っていた。孝の家では、母に換わるまえに、妻がでた。脅えた声になっていた。
　「危ないんだ、いよいよかもしれない」
　と孝はいった。
　「朝になったら、ナツキたちをつれて、こっちにきてくれ。ナツキは幼稚園を休ませよう」
　「休ませないで、行かせるわよ。ナツキがいたんじゃ、あたし、動きがとれないから。いいでしょ」
　孝はとっさに判断に迷い、口ごもった。ナツキもムツミも、おじいちゃんを慕っている。げんに孝は、きのうナツキに、ナッちゃんはどおして、じいちゃんのびょういんにいっちゃだめなの、と怨しげにいわれたことだった。
　「じいちゃんに、もっとあいたい」
　と、ナツキはべそをかいた。父も会いたいであろう。
　ナツキやムツミは、首のすわらないうちから、父が湯にいれていた。舟形の盥に鍋で沸かした湯をそそぐ。水を汲みいれ、手をひたして適温にする。ちょっと熱いかな、うむ、こんなもんか。風邪ひかしちゃいけないからな。ひとりごちながら楽しげだ。赤ん坊の首をてのひらにおさめ、盥のなかに泳がせる。もう一方の手にガーゼをもって、からだを洗う。おお、気持ちいいんだよ、からだをいっぱいにのばして。小さな目鼻をガーゼで清めながら、父は笑い、目を細める。盥にかがんでいる父。真っ赤に茹だった、湯気がたつ赤ん坊を、かかえて立ち、妻の手に広げたバスタオルに移す父。
　「おとうさんは上手いのよ。あんたたち、みんな、おとうさんがおふろにいれたのよ」
　母がいう。一回りも年のちがう母は、何かにつけ、父をたてた。
　父は、ナツキやムツミをかいがいしく湯浴みさせたように、満洲の異母兄たちもいれたのであろう、と孝はひそかに思っていた。孝たちを湯浴みさせたときより、はるかに年老いてナツキやムツミを湯につけた父は、四十数年余の歳月を越えて、満洲のわが子を鮮烈に思っていたかもしれない。
　孝は、父の意識のあるうちにもういちど孫たちに会わせたいと思った。
　三日前に母がムツミを負ぶり、ナツキを後ろに乗せて自転車で病院にきたとき、それまで病院で風邪でも伝染されちゃいけないから、つれてこないでいい、と孝や妻にいい含めていた父が、喜びをあらわにし、おっ、来たのかあ、と酸素テントのなかでからだを起こして孫を見たという。ナツキもムツミもふだんのじいちゃんじゃない姿を見て、母にしがみついているのへ、じいちゃん早くよくなって帰るからなあ、といったという。帰りしなやっと安心したように、バイバイと小さな手を振る孫に、父もバイバイといって手をひらひらさせたそうだ。
　それが最後のバイバイでは、ムツミはともかくナツキが納得できないだろう、と孝は思う。そう妻にいおうとして、電話は母に代わったので、そのことはそのままになってしまった。が、今になってみるともうそれならそれでいいような気もするのだった。
　母に卓や岬の家への連絡を頼んで、病室のある階に戻ると、エレベーターの扉が開くなり、父のおおきな息づかいが聞こえた。一番遠い病室の父の息づかいは、あかつきの病棟の静寂を破っていた。


　｢卓が車できてくれたのよ｣
　父の荒い息ざしから逃げるようにエレベーター近くの暗い談話室にいた孝をみとめて、母はいった。母の声はうわずっている。あれは、と脅えた目で問うた。孝はうなずいた。
　｢とうさんだ｣
　母は顔色を変えて、ナースセンターの前を横切っていった。卓もつづいた。
　もうじき、岬もやってこよう。孝は妹をこの暗がりで待つ構えになった。寒いわけではないのに、気づくとズボンのポケットに両手を入れ、背をかがめていた。これから訪れるであろうものに、ひたひたと緊張と脅えが底のほうから湧きおこるのをおさえることができない。談話室の窓からエレベーターまで、音をたてずに足を動かした。
