秩父巡礼への道






                                                        嘉藤洋至
烏森同人の表紙頁へ
  
 
 


 西国三十三札所、坂東三十三札所、秩父三十四札所の百観音を巡り、四国霊場の八十八カ所を歩き、御府内八十八カ所のお遍路も終えた。やむに已まれぬ信仰心から歩いたというものではない。あえて言うならば体を痛めつけて歩くことが修行だという私の信念のようなものがあるからだ。まっ、難しい理屈はない。知らない道を歩き、街角を回った先に展開される佇まいを思う。坂を上り頂上から眺める風景を思う。路傍の石仏に歴史を思う。そんな好奇心を満足させるために、てくてく歩いている。歩いていると煩わしいことを忘れて、無心になっている己に気付くことが出来る。



      旅のはじめに

       
その動機
       お遍路と巡礼の違い
       観音巡礼三十三所の起源
       秩父札所の成り立ち
       秩父の山岳信仰
       秩父札所の番付表
       秩父札所が三十四所になった背景
       江戸から秩父札所への道筋
       吾野通りの道筋


    吾野通りを往く

       
日本橋から目白通りを経て田無まで
       田無から所沢を経て入間まで
       入間から飯能を経て吾野まで
       吾野から正丸峠を越えて秩父・横瀬まで
 
 
        

     
再び秩父札所を歩く



 
 第1番四萬部寺

 
四萬部寺の山号は「誦経山」である。誦経とは経を読むことだが、寺名の起こりと関わりがありそうだ。永延二年(988)性空上人の弟子・幻通が、その遺命によって秩父の地を訪れ、数回の春秋を経て妙経四萬部の読誦供養を行ったという縁起が伝わっており、これが四萬部寺の名の由来になっている。
 本堂の右手に、方形内陣の上に八角輪蔵を納めた不思議な建物がある(写真)。厨子の正面に立って見上げると「施食殿」の大きな額が上がっていた。その昔、三十表の米を炊いて信者はもとより、飢餓に苦しんだ庶民への飲食を施したお堂だそうだ。毎年八月二十四日には、この堂で大施餓鬼会が催されている。
第1番四萬部寺
 第2番真福寺

 真福寺は標高665mの篠山中腹に建っている。この第二番真福寺は、長享番付表にはその名が無い。札所が三十四ヶ所になったときに新たに加えられた札所である。今は無住のお寺で、納経所は2qも下った先の光明寺になっている。
 
『新編武蔵風土記稿』の記述の中に「本堂東向、十二間半に五間、庫裡方丈造りこみ、本尊正観音を安ず、當寺は行基開闢にて、中興は義空禅師なり、これを大棚禅師とよぶ、・・・略・・・」とある。さらに里人が大棚禅師を仰ぎ讃して、その地名を大棚に改めたと書いてある。これが山号、「大棚山」の由来の様だ。
第2番真福寺
第3番常泉寺


 
常泉寺の観音堂は明治三年(1870)に秩父神社々地にあった蔵福寺の薬師堂を移築したもので江戸後期の建築物であると説明されていた。三間四面の建物で、表には唐破風の屋根を設えている。江戸期の繊細な建築物として観賞する価値がある。
 御詠歌は「補陀落は岩本寺と拝むべし峰の松風ひびく滝津瀬」である。常泉寺の別称は岩本寺。長享番付表では「第廿三番岩本」になっている。御詠歌の冒頭に「補陀落」の文字がでてくるが、これは梵語potalakaの音訳で、インドのはるか南方の海上にあり、観音菩薩の住まいがあるとされ、極楽浄土を指すと云う
第3番常泉寺へ
 第4番金昌寺


