秩父札所・第1番四萬部寺
 
 

 秩父巡礼への道(目次)へ

 第2番真福寺へ
 
 

 この三月、まだ肌寒い日々が続いていた頃、お江戸日本橋を後にして、秩父まで歩いた。正丸峠越えの吾野通りを辿ったので、最初の札所は、「八番始めの西善寺」なのだが、後々の道順のことも考えて、やはり一番四萬部から歩こうと思い立ち、最寄りの秩父鉄道・和銅黒谷駅で下車した。
 降り立ったのは私一人である。駅のホームに「和銅開珎」のモニュメントがあった。モニュメントを写真に納めている間、改札口に立っている駅員さんを待たせてしまった。


      和銅黒谷駅ホームのモニュメント


 今の秩父市黒谷には、和銅遺跡がある。この土地から産出した和銅は純度が高く、精錬を必要としない自然銅であったという。慶運5年(708)、武蔵国秩父から時の朝廷に献上され、年号が「和銅」に改元されている。日本最初の貨幣「和同開珎」は、この秩父黒谷で産出された和銅によって発行されたのである。その和銅採掘跡が、今も遺跡として保存されている。
 四萬部寺に向かう途中に瑞岩寺がある。戦国時代の武将、長尾四郎左衛門昭国ゆかりの寺として知られているという。裏山にはツツジが群生して、この季節は訪れる人が多いそうだが、巡礼者である私には、寄り道する余裕はない。登り口に咲くツツジを写真に納めて先を急いだ。


       瑞岩寺のツツジ山登り口

 四萬部寺は、「旅のはじめに・秩父札所の番付表」で記したように、長享二年(1488)の札所番付表では二十四番になっている。江戸から秩父に入る主要な道のうち、秩父往還の「熊谷通り」と「川越通り」が出会う地点に四萬部が立地したことから、江戸時代に入り番付が改編されて、秩父札所三十四箇寺の出発点、第一番札所となったのである。
 秩父市の市街地が広がる一帯は、古くは大宮郷と呼ばれ、自治体名も大正4年(1915)までは大宮町と称していた。大宮郷の地勢について『新編武蔵風土記稿』に次のように説明がある。少々長くなるが、参考のために写しておく。
 大宮郷は郡(註:秩父郡)の中央より少し東南に寄れり、武光庄に属す、江戸への行程板橋通り廿八里、山通り廿二里、郷名の起りは、【延喜式】にのする知々父神社此地にありて、大宮明神と偁せしより、大宮郷とは唱へしなり・・・略・・・、市町なども立て、殊に繁栄の地なれば村名を唱へず、郷名を稱せり・・・略・・・、四境東は山田村横瀬村に隣り、西は荒川を限り、対岸は久那村別所村なり、南は上下影森村に接し、北は大野原村につづき、土地平坦、郡中すべて山多しといへども、此郷に於ては山をはなるゝこと頗る遠く、田野うちひらけ東西廿二町程、南北一里六町、其中に大宮町と唱へ、民家軒をならべて、市立ある所凡九町餘、路幅凡六間、坤より艮に達す・・・略・・・」とあり、さらに秩父盆地の中央にあって、古くから物資の集散地として、また秩父神社の門前町として栄えていた様が詳細に記されている。


      『新編武蔵風土記稿』から、大宮町之図

 四萬部寺の山号は「誦経山」である。誦経とは経を読むことだが、寺名の起こりと関わりがありそうだ。永延二年(988)性空上人の弟子・幻通が、その遺命によって秩父の地を訪れ、数回の春秋を経て妙経四萬部の読誦供養を行ったという縁起が伝わっており、これが四萬部寺の名の由来になっている。山門の扁額に「誦〇〇経山」と揚げられているが、この文字が読めない。〇〇のところは、法善なのか法華なのか、寺務所によって確認すればよかったのだが忘れてしまった。ちょっと悔やんだ。

      山 門

 本堂の軒は神社に多く見る唐砺風になっている。朱塗りの本堂は色褪せているものの、江戸期特有のごてごてした仏閣の感じが伝わってきて、歴史を感じさせてくれる。埼玉県の文化財に指定されているそうだ。『新編武蔵風土記稿』に「堂は東向き五間四面、本尊は正観音、木立像一尺三分、行基の作なり・・・」とあるが、目の前にする本堂は三間四面といった規模だ。また、行基の作と伝わる聖観世音菩薩像は、昭和三十二年に行われた学術調査で江戸期の作だと分っている。
 本堂の右手に、方形内陣の上に八角輪蔵を納めた不思議な建物がある。厨子の正面に立って見上げると「施食殿」の大きな額が上がっていた。その昔、三十表の米を炊いて信者はもとより、飢餓に苦しんだ庶民への飲食を施したお堂だそうだ。毎年八月二十四日には、この堂で大施餓鬼会が催されている


           
            本  堂                        施食殿

 納経所で、大判の納経帳を買い求めた。これで三冊目になる。御朱印を戴いて四萬部寺を後にした。山門を抜け石段を下りて振り返って見たら、山門が如何にも小さく見え、本堂や施食殿に比べて見劣りがする。いつの頃か、門前にある巡礼宿の火事で仁王門が類焼し、今の姿に再建されたそうだ。
 門前には江戸時代から続くという巡礼宿「旅籠一番」がある。その佇まいからは江戸期の巡礼宿を彷彿させるが、今では温泉も備えた近代的な旅館に生まれ変わっている。江戸期の道中記に「四萬部寺門前、えびす屋源蔵方に泊まる」という記載があるそうで、旅籠一番はかっては「えびす屋」と呼ばれていたらしい。


            門前の「旅籠一番」

(2013.4.17 記)