　救急車のサイレンが聞こえている。それは次第に近づいてきて、この建物で止まった。こんな夜中でも、人間のドラマは展開しているのだな、と孝は脅えから思考をそらすようにつらつらと考える。暗い窓ガラスに、水滴が雨のように流れ、そこに映る孝の痩身の影が揺らいだ。
　岬は、と孝は不意に妹のことを考えた。あまり夫婦仲がうまくいっていないのではないか。岬のつれあいは、父をいちど仕事帰りに見舞ったきり、きていない。そのときも、たまたま居合わせた孝の目を避けようとしていたのが、いまも気になっていた。父もそれを、病人特有の尖った神経で、感じ取っているのではないか。
　｢あにき｣
　卓の声にふりかえる。
　｢オレ、また、あにきんちに行って、電話帳とってくるわ、いま｣
　｢ああ、そうしてくれ。田舎にも知らせないと、怒られるしな｣
　卓は、寝静まっている辺りを気にして小さな声でいった。
　｢本当に、もう手はないのかねえ｣
　孝は返事をしなかった。オレのいいたいことだよ。弟は上がってきた二基のエレベーターの、早く扉をひらいたほうに乗って降りて行った。もう一基の扉がひらき、明るみのなかに妹がたたずんでいた。扉がひらいたとたん、箱のなかに籠った唸り声に、岬は、
　｢いゃあ｣
　といって孝にとびついた。
　｢静かにしろよ。夜中だぞ｣
　岬の乗ってきたエレベーターは奥行のある寝台用のものである。乗ってから気付き、つまらぬことを想って気味がわるかった。そうしたら扉があくと、父の唸りが反響していたので、思わず動転したらしい。
　｢いい年して、何やってんだろうね。だんなはどうした｣
　｢朝来るって。帰りがおそかったから｣
　弁解の口ぶりになった。孝はそれを聞き流して、
　｢いこう。お袋が待ってる｣
　といって、妹をうながしてから、
　｢この荒い息が楽になるときは、死ぬときだと医者にはっきりいい渡された。もう、何やっても、ダメってことだ。おまえも覚悟しとけ｣
　｢にいさん｣
　岬は孝の腕をつかんだ。岬のからだの震えが二の腕に伝わった。父の呼吸は響きわたる。それは荒々しい、肺の泣き声だ。呼吸の根は刻々ととめられつつあるのに、孝はそれをただ見守るしかない。待つしかない。待つ気でなくとも、待つのと同然なのだった。
　｢おとうさん、可哀そう｣
　｢うん｣
　孝は岬の冷えたコートの背中を抱いた。
　｢せめて呼吸だけでも楽になれば、と願うこともできないのね｣
　｢うん、それは終わりってことだ｣
　｢さんざん苦労してきたのに、酷いわ｣
　その苦労の種の多くは、孝の幼いころの病気にかかわっているのだ。妹もそれを暗にいっていた。
　孝は、数日前にきた郵便物のなかに、特務機関などの特殊な軍属で、ソ連参戦時に資料を焼却したことで、軍人恩給に与れない人たちが国に働きかける援護団体からの封書があったことを思いだした。あれは、と孝は思う。けっきょく、父の目にふれずに終わるのだな。父の戦後は、父の終焉をもって幕を閉じるのだ。父は、ついに恩給を手にすることができなかった…。
　かつていっぱしの左翼の活動家を気取っていた孝は、軍属であった父親が、戦後、軍人恩給を受けていないことがひそかな誇りでもあった。しかし、父からすればそれは悔しいことだったはずである。家族を失い、シベリアに送られて不合理な苦役に耐えて、復員したのである。にもかかわらず、国の恩給の対象にはならなかったのだ。ついていない、とまだ三十半ばの父は歎き悔しがったことであろう。父のツキの悪さは、さらにその後もつづいたのだ。