  第四番金昌寺は石仏の寺だ。仁王門を潜ると何処を見ても石仏だらけで、その総数を『新編武蔵風土記稿』には「その數すべて三千八百體ありと云う」と記されている。実際には千三百十九体の石仏があるのだそうだ。
 本堂に向かう石段の左右にも、山の斜面にも、さらには楼門造りの仁王門二階にも所狭しと石仏が並んでいる。そのほとんどは寄進によるものだという。石仏寺になったのは、世の中が天明(1781〜1789)の天災、飢饉から立ち直った頃の寛政元年(1789)に、この寺の住職・古仙登獄和尚が犠牲者の供養に千体石仏の安置を発願したことが発端であるという。
第4番金昌寺へ
第5番長興寺・語歌堂


 『新編武蔵風土記稿』に、「・・・御寺創立の大檀那はこの所の長にて本間孫八と云人なり、大師の高徳を信じ、彫刻の像をこゝに安置せんと、私財を喜捨し堂宇をいとなみ、信心厚く、會て鋪嶋の道に意をよせける折ふしに一日旅客あり、此堂に通夜し、夜もすがら孫八と和歌の奥義を談し、鶏鳴に至りて聖徳太子、片岡山の化人と贈答の和歌を講じ、因みに祖師西来の本旨を示し、東の峯の白む頃忽その人の姿を失せり、孫八歓喜して即ち御堂を語歌堂と名づく、・・・」とある。要は、私財を喜捨して堂宇を営んでいた本間孫八が、ある夜御堂を訪ねてきた旅人と、「夜もすがら和歌の奥義を談じ」合い、この旅人が聖徳太子の化身であったと気が付いて、「孫八歓喜して即ち御堂を語歌堂と名づく」と云うのが、その名の由来なのだ。第5番長興寺・語歌堂へ
 第6番卜雲寺(荻野堂)

 第六番札所は、長享二年(1488)に記された番付表に「荻堂」として記されているが、後に別当寺であった今の卜運寺に移された。この辺りの伝承について、『新編武蔵風土記稿』には、「・・・往古はこの堂今の境内より西の方七町許を隔て荻の堂と稱せし草庵に在りけるを、寶暦十年(註:1760年)に今の地に遷座せしむと云、この観音年久しく、武甲山の蔵王権現社内に納置して、後年荻の堂に移すと云、・・・、」とある。
 卜運寺の在る集落は、「横瀬町刈米」という地名だが、『新編武蔵風土記稿』に、「この邊の地名に横肯刈込など云所あるも・・・」の、記述を見つけた。
第6番卜雲寺(荻野堂へ 
第7番法長寺(牛伏堂)


 
第七番法長寺は別称「牛伏堂」とも呼ばれている。『新編武蔵風土記稿』に、「・・・往古行基、自刻の観音を、有縁の地に安ぜんと常に負擔し、所々行脚しけるにこゝに至り盤石の如く重くなりしゆへ、此所に留置て回国施しとぞ、年経て牧童四五人この山にて草を刈けるが、日暮霧深く既にかへらんとせしに、ひとつの牛いづくともなく来たりしが、こゝに伏して動かず、各ついにそこに通夜す、その夜半ばかりに観音、草中より一僧と現して告たまうは、これより坤の方の林中に、庵を結び我を安ぜば、必罪悪の衆生を済度すべしと夢見て忽夜は明ぬまゝ、奇異の思をなし草をうちわけ、こゝかしこをみるに、十一面観音の像ありけるまゝに、人々打寄り今の牛伏堂の古地に草庵を営みて安置せり・・・」とある。第7番法長寺(牛伏堂)へ 
第8番西善寺

  
 
第八番西善寺は、正丸峠越えの吾野通りから入って来ると、最初にお参りする札所になる。これを「八番始め」という。境内には、枝を広げた大樹が、新緑の柔らかな芽吹きを見せていた。コミネモミジと云うそうで、樹齢およそ六百年とのこと、県指定の天然記念物なっている。この大樹の下に六地蔵が祀られ、新緑の中に赤い涎掛けが際立っていた。
 山門は小さな造りだが、重厚な趣のある姿をしている。
第8番西善寺へ


           足を傷めて、「秩父てくてく」は、目下休業中です。

                  烏森同人の表紙頁へ