　復員後、父は同郷の母と結婚し、自動車の整備工場を開いたという。そのあと、個人タクシーを始めたが、数年後なぜかセメダインにはいって勤め人になった。その戦後の軌跡は、父の抱いていた野心がつぎつぎに潰えていく過程にほかならない。その足枷になったのが、第二の長男として生まれた孝だった。「おまえが病気でなければ、もうとっくに家の一軒や二軒立っていた」と、全癒した中学生のころ母から借家住まいの嘆きをよく聞かされたが、父はそうして家族を支え、孝の治療費を捻出するための苦闘をしていたのだろう。母は母で、孝の付き添いに幼い弟や妹の手をひいて、いつはてるともしれない病院通いをしていたのだ。
　病室のドアの前で、孝は声をひそめて岬にいった。
　｢頭はしっかりしてるんだから、うかつなことは、いうなよ｣


　頭はしっかりしているのだった。もう手おくれだろうと、往診に来たかかりつけの医者が、孝から離れたところで母にいっている。それを孝は、浮腫んだからだを横たえて耳にいれていた。十歳の孝にはその意味がわかっていた。あ、ぼくは死ぬのかと思った。実感が湧かなかった。痛みはからだのどこにもなかった。はげしい浮腫みだけだった。浮腫みは、腎臓の炎症からきていた。どこもかしこも、ぶくぶくと浮腫んで大人のパンツでさえ間に合わないほどだ。からだの一部分を指で押すとそのまま凹んだ状態になった。からだがひどくけだるかった。床ずれもしていた。ほんとに死ぬのだろうか。孝はしっかりした頭で、他人事のように思っていた。病院を出たり入ったりしてきた。その十年ちかい繰り返しのうちに何人もの死を見ていた。同室の少年が、ある日突然いなくなり、ベッドが裸になると、ああ死んだのか、と孝は思うのだ。体温計を齧って少年が死んだときは悲しかったな。もう名も忘れてしまったが、仲よかったあの友だちが狂って死んだときには、孝は病棟のベランダにでて、友だちの魂は空に昇っていったのだと黙祷をささげたものだった。じぶんもそうなるらしい。が、ちっとも真に迫ってこないことだった。
　やがて父が帰宅して、諍いがはじまった。母はどのみち助からないなら家においておきたいといっていた。それは往診に来た医者がいったことでもあった。いいながら泣いていた。父は怒っていた。ぜったいダメだ、大きい病院に入院させようと、母のことばをはねつけていた。諍いが、じぶんのせいであることで、孝は面映い。襖ごしに声はつつぬけなのだ。七歳の弟と四歳の妹が、諍いに萎縮しているのが目に見えるようだ。孝はぼんやりと天井の裸電球の明かりを見つめていた。そうか、死ぬのかあ。あのデントウの光りかたは、ぼくのおちんちんに似てるなあ。大きさは、ぼくのほうがまだおっきいぞ。浮腫みあがった股の袋は張りつめ、電球の芯の部分の発光のようなつやをもっていた。孝はそれをじっと比べて見ていた。死ぬような気がしないのだった。


　｢おとうさん、岬がきましたよ｣
　母が酸素テントに首を伸ばしていう。
　｢あっああ｣
　父は目を見ひらいて、傍らに立った岬をみとめると、荒い息の下で、酸素マスクをあごにずらし、痰を吐こうと咽喉をしぼった。髭が伸びきっていた。
　｢岬、そこのティッシュを｣
　孝はいう。
　｢は、はい｣
　父は左手をつかって口のなかにティッシュペーパーを押し込むようにして、痰をとる。義歯が剥きだした。紙を手のなかに丸めると、あわてて酸素マスクを鼻と口に戻した。何度も当て直した。のたうつたび、酸素マスクがはずれてゆく気がするらしく、震える手でたえず当て直すのだった。ベッドは激しく軋みつづける。父の吸う息、吐く息のつど、ベッドは鳴った。酸素マスクに、父は縋り付いているようだった。呼吸の根をとめられまいとしていた。酸素テントのなかはたたかいだった。
　ちょっと息が苦しい、といったばかりに酸素吸入器をつけられた孝は、ひどく後悔していた。だれか他の患者の見舞い客が、通りすがりに、あれは保険がきかないから高い、といっていたのである。それに、いかにも大袈裟なことになった。
　浮腫みはとれだしていた。奇跡がおこったようだと母がいっていた矢先だった。その姿を見るや母は崩れるようにベッドに近づいてきた。孝は吹きつけられる酸素がかえって濃すぎるような気がした。だいじょうぶ、何でもないから、と母に言い訳しながら、またこれで父に散財をかける、と思った。そのことが、ひどく気が重かった。じぶんの考えのない一言がうらめしいのだった。
　孝の家に電話帳を取りに行った卓が、主治医といっしょに病室に入ってきた。主治医は自宅から駆けつけてくれたのだ。母は、主治医の名をいって、先生がきてくれましたよ、と父に伝えた。父は、目をひらき、あっ、とこたえた。
　｢大丈夫ですよ、落着いて。深く息を吸うようになさい｣
　父は光の弱い目をむけて、あえぎながら肯いている。やや安心した顔つきになっていた。馴染のない宿直医ひとりでは心細かったのだろう。
　｢そうそう、深あく息を吸って｣
　そう、そう、と肯きながら、主治医は父に微笑をおくっている。
　｢お袋と相談して、かけなきゃいけないとこへ電話してくれよ、六時を廻ったから｣
　それにあらがうような顔つきに、卓はなった。ちょっと、と孝の袖を引いた。
　病室の外へでる。窓の外は水の底にあるように澄んだ、青い明るみに浸されていた。病室のカーテンを開けてやろう、と孝は思った。これがたぶん、父が空を見る最期であろうから。窓に裁られた四角い空で、残念だろうけれど、しかたない。
　｢主だった人たちに連絡すれば、あとはその人たちが伝えてくれるから。危篤だといってな｣
　孝は一息にいった。弟は顔をにわかに曇らせた。
　常夜燈の灯りがあせだしていた。いまがいっとう冷え込む刻だ。ちっとも寒さをおぼえなかった。
　｢まだ、まだって、グチグチやってるうちに間に合わなくなってみろよ、知らせもしなかったってなじられるのは、お袋なんだ｣
　卓は、そうだな、とぽつりといって唇を噛んだ。
　この弟は、兄の放埓さを横目に見ながら、堅実なサラリーマンになった。それは父の血筋そのものだ。くらべて、孝は二人のこどももいるのに、いまだにアルバイトのような学校の警備員をしていた。父は、オレにはがっかりしつづけただろうな、と孝は思う。オレが喜ばせてあげられたことなんて、ナツキやムツミの存在だけ、それだけだ。それは、娘たちの力であって、孝の力とはいえない。…もう、いまとなっては、どうしようもないことだけどな。
　｢掛けてくるよ、お袋つれて下に行ってくる｣
　と卓はいう。
　｢危篤だと、いうんだよ｣
　いらぬ駄目を、孝は押した。


　手を握る。点滴の打ってある右手だ。痺れきっている腕を、蒲団に手を入れ、さすっていた。さすりながら、いつの間にか、父の手にふれ、そうして握っていた。乾いてひんやりする手であった。筋ばっていた。これは、よくトリのガラとひやかされ、中学のころは女の子に気持悪がられた孝の手とそっくりだ。年老いてそうなったのではなく、父はこういう手をずっと持っていたのだ。
　浮腫みあがった孝のからだを、父は抱えあげた。おそらく二度と家族のもとへ帰れないにちがいないこどもを、そうと知りつつ、父は病院に搬ぶのだ。父の胸に抱えあげられた十歳の孝に、近所の人たちがことばをかける。お訣れの儀式だった。みなもそう思っていたはずだ。父はていねいに頭を下げ、孝を抱いたままタクシーに乗り込んだ。二十四年前のことであった。抱かれている孝の目に、電線の交叉した真青な空が映った。
　この孝が握っている手は、あの日の手だ。いま、孝は思っていた。幼いこどもを、満洲に残してきてしまった父は、孝にそそげるだけの愛情をそそいだであろう。助からぬと宣告されたこどもを、無理を押して病院に入れたのも、万に一つの希望を捨てなかったというより、満洲に残してしまったわが子にたいする悔恨を、またもや繰り返したくないという一念だったのではないだろうか。
　満洲のにいさん、と孝は心のなかでいう。父の手を、二つの手でつつむ。オレはあなただ。このひとつの手は、あなたの手だ。父の手のひらの真ん中に、暖かみがさしてきた。粗い息を吐きながら目を瞑ったままの父の手が、動き、ひらいて、孝の手を握り、ひらいて、また握った。よし、よし、というように。


　苦しさのあまり、父は脱糞していた。母と岬が下の始末をはじめた。赤ん坊のようにされる父を、孝は正視できなかった。父も、屈辱のきわみであろう、と思った。かりにもし延命することがあったら、父はこのさきどのような顔つきをすればよいか途方にくれるにちがいない。そう、思った。
　扉を閉め、長い廊下に向きあった孝は、ああっ、と声にだし、息をつめた。昇ったばかりの太陽であった。廊下のはての非常扉の窓を、真紅のただまるいだけの太陽がふさいでいるのだった。リノリュウムの床に、赤い光の束がのびていた。かつて見たことのない凄絶な眺めだと思った。
　満洲の地。燃え尽きてゆく夕陽を、兄は仰いでいる。雲も土も草も、もらい火で燃えている。河も、火をめらめらと浮かべていることであろう。丘の上の迎春花はまだ凍てついた土のなかだ。にいさん、紫色のその花が咲くのは間近だ。けれども迎春花が咲くのを待たずに、あなたの父は果つるのだ。幼い兄の頬は、燃える。父が筋ばった手で、かいがいしく湯にひたしたであろう、その小さなからだも、あかあかと燃えたっていよう。


　酸素テントのなかで、父は左手を伸ばして振っていた。光のない目をしていた。目は、窓際に立っている孝をとらえていた。孝にはそう見えた。
　｢えっ、何？｣
　孝はいった。
　｢カーテン？｣
　ときく。
　｢まぶしいの？　カーテン引くのぉ｣
　岬は花瓶の花の水を取り替えに壁一枚むこうの流しにいっている。扉は開け放しだ。朝食の配膳車の音がかしましい。
　孝はカーテンをなかほどまで引いて、青空をせばめた。父の弱っている瞳孔には、朝の光さえ眩しいのだなと思った。
　父はゆっくりと屈伸運動をするように左手を振りつづける。表情のない顔をしていた。放心しているふうにも見えた。
　｢何だろうな｣
　孝は首をかしげる。
　岬が花瓶をささげもって入ってきた。花瓶に水滴が光っていた。
　｢どおしたの？｣
　｢わからないんだ｣
　父の唇が動いた。ひらいた。静かにはなっているが、せわしい息づかい。
　｢花、きれいでしょ。下の売店のだけどね。高かったのよ｣
　と、岬は父に見せた。甘えん坊の岬が、父にものをねだるときの懐かしい調子だ。父も岬にはいっとう甘かったのではないか。
　ばか、こんな最期のときに花なんか飾ってどおするんだ、孝は不意に怒りがこみあげたが、ことばを抑えこんだ。こんな最期のとき、などとは禁句ではないか。
　ひらいた父の唇が閉ざした。父は何かいおうとしたのではないのか。それは父の最期のことばかもしれないのに、岬のことばが遮ってしまったのではないか…。
　母と卓が入ってきて、卓は孝に目配せした。電話完了の意だ。父の容態がかなりおちついてきていると見て、ふたりとも少し明るい顔になっている。
　｢足を揉んだげようね｣
　母はいって、父の蒲団をめくり、二つの足を外にだした。白いあしうらがでた。父の右足の踝には銃創があって、そこだけ弾丸の丸形に皮膚が凹んでいることを、孝は不意に思いだした。
　｢こんなに熱いんだよお｣
　母はいたわるようにいう。足首が熱を持つのは呼吸器系統がやられているからだろうか。
　｢どれ｣
　岬も握って、
　｢あたしがするから｣
　という。
　｢たまには、おとうさん孝行しなくちゃ｣
　｢うれしいでしょ、おとうさん。岬がしおらしいこといってますよ。退院したら旅行でもつれてってほしいわよねえ｣
　｢オーケー、オーケー｣
　岬ははしゃいだようにいう。母はいいながら、点滴を打ってある腕を、蒲団のなかに両手をいれ、さすりだす。
　｢ほんとにそうできたら、いいのにねえ｣
　母はいって、ふいに白い蒲団に顔を埋めた。
　｢お、も、い｣
　と父がいった。孝はあわてて、
　｢重いって、さ｣
　母にいった。母はきょとんとして顔をあげた。
　｢ずっと寝たきりで、体力落ちてるから、重いんだよ、ちょっとでも｣
　父を庇う口調になった。
　｢あ、ああ、ごめんなさい｣
　一瞬、興醒めた顔つきに、母はなった。父のことばには、母を突き放すようなものがあった。体力があれば、その腕でじゃけんに頭を払いのけただろう、そういう調子だ。
　おそらく、と孝は思った。父はきまりがわるかったのだろう。孝にもおぼえのあることだった。
　浮腫みあがった孝のからだを静かにさすりながら、代われるものなら、あたしが代わってやりたいといって、母は泣くのだった。掛かりつけの医者が、もう手遅れだと告げて帰った後だ。孝は、母がじぶんのために泣いてくれるのを眺めながら、ひたすらこそばゆかった。てれくさくてならなかったのだった。愁嘆場に弱いのは父から受けた血筋であろう。父の堅実さでなく、へんなところを孝は受け継いだようだ。
　父の一言で、病室の空気がちょっと白けたとき、いちばん近い叔父が入ってきた。
　｢どうもすみません｣
　母は立ちあがって、腰を折った。
　｢朝早くて大変だったでしょう｣
　卓は如才なくいい、
　｢いま、おちついているんです｣
　｢ああ、よかった。始発できたんだよ｣
　コートを脱ぎはじめると、看護婦が人の間を縫ってはいってきた。
　｢だいぶおちついてきましたねえ｣
　といって、ベッドを廻った。岬は父の足首をさわったままからだをくの字にして看護婦を通した。
　父の息ざしは本当に静かになっている。なんだ、と孝は思う。宿直医のいってたことは、いったい何なんだ。
　｢集中治療室の準備ができましたから、これから移しますので｣
　看護婦は血圧計の帯を父の腕に巻きつけながら、だれにともなくいう。
　｢あれー、足がずいぶん冷たくなったよう｣
　岬がすっとんきょうな声でいった。
　その一言にはっとしたように、看護婦の手は敏捷に動いて、父の脈を診た。
　｢あっ、動いてないじゃないっ｣
　母が悲鳴をあげた。孝の視野が傾いた。


　蘇生術がはじまっていた。ぶあついゴムの吸盤を吸いつかせるような異様な音がたっていた。さっき扉の隙間からちらと覗くと、白衣のひしめく間に白いはだかの胸が見えた。扉がときおり開かれては、細長い、白い紙が床に捨てられた。父の心音を刻んだ紙なのだった。それは床に落ちると弛く巻き戻った。父のからだから吐きだされる紙だと思った。
　廊下のはての窓にもう赤い球体はなかった。高く昇った太陽は、円周におびただしい金色の矢を放っているであろう。満洲の山脈のように、線を刻んだ長い紙はつぎつぎと扉から吐き出され、床に重なっていった。